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アニメーションと現実、あるいは高畑勲のリアリズムの座標

高畑勲の生活アニメを座標軸として、カメラと空間、運動と時間、現実と記号という三つの側面から、アニメーションにおけるリアリティの成り立ちを論じる。

著者: 一条翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

はじめに:本文は屋頂現視研 拾荒戦略 Rags Drum 2020前夜祭+後夜祭の通過稿です

一条の肖像
一条

絶え間ない雨が紙コップに降り注ぐように、言葉があふれ出している。

問題は、自然が実際にこれらの絵画作品に似て見えるかどうかではなく、
このような特徴をもつ絵画を、人が自然の物体として読み取れるかどうかである。
——エルンスト・ゴンブリッチ

はじめに

藤津亮太は『たまこラブストーリー』(2014)の評で、日本アニメーションにおける日常生活描写の一つの流れを描いている。それは、高畑勲が監督した『アルプスの少女ハイジ』(1974、以下『ハイジ』)によって始まり、開拓されたものであり、『魔法のスターマジカルエミ 蝉時雨』(1986)と『たまこラブストーリー』はその後継者だという。彼はこう書いている。「意図的にドラマ性を排除し、日常の描写を積み重ねる、いわゆる『生活アニメ』のスタイルは、『アルプスの少女ハイジ』から『母をたずねて三千里』(1976、以下『三千里』)までの間に、一つの完成を見た」(1)。

私たちは、『ハイジ』と『三千里』という二本のアニメーションに、高畑勲が、生活の平凡で完全な、ありのままの姿を客観的かつ冷静に描こうとした考えを見いだす。彼はそのような考え方がアニメーションでも実現できることを証明し、同時代の他の作り手との差異を示した。この二本の「生活アニメ」が、ドラマ性に頼らず、日常の描写を積み重ねて成立するには、必ずリアリティを土台にしなければならない。観客はアニメーションのなかから現実感を得なければならず、生活アニメと観客のあいだには、「登場人物が実際に生きている」という心理的な了解が築かれなければならない。

そこで高畑は文化人類学的な視点を取り、①社会生活の背景(衣食住、教育制度、労働環境、政治経済など)を設定し、②自然環境と地理的条件(気候や温度、目に見える光、山河や海、大気系など)を設定することで、「実際の人間の生活」をもとに舞台空間を設計した。(2)これは現実へ導くための大まかな指針になる。しかし、アニメーションの空間をどう構築するか、登場人物を舞台上でどう動かすかは、単なる具体的な操作上の問題ではない。さらに深いところにあるリアリティの問題にも関わっている。こうしたリアリティの問題への対処こそが、高畑のリアリズムの核心をなしている。

本稿では、高畑の生活アニメを手がかりに、アニメーションのリアリティの問題について素朴な考察を試みたい。扱うべき問題は多く複雑だが、ここではまず二つの重要な問題を示そう。一つは方法論に関わり、もう一つはアニメーションの本性に関わる。①アニメーションはいかに現実を表現するのか。②アニメーションはいかにして現実を表現できるのか。(後にわかるように、これは「①アニメーションはいかに時空を表現するのか。②アニメーションが表現する時空の性質とはどのようなものか」という二つの問いと切り離せない。)

実写の領域では、映画のリアリティの問題がすでに詳細に論じられ、多くの著作がある。ここでアンドレ・バザンに触れないわけにはいかない。彼が提示した映画映像の存在論、「映像と、客観的現実にある被写体との同一性」は基礎的なものであり、この考えをめぐって一連の映画理論と批評方法が築かれたと言える。さらに重要なのは、高畑勲とバザンが、アニメーションと実写という別々の領域に位置しながら、メディアのリアリティへの向き合い方に接点があることである。

『三千里』の制作時、高畑はイタリアン・ネオレアリズモ(たとえばヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(Ladri di biciclette, 1948))の影響を受け、社会の現実を苛烈に描いた。一方、バザンがイタリアン・ネオレアリズモの積極的な擁護者だったことは言うまでもない。鈴木敏夫によれば、高畑はしばしばバザンの『映画とは何か』に言及していた(3)。高畑自身も、『映画とは何か』に収録された「禁じられたモンタージュ」を読むことで、「危機をはらんだ対立する人物を同一画面に収める」「縦の構図」の重要性を確認できると述べている(4)。したがって、バザンの映画理論が高畑に何の重要な影響も与えなかったとは、考えにくい。

バザンの理論は、現実に向き合う三つの原則を掲げる。①対象の現実、②時間と空間の現実、③物語構造の現実。そして、それを方法論として実現するのが、深焦点ショットの理論である(5)。

『現実の時間を尊重し、演技主導型を貫く――高畑勲演出の技法考』(6)で、叶精二はこう書いている。「高畑演出の基盤には、次の三つの特徴がある。『全編を固定カメラ位置(Fix)による定点観測の視点を基本とすること』、『10秒を超える長回しを多用すること』、『上記二点の前提となる緻密な場面設計と作画(演技)設計』」。このうち「固定カメラ位置」は、高畑の冷静で客観的な抑制の効いたスタイルの源の一つである。「長回し」はバザンの深焦点ショット理論における重要な要素であり、カット割りや編集に比べて、空間の連続性、時間の持続性、事物の実際の関係を尊重する。

藤津亮太が示した生活アニメ史の見取り図に沿って見ると、この流れには固定カメラによる長回しを好む他の演出家もいる。たとえば後の安濃高志(『めぞん一刻』(1986)第27話、『魔法のスターマジカルエミ 蝉時雨』、『ヨコハマ買い出し紀行』(1998))や望月智充である。安濃には、音楽を大胆に捨てて環境音を用い、風景のゆっくりした変化によって時間の経過を具体化し、人物の心象をひそかに宿らせ、生活の詩情を時間のなかに自然に生み出すような長回しがある。望月の『トワイライトQ』(1987)第1話は全編が固定カメラ位置のショットで構成され、『セラフィムコール』(1999)第2話に至っては全編が一つの監視カメラ映像だけでできている。『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』(1988)は、長く息苦しいショットによって、青春の戸惑いと苛立ち、三角関係の窒息感を意図的に表現している。

この流れに属する演出家には高橋ナオヒト(『To Heart』(1999))もいる。彼の演出の源流は出﨑統にあり、方法論は他の演出家と異なるかもしれないが、考え方は同じだ――「何も起きていないのに、何かが変わったように見える」(1)日常生活の表現、些細な細部の描写である。

この流れに属さない押井守や富野由悠季らも、高畑勲から大きな影響を受けたと公言している。この二人はいずれもロケハンと生活感の表現を重視しており、押井は固定カメラによる長回しをしばしば様式化して用いる。

『めぞん一刻』第27話の画面
『めぞん一刻』第27話。
『ヨコハマ買い出し紀行』の画面
『ヨコハマ買い出し紀行』。
『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』の画面
『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』。

高畑がもたらした影響を検討し、これらの演出家のスタイルを比較する研究は、別の複雑な課題になるだろう。実際、高畑のリアリズムは、20世紀のアニメーション史において避けて通れない大きな山であり、その作品の変遷をアニメーション史の「動的な座標軸」と見ることさえできる。出﨑統と同じように、彼の系譜はアニメーション界を覆う大きな網を織り上げている。

本題に戻ろう。バザンの映画理論や固定カメラによる長回しのように、実写の方法論がアニメーションの参考になりうる。しかし、アニメーションと実写はそもそも本質的に異なるのだから、表現方法と実現方法にも一連の差異があるはずだ。それは先ほどの問いを考えるうえで示唆的である。以下では、主としてこうした相違を記述・分析することで、アニメーションのリアリティの問題を素朴に考察し、それを大まかに三つの側面に分ける。カメラと空間、運動と時間、現実と記号――ただし、この三つははっきり分かれているわけではない。第三の側面が本稿の核心であり、絵画について少し知識を導入する必要もあるだろう。

