屋頂現視研日本語版
中国語原文目次編集プレビュー

アニメーションと現実、あるいは高畑勲のリアリズムの座標

一条が高畑勲の生活アニメを座標として、ショットと空間、運動と時間、現実と記号という三つの層から、アニメーションのリアリティ形成の機構を論じる。

著者: 一条翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · complete work

まえがき:本稿は屋頂現視研「拾荒戦略 Rags Drum 2020」前夜祭後夜祭双方の受賞作である。

一条の著者カードと題句 "Words are flowing out like endless rain into a paper cup."

問題は、自然が実際にこれらの絵画作品のように見えるかどうかではなく、 このような特徴を備えた絵画が、自然の事物として読み解かれうるかどうかである。 ――エルンストゴンブリッチ

まえがき

藤津亮太は『たまこラブストーリー』(2014年)評のなかで、日本アニメにおける日常生活描写の一つの系譜を描き出している。高畑勲監督の『アルプスの少女ハイジ』(1974年、以下『ハイジ』)が切り開き、『魔法のスターマジカルエミ 蝉時雨』(1986年)と『たまこラブストーリー』へ受け継がれた系譜である。彼はこう書いている。「ことさらな劇性を排し、日常の描写を積み重ねる、いわゆる『生活アニメ』のスタイルは、『アルプスの少女ハイジ』から『母をたずねて三千里』(1976年、以下『三千里』)にかけて一つの完成をみた」(1)。

『ハイジ』『三千里』の二作からは、飾りのない、ありのままの生活を客観的かつ冷静に描き出そうとする高畑勲の姿勢がみてとれる。高畑は、それがアニメーションでも可能であることを証明し、その点で同時代のほかの誰とも一線を画した。この二つの「生活アニメ」が劇性に頼らず、日常描写の積み重ねだけで成立するためには、どうしても確かなリアリティが要る。観客が画面からリアリティを感じ取り、「このキャラクターたちは本当にここで暮らしている」と納得できなければならない。

そこで高畑は文化人類学的な視点を採り、①衣食住、移動、教育制度、労働環境、政治経済といった社会生活の背景と、②気候、気温、光、山河や海、生態系といった自然環境地理条件を定め、「実際の人間の生活」に即して舞台空間を設計した(2)。これはリアルへ向かうための大まかな指針ではある。だが、アニメーションの空間をどう築き、キャラクターをその舞台でどう動かすのかは、個々の技法にとどまらず、さらに深いリアリティの問題に触れている。その処理こそが、高畑のリアリズムの核心をなす。

本稿では、高畑の生活アニメを入り口として、アニメーションのリアリティの問題について素朴な検討を試みたい。扱うべき問題は多く、また複雑である――だがここでは、まず二つの重要な問いを指摘しておく。一つは方法論であり、もう一つはアニメーションの本性に関わる。①アニメーションはどのようにして現実を表現するのか。②アニメーションはなぜ現実を表現しうるのか。(のちに見るように、これは「①アニメーションはどのようにして時空を表現するのか。②アニメーションが表現する時空はどのような性質のものか」という一対の問いと切り離せない。)

実写の領域では、映画のリアリティはすでに多くの著作で掘り下げられてきた。ここでまず挙げるべきはアンドレバザンである。「映像は客観的現実のなかの被写体と同一である」とする彼の映画映像の存在論は、映画理論と批評の一つの体系を支える基礎となった。さらに重要なのは、アニメーションと実写という別々の領域に身を置く高畑勲とバザンが、メディアはいかにリアリティを生むかという一点で結びついていることだ。

『三千里』の制作にあたって、高畑はイタリアネオレアリズモ(たとえばヴィットリオシーカの『自転車泥棒』〔Ladri di biciclette1948年〕)の影響を受け、社会の現実を苛烈に描いた。そしてバザンは、言うまでもなく、イタリアネオレアリズモの熱烈な擁護者だった。鈴木敏夫は、高畑がしばしばバザンの『映画とは何か』を話題にしたと述べている(3)。高畑自身も、同書所収の「禁じられたモンタージュ」を読めば、「危機をはらんだ対立する人物たちを同一画面に収める」「縦の構図」の重要性を確認できると指摘している(4)。バザンの映画理論が高畑に少なからぬ影響を与えたと考えるのが自然だろう。

バザンの理論は、リアルをめぐる三つの原則を掲げる。①表現対象のリアル、②時間空間のリアル、③物語構造のリアルであり、それを方法として実現するのがディープフォーカス(深焦点)の理論である(5)。

一方、「現実の時間を尊重し、演技主導型を貫く 高畑勲演出の技術考」(6)の一文で、叶精二はこう書いている。「高畑演出の基礎には以下の三点の特徴が備わっている。『全編をフィックスFix)を基本とする定点観測の視点』、『10秒を超える長回しの多用』、『以上二点の前提となる緻密な場面設計作画(演技)設計』である」。このうち「フィックス」は高畑の冷静で客観的な抑制のスタイルの源泉の一つであり、「長回し」はバザンのディープフォーカス理論の重要な一部であって、カットの分割とつなぎに比べ、空間の連続性、時間の持続性、そして事物の実際の連関を尊重するものである。

藤津亮太の生活アニメ史観に沿って見れば、この系譜には、固定の長回しを好んだ後続の演出家たちもいる。たとえば安濃高志(『めぞん一刻』〔1986年〕第27話、『魔法のスターマジカルエミ 蝉時雨』、『ヨコハマ買い出し紀行』〔1998年〕)と望月智充である。安濃の長回しには、大胆に劇伴を捨て、環境音だけを残したものがある。風景の緩やかな変化が時間の流れを形にし、人物の心象をひそかに宿しながら、日々の詩情を自然に立ちのぼらせる。望月の『トワイライトQ』(1987年)第1話は全編がフィックスのカットで構成され、『セラフィムコール』(1999年)第2話にいたっては全編がただ一つの監視カメラのショットである。『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』(1988年)では、長く重苦しいショットが、青春の彷徨と焦燥、三角関係の息苦しさをあえて際立たせている。

この系譜には高橋ナオヒト(『To Heart』〔1999年〕)もいる。その演出の源流は出崎統にあり、方法論ではほかの演出家と異なるところもあるだろうが、志向は一致している――「何も起こっていないのに、何かが変わった気がする」(1)日常生活の表現、些細なディテールの描写である。

この系譜には属さない押井守や富野由悠季も、高畑勲から大きな影響を受けたと自ら語っている。二人ともロケハンと生活感の表現をきわめて重視し、とりわけ押井は固定の長回しを様式的に用いることが多い。

『めぞん一刻』第27話の画面
『めぞん一刻』第27話。
『ヨコハマ買い出し紀行』の画面
『ヨコハマ買い出し紀行』。
『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』の画面
『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』。

高畑がもたらした影響の検討、そしてこれらの演出家のスタイルの比較研究は、また別の複雑な課題となるだろう。実のところ、高畑のリアリズムは前世紀のアニメーション史において避けて通れない大きな山であり、その作品の変遷は、アニメーション史における一つの「動的な座標軸」とさえみなすことができる。出崎統と同じく、彼の系譜は、アニメーション界を覆う大きな網を織りなしているのである。

先ほどの話へ戻ろう。バザンの映画理論や固定の長回しなど、実写は方法論の上でアニメーションにいくらかの手がかりを与えうる。だが、アニメーションと実写の本性が異なる以上、表現の仕方と実現の方法にも当然、さまざまな違いが生じる。これは先に掲げた問いを考えるうえで重要である。以下では、その違いを記述し分析することで、アニメーションのリアリティを、ショットと空間、運動と時間、現実と記号という三つの側面から考えていく。ただし、この三者は明確に切り分けられるものではない。第三の側面が本稿の核心であり、そこでは絵画についての知識も少し借りることになる。

