屋頂現視研
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特撮三篇――現実界の怪獣、想像の誘惑と父の期待

特撮をめぐる三篇の旧稿。『ウルトラマンレオ』の怪獣、鏡像、父の呼びかけを糸口に、現実界、規律化、想像的秩序を論じる。

著者: 屋顶现视研中国語版校閲: 子厚翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

両仪织の著者用画像。頭部が画外に切れた、赤と青の衣装の人物
両仪织

月の殺人鬼

屋顶の友人から、私が以前書いた特撮の文章を何篇か屋顶に載せたいと言われて、ずいぶん驚いた。自分の力量はまだまだ足りないと思っている。それに、昔の文章は一篇ずつでは薄すぎるし、まとめて出すには散漫でもある。ともあれ、「現実界の宇宙から来たカブト虫と規律化される少年」「鏡の誘惑」「新たな鏡像と父の呼びかけ」という三篇の旧稿をまとめ、手を入れてみた。どうか笑ってやってください。

『ウルトラマンレオ』第25話、『ミラーマン』、『ウルトラマンレオ』第37話のタイトル画面を横に並べた画像。左右の画面では日本語の上に中国語の題が重なる
左右の中国語題字の訳:甲虫は宇宙の侵略者/悪魔の住む鏡。

実のところ、7月1日に狗子が音声で語った特撮論には、私は賛同できない。私の理解では、円谷英二は「イデオロギーのない」技術オタクだ。つまり、円谷の主な貢献は、映像表現へのこだわりによって、特撮という芸術を私たちにもたらしたことにある。特撮の誕生は、決して必然ではなかった。作品の思想的な内容をどう扱ったかについては、円谷一族は一貫して反戦とイデオロギー的中立に傾いていた、それくらいのことしか言えない。もちろん、円谷や「東映のおばちゃん」こと東映の特撮にある、さまざまな言説を批判することはできる。たとえば特撮には、「日常」の秩序を守るという不変の主題がある。多くのエピソードが優れた批評対象となる大きな理由も、まさにそこにある。だが、最初期の特撮が国策映画だったからといって特撮を拒むのは、個人の美的な好みではあっても、適切な批評の態度ではないと思う。

一、真実のカブト虫と優しい子

初めてDVDを借りてウルトラマンを見たのは、小学二年生だったか、四年生だったか。当時テレビではチンギス・ハンのドラマをやっていて、草原の覇者を見ながら、私は『ウルトラマンレオ』のDVDを借りはじめた。最初に借りた一枚に入っていたのが、この第25話だった。だから、とりわけ強く印象に残っている。まあ、レオ中盤の童話めいたエピソードはあまり好きではない。初期の厳しい特訓や恐怖もなければ(ウルトラジープ、黒い百合の女幽霊)、後期の恨みつらみが積もるような重苦しさもないのだから(隊ごと食われるって、なんだよそれ)。けれど今振り返ると、また別の味わいが見えてくる。

ウルトラマンに出てくる子供といえば、私が思い出せるのは梅田トオルだけだ。日本人の言い方を借りれば、この子は「優しい子供」だ。うん、たぶん。

水槽を囲む少年たち。中央のジロウが仲間に抗議している
画像内の中国語字幕の訳:なぜこんなことをするのか。

黄色い服を着ているのがトオルで、仲間たちと一緒に、墨汁入りの「爆弾」を水槽へ投げ込んでいる。おなじみの、悪ガキが動物をいじめる場面に見える。だが、私はさっき、トオルくんは優しい子だと言わなかったか。ここで問題になるのが、「優しい」の特殊な定義だ。狗子の議論を参照すると、日本語の「優しい」には、ある程度、次のような社会的な意味がある。

他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである(他人を思いやる/気遣う)

=(それが社会との関わりを保つ最低限の条件であり、他人を思いやり、気遣わない人は、社会性という点では失格である)。

では、ここであまり「優しくない」のは誰か。そう、この文章で取り上げたい主人公、水槽に身を寄せ、なぜこんなことをするのかと仲間たちに叫ぶジロウだ。仲間が遊びたいという気持ちを思いやれず、仲間の一員としては不適切な振る舞いをしてしまった。ところが狗子によれば、「優しい」は性格ではなく制度であり、その制度のもとでは、常識に背く「優しくない」人など存在しない。実は、この制度を教え込む働きは、レオの主題歌にも見て取れる。

