屋頂現視研
← 中国語原文7 分で読了編集プレビュー

「2020年4月の新作アニメ『イエスタデイをうたって』をどう評価するか?」への回答

『イエスタデイをうたって』のアニメ第1話と冬目景の原作漫画を比較する。時代設定を保ちながら、キャラクターデザイン、場面を統合する脚本、画面構成やカメラの動き、照明を通じて、原作の退廃や読者との距離がどう変わったのか。能動的な主人公を描き、その感情に観客を引き込む、明るい青春ものへの転換を分析する。

著者: 鲜奶饼干翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

鲜奶饼干のプロフィール画像
鲜奶饼干

哲学は道楽、アニメは玄人。

本稿は第1話の放送時に書いたものです。

【画像多めにつきご注意】

第1話を見て、笑ってしまった。冒頭からもう笑っていた。

アニメを先に見てから原作漫画を読むと、きっと相当驚くはずだ。なぜか?

アニメと漫画では筋はほぼ同じなのに、表現が生み出す意味はまるで違うからだ。

どういうことか。いちばん簡単な例を挙げよう。

アニメ第1話で初登場する榀子の寄りのショット
図1。1
アニメ第1話で榀子が微笑むショット
図2。

これはアニメ第1話で、ヒロインの一人、森ノ目榀子が初めて登場するショットだ。気さくで、きれいで、明るい女性という印象を受けると言っていい。ところが漫画での榀子の初登場は、こうだ。

漫画で榀子が初登場する場面
図3。

まるで別人に見えないだろうか?

初めて漫画のこのページを読んだとき、私は榀子とハルの間に、主人公の知らない重大な確執でもあるのかと思った。ひょっとして深い恨みがあるのでは、とさえ疑った。アニメでは、こういう疑問は生まれない。漫画の表現には謎めいた奥行きがあるのに、アニメの表現は平面的だからだ。

アニメと漫画の榀子のキャラクターデザイン比較
図4。

もう少し細かく見てみよう。比べると分かるように、アニメの榀子の目は球のように丸く、瞳も大きめで、よりかわいらしく見える。一方、漫画の目はもっと細長く、目尻がわずかに下がっている。アニメの眉は漫画より明らかに薄く、漫画では眉と目の間隔がアニメよりずっと狭い。もちろん、下まぶたの線をとても太く描くという、冬目景先生ならではの特徴もある。アニメの下まぶたは、かなり目立たなく描かれている。このキャラクターデザインの変更によって、もともとは内にこもった、冷淡で謎めいて見える人物が、より活発で明るい人物像へと変えられた。おそらく、漫画後期の基調に合わせたデザインなのだろう。

この基調の変更はキャラクターデザインにとどまらず、第1話全体を貫く中心的な戦略になっている。

まずは、分かりやすい内容の変更から話そう。

アニメでハルが主人公にたばこをねだる一連のカット
図5。
漫画でハルと主人公がたばこについて話す場面
図6。

まず、道徳意識の違いから。

アニメでは、高校生くらいの年齢のはずのハルにたばこをねだられると、主人公は激しくむせ、ひどく驚いた様子を見せる。当然、たばこも渡さない。ところが漫画では、一応ひと言尋ねはするものの、ほとんどためらわずにたばこを差し出す。その後、公園で再会したときも、アニメのハルはやはりたばこを吸わない。漫画では、たばこを渡すくだりさえ省き、ハルと主人公が一緒に吸っている。喫煙はコミュニケーションの行為だ。一緒にたばこを吸うことで、ハルと主人公は同じ空間だけでなく、心の状態をも共有する。漫画の二人にはともにどこか退廃的なところがあり、それも喫煙の持つある種のイメージと重なる。アニメは、この退廃的な気質を描かないことを選んだ。

もっとも、この程度の変更なら、単にアニメの放送倫理上の規制ではないかと思う人も多いはずだ。もちろん、アニメが変えたのはこれだけではない——

漫画の冒頭で主人公の家のガスが止められている場面
図7。
漫画で主人公が店内で家賃・ガス代・水道代を思い浮かべる2コマ
図8。
漫画のコンビニの募金箱をめぐる場面
図9。
漫画でハルがマニキュアを持ち出したことが分かる場面
図10。