ショットと空間

まず説明しておくべきは、『ハイジ』において、高畑勲と宮崎駿が初めてレイアウトを正式にアニメーションの制作工程へ導入したことである。技術面でのレイアウトとは、最も素朴に言えば、キャラクターの形と動きを、背景が示す空間に整合させることである。虫プロ系のレイアウトが平面デザイン、コンセプト、印象を強調するのに対し――たとえば出崎統監督の劇場版『エースをねらえ!』(1979年)や、川尻善昭がレイアウトを担当した『浮浪雲』(1982年)――東映系Aプロ系のレイアウト(宮崎駿、芝山努)は、空間の表現と、カメラ位置やレンズ特性への意識をより重視する。

宮崎は『ハイジ』『三千里』のレイアウト、すなわち場面設計を連続して担当し、それによって空間の統一性に技術的な保証が与えられた。望遠レンズと標準レンズの使用も、その後のアニメーションのレイアウト史の発展にきわめて重要な基礎を据えた。

実写では焦点が存在するため、焦点距離が長いほど被写界深度は浅くなる。多層的な空間を見せるために、バザンのディープフォーカス理論では、主に広角の深焦点レンズによって時空の完全性を作り出す。一方セルアニメーションでは、平面上で確定された透視図がレンズを通してもう一度撮影され、基本的に全焦点の撮影が採られるため、そもそもの初めから被写界深度の概念を備えておらず、それによって前景中景後景の鮮明な長焦点の望遠レンズが可能となり、被写界深度の不足という問題にぶつかることがない。

高畑勲は『ハイジ』『三千里』で望遠レンズを大量に使用した。広角レンズに比べて、望遠レンズは、①人が見ているもの、すなわち人の脳が処理を経て生成する画面により近く、それゆえ見ていてより心地よい。②奥行き方向の強い圧縮によって、空間感と空気感をよりよく表現できる。③広角レンズの臨場感と不安感に比べ、いっそう客観的で安定している。

宮崎駿が『三千里』のために描いた馬車の奥行き圧縮の設定
『三千里』における宮崎駿の設定(個人訳)。宮崎が奥行き方向の圧縮(馬車の側面の変化)を重視し、圧縮感の足りない絵や単純に拡大縮小しただけの絵を極力避けていることが見てとれる。遠くの物体ほど側面は薄くなり、極端な場合には正面しか見えなくなる。遠くの物体ほど地面に落ちる影は細長くなり、極端な場合には一本の線になる。大きさの圧縮と深度の圧縮は反比例の関係にあり、望遠レンズは深度の圧縮が強く、大きさの圧縮が弱い。広角レンズは深度の圧縮が弱く、大きさの圧縮が強い。詳しくは西澤晋の解説を参照されたい[a]

このほか、現実の空間と異なり、アニメーションのなかの空間はいくつかの異なる空間の混合でありうる。「『理屈』よりも『どう見えるか』を優先する」ことが、往々にしてアニメーション空間設計の準則となる。たとえば、同一画面のなかで異なるレンズを使い、近景と遠景の対象に異なる構図を取って(近景は広角、遠景は望遠)適度な誇張を施すことで、画面の迫力を増すことができる。また、一点透視図において消失点の位置にこだわらず、正しい消失点よりも自分の感覚を優先させることもできる。さらに、一枚の絵のなかに複数の視点が存在してもよく、それによって観客の視線を誘導することもできる。

実写が実物の「機械的複製」であるのに比べ、アニメーション空間はより可塑性に富み、人の眼の美学により適合させることもできる――『三千里』の設定のなかで宮崎駿は「私は人の眼の感覚でレイアウトを設定している」と書いている――宮崎レイアウトは、厳密な透視図(実写のレンズにより近いもの)に比べ、視覚の認知と美学に基づいて構築されているがゆえに、かえって感性の層において、観客にいっそう直接的なリアリティを与えうるのである。

ある意味で、実写にはない、空間表現におけるアニメーションのこうした力は、「原形質性」と呼べるかもしれない。この概念を初めて提唱したセルゲイエイゼンシュテインは、こう記している。

「形式の束縛を拒み、永遠に固定されることを拒み、硬直化の影響を受けず、いかなる形式をも動的に採りうる能力私はこの能力を『原形質性』(plasmaticity)と呼ぶ。なぜなら、ここにあるこの存在は、図画によって表象される、すでに与えられた形式をもつ存在、すでに特定の外観に達した存在でありながら、原始の原形質(protoplasm)のように振る舞い、安定した形式をもたず、進化の階梯上のいかなる動物的生命の形式をも採りうるからである」(7

一般に、ここでの「原形質性」は線画が自由に動く力を指し、「可塑性」に近い概念だと考えられている。しかしアニメーション研究者の土居伸彰は、原形質性が指すのは視覚面の変化ではなく、観客の意識という抽象的な層で生じる変化、すなわちユーリーノルシュテインの言う、具体的な形をもたない「隠喩」を流転させる力だと指摘する。「隠喩」は図形そのもの(物質性)ではなく、それが喚起する流動的なイメージ(抽象性)である。アニメーションは物理的な束縛を離れ、原形質性によって、曖昧で複数的な現実を意識のなかに作り出す。いくつもの現実のあいだを漂いながら、観客に、自分が現実と結んでいる関係も無数の可能性の一つにすぎないと気づかせる。原形質性は現実からの離脱ではなく、現実そのものを根底から揺さぶる力である。アニメーションが、性質を変えられた現実を十分な説得力で示すとき、実写映像はかえって、あまりに均質であるがゆえに、嘘や作りもののように見えてくる。アニメーションは「親密」な現実となり、実写は「疎遠」な現実となるのである(8)(9)。

この意味で言えば、「隠喩化」されたアニメーション空間は、高畑と宮崎のもとで、リアルへ向かう方法論として有効に利用された。ここで「隠喩」は、身体の感覚性に基づき、私たちの身体による世界の認知の仕方に基づいて、もう一つの「現実」を提示する――実写映像に比べて、私たちの生理的本能に近く、私たちの身体に近い「現実」であり、私たちにいっそうの親密ささえ感じさせるものである。

第四節「現実と記号」では、このリアリティの機構をさらに詳しく論じることになる。

アニメーション空間について補足しておけば、絵画にも「多視点」の描き方、いわゆる散点透視があり、決して珍しいものではない。たとえばエドゥアールマネの有名な『草上の昼食』(1863年)では、一枚の絵のなかに複数の透視関係が併存している。

しかし、私たちのアニメーションに対する知覚の仕方は、静止した絵画に対するものとは大きく異なる。アニメーションのなかでは、キャラクターがこの空間で活動し、カメラがトラックやパン、フォローを始める――この運動性と物語性こそ、静止画に対するアニメーションの優位であり、私たちが「生命」を感じ取れる理由の所在でもある。土居が言うとおり、「静止画には、生命が見えてくる魔法は必要ない。魔法は物語の次元で、キャラクターたちの境遇のなかで起こらなければならない」(8)のである。

動く「多視点」画面の代表例として、金田伊功が担当した『銀河旋風ブライガー』(1981年)のOPでは、一つの画面に俯瞰水平アオリの三つの視点が現れ、それぞれ三人のキャラクターに対応して空間のパースが歪み、しかも画面はその歪んだパースのまま動き出す。氷川竜介はこれを評して言う。「普通に考えれば、こういうレイアウトは本来、絶対に一枚の絵に収められるものではないんです。でも、こういう絵を平然と描けてしまうのがすごい。しかも描けただけでなく、この歪んだパースのまま動かしてしまう。歪んだ画面がこんなふうに回っていく感覚は、普通の想像では絶対に描けない、金田さんならではのものです」(10)。

