あるラカン派の分析
本稿には、原回答の著者である鱼板の同意を得て制作された動画版もある。動画の編集は柴来人、協力は「别对屋顶现视研出手!」。
最終的な結論の予告として、また「テクストに戻る」という主張への挑発として、私はまずこう言い切っておく。『ルックバック』という漫画の分析は、漫画そのものの検討にとどまってはならない。この作品を「2020年代の想像力」を切り開く試みと捉え、より深い史的唯物論的批評を行わなければならない。この批評、とりわけ京都アニメーション放火事件を重ねた筋立てへのイデオロギー批判を遂行するうえで、ラカン派の精神分析理論は適用できるだけではない。不可欠ですらある。
さらに挑発を重ねよう。最終的な結論はひとまず脇に置いて、私はこう主張したい。ある程度テクストを離れ、それを超えていくこの批評は、むしろテクストに集中し、さらには技法の細部にまで踏み込む、いささか些末ですらある分析から始める必要がある。そこでまず問われるのは、ほとんど存在論にかかわるような、基本的な問題である。漫画を独立した表現形式として成り立たせているものは何か。とりわけ、アニメーションや映画といった視覚的な表現形式から漫画を区別するものは何か。
藤本タツキは『ルックバック』を通じて、この問いに十分に答えていると私は考える。漫画を独立した表現形式たらしめるのは、運動を表す独自の技法である。映画、アニメーション、漫画は、いずれも運動を再現できる視覚芸術とされている。しかし漫画は、その歴史的な発展のなかで、前二者とは異なる運動表現の技法を獲得してきた。言い換えれば、独自の「漫画マシーン」を組み上げてきたのである。『ルックバック』の分析を通じて、この技法の特殊性も十分に明らかにできる。
分析は、『ルックバック』のなかでも最も作風が際立ち、最も優れていると広く認められている二つの画面から始めよう。以下に示す二つの画面で、まず表現しようとしているものは明らかだ。京本と初めて会い、歩いて帰る藤野の身体の動きが、次第に大きくなっていく様子である。そこで漫画が最初に解かなければならない問題がある。映画やアニメーション――正確には、ここでいうのはフル・アニメーションだ――は、時間の経過に沿って、つまり通時的に画面を素早く切り替え、残像効果を利用して観客に運動を知覚させる。それとは異なり、絵が同時に存在する共時的な絵画芸術である漫画は、ページという平面上に配置された一つ、あるいは複数のコマを通じて、どうやって運動の知覚を生み出すのか。「漫画マシーン」が示す第一の解決策は、読者が時間をかけて読み進めるなかで、その視線の移動を意図的に導くことである。この方法は、最初のページに集中的に現れている。ページには似た構造を持つ三つのコマが、縦に等間隔で並んでいる。どのコマも、前景に人物の横姿、その背後にそれぞれ異なる背景を配している。違うのは、上から下へ――これが通常の読む順序でもある――進むにつれて、構図のなかで人物の位置が右から中央へ、さらに左へ移っていくことだ。そのため、このページを順に読み進める読者の視線も、右から左へと移動する。つまり、①複数のコマの構図に違いを設け、②その違いによって、読み進める読者の視線を動かし、③読者が想像力によって各コマを結び合わせることで、藤野が画面のなかを水平に移動しているという知覚が生まれる。こうして、静止した絵の平面上に運動の錯覚を生み出すことに成功している。

次の見開きでは、一コマが画面全体を占める。そのため、読者は別々のコマに順に注意を向けることで運動を知覚するわけにはいかない。だが、ここでは「漫画マシーン」も別種の運動表現の技法を使っている。その特徴を明らかにするには、画面内の人物がとっている、ひどく歪んだ姿勢だけに目を向ける必要がある。このコマの藤野は両手を高く上げ、上半身を横に向けて後ろへ反らし、片足を地面から離している。重心が身体の中心から外れているのは明らかだ。しかし、地面を踏むもう一方の脚は膝が曲がり、しっかりと体重がかかっていることを感じさせる。つまり、このときの藤野の身体は重さを失ってはいない。現実離れした格好で宙に浮いているわけではないのだ。読者は、この歪んでいながらも重さを失わない身体の動きを想像することで、それが不均衡な、したがって不安定な姿勢だとはっきり理解する。藤野の身体は、少女の生命力に突き動かされ、一つの安定状態から別の安定状態へと急激に移行しつつある。漫画マシーンは、その移行の一瞬に歪んだ身体が見せる不安定な姿勢を、一つのコマに捉えているのである。