漫画の冒頭で、起きた主人公は家のガスが止められていることに気づく。その後の描写から、ガスを止められたのはこれが初めてではなく、いつも止められてからでないと対処しないことが分かる。男友達が訪ねてくる場面でも、冬目景先生はこの流れを引き継いでいる。ガスが使えず温かい飲み物を作れない主人公は、友人にコップ一杯の冷たい水を出す。家賃、水道代、ガス代。主人公はひどく金に困っていて、どれも払えず、しまいにはコンビニの募金箱にまで目をつける。しかも、こうした行為に及ぶのは主人公だけではない。後に、バイト先の先輩が募金箱を確かめているのを見て、主人公は不安になるが、実は先輩も募金箱から金を盗んでいたことが分かる。ヒロインの一人、ハルでさえ例外ではない。後で返しはするものの、彼女もさほど抵抗を感じることなく、コンビニからマニキュアを盗んでしまう。

未成年の喫煙や、ちょっとした盗み。漫画の登場人物たちは、社会規範に反する不良行為にわりとあっさり手を染める。アニメでは、こうした要素が完全に削られている。

では、なぜ漫画はこうなっているのか。冬目景先生が『イエスタデイをうたって』を描いていた1998年は、まさに日本のバブル崩壊後の不況期だったからだ。無数の企業が倒産し、不動産価格の暴落、大量リストラ、さらにはそれに続く暴力犯罪や自殺の急増と、災厄が次々と襲った。その時代を生きる若者には、どこにも出口が見えなかった。視線はもはや広い外の世界へ向かわず、自分自身の内面へと戻っていく。こうした時代背景は、社会の倫理規範を機能不全に陥らせただけでなく、漫画の退廃、迷い、停滞、能動性の欠如という気質が形作られる前提にもなっている。

アニメの時代設定を示すカセットプレーヤーとヘッドホンの設定画
図11。

今では、原作の時代設定を現代に変えるアニメ化作品も多い。うまくいくものもあれば、笑うに笑えない問題を起こすものもある。たとえば、通信手段が今ほど発達していなかった時代には、偶然の出会いや道に迷うこと、連絡がうまくつかないための誤解や想像は、ごく容易に起こった。当然、当時の作り手たちも、そうした仕掛けを盛んに利用した。だが、それを今に持ち込むとどうなるか。会う約束をした二人が、ちょっとした偶然ですれ違う。そのためにあちこち駆け回って疲れ果てるのに、ポケットから携帯電話を取り出して電話をかけようとはしない。こんな展開に、どうして納得できるだろう?

『イエスタデイをうたって』は、それとは正反対だ。放送前の宣伝では、アニメは原作の時代背景に徹底して従うと告知されていた。主人公たちも固定電話で連絡を取り合う。カセット式の携帯プレーヤーもブラウン管テレビも、物語に使う小道具から背景に置くものまで、意識的にその時代を象徴する品が選ばれている。ところがアニメの作り手は、明確な意図を持って作品の気質を変えた。これは単なる筋の変更ではない。きわめて細やかなやり方で、漫画の基調を根本から入れ替えているのだ。

次は主人公の行動について。

アニメで榀子の名前を聞いた主人公の反応
図12。
アニメで榀子が戻ってきたと知り驚く主人公
図13。
アニメで主人公がテーブルに突っ伏す誇張されたリアクション
図14。
漫画で榀子の消息を聞いた主人公の反応
図15。
漫画で過去を思い出し、テーブルに伏せる主人公
図16。

男友達が家を訪ねるこの場面で、アニメの主人公は「森ノ目榀子」という名前を聞くと、明らかに一瞬はっとして、動きを止める(図12)。榀子がもう戻ってきていると知ると、口からたばこが落ちる。同時にカメラがすばやく上を向き、驚きを強調する背景の表現とクローズアップが相まって、その驚きの大きさを演出する(図13)。その反応を見た友人は、榀子と付き合っていたのかという致命的な質問をする。主人公はたちまち力を失い、テーブルに頭を叩きつける(図14)。

漫画では、まったく様子が違う。同じように驚き、たばこを落としはするが、反応がそこまで大きく表に出るわけではない。コマ割りも客観的に出来事を追うだけで、誇張や強調を加えていない(図15)。次のページでは、漫画の主人公もテーブルに伏せている。しかし、これは驚いた結果ではない。過去を思い出しながら、気だるげに体の力を抜き、そのままテーブルに伏せただけなのだ。同じような行動を取らせても、脚本と演出をわずかに調整することで、その意味は大きく変わる。そこから生まれる雰囲気も人物の性質も、まったく別のものになる。

