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『東京ゴッドファーザーズ』――喜劇の神話

『東京ゴッドファーザーズ』の聖書的隠喩、都市空間、喜劇構造を手がかりに、ホームレス、捨て子、偶然の出来事を通して東京が「第四の主人公」として社会的矛盾を浮かび上がらせる仕組みを論じる。

著者: Jack Cade中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

Jack Cadeの肖像
Jack Cade

Away!Burn all the records of the realm.

今敏の『東京ゴッドファーザーズ』については、通常二つの異なる見方がある。一つは、これを「非典型的な」今敏作品とみなすものだ。平沢進の音楽もなければ、現実と幻想の交錯も、華麗なショットや編集技法もない――ほかの今敏映画三作に比べれば、『東京ゴッドファーザーズ』はまるで写実寄りのファミリー向けロードムービーである。もう一つは、本作には濃い宗教色があり、聖書的な隠喩に満ちたこの救済譚は、現代を舞台に、メシアが生まれ、迷える子羊たちをカナンへ連れ戻すという古い神話をひそかに書き換えたものだ、と考える見方である。

第一の見方に対してまず指摘しておきたいのは、『パーフェクトブルー』『千年女優』『パプリカ』と比べた『東京ゴッドファーザーズ』の写実性は、実のところ表面にしかないということだ。物語の核心はむしろいっそう魔術的で、そのほとんどがデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)によって動かされている。ミユキ、ハナ、ギンが手がかりを追ううち、行き詰まって中断し、諦めるしかなくなるたびに、奇妙な偶然が新たな手がかりをもたらす。この循環は何度も繰り返され、最後には文字どおりの奇跡まで起こる。ハナが清子を救おうと高層ビルから身を投げ、地面に叩きつけられかけたそのとき、何の前触れもなく夜明けの光を伴った強風が吹き、ハナを受け止めるのだ。聖なる光の下、清子を抱いたハナは空からゆっくり舞い降り、地上で取り囲み見上げる人々の中へ降臨する(この瞬間、ハナの姿は聖母マリアと重なり、男女の両性を併せもつハナは、〈大文字の他者〉から母親であることをこのうえなく強く肯定され、「大文字の女」となる)。

一般に、偶然の出来事を頻繁に作り出して物語の断裂をつなぎ合わせるのは、観客から批判されるやり方である(実際、それを理由に本作を軽蔑する者もいる)。しかし、より多くの観客は、上の第二の見方が示すひそかな聖書物語の背景を自然に連想し、神話の次元で本作の「奇跡」を合理化する――ゴミの山の清子は、飼い葉桶の中のイエスではないのか? 社会の周縁にいる異質な三人――トランスジェンダー、借金を抱えた者、親殺し――は、神の子に祝福をもたらす「東方の三博士」ではないのか? 偽りの家族を形づくる三人は、清子の救済によって、約束の地である本当の家族へ帰ったのではないか? この視点に立てば、奇跡の発生と神話的背景は、思いがけず互いを裏づける形をなす。だからこそ、『東京ゴッドファーザーズ』を『素晴らしき哉、人生!』のようなクリスマス喜劇映画だと単純にみなす観客がいても、不思議ではない。

清子を抱くハナ

残念ながら、これはあまりにも多くの重要な情報を取り逃がす誤読だと、あらかじめ断っておこう。だが、この誤読こそが、シェイクスピア的な劇的隠喩は、神話の物語構造を起動する何らかの「動機」をしばしば支配する(あるいは逆に、その動機に支配される)ことを明らかにする。手短にいえば、「現実原則」に合わせて合理化する過程そのものが、魔術的なものへの欲望を、いわば密輸するようにして象徴的に満たしているのである。その過程は、鏡に映し返すようにして、近代性の言説において、幻想の領域は、世俗世界の核心にありながら、そこには不在であるものとしてしか位置づけられないことを浮かび上がらせる(『素晴らしき哉、人生!』では天使が直球で登場するのに対し、本作の聖書的要素はすべてほのめかしとして現れる。そのため本作は『素晴らしき哉、人生!』のような平板な説教喜劇に陥らず、内部に解釈をめぐる相当な緊張を保っている)。この誤読が積極的な面で示す基礎構造を理解したうえで、今度はその誤読が取り逃がした決定的な情報に目を向けよう――映画の題名からすると、この誤読は「ゴッドファーザーズ」に気を取られすぎ、「東京」を見落としているように思える。今敏のインタビューから分かるのは、キリスト教信仰を借りて形づくられた映画の宗教性は、実は都市を自然のように崇拝することの換喩だということだ。

今敏によれば、都会の建物や路地にも魂が宿るのではないか、そこに異界を見てみようという発想があった。主人公たちは、ただ街を歩くのではなく、都市そのものに重なる異界へ足を踏み入れていくのである。今敏インタビュー

