
三、失楽園
『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『千と千尋の神隠し』『紅の豚』は、互いを照らしながら、面白い構造をなしている。ゆったりとした佇まいと軽やかなリズムで主旋律の外を漂うこれらの作品には、明確な主題がない。あえて啓示の色を洗い落としたかのようだが、それゆえに、最も純粋な「物語」そのものとなっている。宮崎作品全体から見れば、この四作は四つの副主題として、一人の人間の歴史を順に映し、合わせると人生を歌うひとつの短い曲になる。『となりのトトロ』が語るのは、子ども時代の空想のなかにいる、目に見えない友達だ。メイとサツキは二筋の澄んだ小川のようで、その瞳に浮かぶ喜怒哀楽を、私たちは何の苦もなく見通せる。ああ、人間がまだ物自体に触れられた、あの時代! キキと千尋は、子どもの体のまま大人の世界へ踏み込む。本来なら、これは悲劇であるはずだった。魔法と自分自身の喪失を予告するからだ。だが、宮崎駿は希望を守ろうとして、童話のマントで暮らしの裏側を覆い隠す。ナウシカが慈悲ゆえに、人々に嘘を残したように。
「これを話して、何になるのでしょう。それに、私の心の奥では、何かが強く呼びかけているのです。私が見た景色……あなたが連れていってくれた、あの腐海の果て……世界は本当によみがえっていました。たとえ私たちの体が、あの清らかさに耐えられなくても……」
道を見失った私たちには、生きることのすばらしさを教えてくれる誰かが、いつも必要なのだ。空想のなかにしかない楽園であっても、その呼び声さえ聞こえれば、「私たちもきっと、鳥のようにそこへ飛んでゆく」。何と無邪気で、愛らしい人間たちだろう! それとも、真相が知りたいだろうか。ちゃんとある。手がかりは、細部に巧みに埋め込まれている。『魔女の宅急便』の終わりに、キキは失った魔法を取り戻す。かつて言葉を話していた黒猫が肩へ飛び乗るが、口から出るのは、ただの猫の鳴き声だけだ。キキとジジの中国語名は「琪琪」と「奇奇」で、どちらも「チーチー」。この「同名」は、決して偶然ではない。1 黒猫は少女の鏡像であり、表には現れない彼女の現実の姿なのだ。キキとトンボの仲が進んでゆくのと、二匹の猫の恋が、物語のなかで互いに呼応している。ひょっとすると黒猫は、恋人と一緒にいるために言葉を手放したのかもしれない。そしてキキも、ついには町の暮らしに溶け込み、子ども時代の夢から目を覚ます。ところが、同じく少女が大人になる過程を描く『千と千尋の神隠し』は、まったく逆の暗示を与える。結末で、ハクが千尋に渡した髪留めが日の光を反射する。2 それこそが神隠しに遭った者のしるしであり、経験したすべてが夢ではなかったこと、魔法が本当に存在することを意味している。
――さて、私たちはどちらの宮崎駿を信じればいいのだろう。一人はつぶやく。現実はしょせん現実であり、ナルニアへ入ることを許されるのは子どもだけ。大人になれば、あの不思議な王国へは二度と帰れない。もう一人はささやく。私たちを忘れないで。遠い地下の世界では、いつも思いもよらない奇跡が起きている。私たちはずっと、あなたに見えないところから、あなたを見つめ、守っている。
ただ、大人になるのは子どもたちだけではない。宮崎駿も同じだ。『魔女の宅急便』以降、宮崎のアニメーションのヒロインたちは、みな飛ばなくなったという人もいる。
そう。彼女たちは大人になったのだから。
