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VRのラディカル性、美少女ゲームの臨界点――『Project LUX』論

『Project LUX』を中心に、美少女ゲーム批評史、サイバースペースの想像力、インターフェイス的主体の理論から、半没入状態のVRが引き起こす知覚の衝突を考察する。視覚と触覚が結びつく触視性、そして触れることと触れられることの非対称性に、メディアのラディカル性を探る。

著者: 红茶泡海苔翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

『Project LUX』のタイトル画像

9月16日、Facebookが新世代のスタンドアロン型VRヘッドセットを発表した。299ドルという、Nintendo Switchの市場を奪いにいく価格。「毎年がVR元年」と笑われてきたが、今度こそ本当の「元年」が訪れるのかもしれない。VRはようやく成熟への道を歩み始めたように見える。まったく新しいメディアとして、これからの想像力の革新を担うのだ。この新しいメディアで作られる美少女ゲームも、何かまったく新しい体験をもたらしてくれそうだ。ところが、実際にVRヘッドセットをかぶってみると、ため息ばかりが出る。いわゆる新しいメディアで作られた新しい体験は、たいていの場合、強い腐臭を放っている。こうなると、問わずにはいられない。VRは本当にまったく新しいメディアなのか。VR上の美少女ゲームは、本当に何かまったく新しい体験を私たちにもたらしているのか。

あるいは、この二つの問いは、もっと正確にはこう言い直せるだろう。

  1. VRには、革新=ラディカル性(radical)があるのか。

  2. VR上の美少女ゲームには、革新=ラディカル性(radical)があるのか。

本稿では、VRをめぐる想像力の歴史と美少女ゲームの批評史を手がかりに、この二つの問いを考える。そして最後に、VR美少女ゲーム『Project LUX』を例に、この「ラディカル性」がそもそも可能なのかを探っていく。

なぜ私たちは美少女ゲームにラディカルさを求めるのか

本論に入る前に、いったんVRの文脈を脇に置いて、まず考えるべき問いがあるだろう。「なぜ私たちは美少女ゲームにラディカルさを求めるのか」。たしかに、いまの美少女ゲームプレイヤーの多くにとって、革新=ラディカルさを求めることは、必要ではないのかもしれない。彼らにとって美少女ゲームとは、いつまでも終わらない日常が再生産され、定型化した物語とキャラクターを際限なく消費し続けられる、甘く心地よい場所であるはずだ。だが、美少女ゲームの歴史を振り返れば、ラディカルさの追求はもともと一つの潮流であり、本質でさえあった。この追求は、美少女ゲームが自分自身に向けて行う、自己言及的な「批評」運動だったとも言える。

いまでは思想に関心を持たない美少女ゲームプレイヤーが大半で、彼らにとって「批評」はなじみのない言葉かもしれない。それでも「エロゲー批評空間」という聞き慣れた名前を出せば、その意味はなんとなく伝わるだろう。ただし批評とは、多くのプレイヤーが直感的に思い浮かべる、あの採点システムのようなものではない。エロゲー批評空間で批評が最もよく現れているのは、むしろ長文の感想欄だ。それこそが、日本の文芸批評の伝統なのである。美少女ゲームプレイヤーには「批評空間」という名前は、自分たちの領域に属するもののように親しく響く。だが、実は外から来た名前だ。『批評空間』とは、かつて柄谷行人や浅田彰らの批評家が共同で創刊した批評専門誌である。日本の文芸批評史においてきわめて重要な位置を占め、その影響の大きさは、名前やスタイルをそっくりまねた「映画批評空間」のようなサイトまで生まれたほどだった。そして私たちのよく知る「エロゲー批評空間」は、その美少女ゲーム版にほかならない。

だから、美少女ゲームにラディカルさ=批評を求める契機は、すでに一人ひとりのプレイヤーの心のうちにあり、美少女ゲームの批評史にも潜んでいたのである。

美少女ゲームの臨界点

美少女ゲームの歴史において、批評は避けて通れない問題だ。そして、その批評史を語るうえで絶対に外せない人物が、思想書を読む人にはおなじみの東浩紀である。『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』で示された、目から鱗が落ちるような分析は、美少女ゲーム批評史にひときわ鮮やかな足跡を残した。だが、中国語圏の読者にはあまり知られていない、もう一つの重要な仕事がある。ゼロ年代初頭に東が手がけた、美少女ゲーム批評同人誌『美少女ゲームの臨界点』シリーズだ。

わずか2冊しか刊行されなかったこの批評同人誌には、虚淵玄、元長柾木、鋼屋ジンといった数多くの美少女ゲーム作家が集まっただけではない。ゼロ年代を通じてオタク文化批評を支配したキーワード「セカイ系」の、あの古典的な定義もここで生まれた。さらに、前島賢のようなオタク文化の書き手を育て、いまでは『Keyの軌跡』『TYPE-MOONの軌跡』によって中国語圏でも知られる坂上秋成らにも影響を与えている。滝本竜彦や新海誠といったおなじみの名前まで、この同人誌に名を連ねていた。いま振り返れば、この批評同人誌はまさに「伝説」と呼ぶにふさわしい。

