泉信行批判(上)

哲学好きのアマチュア、オタク道の達人。
この文章を書く理由は、筆者が最近、知乎で本格的に活動を始めようと考えているからだ。本格的に活動を始める前に、いくつかの出発点を設定する必要がある。その出発点を通して、筆者と読者は自分の立ち位置を定める――現在、ネット上や学界で行われているマンガ・アニメの形式・スタイル研究と批評について、私はどう考えているのか。そして私はどの程度、またどの部分を受け継ぎ、あるいは批判するのか。しかし2018年にこのコラムを開設して以来、筆者はコラムをほとんど運営してこなかった。タタに代理投稿してもらったVTuber文化論と、屋上で公開した『遅いアニメーションの三つの次元』を除けば、筆者自身は、知乎でまだ一本も書いていない。だから筆者は、上の問いへの答えとなると同時に、このコラムで現在始めるシリーズの基調を定める文章を、何本か書く必要がある。
実に都合よく、筆者がこうした問題について考え始めて数日後、山猫先生(@山猫嗷嗷嗷)が、泉信行(以下「泉」と略す)の書いた『漫画視線力学の基礎』という文章を発表した。
さらに記事では、泉が漫画の学術研究について述べた見解として、次の文が引用されている。
「『学術』という二文字を打ち込めば学術になるわけではない。学術とは、体系的で専門的な学問のことだ。体系があり、漫画とその法則を学問として扱って初めて漫画学術と呼べる。学術とは複数の人によるものだ。すべての研究者が、できるだけ客観的な仕方で説明し、互いに検証し、客観にできるだけ近づこうとするものだ。一人では学術にならない。共同で築いてこそ学術になる。実証性、体系性、客観性があって初めて学術なのだ。」
筆者は泉のこの文章を読んで思わず眉をひそめたが、同時に、これは非常にいい切り口だとも思った。泉信行は現在、日本の漫画研究でそれなりに知られているし、彼の『漫画視線力学の基礎』にある誤りもかなり典型的だ。そこで本稿のテーマが決まった。泉のこの文章にあるさまざまな問題を分析し、具体的な事例から現在のアニメ・漫画研究についての筆者の考えを述べ、形式・スタイル研究における「実証性、体系性、客観性」とは何かを徹底的に主張するのである。
ところで、題名は「泉信行批判」なのに、『漫画視線力学の基礎』という一本だけを分析・評論するのは適切なのか。そう疑問に思う人がきっといるだろう。そこで、ここで先回りして答えておく。第一に、「漫画視線力学」は泉の主要な理論の一つであり、いわば彼の「代表作」ともいえる。現在に至るまで、泉は折に触れて自分の視線力学を繰り返し述べている。第二に、本稿を読めば、なぜこれだけで泉という人物を評価するのに十分なのか、読者にもはっきり分かるはずだ。というより、もし読者が本当に漫画の基礎知識を知りたいのなら、Oran猪、スコット・マクラウド、大塚英志などの作家・研究者による関連書をもっと読んだほうがいい。もちろん山猫先生の文章を読んでもいい(特に、山猫先生のこの高く評価されている回答を勧める)。
漫画のコマ割りをどう学ぶか? zhihu.com
筆者自身、理論的な知識を学んでいた頃、この文章から大いに得るところがあった。一方、泉の文章には、あまり時間をかけないことを勧める。
(本文は長文である。建設性のない誤りの列挙を大量に読みたくない人は、下編のまとめと主張だけを先に読んでもいい。)
上編
泉は『漫画視線力学の基礎』で、漫画を読むときの視知覚現象を詳しく説明し、それを右から左へ流れる知覚上の「水流」として記述している。文章の順序に従えば、泉はまず、漫画を読むとき、右から左へ進む動きは加速し、左から右へ進む動きは減速するという効果があると主張する。その後、この性質を具体的な漫画の一連のコマと組み合わせ、「水流」が漫画の理解に及ぼす重要な影響を分析している。