出演者クレジットの画面。上部に「誰もが勇気を忘れちゃいけない」、下部に中国語字幕
著者の読み:誰であれ、「勇敢」でないことは許されない。

画像上部の日本語表示:誰もが勇気を忘れちゃいけない。/中国語字幕の訳:誰もが心の勇気を忘れてはならない。

著者の読み:誰であれ、「優しい」人でないことは許されない。

出演者クレジットの画面。上部に「優しい心も忘れちゃいけない」、下部に中国語字幕
画像上部の日本語表示:優しい心も忘れちゃいけない。/中国語字幕の訳:まして、あの優しく善良な心を忘れてはならない。

そうなると、「優しい」というイデオロギーは一つの問題にぶつかる。優しくない人などいないのなら、どうしてここに、優しいとは言えない行動を取る人がいるのか。続く場面を見ると、ジロウは不安になるような出来事に遭遇していたことが分かる。

歩道橋で百子とカオルに話すジロウ
画像内の中国語字幕の訳:空から有毒なゴミがたくさん降ってくる夢を見た。

著者による台詞の訳:「でも、これは本当だ」(字幕制作グループの訳は正確ではない)。

歩道橋のジロウたち。「但是变成了现实」という中国語字幕
画像内の中国語字幕の訳:しかし現実になった。

著者による台詞の紹介:飼っていたカメが死んだ。

カメが死んだと話すジロウ
著者による台詞の紹介:僕も、もうすぐ……。
不安そうなジロウと、そばに立つ百子、カオル
画像内の中国語字幕の訳:僕も死ぬんだ。

いったい何が起きたのか。ジロウは、ほかの人には見えないものを見た(夢に見た)。そして、自分は死ぬのだと思っている。地球(日本)は安全ではないと信じ、自分の命を本当に守ってくれる保証などないと気づいた。それで、ほかの星へ行きたいと願う。精神分析の言い方なら、症状に遭遇したということだ。

空から有毒なゴミが降ってくるなんて、ありうるのか。そんなことはない。常識に反する話だ。

症状とは何か。それは、現実には存在しないものに遭遇し、いわゆる現実が存在論的に頼りないこと、大文字の他者(以下、〈他者〉)が信頼できないことに気づいて、〈他者〉との結びつきを失い、問題が生じることをいう。だが、そもそも現実なるものは、初めから本当には存在していないのではないか。私たちが今夜、安心して眠れるのは、明日も必ず目を覚ますと確信しているからにほかならない。これはまったく根拠のない誤認だ! 明日目覚めない確率は小さいかもしれないが、その可能性は決してゼロではない。そして、安全を保障してくれると私たちが思っているものは、本質的には幻にすぎない。

あるアメリカの少女は、両親がいつでも自分を守ってくれると信じていた。ところが教会の信徒から暴行を受け、両親は教会の醜聞を隠すため、すぐさま加害者と結婚するよう彼女に強いた。

ここで見えてくるのは、ジロウが恐怖ゆえに、新しい主人のもとへ身を寄せようとすることだ。

訴えかけるジロウの顔
画像内の中国語字幕の訳:美しい星へ連れていってくれないか。

そして、われらがウルトラマンレオの反応も、なかなか興味深い。

MACの隊員たちの前で話すゲン
画像内の中国語字幕の訳:宇宙をパトロールしていたとき、
地球の美しさについて語るゲン
画像内の中国語字幕の訳:地球より美しい星はないと、ずっと思っていた。

これはどういう考え方なのか。自分の求めるあの確信を与えてくれる体制に入れば、いつでも安全でいられる、ということだ。二人の違いは、ジロウが地球(日本)をそうした体制ではないと考えるのに対し、日本人が求める外国人像であるおおとりゲンは、日本こそが最高だと考えていることにある。(ゲンは本質的には、日本人にとって理想的な外国人、あるいは日本人が作り上げた外国人だ。そこには、この秩序の別の興味深い側面も現れている。)狗子の言うとおりだ。

制度へのこうした崇拝(イデオロギー)は、「日本に生まれて本当によかった」という言葉にも現れる。同じように、「日本に生まれて本当に不幸だ」という言葉にも現れる。大切なのは、何を考えているかではなく、どう行動しているかを見ることだ(イデオロギーは一つの実践である)。日本に不満を言う日本人の大部分は、日本が許すやり方でしか日本への不満を口にしない。制度への批判は制度の中に含まれている。制度を攻撃できるように見えること(その幻想)が、制度をいっそう強固にするのだ。