この同人誌が生まれるまでの経緯も、実に面白い。思想書を読む人にとって、東浩紀の美少女ゲーム批評で最も印象深いのは、おそらく『ゲーム的リアリズムの誕生』で展開されたループ系美少女ゲームの分析だろう。この本はもともと、ゼロ年代初頭に一世を風靡したライトノベルの文芸誌『ファウスト』での連載だった。ところが、連載開始からほどなくして、東は編集者の太田克史と理念の違いから対立する。その理由がまた驚きだ。なんと東浩紀はKey厨で、太田克史は型月厨だったのだ(いまの言い方なら、Fate厨に近い)。太田の型月厨勢力に対抗するため、東は同誌の批評欄を降板し、自らメールマガジン『波状言論』と批評同人誌『美少女ゲームの臨界点』を作ることになった。『美少女ゲームの臨界点』第1号には、東の考えるライトノベルと美少女ゲームの影響関係や位置関係を詳しく描いた見取り図がある。この伝説の批評同人誌は、美少女ゲームだけでなく、ライトノベル、そして両者をめぐる批評にも深い影響を及ぼした。

『美少女ゲームの臨界点』の表紙図版

臨界点のラディカル性

『美少女ゲームの臨界点』に収められた有名な『AIR』論「萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について」で、東浩紀は美少女ゲーム批評の基準を次のように述べている。1

以上が筆者の『AIR』についての考えである。だが、ここで言う「批評的」とは、いったい何を意味するのだろうか。私たちは普通、『AIR』を批評性のある作品とは考えない。それは間違いない。オタクたちの欲望をほどよく満たす「泣きゲー」でしかなく、消費の論理に従って作られ、成功を収めた商品でしかない。その制作と消費に批評的な意識はなかったかもしれないし、ある必要もなかった。筆者自身も、ここで論じた『AIR』の批評性が、麻枝准をはじめとするKeyのスタッフによって意識的に提示されたものだとはまったく思っていない。大半の読者が、先に述べたような読み方をしているとも思わない。この点で『AIR』は、先に触れた『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や『新世紀エヴァンゲリオン』、そして元長とotherwiseの『未来にキスを』など、明確に批評的な性格を持つ作品とはまったく異なる。

それでも筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)が、もともと何かへの批判や非難を意味するものではないからだ。文学、美術、アニメ、ゲーム、どのようなジャンルにも、自らの可能性を臨界点にまで高めようとすることで、意図せずそのジャンルの条件と限界を露わにしてしまう、巧みな創造の営みが存在する。「批評的」とは本来、そうした営み全体を形容する言葉であるはずなのだ。

ここまでの議論が示すように、『AIR』を分析することで、美少女ゲームというジャンル自体の本質と限界について、私たちの理解は深まった。言い換えれば、この作品は、作家自身の意図やプレイヤーの実感と直接には関係のない次元で、ジャンルに潜む性質を露わにする通路となっている。筆者が『AIR』を「批評的」な作品と呼ぶのは、まさにこの性質を指してのことである。

東浩紀がここで示している臨界点の理論は、美少女ゲームの可能性を極限=臨界点(critical point)まで押し進め、メディアとしての本質を露わにする営みを、美少女ゲーム批評として捉えるものだ。多くの読者はすでに気づいているだろう。『ゲーム的リアリズムの誕生』のループ系美少女ゲーム批評が、美少女ゲームの「システム」、言い換えればメディアの仕組み・構造であるアーキテクチャ(architecture)を重視しているのも、実はこの批評の基準を別のかたちで実践しているからなのだ。VR美少女ゲームにラディカル性=批評性を求めることも、この臨界点の理論と同じく、VRというメディアとVR美少女ゲームというジャンルを極限まで押し進め、その本質とアーキテクチャを露わにする営みなのである。

『AIR』の空と木々の梢の画面

サイバースペースのラディカル性

最初の問いに戻ろう。VRには、革新=ラディカル性(radical)があるのか。あるいは、VRにとってのラディカル性とは何なのか。一般消費者向けVR製品とその産業が興ってきたのは、たかだかここ10年のことだが、VRをめぐる社会学的・文学的な想像力には長い歴史がある。VRにとっての革新を考えるには、この想像力をたどることが近道になるだろう。その想像力の代名詞こそ、私たちがよく口にする「サイバースペース」だ。

サイバースペースはとうに聞き慣れた言葉になっているが、日常生活でより頻繁に使われる「ネットワーク」と比べると、実は比喩としての性格が強い。いわゆるサイバースペースを支える通信インフラは、ネットワークという言葉が示すとおり、何かの「場所」ではなく、光ファイバーやケーブルからなる交通網だからだ。東浩紀は「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」で、通信インフラの網状の構造を離れ、サイバースペースが空間の比喩になった理由を論じている。それは、1960年代のアメリカで興ったカリフォルニア・イデオロギーが、インターネットに技術的ユートピアの夢を託したからだという。国家単位で整備されるインフラとしての通信技術と、左翼思想との奇妙な結合は、現実の空間の外に、自由な新大陸を作り出した。アメリカ独立宣言にならって発表された「サイバースペース独立宣言」は、カリフォルニア・イデオロギーによる、この自由な新大陸の想像を代表する例である。そして、私たちになじみの深い文学的想像力のジャンル、サイバーパンクも、この思想の深い影響を受けている。サイバースペースの文学的想像力では、資本や体制による個人の支配がケーブル、交通、建築といったインフラとして表象される一方、資本や体制に抵抗する自由の拠点は、幻のサイバースペースとして表象される。同じ通信ネットワークを、支配のインフラとも自由の空間とも表象するこのあり方にこそ、このイデオロギーのラディカルさと保守性の同居が表れている。