カメラと空間

まず説明しておくべきなのは、『ハイジ』において、高畑勲と宮崎駿が初めて本格的にレイアウトをアニメーション制作工程へ導入したことである。技術的な意味でのレイアウトを、ごく素朴に言えば、キャラクターの形態と運動を背景が示す空間に対応させることである。虫プロ系のレイアウトが平面設計や概念、印象を重視していたのに対して――たとえば出﨑統監督の『エースをねらえ! 劇場版』(1979)や、川尻善昭がレイアウトを担当した『浮浪雲』(1982)――東映系、Aプロ系のレイアウト(宮崎駿、芝山努)は、空間の表現とカメラ位置、レンズ特性への意識をより重視した。

宮崎は『ハイジ』『三千里』のレイアウト、つまり場面設計を連続して担当し、空間の統一性を技術的に保証した。望遠レンズと標準レンズの使用も、その後のアニメーション・レイアウト史の発展にきわめて重要な基礎を築いた。

実写で焦点が合っている場合、焦点距離が長いほど被写界深度は浅くなる。多層的な空間を見せるため、バザンの深焦点ショット理論では、主として広角の深焦点レンズによって時空の全体性をつくる。一方、セルアニメーションでは、平面上に確定された透視図をレンズを通してもう一度撮影するが、基本的に全焦点撮影が採用される。そのため、最初から被写界深度という概念を持たず、前景・中景・後景が明瞭な、望遠レンズ的な画面も可能にする。被写界深度が足りなくなる問題に出会わずに済むのである。

高畑勲は『ハイジ』『三千里』で望遠レンズを大量に用いた。広角レンズと比べると、望遠レンズは、①人が見たもの、さらに人間の脳が処理して生み出した画面に近いため、見ていてより快適である。②奥行き方向の強い圧縮によって、空間感と空気感をよりよく表現できる。③広角レンズの臨場感や不安感に比べて、より客観的で安定している。

遠近のつけ方が異なる三つの馬車配置と、奥から手前へ歩く馬の五段階を日本語の注意書きとともに示す、『三千里』のレイアウト設定の全体図
『三千里』における宮崎駿の設定(個人訳)。宮崎が奥行き方向の圧縮(馬車側面の変化)を重視していることがわかる。圧縮感が足りない絵や、単純に拡大・縮小しただけの絵はできるだけ避けている。遠い物体ほど側面は薄くなり、極端な場合には正面しか見えない。遠い物体の地面に落ちる影は細長くなり、極端な場合には一本の線になる。大きさの圧縮と深さの圧縮は反比例する。望遠レンズは深さの圧縮が強く、大きさの圧縮が弱い。広角レンズは深さの圧縮が弱く、大きさの圧縮が強い。詳しくは西沢晋の解説[a]を参照。

画面幅が狭い端末でも読めるよう、図中の注記を位置ごとに転記する。

  • 左上:「馬車が縦にこちらへ来る場合は、上図のようにパースを取ってください。」
  • 左下:「下図のような描き方はよくありますが、広角レンズで見ても不自然なので、絶対にこのようにしないでください。私は人間の目の感覚に合わせてレイアウトを設定しています。ご留意ください。」「遠景はとてもおかしくなりやすい。」
  • 中央上:「いけない典型例」「非常によくあるが、とてもよくない。」
  • 中央下:「この作品ではこう描いていませんが、これは意識的に広角レンズを使った例です。左の二つの画面の違いは、馬車のパースの取り方です。」
  • 右上:「こう描く。」
  • 右下:「3K中3の歩き。2Kなら中5。これはピクニックへ向かう途中の歩き。」

さらに、現実の空間と異なるのは、アニメーションの空間がいくつかの異なる空間の混合でありうることだ。「『道理』よりも『どう見えるか』が優先される」ことが、アニメーションの空間設計の原則になる場合が多い。たとえば、同じ画面で異なるレンズを使い、近くと遠くの対象に異なる構図(近くは広角、遠くは望遠)を与えて適度に誇張すれば、画面の迫力を増せる。また一点透視図では消失点の位置にこだわらず、正確な消失点より自分の感覚を優先できる。さらに、一つの絵の中に複数の視点を置き、観客の視線を導くこともできる。

実写が実物の「機械的複製」であるのに対し、アニメーションの空間はより可塑的であり、人間の目の美学にもよりよく適合できる。『三千里』の設定で宮崎駿は、「私は人間の目の感じ方に従ってレイアウトを設定した」と書いている。宮崎のレイアウトは、厳密な透視図(実写のレンズに近いもの)よりも、視覚的な認識と美学にもとづいて組み立てられている。そのため、感覚の次元では、観客にいっそう直接的なリアリティを与える可能性がある。

ある意味では、空間表現におけるアニメーションのこの能力を、実写に対する「原形質性」と呼べるかもしれない。この概念を初めて提唱したのはセルゲイ・エイゼンシュテインであり、彼はこう述べている。

「形態の束縛を拒み、永遠に固定されることを拒み、硬直化の影響を受けず、動的にあらゆる形態を取る能力……私はこの能力を『原形質性』(plasmaticity)と呼ぶ。なぜなら、ここで描画によって表象される存在は、すでに与えられた形を持ち、特定の外観に到達しているにもかかわらず、まるで原始的な原形質(protoplasm)のように、安定した形態を持たず、進化の階梯にあるあらゆる動物生命の形態を取ることができるからだ」(7)。

一般には、ここでいう「原形質性」は線画が自由に動く能力を指すと考えられており、「可塑性」に近い概念である。しかし、アニメーション研究者の土居伸彰は、原形質性とは視覚面での変化ではなく、観客の意識のなかで、抽象的な次元で生じる変化だと指摘する。それは、具体的な形を持たない、抽象的な(ユーリ・ノルシュテインのいう)「隠喩」を流動させる能力である。「隠喩」は図形そのもの(物質性)ではなく、それが呼び起こす流動的なイメージ(抽象性)だ。アニメーションは物理的な束縛から離れ、原形質性によって意識のなかに曖昧で複数化された現実を虚構し、複数の現実のあいだを漂う。そのことで、観客は自分と現実との関係が無数の可能性の一つにすぎないことに気づく。原形質性は現実から離脱することではなく、現実そのものを根底から揺さぶることである。アニメーションが性質を変えた現実を説得力たっぷりに提示するとき、実写映像は、あまりにも均質であるがゆえに、かえって嘘や虚構のように見えてくる。さらに言えば、アニメーションは「親密な」現実となり、実写は「疎遠な」現実となる。(8)(9)

この意味で、「隠喩化」されたアニメーションの空間は、高畑と宮崎において、現実へ導く方法論として効果的に利用されている。ここでの「隠喩」は身体の感覚性にもとづき、私たちの身体が世界を認識する仕方にもとづいて、もう一つの「現実」を示す。それは実写映像よりも、私たちの生理的本能に、私たちの身体に近い「現実」であり、私たちにいっそう親密に感じられるものなのだ。

次の「現実と記号」の節では、このリアリティの仕組みをさらに詳しく論じる。

先ほどのアニメーション空間への補足として、実は絵画の領域にも「複数の視点」による描き方が存在する。いわゆる散点透視であり、しかもかなり一般的なものだ。たとえばエドゥアール・マネの有名な《草上の昼食》(原文では The Picnic, 1863)では、一枚の絵のなかに複数の透視関係が存在している。

しかし、アニメーションの知覚の仕方は、静止した絵画とは大きく異なる。アニメーションでは、キャラクターがこの空間で動き、カメラが押し引きし、パンし、揺れ動く。この運動性と物語性こそ、アニメーションが静止画に対して持つ優位であり、私たちが「生命」を感じられる理由である。土居が言うように、「静止画で生命を見せるのに、魔法は必要ない。魔法は物語の次元、登場人物たちの境遇のなかで起きなければならない」(8)。

