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一つのショットに見る日本アニメの特質

日本アニメではおなじみだが実写映画では稀な「偏移取景」から、古典ハリウッドと芸術映画の構図の伝統を比較する。固定ショットのモンタージュ、レイヤーを重ねた空間、制作工程に注目し、日本アニメ独自の「メディアの想像力」がどう形づくられたのかをたどる。

著者: 鲜奶饼干翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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鲜奶饼干

哲学好きの素人、アニメの達人。

画面の片側に置かれ、画面外へ視線を向ける偏移取景

私たちはアニメをどう語ればいいのか。日本アニメの独自性とは何か。「私」はなぜ日本アニメが好きなのか。こうした問いには、文化、産業、美学、制作、コミュニティなど、いくらでも答え方がある。

ただ、形式や様式を研究する者として、ここではごく限定された角度から切り込んでみたい。形式・様式の研究ならこうした問いにどう取り組めるのか、そしてこの研究の魅力はどこにあるのかを、みなさんに見てもらおう。だから、ひとつのショット――正確には、ひとつのショットの類型、ひとつの構図――から始めよう。

『Fate/Grand Order』ロマニ医師のショットにおける偏移取景

このショットの何が特別なのか。ロマニ医師は画面の右下に置かれ、その背後には大きな空白が広がっている。視線の先の空間に比べて、背後の空白が画面のはるかに大きな部分を占めている。しかも、彼が何を見ているのかは画面内ではわからない。その視線は、見る側の注意を強く画面外へ向けさせる。このショットの構図そのものが、極端に不均衡なのだ。

こういう意識を持って現在の日本アニメを見てみれば、この構図が日本アニメに頻繁に現れることに気づくだろう――

日本アニメの偏移取景例1

日本アニメの偏移取景例2

日本アニメの偏移取景例3

日本アニメの偏移取景例4

日本アニメの偏移取景例5

さらに、京都アニメーションのファンなら、同社の作品で非常によく見られ、とりわけ山田尚子をはじめとする演出家たちが多用している構図だと、いっそう強く感じるかもしれない。

京都アニメーションと山田尚子の偏移取景例1

京都アニメーションと山田尚子の偏移取景例2

京都アニメーションと山田尚子の偏移取景例3

京都アニメーションと山田尚子の偏移取景例4

もっと例は挙げられるが、ここまでで、これは日本アニメに非常によく現れる構図だと説明するには十分だろう。アニメのジャンルや会社を問わず、深夜アニメか子ども向け作品かも問わず、特定の演出家だけのものでもない――日本アニメで大量に使われている慣例的な手法なのだ。すると、当然ひとつの問いが浮かぶ。この構図は何と呼べばいいのか。

ここで奇妙なことが起きる――この構図には通称がないのだ。そして通称がないこと以上に驚くのは、よく観察してみると、日本アニメ以外のどんな映画の伝統にも、この構図が存在しないように見えることである。特殊な一例なら見つかるかもしれない。だが全体としては、ほかのどの映画の伝統でも、慣例になったことも、一時的な流行になったこともない。

なぜなのか。よく考えると、これはかなり不可思議な問題である。というのも、ここでいう手法は、たとえば実写では存在しえない変形した遠近法や、実写でやれば奇妙に見える画面の様式ではない。アニメなら簡単に実現できるが、実写では多額の費用をかけたCGアニメーションを使わなければ作れない、荒唐無稽な幻想場面でもない。実写映画にとって、この構図はそれほど難しくない。フレームの端を利用して表現効果を得たいなら、カメラを少しずらすか、後処理でトリミングすればいい。画面周辺部の画質の問題にも対処する手段はある。それなのに、実写には存在しない。

なぜ日本アニメなのか?

本稿が探究するのは、まさにこの問題である。

偏移取景の定義

まず、これに名前を与えなければならない。フランスの映画理論家ジャック・オーモンとミシェル・マリーの『映画理論・批評辞典』には、デカドラージュ(décadrage)、中国語でいう「偏移取景」(へんいしゅけい)という概念がある。中心から外れる動きによって生じたかのように、物語上の重要な要素をフレームの端へ移すフレーミングを指す。本稿ではこの呼び名を用いよう。より基礎的な図形知覚の分析は、ゲシュタルト心理学者ルドルフ・アルンハイムの『美術と視覚』に見いだせる。

アルンハイム『美術と視覚』の視覚的均衡図

これは『美術と視覚』の冒頭に置かれた図である。アルンハイムはこの円と正方形の関係がどう知覚されるかを通して、基本的な視覚的均衡の図式を説明している。この図では、円が正方形の右辺に引き寄せられているように見える。その一方で、左辺からも引っ張られているように感じられる。円と右辺との間隔が圧縮されているように感じられ、その隙間が、もっと息をつく余地を求めてもがいているように見えるからだ。これはおおむねアルンハイム自身の説明である。ここでは偏移取景を、暫定的に次の二点で捉えておこう。1)一つの構図としての不均衡、2)被写体がフレームの端と取り結ぶ関係。