「(キャラクターが)左を向く:読者(主人公)の視点、優位な位置(上手に立つ)、場面の支配者、先手(能動的)、既知で親しい、読者がキャラクターの感情に直接共感できる、など……
(キャラクターが)右を向く:客観的な対象、劣位な位置(下手に立つ)、支配される者、後手(受け身)、未知で不安、読者はキャラクターの感情を間接的に想像する、など……」
泉の主張は、記事中では次のように整理されている。
ここから、キャラクターが右側にいる(そして左を向く)か、左側にいる(そして右を向く)かという二分法が、全編を貫く鍵になる。さらに詳しい説明は、原文の「『視線誘導』と『視線力学』の関係」の節全体と、「左右に分けた立場」の節の冒頭で確認できるので、ここでは詳述しない。以下では泉のこうした主張を、「速度理論」(右は速く、左は遅い)、「視点理論」(右は主体、左は客体)、「強弱理論」(右は強く、左は弱い)と呼ぶことにする。
選択的省略
まずは簡単な問題から始めよう。
泉は三つの理論を説明する際、いずれも『魔法先生ネギま!』の具体的な場面を例に使っている。しかし、これらの場面の使い方には、非常に重大な選択上の問題がある。
泉は文章の第五節で、『魔法先生ネギま!』第8巻104頁から始まる戦闘場面を使い、赤松健先生が二人のキャラクターの画面上の左右配置を何度か入れ替えることで、物語の展開における優劣の変化を表現していると説明しようとする。
泉の説明によれば、少年は黒服の男との戦いでまず劣勢にあり、そのため黒服の男が右、少年が左に置かれる。交戦中のあるコマで、少年は突然画面の右側に置かれ、左右が入れ替わる。「その後、少年が『戦う意志』を取り戻す演出が現れ、戦う意志を取り戻した少年はすぐに反撃を始める」というわけだ。

図内の説明:少年が吹き飛ばされると、二人の左右の位置が入れ替わる(図中の「図11」第二コマ)。その後、少年が「戦う意志」を取り戻す演出があり、立ち直った少年がすぐに反撃を始める(図中の「図12、13」)。図中の図番号は左が11、右が12(同巻107頁)。
『漫画視線力学の基礎』が示す図例は、疑いなく「強弱理論」に合致している。しかし実際に漫画を開いてみると、まったく違う光景が見えてくる。
泉が示した漫画の内容(赤枠二つ)の間で、彼は十コマも選択的に省略している。なぜ十コマを省略したのか。この十コマは説明にとって重要ではないからだろうか。いや、まさに極めて重要なのだ。
泉の説明では、枠1でキャラクターの左右が入れ替わり、少年が右に配置され、その後、枠2とそれ以降の展開で少年が戦う意志を取り戻して反撃を始める。しかし図3と図4を読めば、漫画にはそのような連続した過程が存在しないことが分かる。それどころか、枠1から三コマ後、少年は画面右側で黒服の男に蹴り飛ばされる。それまでどうにか防ぎ、反撃もしていた少年が、今度はついに黒服の男の攻撃を防げなくなる。これはこの戦闘場面で少年が初めて見せる、明白な劣勢である。まさに「強弱理論」と逆だ。さらに泉は、枠2を切り取って、少年が戦う意志を取り戻すのに合わせて画面右側に置かれたと説明している。しかし図4の第三段・第四段を読むと、少年は左側に置かれ、反対に黒服の男が画面右側に配置されている。もともと画面左側に見えていた少年が、泉の選択的な切り取り(図2右)によって画面右側に変わっている。もちろん、泉が主張しているのはキャラクターの向きであり、筆者が言っているのは複数のコマの間の、レイアウト上の左右配置だとも言える。しかし図4の第三段と第四段では、黒服の男も少年も同じく左を向いていることに注意してほしい。では、「強弱理論」または「視点理論」に従えば、これはどう説明できるのか。さらに直感的に見ても、第三段・第四段では黒服の男のコマが少年のコマよりはるかに大きな画面比率を占め、少年のコマは画面左側へ押し込められている。誰が場面の主導権を握っているかは明らかだ。泉の選択的省略は、極めて事実に反する説明を生み出している。