(だからある意味では、『東京ゴッドファーザーズ』は、現実と幻想の間を行き来するという今敏的な典型的モチーフを捨てていないどころか、ほかの三作よりはるかにラディカルである。本作では、精神の分裂や回想、夢を媒介にしなくても、交錯はひそかに直接起こりうる。)

この手がかりを胸に物語の冒頭へ戻ろう。三人組が清子を拾って異界の東京へ入る前、その都市は彼らにとってつらい記憶を宿す場所だった。ホームレスたちは「正常な市民生活」と呼ばれる現実の秩序から追放され、ラカン的な意味で斥けられたものとなり、いわばこの都市の排泄物となって、都市全体が現実界に負う傷を示している。ゆったりと漂うサックスと冷たい色調の照明、一定の速度で切り替わるネオン街の遠景ショットが組み合わされ、空虚な都市の光景が構築される。この光景は、不自然なほど中立で、近代的幻想の象徴として沈黙している。その沈黙が、物の世界をあらわにする。この世界は意味の縁で永遠に停止し、いつまでも善あるいは悪の啓示を受け入れようと待ち構えている。

そしてミユキは、唾を吐く(汚物を投げ返す)ことで、この沈黙する都市に応答する。面白いのは、下で唾を浴びた気の毒な男が反射的に上を見上げたとき、目に入るのは、ミユキが隠れている巨大な広告板の表側だということだ。その広告板に描かれているのは、ほかでもない、涙を流す天使である。この泣く天使が流すのは、まさに正真正銘の涙ではないか? ミユキの唾は、ショットのトリックによって天使の涙へと変わる。それは〈大文字の他者〉に向けて公然と流される、演技としての、芝居がかった涙である――私たち観客は、そこに本当に憐れみに動かされて涙を流す人間/天使などいない(いるのは唾を吐くホームレスだけだ)と知っている。だから、この存在しない天使が流す「缶詰の涙」(テレビ番組に挿入される缶詰の笑い声のようなもの)は、その下にある空虚な都市の光景を、「衆生はみな罪人、万物はみな哀れ」と、哀悼するふりをしているだけだ。ここで注目すべきなのは、一定のリビドー投資が凝縮された視覚的な主題だ(それを技法とも筋立てとも言い切れない)。この主題は今敏の想像力につきまといながら、今敏映画の症候として自ら姿を現す。ここでは、その仕掛け自体を振り返らせることで、幻想の領域と、いま沈黙している世俗の都市との間に越えがたい距離があることを、私たちに思い起こさせる。

唾を吐くミユキの横顔

東京の街路を見下ろすショット

東京の街路を見下ろす、続くショット

泣く天使が描かれた広告板

しかし、別の角度から見れば、天使の広告板のイメージは都市の背景であり、都市を物質的に構成する一部である。言い換えれば、この広告板と、それが構成する都市は、本来なら実際の出来事の背景として、不在と空無として現れるだけのはずだ。ところが、その天使の涙は実際に落ちた。私たちはそれを一つの前兆とみなさざるをえない――真の物としての都市が、現実に姿を現そうとしているのだ。今敏が東京をもう一人の主人公と呼ぶように、この都市こそが第四の主人公なのだ。今敏インタビュー それが現実の中で自らを実現しようとすることによって、映画冒頭に形づくられた、冷え冷えとした象徴空間の精神的崩壊が引き起こされる(主人公たちが「異世界」へ入りつつあることの予告である)。

だが、正常な市民生活から追放されたこの三人のホームレスには、消費に使える金も、都市の各地区を電車で移動する金も(その必要も)ない。貧しい日々のなかで、東京という概念は、ただその名を呼ぶことしかできない空っぽのシステム・ネットワークへと縮んでしまう。彼らの生活にあるのは、息苦しい掘っ立て小屋と、遠くに輝く繁華街の眺め、そして貧民街をあてもなくさまようことだけだ。彼らにとって東京という都市は、目もくらむほど多くの人物とその流動が織りなす、広がり続ける「総体化できない総体」ではない。生命に満ちた霊的な場所でも、その「総体性」を外に示す象徴でもない(東京は退廃しているというより、不在なのだ)。ある意味で、このホームレスたちの愚かな見方は、ある種の真正さに触れている。崇高な表象の背後には、実のところ何もないからだ。三人の主人公が、過去の衝動や無知によって元の生活から逃げ出し、放浪を始めたことも、知らぬ間に、都市生活の崇高な表象を突き抜けるよう強いられたということでもある。そうして彼らが得たものは、息が詰まり、吐き気を催すようなホームレス生活だけだった。今敏自身も、人に希望や夢を与える映画やアニメーションの主人公に、ホームレスはふさわしいとは言いがたいかもしれない、と認めている。今敏インタビュー だが、こうした設定で物語が始まってしまった以上、空無そのものを直接示すことが、最小限の昇華構造を再建する唯一の方法となった(そして物語がこの道筋で進まざるをえない理由もそこにある)。