実写映画の伝統におけるフレーミング

なぜ日本アニメでは偏移取景が慣例的な手法になったのに、実写にはないのか。この問いに答えるには、まず実写映画の伝統におけるフレーミングから話を始める必要がある。古典ハリウッド映画の連続性システムには、非常に一貫した画面のパターンがある。それが、ショットのフレーミングを語るときの基準点になる。『風と共に去りぬ』を例にしよう。

『風と共に去りぬ』対峙場面の中心構図による正反打

『風と共に去りぬ』親密な場面の中心構図による正反打

まずは中心構図である。フレーミングするとき、視覚的な重心も画面の中心に置かれる。ここでは『風と共に去りぬ』から、二組の正反打(切り返し、ショット/リバースショット)を切り出した。前の二枚は対峙する場面で、どちらの人物も片方の目が画面の中央線上にある。後半の二枚は親密さを表現する場面で、二人の頭を中央線にさらに近づけ、被写界深度を浅くしている。会話場面における、もっとも基本的な中心構図のフレーミングである。

『風と共に去りぬ』人物の動きに合わせたリフレーミング

『風と共に去りぬ』カメラによる人物追従のリフレーミング

では、古典ハリウッドは運動をどう処理するのか。第一の方法は、カメラそのものを動かすことだ。ここでは、灰色の服の女性がまず左の人物と二言三言話し、それから主人公に近づく。カメラも女性を追って右へ動き、フレーミングを調整する。続いて左の男性と右の女性がともに右へ退場し、左から別の人物が画面に入る。カメラは続いて左前方へ進み、もう一度フレーミングを調整する。このショットはその後も長く続くが、やっていることは同じだ。カメラを動かして被写体を追い、つねに人物を画面の中心に置き、リフレーミングする。

『風と共に去りぬ』騎馬場面の動作をつなぐ編集

『風と共に去りぬ』室内場面の動作をつなぐ編集

次は編集による方法である。最初の例では、左側のショットのままだと、馬に乗った人物が画面外へ出てしまう。そこで右の画面へ切り替え、男が馬で去っていく動きを奥行き方向に見せる。ここでも人物は画面の中心軸近くに置かれている。二つ目の例では、左側のショットで主人公の女性が左から右へ走り、さらに前方へ走っていく。しかしこのカメラ位置はもう適切ではない。壁が彼女を遮るからだ。そこで次のショットへ切り替える。主人公はフレームの左から入り、画面の中央軸付近まで移動したところで止まる。彼女は男性を呼び止め、二人は画面中央にあるこの扉へ入っていく。

デイヴィッド・ボードウェルは「古典ハリウッド映画における時間と空間」で、時間と空間に関する規則によって、ハリウッドがいかに連続性のシステムを確立したのかを詳しく分析している。空間を論じる際、彼は、ハリウッドの構図の実践がルネサンス後期の絵画を含む多くの古い伝統を総合したものだとし、中心構図への関心をその顕著な例に挙げる。多くの古典ハリウッド映画では、画面上部の三分の一を横に走る帯と、画面中央の三分の一を縦に走る帯とで、T字形の「中心」がつくられる。この中心がロングショット、ミディアムショット、クローズアップの構図を決め、画面内のものの配置も決めるのである。

古典ハリウッドが中心構図を使う背景には、人間の身体を、物語上も画面構成上も関心の中心に置くという様式上の前提がある。したがって、人物を画面中央に集める構図の規則を確立すれば、偏移取景は排除されることになる。フレーム端と被写体の関係を扱うとき、古典ハリウッドではフレーム端に被写体を置く構図が「禁忌」とされる。この禁忌は主要人物だけに適用されるのではない。重要でない人物や物体でさえ、全体を画面に収めるか、画面外に置くかのどちらかであり、フレームで切ることはしない。そして被写体が画面の中心から離れ、端へ向かって動くときには、カメラを動かしてリフレーミングするか、被写体がフレームの端を越えたところで次のショットへ切り替え、反対側の端からその動きを引き継いで画面内へ入ってくるようにする。こうして動作をつなぐ編集、アクション・カッティングが生まれる。ボードウェルの比喩を借りれば、ショットを切り替える際、画面の端は橋にすぎず、人物や物体はそこを渡って中央の舞台へ入ってくる。このような演出の発想のもとでは、偏移取景は現れようがない。