だが実際には、いや、美しい(きれいな)星など存在しない。日本であれ、ジロウの夢のクリーン星(CLEAN)であれ、同じことだ(私としては、劇中のクリーン星人も夢の一部ではないかと思う)。私たちが向き合うべき真実は、自分たちの住む場所の環境が、いつでも人間の生存に適しているという保証などない、ということだ。そのうえ物語の筋では、クリーン星はまもなく、地球から「暗黒森林」さながらの(?)攻撃を受けようとしている。1

ダン隊長に計画を報告するMACの女性隊員
画像内の中国語字幕の訳:隊長、地球防衛委員会は明朝6時、クリーン星に向けて、
報告を続ける女性隊員
画像内の中国語字幕の訳:新型CS137ロケット弾の実験を行う予定です。

童話のような光景。けれど、夢にすぎない。

花々に囲まれたクリーン星人とジロウ
画像内の中国語字幕の訳:ほら、ここが……。

では夢にはどんな働きがあるのか。私には、これこそ無意識が症状を解消しようとする試みに思える。「日本に生まれて本当に不幸だ」。クリーン星だったら、よかったのに。嘆き、よそに憧れる幻想の中で、実は症状はもう解消されている。その症状が少年の夢にすぎないのならば、だ。だが忘れてはならない。症状とは、目に見えない現実界から届く「幽霊のようなメッセージ」なのだ。そして、そのメッセージが示す存在は、現実の秩序の中でも無視できないところまで侵入してくることがある。たとえば、こんな昆虫のように。

角を持つ宇宙昆虫サタンビートルの顔
画像内の中国語字幕の訳:これが宇宙昆虫サタンビートルだ。

字幕制作グループによる黄色い注釈の訳:サタンは聖書で神に反抗する堕天使で、悪魔の象徴。「ビートル」は英語の Beetle の音訳で、「甲虫」の意味。

そう、カブト虫が空から飛んできて、有毒物質を吐きはじめる。言葉を話さない怪物だ。飛んできて、何の問題もないように見える日常を壊すだけ。怪物の出現には、二重の意味がある。「言説の政治と怪物の政治」という文章では、次のように論じられている。

ジジェクによれば、ラカンのいう現実界(the real)こそが「怪物」である。現実界は象徴秩序(人間の「文明」)にとって否定的な参照点であり、そのトラウマ的な核だ。象徴秩序の中で象徴化を拒むあらゆる「怪物」は、現実界が突き刺さってきたものにほかならない。ここで決定的なのは、「怪物」を出現させるのが、人間の「文明」による象徴化と歴史化そのものだということだ。怪物は初めから怪物なのではない。象徴秩序の座標が定める境界を越え、言説に取り込まれることを拒み、いかなる「物語」をも拒むからこそ、怪物になる。だから人間の文明には怪物がいるが、動物の世界には怪物はいない。

この回での二つの意味は、こうだ。一つは、作品の外にいる私たちにとって、怪獣が現実界からの侵入をかたどったイメージだということ。それは本質的には、現実という秩序のトラウマ的な核そのもの、言い換えれば、秩序が本当のものではないという事実そのものだ。その出現は、安全と秩序についての私たちの誤認が、本質的には幻であることを意味する。もう一つは、もっと分かりやすい。ああ、空から有毒なゴミなんか降ってこないんだったよね。じゃあ、怪獣が吐いているあれは何なのか。ジロウが遭遇した症状は、彼一人の妄想だったのか。いや、あちらこそ本当なのだ。

もちろん、現実の秩序は、言葉で怪物を飼いならそうとする。たとえば『レオ』で規律に従わせる役を担う、セブン御大ことダン隊長が、ジロウにかける言葉だ。

ジロウに説明するダン隊長
画像内の中国語字幕の訳:そうだ、ジロウくんを怖がらせていた有毒なゴミは、こいつが出したものだったんだ。

ちょっと待って。その前には、みんな何と言っていた?

ジロウの肩に手を置いて話すゲン
画像内の中国語字幕の訳:でも、今はまだ大丈夫だ。

つまり、ゲンたち体制の側は、もともとジロウの不安を認めていなかった。そこへ怪獣が現れた。すると、うん、君が遭遇した症状の原因はこれだったんだよ、と来る。まるですべてを把握していたかのようだ。

サタンビートルと戦うレオ
画像内の中国語字幕の訳:有毒なゴミを出していたのは、
戦闘中のサタンビートルとレオ
画像内の中国語字幕の訳:クリーン星人に操られたサタンビートルだと、ついに分かった。