金田のレイアウト、とりわけ『無敵超人ザンボット3』(1977年)における仕事は、宮崎のレイアウトと同じく、アニメーション史に深い影響を及ぼした。

『母をたずねて三千里』の画面における柵と敷石の透視の分析
「『母をたずねて三千里』レイアウト浅析(上)」より。柵の透視と敷石の透視を違えることで、映像の機能性を実現している。
『魔女の宅急便』ポスターにおける俯瞰と遠望の視点
『魔女の宅急便』のポスター(ghibliwikiより)。同一画面のなかに俯瞰と遠望が同時に存在している。

運動と時間

「禁じられたモンタージュ」のなかでバザンは書いている。「一つの出来事の主要な内容が、二つあるいは複数の動作の要素の同時的な存在を要求するとき、モンタージュは禁じられる。動作の意味が形態上の隣接に、たとえ暗示された隣接であっても、依存しなくなったとき、モンタージュを用いる権利は回復される」(5)。これはモンタージュを禁じる範囲を定め、ディープフォーカス理論が働く場を示したものだ。つまり、一つのショットの複数の空間層で、異なる動作を同時に展開するのである。

しかし、手描きアニメーションでは、週一回放映のTVアニメでは、このような「異なる動作を同時に展開する」ショットは格別に困難となる。しかも、単一ショットの時間が長いほど、観客の注意は動くキャラクターの芝居に集中しやすくなり、アニメーターへの試練も大きくなる。とりわけ六〇~七〇年代は、予算の欠乏、時間の制約、人手不足の状況が格別に深刻だった。それゆえアニメーションは、モンタージュを用いて「劇的時間」を表現する方向へおのずと傾いていく。

バザンは書いている。「場面をいくつかのショットに分解するやり方と、ショットのモンタージュは、一種の時間の表現主義に等しく、人為的で抽象化された時間、すなわち劇的時間に従って出来事を再配置することに等しい。ネオレアリズモは、映画の観賞性にかかわるこれらの一般的規則のほとんどすべてに全面的な挑戦を突きつけた」(5)。アニメーション演出において、劇的時間は一種の非連続性を示しており、おそらくは「心理活動の異質性」をも含意している。

運動を省略し、抽象化し、簡略化し、拡大し、あるいは切断し、さらに多様な撮影技法を用いることで、虫プロは「対象が運動するとき、運動の必要の有無に応じて運動をできるだけ減らすと同時に、アニメーションとしてできるだけ動感豊かに表現させる」(11)ことを試みた。こうした作画演出の技法は、総称してリミテッドアニメーションと呼ばれる。一方、『ハイジ』『三千里』の高畑は劇性を排し、途切れない時間のなかで運動の全体を描こうとした。時間の持続を保ちながら、芝居によってキャラクターの機微を表現したのである。もちろん、リミテッドアニメーションの技法を完全に捨てたわけではない。むしろ両者をせめぎ合わせ、折り合わせたと言うべきだろう。

TVアニメの作画枚数で例を挙げれば、『ハイジ』の一話は通常のTVアニメの23倍、平均50006000枚である(12)。一方、虫プロは『佐武と市捕物控』(1968)で低枚数の実験を行っており、村野守美が担当した第9話の枚数はおよそ1200枚、第14話にいたってはわずか800枚だった(13)。

宮崎駿や小田部羊一といった頂点級のアニメーターとの協働こそ、高枚数の長編アニメーションが作画品質の安定を保つための鍵だった。その後、高畑宮崎小田部の三人組は解散し、『赤毛のアン』(1979、以下『アン』)では、宮崎駿の推薦を得た近藤喜文が全話の作画監督の仕事を担い、驚くべきエネルギーで作画品質を統御して、キャラクターのきわめて繊細な演技を達成した。(特筆すべきことに、宮崎は『アン』第15話を最後に画面構成を辞し、第18話から桜井美知代が引き継いだ。制作は一時困難に陥ったが、極限の制作条件のもとで奇跡のように輝きを取り戻した。)

もう一つ、具体的な場面を例に挙げよう。『三千里』第1話末尾のマルコと母の別れには、1分以上に及ぶショットがある。前半は母とマルコの別れだが、マルコは一言も発せず、母が去った後も30秒近くうつむいたまま沈黙を保つ。高畑は、人々が立ち去ってマルコ一人が残された後に、人物の内面へ分け入るための、きわめて工夫に富んだ緩やかなトラックアップ(T.U)を行い、独りきりのマルコの耳に人々の別れの声が届いてくる――この時間の長さと、トラックアップによる人物の情感の蓄積とが、続く短いクローズアップ(UP)のなかのマルコの眼の涙に、格別の衝撃力を与えている。感情を爆発させたマルコは走り、転んでは起き上がり、また転んでは起き上がる。人物の線は簡素で、影もほぼなく、動きも華麗ではなく、むしろきわめて素朴とさえ言えるのに、観客は誰もが、そこからマルコの身体に溢れる悲しみの情を感じ取ることができる。井上俊之は、この一連がレイアウトから原画まですべて宮崎駿が一手に引き受けたものだと推測し、これは実写にはできない、心を直撃する演出だと評した。マルコの転倒からは、井上自身も痛みを感じたという(14)。この場面のなかに、私たちは高畑の現実の時間への尊重、完全な運動への要求を見るとともに、レイアウトとアクション場面を支える強力なアニメーターの必要をも見るのである。

『三千里』第1話、マルコと母の別れの場面
『三千里』第1話。

他方、実のところ、「二つあるいは複数の動作の要素」における「動作」はバザンの言葉の核心ではない。核心は二つあるいは複数の要素のあいだの関係あるいは潜在的関係であり、この相互関係は空間の統一性を通じて伝達され、時間の表現のなかで強調される。

ロバートフラハティの『極北のナヌーク』(Nanook of the North1922)におけるエスキモーのアザラシ待ちをめぐって、「映画言語の進化」の一文でバザンは書いている。「狩猟の持続時間こそが映像の内容であり、映像の真の対象である」(5)。動く猟師と静止した氷の穴が同一ショットのなかに現れることは、良好な空間の統一性を保証すると同時に、狩猟の待機の時間のなかの緊張関係をも表現している。

アニメーションにとって、顕在的あるいは潜在的な関係を強調する静止した構図はとりわけ重要である。枚数を節約するだけでなく、表現力をも高められるからだ。だが運動の支えがない場合、アニメーションは光や自然の微細な変化を表しにくい。BGオンリーのショットや止め絵で、時間の経過を見せることは難しい。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年、以下『EVA』)第24話末尾の一分ほどの止め絵では、音楽が流れ続けていても、観客はやはり時間の流れではなく静止を感じてしまう。

かくして、キャラクターが静止した状態でいかに時間を表現するかもまた、おのずとアニメーションの一大課題となった。

EVA』に先立つ『アン』第4話と『天使のたまご』(1985年)も、こうしたショットを試みている。共通点は、フィックスであること。通常より長いこと(『アン』は一ショットが約20秒、『天使のたまご』は実に2分以上)。複数のキャラクターのあいだに、顕在的あるいは潜在的な対峙の緊張があること。そして、キャラクターが動かない、あるいはほとんど動かないことである。

しかし『EVA』と違って、『アン』は手前の草むらの揺れと黒雲の流れにより、『天使のたまご』は炎の揺らめきと消失、それに伴う明暗の変化により、時間の経過を目に見えるものにしている。