「複数の視点」による画面運動の代表として、金田伊功が担当した『銀河旋風ブライガー』(1981)のオープニングでは、一つの画面に俯瞰、水平視、仰瞰という三つの視点が現れ、それぞれが三人のキャラクターに対応している。空間の透視は歪み、しかも画面は歪んだ透視に沿って動き出す。氷川竜介はこれをこう評している。「普通、このようなレイアウトなら、本来は一枚の絵に収めることなど絶対にできない。それを平然と描いてしまうのがすごい。しかも、描いただけでなく、その歪んだ透視のまま動かしている。歪んだ画面がこうして回転していく感覚は、普通の想像力では絶対に描けない、金田さんだけのものだ」(10)。

金田レイアウト(とりわけ『無敵超人ザンボット3』(1977)での仕事)は、宮崎レイアウトと同じく、アニメーション史に深い影響を与えた。

『母をたずねて三千里』の回廊の画面に、緑の消失点線と、柵や敷石の方向を示す赤い補助線を重ねた透視分析
『〈母をたずねて三千里〉Layout浅析(上)』より。映像の機能性を実現するため、手すりとタイルで異なる透視を採用している。
『魔女の宅急便』ポスターにおける俯瞰と遠望の視点
『魔女の宅急便』ポスター(ghibliwikiより)。同じ画面に俯瞰と遠望の視点が同時に存在している。

運動と時間

「禁じられたモンタージュ」で、バザンはこう書いている。「ある出来事の主要な内容が、二つ以上の動作要素の同時存在を要求するなら、モンタージュは禁じられる。動作の意味が、物理的な近接、たとえ暗示的な近接であっても、それに依存しなくなったときにはじめて、モンタージュを用いる権利が回復する」(5)。これはモンタージュの禁止範囲を定め、深焦点ショット理論の適用領域を引くものだ。すなわち、一つのショットの内部にある空間の複数の層で、異なる動作を同時に展開することである。

しかし、手描きアニメーション、とりわけ週一回放映されるテレビアニメでは、そのように「異なる動作を同時に展開する」ショットはひどく難しい。しかも、一つのショットの時間が長くなるほど、観客は動いているキャラクターの芝居に注意を集中しやすくなり、アニメーターへの試練も大きくなる。特に1960~70年代は、予算不足、時間不足、人手不足がとりわけ深刻だった。したがってアニメーションは本来的に、「劇的時間」を表現するためにモンタージュを用いる傾向がある。

バザンはこう書いている。「場面をいくつかのショットに分解するやり方、そしてショットのモンタージュは、時間の表現主義に等しい。人為的で抽象化された時間に従って出来事を組み替えること、つまり劇的時間である。ネオレアリズモは、映画の娯楽性に関するこれら一般的な規則に、ほとんど全面的な挑戦を突きつけた」(5)。アニメーション演出において、劇的時間は非連続性を示し、そこには「心理活動の異質性」も含まれているのかもしれない。

運動をある程度省略・抽象化・単純化し、ときには拡大や切断を行い、さまざまな撮影技法を採用することで、虫プロは「対象が動いているとき、動きが必要かどうかに応じて運動をできるだけ減らしながら、それでもアニメーションとしてより動感のあるものにする」(11)ことを試みた。このような作画演出論は、まとめてリミテッドアニメーション技法と呼ばれる。一方、『ハイジ』『三千里』で高畑は、ドラマ性を排除する方向を好み、時間の経過を途切れなく追う運動を描くことで時間の持続性を保証し、演技によってキャラクターの微妙なところを表現した。ただし、これはもちろんリミテッドアニメーション技法を完全に排除したということではない。むしろ、対抗しながら妥協し、融合する姿勢を取ったのである。

テレビアニメの作画枚数を例にすると、『ハイジ』は一話あたり通常のテレビアニメの2~3倍、平均5000~6000枚だった(12)。一方、虫プロは『佐武と市捕物控』(1968)で少ない枚数の実験を行い、村野守美が担当した第9話はおよそ1200枚、第14話はわずか800枚だった(13)。

高畑勲、宮崎駿、小田部羊一ら一流のアニメーターとの協働が、高枚数の長編アニメーションにおいて作画の質を安定させる鍵だった。その後、高畑・宮崎・小田部の三人組が解散すると、『赤毛のアン』(1979、以下『アン』)では、宮崎駿の推薦を受けた近藤喜文が全話の作画監督を務め、驚異的なエネルギーで作画の質を統御し、極めて繊細なキャラクターの演技を実現した。(ちなみに、宮崎は『アン』第15話の後に画面構成を降り、第18話から桜井美知代が引き継いだ。一時は制作が困難に陥ったが、限界的な制作条件のもとで奇跡のように輝きを取り戻した。)

もう一つ具体的な場面を見よう。『三千里』第1話の終盤、マルコと母親が別れる場面には、1分を超える長いショットがある。前半は母親とマルコが別れるが、マルコは一言も発しない。母親が去った後も、30秒近くうつむいたまま黙っている。人々が歩き去り、マルコ一人が残ったところで、高畑は人物の内面へ入り込む、きわめて巧みなゆっくりしたトラックアップ(T.U)を行う。ひとりになったマルコの耳に、皆の別れの声が届く。ショットの長さとトラックアップによって人物の感情が蓄積されるため、続く短いアップショット(UP)でマルコの目に浮かぶ涙がひときわ強い衝撃を与える。感情が爆発したマルコは走り出し、転んでは起き、転んでは起きる。人物の線は簡素で、基本的に影もなく、動きも華麗ではない。むしろ、とても素朴だと言ってよい。それでも観客は、マルコの身体にあふれる悲しみを感じ取ることができる。井上俊之は、この一連の場面をレイアウトから原画まで宮崎駿が一人で手がけたのではないかと推測し、実写にはできない、心を直接撃つ演出だと考えている。井上はマルコが転ぶところに痛みさえ感じたという(14)。ここには、高畑が現実の時間を尊重し、完全な運動を要求したこと、そしてレイアウトと作画を支える強力なアニメーターが必要だったことが見えてくる。

『三千里』第1話、マルコと母親の別れの場面
『三千里』第1話。

一方、実は「二つ以上の動作要素」における「動作」は、バザンの言葉の核心ではない。核心は、二つ以上の要素のあいだにある関係、あるいは潜在的な関係であり、その相互関係が空間の統一性によって伝えられ、時間の表現のなかで強調されることである。

ロバート・フラハティの『極北のナヌーク』(Nanook of the North, 1922)で、イヌイットがアザラシを待つ場面について、バザンは「映画言語の進化」のなかでこう書いている。「狩猟に要する時間こそ、映像の内容であり、映像の真の対象である」(5)。動く狩人と静止した氷の穴が同じショットに現れることで、良好な空間の統一性が保たれ、狩猟の待ち時間にある緊張した関係も表現される。

アニメーションにおいては、実在する関係、あるいは潜在的な関係を強調する静止構図がとりわけ重要である。これは作画枚数を節約するだけでなく、表現力も高める。しかし、運動による支えがない場合、アニメーションは光と影や自然の微細な変化を表現するのが苦手なので、空ショット(BG only)や止め絵で時間の流れを表すのは難しい。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』(1995、以下『EVA』)第24話の終わり近くにある約1分間の止め絵では、BGMが流れ続けているにもかかわらず、観客はそれを時間の流れではなく、時間の停止として感じてしまう。

そこで、キャラクターが静止している状態でどう時間を表現するかが、自然にアニメーションの大きな課題となる。

『EVA』に先立つ『アン』第4話と『天使のたまご』(1985)は、いずれもこのようなショットを試みている。共通する特徴は、固定カメラ位置、一般的なショットより長い時間(『アン』は一つのショットが約20秒、『天使のたまご』は驚くべきことに2分以上)、複数のキャラクターのあいだに対峙、あるいは潜在的な対峙の緊張関係があること、キャラクターが動かない、またはほとんど動かないことである。

ただし、『EVA』と異なり、『アン』では手前の草むらの揺れや黒雲の横切り、『天使のたまご』では炎の揺れと消失、それに伴う明暗の変化によって、時間の流れを具体化することに成功している。