ここで、どうしてクリーン星人なんてものが出てくるんだ? そこに(地球を攻撃できる)文明があると知りながら、爆弾を投げ込むのか? お粗末な嘘だ(主な原因は、脚本家の仕事の雑さにあるのだろうけれど)。だがここには、怪物を言説の体制に取り込もうとする試みが見える。怪物は天災であってはならず、(象徴秩序の)論理に従って動く機械でなければならない。この説明が信じるに足るかどうかは関係ない。話の筋さえ通れば、怪物(の存在そのもの)が体制に与える衝撃は処理できたことになる。その後は? その後は怪物を物理的に抹殺し、体制が確かに安全を守ってくれると証明しなければならない(ウルトラマンが倒したものだって、無理やり体制が倒したことにできる)。

戦闘中、レオの蹴りが怪獣に当たり、火花が散る

さて、まだ一つ問題が残っている。症状に遭遇した少年だ。どうすれば彼を体制へ戻し、体制は信頼できると信じさせられるのか。実は夢の中で、すでにこの規律化は始まっていた。

夢の場面でジロウに向き合うゲン。その後ろにクリーン星人が立つ
画像内の中国語字幕の訳:だが、君は体よりも心のほうが弱い。

症状が告げるものに不安を覚えることが、心の弱さと呼ばれる。もちろん、まったく筋が通らない。問題に気づき、怖いと訴えるのが臆病で、問題などないふりをするのが勇敢になってしまう。だがこれこそ、日本の倒錯が現れたものではないか。イデオロギーを崇拝し、その万能を信じる(だからイデオロギーに従う限り、何をしても怖くないし、責任を負う必要もない)。そうして行動する度胸が、勇敢さと責任感の証しになる。逆に、そこへ疑問を向けることが、臆病で無責任になってしまう。そして、この回の結末では。

少年たちに話しかけるゲン
画像内の中国語字幕の訳:降ってこないよ。
ゲンのそばで自分の弱さについて話す少年
画像内の中国語字幕の訳:弱いのは体だけじゃなくて、心もだったんだ。

何の問題もない。さっきジロウが優しくなかったのは、自分が弱かったから。みんなも優しい人なのだから、彼を思いやるべきだ。彼も精いっぱい強くなって、もう人に迷惑をかけないのだから、本質的にはやはり優しい。だから結局、ここには優しくない人など一人もいない。

うむ、これで症状は解決した。少年は象徴秩序の言葉を肯定し、その見返りに、象徴秩序は安全を保証すると約束した。少年はすっかり飼いならされ、症状は抑圧された。もちろん、本当に消えるわけではない。怪物は現実のトラウマ的な核なのだ、と私たちは言う。怪物は消し去れない。それどころか、体制が約束する安全など当てにならないと、何度でも証明してみせる。

たとえば、こんなふうに。

暗がりで円盤生物に呑み込まれていくMACの基地と航空機
MACの基地と航空機が、円盤生物に呑み込まれる場面。

象徴秩序は、何ものにも壊されず、すべてを包み込んで外部などないかのように見える。だが、説明のつかない怪物がいつもそれを突き破り、いくつもの傷口を残していく。一見もっともらしい縫合は、実は不条理で、暴力的だ。そして、秩序の全体性が危機に陥ることも、避けられない。

二、悪魔の名前は母親

『ウルトラマンレオ』第37話「怪奇!悪魔のすむ鏡」は、短いながらも興味深いテクストだ。そもそも、タイトルからしてずいぶん人を引きつける。

見ろ! 鏡だ!

鏡といえば、ラカンの鏡像への同一化を思い出す。もちろん、鏡像への同一化を論じるのに取り上げたい円谷作品は、この回ではなく『ミラーマン』の第1話なのだけれど。それでも、このタイトルは物語の舞台となる領域を確かに指し示している。これは想像界と象徴界の交錯するところで起こる話なのだ。

物語の始まりは、またもウルトラマンが子供と遊ぶ場面。今回問題を起こすのは、いつものトオルではなく、これまで比較的おとなしかったカオルだ。鍵になるのは、こんな人物との出会いである。

木のそばで、着物姿の女性と向かい合うカオル

この人の何が問題なのか。それは後で分かる。

母親の顔写真が入ったロケット

トオルとカオルは幼いころに母を亡くし、その後、父が殺されるところまで目撃した。このトラウマは、ウルトラマンのお兄さんに面倒を見てもらったからといって埋め合わせられるものではない。ましてカオルは、生きているうちに、おおとりゲンがウルトラマンだと知る機会もなかった。そこへ突然、自分の母親そっくりの宇宙人が現れる。そして、その宇宙人のほうも?