『新世紀エヴァンゲリオン』第24話の画面
EVA』第24話。
『赤毛のアン』第4話の画面
『アン』第4話。
『天使のたまご』の画面
『天使のたまご』。

バザン―高畑勲、タルコフスキー―押井守という二つの対に、高畑と押井の映像が通じ合う源を見いだせるかもしれない。押井も「『ストーカー』(Сталкер1979年)のような作品を作ってみたかった」と率直に認めている(15)。押井はその後の作品でも、アニメーションで時間を表すための新たな試みを重ねた。たとえば『イノセンス』(2004年)では、食料品店の場面でバトーの芝居に精密な中割りを大量に投入した。『スカイクロラ』(2008年)には、草薙水素の「静止の運動」、言い換えれば無意識の微細な運動がある。どちらも、時間の流れを重く、滞ったものにする方法である。

話を戻そう。庵野も高畑も押井も、映像を、キャラクターの運動から独立した一続きの時間へ結びつけようとしている。これは、単に枚数を節約するため、レイヤーを再利用合成して口やまばたきだけを動かす口パクや目パチとは違う。その狙いは、観客が生きる時間をキャラクターの時間へ重ねながら、観客により濃密な時間を経験させることにある。「待つ」観客の心は、キャラクターの内面とのあいだに、同一化と隔たりの両方を作り出す。

これらのいくつかのショットのうち、『EVA』と『天使のたまご』の時間には、その後の筋の展開のために力を蓄える働きもあり、キャラクターのその後の動作のための演出上の準備であって、ある種の、故意に引き延ばされた「感覚=運動的状況」(the sensory-motor situation)とみなすことができる。それに対して『アン』のショットの置かれた場面は、むしろジルドゥルーズの時間イメージ(time-image)に近く、運動はもはや映像を推進する主要な動力ではない。

アンは馬車から飛び降り、遠くの崩れ落ちた柵に腰を下ろし、そして長い沈黙やがて立ち上がり、黙って馬車に戻る。ここでは「感覚=動作の回路が断裂し、機能しなくなっている」――アンの遠ざかるという行為が断裂をもたらす一つの要素となり、「この新しい要素は、知覚を思考と結びつけるために、知覚が動作へと延長されるのを妨げることになる」。かくして「感覚=運動的状況」は「純粋に光学的音響的な状況」(the purely optical and sound situation)へと転じ、静かに座るアンと静かに座るマリラ、二人は運動の途方に暮れた無力さのなかに沈み込む。「予見可能で確定的な動作が起ころうとしているのではなく、ただその場の即興的な出来事の到来だけがある潜在的な情感と精神が、動作の無力と欠乏とによって顕現するのである」(16)(17)。

引き続き『アン』を例に、高畑作品の全体における時間の配置を論じよう。『アン』は、いわゆる生活アニメのスタイルが「一つの完成をみた」『ハイジ』『三千里』以後の作品だが、驚くべきことに、その第1話は演出方法論の上でただちにさらに一歩進んだ探究を始めており、その先鋭さは前二作に勝るとも劣らないとさえ言え、日本アニメ史上の名回となった。

映像研究者の叶精二はツイッターにこう書いている。『アン』の第1話は「実際の時間に忠実なスローテンポ、長回しFix、過剰な台詞、実況風の男声解説、客観主義など、全編破格ずくめ」(18)である。押井守もまた同じく、高畑の時間の利用に関心を寄せている。彼の指摘によれば、第1話はアニメーション制作の面で彼に大きな影響を与えた。簡単に言えば、現実の生活で三十分のあいだに起こることを、アニメーションのなかで三十分かけて描き出したということであり、テレビアニメでそれをやって大丈夫なのか? これを思うたびに、彼は一種の励ましを受けるのだという(19)。

「現実の生活で三十分のあいだに起こることを、アニメーションのなかで三十分かけて描き出した」というのはいささか誇張された言い方だが、高畑演出の先鋭さを見事に凝縮している。第1話はいくつかの長いくだりから成り、そのどれもが、いわば時間の「実録」である。時間を切断も圧縮もせず、観客が生きる時間を、キャラクターが生きる時間に重ねていく。

開始8分、マシューが駅へアンを迎えに来る。そこから本編が終わるまで、アンはまだ、グリーンゲイブルズへ向かうマシューの馬車の上にいる――実録のスタイルを極限まで推し進めた構成である。脚本が築く緊張、アンのとめどなく子供らしい大仰な言葉、どこまでも広がる田園の美しい風景。そのなかで観客は、きわめて独特な時間を経験する。一話は長く、同時に短い。

実際、アンの二日間の経験を描くために、冒頭の五話がまるごと費やされている。第4話も、初めから終わりまで、ほとんどアンとマリラが馬車の上で話しているだけだ。馬車は第3話の末尾に出発するが、第4話の末尾になってもスペンサー夫人の家には着かない。高畑は筆を惜しまず細部を描き、バザンが掲げた第三の原則、物語構造のリアルを徹底する。出来事を切り詰めず、その全体を尊重するのである。

押井守は後に、高畑勲から受けた影響をあらためてこう語っている。

「『赤毛のアン』からはどれほど多くを学んだかわからないし、『じゃりン子チエ』(1981年)にも大いに恩恵を受けた。何度観たかわからないほどだから。監督として、これほど助けになった作品はほかにないと思うし、業界の人間は誰もがそう言う。何度でも繰り返すが、当時の高畑さんは超一流の監督だった。映画全体を見渡しながら、演出のなかで時間軸を的確に扱える稀有な人で、私は本当に必死になって彼の作品を観て学んだものだ」(15

高畑を座標として押井の作品を分析することは、また別の、複雑だが興味深い話題となるだろう。

現実と記号

「写真映像の存在論」でバザンはこう書いている。「遠近法は画家に三次元空間の幻覚を作り出すことを可能にし、事物は私たちの直接知覚に似たものに見えるようになった人間が筆を執って描く以上、描像への疑いは消えない。バロック絵画から写真術への移行において最も本質的だったものは心理的な要因である。それは、人間を排除し、機械的複製だけによって幻覚を作り出したいという私たちの欲望を完全に満たした」(5)。

ここに、バザンの映画映像の存在論――「映像は客観的現実のなかの被写体と同一である」――の鍵がある。すなわち、「人間を排除し、機械的複製だけに委ねる」ことだ。撮影技術の完成は、絵画における形似、そして写実主義絵画の形似への追求を決定的に乗り越え、「造形芸術を相似への執念から解放した」。こうして絵画は「模倣」(imitation)から「再現」(representation)へ、現実の対応物との相似を必要としない、ネルソングッドマンの言う「指示」(denotation)へと向かった。

だとすれば、アニメーションのリアリズム、リアリティの追求も、一つの芸術という立場に立つならば、実写とリアルへ向かう演出方法を一部共有するとしても、決して形似の追求であってはならない

絵画はまず、造形(具体的な像や幾何学的形態など)、色彩効果(色調、陰影、透明性など)、空間設定(平面、あるいは遠近法による奥行きのある空間)といった、人為的な視覚要素を組み合わせる「加法」である。これらの視覚要素を、記号と呼ぶことができるだろう。

アニメーションには静止画に加えて時間の次元がある。高速運動を表すオバケ(動的な形態変化)や変化するスピード線ばかりでなく、タイミング(個々の動作の速度とリズム)、スペーシング(動作のなかでフレーム間に生じる対象の位置変化)、原画マンが記入するタイムシートまで、いずれも記号の一種とみなせる。透視図が現実の「三次元空間の幻覚」であるように、タイミングとスペーシングは現実の時間の「幻覚」である。一定のコマ打ちを採り、対象の位置変化とフレーム間の関係を通じて、時間が生まれ、自在に操られる。ノーマンマクラレンは、この特性に基づいてアニメーションを端的に定義した。「各フレームのに何があるかよりも、フレームとフレームのに何があるかのほうが、はるかに重要であるアニメーションとは、画面と画面のあいだに潜む不可視の間隙を操作する芸術である」(20)。