『新世紀エヴァンゲリオン』第24話の画面
『EVA』第24話。
『赤毛のアン』第4話の画面
『アン』第4話。
『天使のたまご』の画面
『天使のたまご』。

バザンと高畑勲、タルコフスキーと押井守という二つの組み合わせに、高畑と押井の映像に共通する根源を見いだせるかもしれない。押井も、「『ストーカー』(Сталкер, 1979)のような映画を作ってみたい」と直接認めている(15)。さらに押井は後の作品で、アニメーションにおける時間表現への新しい試みも行った。たとえば『イノセンス』(2004)の食品店の場面で、バトーに大量の精密な中割を与えたこと、『スカイ・クロラ』(2008)で草薙水素に与えた「静止した運動」、つまり無意識の微細な運動である。いずれも、時間の流れを重くする試みだった。

本題に戻ろう。庵野、高畑、押井のいずれも、キャラクターの運動から離れた時間を映像と結びつけようと試みている。これは、アニメーションで単に作画枚数を節約するために、口パクや目パチのような再撮影層・合成によって人物の口だけを動かしたり、まばたきだけをさせたりする方法ではない。その演出の目的は、観客の時間の流れをキャラクターの時間の流れと同一化させながら、観客の時間体験を増幅することである。観客が「待つ」ときの鑑賞心理は、キャラクターの内的心理とある種の同一化を果たしながら、同時にずれも生み出す。

これらのショットのいくつかでは、『EVA』と『天使のたまご』の時間には、その後の筋の展開に備える作用もある。キャラクターが次に行う動作のための演出上の準備であり、ある種、意図的に引き延ばされた「感覚運動状況」(the sensory-motor situation)と見ることができる。一方、『アン』のショットが置かれた場面は、ジル・ドゥルーズの時間イメージ(time-image)により近い。運動はもはや映像を推進する主な力ではない。

アンは馬車から飛び降り、遠くの崩れた柵に腰を下ろす。そして長い沈黙……やがて彼女は立ち上がり、黙って馬車へ戻る。ここでは、「感覚―行動の回路が断裂し、機能しなくなっている」。アンが離れていく行為が断裂を引き起こす要素となり、「この新しい要素は、知覚が行動へと延長されるのを妨げ、知覚と思考を結びつけるために働く」。こうして「感覚運動状況」は純粋な光学的・音響的状況(the purely optical and sound situation)へと変わる。静かに座るアンと、静かに座るマリラ。二人は、運動することの戸惑いと無力さのなかに陥っている。「予見可能で確定的な行動が起こるのではなく、いまここで即興的な出来事が到来するだけだ……潜在的な感情と精神は、行動の無力さと欠如によって姿を現す」(16)(17)。

ここでも『アン』を例に、高畑作品全体における時間の配分を考えてみよう。『アン』は、いわゆる生活アニメのスタイルが『ハイジ』『三千里』によって「一つの完成を見た」後の作品である。ところが驚くべきことに、第1話は演出方法論においていきなりさらなる探究を始めている。その前衛性は、前二作に比べても劣らないどころか、むしろ上回ると言ってよく、日本アニメ史に残る傑作回となった。

映像研究者の叶精二はツイッターで、『アン』第1話についてこう書いている。「実際の時間に忠実なゆっくりしたテンポ、長回し・Fix、過剰な台詞、実況風の男性ナレーション、客観主義など、全編が例外だらけだ」(18)。押井守もまた、高畑の時間の使い方に注目した。第1話がアニメーション制作の面で大きな影響を与えたとし、簡単に言えば、現実の生活で30分間に起きたことを、アニメーションでも30分かけて描いたのだという。テレビアニメでこんなことをしていいのか。そう考えると、彼は刺激を受けた(19)。

「現実の生活で30分間に起きたことを、アニメーションでも30分かけて描いた」というのは、相対的に誇張された表現である。しかし、高畑演出の前衛性を実に簡潔に言い当てている。第1話はいくつかのかなり長いまとまりからなり、それぞれが基本的に時間の「実録」である。時間の切断も圧縮もなく、観客の時間の流れはキャラクターの時間の流れと同一になる。

8分目、マシューが駅へアンを迎えに行くところから始まり、話が終わる時点でも、アンはまだマシューがグリーン・ゲイブルズへ戻る馬車のなかにいる。これは、徹底的に推し進められた記録映画的なスタイルだ。脚本がつくる緊張、アンの止めどない子どもらしい誇張話、広大な田園の美しい風景のなかで、観客はきわめて独特な時間体験を得る。一話の時間は長くもあり、短くもある。

実際、アンのこの二日間の連続した経験を描くのに、アニメーションは前半の五話を丸々使っている。第4話は冒頭から最後まで、基本的にアンとマリラが馬車のなかで話しているだけだ。馬車は第3話の終わりに出発するが、第4話の終わりになってもスペンサー夫人の家に到着しない。高畑は些細な細部を惜しみなく描き、バザンの現実志向の原則の第三項、物語構造の現実を実現しようとした。それによって、出来事の完全性が尊重される。

押井守はその後も、高畑勲が自分に与えた影響について改めて語っている。

「『赤毛のアン』からは、いったいどれほど多くのことを学んだかわからない。『じゃりン子チエ』(1981)にも大きな恩恵を受けた。何度見たかわからないからね。監督として、これほど役に立った作品はないと思う。業界の人間は皆そう言う。当時の高畑さんは、超一流の監督だったと何度でも言いたい。……映画全体という視点から、演出において時間軸を適切に使えた、まれな人だった。僕は本当に、必死になって彼の作品を見て勉強した」(15)。

高畑を座標軸として押井の作品を分析することも、別の複雑だが興味深い話題になるだろう。

現実と記号

バザンは「写真映像の存在論」でこう書いている。「透視法は、画家が三次元空間の幻影をつくることを可能にした。物体は、私たちの直接的な感覚に似て見えるようになった……しかし、人間の手で描かれたものである以上、画像への疑いは消えない。バロック絵画から写真術への移行における、もっとも本質的な現象……それは心理的な要因である。人間を排除し、機械的複製だけによって幻影をつくりたいという欲望を、写真は完全に満たした」(5)。

これが、バザンの映画映像の存在論、「映像と、客観的現実にある被写体との同一性」の核心である。つまり、「人間を排除し、機械的複製だけに頼る」ことだ。撮影技術の完成は、絵画の形の類似、そして写実主義絵画が形の類似を追求することを永遠に超えた。「造形芸術を、形の類似に執着する妄念から解放した」のである。そこで絵画は「模倣」(imitation)から「再現」(representation)へ、さらに現実の対応物とのあいだに類似性を要求しない、ネルソン・グッドマンのいう「外延指示」(denotation)へ移行した。

したがって、芸術としてのアニメーションのリアリズム、現実感の追求は、決して形の類似の追求であってはならない。たとえ現実へ導く演出方法論の一部が実写と似ていたとしても、である。

絵画はまず、人間がつくった視覚要素の組み合わせ、つまり「加法」である。造形(具体的な形象、幾何学的な形態など)、色彩効果(調子、陰影、透明など)、空間設定(平面、あるいは透視法によってつくられた奥行きのある空間)などが含まれる。私たちは、このような視覚要素を記号と呼んでもよいだろう。

アニメーションには、静止した絵画に比べて時間の次元が加わる。高速運動を表現するobake(動的な変形)や速度線の変化、さらにはtiming(個々の動作の速度とリズム)とspacing(その動作のなかで、フレームからフレームへ対象の位置がどう変化するか)、原画家が記すタイムシートまで、すべてをある種の記号と見ることができる。透視画が現実の「三次元空間の幻影」であるのと同じように、timingとspacingは現実の時間の「幻影」である。一定のコマ打ちによって、対象の位置の変化とフレーム間の関係から時間が生まれ、自由に操作される。ノーマン・マクラレンは、アニメーションのこの特性にもとづいて、こう定義した。「各フレームの上に何があるかより、フレームとフレームの間に何があるかのほうがはるかに重要だ……アニメーションとは、画面と画面の間に潜む空隙を操作する芸術である」(20)。