カオルを見つめる女性の顔
画像内の中国語字幕の訳:よく似ている。死んだ娘によく似ている。

相手もまた、子供を亡くしたトラウマを抱えている? あまりに都合がよすぎないか。本当にそんな存在が現れたのだろうか。この疑いは、ひとまず取っておこう。続くのは、想像の場面だ。

白い背景の中、母に向かって手を伸ばすカオル
画像内の中国語字幕の訳:お母さん。
同じ白い背景の中で、カオルを押しとどめるゲン
画像内の中国語字幕の訳:お母さん。

いかにも典型的な場面ではないか。これこそ、象徴的去勢の隠喩ではないだろうか。しかもこの場面は、母へ手を伸ばしているカオル(上の二枚のうち一枚目)の、そのときの無意識の中で起きていると分かる。物語の筋の中では、連続した場面になっていないからだ。無意識の中に抑圧されていた去勢のトラウマが、呼び起こされたのではないか。想像的な調和の中にいる母子の間へ、〈父の名〉を代理する他者が現れ、子供が母なる〈他者〉(mOther)へ欲望を向けることを禁じる。同時に、母親のほうも、子供を奪われる苦しみに突き落とす。

だが、考え直してみよう。カオルの意識の中にあるものを、本当のこととみなしてよいのか。トオルも一緒にいたことを忘れてはならない。息子が母親の顔を見分けられないなんてことがあるだろうか。そして後の場面で、マザラス星人はどこにいるのか。

鏡の中へ歩み入る着物姿の女性の後ろ姿

彼女は鏡(想像界)の中へ入っていった!

ここは、こう読めるのではないか。この存在はカオルの想像界から一瞬現れたものにすぎない。だからトオルには、そこに母の姿を見分けることができない。あるいは、トオルにもこうした欲望の原因がありえたとしても、これはカオルの症状なのだ。では、マザラス星人とは何か。対象a(objet petit a)の影にほかならない! カオルが〈父の名〉を受け入れ、象徴秩序によって去勢されたときの残余が、想像的な対象のかたちを取って、カオルと再会しているのだ。

対象aは現実界に属するものだが、私たちは想像界で、その存在をときおり垣間見ることができる。私たちは繰り返し対象aと出会い、それによって欲望をかき立てられる。しかしそれは禁じられたもの、現実界のもの、触れられないものだ。出会うことはあっても、本当に触れることはできない。では、カオルに何が起きたのか。カオルは本当に触れてしまった。

鏡の中で重なる母とカオルの姿
画像内の中国語字幕の訳:大丈夫、そのまま入っておいで。

母子の姿が万華鏡のようにいくつも反復する画面

こうしてカオルは母の欲望に捕らえられた。対象aの位置を占める他者にではなく、まさしく対象aそのもの、つまり母の欲望に捕らえられたのだ。対象aが主体に直接与えられたことで、主体と対象aの間に短絡が起き、主体は消え去ってしまった。鱼板がEVAを論じた文章で述べているとおりだ。

……何にも縛られず無限に膨張する母の欲望、抗いようのない極度の享楽、前象徴的な生命の震え……ここで〈父の名〉が果たす機能は、女性の謎/母の欲望に抗することだ。〈父の名〉は無条件の禁止を告げ、子供が母の欲望に応えるのを阻む。だが実際には、母の欲望に応えることは不可能だ。母なる〈他者〉(mOther)もまた、自らの〈他者〉を持たず、その欲望を保証する「メタ欲望」など存在しないからである。母にも欠如がある。〈父の名〉が主体を母の欲望から逃れさせるからくりは、不可能を禁止へと変えるところにある。主体は、母の欲望に応えることができない状態から、母の欲望に応えることを禁じられた状態へと移るのだ。

ここには〈父の名〉が崩れ落ちる過程はない。カオルはただ対象aに誘われ、なぜだか本当に触れてしまった。ここに問題があるはずだが、そのおかげで解決も簡単になる。カオルが〈父の名〉を思い出しさえすればいい。先ほどの隠喩に従えば、父の「否」(Non-du-Père)を与えるのはゲンのはずだ。だが、ゲンは父親なのか。違う! 父の死によってトオルとカオルに生じた欠如を埋め合わせる、代わりの存在にすぎない。だからゲンの呼びかけは、父の「否」ではない。彼には母の欲望(ここでは怪獣の姿を取っている)に対処できない。ここでの彼は、「辱められた父」なのだ。