漫画を実際に読んでみると、キャラクターの位置を左右入れ替えることの実際の機能は、泉の説明と完全に一致しないことが分かる。枠1から枠2まで、泉は、ここで少年が戦う意志を取り戻して反撃を始め、その変化にキャラクターの左右配置が対応していると言う。しかし、原作のコマ列に戻してみると、枠1で左右が入れ替わる目的は二つある。
- リズムの変化を作ること。黒服の男が何発もの速いパンチを打った後、一発の重いパンチで少年を吹き飛ばす。漫画は視点を変えてこの変化に対応すると同時に、構図によってその一撃の重さを際立たせている(第二段の構図を変えずに第三段へそのまま使ったら、この重いパンチは目立たせにくいと考えてみてほしい)。
- コマをつなぐこと。図3の第四段では、少年は地面に叩き倒された直後に跳び起き、力をためながら黒服の男へ突進する。第三段で少年は右方向へ打ち飛ばされ、その動きが、私たちの視線を第四段の最初のコマへ押し出す。第三段の左右の入れ替えは、この右向きの動きと、私たちが読むときの視線を引き継ぐためのものだ。

続いて泉は、反撃の後、少年が見事な一撃を決めるが、その後また画面配置が左右入れ替わるのは、「実際にはこの攻撃で勝負は決まらず、その後、少年は再び戦闘の主導権を失い、敗北の兆しが現れる」からだと説明する。
しかし漫画を開くと、またしても泉が漫画を選択的に切り取っていることが分かる。

台詞(上から、各段は右から左):上の赤枠は、少年「やってみい!!」、男「むお?」。中段は、男「これが……影分身か? 東洋の秘術!」。

台詞(上から、各段は右から左)
- 上段:男「うっ……」/少年「おっさん、油断したな!」
- 中段の大コマ:少年「これで終わりや! 狗神!!!」
- 下段右の赤枠:少年「!? 狗神が出えへん」
- 下段中央から左:男「うむ……見事だ。思った以上に才能があるな。驚かされたよ。だが残念ながら……もう術を使えないことを忘れているようだね」/少女「小太郎……」
図6の二つの赤枠の間に欠けているのは、少年による一連の素早い攻撃であり、図7では四コマが抜けている。赤枠の内容を漫画の中へ戻してみると、画面配置の左右入れ替えが持つ演出的機能は、ここでもまた泉の説明とまったく違うことが分かる。図6の左右の切り替えの理由は、第一に、リズムの変化だ。第二段の複数の分身が連続攻勢を仕掛け、最後に第三段で決定的な一撃を放つ。第二に、少年の奇襲による勝利を表現している。第二段の分身攻撃はすべて前振りであり、黒服の男をまんまと惑わせた後、少年は第三段で本当に黒服の男の急所を傷つける。この時、少年は泉が言うように反撃の失敗を予告されているのでは決してない。反対に、この一撃は疑いなく成功している。読者は、ここでの左右の入れ替えの機能が、先に図3で分析した手法と非常に似ていることに気づくかもしれない。これは確かに赤松健先生が意識的に用いている技法だ。しかし、この技法は泉の理論とは完全に無関係だ。
本来「強弱理論」に合致していない漫画の一場面が、泉の「再編集」を経て、見る影もなく姿を変え、彼の理論を説明する絶好の実例になっている。
これは疑いなく非常に重大な告発だ。だから、事実が本当にそうなのかを考えなくてはならない。
まず、これが無意識の省略だったとは、明らかに考えにくい。泉がこれほど多くのコマを省略しながら、その一部分にだけ気づき、それを切り取って理論を説明したという理由はない。では、意識的に選んだのだとすれば、切り取られなかった内容は重要ではないということなのか。しかし、彼の切り取りを原作のコマ列に戻すたびに、その本当の機能は泉の説明とまったく一致せず、むしろ逆であることが分かる。