宮崎駿の世界では、「大人になる」ことには特別な悲劇性がある。それが、正反対の二つの世界を隔てるからだ。 一方は人間の無垢と善意のすべてを担い、他方は人間の汚れと罪のすべてを担う。大人になるとは、自分のうちの汚れと罪を知り、子ども時代のエデンから追い出されることなのだ。『ナウシカ』では、虚無がナウシカを甲高くあざ笑う。「足もとを見ろ! 自分の足もとを見るんだ! この死体のなかには、おまえが殺した者もいる! まだ知らないふりをするつもりか? あきれたものだ! いつまでも無垢な子どものふりはできないぞ! 王蟲はもうおまえを許さない! おまえも、愚かで汚れた人間の一人にすぎない! おまえは人間の大人だ! 呪われた種族の血を受け継ぐ女だ! 死者たちと一緒に、苦しみのなかをさまようがいい!」
ナウシカが王蟲とともに森となることで自らの罪から逃れようとするのなら、宮崎駿は子ども時代の世界へ隠れることで、人間であることの罪から逃れようとしている。だからこそ、その夢はこれほど美しく胸を打ちながら、同時に「落ち着きがなく」「ほころびだらけ」なのだ。宮崎は目覚めることを拒みながら、目覚めずにはいられない。『崖の上のポニョ』は間違いなく童話だが、そこにも、人間であることを嫌って海に住みついたフジモト――ポニョの父親――という人物を通じ、心の底の暗い感情が託されている。宮崎は、東京が水に沈む日を生きて見届けることが自分の夢だと語った。『崖の上のポニョ』は、その願いを叶えたのだ。自然に呑まれ、それからアトランティスの廃墟をそぞろ歩くという願いを。

『千と千尋の神隠し』では、大人になることは食い意地の張った豚になることだった。そして『紅の豚』は、大人に宛てた童話である。『紅の豚』は最もわかりやすく、同時に最もわかりにくい。最もわかりやすいのは、中年男の執着とロマンを描いているからだ。最もわかりにくいのは、中年男のロマンと執着を描いているからだ。面白いことに、『魔女の宅急便』も『紅の豚』も、もともとは鈴木敏夫が宮崎の気晴らしにと持ってきた仕事だった。一方はクロネコヤマトの広告、もう一方は日本航空の広告である。ところが二人でああでもない、こうでもないと話をつないでゆくうち、収拾がつかなくなった。『紅の豚』の企画は、初めから宮崎自身が筆を執っていた。鈴木が驚いて、なぜ主人公を豚にするのかと尋ねると、宮崎はむっとして、好きだからだ、と返した。当初の脚本は冒頭で空賊と戦う十数分だけだったが、ジーナが現れると話が面白くなり、そのまま続いていった。それに伴い、紅の豚がなぜ豚なのかも、答えを出すべき問題となったのである。
ポルコが銀行で報酬を受け取るとき、行員は尋ねる。「国債を少し買いませんか。祖国への貢献にもなりますよ」。ポルコは淡々と――いつもどおり、粋に――答える。「そういうのは、あんたたち人間の仕事だろう」。 豚は人間ではない。だから、人間としての義務も責任も負わなくてよい。「国家も法律もない」。こうして豚は、自ら人間社会を離れることの象徴となる。森に溶け込もうとするナウシカと同じだ。飛行機の逆説が、また現れる。ポルコが自ら人間社会を離れるのは、もうファシストの空軍のために命を懸けたくないからだ。だが、飛ぶ快感にはなお心を奪われている。だから、「飛ばねぇ豚は ただの豚だ」と宣言するほかない。3 そう言うポルコに、ジーナは「ばかなことを」と怒鳴る。傍らで見ている私たちは、苦笑するしかない。映画館でフェラーリンに空軍へ戻るよう勧められると、ポルコは「ファシストにはなりたくない。賞金のためだけに飛びたい」と断った。そこで思い出すのが、冒頭の意味深な言葉だ。「戦争で金を稼ぐ奴は悪党、賞金を稼げない奴は無能、借金まみれの奴は空賊」。ポルコは戦争で金を稼ぎたくなかった。だから、何ものにも縛られない豚になった。借金まみれにもなりたくなかった。だから、空飛ぶ豚になった。これが、この問いへのいちばん簡単な答えである。
