
もうたくさんだ!
宮崎駿の作品のうち、国際的にもっとも名高いのは、間違いなく2001年の『千と千尋の神隠し』だ。だが、宮崎の作品群を少しでも深く知る観客なら、金熊賞とアカデミー賞の両方をもたらしたこの作品が、彼の作風のすべてを代表しているわけではないと気づくだろう。SFを題材とする『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』から、ファンタジーの『もののけ姫』『魔女の宅急便』へ。『千と千尋の神隠し』よりもさらに温かな童話のような『となりのトトロ』から、徹底して現実を題材とする伝記映画『風立ちぬ』へ。宮崎が監督したアニメーション映画は、題材にも作風にも、かなりの幅がある。一般の批評は宮崎を、童心を失わない自然と人間の詩人として語りがちだが、そうした評価からは、観客にも批評家にも忘れられがちな一作が、確実に抜け落ちている。『紅の豚』だ。重荷を背負った中年男性の生活を真摯に描きながら、同時に超現実的な色彩を帯びるこの作品は、先ほどの「SF―ファンタジー」「童話―現実」という軸の上にさえ、居場所を見いだせない。そのため、宮崎の監督としての歩みにおいて、どうしても収まりきらない「過剰な要素」となっている。その存在は、宮崎作品を整理し、理解するための別の視点が、必ずあるはずだと私たちに訴えつづけている。
まずすべきことは、『紅の豚』をほかのすべての宮崎作品と対置し(『風立ちぬ』さえも含めて)、そのうえで、この対立のもう一方の極がどこにあるのかを正確に探ることだ。『紅の豚』の主眼は、疎外され、灰色の無気力な日々を送る中年男の生活を描くことにあると言えるだろう。彼は戦争の傷を負い(現実の第一次世界大戦をほのめかしているのは、容易に見て取れる)、あらゆるしがらみを断って、人里離れた自由な暮らしを送ろうとする。そのために、もっとも愛する女性とさえつかず離れずの関係しか保たず、さらに若い少女からの求愛も拒む。それに対して、若々しい活力と子どもらしい空想にもっとも満ちている作品は、やはり国際的に高い評価を得たもう一作、『となりのトトロ』に違いない。テクストを額面どおりに読むかぎり(何を考えているかはわかる。だが、それは後にしよう)、『となりのトトロ』には「標準的な」宮崎作品らしい楽観が、まぎれもなくあふれている。暮らしのなかの現実的な困難は、子どもの無邪気さにしか宿らない不思議な力、すなわちトトロの助けによって、たちまち解決してしまう。一方には大人の鬱屈とひねくれがあり、もう一方には子どもの天真爛漫さがある。しかし、この対立を挙げるだけではまったく足りない。大人と子どもがこうして対立することを、当たり前だと受け取ってはならない。さらに問うべきなのだ。両者を分ける根源は、いったいどこにあるのか?
この対立を理解するには、もう一度『紅の豚』を考え直し、主人公ポルコの鬱屈した生活を生んだ源を考える必要がある。ある意味では、宮崎の折衷主義的な美化を経ているとはいえ、ポルコの境遇はそれほど悪くない。第一次世界大戦のエース・パイロットだった彼は、いまも戦闘機を操り、アドリア海の青い空を駆けめぐることができる。親友の未亡人ジーナとは、何とも名づけがたい曖昧な関係を保ち、ひょんなことから若い少女フィオの心までつかんでしまう。だから、ポルコの鬱屈は「心理的な次元」に、「内面」に由来すると言える。劇中、ジーナはポルコのライバルであるアメリカ人飛行士に、ポルコが昼間に会いに来てくれさえすれば、すぐにでも彼と結婚するという趣旨のことを話す。ポルコ自身も、ジーナの好意を知らないわけではない。それでも彼がたまにジーナを訪ねるのは、いつも夜だけだ。会っても話すのは戦争で死んだ友人たちのことばかりで、当然、そのなかにはジーナの前夫も含まれている。