言うまでもなく、ネット空間が左翼の大反攻の新たな拠点になると期待する、こんな楽観的な想像は、きわめて幼稚だ。東がこの論考を連載していたのは、まだ1997年だった。インターネットはいまほど普及しておらず、この幼稚さを批判するには、ある程度の哲学的な思弁を必要とした。だが、いまを生きる私たちは、ネット空間がナショナリズムを煽り、個人をデジタルに搾取する道具になるのを目の当たりにしてきた。その私たちなら、思弁的な分析などしなくても、この幼稚さを身をもって知っているはずだ。

東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』の書影
『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』

東浩紀著。

象徴界の短絡とラディカル性

VR産業が全速力で発展してきた今日でも、人々はサイバースペースをめぐる幼稚な想像から、本当には抜け出せていない。Facebookが自社のVR機器へのログインにFacebookアカウントを必須とした措置には、プレイヤーや業界から無数の批判が寄せられた。そのなかには、自由の制限を責める、相変わらずの決まり文句もあった。こうした批判は、先ほど述べたカリフォルニア・イデオロギーの構造を抜け出してはいない。中国のフードデリバリー配達員をめぐる一件2を経て、デジタル労働の問題に関心のない普通の人でさえ、もう「システム」に幻想を抱かなくなった。にもかかわらず、VRに向けられる批判は、いまだに古い自由主義をなぞっている。輪をかけて幼稚だと言うほかない。では、サイバースペースについて、そしてVRやVR美少女ゲームの形式を論じる私たちにとって、語りうる革新=ラディカルさはもはや何もないのだろうか。そうではない。むしろここで私たちが行うべきは、古さを革新へと反転させ、未熟さをラディカルさへと高めることなのだ。

どういうことか。もう一度、サイバースペースの想像力に戻ろう。心理学者のシェリー・タークル3とアロケール・ロザンヌ・ストーン4は、来たる電子メディアの時代について、次のように述べた。電子メディアの時代には、人々が画面上の複数のウィンドウを行き来することは、異なる人格の仮面をかぶり替えられることを意味する。この多重人格的なメディア構造が、デカルト的主体の脱構築と、ポストモダンの主体の誕生を促すというのだ。だが、ポストモダンの旗を掲げるこの心理学は、どう考えても怪しい。ジジェクは論考5で、異なる人格の仮面を自由にかぶり替えられるということ自体、その背後に、どんな仮面でもかぶれる空集合としての主体の位置があることを意味する、と批判した。だから、サイバースペースの複数の人格を主体の対立物として持ち出すこの理論は、主体の単一性を脅かさないばかりか、別の次元で主体の欲望の構造を強化してしまう。ところが東浩紀は、この一見きわめて幼稚な心理学的分析の背後に、ラカン派精神分析が見落としたラディカルな可能性が潜んでいると指摘する。

タークルらの記述のなかに、東は特異な表層性を見いだした。たとえば、文字でやりとりする多人数参加型ゲーム、MUDのプレイヤーは、文字で表されたキャラクターが傷つけられると、自分自身も傷つけられたと感じる。ネットのチャットでは、相手が女性を名乗り、女性的な言葉遣いをしていれば、ほかの要因はひとまず脇に置いて、それを無条件に信じてしまう。こうした事態が示すのは、情報時代の人々が画面の背後=深層に関心を持たないということだ。

精神分析の言説において、表層と深層はつねに表裏一体となり、弁証法的に主体の構造を形作る。たとえば、精神分析が映画の鑑賞を捉えるモデルでは、観客は一方でスクリーン上のイメージ(image)=登場人物に自分を重ね、想像的同一化を行う。他方では、スクリーンの外にある装置――カメラや監督、そして社会のまなざし――に自分を重ね、象徴的同一化を行う。スクリーン上の見えるイメージ=imageと、スクリーンの外の見えない象徴秩序=symbolとの弁証法的関係において、主体の欲望の構造が形成されるのだ。ところが、サイバースペースの情報時代に、人々は深層への関心をすっかり失っている。精神分析では、この深層=象徴秩序の欠落、大文字の他者の失墜は、つねに倒錯というかたちでその回帰を招く。たとえばジジェクは、こうした言説に現れているのはマゾヒズム的な性質だと考える。深層を欠いたところで、結局はサイバースペースという名の別の「主人」の回帰を、自ら進んで迎え入れるだけなのだ。東浩紀は、この象徴秩序の補填の仕組みを認める一方、情報時代には、その補填はもはや象徴秩序の回復としてではなく、「象徴秩序の想像化=シンボルのイメージ化」という別のかたちで進むと指摘する。象徴界を短絡させ、拡張された想像界を現実界へ直接つなぐこの理論、精神分析、とりわけラカン派に対するこの独特の態度は、東の理論の重要な一部をなしている。たとえば、きみとぼくの関係が世界の存亡などの存在論的な問題に直接結びつくという、東の有名なセカイ系の定義も、まさにこうしたラカン派精神分析への批判から生まれている。

象徴界の想像化、深層の表層化がもたらすのは、徹底した表層、超表層=超平面である。そして、この超平面に生まれる新たな主体のあり方こそ、東浩紀がインターフェイス的主体(Interfaceの主体)と呼ぶものなのだ。