さらに掘り下げるなら、戦争で仲間が墜ちるのを見た後、雲海の平原で、逝った飛行機が一列になって遠くへ流れてゆく光景に出会い、何もかもに疲れ果てて、自ら人間社会を離れ、豚になったのかもしれない。あるいは、ジーナと自由のあいだで自由を選びながら、ジーナへの後ろめたさを抱き、自責から逃れるために豚の姿を取ったのかもしれない。ポルコは二度、もとの姿に戻る。一度はフィオの寝ぼけまなこのなかで。もう一度は、ジーナがやさしく彼を叱り、そのまま去っていった後で。あのとき彼が何を考えていたのか、誰にわかるだろう。けれど、真相がどうかは、実はさほど重要ではない。大切なのは、気だるさを装ったあの執着こそが、彼のロマンを生んでいるということだ。ジーナもフィオも、おそらくそこに惹かれたのだろう。気だるいのは、大人だから。執着するのは、子どもだから。
『紅の豚』と『風立ちぬ』は、宮崎駿のアニメーションで、大人を主人公とするただ二つの作品だ。どちらも飛行機を軸に展開し、主人公の性格もよく似ている。ポルコも二郎も飛行機に魅せられ、それを罪に染めたくないと願っている。違うのは、ポルコの飛行機は彼自身のものなので、何に使うかを自由に決められることだ。一方、二郎は戦争のために飛行機を設計する人間であり、飛行機への愛が必ず災厄を招いてしまう。ポルコは自分の罪から逃げることを選び、二郎は自分の罪と向き合うことを選んだ。二人が示すのは、「大人になる」ことの二つの姿である。

四、引き裂かれた愛
『ハウルの動く城』も『風立ちぬ』も戦争を扱うが、前者では戦争が恋愛に奉仕し、後者では戦争と恋愛が並行して進みながら、互いを映し出す。少年と少女の出会いは、宮崎のアニメーションではいつも、情熱がほとばしるきっかけだった。だが、それまでの作品を見渡せば、恋愛は見え隠れするばかりで、真に主題となったことはなかった。小さな英雄たちは、言葉にしなくても通じ合うものによって近づく。まるで同じ秘密組織の一員で、出会った瞬間に合言葉を交わし、その後はずっと互いを信じ、忠実であり続けるかのようだ。宮崎は初めて恋愛を前に苦闘する。その横で、鈴木と私たちは面白がっている。
ハウルは流れ星と契約を交わし、それ以来、心を持たない放浪者となって、子ども時代の無邪気さを永遠に保ち続けている。宮崎はソフィーを世話焼きのおばあさんの姿で登場させることで、照れながら亡き母への愛を表しているのかもしれない。ナウシカもクシャナも、母親から十分な愛を受けられなかった。ナウシカの母は子どもたちの死に苦しみ、クシャナの母はヴ王に毒を盛られ、心を病んで身内の顔さえわからなくなった。毒を盛られた母の姿は、宮崎の母が患った肺結核の隠喩である。母の病は『となりのトトロ』にも描かれている。宮崎の母は病床で、自分が長くは生きられないと知り、涙ながらに子どもたちへ自立を教え、宮崎を過度に庇護することはなかった。そのため、もともと体の弱かった彼は、いっそう自分の殻に閉じこもるようになった。宮崎はずっと、アニメーションのなかで自分の傷を癒やそうとしてきた。だから、彼の描く多くの女性は、多かれ少なかれ母性の輝きと、強く自立した性格を帯びている。ナウシカとクシャナは、その両極であり、二つの原型だ。王蟲であれ無邪気な蟲使いたちであれ、ナウシカはやさしく「子どもたち」と呼ぶ。