では、芸術映画はどうだろう。芸術映画はつねにハリウッドの形式・様式上の慣例を破ろうとする。ならば、偏移取景を使っていないのか。芸術映画は全体として、ハリウッド・モデルを破るものとして記述・分類できるかもしれない。しかし具体的な手法については、高度に一貫したものを見つけるのは難しい。そうした手法が存在しないという意味ではない。たとえば、劇的な出来事のない「死んだ時間」(temps morts)を見せることは広く使われる手法である。だが本稿の主題である偏移取景については、いくつかの個別例を見つけられるにすぎない。

『一人と八人』における偏移取景と不完全な構図

まずは『一人と八人』である。監督は張軍釗(チャン・チュンチャオ)、撮影は後に名を上げる張芸謀(チャン・イーモウ)が担当した。多くの映画ファンが知っているだろうが、中国第五世代映画の出発点となった作品だ。『一人と八人』は偏移取景と不完全な構図を、際立った造形手段として大量に用いている。たとえば下段の二つのショットでは、土の斜面や地面が画面の大半を占め、人物や空を押しつぶすように見える。この構図は、張芸謀が後に撮影を担当した『黄色い大地』でも、主題を象徴的に表すために用いられた。『一人と八人』は、この大胆なフレーミングによって、人物心理の歪みや極限状況に押しつぶされる状態を描こうとした。しかし、基礎的な表現手段としての偏移取景の使い方は、まだ弱い。根本的には実験的な作品であり、「新しい映画」の登場と監督の世代交代に際して、伝統的な慣例を破った作品なのである。

『イーダ』における人物を下方に置き、上方にネガティブ・スペースを残す構図

もう一人、比較的よく知られた監督がパヴェウ・パヴリコフスキである。パヴリコフスキは『イーダ』でも偏移取景を大量に用いた。人物をできるだけフレームの下端へ押し下げ、上方に大きなネガティブ・スペース、つまり被写体のない余白を残す。人物の頭が半分しか画面に残らなくても、上方の何もない空間を優先するのである。ここにも基礎的な表現効果はある。だが全体として見ると、ここで中心となっているのは、異常な偏移取景の構図によって、下方の人物に対する上方の空間の支配性を強調するという、より象徴的な働きである。

何が支配しているのか。神が支配している。あるいは、登場人物の内面にある神への意識が、人物を支配している。したがって、ここに現れる偏移取景は、スクリーン平面上における視覚的な権力の配置である。『イーダ』では、偏移取景が全編を貫く構図の手法として用いられ、映画の宗教性を形式的に支えている。環境や「空白」に画面の多くを割くことで、作中の信仰者たちはしばしば「圧迫」され、相対的に小さく、添え物のように描かれる。それによって宗教的要素が画面を支配することが際立つ。これは、作品中で世俗的な環境や身体を撮る通常のカメラ位置・フレーミングとは鮮明な対照をなしている。

『COLD WAR あの歌、2つの心』における上方にネガティブ・スペースを残す構図

パヴリコフスキは2018年の『COLD WAR あの歌、2つの心』でも、上方にネガティブ・スペースを残す構図を使っている。総じていえば、彼の偏移取景の使用も不完全である。彼の映画様式には強い停滞感がある。そのため、彼の映画を、パワーポイントのスライドになぞらえて「PPT映画」と呼ぶ人もいる。編集において、流動性を断ち切ろうとする意識があるからだ。同時に、パヴリコフスキは人物をフレームの底部へ押し込めることを偏移取景の基本形とし、宗教的象徴として機能しない場合でも、それ以上の試みをあまり行わないことがわかる。

日本アニメ――慣例としての偏移取景

日本アニメにおける偏移取景は、視聴覚言語の慣例を破る型破りな技巧でも、スクリーン平面上における視覚的権力の配置を象徴的手法として行うものでもない。日本アニメにおいて偏移取景は、広く、体系的に使われる、ごく普通の視聴覚表現なのである。

『少女革命ウテナ』第14話の通常の正反打と偏移正反打

アニメにおける偏移取景には、決して短くない歴史がある。少女漫画のコマ割りが一般的な演出手法に取り入れられた頃には、すでに現れていた。アニメでの頻繁な使用も、少なくとも『少女革命ウテナ』で細田守が演出した回には、通常とは異なる正反打を組み立てる方法として定着していた。たとえば第14話では、敵役が香苗を百人の決闘者が眠る場所へ誘い、洗脳して主人公と決闘させる。細田守は同じシークエンスのなかに、構図の異なる二種類の正反打を設計した。第一の正反打(上段)では、二人をミディアム・ロングショットで捉え、それぞれの視線の先に背後よりも広い空間を残している。ところが第二の正反打(下段)のミディアムショットとミディアム・クローズアップでは、人物の視線の先をフレームで塞ぎ、その反対側、つまり背後におよそ三分の二の空間を残している。後者は日本アニメではよく見られるが、実写の伝統では極めて稀な正反打のパターンである。本稿ではこれを「偏移正反打」と呼ぶ。