もちろん、ここまで述べたことは、漫画の運動表現の技法が生み出した誤認にすぎない。実際に存在するのは、静止した見開き一コマと、そこに描かれた不安定な姿勢だけだ。それでも、前のページとは異なるこの技法は、運動の知覚もまた異なる形で生み出すことに成功している(よく読めば、実際には二つの技法がページごとにきっぱり分かれているわけではなく、それぞれに重点を置きながら組み合わせて使われていることがわかる。最初のページの三コマ目では、すでに人物の不均衡な姿勢が予告されているし、次の見開きでも人物は画面の端に置かれ、水平移動がまだ終わっていないことを示唆している)。構図の異なる連続したコマが人物の水平移動を表すのだとすれば、一つのコマのなかの不均衡な姿勢が表すのは、胴体に対する手足の円周運動である。こうして、漫画の技法が運動を分解し、さまざまな形でコマの平面上に配し直すことで、独自の運動表現を実現していることが理解できる。映画に固有の弾道的視覚とも、アニメーションに固有のレイヤー合成とも異なり、漫画の独自性を決定する運動表現の技法は、徹底して平面上の構成を志向するのである。

藤本タツキが、不均衡な姿勢によってどのように運動の知覚を生み出しているかに気づくと、この歪んだ身体の像が、彼の漫画にいかに頻繁に現れるかも見えてくる。そして、その使い方は運動を知覚させるという当初の技法上の目的を次第に超え、より強く作風を打ち出すものになっていく。完全に静止した場面のコマに、不均衡な身体の姿勢が使われる場合もある。たとえば次の二つのコマでは、藤野は机の前に座り、身をかがめて絵を描いている。とりわけ最初のコマに注目すると、左肩はすくみ、右肩は懸命に前へ突き出そうとしているかのようで、尻も胴体の中心軸から少し外れ、左にねじれている。誇張された、窮屈な姿勢だ。静止した場面でこの歪んだ身体の像が果たす機能を理解するには、@甚谁の的確な観察を参照する必要がある。どちらのコマでも、できる限り正確な遠近法によって、画面内の部屋に奥行きが生み出されている。その仮想的な空間の奥に人物が置かれている一方、読者の視点に近い手前には、視線を引きつける物――鞄や椅子――が描かれている。
この構図は、読者の注意をまず前景の物に集め、そこから遠近法のつくる奥行きに沿って、空間の奥にいる人物へと徐々に移していく。読者は、遠近法が生み出した空間を探るよう誘われ、そのなかで注意を移していくのである。この視線の移動が人物の不均衡な姿勢と結びつくと、藤野は机に向かって絵を描いているのではなく、空間の奥へと懸命に進んでいるかのような錯覚が生まれる。もちろん、筋立てと合わせて読めば、この錯覚が目指すのは、運動を表現し、その知覚を呼び起こすことではないとわかる。ここで運動は意味として指し示され、隠喩として働くことで、藤野が漫画業界で前進することの困難を読者に感じさせるのだ。運動の知覚が、運動の観念に席を譲る。歪んだ身体の姿勢を使う技法は、具体的な身体運動の再現から、テクストの意味の生産へと移っている。その過程で運動は、仮想化され、概念化されるだけでなく、それ自体の時空間的な背景から離れ、完全な自律性を獲得する。それに伴って「歪んだ身体」という像も、運動を表現するという当初の目的から離れ始め、次第に技法としての自律性を獲得していく。