クシャナについては言うまでもない。ナムリスに結婚を迫られても顔色ひとつ変えず、戦場では自ら先頭に立つ。一人は母性のすべてを受け継ぎ、もう一人は強さと自信のすべてを受け継いだ。その後、夢の世界に現れる女性たちは、みな多少なりともこの二人を混ぜ合わせた存在だ。『天空の城ラピュタ』の女海賊は、獰猛な外見の下に知的な心を隠し、『魔女の宅急便』のおソノは、故郷を離れたキキを世話し、支える。『もののけ姫』のエボシは、性格のうえではクシャナに最も近いだろうが、同時に、自分の民の頼みの綱であり、心の支えでもある。『崖の上のポニョ』のおばあさんに至っては、宮崎に直接、母を思い出させ、悲しみの涙を流させた。
『ハウルの動く城』へ戻ろう。ソフィーは、もっと風変わりで面白く、それでいて当然ともいえる仕方で、ナウシカとクシャナが体現する対照的な性質を調和させる。もちろん、姿の変化を心の年齢の投影と見ることもできる。けれど、その心の年齢は何で測ればよいのだろう。むしろ、ソフィーは強く自信に満ちているときには少女へ戻り、慈しみをもって辛抱強くハウルの面倒を見るときには「母親」になるのだ。それに対してハウルは、しばしばわがままな子どもっぽさを爆発させる。髪が青くなったと泣きわめき、王室から戦争へ呼び出されるのを怖がり、ソフィーに母親のふりをさせて、代わりに欠席を申し出てもらう。どれも、母に頼る子どもの姿を表している。こうしてソフィーにもまた、母親の姿が重なる。宮崎が自分の恋愛観をアニメーションに託すのが初めてだとすれば、彼はどちらかといえば伝統的な側に属する、と私たちは言うかもしれない。妻には、夫を陰で黙って支え、頼れる存在になってほしいと望んでいるのだ。同じ恋愛観は『風立ちぬ』にも投影されるが、二郎と菜穂子は、より大人びて落ち着いている。――それでも、その落ち着きが、何も顧みない激しい思いを覆い隠し、消してしまったわけではない。その落ち着きは額縁となって、支え合いながら残酷な日々に立ち向かう二人の、胸を打つ姿を永遠に留めた。

二郎はアシタカの冷静さと執着を受け継ぎながら、アシタカにはない衝撃と啓示をもたらす。仕事においても恋愛においても、二郎の選択には、罪の影が寄り添って踊っているからだ。飛行機の壮麗な美には、戦争という生贄が捧げられる。二郎の愛の痛ましい美には、菜穂子の衰弱という生贄が捧げられる。二郎はすでに子どものころから、飛行機が吐き出す死の気配を嗅ぎ取っていた。だが、それを考えたくはなかった。戦争を司る者たちが飛行機への要求を突きつけても、我関せずと耳を塞ぐ。菜穂子と結婚すれば妻の肺結核は治らなくなると知りながら、妻がそばにいなければ安心して仕事ができないというだけの理由で、黒川の説得を退ける。これは身勝手と呼ぶほかない。ただ、貴いのは、その身勝手を菜穂子が黙って受け入れ、いや、彼女自身もそう望んでいることだ。いちばん美しい自分を夫に見せ、それから風とともに去ってゆく。二郎は二重の矛盾のなかで、悲しみ、苦しみ続ける。最後にはすべてが砕け散ると初めから決まっていても、ついには、できる限りを尽くし、全力を注ぐことを選んだ。カプローニが、初めて出会った草原を指して言う。「ここは私たちの夢の王国だ」。だが、二郎は答える。「僕には地獄に思えます」。
