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やさしく、残酷な風――宮崎駿のアニメーションにおける罪と虚無01

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上篇:親愛なるナウシカと廃墟

漫画版『風の谷のナウシカ』を糸口に、『もののけ姫』『紅の豚』『ハウルの動く城』『風立ちぬ』に目を向け、宮崎駿作品における罪、自然、愛、虚無の絡み合いをたどる。

著者: 窗子翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

白い毛皮を背負った人物が、横たわる人物の喉元に刃を向けるイラスト

一、親愛なるナウシカ

現実との境にある夢は、はじめ、血の気のない白さをしていた。何もないところから一基の風車が現れ、巨大な木の腕を振り回して、空を青緑に塗ってゆく。私は回転する影のなかに座っている。足もとから棚田が延び、その果てには砂漠がある。この世界をよく見れば、何もかもが、落ち着きなくうごめく線の共鳴からできていることに気づくだろう。たとえるなら、雑然としていながら調和のとれた一曲のクラシック。生まれたときには確かに神を讃えるためのものだったのに、後世に広く歌い継がれて童謡となり、いつも幼年時代の甘い味わいを帯びている。この世界が私に与えるのは、そんな感じだ。荘厳で、無垢なのだ。

青い軌跡を揺らめかせる白い翼が、古城のような家々のあいだをかすめ、そばに降り立った。ナウシカは颯爽とゴーグルを外すと、子どものように手足を伸ばし、草の斜面に腰を下ろした。風が長い髪をもてあそび、目もとに宿る自信に火をつけて、一筋の炎に変える。いまの彼女はまだひとりの少女でしかなく、少女だけが抱ける、世界への無邪気な夢を抱いている。私はその愛らしい姿に、崖の縁にうなだれて座り、浄化に命を捧げるときを待つ、さまよう魂の姿を重ねる。知っているのだろうか。何年も後の自分が深淵を見つめ、虚無に呑まれることを。

「あなたも戦火を逃れてきたの? 世間から遠く離れた、この理想郷へ」と彼女は尋ねた。

私は遠い空で燃える飛行船を見つめた。「どこへ逃げても無駄だよ。この星はどこも人間でいっぱいだ。風の谷も、じきに戦争へ巻き込まれる。きみの心は大海嘯に打ち砕かれ、きみの肉体は死神のまなざしにさらされて朽ちてゆく。きみの慈悲さえ、慈悲であるがゆえに、それ自体を食い尽くすだろう。ナウシカ、きみは運命がこの循環を断ち切るために使う鉄の剣でしかない。騒がず、揺らがずにいる大地なんてどこにもない。ここだって同じだ。人間にとって静けさは、あまりに清らかすぎる空気のようなものなんだ」

彼女は少し驚いて私を見た。「そう、あなたは外の世界から来た方なのね」。しばらく考えてから、微笑んだ。「もちろん、自分がどんな運命をたどるかは知っているわ。死ぬ覚悟を持たなければ、この世界は少しも動かせないことも。そう、私には逃げ場がない。この体は錨のように、大地へ深く食い込んでいる。どこへ行っても、先祖から受け継いだこの世界から、人間の罪が生んだ戦火から、逃れることはできないの」

「では、どうすればいい? 私たちの両手は血まみれで、私たちの存在は世界にとって何の役にも立たない。きみは星そのものの選択に希望を託し、未来の生命に難題を投げてしまう。それは山々が自分から歩いてくるのを待つようなものじゃないか。けれど運命を書くのは、結局、人間自身の手だ。いまはただ、問題を過去から未来へ移しただけで、何ひとつ解決していない。人間の先延ばしが歴史を積み上げ、屍の山も血の海も、日ごとに大きくなってゆく。『生命』なんてないんだよ。いるのは私たちだけだ。過去にとっては未来である、この私たちだけだ。その私たちには過去もなければ未来もない。助ける者もなく、ひとりさまよい、不安に震えている」

飛行船が近づいてきた。空ではじける銃砲の音と、蟲の鋭い叫び声が聞こえる。古城のなかの人々も災いに気づき、不安そうに窓から身を乗り出して、自分たちの姫を捜していた。