頭上の余白・視線空間・偏移取景の図解

正反打は映画実践におけるもっとも重要な伝統・慣例のひとつであり、ほとんどすべての映画で大量に使われている。一般的な映画教育では、正反打に対して、180度の軸線、30度の原則、構図要素のマッチングなど、具体的な規範が設定されている。そのうち正反打の単一ショットの構図には、二つの主要な原則がある。適切な頭上の余白と、視線空間(look room)である。上の図を上から順に図1、図2、図3として見てみよう。図1では、この人物の目は画面の上から三分の一の線上にあり、上方には適切な頭上の余白が残されている。正反打で人物を斜め前から、顔が四分の三ほど見える角度で撮る、つまり図2のようにすると、右を向いている人物を画面の左へ移し、頭部を画面の三分割線が交わる左上の点に、身体を左側の縦線上に置く。この人物の前方にある空間が視線空間である。人物の背後よりも視線の前方のほうが強い視覚的緊張を持つ。この空白があることで、人物の頭部が占める画面左側と、空白のある右側とが、視覚的な重さの点で釣り合うのである。そして私たちが意図的に視線空間の原則を破ると、図3のような偏移取景の人物ショットになる。このとき画面は非常に不均衡で、右側の空間に強い視覚的緊張が生まれ、注意が強く画面外へと向けられる。

『少女革命ウテナ』第14話の通常の正反打と偏移正反打

この構図を正反打の組に用いると、筆者が偏移正反打と呼ぶ技巧が現れる。通常の正反打では、構図によって二人のあいだに会話に適した距離が保たれ、心理的に安定した関係が生まれる。偏移正反打では、その距離がなくなったように、あるいは二人の位置関係がずれたように感じられる。

ここで注意すべきなのは、細田守が偏移正反打を、ある慣例を破るために使っているのではないということだ。反対に、偏移正反打そのものが日本アニメの慣例のひとつになっている。もちろん、ここで象徴的な効果を実現しようとしているのでもない。物語の展開を直接表現するための手法なのである。香苗は自分が危機に陥っていると気づく。敵役とのあいだにそれまで成り立っていた対話の関係が、「断ち切られる」のだ。偏移取景による視線空間の封鎖と、正反打の編集における人物の位置のずれが、二人の関係と心理の激変、そして突然迫った危機をそのまま表している。

偏移取景が現代の日本アニメにおける慣例だというのは、それが意識的に、体系的に、広範に使われ、その使用によって視聴覚言語の基礎的な表現効果を実現しているという意味である。

『放浪息子』における顕著点としての中断をなす偏移取景

偏移正反打のほかに、偏移取景の慣例的な使い方として、「顕著点としての中断」がある。流れが途切れることで、そこが目を引く箇所になるということだ。この概念は、エルンスト・ゴンブリッチの『装飾芸術論』から取ったものだ。感覚の仕組みには注意力を節約する傾向がある。そのため、秩序だった状態が崩れると、その変化が刺激となって新たな警戒を呼び起こす。こうして中断が顕著点になる。偏移取景のショットは、一連の編集のなかで通常の時空間の流れを中断し、注意を引く箇所として容易に組み込める。『放浪息子』のある場面を例にしよう。ショット1と2では、主人公の少女が演劇の役を決めるくじを引く。彼女はロミオ役を望んでいる。ショット3では、くじを引く最中に偏移取景を使い、何が出るのかという強い心理的な緊張を表現する。そしてショット4で突然、大クローズアップによって彼女の驚きを示す。最後のショット5で、彼女が望みどおりロミオを引いたことがわかる。偏移取景は、人物と空間の関係を通常とは違う形で構成することで、これほど簡単に流れを中断し、注意を引く箇所をつくれるのだ。

『Fate/Grand Order』第1話の偏移取景による編集

ここで記事の冒頭に挙げた例に戻り、偏移取景の表現機能をもっと直感的に把握してみよう。原論文を書いていた当時、FGOはまだ放送中だったので、筆者は第1話からこの場面を選んだ。ショット1では奥の三人が立ち去るが、マシュだけが一拍遅れ、ショット2で足を止める。人物の配置と動きをそう演出することで、マシュとロマニ医師だけを残し、二人きりで会話できる状況をつくっている。マシュは医師に背を向けたまま問いかける。ここでショット3と5は、視線空間を塞ぐ偏移取景を使い、マシュの背中とクローズアップへの切り替えとともに、マシュの問いが持つ含意を強めている。

