屋頂現視研
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私たちは踊っている――人類が退場したあとの空無の玉座

玲音のまなざし、ワイヤード、情報の統一体を手がかりに、技術のなかで人間が記号にされたあと、主体、秘密、神、そして愛の対象の関係が、空無の玉座をめぐってどう組み替えられるのかを考える。

著者: 芳草翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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芳草

思索の森の道で、私はいつも途方に暮れている……

本文

lainのまなざしのなかで、何かが消えた。現実の基準線の上で消えてしまった。純粋な光と物質が交わるなか、ばらばらに切り裂かれた断片が、あの見えない場所でまだ踊っている。存在を構成する視線は表象の表象へと投げかけられ、血の色をした骨の下に繋ぎとめられた形を組み立てる。その視線は、どこにも見つからない富のなかで、自らの広がりを見失う。機械は動き、神は語る。それらは自らの外的な形を取り払い、一種の超視覚的な場となって、どこだかわからない場所に、もう一度lainを出現させる。私たちが見ているのは本当にlainなのか、あの少女なのか? 私たちには彼女が見えるのか? 彼女は本当に存在するのか? どこに存在するのか? 彼女は存在しない。彼女は現実と虚構のあいだに、これから存在しようとしながら消えつつあるものと、現前とのあいだにいる。

私たちの視線は画面へと投げかけられる。そのときlainは、自分が存在しえない場所から私たちを見ている。同時に、私たちから見える場所、彼女にも私たちが見えているはずの場所――そこから私たちを見ている。だから、見ることと見られることの関係のなかで、lainは、私たちが最初に向けた視線から消え、かえって私たちには見えない場所に、もう一度現れる。lainが見ることは、私たちを表象としての現実へと連れ込む。こうして、私たちが見ることで構成されたlainは、視線が折り返すとき、現実のなかで見られたものを、自分自身のうちへ連れ戻す。私たちがlainを見ることは、私たちが見られているという本質を覆い隠す。見られているという現実が戻ってきたとき、lainはそもそもlainではないものをlainのなかへ持ち込む。lainは解釈のなかの、存在論的な空白となる。

玲音を描いた縦長のビジュアル

『serial experiments lain』において、概念的統一体であり、概念の実体性でもあるlainは、絶対的に自己分裂している。彼女は人を愛する少女だ。ありすを愛している。彼女が求めているのは、一つの実体としての規定性なのだ。一方、ワイヤードでは、lainは情報の神であり、四方田千砂が概念のなかで追い求める完全さであり、自己が統一される快感であり、神としての英利政美を信じる者である。『lain』では、情報の集合的無意識が現実世界の神になる。その神がlainであり、あの少女であり、〈一〉なのだ。私たち人間主体が夢にまで見る、あの〈一〉。手に入らなくても追い求めつづける、あの〈一〉。けれどもその〈一〉は、有限の苦痛なのだ。その苦痛を規定するのは、現前の無限によってすでに否定された輪廻である。lainは情報の統一であり、インターネットの神であり、あるいは人類そのものなのである。

『lain』では、人間が歪められ、記号にされる。本当の人間ではない、悪魔だ! 本当の地面ではない、血の跡だ! 本当の頭ではない、操り人形だ! 本当の少女ではない、怪物だ! 本当のゲームではない、殺戮だ! 本当の神ではない、触手だ! すべてがlainのなかで、視覚によって消し去られてしまう。lainが到来したあと、世界はもはや世界ではなくなった。分裂し、すべてが壊れてしまった!

並び立つ二人の玲音

顔が闇に消え、口だけが見える人々

中国語版画像の字幕(日本語訳):第6世代プロトコルには致命的な欠陥があり、ワイヤードの安全を大きく脅かす。

lainにはこの世界が見えない。見えているのは、この世界が消えてゆくさまなのだ。どこへ行ったのか? ワイヤードへ。ワイヤードはすでに現実世界を支配している。この肉体の世界は、世界の精神によってもう一度切り裂かれ、痛ましい磁力線のコイルのなかで踊っている……

赤い腕を振り上げる人物

人間など、社会のなかに突如現れた構成物にすぎない。人間の肉体が、生物としての組織のあり方において、外的で直接的な自然性をようやく脱する。すると情報は、媒介化の過程で重要な役割を担うようになる。lainはネットにしか存在しない神ではない。ネットが存在することで、実際に姿を現したにすぎないのだ。情報化がますます深まるにつれ、人間は、その具体性を記号と数字の普遍性に置き換えられ、科学的な認識によって媒介される。技術への依存は逆に、世界の夜としての人間の本質を破壊する。私たちは頭を垂れて臣下となり、両手を掲げ、神の奥義にひれ伏す。家政としての統治のもとで、私たちは何もわかっていないハムスターでしかない。白髪の魔女を見つめ、自分が何を語っているかもわからないまま告白する個人でしかない。この永遠の夜のなかで、私たちは自らの意志の独立性を手放し、その代わりに一つの〈一〉――lainを手に入れたのだ。