「真相を見抜けない者は、いつまでも迷いのなかをさまよう」。彼女は風に向かって立ち上がった。「私たちにとっては、あらかじめ定められた再生への道こそが、この世界の真相なの。私たちはしもべとして汚れた世界に生まれ、新しい人類の帰還を迎えるために、倒れては後の者が続き、争いを繰り返している。では、あなたの世界にとっての真相は何?」

「真相とは、真相などないということだ。あの世界は空っぽで、方向も意味もない。ただ孤独に回り、前へ這っているだけなんだ」

「本当にそうかしら。足もとを見て」。彼女は遠くへ駆けてゆく。滑空翼が空に広がる。「この大地に立つあなたは、もう静けさを得ているのではないの?」

ひょっとすると、確かにそうなのかもしれない。

ナウシカが飛行船を導いて谷へ降ろし、溶けた鉄板を素手でこじ開けて、ラステルを炎のなかから救い出す。その一部始終を、私は見ていた。

ああ……またひとつ、物語が始まったのだ。

森の中で腰を下ろす人々と、角のある大きな動物

二、廃墟と翼

宮崎駿の物語は、一作ごとに閉じた、完結した世界を織りなしているといわれる。けれど、耳を澄ませてほしい! 散らばっていた音符が、いつのまにか同じひとつの旋律へと収まってゆく。戦場に血の雨が降るなかで、クシャナが思い出した子守歌のように。その歌は『未来少年コナン』に始まる。このときすでに、夢の世界の原型は描かれていた。大戦でほとんど滅びながらも、なお力強く大地に根を下ろす、新しい人類の故郷である。『シュナの旅』は、この主題の予告だった。チベットのプロメテウスたる彼は、神の国から裸麦の種を盗み帰り、呪いに打たれる。技術の始祖よ、私たちは自然とどう共に生きればよいのか。

千年にも及ぶ浄化を前に、人類は何と小さいことか。それでも、この小さな種族こそが自然の手綱をつかみ、生命を未来に釘づけにしようとする。「大地を傷つけ、奪い、汚し、すべてを焼き尽くすことしかできない……私たちは滅びる運命にある、呪われた種族なの?」 硝煙に覆われた空から、答えは聞こえない。やさしく、勇猛な風よ、来たれ! おまえが、長い長い待ち時間に意味を与える。ナウシカは全人類に代わって罪を贖い、死の姿をまとって生まれ直し、新しい世界の最初の光を迎える。

十三年にわたって連載された漫画『風の谷のナウシカ』は、宮崎駿のほぼすべての作品を貫き、絶えず変奏される主旋律、そして隠喩の源となった。死の影を吐き出す聖都シュワは、大地から切り離された古代兵器ラピュタへと姿を変える。浄化を終えれば自ら滅びるよう設計されていた王蟲と腐海には、心が芽生えた。ラピュタの廃墟に枝を広げる巨木と同じく、それは生命が自ら進化することへの賛歌である。『天空の城ラピュタ』のロボット兵は、ヒドラと巨神兵をひとつにした存在だ。技術の縮図である彼らは、破壊にも使われれば庭を守ることもできる、罪のない存在なのである。ナウシカの滑空翼は滅びた古代エフタルに由来し、予言の使徒の翼となる。一方、シータはラピュタの王女で、古代の技術を象徴する飛行石を持っている。『天空の城ラピュタ』のもとになったのは宮崎が十二歳のときに考えた物語で、時期としては『ナウシカ』より早い。けれど、そこに現れる多くのイメージは『ナウシカ』の土壌から育っており、二つの作品は互いを照らし出している。両者が溶け合うのが、1995年のミュージックビデオ『On Your Mark』だ。チャゲと飛鳥は、翼のある少女を閉じ込めて研究しようとする組織から救い出し、放射能のために無人となった地上の世界へ放す。少女は空から降ってきたシータに呼応し、地上の世界は生命の息づく腐海へとつながっている。

『天空の城ラピュタ』のパズー、シータ、ロボット兵

廃墟と翼――大地と空。この二つの原初的なイメージは、物語が語られるにつれて少しずつ分かれ、枝葉を伸ばし、新たな隠喩を実らせる。それでも、根をたどれば同じところへ行き着く。1941年に生まれた宮崎駿は、戦後の荒廃のなかで幼年時代を過ごした。すべてが復興を待っていたあの時代は、墓所の主の言葉どおり、旧世界の墓標がそびえると同時に、新世界の希望を告げてもいた。宮崎の描く世界では、文明は頂点に達すると、内戦によって急速に崩れ去る。歴史を終わらせるボタンである核爆弾は、『未来少年コナン』では超磁力兵器の姿で現れ、『ナウシカ』では巨神兵が荒れ狂う「火の七日間」となり、『天空の城ラピュタ』では飛行石に秘められた巨大なエネルギーによって暗示される。『On Your Mark』は、放射能の警告を直接掲げることで、癒えることのない傷を刻みつけた。幸いにも、人類は自ら引き起こした災厄を生き延び、廃墟から故郷を築き直す。