アニメーションのこうした記号的特徴について、田中達之はこう書いている。「『記号』表現そのものへの執着や嗜好、『あるパターンの表現』そのものへのフェティシズムこそ、漫画やアニメーションにおける絵の本質ではないか」(21)。アニメーションの素晴らしさは現実を模倣することにはない。記号そのものがはらむ再現の能力と、原形質として自由に変化する能力にある。身体を通じた現実世界の認識、分節(articulate)、想像によって(このとき記号は本来的に潜在的な「身体性」を備える)、もう一つの幻影世界が創造される。ここでは、観客が記号をどのように「見る」のかを素朴に分析する必要がある。幻影のなかにいる観客には、ベルクソンのいう記憶と知覚の双方向の過程が起きているのかもしれない。以下は、彼の有名な「記憶の円錐」の図である。

『物質と記憶』図5、記憶の円錐
『物質と記憶』図5。円錐SABSABは、私たちの記憶に蓄積されたすべての記憶を表す。底面ABABは純粋記憶、すなわち知覚によって複雑化されていない記憶であり、静止したまま保たれる。頂点SSは現在の知覚と行動を表し、絶えず前進し、運動平面PP(宇宙についての私の実際の表象)と接触する。身体のイメージ(image)はSSに集中する。また、SSはPPに属するため、平面を構成するすべてのイメージから作用を受け取り、それを返す。全体としての思考は、頂点SSと底面ABABのあいだを絶えず振動する。(22)

この図の鍵は、「現在の瞬間には、互いに反対方向の二重の運動がつねに交差している。絶えず記憶へ落ちていく知覚と、絶えず知覚になっていく記憶」である(16)。アニメーションの幻影のなかで、観客は現実世界での経験を「思い出す」。しかし、たとえば作画のなびき、爆発、歩き、走りを見ることによって、現実世界をあらためて認識する。

具体的な分析のために、絵画における内側と外側の輪郭線という要素を例に取ろう(この例を選ぶもう一つの理由は、これが後に論じる高畑作品の重要な焦点になるからだ)。現実の事物に線は存在しない。絵画の輪郭線は、現実にある「面」の縁をなぞるものにすぎない。それでも、現実の輪郭を「なぞる」ことのできる輪郭線は、絵画のなかで私たちの記憶と想像を呼び起こす、もっとも主要な手段の一つになっている。簡潔であれ複雑であれ、再現力の強い輪郭は、現実における対応する経験を私たちにすばやく「思い出させる」。私たちの記憶は「輪郭の知覚」に呼び起こされ、潜在的な記憶の平面ABABから頂点SSへ降りてきて、現在の知覚へと変わる。別の言い方をすれば、これが心理的な投射の仕組みである。私たちは記憶を動員し、目の前の図柄へ投射する。

同時に、輪郭線は本来的に多義性を備えている。絵画は現実の束縛から離れた記号として存在するため、それ自体が見る者の想像や思考を自由に刺激し、「隠喩」の流動を引き起こす。ここには記号の原形質性が潜んでいる。著名なウサギ―アヒル図を例にしよう。

アヒルとウサギの錯視図
『ウィトゲンシュタイン伝――天才の責任』より。

「この図の要点は、一つだけでなく複数のアスペクトのもとで見ることができる点にある。同じ図をアヒルとしてもウサギとしても見ることができる。アスペクトは変わるが、見ているものは変わらない。同じ絵が、あるときはアヒルになり、あるときはウサギになる」(23)。この錯視画は、私たちの投射能力を絶えず動員し、現実の経験を何度も思い出させ、さまざまな解釈を引き起こす。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの語彙を借りれば、これは私たちの「アスペクト知覚」(aspect-seeing)の能力、つまり、あるものを別のものとして「見る」能力を刺激する。この「〜として見る」(seeing-as)能力には想像力が必要であり、同時に私たちの文化、知識、記号の慣習(つまり潜在的な平面ABAB)も必要になる。さらに、ウサギ―アヒル図によって、私たちが見ている現実の幻影の背後には、形、線、影、色など、潜在的に複数の意味を持つ記号があることを、あらためて理解する。私たちはそうした記号から、画家が表現しようとしたさまざまなイメージを見分けるのである。

ただし、輪郭の再現力は正確さを意味しない。先に「カメラと空間」の節で述べたように、視覚的な真実を考慮して線遠近法を捨て、人間の目の感じ方に従って散点透視を採用すれば、物体の輪郭は変わり、引き伸ばされたり歪んだりする。現実の輪郭は必ずしも「正確」ではなく、標準が存在すべきでもない。エルンスト・ゴンブリッチはポール・セザンヌの絵画について、こう評している。「彼は、色彩の鮮やかさを犠牲にせずに深さの感覚を得ようとし、深さの感覚を犠牲にせずに秩序ある配置を得ようとした。その努力と探究のすべてにおいて、必要とあれば彼が犠牲にする用意のあったものが一つあった。それは、伝統的な輪郭の『正しさ』だった」(24)。

セザンヌ《大皿、グラスとりんご》
セザンヌ《大皿、グラスとりんご》(Compotier, Glass and Apples, 1880)。

この絵でセザンヌは、器の縁など、透視関係を歪めている。さらに、現れたり消えたりする輪郭線によって物体の明晰さを強め、不安定な空気と光のなかで形態を確定している。これは、初期印象派が見過ごした「自然の堅固で持続的な形」への追求である。ロジャー・フライは『セザンヌとその画風の発展』でこう指摘している。

「純粋な印象派の画家にとって、輪郭線の問題はそれほど切迫したものではなかった。彼らが関心を持ったのは視覚的な織物の連続性であり、輪郭線には特別な意味がなかった……しかしセザンヌにとっては、知性がきわめて強く、生き生きした分節(articulations)と堅固な構造への抑えがたい情熱を持っていたため、輪郭線の問題が苦悩となった。……そのため、この輪郭線はたえず失われ、また取り戻される。彼は輪郭の堅固さと、見かけ上の後退との矛盾を解決しようとした。その頑固さと焦燥は、実に感動的である。当然ながら、これはある種の重厚さ、さらには不器用さを導いた。しかし同時に、諸形体に、私たちがすでに注目した、忘れがたい堅固さと荘厳さを与えることに成功した。……一見したところ、量塊と輪郭はともに乱暴なほど人目を奪う。驚くほど簡潔で明快であり、明晰に把握されている。しかし長く見ていると、どちらも正確な定義を逃れようとする。輪郭の見かけ上の連続性は、実は幻覚である。というのも、その質感は絶えず変化しているからだ。もっとも短い曲線をたどる場合にも、一貫性は存在しない。……こうして私たちは、全体的な効果においては異常なほど単純でありながら、個々の部分は無限に多様な概念を、ただちに得るのである。……形態はこれほど荘厳なのに、すべてが震え、動いている」。

ここから私たちは、記号が潜在的に備える身体性を見いだす。輪郭線は、ほかの何ものでもなく、内的な身体感覚の現れである。セザンヌ自身の理念、「自然はそれ自体について語り、それ自体で完成する」のと同じように、頂点SSに集中する身体のイメージは、あらゆる知覚の出発点であり、行動の中心でもある。セザンヌは形態の堅固さと秩序を感じると同時に、自然の無限の多様性を感じた。輪郭線を通して、明晰さと無限性が同時に伝えられる。ドゥルーズは絵における「身体」の理解をさらに急進化させ、こう書いている。

「私は感覚のなかで私になると同時に、何かが感覚を通して到来する……同じ身体が感覚を与え、感覚を受け取る。客体であると同時に主体である。観客である私は、絵のなかへ入り、感じる者と感じられる者の一体化する場所に到達して初めて、何かを感じることができる……セザンヌが印象派を超えて残した教訓は、感覚が光と色彩の『自由な』、誰も介入しない(disembodied)関係、つまり印象のなかに存在するのではないということだ。それは身体のなかにある。たとえりんごの身体であっても。色彩は身体のなかにあり、感覚も身体のなかにある。空気のなかにあるのではない。感覚とは、描かれたものだ。絵のなかで描かれているものは身体である。客体として再現された身体ではなく、このような感覚を支えるものとして経験される身体(not insofar as it is represented as an object, but insofar as it is experienced as sustaining this sensation)なのだ」(25)。