アニメ冒頭の外出と自転車に乗る場面の連続した画面構成
図17。

だから私は、アニメの冒頭——正確には最初の30秒——から笑ってしまったと言ったのだ。漫画の最初の数ページをめくってから、もう一度アニメを見てほしい。感情の基調がはっきり違うことに気づくはずだ。まず、先に述べたとおり、ガスを止められたことも、ひどく金に困っていることも、アニメにはもうない。冒頭では主人公の散らかった部屋や床一面のごみ(それに彼のカメラ)も見せてはいるが、その後の主人公には、退廃的な様子がほとんど見られない。それどころか、テンポのよい編集のなかで、主人公はあっという間に家を出る。続いて、自転車のスタンドを蹴り上げる動作をクローズアップで手際よく見せる(図17左)。場面をつなぐ、人物のいない情景ショットでは、前景と後景のピントをすばやく切り替える(図17右)。そこに軽快で前向きなギターの音楽が加わり、この一連の場面は、活気と生命力に満ちた朝として描かれる。漫画が狙った、人物との間に距離を置く異化の効果や、停滞した気分、無頓着さとは、まるで違う。

物語のクライマックスでも、アニメはこの改変方針を貫く。そこで違いはいっそう大きくなる——

アニメで主人公が振り向き、自転車に乗って告白に向かう場面
図18。
アニメで転倒した主人公が人生をやめたいと叫ぶ場面
図19。
漫画で先輩の言葉を受け、主人公が榀子の家を訪ねるまでのコマ
図20。
漫画で転倒した主人公が空を見上げる場面
図21。

バイト先の先輩に励まされ、主人公はついに、もう逃げずに榀子へ告白しようと決心する。クライマックスが近づく。このとき、作り手は何をどう見せるのか。藤原監督は、この決定的な瞬間を直接見せる(図18)。主人公は足を止めると、すばやく振り返って自転車に乗る。その後、主人公を追うショットの背景は、しだいに速度を上げて後ろへ流れていき、足元に寄ったショットが懸命にペダルを踏む動きを見せる。視覚的なリズムは徐々に速まり、私たちの気持ちも主人公とともに高揚し、いよいよ告白へと向かう。対して漫画でとても面白いのは、冷淡な基調を保つために、私たちが主人公の心理状態から引き離されながら、同時に、異なる時点での彼の内なる声を聞かされることだ。先輩の言葉を聞くと、コマはそのまま別の場面へ移る(図20の第2コマ)。続く第3コマで読者に示されるのは、主人公が決意して行動した結果であって、アニメのような、決意するその瞬間ではない。語りの省略によって、私たちは否応なく、主人公の高ぶる感情と距離を保たされる。

告白に失敗した後には、もっと分かりやすい変更がある。アニメでも漫画でも、主人公は自転車を飛ばして去っていく。だが、転んだ後、漫画の主人公はただ空を見ながらつぶやくだけなのに(図21)、アニメの主人公はなんと「もーーー人生やめてぇー」と大声で叫ぶのだ(図19)2。カット割りもこの動作に合わせ、まず頭を振る動きをすばやい編集で見せ、続いてカメラを一瞬で空へ振り上げる(藤原監督はこのカメラの動きを飽きもせず繰り返す)。そうやって、主人公の勢いを盛り上げている。

ここまでくれば、もうまとめていいと思う。漫画の主人公が、やや退廃的で堕落しており、能動性を欠き、いつも環境の変化に受け身で反応する人物なのだとすれば、アニメの主人公は、もうすっかり前向きな好青年だ。


ここまで長々と話せば、しびれを切らす人もいるだろう。で、結局この改変はいいのか、悪いのか? この先のアニメには期待しているのか?

いいところも悪いところもある、というのが私の答えだ。

では、何がいいのか。まず、原作ファンならスタッフの狙いはかなりはっきり見えるはずだ。これらの改変はすべて、原作の後期に合わせるためのものなのだ。『イエスタデイをうたって』の長い連載の間に、漫画全体の基調は少しずつ変わっていった。アニメの尺、放送期間、制作上の要請を考えれば、作品全体の基調を統一する必要があり、その基準が後期になるのも自然なことだ。だからアニメの改変は、表現の性質を変えてはいるものの、いずれも作品に一貫性とまとまりを持たせるためのものなのである。

次に、放送前の宣伝と実際に出来上がった第1話を見るかぎり、アニメスタッフの力量はかなり信頼できそうだ。経験豊富な藤原監督は、今回の第1話でも水準を落としていない。田中仁の脚本の改変を見ても、「原作ファン」というのは看板倒れではないと確かに思える(『Rewrite』の原作ファンを装って、実はただの篝厨、原作アンチという、どこぞの天衝とは違う)。天下一の演出厨(自称)である私にとって、第1話を見ていちばんうれしかったのは、実はここから話す部分だ。では、演出と脚本がどこで基礎力と底力を見せているか、見ていこう。