宮崎駿の過去に対する態度は複雑だ。戦争を起こした古代人の愚かさを憎みながらも、故郷を再建するには先人の技術に頼るほかないことを、よく知っている。墜落したトルメキアの飛行艇のそばで装身具を拾う蟲使いたちを見たナウシカは、感情を抑えきれずに叱りつける。「やめて! 死者の物を盗んではいけない! 死者を辱めないで! どんな死者に対しても!」 だが、すぐに気づく。「ああ、ごめんなさい。私に怒る資格はない……この人たちは何百年も、こうして暮らしてきたのだから」。古代人の残した瓦礫にすがり、かろうじて命をつなぐ暮らし。廃墟は危険の象徴であると同時に、希望の象徴でもある。巨神兵はペジテ市の地下から掘り出され、大海嘯を引き起こした変異粘菌はシュワの墓所の技術で培養された。だがその一方、汚染を浄化する腐海も王蟲も、古代人の技術の結晶なのだ。廃墟というイメージは、人類と旧時代とのつながりと対立を、ともに担っているといえる。そして『ナウシカ』が力を尽くして描くのも、生命が過去を超え、自由に育ってゆく、その壮大な過程である。

「生きているものは変わる! 王蟲も、粘菌も、草木も、人間も、みんな変わる! 私たちだって腐海と共に生きられる! でも、あなたは変わらない。何もかも、あらかじめ決められた予定でしかない! あなたは死を完全に否定しているから……本当のことを言いましょう! 私たちに、あなたは必要ない!」

ナウシカがシュワの墓所を拒んだとき、宮崎駿もまた、すでに困難な選択をしていた。過去に定められた道筋に生命を委ねるよりも、限りなく開かれた未来へ投げ放ち、生命そのものの可能性を信じるのだ。「どんなに悲惨な命も、その命自身の力で生き抜くことができる」。ナウシカはこれを信じなければならない。さもなければ、虚無へ滑り落ちてしまう。そのためなら、従う者たちに嘘をつくことも、自分に嘘をつくことも厭わない。「死者の物を取ってはいけない」という命令が自己矛盾だと知りながら、それでも怒りを抑えられなかった。この矛盾は、技術に対する宮崎の複雑な態度と切り離せない。過去と現在をつなぐのは、まさに技術と環境であり、その技術の最高の成果として宮崎が掲げるのが飛行なのだ。だから、ある意味で、翼そのものが、過去との、技術との、彼なりの和解を象徴している。

宮崎駿の父親は、軍用機の部品を専門に製造する一族の工場で働いていた。飛ぶことへの執着は、飛行機への愛と結びついている。ところが飛行機は、戦争と殺戮の道具でもあり、宮崎の反戦の理想とは相容れない。だからこそ、『風立ちぬ』の最後にカプローニは嘆くのだ。「飛行機は呪われた美しい夢だ」。それに対応するように、宮崎の描く飛行装置も二極に分かれている。一方には、ナウシカの滑空翼、シータの飛行石、トトロの独楽、キキの箒、ポルコの戦闘機がある。どれも翼の、軽やかで何ものをも傷つけない性質を表している。他方、砲台を満載した土鬼の飛行艦、重々しい軍用飛行船、『ハウルの動く城』でクラゲのように空を泳ぐ飛行船、そして二郎を夢から撃ち落とす敵機は、いずれも破壊の威圧感に満ちている。自由と独裁、平和と戦争、文明と罪、生と死。その対立が飛行機を介して、宮崎の世界における不安定さと衝突の源となる。冒頭で触れた落ち着きのなさも、ここから来ている。だが、人類の文明が信念体系のなかの矛盾を取り除くことで進歩するように、この矛盾もまた燃え上がり、宮崎に思考と創作を続けさせる力となった。『ナウシカ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』『風立ちぬ』は、いずれもその矛盾に答えようとした試みと見なせるが、答えは少しずつ異なる。前の三作が技術への嫌悪をはっきりと表しているとすれば、『風立ちぬ』は、純真さと執着が冷酷さにすら近づく二郎という人物を通じて、人間が自らの罪と共存する可能性を示す。それは、ナウシカが最後に得た啓示へとつながる。私たちは毒なしには生きられない。いのちは闇の中のまたたく光だ。1