英利政美を信じる者は、ただ一人。彼のナイツは皆殺しにされたが、まだlainがいる。lainに現実のなかで自らの肉体を持たせたのは彼だ。lainという一人の信仰者さえいれば、情報のなかの神、世界の果てであなたを待つ神は、終焉の言葉によって、この世界の終わりを宣告するだろう。lainが一人いれば、それで十分なのだ。彼女こそが人類の嘘であり、人類の存在の本質なのだから。

広場に、群衆のなかに、街路に、家に、ここに、あそこに。lainはどこにでもいる。どこからでも――あなたを見ている。どこまでも慈悲深いそのまなざしには、痛みとともに、無限の孤独と現前の罪が宿っている。親しい女友達どうしの語らい――彼女は見ている。星空のない大都市に迷い込んだ、疎外された人々――彼女は見ている。悦楽が花開き、生命が生まれるその瞬間、黒い空洞が満たされるそのときにも――彼女は見ている。lainは時宜にそぐわず、存在もしない。だが、まさに存在しないからこそ、どこにでも存在できる。lainは世界を行き交う。私たちは見られる。私たちは見る。

ありすは空想の喜びのなかで、禁じられた悦楽を味わっている。

先生に抱き寄せられるありす――空想の場面

中国語版画像の字幕(日本語訳):先生とこんなことをして、本当にいいの?

許されない愛、禁忌の愛、掟を越える愛、人類の原初の罪。それは思春期の性的な空想のなかでしか認められない。この秘密を守って――しーっ、しーっ。これは私の秘密、ありすの秘密、神に愛された女の秘密。甘い秘密、絶対に知られてはいけない。あの禁じられたもの、あの惑い、認められない悪。光の下では、噂話も、あの誤った熱狂も、もうやっては来ない。手のなかの悪の花をそっと握り、隠して、しまい込んでこそ、歌い、楽しむことができる。だが、あの悪魔――lain、暗闇のなかで狂ったように笑うあの悪魔は、神の衣と皮をまとい、道化のように笑っている。記号となり、歪みとなってゆく――愛、情報、倫理、悦楽、歓び――否定の鋭い剣がありすの身体を貫き、永遠の苦痛が人類文明の勝利を讃える。lainがさっと手を振ると、徹底して隠されていた秘密は引き出され、積み重なる杯の空無のなかで、光と文明に満たされる。

道徳がすべてだ。lainの前で、人間には秘めておけるものがない。lainは心の導き手である。ネットを前に、私たちは自ら屈服し、見えないところで身を低くして拝んでいる。情報の奔流のなかで、イエスが帰ってきた――十字架から飛び降り、自らの不条理を脱構築する。錬金術の魔術師は追い払われ、原初の戦争は忘れ去られる――富と繁栄に満ちたこの世界で、乾いた血の跡と寂しい白骨は、あの偉大な富のなかに忘れ去られている。神の秩序は、思想が生まれるその場所で規定される。私たちはただ、裸の自分をlainの前へ連れてゆき、見られるがままになる――ありすのように。

ありす

ワイヤードに浮かぶ異形の顔

だが、lainは神なのか? 違う。聞いて――どき、どき……――ありすは震えながらlainを見つめ、その手を取って自分の胸へと導く。ほっそりとした蓮の葉と花びらが、穏やかな池の水面をすべってゆくように。突然、鷹が太古の呼び声をあげる。道に迷った者は砂漠で蛇の痕跡を探す。鳳凰が天を震わせ、羽ばたき昇る。山奥の怪物がひそかに吠える――どき、どき……。少女たちの隔てのない親密さのなかで、生命の静けさは引き裂かれ、閉じることのない傷を負う。大地で歌う楽隊が、偉大な儀式を再び始める。酔った者、魂を失った者が、生命の宝剣を手に、あの荒野に旗を立てる――どき、どき……。

ありすの胸に手を当て、鼓動を確かめる玲音

画面のなかの玲音

ありすは、神が私たちに与えた慰めであり、私たちへの贈り物だ。彼女は果てしない広がりであり、偉大さであり、救いである。lainが愛する相手、けれども届くことのない相手である。lainには彼女を見つめることしかできない。本当に愛することも、本当に好きになることもできない。最後にはただ独り、ありすが恋人と去ってゆくのを見送るしかない。橋の上に独り立ち尽くし、独りとぼとぼと歩く――「そう、いつだって会えるよ……」1