まさにこうした細部に、『紅の豚』の異質な「大人の作風」を読み解く鍵がある。大人にとって、社会生活はまさしく「性化」されている。つまり、去勢を経て、超自我による制約を受ける生活なのだ。ポルコがジーナといつも亡き友人の話をするのも、偶然ではない。友人の戦死が残した象徴的な負債は、非業の死を遂げたハムレットの父王さながら、超自我の亡霊となって取り憑く。ポルコとジーナの関係がこれ以上進むことを禁じ、ポルコに罪悪感を抱かせ、歪んだエディプス・コンプレックスの一幕に彼を巻き込むのである。だが他方で、この映画では、愛し合う二人を隔てるこの超自我の障壁が、「大人ならでは」の一風変わったロマンスを生み出しているようにも見える。ジーナの言葉を、もう一度噛みしめてみよう。ポルコの優柔不断を大戦の残した心の傷から理解できるとしても、なぜジーナまで、ポルコと結ばれるために、昼間に会いに来ることなどという条件を設けるのか? 彼女もこのエディプス的なゲームに加わり、二人の関係を曖昧なままに保とうと、細心の注意を払っているのではないか? 互いを探りながら、二人を隔てる障壁も丹念に守るこの関係こそ、ラカンの論じる「宮廷愛」を成している。ところが、現代人にもっともよく知られた「宮廷愛」の実例を示したのは、セルバンテスが皮肉をこめて描いたドン・キホーテなのだ。その物語で、正気を失ったまがいものの騎士は、騎士道小説の「宮廷愛」を再現しようとする。隣村の娘を高潔な貴婦人と思いなし、自分が幾多の困難を乗り越えて彼女の足もとへたどり着く姿を思い描く。だが、ある意味では、この笑うに笑えないドン・キホーテの「宮廷愛」のパロディこそ、この関係の型の核心を正しくつかんでいるのではないか? 適度な距離を保ち、手の届かない遠い対象と見なしてさえいれば、ただの村娘であっても、欲望の昇華によって貴婦人へと変質しうるのではないか?
こう考えれば、ポルコがフィオを拒む理由も難なく理解できる。おそらく同時に、この小娘が、なぜあの粋なアメリカ人飛行士ドナルドを惹きつけてしまうのかも説明できるだろう。ドナルドにはフィオが手に入らないからこそ、彼にとってフィオは「昇華」されている。逆にポルコは、すでにフィオの心をつかんでしまっているからこそ、彼女を退屈な小娘としか見られない。『紅の豚』が本当に「大人の」作品であるのは、その筋立てが深く「疎外」され、「性化」されている点にある。この作品は、超自我の禁止が欲望を生み出す、この転化のゲームを熟知している。フィオがポルコにとって性的な魅力を保つには、彼は彼女を拒まなければならない(同じように、逆からも言わなければならない。ポルコに拒まれたからこそ、フィオはこの男をどうしようもなく愛してしまうのだ。もう一つ面白い見方を挙げれば、ジーナとフィオの対立は、EVAの綾波レイとアスカの対立の先駆けであり、したがってEVAの筋立ても高度に性化されている)。だから『紅の豚』の恋愛関係は、どれも「甘い哀しみ」なのだ。どれも不可能であることを条件として可能になり、どれもひねくれ、高度に「疎外」されている。
では、一気にもう一方の極へ、「性化以前」の作品『となりのトトロ』へと飛んでみよう。こちらはどうだろうか? サツキとメイは、母の病気のために父とともに田舎へ引っ越し、森のなかで「トトロ」という精霊に出会う。妹のメイは、町の母に会いに行こうと、一人で山林へ走り込む。姉のサツキはトトロの助けを借りてメイを見つけ、母に会う。『紅の豚』に比べれば、『となりのトトロ』はこれ以上ないほど単純だ。暮らしの困難は、子どもだけが持つ無邪気な力によって解決されると約束されている。ここで重要なのは、子どもの純真さだけではない。その純真さに、世界を救う意味が与えられていることだ。『となりのトトロ』の世界には、『紅の豚』のようなエディプス的な場面は存在せず、自分で自分を妨げる必要もない。どんな困難も、子どもの純真な力が呼び出す精霊が解決してくれる。この子どもの世界には、世界そのものに内在する、埋めようのない欠如がない。だからこそ「性化以前」であり、「去勢以前」なのだ。『となりのトトロ』は、暮らしにより深く根差した舞台に、ピーター・パンの姿を甦らせた。ピーター・パンの物語では、子どもたちは彼に導かれ、日常生活の鬱屈を離れて、尽きることのない喜びを味わえる。『となりのトトロ』のもっとも見事なところは、この子どもだけの喜びを、暮らしに根差した舞台、そして自然に親しむ田園牧歌的な想像力と結びつけた点にある。精神分析の言葉で言えば、実体のない精霊であるトトロは、対象aに姿形を与えた存在だ。トトロは、奇跡のような充足を仮想的なかたちで日常のなかにもたらす。