しかし、ここまでの分析でも、藤本タツキによる歪んだ身体の像の使い方をすべて捉えたことにはならない。次に示すコマには、また別種の歪んだ身体の像がある。このコマでは、漫画の読者は映画館のスクリーンの位置に置かれ、客席で思い思いに身体を崩した観客たちと向き合う。先ほどの例で、藤本タツキが歪んだ身体を与えていたのは主人公だけだった。だがここでは、二人の主人公だけでなく、画面の中央付近で二人を囲む三人の観客も、それぞれ異なる姿勢で座席にもたれかかっている。読者は、画面のなかで歪んだ身体の像が増殖し、拡散するのに向き合わざるをえない。読者の注意は中央の主人公を出発点としながらも、特定の方向へ集められることなく、それぞれに特徴のある周囲の人物をたどって、画面の端へと螺旋状に動いていく。その結果、運動の知覚はおろか、運動の観念さえ生まれようがなくなる。したがって、このコマの歪んだ身体の像に、運動にかかわる何らかの意図を読み取ることはできない。ここでは歪んだ身体の像そのものを描くことが技法の目的なのだと、認めざるをえないのである。それはついに運動と完全に切り離され、それ自体が読者の視線を魅了する対象となり、作者の作風を示すしるしとなる。
この使い方が映画館の場面に現れるのは、きわめて皮肉なことだ。一方で、それは映画館の観客の実際の姿を忠実に映し出している。映像の視覚的な魅力に捕らえられた人々は、身体を動かすことも、その動きをうまくまとめることもできなくなったかのように座席にへたり込み、ぼんやりとした滑稽な表情をさらしている。他方、藤本タツキの作風をなすこの美的実践では、見る側である観客が、逆に視線を向けられる側へ回る。今度は彼ら自身の歪んだ身体の像が画面に捉えられ、その外側にいる漫画読者に差し出されるのだ。見る者自身の姿が、見る欲望を惹きつけてやまない対象となる。このように技法が使われると、運動表現と物語上の機能は消滅へと向かい、漫画には静止した絵画芸術へ回帰しようとする強い衝動が生まれる。不均衡な身体の姿勢を描いた像は、もはやその像を超えたところに、立体的な空間と流れる時間のなかでの運動があることを前提としない。そうではなく、純粋にリビドーを向けられる対象の表象へと、厳密な精神分析的意味で「昇華」されるのである。こうして、藤本タツキの漫画で歪んだ身体と不均衡な姿勢を用いる技法は、運動の知覚を生むこととも、運動の観念を生むこととも異なる、第三の戦略へと展開する。「対象に魅せられること」をめぐる、新たな戦略である。

運動表現の技法の延長線上に、この「対象に魅せられること」を位置づけることができれば、歪んだ身体の像に限らず、別の領域でも同じ戦略を捉え直すことができる。実際、対象そのものに魅せられるような描写が至るところに増殖していることこそ、藤本タツキの作風の重要な一面を定めている。日本の漫画家のなかでも、藤本タツキの顔の描写には、かなり際立った特徴がある。漫画に一般的な、顔を平面的に描く傾向とは逆に、彼はしばしば陰影によって顔の立体感を強調し、目や鼻、口などの位置関係を変えることで、生き生きとした表情を生み出す。さらに、顔を平面的に描く作風では省かれがちな鼻も、好んで描く。それどころか、飽くことなく繰り返される、低い位置から見上げた顔のアップでは、典型的な藤本タツキ流の顔の描写の中心を占めるのは、もはや特定の器官ですらない。むしろ器官の欠落――つまり、一対の鼻の穴なのである。鼻の存在感を強調して、顔の解剖学的な特徴をより正確に描く作風は、少数派ではあっても珍しくはない。だが、鼻の穴をここまで熱心に際立たせるとなると、相当に独特だ。
厳密にいえば、鼻の穴は目や鼻や口のような器官ではないし、それらのように顔の表面を背景に動いて、人物の感情の変化を表すわけでもない。顔にあるほかの穴と比べても、鼻の穴は目のように視線を投げかけず、口のように言葉で満たされることもない。ただ、ひと続きの顔の表面に、なんとも収まりの悪い一対の欠落を残し、ほかの器官の能動的な動きにつられて、広がったり縮んだりするだけである。つまり、藤本タツキが好む鼻の穴は、人物の顔を補い、感情をいっそう生き生きとさせたり、特徴を際立たせたりするものではない。それどころか、顔のアップという画面のまとまりを壊し、顔の各部の釣り合いを失わせ、顔のゲシュタルト構造を歪んだ渦へと変えてしまう。鼻の穴を描くことへの、藤本タツキのこの理解しがたい熱中のなかにこそ、私たちは手足とは別の領域で、再び「対象に魅せられること」を見いだす。不均衡、不完全さ、否定、さらには欠如を示すものに魅せられることだ。この発見は、先に述べた論点を裏づける。「対象に魅せられること」は、運動を表すといった純粋に技法上の機能には還元できない。彼独特の美意識――いや、むしろ「醜を愛でる感性」――の表れと見るべきなのだ。