自分の罪を知りながら、それでも恐れずに生きることを選ぶ。この、自らを食い尽くす苦しみは、二郎だけのものではない。ハウルのものであり、アシタカの、ポルコの、クシャナの、ナウシカの、そして宮崎駿のものだ。『風立ちぬ』の当初の脚本では、菜穂子の幻が夫に両腕を広げて告げるのは、「生きて」ではなく「来て」だった。4 私には、その声がこう聞こえる。――来て、あなた……この世での務めはもう終わった。力の限り、理想に近づこうとした。いまこそ、自分の罪を償うときなのだ。鈴木敏夫によれば、宮崎はもとの結末のほうを好んでいたという。これは、『ナウシカ』を描いていたころの宮崎の心の葛藤が、いまも終わっていないことを意味するように思える。ナウシカの口を借りて語った解放への道は、ひと曲がりして、また虚無へ戻ってきたのだ。
夢のなかでナウシカは聖なる僧の骸骨に出会う。骸骨は告げる。人類は呪われた種族であり、焼き尽くしてこそ世界は生まれ直せるのだと。ナウシカは虚無の正体を暴き、涙を浮かべて目を覚ます。粘菌の集まる地へ飛んだ彼女は、そこで旋回する蟲の群れと、死のなかから芽生える森を見る。王蟲の言っていた、救いを求める南の森とは、苦しみにもがく変異粘菌のことだったのだ。蟲たちが伝説の大海嘯を起こすのは、食べるためであると同時に、食べられるためでもあった。人間も変異粘菌と同じで、森とひとつになって初めて安らぎを得られる。そう考えたナウシカは、虚無の前に屈した。王蟲とともに森となり、死をもって世界の新生を迎えようと決意する。
「虚無の言うことも間違ってはいない。私たちは呪われた種族なのだ。大地を傷つけ、奪い、汚し、すべてを焼き尽くすことしかできない……もともと、とても醜い生き物なのだ……蟲たちのほうが、私たちよりずっと美しい。いまさら許しを求めても意味はない……王蟲は大地の傷をいたわり、生きたまま腐海の苗床になる。私も森になろう。生きたまま木になれるのなら、私も一緒に行かせて」
こうして、永遠の浄化が始まった。

五、虚無と新生
チククとチヤルカは、新しく生まれた大地でナウシカを捜し、森の人セルムに出会う。セルムは二人に、ナウシカはいま王蟲の心の深淵を見つめており、その崖から戻るかどうかは、彼女自身が決めなければならないと告げる。そのとき、ミラルパの影がナウシカの心の奥へ入り込んでいた。神聖皇帝の惨めな素顔を見た彼女は、それでも憐れみから、彼を連れて森を抜けることを選ぶ。セルムはナウシカに言う。「この森はあなたの心のなかにあります。闇から来た者は、闇へ帰るべきです」。ナウシカは反論する。「私の心のなかにも、闇はあります。これが私の内なる森なら、彼も私の一部です」。 セルムは微笑むばかりで、何も言わない。ナウシカとセルム、そしてミラルパの影は、腐海の尽きるところへ着いた。そこは、よみがえった世界だった。影は救われ、高らかに笑いながら遠くへ消えてゆく。ナウシカは踏み傷つけた草花から足先を引き、涙をこらえて立ち去る。「千年か、それよりもっと時が経って、あなたがもっと広く、もっと強くなり、私たちも滅びずに、もっと賢くなっていたら、そのとき、またあなたのもとへ帰ってきます」。彼女は現世へ戻り、土鬼諸侯国によるトルメキア侵攻を止めようと決める。
ナムリスは、弟に忠誠を誓う僧会の粛清に乗り出し、チヤルカをほかの僧たちとともに刑場へ縛りつける。そこへ、ナウシカが風に乗ってやって来た。白い鳥の長い鳴き声を聞いた民衆は、口々に「クルバルカ」の名を叫んで歓呼する。ちょうどそのとき、巨神兵を積んだ浮揚艇が空を横切った。ナウシカは声を張り上げる。「この道の先には、終わることのない憎しみと復讐しかありません。腐海の周りへ移り住み、生きてください。腐海は私たちの業の報いではあっても、敵ではありません。憎しみではなく、友愛を選びませんか」。彼女は人々に、森の果ての楽園を見せる。