この点から理解できるのは、宮崎作品の物語内容だけではない。美術表現の形式も見えてくる。宮崎の映画は、現実の日常を題材としていても、飾り気のない素朴な画風からはほど遠い。より正確には、宮崎の映画は「スペクタクルを見せる映画」へと傾いている。それは、彼のSF映画のように、日常生活を超えた壮麗な光景を見せるからだけではない。ほとんどフェティシズムに近い筆致によって(『借りぐらしのアリエッティ』をめぐってジブリと種田陽平が協働したことに、何か驚くことがあるだろうか?)、観客に「純真な、新たな感性」を育もうとするからだ。そうして観客は、日常生活の背景にある心を動かすものを再発見し、日常生活をふたたび肯定できるようになる。

しかし、ここでもこれまでどおり、対角にあるものと照らし合わせてみよう。宮崎の映像が認識にもたらす独特の効果を明らかにするには、アニメーション映画のスペクタクルという軸の上で、対立するもう一方の極を探す必要がある。ここまで来れば、押井守のアニメーション映画を振り返るのは、ごく自然なことだ。押井の作風がもっとも鮮明な三作、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』『イノセンス』『機動警察パトレイバー 2 the Movie』には、いずれも物語の展開からほとんど離れた、長大なスペクタクルの場面がある。宮崎の映画と共通するのは、そのスペクタクルが日常生活の奥深くに組み込まれていることだ。香港の狭い街路をモデルにした新浜市の街並み。「チャイニーズ・ゴシック」の混交した様式を取り込み(もちろん、ここでも種田陽平!)、魑魅魍魎が乱舞する択捉のパレード。進駐してきた自衛隊をたちまち呑み込んでしまう、冬の東京の風景。だが、宮崎と違い、押井作品のスペクタクルはすべて、観客がその日常生活を肯定し、受け入れていること自体を問い直そうとする。いったい、サイボーグなのは誰なのか? 義体を持つ人間なのか、それとも雑然とした外観の下で秩序を生み出しているこの都市なのか。真のデカルト的主体は誰なのか? 神格化された物なのか、それとも物と化した人間なのか。私たちは平和のなかに生きているのか、それとも戦争のなかにいるのか? 戦争なら、とうに始まっている――『パトレイバー 2』が突きつけるのは、そうした認識だ。だから押井によるスペクタクルの使用は、宮崎作品のように、何らかの「よりよい」まなざしを通して、日常生活を心地よくしてくれるものを再発見することだとは見なせない。厳密な意味で、それは日常生活のなかにあり、耐えがたいものでありながら黙殺されている、恐るべき現実界の核を再び掘り起こすことと見なさなければならない。日常生活に内在する、もっとも深い疎外をもたらす矛盾と断裂を掘り起こし、日常生活の曖昧な両面性を容赦なく暴くからこそ、押井の作品も当然、「大人」のエディプス的世界に属するものとして位置づけなければならない。