『電波的な彼女』で偏移取景によってサスペンスを構成する場面

サスペンス系アニメ『電波的な彼女』には、連続性によらない編集を用いた場面がある。絵コンテでは、人物のいない空ショットと、偏移取景による人物のクローズアップを交互に配置している。台詞の内容は、二人が殺人事件の容疑者の具体的な特徴を推測するというものだが、言葉の端々には対立の含みもある。主人公は、犯人は君なのではないか、という疑いをにじませてヒロインに問いかける。彼女はそれに曖昧な返答をする。ここで偏移取景は、視覚的にサスペンスを構成するために使われている。この一連のショットは、人物の心理と会話の意味によって結びついている。二人の分析が終わると、最後のショットで実際に二人がいる場所に戻り、場面の空間を示す。

『I"s Pure』で偏移取景によって親密な関係を表現する場面

もちろん、偏移取景はサスペンスをつくるだけではない。アニメ『I“s Pure』には、四人の友人が一緒にカラオケへ行く場面がある。主人公とヒロインは両思いだが、まだ正式には付き合っていない。主人公は酔っている。臆病者も酒が入れば強気になるもので、勢いに乗じて彼女に好きな人がいるのかと尋ねる。ショット1と2は、相手の肩越しに撮る、ごく普通の切り返しだ。だが、いまの二人の関係からすれば、むしろ普通ではない。酔っていなければ、こんなふうに軽々しく話しかけ、まして彼女の肩に手を置くことなどできないからだ。ショット3で、主人公は、四人で来たはずなのに、いまは自分と彼女しか残っていないことに突然気づき、一気に酔いがさめる。彼女は、好きな人がいるかどうか、なぜそんなことを聞いたのかと問い返す。そこには、彼に告白を促す含みがある。続くショット4は、アニメでは比較的珍しい40秒の長回しである。長い心の葛藤の果てに、一組の偏移取景のショットが使われる。主人公は正式に彼女へ告白し、この場面は終わる。ここで偏移取景は視覚的緊張を際立たせるのではなく、むしろ二人の親密さを表現している。

『イエスタデイをうたって』第2話で偏移取景によって心理的断絶を表現する場面

最後に、放送中の作品からもう一例を挙げよう。選択肢はいくらでもあるが、いま筆者が気に入っている『イエスタデイをうたって』を分析する。第2話で、主人公は夜、公園にたたずむ榀子(しなこ)に偶然出会い、ひとしきり話した後、家まで送ると提案する。最初の三つのショットでは、切り替えるたびに被写体へ近づいていく、前進モンタージュの形が使われている。三つ目で画面が一瞬白く光り、ショット4、榀子の回想へ切り替わる。榀子は主人公の背中を見て、すでに亡くなった思い人を思い出さずにはいられない。ショット5は偏移取景である。榀子はうつむき、心も沈んでいく。彼女の視線の先には本来なら主人公がいるはずだが、このショットでは視線空間が塞がれ、彼女の心が囚われていること、そして主人公との心理的な断絶が暗示される。榀子は思い出に浸り、人生を先へ進めずにいる。亡き人への思いから、結局、家まで送るという主人公の提案を断るのである。

なぜ日本アニメなのか?

ここで冒頭の問いに戻ろう。なぜ日本アニメであって、ほかのどの映画の伝統でもなく、偏移取景という視聴覚言語上の慣例が現れたのか。

もちろん、まず日本のACG(アニメ・漫画・ゲーム)文化の基本的な特徴から、いくつかの答えを簡単に見つけることはできる。日本のアニメ産業が形式・様式の多様性に寛容であること、日本の商業アニメでは原画担当者に比べて演出家がより強い主導権を持つことなどだ。こうした点が、日本アニメにさらなる演出表現の可能性を試す自由の基盤を与えている。他の映画の伝統では、こうした表現の自由が存在しないことも多い。しかし、これだけでは問題の核心には到底触れていない。核心は何か。

なぜこれが問題になったのか、もう一度考えてみよう。アニメの一般的な特徴、たとえば本質的な非現実性や、運動を設計する豊かな可能性を考えれば、アニメは多くの人にとって、奔放な想像力を表現するのにより適した、少なくともより便利なメディアだと、疑いもなく見なされている。写実を担うのは明らかに実写映画のほうだ。ところが偏移取景については、そうした区別の根拠が見当たらない。アニメでも実写でも、偏移取景は簡単に実現できる。アニメなら偏移取景の構図に従ってショットを描けばよいし、実写でもそれほど手間はかからない。画面周辺部の画質の問題を考慮したとしても、実写が偏移取景を無視してきたことはやはり非常に不可思議である。

果たしてそうか?