弱体化した大文字の他者、イメージとシンボル、目の主体と言葉の主体の関係図

インターフェイス的主体のラディカル性

東浩紀のインターフェイス的主体に見られる、ラカン派精神分析への批判的な態度は、実はデリダに由来する。東の見るところ、精神分析は全体として20世紀の映画装置の産物である。精神分析的な映画鑑賞のモデルから、情報時代のサイバースペースへ移るということは、見ること/見られること、見えるもの/見えないもの、イメージ/シンボルという、それまで表層と深層に振り分けられていた対が、同じ表層へと押し潰され、そこで表象されることを意味する。イメージとシンボルの両方に同時に属するこの性質こそ、デリダの言うエクリチュール(écriture)、すなわち書くこと・記されたものなのである。

かつてイメージは可視的で、シンボル、つまり象徴秩序は不可視だった。情報時代が訪れ、イメージとシンボルがともに想像界に置かれると、両者の区別も視覚の特権から解き放たれ、分散した知覚によって処理されるようになる。言い換えれば、イメージとシンボルの存在論的な区別から、エクリチュールが異なる知覚経路で処理されるという認知上の区別へと移るのだ。このように知覚が分散し、複数の経路でエクリチュールが処理されるというインターフェイス的主体のあり方は、一方では東がデリダを介して論じる目と耳のあいだの空間に、他方ではフロイトの「不気味なもの」(Uncanny)に対応している。

フロイトの「不気味なもの」は、外からやってくる得体の知れない恐怖とは異なる、もう一つの恐怖を指す。自分の内側の、最も親しいものが、外側で見知らぬものとなって戻ってくる恐怖だ。よく知られた例には、人形の不気味の谷、分身、日常生活での偶然などがある。フロイトの有名な例として、こんな説明がある。会いたくない友人のことを考えていたら、ちょうどその相手に出くわす。この日常的な偶然を不気味に感じる仕組みは、次のように説明される。無意識のうちにその人の存在を捉えてはいるのだが、嫌悪感からその情報を抑圧し、意識に上らないようにしている。ところが無意識は、その情報を独自に処理し始め、嫌いな友人について連想をめぐらせる。そうして距離が近づくにつれ、一方では無意識がその友人を連想し、他方では折よく、その友人がこちらに声をかけてくる。この、意識の経験が無意識の経験に遅れるという仕組みが、不気味さという感情を生み出すのである。

東浩紀の解釈では、無意識による意識の抑圧と、無意識に対する意識の遅れが、デリダを介した目と耳のあいだの空間という議論と結びつけられ、異なる知覚のあいだ、意識と無意識のあいだの処理速度の差をめぐるメディア論として論じられる。つまり、東が論じるインターフェイス的主体のラディカル性は、視覚の特権が解体されたあと、諸知覚の処理速度の差が生む衝突によって、弁証法的な主体が撹乱され、分裂することにある。そしてまさにここで、私たちはついに、VRに潜むラディカル性を読み解く理論に行き着くのである。

VRヘッドセットとコントローラーを装着した体験者

半没入のVRと諸知覚の撹乱

FacebookがQuest 2を299ドルで発売することは、VR産業が成熟しつつあることを意味しても、VR技術が成熟しつつあることを意味するわけではない。VR技術は、いまなお解決すべき多くの問題を抱えている。代表的なのが、VRプレイヤーにはおなじみの、動揺病や性能不足といった問題だ。

動揺病とは、VRヘッドセットをかぶったとき、視点の移動を感じる視覚と、静止した身体の運動感覚が食い違うことで生じる、乗り物酔いのような症状を指す。仕組みも、現実の乗り物酔いや3D酔いに似ている。だが、広く解決を求められる問題になったのはVRにおいてだ。そのため、多くのVRゲームは、移動操作を瞬間移動にしたり、移動中の視野を大幅に狭めたりして、視覚による運動感覚を打ち消し、動揺病を防ごうとしている。VRが目指すのは感覚の完全な没入なのに、動揺病をなくすには、視覚効果をある程度制限せざるをえない。この逆説ゆえに、動揺病はVRが成熟するうえで最大の障害になっている。

しかし、VRが成熟と未成熟のあいだにあり、感覚を完全には覆いきらない半没入(half dive)という特殊な状態にあるからこそ、私たちの求めるラディカル性は可能になる。VRの視覚はすでに、自分が動いていると意識に思い込ませるだけの力を持っている。その一方で、身体が無意識に処理する運動感覚については、VRによる再現はまったくの空白のままだ。この知覚どうしの衝突、そして視覚がほかの諸知覚を抑圧してきた歴史が、きわめて生理的な撹乱となって、解決すべき問題である動揺病に現れているのである。