主体へ向かう感覚(神経系、生命の運動、「本能」、「性格」)と客体へ向かう感覚(「事実」、場所、出来事)は切り離せない。これは、現存在(Dasein)が事物のなかに住まうという現象学的な見方である。絵のなかで描かれているものは、ほかの何ものでもない。「私の身体」なのだ。

ここまでの記号についての考察を踏まえ、次はアニメーションの領域へさらに進もう。小黒祐一郎との対談で、田中達之は「再記号化」という概念について語っている。田中によれば、記号にとって現実は踏み台であり、再記号化とは、「漫画(アニメーション)の記号的な表現を、現実を基礎として再検討し、再構築し、もう一度簡潔な漫画記号として提示すること」(26)である。これはゴンブリッチの「図式―修正」理論を思い出させる。もちろん、ここでいう「再記号化」は、画家が絵を描くときに、心のなかにすでにある図式を描写の必要に合わせて調整する、一般的な意味での「適合」過程ではない。それは、アニメーションの図式に対する、歴史的な意味を持つ実験的変革である。田中が例に挙げる『御先祖様万々歳!』(1989)における宇都宮理の仕事がそうだ。立体の捉え方でも光の表現でも、後続の作り手に深い影響を与え、磯光雄とともに作画史上のリアリズム革命を開始した。

私が思うに、再記号化の要点は二つある。①再記号化の過程で、現実は踏み台にすぎない。現実に近づくことではなく、私たちの現実に対する認識と分節を基礎に、等価な関係モデルを新たに構成することなのだ。図式の変革は、「類似性(likeness)の発見」ではなく、「等価性(equivalences)の発見」にもとづく。この等価性によって、私たちは一つのイメージに従って現実を見ることができ、現実に従って一つのイメージを見ることもできる。この等価性の基礎は、成分の類似性にあるというより、ある関係に対して生じる反応の同一性にある(27)。

②単純化された処理は、複雑な処理よりも効果的な場合が多い。再記号化は、冗長で迂回的な記号表現を省略し、「一つの効果を複数の効果として使う」単純化された処理を提示することだとも言える。たとえば『御先祖様万々歳!』で宇都宮は、以前の多くのアニメーションのように、頭部の陰影を頭と首の境目に層状に付着する影として表現しなかった。頭部を光の伝播を遮る障害物として捉え、頭のほぼ円形の影を直接、身体に投じたのである。従来のようにキャラクターの細部を強調するだけの影に比べれば、粗放に見える。しかしこれは、①頭部の立体感を引き立て、②光源の位置を直接示唆する。一つの影で二つの効果を得ている。現実の複雑な光と影の状況を極度に単純化したものなのに、かなり現実的に感じられる。影が現実に忠実かどうかなど、根本的には重要ではない。

『御先祖様万々歳!』第4話の画面
『御先祖様万々歳!』第4話。

高畑勲と宮崎駿らが『ハイジ』『三千里』で行った現実への志向も、同じく、現実を踏み台にして「大巧若拙」のアニメーション記号を再構築し、観客に現実感を与えるものだった。『ハイジ』第2話の、祖父が溶けたチーズを焼く場面を例にしよう。チーズという記号の構築は空前のものだった。チーズが溶ける幻影のなかで、観客はその滑らかさ、粘り、柔らかさ、明るさを見いだし、現実世界の「記憶」のなかで、滑らかで濃厚な口当たりを想像する。そこから多層的な体験を得るのである。井上俊之はこう述べている。「画面から余分な線が一本も見つからない。簡単な輪郭線とハイライト、陰影だけなのに、なぜかそのチーズは現実のチーズよりおいしそうに見える。情報量を極限まで減らした画面でも、観客はアニメーションから、私たちが実物に見いだす印象を取り出すことができる。これこそアニメーションの強みだ」(14)。私たちは、金色の塊の上に置かれた白い一点に対して、これほど複雑に反応する。そこから全体の性質を見て取ったかのように感じるのである。

『アルプスの少女ハイジ』第2話、溶けたチーズの場面
『アルプスの少女ハイジ』第2話。

もちろん、現実世界に画面のような溶け方をするチーズがあるわけではない。むしろ、現実から大きく離れているかもしれない。だからこれは現実の模写ではない。しかし見るとき、私たちは「溶ける」という現象を理解し、そこからチーズの性質を受け取る。それは現実(チーズと溶解現象)を見事に再現し、「現実のチーズよりおいしそうに見える」ところまで達している。運動を含め、質感についての一連の等価関係なのだ。一方、私たちの感覚や印象の流動をこれほど自在に呼び起こせるのは、アニメーションが備える原形質性による。アニメーションはもう一つの現実、つまり身体の現実を虚構する。再記号化とは、私たちの内的な身体感覚を再発見することなのである。

原形質のイメージは人間の意識を「前論理的で感覚的な思考」(幼児的、原始的な思考)へ戻し、人間を理性から解放して、一時的に論理と合理を忘れさせる(28)。私たちの投射は、実は選択的な記憶である。思い出すものが多いときもあれば、少ないときもある。この記憶と知覚の複雑な過程のなかで、私たちは現実感の差異を感じる。たとえば、宮崎駿の世界と沖浦啓之の世界は、どちらも「現実的」「説得力がある」と呼ばれていても、その現実感は異なる。

ここで、私たちはあらためて頂点SSの位置を強調する。現実感は身体の産物であって、現実が本性として持つものではない。透視図は平面上に奥行きの錯覚を生み、密着マルチは異なる層を異なる速度で動かすことで疑似的な透視を生み、一拍三(三コマ打ち)の運動に対して人間の脳は滑らかな動きを補完する。カメラが時空を機械的に記録・保存し、身体が外在的に自らを示すのに比べ、私たちがアニメーションの記号表現を認識する仕方は、身体のより内側に根ざしている。さらに大胆に言えば、これはフランシス・ベーコンのいう「神経系」だ。あるパターンの表現にフェティシズムを感じるように、私たちは金田伊功の作画に生理的な快感を覚える。それは、アニメーション記号のイメージそのものが、身体による現実の時空と身体自身への認識のなかで構成され、再構成されるからでもある。アニメーション記号の生産は、内面化された「加法」を経ており、時空と身体の存在が、記号の形である種の強化を受ける(29)。『聖戦士ダンバイン』(1983)のエンディングで稲野義信が描いた肉体、あるいは彼が描いた林明美の描写を見てほしい。

最後に、再記号化は長い発展の道であり、苦痛を伴う革新の道でもある。さまざまな理由、とりわけアニメーションが持ちうる商品性のために、一つの表現様式はしばしば固定化される。

2010年、田中達之はツイッターで、近年のジブリについてこう指摘した。「絵の、作画の表現力は他の次元の水準まで上がっている。しかし、キャラクターの芝居のパターンは、ハイジや三千里のころから何も変わっていないし、何も増えていない」(30)。これは非常に鋭い批判である。しかし、金田伊功や大平晋也のように革新性に満ちたアニメーターが参加していても、宮崎作品全体のパターンは質的に変化していない。作画全体はなお、60~70年代の森康二、大塚康生、宮崎駿のスタイルを継承している。もちろん、別の意味では、それは宮崎駿の統御力の強さを意味する(表現パターンの変化を気にしない人にとっては、この批判も大きな問題ではない)。

そして高畑勲は、2013年の『かぐや姫の物語』で、『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)における仕事を発展させ、『おもひでぽろぽろ』(1991)とそれ以前の仕事を徹底的に反省し、「絵画表現」そのものへ完全に方向転換した。藤津亮太は「『かぐや姫の物語』が衝撃的な理由」(31)で、高畑が『ハイジ』などで「写実性」に取り組んだと述べる。アニメーションが半世紀以上にわたって追求してきたこの「写実性」は、より正確には「実写映画の写実性」と言うべきであり、『かぐや姫の物語』はその傾向から「卒業」し、「絵画の写実性」へ転じた。これは、アニメーションに「映画の写実性」へ向かう発展とは別の可能性を与えたのだという。