もう一つ考えられる弁護は、筆者が「強弱理論」を誤解している、あるいは「強弱理論」に合致しなくても、泉の理論の枠内で説明できるというものだ。たとえば、図3で少年が反撃しようとしてから、図4で黒服の男に蹴り飛ばされるまで、少年は本来、画面右側で左を向く強者なのに、同じ右側で攻撃を受ける。それは読者に不意打ちを与えるためだ、と言うことができる。あるいは、左右が切り替わった後、図4に少年の心理描写が現れるのは、泉の言う「視点理論」に合致する、とも言える。少年が画面またはコマの右側にいるとき、読者はその視点に感情移入するのだ。これと同じように、図6の左右の入れ替えも「強弱理論」に合致すると言えるかもしれない。その後、泉が言ったとおり、少年は必殺技を出せず、黒服の男に倒されるからだ。ここでの左右の入れ替えは予告なのだ。また、図7の第二段で少年が右側にいるのも、作者が少年が成功しそうだという錯覚を読者に与えた結果、彼は必殺技を出さなかったという、作者が仕掛けたもう一つの「フェイント」にすぎない、とも言える。
これに対して、筆者はいくつかの段階に分けて答える。第一に、選択的に省略された部分が本当に泉の理論に合致するのなら、なおも説明しなければならない。なぜ彼はそこを切り取らなかったのか。たとえば「視点理論」は「強弱理論」と関係がないから、「強弱理論」を説明するときにはあえて語らなかったということなのか。しかし図6の最初のコマについて、泉は視点としての機能を分析している(しかもこれは極めて誤った分析であり、後で説明する)。では、全部を出すと長すぎるからなのか。しかし後で見るように、図例が自分の理論を明確に裏付けていなくても、泉は漫画の一頁全体を喜んで提示している。
第二に、上の弁護に従えば、泉の理論が反証される余地を大幅に狭めることになる。一つのコマが泉の第一の理論に合致しなければ、第二の理論を使って合うかどうかを見てみる。そのコマの展開が理論に合わなければ、後の何コマ目か分からない内容の伏線・予告だから理論に合うのだと言う。こうしてしまえば、泉の理論が間違っているとは、もはや言いにくい。直接的な反例をすべて間接的な正例に変えてしまい、何を言っても彼が正しいのなら、いったいどうすれば間違いになりうるのか。実際、泉の文章を最初から最後までよく調べれば、これは筆者がでっち上げた弁護ではないと分かる。『漫画視線力学の基礎』には、反証可能性を取り消す策略が至るところに満ちている。そのため彼は、科学的な命題としての要件から急速に遠ざかっており、まして客観性や実証性からはなおさら遠い。この点については後でさらに批判する。
第三に、仮に泉の切り取りが正当であり、切り取らなかった部分もすべて理論に合致すると信じたとしても、ここにはなお理論そのものの問題がある。たとえば、「視点理論」と「強弱理論」が同時に働き、しかも行き来できるのなら、その切り替えはどうして可能なのか。長い時間をかけた過程なのか、それとも短い過程なのか。視点の効果と強弱の効果はどう相互作用するのか。一つのコマが理論aには合致するが理論bには合致しないとき、なぜaが働き、bは働かないのか。aとbの二つに合致するとき、どちらが、あるいは両方が働くのか。そして、なぜ働くのか。全文を見渡すと、泉はこれらの問いにまったく答えられていないだけでなく、後半では同じ疑問を繰り返し、さらに深刻な形で浮かび上がらせていることが分かる。泉には、多様な概念と主張を統合する理論的枠組みがない。複数の理論が果たしている役割は、彼の言い分が反証される可能性を狭めることだけだ。後でこの点にもう一度戻り、泉の混沌の中から一つの、少なくとも暫定的には成り立つ代替仮説を見つけ出す。