こうしたアニメーションの記号的特性について、田中達之は「『記号』としての表現そのものへのこだわり、嗜好、『一つの型としての表現』そのものへのフェティシズムこそ、漫画やアニメーションにおける絵の本質ではないか」と書いている(21)。アニメーションの魅力は現実の模倣ではなく、記号そのものが孕む再現の力と、原形質のように自由に変化する力にある。身体が現実世界を認知し、分節化(articulate)し、想像することを通じて――このとき記号はおのずから潜在的な「身体性」を帯びる――もう一つの幻影の世界が生み出される。ここで、観客が記号をいかに「見る」のかを素朴に分析する必要がある。幻影のなかにいる観客には、ベルクソンの言う記憶と知覚の双方向の運動が生じている、と言えるかもしれない。次に掲げるのは、有名な「記憶の円錐」の図である。

『物質と記憶』図5「記憶の円錐」
『物質と記憶』図5。円錐SABSABは記憶に蓄積された回想の総体を、底面ABABは知覚によって複雑化されていない純粋記憶を表し、静止している。頂点SSは現在の知覚と行動を表し、絶えず前進して運動平面PP(宇宙についての私の現実的表象)と接触する。身体のイメージはSSに集中し、SSPPに属するため、平面を構成するすべてのイメージから作用を受け、それに応答する。思考の全体は、頂点SSと底面ABABのあいだを絶えず往復する(22)。

この図の要点の一つは、「現在の瞬間には、つねに相反する二重の運動が交差している。たえず記憶へと落ちていく知覚と、たえず知覚になろうとする記憶である」(16)ということだ。アニメーションの幻影のなかで、観客は現実世界での経験を「思い出す」。しかし同時に、なびき、爆発、歩き、走りといった作画を見ることで、現実世界をあらためて認識する。

具体的に考えるために、絵画の内側外側の輪郭線を例に取ろう(後に論じる高畑作品の焦点の一つでもある)。現実の事物には線など存在せず、絵画の輪郭線は現実の「面」の縁をなぞったものにすぎない。ところが、現実を「かたどる」輪郭線こそ、絵画のなかで私たちの記憶と想像を呼び起こす主要な手段の一つとなる。簡潔であれ複雑であれ、再現力に富む輪郭は、それに対応する現実の経験をたちどころに「思い出させる」。記憶は「輪郭の知覚」に呼びかけられ、潜在的な記憶の平面ABABから頂点SSへ降りてきて、現在の知覚に変わる。別の言い方をすれば、これが心理的な投影の機構である。私たちは記憶を動員し、眼前の図像へ投げかける。

同時に、輪郭線は本来的に多義的でもある。絵画は現実の拘束を離れた記号として、見る者の想像と思考を自由に喚起し、「隠喩」を流転させる。ここには記号の原形質性が潜んでいる。有名なウサギとアヒルの図を見てみよう。

ウサギとアヒルの錯視図
『ウィトゲンシュタイン――天才の責務』より。

「この図の要点は、二つ以上のアスペクトaspect)のもとで見ることができる、という点にある。同じ図をアヒルとして、またウサギとして見ることができる。アスペクトが変わっても見ているものは変わらない。同じ図が、あるときはアヒル、あるときはウサギになる」(23)。この種の錯視図は私たちの投影する力を繰り返し動員する。私たちは現実の経験を次々に思い出し、さまざまな解釈を提出する。ルートヴィヒウィトゲンシュタインの語彙でいえば、それは「アスペクト知覚」(aspect-seeing)、つまり何かを何かとして「見る」能力を呼び起こす。この「として見る」(seeing-as)能力には、想像力だけでなく、文化、知識、そして記号についての慣習(すなわち潜在的平面ABAB)も必要である。さらにウサギとアヒルの図は、私たちが見ている現実の幻影の背後に、形、線、影、色といった、複数の意味の可能性を潜在させた記号があることをあらためて意識させる。私たちはそうした記号から、画家が表そうとしたさまざまな像を識別しているのである。

輪郭の再現力とは、正確さのことではない。「ショットと空間」で見たとおり、視覚的なリアリティのためには線遠近法を捨て、人間の眼の感覚に従って散点透視を採ることもできる。そうすれば、物体の輪郭は伸びたり歪んだりする。リアルな輪郭が「正確」とは限らず、そこに標準があるべきでもない。エルンストゴンブリッチはポールセザンヌの絵画について、こう評している。「彼は、色彩の鮮やかさを犠牲にせず奥行きを得ようとし、奥行きを犠牲にせず秩序ある構図を得ようとした。そのあらゆる努力と探究のなかで、必要とあれば一つだけ犠牲にする用意があった。それは伝統的な輪郭の『正しさ』である」(24)。

セザンヌ『コンポティエ、グラスと林檎』
ポールセザンヌ『コンポティエ、グラスと林檎』(Compotier, Glass and Apples1880年)。

上の絵で、セザンヌは器の縁などの透視関係を歪めている。また、現れては消える輪郭線によって物体の明晰さを強め、不安定な空気と光のなかに形態を定着させている。ここにあるのは、初期印象派が軽視した「自然の堅固で持続的な形態」の追求である。ロジャーフライは『セザンヌ――その発展の研究』でこう述べている。

「純粋な印象派の画家にとって、輪郭線の問題はそれほど切実ではなかった。彼らが関心をもったのは視覚的な織物の連続性であり、輪郭線は特別な意味をもたなかったしかしセザンヌにとっては、きわめて知的で、生きた分節(articulations)と堅固な構造への抑えがたい情熱をもっていたため、輪郭線の問題が一つの苦悩となった。その輪郭線は絶えず失われ、また見いだされる。輪郭の堅固さと、後退して見えることとの矛盾を解こうとする彼の頑固さと切迫は、実に心を打つ。それは自然に、ある種の重さ、さらには不器用さへと導いたが、ついには諸形態に、すでに見たような忘れがたい堅固さと荘厳さを与えることになった。一見すると、量塊と輪郭はともに荒々しく眼を奪う。驚くほど簡潔明快で、はっきりと把握されている。ところが長く見れば見るほど、いかなる正確な規定からも逃れようとする。輪郭の見かけの連続性は実は幻であり、その質は絶えず変化している。ごく短い曲線を追うだけでも、一貫性はない。こうして私たちは、全体の効果においては異常なほど単純でありながら、どの部分も無限に多様であるという観念を、ただちに得る。形態がこれほど荘厳でありながら、すべてが震え、動いている」

ここに、記号に潜在する身体性が見えてくる。輪郭線とは、内なる身体感覚の現れにほかならない。セザンヌ自身の理念によれば、「自然は自らのうちで語り、自らを完成する」。頂点SSに集中する身体のイメージは、あらゆる知覚の起点であり、行動の中心でもある。セザンヌは形態の堅固さと秩序を感じると同時に、自然の無限の多様性をも感じていた。輪郭線によって、明晰さと無限性が同時に伝えられる。ドゥルーズの絵画における「身体」の理解は、さらに急進的である。

「私は感覚のなかで私になると同時に、何ものかが感覚を通して到来する同じ身体が感覚を与え、また感覚を受け取る。客体であると同時に主体である。観者である私は、絵のなかへ入り、感じるものと感じられるものとの統一に達して初めて、感じることができるセザンヌが印象派を超えて残した教えはこうである。感覚は、光と色との『自由な』、身体を欠いた(disembodied)関係(印象)のなかにはない。反対に、感覚は身体のなかにある。たとえそれが一個の林檎の身体であっても。色彩は身体のなかにあり、感覚は身体のなかにあるのであって、空気のなかにはない。感覚こそが描かれたものである。絵のなかに描かれたものは身体である。客体として再現された身体ではなく、その感覚を支えるものとして経験された身体not insofar as it is represented as an object, but insofar as it is experienced as sustaining this sensation)である」(25