藤津の説明には、詳細さや妥当性に欠けるところがある。まず大塚英志が言うように、高畑のリアリズムは写実主義ではない(32)。つまり、現実や自然を模写し、複製することではない。『ハイジ』の仕事は、むしろ「幼稚な絵画表現によって、どう観客に現実感を感じさせるか」(30)だった。先にチーズの表現を例にしたように、重点は記号再現の問題であって、実写や形の類似の問題ではない。

しかし、形の類似の追求が現実感を生むことは確かにある。アニメーションが実写のように、完全で深みのある世界観を構築するためには、情報量を増やす「加法」と、より多くの形の類似は、おそらく避けられない。高畑自身の後の仕事である『火垂るの墓』(1988)や『おもひでぽろぽろ』のキャラクター、演技設計、美術も、類似性と複雑性へ絶えず接近していったように見える。どうしても『火垂るの墓』の不足を一つ挙げろと言われれば、画面の細部の量と記号の強化効果が掛け合わされ、強烈で身の毛もよだつ現実効果を生み、そのことが高畑演出の冷静で透徹したところをかえって損なっている点だろう。

アニメーションは、形の類似によっていくつかの演出上の目的を達成できる。しかし、その果てはどこにあるのか。あるいは、そうなると、実写に対するアニメーション自身の優位はどこにあるのか(アニメーションが実写の下位のものと見なされないためにはどうすればよいのか)。高畑は自分の仕事がはらむ危険に気づいていたのだろう。そこで『ホーホケキョ となりの山田くん』で方向転換を行った。彼は「外在的」で「偽の」リアリズムを完全に捨てた。具体的には、画面の「上」における形の類似を捨て、キャラクターの形を漫画に近づけ、四頭身という大胆な比率を採用した。さらに宇都宮理のリアリズム革命の成果を積極的に取り入れた。『ホーホケキョ となりの山田くん』では大平晋也、橋本晋治、湯浅政明らのアニメーターを、『かぐや姫の物語』では田辺修、橋本晋治、松本憲生らを起用した。そして、フレームとフレームの間の現実を追求した。線そのものの豊かで細やかな震えによって生じる運動の説得力を強調したのである。その説得力は、原画家が現実の運動のリズム、力、重さなどを認識し、分節することから生まれる。さらにアニメーションの原形質性を最大限に利用し、固有の想像力を働かせ、それをtimingやspacingのような身体性に富む記号として観客に伝えた。これが「内在的な」現実である。高畑の考え方が完成した形は、『ホーホケキョ となりの山田くん』と『かぐや姫の物語』における橋本晋治の仕事、すなわち父親がバナナをむいて食べる場面と、かぐや姫が月下を疾走する場面に見ることができる。

かぐや姫が月下を疾走する場面を例にしよう。線の交錯と絡み合いのなかから、私たちはなぜ、かぐや姫が走っていると見分けられるのか。線が震え、転がると同時に、私たち自身の心の弦も激しく震えていることに、なぜ気づくのか。ここでは、一枚の画面から一本の線だけを取り出したとしても、その意味や機能を認識できるとは限らない。線は(線の運動さえも)曖昧で多義的である(33)。これは、カメラのように時間を「空間化」し、世界を一枚一枚の画面として明晰に切り分けることではない。形式上は配列のように見えても、単一の画面は「外在的な」形の類似の大半を捨てているため、それを孤立させれば大部分の意味を失う。

個々の画面の意味は、画面同士が相互に浸透し合う関係にある。この「浸透」は、決して正確で厳密な因果関係ではない(ある意味では、この多義性と浸透は「分節」を超えているとさえ言える)。それでも力とリズムを真に伝え、線の震えから怒り、悲しみ、狂気のような複雑で混乱した感情を感じさせる。そうして、この一連の画面が有機的な全体になる。これはベルクソンのいう持続(durée)にきわめてよく似ている。「激しい恋愛や深い悲しみは、私たちの心をすべて占領する。そのとき私たちは、何百もの異なる要素が互いに溶け合い、互いに浸透し合っているのを感じる。それらには明確な輪郭がなく、互いの関係を外在化しようとする傾向も少しもない」(34)。観客はアニメーション記号(線の運動)を見ることによって、連続的で自由な変化の体験、つまり原形質性を得る。アニメーターの時間の流れの体験が観客へ伝わる、と言えるだろうか。あるいは、持続と生命の流れに対する身体の直観と実感が、身体へと返ってくる、と言えるだろうか。

『かぐや姫の物語』月下疾走の場面
『かぐや姫の物語』。

ここで、もう一つ指摘しておかなければならない。橋本の仕事は、現実志向と表現主義のあいだに明確な区別が存在しないことを証明している。橋本との対談(35)で、小黒祐一郎は橋本の現実志向がいつ現れたのかを懸命に突き止めようとした。しかし、二人が「現実」をどう理解しているかは、実際には異なっている。小黒は対談のなかで、映像の長さ、映像を一コマずつ見たのか、参考映像を一コマずつ参照したのか、といった細部について橋本に何度も尋ねる。アニメーターの独立した能力を重視しすぎるあまり、実写や3Dを参考にした作画を無差別に軽視する風潮があるのかもしれない。しかしそれは、造形や運動の複雑さといった角度からしか問題を分析できず、原画家の個人的な感覚が「参考」によって消えるわけではないことに気づいていない観客がいる、というだけのことだ。橋本は『ホーホケキョ となりの山田くん』で大量に実写を参考にしたが、それは彼の仕事の傑出性を少しも損なわなかった。宮崎駿でさえ大いに賞賛している。さらに重要なのは、橋本が、自分で撮影した映像を参考にするとき、自分の身体で動作を行う感覚を重視していると語っていることだ。私たちは、磯光雄がアスカの戦闘を描くとき、机や壁に穴を開けさえしたことも知っている。

『かぐや姫の物語』に戻ろう。これは、画面の「上」における加法の長い発展の後に、高畑が単純なアニメーション記号の表現へ、「外観」を捨てた運動、つまり画面の「間」へ回帰した仕事である。アニメーションを語るとき避けて通れない情報の「量」よりも、情報の「質」が重要になった。さらに運動だけでなく、全編を紙上水彩の画風で貫き、線画の素朴な筆触と質感を強調し、画面に大胆に余白を残すことで、高畑は演出においてアニメーションの「減法」を実現するための策略を示した。言い換えれば、「意は筆に至るが、筆は意に至らず」である。王維の『山水訣』にいう、「塔頂は天を参すれど、殿を見るを須いず。似たるも似ず、或いは上、或いは下。芳堆は土の丘、半ば檐廒を露わす。草舎芦亭、略して樯柠を呈す」のように、この余白こそ、観客の投射の仕組みを最大限に動員し、観客の記憶と経験を呼び起こすのである。

この方法論のもう一つの要点は、セルアニメーションの様式から離れたことである。高畑は早くから、セルアニメーションの様式に弱点があることを理解していた。それは田中達之が指摘した、レイヤー間の埋めがたい差異、「キャラクターは線画、背景は油絵風」(26)という問題であり、必然的にリアリティへ影響する。そこで高畑は『じゃりン子チエ』(1981)において、漫画のカラー原稿に近いペン画風の背景を採用した(36)。キャラクターと背景の双方に輪郭を持たせたのである。しかし、それでもキャラクターと背景のレイヤー間にある材質の差異を埋めることはできなかった。一方、『ホーホケキョ となりの山田くん』と『かぐや姫の物語』では、全体を水彩画風にすることで、キャラクターと背景の質感を統一した。

現代のアニメーション界には、背景を実景写真に近づけて描く流れがある。その結果、レイヤー間の質感の断絶はいっそう大きくなる。そこで、実写に似た撮影技法(フィルター効果、光と影の効果、被写界深度の導入など)によって埋めようとする。たとえば京都アニメーションの美術監督、篠原睦雄は『響け!ユーフォニアム』(2015)について、こう語っている。