注釈

ここでの私の読解は、実のところ、フーコーが『言葉と物』で行った『ラス・メニーナス』の有名な読解を、方法論の基礎にしている。いわゆる「超視覚的な場」という概念には、ここではあまり踏み込まなかった。これは私の概念だ。もちろん、私がフーコーより優れていると言いたいわけではない。ほんの小さな新しさがあるからといって、ある時代の思想家を超えたなどとは言えない。それは読書が必然的にもたらすものでしかない。読むことが必然的に生む傷、読んで理解することの不可能性でしかないのだ。読むことは不可能であり、理解することは傷を負うことであり、穴を残すことだ。テクストとテクストのあいだは、まるでセーターの編み目のようだ。言葉と言葉をつなぐ糸のあいだには、空無のブラックホールが広がっている。その穴はまだ、解釈で埋められるのを待っている。明るい照明の下に置かれ、メスで縦横に切り刻まれるのを待っている。解釈のあとに残るのは、乾いた血の跡だけだ。主体が消え去ったあと、もはや見えない暴力だけなのだ。

ここでは、従来の物理的な視線から抜け出さなければならない。ドゥルーズはフーコーを論じる際、フーコーによる『ラス・メニーナス』の解釈は、根本的には光学的反射が螺旋をなす構成なのだと語っている。私たちには想像が必要だ。死んだ物の像や表象とは別の思考、この世界を超え出る思考が必要なのだ。それは物の像にとどまる視線でも、物を表象する視線でもない。事物を私たちから遠ざけるロゴス中心主義でもなく、存在論的な構成である。詩学の空間、つまり創造の学の空間なのだ。

ポイエーシスはギリシア語で創造を意味する。詩とは創造であり、境界の見えない彷徨なのだ。そこには隔たりがあり、音があり、かすかな風の音があり、開けた野があり、数多くの獣が駆けめぐる自然がある。ルイスによれば、一つひとつの言葉には、一人の〈彼〉が住んでいる。何であるかを私たちには語れない、無言の美が住んでいる。一つの世界、一つの言葉に、星空も海も砂浜も住んでいる。戯れる子どもたちが住んでいる。神の輝きが天空の神秘を透かして放つ、星々のかすかな光が住んでいる。それは言い表せない美だ。

朱光潜先生は「無言の美」という短い文章で、美はまさに無言であり、言葉にはできないと語っている。それは果てしない広がり、言い表せない極限である。カントはこうした驚きを崇高と呼んだ。それは理性へと向かう崇高だ。だが、逆なのかもしれない。それは理性自身の恐れ、無限を前にした恐れ、言葉にできない恐れなのではないか。これこそ美的な創造であり、一つの図式であり、一つの言語であり、表象の届かない力なのだ。それが、いわゆる視線の到来であり、神が自らの外的な形を取り去ったということの意味であり、血の色をした骨の意味でもある。

ここでいう富は、物質的な富ではない。実のところ、富とは、そもそも存在しない危険なのだ。泰然としてあるがままにまかせ、天地の霊気を取り込み、五穀を断ち、天地のあいだを漂ってこそ得られる、何ものも持たぬ境地である。もちろん、そんなことは不可能だ。このような探求は、必ず鏡像のなかで自分を見失うことになる。

フランスの技術哲学者スティグレールによれば、情報を外部に蓄える技術的道具が人間の記憶を引き受けることで、世界規模の知的プロレタリアートが生まれる。全世界は、技術哲学者グーランのいう技術的ベクトル場のなかで、完全に形作られ、抵抗することのできない大文字の〈一〉になるだろう。この文章で私は、ワイヤードのlainを、その〈一〉と捉えている。ネットのなかでは、地域が消し去られることで、すべての人の意識が完全に統一されるのだ。

ここでいう無限性は、アナクシマンドロスの重要な概念である。そして、いわゆる輪廻は、アナクシメネスの審判の宣言のなかで、存在者が存在することの秘密を告げている。

ここでいう神の奥義について。オイコノミア(oikonomia)という語は、もともと家庭を治めることを指していた。キリスト教の複雑な展開を経て、それはある種の神の責務を帯びたものとなった。私たちが引き受けずにはいられない、世界を治める責務、世界を把握しなければならないという要請である。つまり、家庭を治める知――家政(economic)による管理だ。このeconomicが、のちにアダム・スミスの経済学の用語となり、神の秩序は、市場の論理における客観的な発展法則となり、「自然の政策」(economy of nature)となった。「天国の統治」(gouvernement économique d’un royaume)が、「自然秩序」(ordre naturel plus avantageux)となる。2ここには、ひそかな重なり合いがある。