主体へ向かう感覚(神経系、生命の運動、「本能」、「性格」)と、客体へ向かう感覚(「事実」、場所、出来事)は切り離せない。これは「現存在」(Dasein)が事物のうちに住まうという現象学的な見方である。絵のなかに描かれているものは、ほかでもない「私の身体」なのだ。

ここまでの記号についての検討を踏まえ、アニメーションの領域へさらに進もう。小黒祐一郎との対談で、田中達之は「再記号化」という概念に触れている。田中によれば、記号にとって現実は踏み台であり、再記号化とは「漫画(アニメーション)の記号的な表現を、現実をもとに再検討し、再構築し、もう一度単純な漫画記号として提出する」ことだ(26)。これはゴンブリッチの「スキーマと修正」の理論を想起させる。ただし、ここでいう再記号化は、画家が描く際に心にあるスキーマを描写の必要に合わせて調整する、一般的な意味での「マッチング」ではない。アニメーションのスキーマをめぐる、歴史的意義をもつ実験的な変革である。田中が例に挙げる『御先祖様万々歳!』(1989年)でのうつのみや理の仕事は、立体の考察においても光の表現においても後世へ深い影響を及ぼし、磯光雄とともに作画史のリアリズム革命を開始した。

再記号化の要点は二つあると思う。第一に、その過程で現実は踏み台にすぎない。現実へ近づくのではなく、私たちが現実を認知し、分節する仕方をもとに、等価な関係のモデルを新たに構成する。スキーマの変革は、「相似(likeness)の発見ではなく、等価物(equivalences)の発見」である。「この等価性によって、私たちは一つの像に従って現実を見ることも、現実に従って一つの像を見ることもできる。その基礎は、諸要素の相似よりも、ある種の関係に対する反応の同一性にある」(27)。

第二に、簡略化はしばしば複雑化よりも効果的である。再記号化とは、迂遠で冗長な記号表現を省き、「一つの効果を複数の効果として働かせる」簡潔な処理を提示することでもある。たとえば『御先祖様万々歳!』で、うつのみやは、それまでの多くのアニメーションのように頭部の影を頭と首の境に重なる層状の付着影として表現しない。頭を光の伝播を遮る物体として扱い、そのほぼ円形の影を身体へ直接落とす。かつての、影をキャラクターの細部の強調だけに用いる方法と比べれば一見大ぶりだが、①頭部の立体感を引き立て、②光源の位置を直接示すことで、むしろ効果を増している。現実の複雑な光と影を極端に簡略化しながら、きわめてリアルに感じさせるのであり、影が現実と正確に一致するかどうかなど、まったく重要ではない。

『御先祖様万々歳!』第4話の画面
『御先祖様万々歳!』第4話。

高畑勲や宮崎駿らが『ハイジ』『三千里』で行った、リアルへ向かう仕事もまた、現実を踏み台に「巧みさを巧みと見せない」アニメーション=記号を再構築し、観客にリアリティを与えるものだった。『ハイジ』第2話で、おんじがチーズを焼いて溶かす場面を例に取ろう。このチーズという記号の構築は前例のないものだった。溶けるチーズの幻影に、観客は滑らかさ、粘り、柔らかさ、艶やかさを見る。そして現実世界の「記憶」から、なめらかで濃厚な味わいを想像し、幾層もの経験を得る。井上俊之は、「画面のなかに余分な線が一本もない。簡潔な輪郭線とハイライト、影があるだけなのに、なぜかそのチーズは現実のチーズよりもおいしそうに見える。情報量を極限まで削った画面からでも、観客は実物を見たときの印象をアニメーションから取り出せる。そこにこそアニメーションの優位性がある」と語る(14)。黄金色の塊に置かれた一つの白い点に、私たちは驚くほど複雑に反応し、そこから全体の性質まで見て取るのである。

『アルプスの少女ハイジ』第2話、溶けるチーズの場面
『アルプスの少女ハイジ』第2話。

現実世界には、あのように溶けるチーズなど決して存在しないし、実物とはかなり異なるかもしれない。ゆえに、これは現実の模写ではない。それでも見る者は「溶ける」という現象を理解し、そこからチーズの性質を受け取る。現実(チーズと溶解という現象)を見事に再現し、しかも「現実のチーズよりおいしそう」に見せる。動きを含め、これは質感についての一組の等価関係なのである。他方、感覚と印象の流動をこれほど自在に引き起こせるのは、アニメーションが原形質性を備えるからでもある。アニメーションは別の現実、すなわち身体の現実を作り出す。再記号化とは、私たちの内なる身体感覚の再発見なのだ。

原形質的な像は、人の意識を「前論理的で感覚的な思考」(幼児的、原始的な思考)へ戻し、理性から解放して、論理や合理性を一時的に「忘れさせる」(28)。私たちの投影は、実は選択的な想起である。多くを思い出すこともあれば、わずかしか思い出さないこともある。この複雑な記憶と知覚の過程で、私たちは、宮崎駿の世界と沖浦啓之の世界のように、どちらも「リアル」「説得力がある」と呼ばれながら異なるリアリティを感じ取る。

ここで再び、頂点SSの位置を強調しておきたい。リアリティは身体の産物であって、現実に内在する本性ではない。透視図は平面に奥行きの幻覚を生み、密着マルチはレイヤーごとの速度差によって擬似的な遠近感を生み、3コマ打ちの運動を人間の脳は滑らかな動作として補完する。カメラが時空を機械的に記録し保存し、身体を外在的に示すのに比べ、アニメーションの記号表現を認知する仕方は身体のさらに内側に位置している(もう少し大胆に言えば、フランシスベーコンの言う「神経系」だろう)。一つの表現様式にフェティシズムを抱き、金田伊功の作画に生理的な快感を覚えるのも、アニメーションの記号そのものが、身体による現実の時空と身体自身の認知のなかで構築され、再構築されてきたからである。アニメーション記号の生産は、内面化を経た「加法」であり、時空と身体の存在は記号という形である種の強化を受ける(29)。『聖戦士ダンバイン』(1983年)のエンディングで稲野義信が描く肉体を、あるいは彼が描いたリンミンメイを見てほしい。

最後に、「再記号化」は長い発展の道であり、痛みを伴う革新の道でもある。さまざまな理由、とりわけアニメーションが商品として帯びうる性質のために、一つの表現様式はしばしば固定化する。

2010年、田中達之はTwitterで、近年のジブリについて「絵画的な、作画的な表現力はすでに別次元の水準まで上がっている。しかしキャラクターの芝居の型は、『ハイジ』『三千里』の時代から何ひとつ変わらず、何ひとつ増えていない」と指摘した(30)。きわめて鋭い批判である。実際、金田伊功や大平晋也のような革新的な気質に富むアニメーターが参加しても、宮崎作品の全体的な様式には質的変化がなく、作画全体は六〇~七〇年代の森康二、大塚康生、宮崎駿の流れを引き継いでいる。もっとも、これは別の意味では宮崎の統制力の強さを示すものでもある(表現様式の交代を重視しない人にとっては、この批判はさほど痛手にならないだろう)。

これに対して高畑勲は、『かぐや姫の物語』(2013年)で『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)に始めた仕事を発展させ、『おもひでぽろぽろ』(1991年)以前の自らの仕事を徹底的に問い直し、「絵画表現」そのものへと全面的に転回した。「『かぐや姫の物語』が凄い理由」(31)で藤津亮太は、『ハイジ』などで高畑が「迫真性」に力を注ぎ、アニメーションが半世紀以上追求してきたこの「迫真性」は、より正確には「実写映画的な迫真性」と呼べると論じる。『かぐや姫の物語』はこの傾向から「卒業」して「絵画的な迫真性」へ向かい、「映画的な迫真性」の方向へ発展するのとは別の可能性をアニメーションに示したという。