ナムリスは、でたらめを言って民を惑わすなと制止する。ナウシカはミトに、ガンシップで巨神兵を攻撃するよう命じる。ヒドラが拘束を振りほどき、人々へ襲いかかった。間一髪、マニ族の戦艦がヒドラへ砲撃を浴びせる。「マニ族はナウシカの道を選ぶ。マニ族に皇帝はいらない!」と彼らは叫ぶ。アスベルが駆けつけ、巨神兵の秘石をナウシカへ投げ渡す。彼女はたったひとり、剣を手にナムリスの大軍と向き合う。炎こそが、彼女の衣の裾だ! ナムリスは笑う。「青い衣の娘よ! おまえも結局、火を使ったか! この怪物を封じていた袋を焼いたのだ。救世主の仮面をかぶったおまえが、怪物をこの世へ解き放ったのだ!」 ナウシカたちとナムリスの軍は入り乱れて戦う。ヒドラにナウシカが捕らえられた瞬間、巨神兵が目覚め、母の敵を灰にする。
ぼろぼろになって操縦席へ戻ったナムリスを待っていたのは、軍を率いて反旗を翻したクシャナだった。苦痛に耐えながら、ナムリスは墓所の主の存在を明かす。ついに、ナウシカは最後の選択を迎える。世界を影で覆うシュワの墓所を壊すのだ。

真相を暴くことは残酷だ。知らぬ者は腐海を災いの源と見なし、巨神兵で森を焼き尽くそうとする。森の人は王蟲を自然の神として崇め、腐海は汚れた世界を浄化するために生まれたと信じる。だが、みな間違っていた。人間も、王蟲も、腐海も、すべて古代の技術が造り出したもの、先人たちの絶望的なあがきだったのだ。墓所の主は苦笑して言う。「どれほど憎しみと苦痛に満ちた時代だったか、想像できるか。有毒の大気、凶暴な陽光、枯れ果てた大地、果てしない死。さまざまな宗教、さまざまな正義、さまざまな利害……それを調停するために、神さえ造ることができた。だが、どの方法も本当にはうまくいかなかった。もう時間はなかった。すべてを未来に託すしかなかったのだ」。こうして彼らは、あらゆる生物の胚を集めて方舟――墓所――に保存し、王蟲の浄化プログラムを始動させ、千年に及ぶ眠りに就いた。では、腐海に暮らす人々は? 新人類の到来を迎えるためのしもべにすぎない。彼らの体は汚染に適応するよう、すでに改造されており、清らかすぎる空気にさらされれば、肺から血を噴いて死んでしまう。何と悲しいことだろう! 「私たちの命は、風や音のようなもの……生きたこだま……やがて消えてゆくのだ」
漫画の最初の二巻をもとにした映画では、ナウシカの神性は一目瞭然だ。か細い体で大地の怒りを鎮め、王蟲の祈りによって死からよみがえる。その姿に、全人類の罪を贖ったイエスの物語を思い起こさずにはいられない。漫画も、ナウシカの救世主としての立場を際立たせている。「その者は青い衣をまとい、金色の野に降り立つ」。予言は二度、成就する。一度目は、王蟲の血で衣を青く染めたナウシカが、王蟲の触手でできた草原に立つとき。二度目は、墓所の主の血で衣を青く染めたナウシカが、朝日に照らされた荒野に立つときだ。しかし、結末へ近づくほど、真相は人々が考えるほど単純ではないとわかってくる。救世主の純粋さに疑問符がつくのである。刑場で人々は、古い密儀の言葉を唱える。「汚れた世界の終わるときが来た。白い鳥が舞い、永遠の浄化の始まりを人の世に告げる。苦しみばかりのこの世に別れを告げよ!」 聞いたクロトワは驚く。「白い鳥は救世主ではなく、死神なのか?」 セルムは答える。「同じ予言の、違う姿です。あるときには生への希望となり、あるときには彼岸への憧れとなるのです」。生へ導く者と、死へ導く者。その二つの姿が、ともにナウシカのなかに響き合っている。 これは『ナウシカ』で最も解きがたい謎である。