女性のそばに立ち、ゲンに抗議するカオル
画像内の中国語字幕の訳:ゲンお兄ちゃん、どうしていつも邪魔するの。

怪獣との戦いで倒れるレオ

だからこそ、その後ゲンがカオルをつかんで無理やり連れ去ろうとしても、カオルは拒む。では、〈父の名〉はどうやって組み立て直されるのか。

頭を手で覆い、叫ぶトオルの顔
怪獣に踏みつけられそうになるトオル。

すると、カオルの中に母の欲望への抵抗が生まれる。

ゲンに向かって話すカオル
画像内の中国語字幕の訳:本当のお母さんなら、お兄ちゃんのことも同じようにかわいがるはず。

問題は、母と子の神話的に満ち足りた関係の中に、兄などというものが存在するのか、ということだ。もちろん、しない! お母さんならお兄ちゃんも同じようにかわいがるはずだ、とカオルが口にしたとき、彼女は〈父の名〉を呼び戻し、自分の欲望の本当の原因に抗した。そして、〈父の名〉を受け入れている現実の母親を求めるのだと、自分の欲望を言い表した。では、目の前の「お母さん」は、カオルの本当の母親なのか。違う。この「お母さん」は、対象aとカオルとの短絡が引き起こした症状にすぎない。こうして、〈父の名〉を代理するウルトラマンレオも、それまで歯が立たなかったマザラス星人と怪獣に、対処できるようになる。

事件の後、カオルは両親の墓へお参りに行き、症状はひとまず消えた。もちろん、根本的な欠如はずっと残っている。

白黒の人物映像に、分析の終了と料金を告げる黄色い中国語を重ねたミーム
画像の添え書き:今日はここまで。分析料は50フラン。

象徴秩序をひそかに支える裏側では、去勢によって奪われた、けれども私たちがそもそも持っていなかった残余の影が、いつも想像界で私たちを誘惑している。もし本当に想像と現実の隔たりを打ち破ったら。あるいは、エディプス期の母の欲望に近づこうとしたら。そのとき主体は、間違いなく呑み込まれてしまう。

三、親父の呼びかけと息子の名前

先ほど『ウルトラマンレオ』第37話を論じたときに、『ミラーマン』第1話に触れた。今日はそれについて、ちょっと一本書いてみよう。前には鏡像への同一化の物語のようだと書いたが、今見ると、やはり〈父の名〉の物語でもある。どうも昭和特撮は、死んだはずなのに何度も出てきてべらべら口を挟み、妙なことを言いまくる親父を出すのが大好きらしい。

『ミラーマン』の設定は、昭和特撮の中でもなかなか変わっている。この巨大ヒーローの力は、どこから来るのか。それは親父が、二次元の人間だからだ。

二次元世界から来た父について話す御手洗博士
画像内の中国語字幕の訳:二次元の世界から来たのだ。

主人公の鏡京太郎は記者で、竜巻に破壊された町を調べているときに、鏡から謎めいた警告を受ける。そして襲ってきた透明怪人を返り討ちにする。

がれきの中にある割れた鏡
画像内の中国語字幕の訳:鏡なのか。

インベーダーが流した緑色の血。

壁を伝う緑色の血の跡

その後、育ての親の御手洗博士(婚約者の父でもある)が設立した組織SGMで、撮影した写真について報告する。家に帰ると、博士から自分の出生の秘密を明かされ、ヒーローになるよう頼まれる。

書棚を背に、京太郎に力を貸すよう求める御手洗博士
画像内の中国語字幕の訳:京太郎、君の力が必要だ。いや、私だけではない。

それに対して、主人公の反応は?

壁際に立ち、自分がミラーマンであることを否定する京太郎
画像内の中国語字幕の訳:違う、違う。僕はミラーマンなんかじゃない。

主人公の大げさな演技や、唐突な展開への突っ込みはやめておこう。私たちからすれば、スーパーヒーローであることは、悪いことなのだろうか。あるいは、自分が普通の人間だということに、そこまでこだわる必要があるのか。軽々しく結論は出せないが、これは特別な人間になりたがらない、日本人に広く見られる文化と関係していると思う。狗子の議論を引こう。

「人間である資格を失う」という言葉こそが、「人間でなくなること」の不可能性を示している。本当に恐ろしいのは、人間ではいられないことではない。人間でいなければならないことなのだ。

なぜ、普通の人間であることを強調するのか。狗子が日本の化粧の特殊性について述べたように、ここで化粧をするのは、美しさや個性を示すためではなく、ほかの人と同じになるためだ(化粧をしなければ、社会人になれない)。言い換えれば、人々を縛るこんな命令がある。普通で、正常で、体制に収まる人間でなければならない。だが、スーパーヒーローはそうではない。