藤津の記述には、細部を欠き、必ずしも適切でないところがある。まず大塚英志が言うように、高畑のリアリズムは写実主義ではない(32)。すなわち現実や自然の模写複製ではない。『ハイジ』での仕事とは、むしろ「稚拙な絵画表現によって、いかに観客にリアリティを感じさせるか」(30)という問題だった。先ほどのチーズの例にしても、焦点は記号による再現であって、実写や形似ではない。

とはいえ、形似の追求がリアリティを生みうることは確かである。実写のように完全で奥深い世界をアニメーションに構築するには、情報量を増やす「加法」、より多くの形似が避けられないように見える。高畑自身の後年の仕事でさえ、『火垂るの墓』(1988年)や『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザイン、演技設計、美術は、類似性と複雑さへ絶えず近づいているように見える。あえて『火垂るの墓』の弱点を挙げるなら、画面の細部の量と記号の強化作用が掛け合わされ、身の毛もよだつほど強烈なリアリティを生み、それがかえって高畑演出の冷静な透徹を損ねかねない点だろう。

アニメーションは形似によって演出上の目的を達成できる。だが、その道の行き着く先はどこなのか。あるいは、そこに実写に対するアニメーション固有の優位はどこにあるのか(アニメーションはいかにして実写の下位に置かれることを免れるのか)。高畑はおそらく、自らの仕事に潜む危険に気づき、『ホーホケキョ となりの山田くん』で転回した。「外在的」で「偽りの」リアリズム、具体的には画面の「上」にある形似を完全に捨て、キャラクターの造形を漫画へ近づけ、思い切って四頭身を採用した。そして、うつのみや理のリアリズム革命の成果を積極的に取り入れた。『山田くん』では大平晋也、橋本晋治、湯浅政明らを、『かぐや姫』では田辺修、橋本晋治、松本憲生らを起用し、フレームとフレームの「間」にあるリアルを追求した。線そのものの豊かで繊細な震えが作る運動の説得力を重視したのである。その説得力は、原画マンが現実の運動のリズム、力、重さを認知し分節することから生まれる。アニメーションの原形質性を最大限に生かし、独自の想像力を働かせ、タイミングやスペーシングといった身体的な記号を創造して観客へ伝える。これが「内在的」なリアルである。この思考の完成形が、橋本晋治による『山田くん』の父親がバナナを剥いて食べる場面と、『かぐや姫』の月下の狂奔である。

かぐや姫の月下の狂奔を見よう。私たちはなぜ、線の交錯と結び目から、かぐや姫が走っていると識別できるのか。そして、線が震え、転がるとき、なぜ自分の心の琴線まで激しく震えるのか。ここで、一つの画面から一本の線だけを取り出しても、その意味や機能を認識できるとは限らない。線は、その運動さえも、曖昧で多義的である(33)。これは、カメラが時間を「空間化」し、世界を整然と並ぶフレームへ切り分けることとは違う。形式上はそうした配列に似ていても、「外在的」な形似のほとんどを脱ぎ捨てた一枚の画面は、孤立させれば意味の大半を失ってしまう。

一枚の画面の意味は、画面同士が相互に「浸透」する関係にある。この「浸透」は、正確で厳密な因果関係ではない(ある意味では、この多義性と浸透は「分節」をさえ超える)。それでも力とリズムを確かに伝え、線の震えのなかに怒り、悲しみ、狂気といった複雑で混乱した感情を感じさせ、一連の場面を有機的な全体にする。これはベルクソンの言う「持続」(durée)によく似ている。「激しい恋愛や深い悲哀が私たちの魂を占領するとき、私たちは、輪郭を明確にもたず、互いとの関係で少しも自らを外在化しようとしない千もの異なる要素が、互いに溶け合い、浸透し合うのを感じる」(34)。アニメーションの記号(線の運動)を見ることで、観客は連続的で自由な変化、すなわち原形質性を経験する。アニメーターの時間の流れの経験が観客へ伝えられた、あるいは、持続と生命の流れに対する身体の直観と認識が、身体へ返された、と言えるのではないか。

『かぐや姫の物語』、月下の狂奔
『かぐや姫の物語』。

ここで別に指摘すべきなのは、橋本の仕事が、リアル志向と表現主義とのあいだに明確な境界のないことを証明している点である。橋本との対談(35)で、小黒祐一郎は橋本のリアル志向がいつ現れたのかを懸命に明らかにしようとするが、二人は実際には「リアル」を異なる意味で理解している。小黒は、参考映像の長さ、映像を一コマずつ見たか、一コマずつ参照したか、といった細部も繰り返し問いただす。そこには、アニメーターの自立した力を過度に重んじるあまり、実写や3DCGを参照した作画を無差別に見下す傾向があるのかもしれない。しかしそれは、造形や運動の複雑さからしか問題を分析できず、原画マン個人の感覚が「参照」によって必ずしも消えるわけではないことを見落としている。橋本が『山田くん』で大量の実写参考を用いても、仕事の卓越をいささかも損なわず、宮崎駿さえ絶賛したのがその例である。さらに重要なのは、橋本が、自ら参考映像を撮るときに身体を動かす感覚を重視すると語っていることだ。磯光雄がアスカの戦闘を描くとき、机や壁に穴を開けるほどだったことも知られている。

『かぐや姫の物語』へ戻ろう。これは、アニメーション史が画面の「上」に「加法」を長く重ねてきた後で、高畑が簡潔なアニメーション記号の表現へ、「外観」を捨てた運動(画面と画面の「間」)へ回帰した作品である。アニメーションを語るとき避けて通れない情報の「」よりも、情報の「」が重要になる。しかも運動だけではない。紙に描いた水彩の画風を全編に貫き、線画の素朴な筆触と質感を強調し、大胆に余白を残すことで、高畑はアニメーションに「減法」を実現する演出上の方策を示した。言い換えれば「意は到りて筆は到らず」である。王維『山水訣』の「塔頂は天を参すれど、殿を見るを須いず。あるがごとくなきがごとく、あるいは上、あるいは下。芳堆土埠、半ば檐廒を露わし、草舎蘆亭、略ぼ樯柠を呈す」という言葉のように、余白こそが観客の投影する機構を最大限に働かせ、記憶と経験を呼び起こす。

この方法論のもう一つの要点は、セルアニメーションの様式を捨てたことにある。高畑は早くから、セルの様式に弱点があることを理解していた。田中達之の言う「キャラクターは線画で、背景は油絵調」(26)という、レイヤー間の埋めがたい差が、必然的にリアリティへ影響する。そこで『じゃりン子チエ』(1981年)では、漫画のカラー原稿に近いペン画調の背景を採用し(36)、キャラクターにも背景にも輪郭を与えた。しかし、それでも両レイヤーの材質感の違いは埋まらなかった。『山田くん』と『かぐや姫』で全体を水彩画調にすることによって、ようやくキャラクターと背景の質感が統一された。

今日のアニメーション界には、背景をロケーション写真へ限りなく近づけ、レイヤー間の質感をますます分裂させたうえで、実写に似た撮影技法(フィルター、照明効果、被写界深度の導入など)によってその隔たりを埋めようとする潮流がある。たとえば京都アニメーションの美術監督、篠原睦雄は『響け!ユーフォニアム』(2015年)について、こう語っている。