さらに、もう一度『となりのトトロ』に戻り、その筋立てと、1904年の舞台劇に始まるピーター・パンの物語との共通の根をあらためて探ると、この「脱性化」された物語に、ある「性化」された起源があるという皮肉に気づく。陽気で活力に満ち、老いも死にもしないピーター・パン。その源は、ギリシア神話の牧神パンにあると考えられる。同じく陽気で活発な、ただし同時に、性的な意味でも活発な存在だ。ここで私たちは、宮崎の自由奔放で子どもらしく無邪気な空想における「抑圧されたものの回帰」に遭遇する。よりキリスト教的な文脈では、「不老不死」こそ異教の邪悪な力を表すのではないか? キリスト教とギリシアの異教とが袂を分かつ点の一つは、神自身の受難を通じて、死後の生ではなく、死への敬意をキリスト教が初めて導入したことにある。欠けるところのない不死の身体は、つねに吐き気を催す恐怖と結びついている。死を免れないという不完全さのなかでしか、私たちは静かな安息を取り戻せない。作品に直接結びつけることはできないにせよ、宮崎自身が2018年の高畑勲の追悼会で述べた「僕らは精一杯、あの時、生きたんだ」という言葉や、生命力に満ちた会場のしつらえは、いずれも宮崎自身が死を否認し、生命が無邪気なまま永遠に続くことを望む、こうした異教的な姿勢を示しているのではないか? もちろん、その姿勢そのものに、ただちに反対する理由は何もない。問題は、それがいとも簡単に、正反対のものへと転化してしまうことだ。そして、この正反対のものは、観客が『となりのトトロ』を受け止める過程にも現れている。これが、先ほど触れるのを避けた話題である。
その無邪気な子どもらしさの対極にあるものとは、もちろん、作品の隠れた細部に根拠があるとされる「暗黒解釈」だ。この解釈によれば、美しい田園風景は死者の世界の隠喩であり、サツキとメイは知らぬ間に死んでしまっているとされる。トトロは結局メイを見つけられず、結末に現れるのは迷えるメイの魂にすぎない。証拠は、最後のいくつかの場面でメイに影がないことだという……。こうした解釈は根拠がないからと、簡単に片づけてはならない。荒唐無稽でありながら広く流布するこの解釈の背後から、観客がトトロの世界を組み替え、そこに欠けを持ち込もうとする強い願望を、慎重に捉えるべきなのだ。大人の観客にとっては、無条件で喜びを得られ、同時に静かな死まで拒まれるこの純真なピーター・パンの世界こそ、いっそう耐えがたいのではないか? 喜びにじかに、しかも近づきすぎてしまうことは、彼らに吐き気を催させるのではないか? だから大人は、喜びや充足と適度な距離を置き、自分と喜びとの「宮廷愛」の関係を保つために、『となりのトトロ』の暗い面を想像する必要がある。そうしてようやく、この作品を受け入れられるのだ。この暗い面を、無邪気な子どもらしさが必然的にもたらす帰結と見なしてこそ、私たちは宮崎が高畑勲の死にふさわしい喪の手続きを用意しなかったと批判できる(ジブリ美術館での追悼会は公のものだった。もっと私的な場では、すでに喪の作業がなされていたのかもしれない)。宮崎は、死者の残した象徴的な負債を、象徴界で構造化して清算するのではなく、想像的な次元で再び呼び起こそうとしたのだ。
純真な子ども時代へのこうした反動が、宮崎の作品群の「子ども―大人」という軸の中ほどにある作品に、拭いがたい内的緊張を生む。これらの作品には、一方で、子どもの無邪気さに立ち返り、大人の世界の疎外に抗おうとする強い衝動がある。他方で、「大人にならなければならない」という切迫感も、ほのかに漂っている。このテクスト内の緊張を適切に扱ったのが、『魔女の宅急便』だ。魔女のキキは、仲間の助けによって魔法を取り戻すものの、飼い猫のジジとはもう話せなくなる。登場人物の会話から観客が読み取れるのは、意味深い説明だ。ジジとキキが話せたのは魔法のためではなく、互いに心が通じ合っていたからであり、いまはただ、それぞれが自分の生活を持つようになっただけなのだ、と。去勢は、主体が最終的には受け入れざるをえない出来事である。それは、主体が倫理の世界へ入るための不可欠な条件でもある。キキの場合なら、町の有機的な共同体に真に受け入れられるための条件なのだ。したがって『魔女の宅急便』は、性化以前から性化へと至る過程を描く映画であり、大人へと向かう切迫感が、そこにははっきりと表れている。