「背景については『リアルを目指す』という指示を受けていましたが、第1期のときはリアルすぎて、かえって実写のようになってしまった。過ぎたるは及ばざるがごとしで、アニメーションである以上、最終的には絵画表現に着地すべきだと思います。キャラクターの活動に合う背景をつくらなければならないのですが、第1期はその点が少し足りなかった……そう反省して、第2期では特に気をつけ、部門内でも皆にそう伝えました」(37)。

小林七郎は、現代を「触覚性を失った時代」と指摘している。だからこそ、アニメーションのようなメディアでさえ、カメラで撮影されたような映像が広く受け入れられる(38)。これも鋭い批判だ。「実写映画の写実性」は重要な一つの路線であり、方法論でもある。しかし考えなければならない。アニメーションが必死に実写の効果へ近づく一方で、私たちは少しずつ身体を失っているのではないか。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』における小林七郎の美術
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)における小林の美術。遠近に応じた描き込みの量によって強弱を表現している。遠景をぼかして(色をグラデーションにし、輪郭を曖昧にして)描くのではなく、すべてを明晰に描いている。しかし遠くなるほど量は減り、線は途切れ途切れになり、細部が省略される。量は減っても、近景と同じように明晰であるため、強い印象が残る。カメラで撮影したように、遠いものほど印象が弱くなることはない。(38)ここにも「自然の堅固で持続的な形」を感じることができる。

小林の美術を論じた文章で、出﨑統はこう率直に述べている。「どうあっても、私は対象を正確に模写するだけの態度を最初から最後まで否定する。現実感は写実にあるのではなく、事物の本質にある」、「セル画と背景画を完全に切り離して考えてはならない……両者が一体になって初めて、一つの表現様式が始まる」(39)。この率直な言葉は、かえって深く、これまでの考察とも響き合う。もちろん、出﨑がここで語る「事物の本質」は、より正確には「物質世界の本質ではなく、私たちが物質世界に対して示す反応の本質」である(27)。重要なのは現実という原因ではなく、「ある結果を生み出す仕組み」だ。『ガンバの冒険』(1975)の制作が、「ネズミたちは世界をどのように見るのか」という問いから出発したように、出﨑はこう書いている。「ネズミにとっては、岩などの物体全体の形よりも、近くにある岩の表面のごつごつした凹凸感のほうが本質的だ。たとえば彼らが『軍艦島』へ行ったとしても、まず目の前に飛び込んでくるのは、鉄の錆びた表面なのだ」。ここでいう「本質」とは、ネズミの身体感覚である。「感じる者と感じられる者の一体化する場所」で、私たちは画家と、そしてネズミと同一化する。

『ガンバの冒険』第5話の画面
『ガンバの冒険』第5話。

高畑が「偽の」リアリズムを捨てた『かぐや姫の物語』と呼応するように、高畑から深い影響を受けた片渕須直も、『この世界の片隅に』(2016)で漫画の形象に近いキャラクター画を採用し、同じように生き生きとしたリアリティを実現している。

最近、井上俊之は、今敏作品を特集した『ユリイカ』2020年8月号の対談で、鋭くこう指摘している。

「今さんはもともと画面制作において、とても新しいものを求める人だった。その点には功罪の両面があると思う。細密な絵が必ずしも良い絵と同じではない。細部を追求することは間違いとは言えないが、アニメーションにとっては負の要素も多い。……ある程度まで描けば、細密さと正確さだけを追求しても、絵の魅力は生まれないとわかってくる。……だから今の私は、今さんのデビュー以後に進められてきた細密さと正確さへの追求をあらためて見直し、絵の魅力とは何かを原点に戻って考える必要があると強く感じている。日本のアニメーションはいま、まさにこのような転換期にあるのではないか」(40)。

そして高畑は、20世紀のアニメーション・リアリズムの先導者であり強力な推進者であったからこそ、その生涯のなかでこのように重要な転換を遂げた。『かぐや姫の物語』の急進性は、1960年代のアニメーション黎明期への回帰ではない。平安時代の絵巻物の表現にまで遡るものなのである(31)……この意味については、繰り返し考える価値がある。

高畑がアニメーション史に残した功績は、ここで語ったものにとどまらない。『かぐや姫の物語』が残した遺産は、アニメーション界がゆっくり、何度も咀嚼するに値すると思う。中国にとっては、20世紀の上海美術映画製作所による水墨アニメーションは、高畑作品に匹敵する芸術形式であり、アニメーション界で私たちの民族的な特異性を表現できた数少ない形式の一つだった。たとえば1963年の『牧笛』である。しかし、この偉大な遺産は、今日のアニメーション界では花を咲かせていないように見える。現代技術の発展を背景に、『かぐや姫の物語』のように最新技術で古典的な気質をつくり出す作品が現れている。では、中国のアニメーション界で伝統的な水墨画が復活する可能性はどれほどあるのだろうか。

まとめ

以上、高畑勲のリアリズムを手がかりに、アニメーションのリアリティの問題を考察してきた。冒頭では、バザンが映画のリアリティをどう扱ったかに答えを見つけようとした。高畑の演出はバザンの映画理論と比較でき、「アニメーションはいかに現実を表現するのか」という方法論上の問題について、実写映画から参考となるものを見つけ、吸収できることがわかった。しかし同時に、アニメーションには映画とは異なる、アニメーション固有の特性が数多くあることもわかった。したがって、アニメーションと実写の演出方法論に似た部分があっても、その表現方法と内在する性質は大きく異なる。アニメーションの「現実への志向」は現実の模写を意味しない。アニメーションは「現実の漸近線」ではない。その「現実感」の源はより複雑で、人間が世界を認識する仕方に関わっている。たとえば「空間」については、人間の目が見たものを脳内で生み出すイメージに関係し、「時間」については、人間が運動から時間を認識することに関係している。

「カメラと空間」の節では、高畑勲の方法論の大きな基礎である場面設計、つまり宮崎駿のレイアウトに重点を置いた。人間の目の感覚にもとづく宮崎駿の設計方法は、その後のアニメーション界に大きな影響を与えた。そこから私たちは、アニメーションが別の現実、つまり私たちの身体の現実を虚構する能力を垣間見た。「運動と時間」の節では、主に三つのことを論じた。①高畑が現実の時間を尊重し、完全な運動(作画設計、演技設計)を要求したこと。②キャラクターが静止しているときに流れる時間。③物語構造の現実、つまり高畑が出来事の完全性を尊重したこと。

最後に、「現実と記号」の節が本稿の核心である(全体の半分を占める)。ここでは、アニメーションの本性に関わる問題、すなわち「アニメーションはいかにして現実を表現できるのか」を説明するため、ベルクソンの「記憶の円錐」や心理学の「投射」といった概念を借りた。また絵画の知識も少し導入せざるをえなかった。これらの概念が、私の論じる方向を見失わせていなければよいのだが。実際、要点は明確である。三つの要点は互いに結びつき、引き合っている。①アニメーション記号そのものがはらむ再現の能力と、原形質として自由に変化する能力。②アニメーション記号が本来的に備える潜在的な身体性。③アニメーションの現実は形の類似や類似性へ向かうものではなく、等価性の開発と、身体反応・身体感覚の研究であること。この三点はほぼ節全体を貫き、繰り返し言及され、拡張され、深められている。

しかし、文章の長さと扱う範囲の広さのため、私にできたのは素朴な考察だけである。実際、この文章は私が想定していた全体の前半にすぎず、後半の内容の基礎、あるいはタイトルどおり一つの「座標」にすぎない。ところが、この「前半部分」は、最初は五千字で書き終えるつもりだった内容から絶えず自己増殖し、自己展開し、やがて怪物のように計画全体を占拠してしまった。そのため私は、後半の枠組みを丸ごと切り捨てざるをえなかった。とはいえ、この未熟な文章が読者に何らかの助けになるなら、それが私にとって最大の幸せである。

本文終わり

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