次は性能不足の問題だ。現在のコンピュータグラフィックス技術では、視覚の完全な没入を実現するまでにはまだ距離がある。人間の両眼の水平視野角は200度近くあり、VRヘッドセットの表示距離では、8Kの解像度でも画素の隙間を見分けられる。さらに、目の疲れやめまいを抑えるには、少なくとも毎秒90コマ(90fps)が必要だ。200度の視野角を実現するには、片目ごとに8K・90fpsの描画が必要になるが、最新のグラフィックボードRTX 3090でさえ、AIで低解像度の画像を高解像度に再構成するDLSSを使っても、8K・60fpsに届く程度の性能しかない。人間の目の限界には、まだ遠く及ばない。現在の描画性能でこの問題を解決するため、VR業界では「フォービエイテッドレンダリング」という、中心部を高精細に、周辺部を低精細に描画する技術が開発された。原理はこうだ。人間には200度近い広大な視野があるものの、はっきり認識できる範囲は注視点の周囲の約30度しかなく、その外側では認識能力が徐々に下がっていく。これが、私たちの言う「視界の隅」を認知科学から説明したものだ。ここに、描画の手抜き=最適化の理論的な根拠がある。注視点から離れた部分の描画解像度を下げれば、鮮明さを保ちながら描画負荷を大幅に減らせる。理想的な条件なら、必要な処理量をもとの16%に抑えて、ほぼ同じ効果を得られるのだ。だが、現在のこの技術には問題がある。眼球は動くのに、高精細に描画する範囲は画面中央に固定され、視線の動きについていけない。解決にはアイトラッキング技術を組み合わせる必要があるが、いまのところ、VRでのアイトラッキングはまだ実用化の段階に達していない。大多数の人が手の届く価格にもなっておらず、対応するゲームも広く普及していない。

この描画性能の不足のために、大半の人が買えるVR機器は、視覚のうち「意識」に属する部分にしか対応できず、残りの「無意識」=「視界の隅」まで広く覆うことができない。その一方で、頭の動きを追うVRの技術は、すでにかなり成熟している。そこで、連続する運動知覚と、視野を覆いきれない視覚の非連続性が衝突する。意識される視覚の変化と動きは連動しているので、私たちの知覚の構造と一致し、現実感=没入感が生まれる。ところが、無意識の視覚は十分に覆われておらず、潜望鏡を通して世界を見るような視覚体験は、私たちの知覚の構造に合わない。その結果、VRプレイヤーは頭を動かすとき、視線が客体化するような感覚を覚える。まるで自分の視覚が、へたくそなカメラマンの操るカメラになってしまったようで、自分でも、自分の「カメラワーク」=「視覚」のへたさに突っ込みたくなる。こうした体験は、先に述べた不気味さにきわめて近い。視覚は、主体の内側にある最も親しい感覚の一つと言ってよい。だが、VRヘッドセットをかぶると、その視覚そのものが外へと引き出され、見知らぬ客体になってしまうのだ。

この視線の客体化は、インターフェイス的主体の性質にも最もよく合致する。ラカン派精神分析では、可視的なイメージと不可視的なシンボルが、それぞれ表層と深層に置かれ、弁証法的な構造をなしていた。それに対して視線の客体化が意味するのは、表層でのエクリチュールの処理経路の複数化である。視覚を複数の経路で処理することが、主体の弁証法的構造を打ち砕き、主体と外部の境界を撹乱する。それが、ここで論じるVRメディアのラディカル性を代表している。

以上の分析によって、「VRにはラディカル性があるのか」という問いに、ひとまず答えが出た。サイバースペースの想像力から、あるいはVR産業が目指す究極の目標から見れば、VRは、サイバースペースの想像力を支えたカリフォルニア・イデオロギーを現代に再演したものにすぎず、それ自体にラディカル性などない。だが、現実のVR技術は、まだ自ら掲げた目標に届かず、半没入の状態にとどまっている。その状態をもたらしているのは、映画装置に代表される視覚文化による、ほかの感覚の抑圧である。未成熟なVRでは、視覚のシミュレーションだけが先行し、ほかの諸知覚のシミュレーションは相対的に立ち遅れている。この不均衡が、知覚の処理経路のあいだの速度差として現れ、知覚どうしを衝突させ、主体を撹乱する結果を生む。近い将来、これらの「技術的問題」はすべて解決されるかもしれない。だが、ここで私たちが評価するのは、むしろそれらがまだ解決されていないときに、VRというメディアが改めて露わにするものだ。それは、時代ごとに優位に立つ知覚がもたらすエピステーメー(Episteme、知の枠組み)と、主体の構築との関係である。東浩紀が精神分析を映画装置の産物とみなすのも、まさにこのことを意味している。

Project LUX

それでは本稿の最後の課題に入ろう。VR美少女ゲームは、その作品表現のなかで、どのようにラディカル性を示すのか。

『Project LUX』は、著名なライトノベル作家・支倉凍砂が率いるインディーゲーム制作サークルSpicy Tailsが、2017年に発表した最初のVR作品だ。支倉はそれ以前にも、インディーのビジュアルノベルの分野でよく知られる『WORLD END ECONOMiCA』シリーズを制作している。2020年のいま、この2017年の作品を体験すれば、ひどく時代遅れだと感じるかもしれない。画質が大きく立ち遅れているだけでなく、頭の向きと位置を追跡する6DoFの頭部トラッキングこそあれ、コントローラーのトラッキングはない。操作によるやりとりも十分に豊かとは言えず、多くのVRプレイヤーは「VRゲーム」よりも「VRアニメーション」と呼びたくなるだろう。実際、公式サイトでも、この作品は「Spicy Tailsが手がける『VRアニメーション』第1作」と紹介されている。もっとも、こうしたものをゲームと呼ぶことに慣れた美少女ゲームプレイヤーにとって、この曖昧な境界はとっくに見慣れたものだ。私たちのよく知る、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』の「小説のようなゲーム」「ゲームのような小説」に対応するものだからである。