アニメでバイト先の先輩がハルを誘う一連の演技
図22。

尺の都合で、アニメ第1話は漫画の複数の場面をたびたび一つにまとめている。そこで肝心なのは、ドラマ上の役割を果たしつつ、不自然にしないことだ。第1話はその基本を押さえるだけでなく、さらに細部を豊かにしている。図22の場面で、金髪の先輩は、ハルがカラオケへ行ったと聞いて彼女を誘う。ところがハルが即答で応じると、先輩は一瞬きょとんとし、それから首をかく。これは原作にはない、アニメ独自の細かな芝居で、先輩の人物像に厚みを加えている。何気なく口にした誘いは本気の誘いではなく、人付き合いのなかで場を和ませるための話のきっかけにすぎなかったのだ。それで即座に承諾され、金髪の先輩は予想外の返事に戸惑う。同時に、画面内の人物の配置と動きも的確で、観客の視線を自然に導いている。先輩とハルの会話が終わりかけたところで主人公が立ち上がり、先輩の姿を遮る。それに合わせて語りの焦点が移り、ハルが振り返って主人公を見て、彼に会いに来たのだと告げる。

コンビニに入ってきた榀子の微笑みと袋を持つ手の動き
図23。
榀子が来店した場面の店内の2カット
図24。

続いて、もう一人のヒロイン、榀子が登場する。図23では、榀子の目がフレームによって半分切られている。一つには、主人公を見たときの口元の笑みを強調するため。もう一つには、顔を画面の中心から外して捉えることで、彼女の内心をほのめかすためだ。次のショットで、榀子がレジ袋を持つ手をわずかに握り締めるのも、同じ発想の演出である。その後、この袋には同窓会の残り物が入っていて、主人公がろくに食べていないのではと気にかけた榀子が、わざわざ持ってきたのだと分かる(そして、主人公の暮らしが実際に彼女の想像どおりであることを、私たちは知っている)。アニメはこの細部を新たに作り、人物にもう一つの面を加え、行動の意味や動機を豊かにした。それだけでなく、場面をまとめたことで、そこに新しい要素も生まれている。金髪の先輩の、うらやましい、妬ましい、憎らしいという気持ちだ。原作漫画でこの場面にいるのは、主人公と榀子の二人だけだった。アニメでは場面の統合によって構造がより立体的になり、まったく新しい意味が生まれ、ドラマの緊張が傍観者である第三者にまで広がった。

榀子の退店と主人公が上着を着る動作をつなぐマッチカット
図25。
アニメでコンビニからファミリーレストランへ移る場面
図26。
漫画で主人公と榀子がレストランへ向かう場面
図27。

そのまま榀子に誘われ、主人公はレストランへ向かう。漫画では(図27)、ここでしばらく主人公の物思いと回想が描かれる。先ほども触れた、主人公の内面に目を向ける漫画の基調が、ここにも表れている。対してアニメでは、先輩が加わったことで、よりにぎやかな場面を組み立てられる(図25)。榀子がドアを開けてコンビニを出ると、すぐにマッチカットでテンポよく画面が切り替わり、主人公はすばやく上着を羽織る。榀子と出かけるのが待ちきれない様子がそこに表れる。金髪の先輩も駆け寄って、あの美人は誰なのかと尋ねるが、主人公は軽く別れを告げて質問をかわす。そして短い場面転換のショットを挟むと、私たちはもうファミリーレストランに連れていかれている(図26)。漫画で主人公の物思いや内気な性格を描いていたくだりは、アニメでは、歯切れのよい引き締まった場面構成と笑いどころに置き換わっている。

もう一つ、場面の周囲の環境——背景や光、人の配置——をどう演出に生かしているかも話したい。

漫画で主人公と榀子が夜道を歩く2ページ
図28。
漫画で主人公と榀子が住居の前で話すページ
図29。
アニメで描かれる2度の夜の散歩と街路の環境
図30。
アニメで榀子の住まいの前を街灯が照らすショット
図31。

漫画の冬目景先生は、実のところ、周囲の環境を演出に生かそうとはあまりしていない。コンビニでも、ファミリーレストランでも、夜の街路でも、背景は語るうえで必要な状況を客観的に示すだけで、演出にそれ以上の役割を果たしてはいない。雰囲気を形作るのは、冬目景先生が場所を問わず一貫して用いる、冷ややかで読者に距離を取らせる異化の手法である。