これは、清子がゴミの山で見つかったという事実に、一つの合理的な説明を与えるように思える。日々生み出され、捨てられて積もっていくゴミほど、Capitalism(資本主義)を動かす動力炉としての都市の、不活発な側面をよく表すものがほかにあるだろうか? 日ごとに増える、死んだように静まり返り、何の機能も果たさない「物質」の山を見つめると、人はふと、Capitalismの動力が止まったかのように感じる(もちろん、錯覚にすぎない)。

言い換えれば、人々が、現代生活は徹底して貧しくなり、萎縮してしまったという見方を、聖なるものが失われた状態として表そうとするとき(ベンヤミン的な意味で、メシアを果てしなく待ち続けること)、ゴミの山が象徴する不活性な物質性は、待つ者の視線を強く引きつける(ウェーバーからフランクフルト学派までを思い出してほしい)。劇中でゴミの山の中で死んだ、ゴミ拾いの老人を思い出そう。老人はゴミそのものにフェティシズム的な収集の情熱を燃やし、風車に作り変えるなど、暮らしを楽しむためのものにまで加工していた。なぜなら、「東京」という第四の主人公の主体カテゴリーがどう変わろうと(観客や監督がそこに意識を与えるか無意識を与えるかにかかわらず)、東京は、自らの歴史をたどるあらゆる手がかりを通じて、何らかの実体がそこにあることを指し示すからだ(ただし、その実体性には偶然の出来事が介入する)。それは主体そのものの実体性ではない(私たちはまだ、この第四の主人公について本当に語ることができない)。そうではなく、その客観的相関物の実体性、すなわち都市の排泄残余であるゴミの山(かつては都市の構成物だった)と、ホームレス(かつては市民だった)の実体性である。そうした実体性こそが、空無で非実体的な都市主体の存在を支え、保証している。しかし、だからこそ、この物語に都市主体が現れるには、最小限の「病的な」偶然性を帯びた客体という、一つのほころびに支えられなければならない。その客体とは、役目を失って死んだようなゴミの山で偶然見つかった、無限の可能性と生命力を象徴する赤ん坊、すなわち対象aである。

だから、この構造において、清子はこの客体として、「東京」という第四の主人公の主体性の空無を、逆説的に代理している。冷え冷えとした東京にとって他なるものであるからこそ、清子はこの都市主体そのもの「である」と見なさなければならない(これは、劇中で借用される、父なる神と神の子の関係をめぐる神性の隠喩にも対応している)。

東京の街角にあるホームレスの住まい

ゴミに囲まれて横たわる老人と、傍らのギン

ゴミの山で泣く清子

こうして三人組が清子を見つけると、さすらうようにゆったりと漂っていたサックスのBGMが、いつの間にか静まり、ハナが清子を抱き上げて「この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント! 私たちの子供よ!」と叫んだ瞬間、祭りを思わせる快活な音楽が鳴り始める。今敏「東京ゴッドファーザーズ雑考 08」 清子を抱いたハナは、ミユキとギンを連れて暗い路地から真っ先に出て、冒頭ではただ眺める背景にすぎなかった、色とりどりのネオン街へ大股で入っていく。同時に、ネオンの上にはスタッフ・クレジットという魔術的な存在(劇中に存在しながら劇の外に属する、登場人物には見えないことになっているもの)まで現れる。こうして構築された状況のすべてが観客に暗示するのだ。主人公たちはついに「異世界」へ入り、物語が本当に始まったのだと。

ここで現象学の視点から検討すると、劇的な転換の性質がはっきり分かる。彼らが入ったのは、ある意味で、いま目覚めたばかりの都市主体が与える「ゲシュタルト」的な最終的地平である。簡単にいえば、東京という第四の主人公に属する世界の内部で、客体や現象が立ち現れ、その世界が経験されるのだ。「異世界」は暗黙のうちに、世界全体と重なったように見える。しかし、現象学的な意味での世界は、通常、それ自体を一つの観察対象にはできないことを忘れてはならない。おそらくこう言うべきだろう。この「異世界」は映画的空間であり、その出来事は純粋なデカルト的延長としての無限空間のなかで起こる。ある瞬間を切り取った「静止画」や特定の場所、さらには広い眺望やパノラマさえも超えて、無限に延びていく――この意味で、それは現実世界と象徴的な同一性を達成できない(しかし重なったような感覚は与えられる。ハリウッドの映画産業が誇る特殊効果によって、ゴールデン・ゲート・ブリッジが本当に何度も破壊されたように見える場面を思い浮かべるとよい)。