話を戻そう。『Project LUX』はグラフィックスやシステムでは大きく立ち遅れているが、シナリオは抜群にいい。それも、単に物語が優れているという意味ではない。何より際立っているのは、自らの技術的な立ち遅れを逆手に取り、それによってシナリオ全体を組み立てていることだ。この意味で、『Project LUX』は実に『ゲーム的リアリズムの誕生』的な作品なのである。

プレイヤーに手を振るルクスのゲーム画面

『Project LUX』における視線の客体化

『Project LUX』の物語はこうだ。未来の世界では、大多数の人々がすでにサイバースペースに暮らしている。電脳技術の発達によって、他人の記憶ばかりか人格までも完全に共有できるようになった。ただ一人、芸術家の少女ルクスだけが電脳化を拒み、人里離れた海辺の小屋で、生身の身体のまま暮らしている。電脳技術は個体の境界を曖昧にし、サイバースペースの人々の創造力をますます衰えさせた。そのため芸術家の少女ルクスは、彼らのために文化的な消費財を作る、うってつけの存在になった。世間から隔絶したルクスと連絡を取り、創作を依頼するため、サイバースペースの人々は、プレイヤーが自分を重ねることになる主人公を派遣する。彼はエージェントとして義体に入り、現実世界のルクスを訪ね、創作を依頼するのだ。

ゲームの大半の時間は、エージェントとルクスがあれこれと世間話や人生論を交わし、いちゃつくことで埋め尽くされる。この意味では、『Project LUX』はごく普通の日常系美少女ゲームと言える。だが、このゲームの最大の特徴はそこにはない。いちゃつく日常が、やがて悲劇的な結末を迎えることは、実はゲームの冒頭ですでにプレイヤーにはっきりと示されているのだ。

冒頭では、先ほど説明したように、プレイヤーがいきなりエージェントに自分を重ね、ルクスといちゃつく甘い日常を始めるわけではない。ゲームに入ってまず立ち会うのは、一つの裁判だ。審理されているのは、少女ルクスが不幸にも殺された事件で、被告はあのエージェントである。ただし、プレイヤーがこの裁判で担うのは、被告のエージェントではない。陪審員となり、電脳技術を使ってエージェントの記憶を追体験し、事件のいきさつを明らかにするのだ。この電脳的な追体験が、私たちのVR体験を表す比喩であることは疑いない。ここで私たちは、VRのラディカル性を論じた節と同じ構造に出会う。このVR美少女ゲームにおいて、VRそのものを作中の追体験になぞらえるメタフィクション(Metafiction)を通して、プレイヤーは二つの立場に同時に自分を重ねる。一方はルクスといちゃつくエージェント、もう一方は、そのすべてを黙って追体験する陪審員である。

このメタ構造は、一見すると精神分析の弁証法的構造に近い。エージェントに自分を重ねるのは、可視的な登場人物への想像的同一化であり、陪審員に自分を重ねるのは、不可視的な視線への象徴的同一化だ。ところが追体験が進むにつれ、このメタ構造の明確な境界がぼやけ始める。VRによる追体験では、あまりにも「その場に居合わせすぎる」からだ。ここでそう言うのは、精神分析の視覚的モデル=映画装置と比べれば、『Project LUX』はVRゲームとして技術的に大きく立ち遅れていても、なおプレイヤーをVR空間に引きずり込む力を持っている、という意味である。コントローラーのトラッキングも触覚フィードバックもないが、少なくとも頭は自由に動かせ、その向きと位置が6DoFで追跡される。しかも、操作によるやりとりもルクスとのいちゃつきも、頭の動きを中心に積極的に組み立てられている。精神分析の可視と不可視の弁証法は、ここでは、頭部の「運動感覚」というきわめて単純なものに破られてしまう。プレイヤーが視覚を通じて、陪審員とエージェントという二つの立場の境界を意識的に保とうとしても、頭を動かして視線でルクスとの話題を選び、左右を向いてルクスの声を空間オーディオで感じ、さらにはルクスの小さな手に顔を寄せたりしているうちに、陪審員としての自分の超越的な部分まで、ルクスといちゃつく表層の空間へ滑り落ちていくのを止められなくなるのだ。

画面の手前に向かって腕を伸ばすルクスのゲーム画面

二つの立場のあいだの撹乱

事件の真相が明らかになるにつれ、この超越的な階層からの下降と視線の客体化はさらに進み、弁証法的主体はいっそう撹乱されていく。実は、サイバースペースの人々がルクスに創作を依頼していたのは、作品に込められた個人の情熱のエネルギーを刈り取り、サイバースペースで戦争を起こすためだった。だからエージェントは、ルクスに創作を依頼するだけの存在ではなかった。記憶を共有し追体験する技術を通じて、サイバースペースの人々がルクスを監視し、動向を追うための道具でもあったのだ。真相に気づいたルクスは打ちのめされる。戦争がどんな結果になろうと、自分は勝者によって強制的に電脳化され、創作のエネルギーを際限なく搾り取られる電子の家畜になるのだと悟ったのだ。自分の記憶や人格は電子的に複製され、サイバースペースの人々に共有され、追体験される。そうなれば、自分がほかならぬ自分であるという単独性も壊れてしまう。自分が唯一無二の自分であることを失うくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいい。死によって、単独性を歴史に刻みつければいい。