アニメ第1話では、できるかぎり場所を演出効果に利用し、雰囲気を盛り上げている。漫画の夜の散歩は薄暗いが、アニメはもっと明るくしている(図30)。主人公と榀子は夜道を歩くが、この夜は二人を怖がらせたり、不安にさせたりするものではない。逆に、演出は光源をはっきりと示し、十分な明るさを与える(日本のアニメにおける上方からの照明の慣例については、羊廷牧氏の記事を参照)。さらに、通りには意識的にほかの歩行者が配置されている。この歩行者の配置は、もちろん偶然ではない。2度目の夜の場面でも、背景には通行人がはっきりと描かれている(図30左下・右下)。これは、ほかの人も行き交う公共の場所だという感覚を作る手段なのだ。

その後、二人が榀子の住まいに着くと、演出はさらに繊細になる(図31)。ここには漫画にはない街灯が置かれ、照明になっている(人の目線と同じ高さにあるこの街灯と、それまで高いところから照らしていた光とでは、表現がどう違うか考えてみてほしい)。撮影処理によって、場面はそれまでより暖かな光に包まれる。主人公と榀子の顔にも、街灯の位置に合わせて陰影がつけられ、二人の顔立ちが彫り出される。そこから、どこか深みのあるロマンチックな雰囲気が生まれる。

アニメで踏切の警報灯を映し、榀子とハルの出会いを描くショット
図32。
アニメで電車を光源にして緊張感を作る一連のショット
図33。

ただ、どの場面も巧みに演出されているわけではない。榀子とハルが出会う場面では、緊張を一気に高めるため、赤い警報灯を点滅させ、電車を光源として使い、視覚と音の両方で圧力をかける。私にはどれもわざとらしく感じられ、作品から気持ちが離れてしまった。ここを見たときは思わず声を出して笑った。電車はアニメで非常によく使われる演出装置だし、客観的に言えば、この一連の場面は技術的な出来も悪くない。だが、話が緊迫したとたんに電車が飛び出してくるのは、いくらなんでも作り手の演出意図が見えすぎる。弾幕コメントにさえ、「戦術電車」と呼ぶ人が大勢いたほどだ。

漫画で黒地に置かれた大学時代の回想の2ページ
図34。
漫画で余白と四角い枠によって回想を表現するページ
図35。
アニメの回想場面の画面処理
図36。

長所の話はここまでにして、今度は改変の問題点に戻ろう。話は単純で、ここまでの比較からすでに十分見えている。アニメの脚本から演出までを貫く戦略は、漫画の退廃、異化、能動性の欠如を、もっと青春らしく前向きで、情熱に満ちた調子へ変えることにある。脚本の立体感や豊かさも、演出の積極性、歯切れのよさ、テンポのよさも、すべてこの最終的な目的のためのものだ。先に述べたとおり、この転換には価値がある。だが同時に、原作漫画に折々現れる否定性と、暗示がもたらす奥行きは消されてしまう。漫画で距離を保って読むことが、アニメでは人物の感情に入り込んで見ることへと変わった。

そのため、アニメの回想場面も漫画とは質的に異なっている。漫画の回想は、遠く、見知らぬもののようで、けだるく、距離があり、失われようとしている。冬目景先生は、台詞も内心の言葉も、ふつうの吹き出しではなく意図的に四角い枠へ収める。白い背景と、省略された断片的なイメージが、それとともに感情の距離を作り出す。アニメにも、上下の黒い帯、画面に引かれたハッチング、少しくすんだ色、さらには動作の省略や漫画風のコマ割りが見られる。こうしたカット構成、色指定、撮影の手法は、回想との距離を示してはいる。それでも、これらは装飾的な、美的効果にとどまっている。なぜなら、アニメの回想は実際にはまだとても鮮明で、ほとんど色あせていないからだ。観客にとっても主人公にとっても、ありありと目に浮かび、手を伸ばせば届く。これも、能動性に欠ける漫画の主人公と、能動性に満ちた前向きなアニメの主人公を分ける、重要な表現上の違いである。

だから、アニメの改変には、いいところも悪いところもあるというのが私の結論だ。原作冒頭の言葉にできない謎めいた雰囲気や、表現の奥行きを重く見る観客にとって、アニメは間違いなく減点になる。ただし、アニメそれ自体としては、作品全体に十分なまとまりがあり、観客をその美的な体験へ引き込む力も存分に発揮されている。この先も、出来の面で期待を裏切ることはないと信じている。


初めて知乎の回答を書いてみたら、本当に疲れるものなんだな……。

最後に、少しだけおすすめを。時代の変化がドラマの手法やロマンに与える影響については、@塔塔君Minkun の、多くの「いいね」を集めたこちらの記事を読んでみてほしい。

本文終わり
注02

注釈

  1. 訳注:図版の一部には、中国語版の漫画や中国語字幕付きの映像を比較資料として掲載している。 ↑

  2. 訳注:台詞の表記はアニメ公式の第1話紹介による。 ↑

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。