実はここにこそ、一般的なアニメの特徴や技法とは違う、研究の切り口としての偏移取景の独自性がある。偏移取景が明らかにするのは、メディアの存在論的な可能性ではなく、メディアの想像力なのだ。このメディアの想像力は、日本アニメの基本的構成、すなわちモンタージュとレイヤーに由来する。

大塚英志はオタク文化の起源を考察するなかで、日本アニメの体系が形成された背景のひとつに注目した。1930年代から40年代にかけて、日本でエイゼンシュテインのモンタージュ理論が広く影響を及ぼしたことである。一方では、当時、モンタージュ理論や前衛芸術が若者のあいだで流行していた。他方では、エイゼンシュテインがモンタージュ理論を使って日本文化を分析・解釈したことがあった。彼は、さまざまな日本文化の形式にモンタージュによって構成するという発想があると主張した。その影響の深さを示す一例を、大塚から孫引きしよう。

大塚が紹介する逸話によれば、衣笠貞之助の『黎明以前』には江戸時代の消費文化に関する字幕が現れ、道中の遊女、大名行列、寺院の儀式を映すショットが切り替わっていく。すると観客の一人が、モンタージュだ、あれがモンタージュだ、と叫び、場内の誰もが敬意を示したという。

この影響は最終的に、「日本初の長編アニメーション映画」『桃太郎 海の神兵』に現れた。大塚の説明に即していえば、『桃太郎 海の神兵』の映像様式は、ディズニーとエイゼンシュテインの「野合」である。ディズニー風のキャラクターの描画と、エイゼンシュテイン的な視覚およびモンタージュによる映像構成の混合である。ここには、後の日本アニメにおける最も基本的な形式上の特徴が、すでに現れている。別々のレイヤーに描かれたキャラクターと背景を組み合わせること、映像をモンタージュで構成すること、静止した画面から次の画面へと編集でつなぐこと、固定ショットと固定ショットを組み合わせること。こうした形式上の特徴によって、日本アニメの手法の展開は、固定ショット一つひとつの構図と、それらをどうつなぐかという編集上の関係へ集中した。まさにこれが、偏移取景が本当に発展できた第一の理由である。

第二の理由はレイヤーにある。トーマス・ラマールは『アニメ・マシーン――グローバル・メディアとしての日本アニメーション』で、二種類の空間性を区別している。シネマティズム(cinematism)とアニメティズム(animetism)である。シネマティズムの「閉じた合成」(closed compositing)では、複数の画面を重ね合わせる際、空間が継ぎ目なくデカルト的な座標空間へ統合される。映像から映像への変化も、一貫した均質な空間のなかで幾何学的に表される。一方、アニメティズムの「開いた合成」(open compositing)では、複数の平面が重なり合うことで、閉じた空間のまとまりが内側から崩される。

この二つは、知覚のあり方にも大きな違いをもたらす。前者では、見る者と見られる対象との距離がなくなり、観客は一貫した奥行きをもつ空間へ入り込み、その空間と一体化する。後者では、見る者と対象との距離が保たれ、観客はそれぞれ独立したレイヤー同士の関係を見ることになる。

ここであらためて偏移取景を考えると、それが実写の想像力の限界に触れる手法だとわかる。偏移取景がシネマティズムから生まれるとは考えにくい。そこには、フレームと被写体の関係に対する明確な形式意識が必要だからだ。現実の私たちの視覚に「偏移取景」が存在しないのと同じように、見る者と対象との距離が消え、ひと続きに統合された空間のなかでは、その形式意識は生まれえない。それが生まれるのは、アニメティズムの多層的な空間においてのみである。同じくらい重要なのは、それに伴って、あらかじめ平面構成を重視する傾向があることだ。

固定ショットのモンタージュとアニメティズムのレイヤー空間。こうした構成は、日本アニメの物質的条件、すなわち絵コンテ、レイアウト、撮影台を基礎とする制作工程に支えられている。そして、その物質的条件と構成に支えられて、日本アニメのメディアの想像力は成り立っている。この想像力こそが、日本アニメにおける偏移取景を生み、同時に、実写映画の伝統では偏移取景が現れにくい理由となる。

『SSSS.GRIDMAN』作画注意事項にある人物配置のスケッチ

このメディアの想像力は、偏移取景だけに作用しているのではない。日本アニメの空間構成も深く規定している。ここでは『SSSS.GRIDMAN』の作画注意事項を切り口にしよう(大人の事情で全体は載せられないので、そのうちのスケッチ一つだけを載せる)。二人のキャラクターが同じショットで対峙するとき、作画への指示では、二人が顔を斜めに向けて見つめ合うのではなく、身体や顔の向きをスクリーン面に対して垂直にそろえ、視線だけを斜めに向けるよう求められている。このように垂直・平行の関係を用いるのは、作画の難度を抑えるとともに、視覚的な構成を整理し、整えるために、日本アニメが自然と選びやすい方法である。『SSSS.GRIDMAN』のこの作画注意事項では、斜め方向の見つめ合いを避け、特定の奥行きの手がかりを取り除くことで、ショット内の空間が、奥行きのある空間の統一体というより、簡潔なレイヤーの関係として理解される傾向が強くなる。