こうして、打ちのめされたルクスは自殺を選ぶ。自らを撃つ前に、彼女はエージェントを抱きしめる。つまり、プレイヤーであるあなたを抱きしめるのだ。ルクスが最も耐えがたいのは、実は自分自身の単独性を壊されることではない。あなたと出会った記憶、そして恋と呼べるかもしれない、この関係の単独性を壊されることだ。ルクスとあなたの記憶は唯一無二なのに、エージェントがサイバースペースへ帰れば、必ずそこで共有され、他人が自分自身の記憶として体験してしまう。

命の終わりを迎える直前、ルクスは訴える。あなたと自分だけのこの感情を、ほかの人に覗かれてしまうのは、どれほどやりきれないことかと。この訴えを前にしては、この泣かせる場面に涙したすべてのプレイヤーに、問わずにはいられない。――いま泣いているあなたは、いったいエージェントなのか、それとも陪審員なのか。

こうして分析すると、『Project LUX』が実に巧妙な構造を採用していることが分かる。まずプレイヤーをメタ構造のなかに置き、メタの階層にいる陪審員として、ルクスとエージェントのやりとりを冷ややかに観察させる。続いて、VRメディアの非視覚的なやりとりと、ルクスとのいちゃつきの描写によって、プレイヤーを思わず美少女とくっつく日常へと堕落させる。陪審員としての任務を忘れ、観察の対象となる側、つまり対象(OBJECT)の階層にいるエージェントへと降りてしまうのだ。プレイヤーがその日常に浸りきり、抜け出せなくなったところで、物語は巧みに転じ、重苦しい方向へ向かう。その重さのなかでプレイヤーとルクスの感情的な結びつきを盛り上げながら、同時に、自己言及的な台詞によって、陪審員としての任務を何度も思い出させる。こうしてプレイヤーは、美少女とくっつく日常でも、美少女との悲恋のなかでも、自分からこぼれ出る感情を、エージェントとして受け止めればよいのか、それとも陪審員として受け止めればよいのか、つねに分からなくなる。一方ではルクスとの恋が悲劇に終わったことを嘆くのに、他方では、その悲劇をもたらした張本人がプレイヤー自身なのだ。プレイヤーが責めるべきは、プレイヤー自身なのである。

自己言及が論理的な階層の区分を壊し、表層における複数の立場への帰属が、弁証法的主体を撹乱する。このあり方は、メディアとしてのVRのラディカルな性質を、申し分なく映し出していると言ってよい。

薄暗い部屋にいるルクス

『Project LUX』の叙述トリック

しかし、『Project LUX』はここで止まらない。このゲームで唯一の選択肢――ルクスの自殺を止めるかどうか――で正しいほうを選ぶと、隠された結末に進むことができる。そこでは、裁判を終え、義体ではなく長いあいだ冷凍されていた生身の身体に戻ったエージェントが、海辺の小屋で「復活」したルクスと再会する。

実は、自殺の場面にいたルクスは、本物のルクスが遠隔操作する義体にすぎなかった。ルクスはずっと電脳化に抵抗していたが、生身でたった一人生きるのはあまりにも孤独で、電脳化に必要な義体は用意していた。ただ、実際に電脳化する決断には、なかなか踏み切れなかったのだ。では、なぜこの身代わりの計画はエージェントに伝わったのに、彼の記憶を共有する陪審員ら監視者には知られずに済んだのか。自殺の場面でエージェントを抱きしめたとき、ルクスがその背中に指で計画を書き記していたからだ。このゲームにおける記憶共有の形式、言い換えればVRによる提示の形式には、触覚のうち「触れられる」部分が含まれていないのである。

つまり『Project LUX』は、VRがまだ未成熟なメディアであるという性質を利用して、きわめて巧妙な叙述トリックを組み立てている。一方でVRは、プレイヤーに心身ともに没入する感覚を与える。だが他方で、すべての知覚を完全に再現することはできない。没入と非没入のあいだにある半没入という性質が、プレイヤーにとって「触れられること」を盲点にしている。それが、VRならではの叙述トリックを可能にしたのだ。

触れることと触れられることの非対称な関係

この叙述トリックをVRならではのものと呼ぶのは、触れることと触れられることの非対称な関係が、そこに現れているからだ。ここで疑問を持つ人もいるだろう。『Project LUX』にはコントローラーのトラッキングもフィードバックもないのではなかったか。それなら、どこに触れることがあるのか。たしかにトラッキングもフィードバックもないので、普通に言う振動による「触覚」はない。だが、ここで言う触覚は、ASMRが音で耳に触れられる感覚を呼び起こすように、ほかの感覚が引き起こす触覚である。この作品では、それが視覚化された触覚として生じるのだ。

ここで、VRの性質に、そして東浩紀に戻ろう。本稿で何度も引用してきた「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」は、十数年を経たいま、タッチパネルの理論として読み直されている。その核心にあるのは、視覚と触覚を切り離せないという性質であり、東はこれを触視性と呼ぶ。東が着目したのは、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)の開発者たちが、その構想を示した当時、コンピュータの核心、つまりコードに「触れる」ことができるかのように、しばしば語っていたことだ。コードのように実体のないものに「触れる」ことなど、絶対にできない。それでも開発者たちがこの「比喩」を使ったことには、視覚と触覚の切り離せなさ、互いに補い合う性質が表れている。ここには、インターフェイス的主体とまったく同じ論理を見いだせる。不可視の深層=コード=象徴界が、表層=イメージ=想像界へと押し込まれ、視覚化されることで、コードを直観的に操作できるようになる。たとえば、デスクトップのファイルをマウスでごみ箱にドラッグする操作は、del C:\Desktop\text1.txtを視覚的に表象する過程である。マウスとキーボードの時代には、この触視性がまだ目立たなかったとすれば、タッチパネルはその性質をいっそう直観的に示している。つまり、タッチパネルの時代に生きる私たちにとって、触覚は必ずしも「振動」のようなフィードバックを必要としない。視覚が触覚を補うことで、視覚のなかで実現する触覚が可能になるのだ。