「背景に対して『リアルを目指す』という指示を受けましたが、第1期はやりすぎて、実写そのもののようになってしまいました。過ぎたるは及ばざるがごとしで、アニメーションである以上、最後は絵画表現へ着地しなければならないと思います。キャラクターの動きに合う背景を作る必要があり、その点では第1期は少し足りなかったその反省を踏まえて、第2期ではとくに気を配り、部署のみんなにもその旨を伝えました」(37

小林七郎は、現代を「触覚性を喪失した時代」と指摘する。だからこそ、アニメーションというメディアでさえ、カメラで撮ったような映像が広く受け入れられるのだという(38)。これも鋭い批判である。「実写映画的な迫真性」は重要な路線、方法論として価値を失わない。しかし考えなければならないのは、アニメーションが実写の効果へ懸命に近づくあいだに、私たちは自らの身体を少しずつ失っているのではないか、ということだ。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』における小林七郎の美術
『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(1984年)における小林七郎の美術。遠近の「量」で強弱を表現している。遠景をぼかし(色をグラデーションさせ、輪郭を曖昧にすること)はせず、すべて明瞭に描く。ただし遠くなるほど線は途切れ、細部が省かれ、量が減る。それでも近景と同じく明瞭であるため強い印象を残し、カメラ撮影のように距離とともに印象が弱まることはない(38)。ここにも「自然の堅固で持続的な形態」が感じられる。

小林の美術を論じた文章で、出﨑統は端的に言う。「いずれにせよ私は、対象をただ正確に写し取るだけの態度を、初めから終わりまで否定してきた。リアリティは写実ではなく、事物の本質にある」。「セル画と背景画をまったく別のものとして考えることはできない両者が一体となって初めて、一つの表現様式として何かが存在し始める」(39)。この率直な言葉は、その直接さゆえにいっそう深く、これまでの議論とも響き合う。もちろん、出﨑の言う「事物の本質」とは、より正確には「物質世界の本質ではなく、それに対する私たちの反応の本質」(27)である。大切なのは現実の原因ではなく、「ある効果を生み出す機構」なのだ。『ガンバの冒険』(1975年)の制作が「ネズミには世界がどう見えるのか」という問いから始まったように、出﨑は書く。「ネズミにとって、岩などの全体の形よりも、身近に迫る岩肌のでこぼこした質感のほうが本質的である。たとえば彼らが『軍艦島』へ来たとしても、最初に眼前へ飛び込むのは、錆びた鉄の表面だということになる」。ここでの「本質」はネズミの身体感覚である。「感じるものと感じられるものとの統一」において、私たちは画家と、そしてネズミと一体化する。

『ガンバの冒険』第5話の画面
『ガンバの冒険』第5話。

高畑が「偽り」のリアリズムを捨てた『かぐや姫の物語』に呼応するように、高畑から深い影響を受けた片渕須直も、『この世界の片隅に』(2016年)で漫画の像に近いキャラクターの描き方を採用し、同じく生き生きとしたリアリティを実現したことは、触れておく価値がある。

近年、井上俊之は『ユリイカ』20208月号の今敏特集における対談で、鋭く指摘している。

「今さんはもともと画面作りで新しいものを求める人で、そこには功罪の両面があったと思います。細かな絵が必ずしも良い絵ではない。細部を追求すること自体を誤りとは言えませんが、アニメーションには多くの負の要因ももたらします。ある程度描けるようになると、細密さと正確さを追うだけでは、絵の魅力は決して生まれないとわかる。だから今、今さんのデビュー以来進んできた細密さと正確さへの追求を問い直し、原点へ戻って、絵の魅力とは何かを考え直す必要を強く感じています。日本のアニメーションは、まさにいま、そうした転換点に立っているのではないでしょうか」(40

前世紀のアニメーションリアリズムを先導し、大きく推進した高畑は、その生涯のうちに、まさにこの重大な転回を遂げた。『かぐや姫の物語』の急進性は、1960年代のアニメーション黎明期への後退ではない。平安時代の絵巻表現まで遡ることができる(31その意味は、繰り返し考えるに値する。

高畑がアニメーション史に残した功績は、ここまで論じたことには到底尽くされない。『かぐや姫の物語』の遺産も、アニメーション界が時間をかけ、繰り返し咀嚼するに値する。中国にとって、前世紀の上海美術映画製作所による水墨アニメーションは、高畑作品と並び立ちうる芸術形式であり、たとえば『牧笛』(1963年)のように、アニメーションに民族固有の性格を表現できる数少ない形式の一つでもある。ところが、この偉大な遺産は、今日のアニメーション界で花開き、実を結んでいないように見える。現代技術の発展のなかで、『かぐや姫の物語』のように最新の技術で古典的な気韻を実現する作品が生まれた今、中国のアニメーションに伝統的な水墨画が蘇り、再興する可能性はどれほどあるだろうか。

まとめ

以上、高畑勲のリアリズムアニメーションを入り口に、アニメーションのリアリティの問題を考えてきた。初めに、バザンが映画のリアリティをどのように扱ったかに答えを求めた。高畑の演出は確かにバザンの映画理論と比較できる。「アニメーションはどのように現実を表現するのか」という方法論上の問いは、実写映画に参照対象を見いだし、そこから吸収することができる。しかし同時に、アニメーションには映画と異なる固有の性質が数多くあることもわかった。ゆえに、演出方法に近い部分があっても、アニメーションと実写の表現の仕方、その内実は大きく異なる。アニメーションが「リアルへ向かう」ことは、現実の模写を意味しない。アニメーションは「現実への漸近線」ではない。その「リアリティ」の源はもっと複雑で、人間が世界を認知する仕方に結びついている。「空間」であれば、眼の視覚が脳内に作る像に、「時間」であれば、人が運動から時間を認知する仕方に関わる。

「ショットと空間」では、高畑の方法論を支える大きな基礎の一つ、場面設計、言い換えれば宮崎駿のレイアウトに重心を置いた。人間の眼の感覚に基づく宮崎の設計方法は、その後のアニメーション界に大きな影響を与えた。そこから、アニメーションが別の現実――身体の現実――を作り出す力も垣間見た。「運動と時間」では、主に三つを論じた。①現実の時間を尊重し、運動の全体(作画設計、演技設計)を描こうとする高畑の姿勢。②キャラクターが静止しているあいだにも流れる時間。③物語構造のリアル、すなわち出来事を切り詰めず、その全体を尊重する高畑の姿勢である。

最後の「現実と記号」は本稿の核心であり、全体の半分を占める。ここでは「アニメーションはなぜ現実を表現しうるのか」という本性に関わる問いを説明するため、ベルクソンの「記憶の円錐」や心理学の「投影」など、いくつかの概念を借り、絵画の知識も少し導入せざるをえなかった。これらの概念が、議論の方向を見失わせていなければよいと思う。要点は明確である。ただし互いに結びつき、引き合っている。①アニメーション記号そのものが孕む再現の力と、原形質として自在に変化する力。②アニメーション記号が本来的に備える潜在的な身体性。③アニメーションのリアルは形似や類似性へ向かうのではなく、等価性の開発、身体の反応と身体感覚の研究へ向かうこと。この三点は節のほぼ全体を貫き、繰り返し触れられながら、広げられ、深められてきた。

とはいえ、本稿の長さと扱う範囲には限りがあり、私にできたのは素朴な探究にすぎない。実のところ、この文章は当初構想したものの前半しか成しておらず、後半の基礎、あるいは題名のとおり一つの「座標」にすぎない。ところが、この「前半」が、当初五千字で片づけるつもりだった内容から自己増殖し、自己展開し続け、やがて怪物のように計画全体へ居座ってしまった。そのため後半の枠組みを丸ごと切り捨てざるをえなかった。この拙い文章が、それでも読者の助けとなり、何らかの益をもたらすことができるなら、それに勝る喜びはない。

本文終わり