アガンベンは『王国と栄光』で、大文字の王権としての権力が、実際には神の秩序に由来することを論じている。王権そのものは空無である。これが、私の題にいう「空無の玉座」の意味でもある。

ここでいう「告白する個人」は、自己の解釈学を通じて主体となる。フーコーが『性の歴史』以降に見出したのは、そのように主体が構成されるあり方である。フーコーは「西洋人は長いあいだ、すでにすっかり告白する動物であった」と語っている。

ハムスターはアレクサンダーの比喩である。神を前にした私たちは、一つの部屋にいるハムスターのようなものだ。ただ、偉大な神が時折、恵みを与えてくれる。私たちはそれを捉えなければならない。それが神の恩寵である。

白髪の魔女とは、儀式における主権者だ。彼女は、人間が構成される秘密を司る。魔女は実在するものではない。カッシアヌスは「貞潔を守らねばならない」のなかで、私たちが聖なるものへ入ってゆく道筋を論じた。つまり、存在論の次元では、ここに目に見えない魔女がいて、魔法の杖を向け、あなたにどうすべきかを指図しているのだ。

錬金術の魔術師が追い払われ、原初の戦争が忘れ去られるというのも、やはり実際の出来事ではない。錬金術の魔術師は、次のような状態を表している。古代ギリシア語で技芸とはテクネー、物のエネルゲイアを実現することをいう。つまり、ポイエーシスによって作品(ergon)をその外観(eidos)のもとに開く。ピュシス(自然)のなかで、エンテレケイアへ、あるいは何らかのテロス(to telos、境界)へと立ち現れさせるのだ。錬金術の魔法はピュシス自身の変化であって、荒唐無稽な幻覚ではない。

また、原初の戦争について、ハイデガーは『形而上学入門』で、こう述べている。「分裂と闘争は、現前するすべてのものの母である。それはあらゆるものに夜明けをもたらし、あるものを神として、あるものを人間として、あるものを奴隷として、別のものを奴隷として現れさせる」。これが、いわゆるポレモス(引き裂き)である。ポレモスはまた、集めること(sammelung)、すなわちロゴスでもある。事物はこの引き裂きのなかで開かれる。これが戦争であり、「das ins denken noch unbwaltigt uberwaltigende anwesen」3と呼ぶもの、つまり思考の対象、存在なのである。

砂漠と蛇は、神学上のある物語を指す。ここで蛇は、古代には輪廻という意味をもち、繰り返し現れる神秘的な徴である。

大地で歌う楽隊とは、ニーチェが『悲劇の誕生』で描いたような生の意志、酒神的精神、ディオニュソスの力の現れであり、大地を奔流のように駆ける生命である。詳しくは『悲劇の誕生』を見てほしい。

この文章には、文学的な修辞がずいぶん多いと感じるだろう。気取っているだけだと思う人も多いだろうけれど、本当に気取りで書いているわけではない。むしろ、この文章については、何が言われているのかを突き詰めて考える必要はないし、一字一句にこだわるのもやめてほしい。葉聖陶先生が言うように、想像力を働かせて、あの光景を思い浮かべれば、何かを読み取れるはずだ。作者である私はもう死んだ。あとはみなさん次第。私は観客になって、みなさんと一緒に眺めていよう。

編者より:うん、わかる、わかる。それにしても『lain』そのものが、なんとも不思議な作品ですよね。本稿は、こちらの文章の注釈版です:「私たちは踊っている――人類が退場したあとの空無の玉座(完全版)」。

「あー そーゆーことね 完全に理解した」と腕を組むポプ子に、「わかってない」の矢印が添えられた編者の反応画像

本文終わり
注03

注釈

  1. 訳注:台詞は脚本家・小中千昭による第13話の場面記録に拠る。中国語原稿の引用は「ありす、私たちはいつだって会っている!」という意味で、呼びかけと再会の表現が異なる。 ↑

  2. 訳注:日本語の呼び名は中国語原稿に拠る。併記された欧文はそれぞれ「自然のエコノミー」「一王国の経済的統治」「より有利な自然秩序」の意で、中国語側の呼び名とはずれがある。 ↑

  3. 訳注:ドイツ語句の綴りは中国語原稿のまま。ハイデガーの原文からの転記ではない。 ↑

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