もちろん、『SSSS.GRIDMAN』は実際には、この種の思考をもっとも明瞭に示す作品ではない。むしろ反対だと言ってもよい。見ていると、『SSSS.GRIDMAN』には、奥行きのある空間を自然に見せる表現や、レンズの焦点距離と遠近法への強い意識があり、それが作品全体の時間的にゆるやかな構成と結びついていることがわかる。垂直・平行な空間関係によって視覚を表現する最良の例は、数多くの四コマ漫画原作アニメや、新房昭之の系譜にある演出を用いるアニメだろう。いずれも、日本アニメのメディアの想像力を基盤として生まれた独特の美的様式である。

結語・補遺

本稿は、筆者の論文「日本アニメにおける偏移取景」とその講演原稿を改稿したものであり、原論文は2019年の中国青年アニメーション学者フォーラムで発表した。読者層の違いを考慮して、原論文の記述にはかなり手を入れ、削った箇所もある。そのため、多くの重要な問題を結語で補うしかなくなった。

まず、本稿では京都アニメーションと山田尚子に少し触れたが、実際にはまったく足りない。偏移取景の手法が日本アニメに広まるうえで、もっとも大きな役割を果たしたのは、まさに京都アニメーション、とりわけ山田尚子だからである。筆者の原論文を読んだ人なら知っているだろう。論文では一節を丸ごと割き、山田尚子による偏移取景の使い方を数多く分析した。本稿にはどうしてもその部分を組み込めなかったが、来月、山田尚子の演出体系を論じる別の文章で、まとまった説明をする予定である。

第二に、偏移取景という概念に異論を持つ人もきっといるだろう。一般的な構図の知識にはすでに「開放構図」「不完全構図」という分類がある。それなのに、わざわざ「偏移取景」を持ち出して説明する必要があるのか。この点について、原論文と講演原稿では詳しく応答しているが、本稿では記事の流れの都合で細かく語れない。そこでここに、論文第1節の一部をそのまま引いておく。

注意してほしいのは、本稿がここで論じようとする偏移取景が、「開放構図」や「不完全構図」と同じ概念ではないということだ。偏移取景の適用範囲は開放構図や不完全構図と大きく重なる。しかし位置づけと概念の運用において、両者には大きな違いがある。ヴォルフリンは『美術史の基礎概念』で伝統絵画を論じる際、形式の閉鎖性と開放性を美術史の基本概念として定めた。閉じた形式とは、構成上の工夫によって絵画を独立したまとまりに仕上げ、画面の各部分がそのまとまりの内側へと向かう構図の様式をいう。これに対して開いた形式は、あらゆる部分が画面の外へと向かい、意図的に無限の広がりを感じさせる。具体的には、画面全体が可視世界から任意に切り取られた一部分のように見えるのである。映画における開放構図や不完全構図を論じるとき、研究者はしばしばこれを用いて、映画が絵画とは異なるメディアであることを分析する。映画は時間のなかで展開する芸術なので、作り手は伝統絵画の閉じた構成形式に、考え方のうえで厳密に従う必要はない。構図の開放性や不完全さは、時間の経過とともに映像に緊張を生む手段なのである。他方、クラカウアーやバザンなど、伝統的な映画理論の研究者は、実写映画の際立った再現能力を重視し、かつてはこの前例のない機械的・自動的な再現性を、映画美学、さらには映画の存在論において、他の芸術との違いを説明する理論の核心に置いた。現実を再現し、現実に適合するという意味では、伝統絵画の規則性や閉鎖性は障害となる。時間と空間の表現における冗長さや不完全さは、新しい映画が現実を描くための重要な手段となった。こうした考えはネオリアリズモやニューウェーブ映画に由来し、その後の芸術映画の作り手たちを大きく刺激した。

本稿が開放構図と不完全構図という二つの用語を使わない主な理由は、映画理論における両者の一般的な理解を避けるためである。本稿でいう偏移取景は、映画美学や映画の存在論の基本的特性を描くものでも、絵画において閉じた構図や構成規則から逸脱することでもない。それは、通常の型から外れていながら、すでに慣例となっている一般的な手法である。形式要素を具体的に規定する偏移取景の定義こそが、本稿にとってこの語をより適したものにしていることは明らかだ。