これには別の面もあるだろうか。ある。御手洗博士が君の力を必要としていると告げるとき、それは父性的な他者から主体への呼びかけではないのか。君は特別なのだから、みんなと町のために自分を犠牲にして戦え、というわけだ。突然そんな呼びかけを受けて、京太郎はまず訳が分からなくなる。彼にしてみれば、しがない記者の僕が、どうしてミラーマンなんだよ! こっちはプチブルの文人として気楽に暮らし、普通の社員としての義務を果たし、先生の家に住んで婚約者とテニスをしていればよかったはずだ。それがいきなり、この世界を守るために血も涙もないヒーローになれという。しかも、親父はそれで死んだんだろう。それを継げっていうのか?(もっとも、日本の現実の論理では、父の仕事も、悲願も、さらには名前までも継ぐのが、疑う余地のない義務なのだが。)僕は本当に、あなたの言うその人間なのか。どうして?

この否認は、「日常」の秩序に生きる人間が、その秩序自体に訪れた危機をフェティシズム的に否認している、というだけではない。同時にそれは、主体が〈他者〉の呼びかけに抵抗する中で、自分自身を見いだす瞬間でもある。矛盾した判断だ。一人の人間が同じ行為の中で、倒錯しながら、〈他者〉に抵抗することなどできるのか。だが、私たちが知っているとおり、大文字の他者は存在しない。〈他者〉の意志は、遡及的に構成され、想像されたものだ。京太郎が崇拝する〈他者〉と、彼が反発する〈他者〉は、実は別のものなのである。もっとも、本質的にはすべてが日常を守るためにあり、この前後の食い違いも、後から筋の通った話に仕立て直されてしまうのだが。

それでも、裂け目はここにある。では、〈他者〉の位置を占め、何もかも説明しているのは誰か。御手洗博士だ。現実の社会で学問的な権威を持ち、すべてを知っていると想定されている。記者・鏡京太郎を定義したのも、ミラーマン・鏡京太郎を定義したのも彼だ。だが、本当に全知なのではない。彼もまた、欠如を抱えた主体にすぎない。だから京太郎が、なぜ自分は記者・鏡京太郎ではなく、ミラーマン・鏡京太郎なのかと問うても答えられない。育てる間は普通の人間であれと言っていたのに、なぜこんなときになって、それと矛盾する立場を与えるのか、という問いにも答えられない。

京太郎は、前のシニフィアンである記者という名にしがみつき、新たに与えられたミラーマンという名に反発する。すると、彼をシニフィアンの連鎖につなぎ留めていた結びつきが外れ、二つの名のどちらによっても、自分が何者であるかを示せなくなる。このとき神話的な状況が再び現れ、京太郎は、自分が何者なのかを同一化によってもう一度定め直す必要に迫られる。そこで私たちが見るのは、次の場面だ。

鏡に手を差し入れる京太郎。鏡面に手と顔が重なる

彼は鏡を通り抜けられる!

京太郎が鏡を通り抜けられるのが血筋のためなら、なぜ今になって初めて気づくのか。あるいは、鏡を通り抜けられると自分が知っていることを、知らなかっただけなのか。そうでなければ、二次元人の話を聞いたばかりで、どうして二次元人は鏡を通り抜けられると分かるのか。ここで何を言いたいか。鏡面を通り抜けた京太郎の手によって、新たな鏡像が形づくられたのだ。その鏡像は、彼がそれまで鏡像への同一化で引き受けていた像とは異なる。では、鏡像段階は、主体が最初に疎外されるときにしか起きないのだろうか。

私たちは、鏡像への同一化が主体にとって最初の疎外だと言う。しかし、この最初の出来事は、ある決まった時点に起きるのではない。刻一刻と起きている。主体が同一化する鏡像は、つねに変化しているからだ。ただ、そのつどの同一化は、後になって、初めからそうだったかのように装われる。一人の人間の顔だって、刻一刻と変わっていくではないか。なのに、なぜ人はいつも鏡の中の像を自分だと認められるのか。それらの自分はすべて、最初の鏡像への同一化に、すでに現れていたのだろうか。

ただし、最初の鏡像段階には一つ特別な点がある。人はまだ象徴秩序に入っていない、ということだ。もちろん、象徴的去勢もつねに進行している過程なのだが、鏡像への同一化だけを論じるとき、私たちはシニフィアンを考慮に入れない。かつて、シニフィアンの影響を受けない想像的同一化があったと仮定する。もちろんそれも、シニフィアンの連鎖が遡及的に作り出した効果にすぎない。