実際、もっと広い意味で言えば、『魔法先生ネギま!』という漫画シリーズを本当に読んでみると、泉が文章中のこれらの場面を証拠として選び、合致しそうにないほかの多くの場面を選ばなかったこと自体が、選択的省略であると分かる。さらに一歩進めれば、泉がほかの漫画ではなく『魔法先生ネギま!』を選んだ理由も、十分なものではない(この点は下編で詳しく分析する)。もちろん、泉は文章の末尾で一応こう説明している。視線力学以外にも、「その上にはさらに多くの複雑な技術の組み合わせが交錯し、漫画表現をより複雑に、より多彩に、絶えず拡張している」。しかしこれは、彼が文章中で犯したさまざまな誤りを説明するものではない。読者の疑問に対処するために後から貼りつけた継ぎはぎにすぎない。
次の問題に進もう。
単一帰因・誤帰因・誤認
泉が言うとおり、漫画は複雑だ。
一つの漫画は、たとえ最も単純な一コマであっても、さまざまな要素が常に絡み合い、私たちの認知に総合的な影響を及ぼしている。だから結果から原因を逆算するときには、ことさら注意しなければならない。どの要素、あるいはどの要素群が私たちの認知に働いたのか。それらの要素はどのように相互作用したのか。構図、画風、文字、コマ、読み方など、考えられるさまざまな選択肢の中で、何が作用し、何が主導したのか。これは形式・スタイル分析でつねに直面する問題でもある。では、泉はこの問題に出会ったとき、どう向き合っているのか。

『魔法先生ネギま!』第9巻155頁のこの図例から始めよう。第一コマについて、記事では泉の分析として次のように引用されている。
「第一コマには右向きの飛行船がある。それはちょうど『見えない水流』に対して逆方向なので、その移動速度の遅さを感じられる。これは、逆流を上る川魚が水中で静止しているように見えるのと同じだ。」
続く文では、次のように述べられている。
「3、4コマへ進むと、キャラクターたちは『水流』に沿って右から左へ歩き、読者の視線もそれに伴って、まるで『流れる』ようにゆるやかに移動し、こうしてこの物語の展開が始まる。」
この記事を初めて読んだとき、筆者はこの段落に本当に呆れた。読者はこの微妙な点をすぐ感じ取れるだろうか。特に注意してほしいのは、図8に示したこのページが、『漫画視線力学の基礎』における最初の具体例だということだ。文章の冒頭で、厳密さを欠いた認知過程の抽象的な推論をいくらか行った後、泉がいわゆる「視線力学」を説明するために使う最初の実例が、このページなのである。
そこで筆者は疑問を呈するしかない。この例はいったい何を説明しているのか。泉の説明によれば、第一コマの飛行船は、視知覚と読書過程が生み出す水流に逆らうため、だから遅く見える。ところが第三・第四コマでは、キャラクターが水流に沿って歩いているのに、やはり遅く見える。では、水流はいったい何の役に立ったのか。
さらに皮肉なことに、泉がこの例を分析した初期版には、次のような記述が見られる。

漫画のコマの一部を切り取った後も、泉は赤字で、これらを一つの全体として、右から左への順序で見るよう念を押している。
この一節から、三つの事実が分かる。第一に、文中の「右向きの飛行船」と「ゆっくり移動」が強調されている。つまり泉は、飛行船が遅く見えるのはまさに自分の言う「水流」のせいだと信じ、それを特筆に値すると考えている。第二に、初期ブログの分析から、後に『漫画視線力学の基礎』が発表されるまで、彼の見解は変わっていない。だからこそ図例と分析をそのまま発表用の記事へ持ち込んだのだ。第三に、漫画を一部だけ切り取っても、泉は、自分のいわゆる視線力学とは無関係に、この飛行船そのものが遅く見えることに気づかなかった。