だが『魔女の宅急便』とは正反対に、『千と千尋の神隠し』の主題はむしろ、「大人の世界の疎外を癒やすために、どうすれば大人にならずにいられるか」だ。『千と千尋の神隠し』が「豚になる」というモチーフを再び用いたこと自体は、それほど驚くべきことではないとしても、『紅の豚』との際立った並行関係が、しばしば観客に見過ごされているという事実は、まったく不可解だ。もっとも、同じモチーフでも、二つの映画での使われ方は天地ほども違う。『紅の豚』では、「豚になる」という疎外の苦しみが、同時にポルコという人物に大人の味わいを加え、人物の「深み」を増している。だが『千と千尋の神隠し』では、「豚になる」ことには負の要素しか残っていない。大人の飽くなき欲への報いとして、千尋の両親に降りかかり、子どもである千尋の純真な力を借りて初めて、彼らは呪いから解放される。子どもの純真さが世界を救うという、『となりのトトロ』にあったモチーフが再び現れ、『千と千尋の神隠し』と『魔女の宅急便』のあいだに大きな対照を生む。後者の物語では、新しい共同体の成立は、古い共同体の取り返しのつかない解体を前提としていた。それに対して前者の物語は、一つの有機的な家族が解体の危機に瀕するところから始まり、主人公が「神話的冒険のサイクル」をたどる。英雄が故郷を離れて旅に出て、仲間と出会い、困難を経験し、成長を遂げ、故郷に帰るというサイクルだ。そして最後には出発点へ戻り、家族を再建する。『千と千尋の神隠し』は、この「神話的冒険のサイクル」を反転させ、文字どおり元に戻る循環にしてしまう。その核心は、「冒険を通してどう変わるか」というより、「冒険を通してどうすればすべてを変えずに済むか」なのだ(家族を再び偉大に!)。
この保守的な方向性に対し、再評価されるべき新海誠の長編アニメーション映画『星を追う子ども』を対置しよう。この映画へのもっとも辛辣な批判は、間違いなく、新海による宮崎作品の下手な模倣だというものだ。その批判に反論するつもりはない。ただ、一点は指摘しておく必要がある。新海は宮崎を反復しながら、まったく彼自身の作風に属する差異を持ち込んでいる。それは、新海の真摯な作品すべてを貫く「性関係の不可能性」だ。主人公アスナの、気恥ずかしいと悪名高いあの独白――「私、ただ寂しかったんだ」。主体の核心をなす空白に直接触れるこの自覚は、もっとふさわしい場面に置かれていれば、必ずや「幻想の横断」にも匹敵する解放の力をもたらすはずだ(少し唐突な場面に置かれただけで、なぜこれほど気恥ずかしくなるのかも、これで説明できる。そこに潜む解放の力はあまりに衝撃的で、まだ準備のできていない観客は、まずそれを拒絶してしまうのだ)。また、『星を追う子ども』が結末で死者の復活を拒むことによって、異教の邪悪な奇跡に抵抗するキリスト教倫理を貫き通した点も、指摘しなければならない(死者の復活を拒むことは、ラテン=セム系の文化的背景だけに属するわけではない。日本でも、イザナギがイザナミを探して黄泉の国の奥へ入り、ほうほうの体で逃げ帰る神話に、同じことを見いだせる。『星を追う子ども』が直接参照した神話的要素は、むしろこちらである可能性が高い)。死は、人間が越えることのできない有限な地平として受け入れられる。そして実際には、ハイデガーの「死への存在」をめぐる通俗的な解釈とは異なり、ヘーゲルによれば、死すべき存在のこの有限な地平こそ、永遠性が生まれる場所なのである。『星を追う子ども』は、「病的」な恋愛を症状として描く新海自身の一連の作品をさえ、乗り越えている。『星を追う子ども』においてのみ、登場人物は、欠如の周囲に組み立てられた自己制限の症状ではなく、構成的欠如そのものと向き合えるのだ。