死へ導く者という姿を、宮崎は少なくとも三度ほのめかしている。(1)ナウシカがガンシップに巨神兵の胞衣を砲撃させ、誤ってこの世へ誕生させてしまったとき、ナムリスは彼女を「死神の母」と嘲った。(2)庭園の廃墟を去るとき、ナウシカはつぶやく。「この旅は、かえって人類を滅ぼすことになるのかもしれない……それでも、シュワの墓所を壊さなければ!」 (3)墓所の主と対峙したとき、ナウシカは、あらかじめ設計された浄化の神には生きることが何かわからない、と言い放つ。神のなかには決められた予定しかなく、死を完全に否定しているからだ。この最後の啓示において、死は生命に欠かせない一部となる。「あの人たちは、なぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁、その両方があってこその生命なのだと。苦しみも、悲劇も、愚かさも、清らかな世界でさえ消すことはできない。人間の一部なのだから。だから、苦難のなかに生きていても、人間には喜びと輝きがあるのだ」
ナウシカは生へ導く者となるはずが、最後には死へ導く者となった。旧世界の胚も、人間の体をもとに戻す技術も、自らの手で壊してしまった。最後の瞬間まで、自分の行いが正しいかどうか、確信を持てずにいる。「私は、自分の犯した過ちに震えている。あの胚は、穏やかで賢い、私たちのように残酷ではない人間に育つはずだったのに」。もし新人類がすでに大地に生まれていたなら、ナウシカには彼らを殺すことなどできなかっただろう。彼女が否定したのは胚ではない。技術でもない。腐海の住民は、ずっと古代の技術に頼って生きてきたのだから。まして、人工生命に反対したのでもない。腐海も王蟲も人工生命であり、そのなかにも「ぬくもりと友愛は生まれる」のだ。残る可能性は、ただひとつ。ナウシカが抗ったのは、自然に対する浄化の神の傲慢さと、そこから流れ出す濃密な虚無だった。

そもそも虚無とは何か。ナウシカにとって虚無とは、生命には特定の目的があり、それを実現するためなら、現在も生命そのものも犠牲にしてよいと信じることだ。現在が、ただ未来のある目的のためだけに存在するのなら、いまをどう生きようと構わなくなる。そこから虚無が生まれる。それこそが、ナムリスを自暴自棄にさせ、神聖皇帝へと堕落させた根だった。ところが墓所の主にとっては、生命そのものには目的などいらないと信じることこそが虚無なのだ。虚無とは、ナウシカの言う「この星が自らの運命を決める」ということである。そうなれば、あらゆる生命のあり方が正当なものとなり、汚濁と清浄の区別もなくなってしまうからだ。言葉だけにこだわるなら、『ナウシカ』はカントの道徳哲学、あるいは実存主義の変種と解釈されるだろう。生命それ自体が目的であって手段ではない、という点では前者に、永遠の最高価値は存在しない、という点では後者に重なる。ベルクソンの『創造的進化』を当てはめても、うまく収まる。星そのものが巨大な生命と見なされ、一瞬一瞬が絶え間ない創造で、未来はつねに未知であり、その到来を人は心を尽くして祈り求めなければならない。別の説では、宮崎は『ナウシカ』の結末を通じて、かつての共産主義への信仰に別れを告げようとしたともいう。証拠とされるのは、墓所の主の二つの顔がマルクスとエンゲルスに似ていることだ。そして共産主義こそ、人類の歴史にあらかじめ道筋を定める典型なのだという。