飛行船が遅く見える理由なら、いくらでも考えられる。画面に速度を示す記号的な手がかりが何もないこと(たとえば速度線)、読者が飛行船について持っている知識、コマ中央の構図によって生じる力の均衡、さらには現実の経験において、空の物体は参照物がなく、遠すぎるため速度が見えにくいことなどである。ところが泉は、非常に可能性が高く、明らかに主導的でありそうなこれらの理由を完全に無視し、ただ一つ、正しいかどうかをほとんど判定できないが、自分の理論には合う説明だけを提示する。飛行船が右へ向かって「逆流」しているから、遅く見えるというのだ。
さらに、原文が続けて第三・第四コマについて説明する箇所を読むと、いわゆる「順流」「逆流」は速度(感)にまったく影響しないか、あってもごくわずかな影響しか持たないことが、いっそう明らかになる。ある対象がもともと遅く見えるなら、「順流」でも「逆流」でも、やはり遅く見える。
ここで、文章の前後に隣接する二つの説明が自己矛盾していると言う必要はない(おそらく別々の技法の適用だと考える人もいるだろう)。泉が他の要素が動きの知覚に働くことを認識していないと考えなくてもいい(それもかなり信じがたいことではある)。しかし、もしそうなら、泉はいったいなぜ、この頁を「漫画視線力学」の最初の実例に据えたのか。先ほど述べたとおり、ここ数コマでは、いわゆる「視線力学」がほとんど、あるいはまったく影響を及ぼしていないようにしか見えない。少なくとも、これはいわゆる視線力学を説明する良い例ではないとは言えるだろう。

次に、図8の最後の段を見よう。各コマの中で動きの画面表現が不完全なのに、読者が認知的にそれを補えることを観察して、泉は直接こう結論する。「ここでの『実際には描かれていないのに、感覚としてある方向へ動いていると読み取れる』というのは、視線力学によって生じる効果なのだろう。」
「もっと精密に分析してみよう」と言いながら、二段落の説明の後に行ったのは、極めて粗雑で簡略な分析だった。非常に技巧的なコマ割りが、創造性のかけらも見えない視線力学の問題へと、泉によってまとめられてしまったのである。
実際には、このコマ列には多くの興味深い細部が、発見されるのを待っている。たとえば最後の段の第二コマの構図が視線の左側を遮っていること、複数のコマの間で視線が巧みに配置されていること、そして何より、第二コマと第三コマの集中線の焦点が、走者がすでに去った場所へ私たちの視線を意図的に導いていること。これらこそが、全体を「目が追いつかない速度感」として見せている本当の理由だ。泉の言う視覚力学、「見えない水流」がここでどんな役割を果たしたのかは、ほとんど語りようがない。たとえば第三コマは、単独で切り出しても、走者が右から来たことを読者に直感させる。これは運動方向を何も考えずに逆算できるということだ。第二コマの認知的な補完は「水流」によるものなのか、それとも私たちの視線が実際に左へ動くことによるものなのか。筆者は後者が原因だと考える。

続いて図10の例を分析すると、泉が現象の原因を帰属する際の不用意さが、隠しようもなく露呈する。ここでようやく彼は、第一コマと第四コマの速度感の違いに、二つ目の原因を見つける。動きの効果線を使っているか、使っていないか、ということだ(では、なぜそれまで画面内の他の認知的要素にはまったく触れなかったのか)。しかし案の定、泉は動きの効果線がどれほど作用したのか、自分の言う「水流」が効果線に比べてどの程度作用したのかには、少しも関心を示さない。そして一足飛びに、とても不思議な結論へ跳ぶ。動きの効果線を使っていること自体が、漫画家もこの「見えない水流」を自発的に利用している証拠なのだ。効果線が見え方を主導している可能性が極めて高い状況を、泉は何の論証も実験もせず、ほとんど分析すらせずに、「俺がコービーを連れてきて81点荒稼ぎした」ことにしてしまう。