白い大きな獣に包まれて眠る少女と、小さな精霊たちのイラスト
もののけ姫

『もののけ姫』は、『ナウシカ』が提起した人間と自然の矛盾を解決したというより、その衝突がもたらす悲劇的な結果を濃く描き出した作品だ。シシ神の首を自然へ返すことは、具体的な解決策とは呼べず、象徴にすぎない。この戦いの後も、エボシの率いる鉄の文明は山を切り開き、森を壊し続け、シシ神を筆頭とする自然の力は災厄を起こして人間を襲い続けるだろう。私利に目がくらんでいると声高に糾弾したところで、調停できる争いではないからだ。両者は対等な立場にあり、自分たちの種族の生存と繁栄のために戦っている。是非を問うことも、正しい側と間違った側を分けることもできない。むしろ、この果てしない戦いこそが自然の真相なのだ。ナウシカは旅の途中で惨劇を目にし、人間が星を傷つけることに心を痛めて虚無へ沈み、生命の意味を疑う。しかし、粘菌と大海嘯がひとつになって新たな生を燃え立たせるのを見届けたとき、はっと悟る。人間を自然から除外するいわれはない。人間も自然の一部なのだ。汚染は外から加えられたものではなく、自然そのものが自らを食らうことなのだ。

『ナウシカ』では、こう語られる。

「個は全体であり、全体は個なのです。この世界では、食べることも食べられることも同じことです。森全体が、ひとつの生命だからです。人間が世界の調和を壊せば、森は大きな代償を払って、それをもとに戻そうとします。だから、この千年のあいだに、森はますます深く、広くなってきたのです」

これはまさに、『もののけ姫』における人間と自然の関係を言い表している。食べることと食べられることの均衡、生と死の均衡である。自然という大きな生命は、個体や種族が次々と死に、奪い合うことを前提として、ゆっくりと歩みを進める。人体の新陳代謝のように、永遠に漂い続けるテセウスの船のように。だからこそシシ神は、生の力と死の力をともに司るものとして描かれる。昼は雄鹿となり、夜は巨人へと変わり、その歩むところで花が咲き、散ってゆく。

主題が回帰しているからといって、『もののけ姫』が何の新しい啓示ももたらさなかったわけではない。一方では、『ナウシカ』で王蟲と森を前に抗うすべもなかった人間の卑小な立場を覆し、他方では、この闘争がたどり着く状態を示した。人間と自然が、互いを畏れ敬うということだ。『ナウシカ』が見つめるのは、腐海の侵入によって人類が滅亡の淵に立つ時代である。それに対して『もののけ姫』は、人類が技術の力を借りて、自然からようやく自分たちの居場所を勝ち取った世紀へと舞台を移す。この時代、汚染はまだ起こっていない。アシタカの旅を通して、海のように果てしなく広がる緑の山々と清らかな水を見ることができる。その意味で、『ナウシカ』が災厄の後の修復であり、過ぎ去った時代への郷愁であるなら、『もののけ姫』は平和への願いであり、未来の災厄への警告なのだ。

人間と自然は、果たして調和のうちに共存できるのか。この問いは、実は意味がない。悩みを増やすばかりだ。事実として、人間と自然は共存しており、これからも永遠に共存し続けるのだから。調和が本当に実現しうるのは、人間が、この星全体の利益に力の限り心を配らなければならないと悟ったときだけだ。それは歴史の帰結であって、論証の帰結ではない。人間は、自然と調和して暮らすことを教えられるのであり、その教育は自然への畏敬からしか始まらない。ここには逆説がある。自然の破壊力を知らずに、どうして自然を畏れ敬うことを学べるだろう。――『ナウシカ』と『もののけ姫』を見てほしい!

本文終わり
注01

注釈

  1. 訳注:この一節の日本語は、大野斉子「『風の谷のナウシカ』の神話学」の引用による。 ↑

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