だが、私たちが見なければならないのは、ナウシカの答えが旅の全体を背景にしていることだ。彼女は蟲たちの友愛を、粘菌と森の融合を、苦難のなかでも晴れやかに笑う無数の人々を見てきた。生命は自ら道を見つける――そう彼女に信じさせたのは、こうした、ありのままの自然の事実だった。「たとえ私たちの体が人工的に造り変えられていても、私たちの命は私たちのものです。生命は生命の力で生き続けるのです! その日がいつか来るのなら、生きてその日を迎えましょう! 私たちは、何度血を吐いても、その日を越えて飛ぶ鳥なのです! 生きているものは変わる! 王蟲も、粘菌も、草木も、人間も、みんな変わる! 私たちだって腐海と共に生きられる! でも、あなたは変わらない。何もかも、あらかじめ決められた予定でしかない! あなたは死を完全に否定しているから……本当のことを言いましょう! 私たちに、あなたは必要ない!」
シュワの墓所は、世界をもとのままに造り直そうとする。しかし、「それ自体が生命への最大の侮辱であることに、彼らは気づかなかった」。人類の罪は、永遠に死なずにいたいという渇望にある。そしてその渇望が形を変えたものこそ、文明を崇め、守り抜こうとすることなのだ。聖都シュワに封じられているのは、人類の文明のすべてだけではない。命を懸けてその文明を守り、戦争を起こすことさえ厭わない執念もまた、そこにある。この執念を持ち続けるかぎり、人類はいつまでも傲慢で、世界の主人を自任するだろう。その冠が、人類をこの星全体の生命から切り離し、宙を漂う、滅びる運命にある天空の城にしてしまうのだ。

宮崎駿はナウシカの口を借りて、救いへの道を語った。死と共存し、苦しみと共存し、罪と共存すること。生きてさえいれば、すべては少しずつよくなる。生命そのものの力を信じるのだ。 生物学的に見れば、腐海は人間にとって猛毒だが、無数の生き物を養ってもいる。汚濁と清浄の区別は、もはや重要ではない。人類が腐海のなかで生きてゆけるなら、それは汚濁とはいえなくなるからだ。精神の面では、「苦しみも、悲劇も、愚かさも、清らかな世界でさえ消すことはできない。人間の一部なのだから」。苦しみに耐え抜けば、大声で笑う力が湧く。辛抱強くあれば、人はいつか互いを理解できる。生命はつねに変わってゆく。変わり続けているかぎり、いつか転機は訪れる。こう考えてこそ、私たちは理解できる。なぜナウシカがミラルパを森へ導き入れたのか。なぜセルムの申し出を断り、自ら望んで「黄昏の世界」に生きようとしたのか。なぜ二郎は、菜穂子の病を重くすると知りながら結婚を選び、飛行機が死の影を落とすと知りながら「全力を尽くす」のか。
なぜなら、「いのちは闇の中のまたたく光だ」。5
そう、それがどれほど苦しいか、私たちはみな知っている。それでも、『ナウシカ』の最後の一文が告げるように、どんなに苦しくても、生き続けなければならない。私たちは信じなければならない。自分に嘘をついてでも。ナウシカのように、大きな声で叫ぶのだ。「たとえ私たちの体が、あの清らかさに耐えられなくても、次の瞬間には肺から血を噴くとしても、私たちは鳥のようにそこへ飛んでゆく。私たちは何度でも生き抜けると、私は信じている……腐海の胞子は、たったひとつが芽を出すために、何度も何度も降り続ける。芽を出す前に死んでしまうものは、数えきれない。私の命は、死んだ十人のきょうだいに背後から支えられている。どんなに悲惨な命も、その命自身の力で生き抜くことができる。この星では、生命そのものが奇跡なのだから」。
風のなかで始まった物語は、また風のなかで終わる。そこが、宮崎駿の夢の世界なのだ。生きて、とナウシカは叫ぶ。生きて、と菜穂子は叫ぶ。