『千と千尋の神隠し』に戻ろう。この宮崎作品が保守主義的な循環によって避けようとしたのは、まさに新海の映画で見た構成的欠如だ。『千と千尋の神隠し』は、その欠如を大人の世界に属する歪んだ疎外として非難し、子どもの無邪気さによって癒やすべきものとする。もう一度言うが、この美しい願いそのものを否定する権利は、誰にもない。だが問題は、やはり子どもの無邪気さで大人の疎外に抗おうとする願いが引き起こす、その帰結にある。その帰結が政治の領域で全面的に噴き出したことが、宮崎の最後の作品『風立ちぬ』をめぐる主な論争をもたらした。この歴史伝記映画が主人公・堀越二郎の幼年時代から始まるのは、理由のないことではない。映画のなかの彼は、基本的に、幼いころの人格がそのまま延長された人物だからだ。堀越二郎の飛行機への尽きることのない愛は、「性化」のヒステリーを免れ、まったく無邪気なものになっている。したがって『風立ちぬ』は、徹底して現実の歴史を舞台としながら子どもの無邪気さを貫き、傷だらけの日本近代史を救済しようとする宮崎の試みと見ることができる。しかし、その試みこそが、観客のこの映画への拒絶感を生んだのだ。
ここでもまた、その拒絶が生まれる理由を、物語の内容のなかに探る必要はない。映画の映像表現の形式にこそ、見いだすべきなのである。堀越二郎が海軍の空母で艦載機の離着艦を見学する場面では、物語の背景として、観客は再びもっとも純粋な映画のスペクタクルに遭遇する。長門型戦艦を含む海軍の軍艦が、次々と画面に姿を見せる。もっとも深刻なのは、宮崎がいつもの純真でフェティシズム的なまなざしをこれらの対象に押しつけるとき、許しがたいことに、同時にそれらの政治性を取り去り、「中立化」してしまう点だ。この「中立化」は、対象に複雑に絡み合う社会的・文化的な関係の網を剥ぎ取る。軍艦は、日本帝国が膨張の野望を実現するための戦争機械であり、軍部が国家財政を牛耳る原因であると同時に、その結果として生み出されたものでもある。そうした背景を切り離し、純粋に物質としての、工業が生み出すスペクタクルにして見せるのである(ああ! 人間の知恵と労働の壮麗な結晶、大工業文明の奇跡よ!)。映画の物語に戻れば、堀越二郎の「初心を忘れない」無邪気な一面を描くこともまた、日本帝国の軍事産業機構に積極的に参加した彼の行為を「中立化」することではないか? 帝国政府による進歩的な人々への残酷な迫害を、折衷主義的に描く場面にさえ、この容認しがたい罪を「美化」している疑いがある(物語で迫害されるのはドイツ人であり、「友邦」の国民という身分を考慮すれば、せいぜい国外追放にとどまる。1928年と1935年の二度にわたり、大規模な一斉検挙によって投獄され、非業の死さえ遂げた日本共産党員と比べれば、まるで賓客待遇だ)。
したがって、宮崎の一貫した「美学化」の作風を、もはや政治的に中立とは見なせない。この「政治の美学化」こそ、プロト・ファシズムの特徴だからだ。ここで私たちは、レーニンの見解を改めて述べなければならない。ブルジョアジーの支配に反対していない者は、それを支持しているのであって、中間の選択肢など存在しない。いわゆる「中間の選択肢」とは、巧妙に偽装された反動政治への支持なのだ。宮崎の純真な「中立化」への願いは、それ自体が正反対のもの、すなわち紛れもなく政治的な傾向にほかならない。これこそ、もう一つの「胸を打つ」ジブリ映画『火垂るの墓』が、戦争被害国の観客にはすんなりと共感を呼ばず、批判さえ受ける理由でもある。この映画にも見られる「中立化」の操作は、語りの視点が、政治的傾向とは無関係な無邪気な立場に立てると想定している。そのため、ジブリ映画の血なまぐさい第二次世界大戦は、天から降ってきた自然災害、たとえば『風立ちぬ』の関東大震災と、さほど変わらなくなってしまう。だが政治の領域には、そんな中立の位置は用意されていない。「一が二に分かれる」この場では、一方の勝利がもう一方の敗北なのだ。核心にある論点を、もう一度述べよう。ジブリ映画に満ちる、一見「中立的」で折衷主義的な「脱政治化」の態度は、それ自体が「政治に別れを告げる」という政治的決断に依存している。それだけではない。この態度は、ことによると最悪の政治的傾向さえ意味している。工業の奇跡に向けられた純真なフェティシズムを、その社会的背景から切り離そうとする、プロト・ファシズムの政治的無責任である。もっとも傑出し、同時にもっとも邪悪なナチスの宣伝映画『意志の勝利』を見たときにも、同じような不快感を覚えるのは、何ら不思議ではない。この映画も、ナチ党が威勢を誇示する政治集会を、「無邪気」に、「中立的」に、「美学化」しようとする意図を隠しもしないからだ。この政治的傾向が避けがたく入り込むからこそ、宮崎が讃えようとする子どもの純真さは、自らの偽善的で幼稚な一面をさらけ出すのである。