ここまで来れば、読者も泉の分析実践についてかなり具体的に理解できただろう。だから前置きはもうやめて、結論に入る。筆者はこう考える。泉のこの文章の中心的な主旨は、漫画に対する一種の視知覚、彼の言う「視線力学」を描き出そうとすることだ。しかし泉には、それに見合う視知覚理論の基礎も、作画に関する知識もないのだろう。あるいは、そうした知識を知ってはいても、重要な構造を見分け、分析に適用する能力がない。これこそが、彼の分析が毎回、単一帰因や誤帰因を引き起こし、あるいは画面内の重要な要素や技法をそもそも認識できない本当の理由なのではないか。
この判断には、はっきりした根拠がある。たとえば泉は、「視線力学」についての自分の主張が、いわゆる加速・減速よりも、実際には平衡、開放性、閉鎖性、方向を持つ張力といった視知覚概念へ、より多く、より容易に結びつくことに、まったく気づいていないようだ(彼はしばしば「ベクトル」という語を使うのに)。また、泉の初期の文章を見ると、方向性の作用を説明するために、左右反転した画像を大量に使っていることが分かる。このやり方は今回の文章にも引き継がれている。しかし彼は、視知覚が左右の力を異なる仕方で配分するため、非対称な平衡構図を反転すると必ず極端に不均衡になり、このやり方は根本的に無効だということを知らない(そして筆者は、彼の視線力学についての思考が、まさにこの誤った出発点から生まれたのではないかと疑っている)。さらに、次の図例をもう一度見てみよう。

このコマについて、泉はこう分析している。「右側が読者と視点を共有している。この構成によって、読者側に『少年とともに戦っている』という意識が生まれる(これがアクション漫画の基本的なスタイルなのだろう)」。
このコマはすでに泉の説明上「強弱理論」に合致しているので、「視点理論」でさらに箔をつける必要はない。だから、泉が現象を理論に合うよう無理やり曲解しているとは、考えにくい。泉が本当にここで読者と少年が視点を共有していると信じているのなら、言えるのは、彼には根本的に画面の要素と構造を分析する能力がないということだけだ。構図と視点と同一化の関係を基本的に理解している人、あるいは少なくとも「肩越しショット」とは何かを知っている人なら、黒服の男の背後に構図上の視点を置き、少年を観察される客体として、少年の激しい攻勢を表現しているこの構図を、読者と少年が視点を共有する構図だと捉えるとは、筆者には到底想像できない。むしろ読者が、黒服の男の視点と、そこから少年を観察する視点を部分的に獲得している構図なのである。
この誤りが現れた時点で、泉の説明にある漫画の具体的細部について、これまで私たちが想定してきたさまざまな弁護は、実質的にすべて無効になる。泉が漫画の細部について正しく考えたかどうかを議論する以前に、もっと重大な問題がある。彼の水準で、漫画の細部を正しく見分けられるのかという問題だ。
もちろん、筆者のこの見解に反論する人は必ずいるだろう。たとえば原文の「左右に分けた立場」の節の冒頭で、泉は、漫画に「視点理論」の「基本モデル」があると信じる理由を約七百字使って詳しく説明している。上の例では、読者がこのモデルを認識することが、一つの構図の視点を認識することより優先されると言ってもいいのではないか。率直に言えば、反論する人がその説明の不合理さや、勝手な飛躍の数々を見抜けないのなら、筆者にはどうしようもない。泉が文章の他の部分でも示しているように、彼の認知理論は根本的に、素朴な感覚と誤謬を混ぜ合わせた空想の上に築かれている。これは決して見つけにくいものではないと筆者は思う。しかし、泉の理論の根本問題こそ、これから後で論じる内容である。
泉の意図的・無意識の誤りを列挙したところで、次は統合という、比較的重大な段階に入る。ここで『漫画視線力学の基礎』の最核心の問題を、改めて検討しよう。――いったい何が、キャラクターの左右配置を決めるのか。