実のところ、論文で筆者が言わなかったことがある。本稿における偏移取景の定義でさえ、簡単に得られたものではないのだ。『映画理論・批評辞典』における偏移取景(décadrage)の定義は、décadrageという語の一般的な用法とは実際には異なっている。映画理論には「décadrage」を題名にした重要文献があり、中国語では「反構図」と訳されている。そこで中心となるのは、やはり先ほど「開放構図」「不完全構図」との関係で述べた、映画の存在論的な特性である。これもまた、偏移取景が実写の伝統において重視されてこなかったことの証拠である。

『プリンセスコネクト!Re:Dive』第1話の全景構図

次に、偏移取景かどうかを判定するための例を補っておこう。この概念が手当たり次第に使われ、意味を失わないようにするためである。上のショットは『プリンセスコネクト!Re:Dive』第1話から取ったものだ。これは偏移取景だろうか。いや、違う。二人のキャラクターは確かにフレームの右側に近い。しかしこれは場面をひとまとまりとして捉えたショットであり、フレーミングのわずかなずれは美的効果を狙ったものだ。全体の構図は均衡し、閉じている。

『赤髪の白雪姫』第1話のショット位置関係

では、『赤髪の白雪姫』第1話から取ったこの一組のショットは、筆者のいう偏移正反打なのか。これも違う。ショット1は人物の視線空間を塞いでいる。しかしショット2と、その後の位置関係を示す右側の画面を見ると、ショット1のフレーミングは、変則的な空間表現を狙ったものではない。むしろ、二人の位置関係を分けて示し、観客に再構成させるためのものだ。ショット1でヒロインが後ろに向ける視線が編集点となり、二人の会話とともに、観客を全体の空間関係の理解へ導く。主人公が彼女の後ろをついてきているため、ショット1で彼女の背後にある空間は、むしろ二人を結びつけるものと捉えるべきである。また、ショット1と2の構図も互いに対応している。ショット1で彼女が振り返って彼と会話するところを想像してみても、効果は同じだろう。

『イエスタデイをうたって』における榀子の微笑みの偏移取景

最後に、すでに分析した『イエスタデイをうたって』の例をもうひとつ挙げよう。このショットの構図は偏移取景だろうか。確かに偏移取景である。筆者は以前、こう分析した。「榀子の目はフレームによって半分切られている。一方では、主人公を見たときの彼女の口元の笑みを強調するためであり、他方では、偏移取景を使って暗示的な意味をもたせるためである」。ここで注意すべきなのは、構図機能の二重性だ。一方では、確かに偏移取景の効果がある。他方、榀子の口元に浮かぶこの笑みは、「偏移」した位置に置かれているわけではない。

上のいくつかの例を挙げた目的は、偏移取景の識別が、単純に図形的な関係だけでできるわけではないことを示すためである。物語と一連の編集のなかで、ショットはもちろん単なる一枚の絵ではない。物語全体とその文脈の一部であり、それらが一つのショットの受け取り方を大きく左右する。したがって、偏移取景の判定は、具体的な叙述と文脈から切り離せない。

『マトリックス』における偏移取景の例

次は実写映画における偏移取景の例である。本文の流れの都合で、偏移取景を使う二つの実写作品に筆者は触れなかった。ひとつは『マトリックス』、もうひとつはアメリカのテレビドラマ『Mr. Robot』である。この二作を比べれば、『Mr. Robot』はさほど取り上げる価値がない。しかし『マトリックス』は非常に興味深い。ひとつには、偏移取景が意識的に慣例を破る手法としてではなく、基礎的な表現手段として実際に使われているからだ。もうひとつには、『マトリックス』が初公開された1999年当時、偏移取景は日本アニメでもまだ広く流行していなかったからである。したがって『Mr. Robot』に比べると、『マトリックス』における偏移取景の使用はかなり不可思議だ。

とはいえ、ここから簡単な推測をすることはできる。おそらくウォシャウスキー姉妹が長く日本アニメに触れてきたからこそ、偏移取景の使用を思いついたのではないか。直接の証拠はない(ふたりはインタビューをあまり受けていない)。ただ、ウォシャウスキー姉妹が確かに日本アニメから深い影響を受けていることは知られている。『マトリックス』そのものが『攻殻機動隊』から直接刺激を受けているし、2008年の映画『スピード・レーサー』(アニメ『マッハGoGoGo』のリメイク)では、彼女たちがアニメの形式・様式を模倣する際、アニメのレイヤー構造を明確に意識していることがわかる。

ほかにも、本稿で説明した方法とよく似た実写映画の視覚戦略がある。たとえば、リン・ラムジーやロベール・ブレッソンの映画が画面外空間を利用する例を思い浮かべる人もいるだろう。これらの映画の視覚戦略は、明らかに本稿で論じたものと性質を同じくしている。しかし具体的な手法にはなお大きな違いがあるため、本稿ではこれ以上触れない。

本稿はここで筆を置く。


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本文終わり

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