最も重要なのは、藤本タツキの漫画で「対象に魅せられること」が本来の機能や文脈を離れ、至るところへ増殖している点だ。この「脱機能化」「脱文脈化」と増殖に促されて、私たちはさらに先へ進むことになる。今度は画面の形式ではなく、物語の内容のなかに「歪んだ対象」の姿を探してみよう。面白いことに、これは少しも難しくない。@tearsintherainの回答にもあるとおり、藤本タツキの漫画は、ばら色のユートピアを舞台にすることも、登場人物に幸福な結末を用意することも拒む。むしろ、人生のどん底や、社会の影に隠れた片隅へと目を向けることのほうが多い。だが、本当に注目すべきなのは、こうした目に見えない「暗い側面」への関心そのものではない。その関心が、物語のなかに置かれた「暗い対象」を通じて、つねに具体的な姿を与えられることだ。『チェンソーマン』の闇の悪魔や、『ルックバック』で青葉真司を暗示する無差別殺人狂が、それにあたる。この点にこそ、藤本タツキの漫画と、ポン・ジュノの映画『殺人の追憶』との決定的な違いがある。『殺人の追憶』で、ポン・ジュノは連続殺人事件の描写にかなり抑制的な態度をとっている。結末で犯人の正体を観客に明かさないだけでなく、殺人にかかわる場面でも、犯人の姿を直接見せることをできる限り避けている。この抑制によって、物語の重心は連続殺人事件の解決から、捜査の過程で生じる人物の心境や相互関係の変化へと移る。「暗い側面」が、外部の殺人事件から人物の心理へと折り込まれ、内面化される効果が生まれるのである。
韓国の社会派映画や犯罪映画に繰り返し見られる作劇のあり方を踏まえて、『殺人の追憶』の物語がどのような社会的背景を暗示しているのか、読み解こうとする映画評がある。そうした批評は、結末でソン・ガンホ演じる人物が見せる、困惑し途方に暮れた顔のアップを、韓国社会の問題に突きつけられた問いとして解釈する。このように社会と結びつけて読む試みは、疑いなく正しい。だが問題は、社会問題への言及と、捜査の物語を人物の内面へと折り込むこととの結びつきに、目を向けていない点にある。まさにこの折り込みを通じて、『殺人の追憶』は、独裁政治の「真夜中」の時代にあった1980年代の韓国における、社会の底辺の動揺や司法の腐敗といった擬似具体的な問題への直接の言及を、正しく拒んでいる。それに代わって、物語を人物の内面へと折り込むことが、「超具体化」された社会的寓話の効果を生む。この寓話は、直接目に見える社会の様相だけが社会問題を生み出す場なのだ、という捉え方に抗い、社会の現実を本質の水準から拒む姿勢を貫いている。それゆえ、その矛先は、筋立てが直接指し示す独裁体制の時代から、映画が撮られた新世紀の初頭へと向け直される。
民主化はすでに完了したと宣言されるこの時代に、社会問題は独裁政治の幕引きとともに終わるどころか、いっそう根本的で基礎的な水準で露呈している。ただ、自由民主主義の言説が支配的な21世紀には、私たちはそうした根本問題を十分に語るための語彙を失ってしまっており、心理的な寓話という形で、迂回して指し示すことしかできない。『殺人の追憶』が採用する、抑制を利かせた間接的な表現は、2000年代の韓国社会の根本問題を正しく再現するだけではない。さらに精密な仕組みによって、社会の根本問題を再現することの不可能性をも表現する。そして、その不可能性自体が、社会問題のきわめて重要な一部をなしているのである。