東のこの触視性の理論には、VRが不在である。東にとってVRは、視覚文化を極限まで推し進めたものにすぎないからだ。だが私たちが考えるVRは、諸知覚が互いを撹乱するメディアであり、タッチパネル以上に触視性を示している。Oculusはすでに、299ドルのQuest 2で、画像認識だけによるハンドトラッキングを実現しており、対応するアプリやゲームも次々と登場し始めている。VRで空中に「触れて操作する」体験は、マウスやキーボードよりも、なおパネルに触れる必要のあるスマートフォンやタブレットよりも、純粋に視覚化された触覚が可能になる場面を、いっそうよく示している。だから『Project LUX』には、コントローラーのトラッキングやフィードバックも、ハンドトラッキングもないのだが、触視性の原理からすれば、頭部トラッキングで小さな手に顔を寄せることも、身体の位置のトラッキングで、3Dになった二次元の美少女にくっつくことも、空中に「触れて操作する」ことと何ら変わりはない。

ただし、『Project LUX』で「触れること」は実現できても、その叙述トリックにある、背中で「触れられること」は、現在の大半のVRではまだ実現できない。もちろん、VRスーツのような機器も着々と開発されており、近い将来には実現するかもしれない。だが、ここで私たちが評価したいのは、この作品が、VRの現在の未成熟さを成り立たせている条件を映し出し、露わにしていることだ。この巧妙な叙述トリックでは、視覚化された触覚だけが先行して実現したことで、VR技術がすでに成熟したかのように思い込まされ、「触れられる」ための条件が忘れられてしまう。3Dになった二次元の美少女は、あなたに抱きしめられたことを感じ取れる。だが、あなたは彼女に抱きしめられたことを感じ取れない。触れることと触れられることの非対称性、この触覚の処理経路の複数化にこそ、『Project LUX』が示すVRメディアのラディカル性がある。

プレイヤーに向かって手を伸ばすルクスのゲーム画面

VR美少女ゲームの臨界点

ここまで来て、ようやく本稿の最後の問いに答えられる。VR上の美少女ゲームには、ラディカル性があるのか。

メディアとしてのVRは、いまだ半没入という未成熟な状態にある。VR美少女ゲーム『Project LUX』は、その未成熟なVRメディアのなかでも、発表時期が早く、制作したインディーゲームサークルの技術力が足りないことなどから、さらに立ち遅れた位置にある。だが、この作品には、自らを成り立たせるメディアの特性と、制作側の技術力不足に対する、高度な自覚がある。不足と未成熟さを逆手に取り、メタフィクションと叙述トリックというかたちで巧みにシナリオへ組み込むことで、プレイヤーが美少女とくっつきたいという欲望を満たしながら、同時に、その主体が撹乱される困難へとプレイヤーを追い込むのだ。この精巧でラディカルな構造は、VR美少女ゲームというジャンル自体の本質と限界を露わにするだけでなく、東浩紀が見落としていた、VR独自の非対称な触視性をも浮かび上がらせている。

以上の特徴を踏まえれば、私たちはためらわずにこう言える。『Project LUX』は、美少女ゲーム批評史における一つの臨界点と呼ぶに十分値する作品であり、同時に、これから訪れるかもしれないVRゲーム批評の道標でもある。あるいは、こう呼ぶのが最もふさわしいのかもしれない。――VR美少女ゲームの臨界点、と。

参考文献

  • 東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、河出文庫、2011年。

  • 東浩紀「触視的平面の誕生」、『ゲンロンβ』21、2018年。

  • 東浩紀「触視的平面の誕生(2)」、『ゲンロンβ』22、2018年。

  • 東浩紀編『美少女ゲームの臨界点』、2004年。

  • ジークムント・フロイト「不気味なもの」(藤野寛訳)、『フロイト全集』第17巻(須藤訓任・藤野寛訳)、岩波書店、2006年。

本文終わり
注05

注釈

  1. 論題は2007年の『ゲーム的リアリズムの誕生』再録版の表記に従う。初出・再録の情報はゲンロン編集部の紹介を参照。 ↑

  2. 訳注:2020年9月8日に『人物』が発表した調査報道「外卖骑手,困在系统里」(システムに閉じ込められた配達員)と、それをめぐる議論を指すと思われる。同誌は配達員の労働環境を取り上げ、大きな反響を呼んだ。発表日と反響については『人物』の声明を参照。 ↑

  3. Sherry Turkle, Life on the Screen: Identity in the Age of the Internet, Touchstone, 1995. ↑

  4. Allucquère Rosanne Stone, The War of Desire and Technology at the Close of the Mechanical Age, MIT Press, 1996, 第4章。 ↑

  5. Slavoj Žižek, Cyberspace, or, the Possibility to Traverse the Fantasy, Public Culture (1998) 10 (3): 483–513. ↑

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