しかし宮崎への批判をさらに進め、浅薄なブルジョア的人道主義の立場から、そのまま救いようもなくプロト・ファシズムの誘惑へ滑り落ちたとするのは、なお早計だ(宮崎の立場がブルジョア的人道主義だという、この基本的な史的唯物論の判断は、まったく明白である。宮崎映画の労働描写が、サービス業や手工業的な小生産者の枠を超えて、大規模生産の細かな分業によって疎外され、同時に団結しているプロレタリアートの集団へ、本当に踏み込んだことが一度でもあっただろうか。そう自問すればよい。『風立ちぬ』では、日本帝国の比較的成熟した航空機製造業でさえ、『紅の豚』の小さな手工業の工房と大差がない。それも道理である。単葉のレシプロ機の時代に、ミラノの工業地帯にこうした小さな手仕事の工房が現れること自体、奇妙ではないか?)。鍵となるのは、もう一度『紅の豚』に戻り、ある意味で「大人の疎外」を象徴する「豚になる」というモチーフに立ち返ることだ。『紅の豚』の主人公は、思いがけず、政治を知らないからではなく、政治から距離を置く冷ややかさによって、プロト・ファシズムの誘惑を退けることに成功する。ファシストの空軍に入るくらいなら豚のままでいるというポルコの態度は、ひねくれて「疎外」された人格の、ごく自然な延長ではないか?
子どもの純真さによって大人の疎外の苦しみを癒やそうとする試みが、正反対のものへ転じ、ついには失敗した今日、私たちは「疎外」そのものに潜む解放の可能性を、もっと真剣に考えなければならない。人間の主体が疎外されているからこそ――より正確には、二重に疎外されているからこそ、すなわち分離されているからこそ――、自らの身体と象徴的な身分を形づくる、自然と文化の歴史的背景に、つねに完全には融け込めないからこそ、主体は「存在の大いなる連鎖」の束縛を打ち破れるのではないか? 時代にそぐわぬまま背景を離れ、真の出来事として唐突に現れ、歴史の潮流を押し進める力に抗い、「流れに逆らって」そこから距離を取り、自らの政治的・倫理的立場を築けるのではないか? ラカンが「死の欲動」と呼ぶこの特殊な能力は、存在論的な政治の袋小路を打ち破るだけではない。その袋小路では、私たちはハイデガーのように、「この運動の内なる栄光と偉大さ」のなかへ自らが「投げ込まれる」ことを許すしかない――彼がそのとき指していたのは、ほかならぬナチスだった。1
さらに言えば、死の欲動が、あるいはヘーゲルの言葉で言う悟性の分解する力が、動物のように惰性的に自然と直接一体化した状態から、主体を引き離したからこそ、存在論の領域そのものが成立しえたのである。ハイデガーは『形而上学入門』で、人間の存在構造に刻まれたこの分解の傾向に、まったく気づかなかったわけではない。だが宮崎と同じように、彼はあまりにも早く、この分解から退いてしまった。宮崎にとっては、『紅の豚』こそが全作品の基調を定めた、トラウマ的な作品であるかのようだ。それ以外の彼の努力はすべて、性化以前の無邪気な姿勢によって、『紅の豚』の「疎外」のトラウマに抗うことにほかならない。そして、その努力の失敗こそが、見事に私たちに教えてくれたのだ。この最小限のエディプス的なもつれ、プロト・ファシズムの誘惑から私たちを遠ざけておくこの傷こそ、自由を取り戻すための条件にほかならない、と。

編集部より:議論のなかでの鱼板氏の言葉を借りれば、宮崎駿の天才と無邪気さは、日常生活をスペクタクルへと変える過程にこそ表れる。そして、まさにそこに彼の危険性もある。日常生活を「再発見」し、肯定するなかで、私たちが見落としている細部こそが肝心なのだ。