だが、ここではどうか。まずシニフィアンの連鎖がそれを可能にし、その後で初めて、意識を持つ主体としての京太郎に、新たな鏡像が見える。彼は、私たちが鏡像段階について言うときの主体のように、喜んで新たな鏡像に同一化するだろうか。いや、しない。絶えず形を変えていく鏡像なら、そのまま受け入れられるのかもしれない。だが、突然、大きく変わったものならどうか。先ほど述べたように、〈他者〉がまったく新しいシニフィアンを突然彼に与えたため、かえって彼と二つのシニフィアンとの結びつきは、どちらも外れてしまった。新たな鏡像を見たとき、彼が想像的に同一化していた鏡像は、すべて砕け散った。主人公は鏡の世界、一面の混沌へと落ちていく。

青くゆがみ、像が幾重にも重なる鏡の世界

では、何が彼をこの混沌から引き出したのか。父の呼びかけだ。

鏡の世界で身をかがめる京太郎
画像内の中国語字幕の訳:いや、今日からお前はミラーマンだ。
青くゆがんだ室内の像
画像内の中国語字幕の訳:ミラーマンとして生きていけ。
鏡の世界で叫ぶ京太郎の顔
画像内の中国語字幕の訳:違う、僕はミラーマンじゃない。ミラーマンじゃない。

この言葉を受け入れたかどうか、一瞬でその同一化を成し遂げたかどうかにかかわらず、彼は再び象徴秩序へ戻った。しかしここで、京太郎の否認には、もう一つの意味が加わる。〈父の名〉への反発だ。この父の名前、ミラーマンは、京太郎の前に新しく現れたものであり、彼がもともと受け入れていた〈父の名〉ではない。それまでの〈父の名〉は、(婚約者の父である)御手洗先生だった。そして、この〈父の名〉が説明していた母なる〈他者〉の不在の理由は、研究中の事故死だった。ところが今、新しい〈父の名〉が現れ、以前の名を覆い尽くそうとしている。この〈父の名〉が明かすのは、母は彼を置いて秘密の仕事へ向かい、母自身の先生の家へ彼を預けていた、ということだ。彼の父は、すでに殺されていたからである(なのに、まだ息子相手にべらべらしゃべれる)。

母の現前は重要だ。母は実際には一度も姿を現していないが、つねにその不在によって現前している。では、母の現前とは何か。

暗がりに立つサングラス姿の男
怪獣へと変わろうとしているサングラスの男。

煙の中から姿を現した怪獣

絶えず襲来するインベーダーこそが、そこにいない母の存在を示している。破壊を繰り返すこの怪獣が、母が彼を先生の家へ預けた理由であり、息子を母なる〈他者〉の欠如に直面させるものでもある。母は完全な存在ではない。母は不在であるほかない。こうした敵を防げないからだ。父が死ぬと、母はもう息子を守れなくなる。このとき京太郎に〈父の名〉を受け入れさせるのは、恐ろしい母の欲望ではない。それ以上に深い傷を負わせる、母の欠如の露呈だ。母の欠如という恐怖を前に、何を選べばよいのか。ならば、答えは一つしかない。

杖を持つデフォルメされた人物と「あなたに忠誠を誓おう」の文字を組み合わせたミーム
画像の添え書き:あなたに忠誠を誓おう。

いや、こっちだ。

車のそばにいる京太郎
画像内の中国語字幕の訳:ミラーマンに変身するのだ。

両腕を高く上げ、光の中で変身するミラーマン

私たちは母の欠如への抵抗の中で、〈父の名〉の庇護を受け入れ、自分の名前を受け入れる。それは宿命的なことだ。だが、最初の文章で述べたように、揺るぎないものでも、本当のものでもない。だから人間は、自らの存在の根拠をめぐる焦燥に陥り、否定性を帯びた症状に遭遇することを宿命づけられている。しかし、これだけは確かだ。〈父の名〉の肯定も、母の欲望を否定することの肯定も、目指すべきものではない。解放の次元は、否定の否定のうちにある。

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編者注:時間があれば、昭和特撮史も少し勉強しておこう。

本文終わり
注01

注釈

  1. 訳注:『三体』で、他の文明に滅ぼされる前に相手を滅ぼそうとする宇宙のあり方を表す比喩。邦題は『三体Ⅱ 黒暗森林』だが、概念名は「暗黒森林」。早川書房掲載・大森望「これまでのあらすじ」参照。 ↑

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