ここで、藤本タツキの漫画に戻ろう。ポン・ジュノが『殺人の追憶』でとった冷静で抑制的な態度とは対照的に、藤本タツキは、いわゆる「暗い側面」に、ためらいなく目に見える姿を与えることを好む。その像が、物語の水準における藤本タツキ独特の「対象に魅せられること」を形づくる。これらの人物が具体的な姿でそこにいることは、一方では物語の展開を歪め、胸の痛む、やりきれない思いを残す。しかし他方では、その思いを埋め合わせたり、乗り越えたりする可能性も開く。『ルックバック』の筋立てに戻るなら、藤野と京本がそのまま別々の道を歩むだけでは、きわめてありふれた退屈な展開にしかならない。実際のところ、藤野は職業漫画家という役割に疑いを抱いている。このままでは漫画家を長く続けていくことも難しいかもしれない。だが、「暗い対象」として犯人が登場すると、精彩を失いかけた物語の流れが一転する。この人物の登場によって、読者と藤野は取り返しのつかない形で京本を失う。それでも、詩的な偶然を通じて、藤野は、自分の漫画家としての歩みを京本が黙って支えていたことを、改めて見いだすのである。
藤野は、自分が間接的に京本の死を招いたと悔やみ、想像の世界へ退く(言うまでもなく、この後悔はある意味でかなり疑わしい。というのも、藤野の想像の内容もまた、京本が犯人に遭遇することは「運命で決まっていた」のであり、藤本とは関係がないことを示唆しているからだ1)。その世界では、犯人を取り押さえることで京本の命を救える。そして「現実原則」に従って想像の世界を離れると、藤野は京本の無言の支えを受け取り、哀悼の儀式を終えることができる。疑念を捨て、職業漫画家としての自分に再び同一化できるのだ。最終的に、犯人の像は藤野と現実との和解を促す。この意味で、藤本タツキが漫画の筋立てに組み込んだ「対象に魅せられること」は、ラカンのいう「クッションの綴じ目」2として働いている。想像上のものでありながら、決して具体性を欠いてはいないこの対象が、ばらばらに引き裂かれ、矛盾の絶えない社会の現実に、主体が同一化することを保証するのである。
『殺人の追憶』の分析で示したとおり、複雑な技法上の迂回を捨て、直接「対象に魅せられること」が与えるのは、本当の出口へは通じない「擬似具体性」にすぎない。それが最終的に生み出すのは、社会の「暗い側面」に対する想像的な解決である。さらに悪いことには、この攻撃的な「暗い側面」を拒むどころか、それへの精神病的な同一化を呼び起こす可能性さえある。この意味で、藤本タツキの作品は、「2020年代の想像力」という問いに提出された一つの答案と位置づけるべきだ。ただし、ここでの「想像」は、ラカン派の精神分析理論に即した厳密な意味で理解する必要がある。ラカンにとって、想像的なものは、ナルシシズム、虚偽の同一化、自己閉塞の領域に属する。それは主体に、基本的な欲求を満たす単純明快な図式を与えることで、主体自身と外部世界の双方にある、現実界にかかわる矛盾を回避する手助けをするのである。
こうして、純粋に技法の水準にある「唯物論」から、物語内容の水準にある「観念論」へと移る、複雑に絡み合った分析を経て、私たちはついに、それ以上は越えられない史的唯物論の地平にたどり着く。この地平に立つなら、京都アニメーション放火事件の犠牲者を追悼するために、事件を物語に重ねた『ルックバック』の、深く心を揺さぶる描写を、私たちは適切な仕方で退けなければならない。そして、その重ね合わせ自体を問題にすることで、放火事件とその犯人の擬似具体的な像が、これからの十年、日本のアニメ・漫画・ゲーム(ACG)作品の想像力をいかに捕らえていくかを予言すべきである。また、この像の吸引力が、後期資本主義のもとでの絶望と意気消沈に対する想像的な補償なのだと、明確に認識しなければならない。停滞と衰退の2020年代には、世紀末に世界市場と多元的な社会へ向けられていた楽観的な情熱は、無調の世界に浮かび上がる攻撃的な他者の像に取って代わられている。だからこそ、藤本タツキの漫画に潜む「対象に魅せられること」の歴史的限界を、冷静に見極めることが絶対に必要なのだ。その土台があって初めて、衰退の一途をたどる現実を、ついには超えていくことが可能になる。