路地で清子を抱くハナ

スタッフ・クレジットが街の看板になる

同じ構図を、ギンが自分の過去についてついた嘘にも見いだせる。ちょうどよい雰囲気に包まれ、彼は深く感情を込めて過去を語った。そのため私は、こんなメロドラマ調の話を少しも疑わず受け入れてしまった。かつてはそこそこ名の知れた競輪選手だったが、娘が病気になり、金を工面するため八百長に手を染め、発覚した結果、娘と妻は死に、自分もホームレスになった――という話だ。物語のなかでこの嘘が暴かれるまで、観客(というより私だ。単にこういう筋立てに弱いからかもしれない)が事実として受け止めていたのは、ある意味で、このメロドラマが生起する「並行宇宙」が、私たちの経験の超越論的地平において、その世界の内側にいるような感覚を伴って、見て感じ取れるものになっていたからである。それが、このどんでん返しを成立させる前提だった。

もちろん、この嘘そのものに限っていえば、自分も他人も欺こうとするギンの態度は、結局、現実の前では通用しない。娘が目の前に現れると、ギンの悲しい物語は完全な空言になる。妻と娘は死んでおらず、彼が家を出たのは酒とギャンブルのためだった(父親としての責任を果たそうともしており、ひそかに高額紙幣を何枚か貯めていたが、娘に渡せなかった)。しかし面白いのは、ギンが言葉を失ったそのとき、ある意味で、怒ったふりをするハナが、ギンに本当の嘘のつき方を教えたことである。激怒したハナは、罵詈雑言を吐いているようで、実はギンと呼応し合っている。父親が家族に対して負うべき責任を大げさに強調しながら、同時に、ふてぶてしいほど率直にギンの過去の罪を認めてしまう――この度を越した「過激さ」は、ギンが徹底した悔悛によって過去ときっぱり決別したのだと、娘にほのめかす(それが本当に誠実かどうかはともかく、本作では誠実である)。これは、ギンの主体としての位置を無傷で保ち、罪から免れるための狡猾な手段にほかならない。現実の生活において、酒とギャンブルに溺れて妻子を捨てた罪は、その後どれほど徹底的に反省しても、赦されるに値しないように思える。だから、ハナが語る童話では、ギンは人間に近づきたがりながら避けられた哀れな赤鬼であり、ハナは赤鬼を受け入れさせるため、さらに大きな嘘をついた青鬼の役を引き受ける(青鬼もまた、物語のなかで、自らの本当の罪のために自己追放の罰を受ける)。

ハナがギンを責める

赤鬼と青鬼の童話の場面

だからこそ、観客の全知的な視点からは、ギンが本当に心から悔いていることを確認できなければならない。ここでは、ジェイムソンがシェイクスピアの劇について行った分析が明らかにするように、シェイクスピアの多くの脚本には一方で同性愛的な色彩があるが、他方では男性人物同士の明白な接触が禁じられている。そのため、二人の男性人物が親密さのなかで禁忌の危険を示すと、どちらか一人が実は女だと露呈し、人物たちは安全な場所へ戻る。シェイクスピア的な取り違えは、醜聞を笑い話にして一件落着させるのである。同じように、観客はそれ以前から、ギンが高額紙幣を貯めるためにしてきた苦労(殴り倒されている最中でさえ、娘に送ろうとした札の入ったきれいな封筒を守っていたこと)と、物語のなかににじむ真情によって、すでにギンの過去を赦している。だからハナの善意の演技のもと、ギンと娘の再会に感動し、ここで生じた禁忌の危うさを、いつの間にか見過ごしてしまう(観客の全知の目が存在しない現実生活では、こうした危うい赦しは、果てしない猜疑のために起こりにくいだろう)。

さらに、清子の母親を捜す筋にも、同じ構造を見つけることができる。この禁忌と侵犯を笑いに変えることは、一種の置換として理解できる。それは、注意をほかへ移すという不可欠な役割を果たし、より危険で破壊的な禁忌の力――都市に捨て子が実在することへの不安――を取り消すことを意味する。シェイクスピア的な同性愛喜劇の構造は、もっと心をかき乱す、社会のあり方への不安から私たちの注意をそらす。そして私たちは、張りつめた良心を安堵させる事実、すなわち清子は実の両親に捨てられたのではないことを知る。子供を切望する狂った女が病院の新生児室から清子を盗み出し、無責任な夫にそそのかされて清子をゴミの山に捨てたのであって、ここには本当の意味での遺棄はない(今敏はここで、ひそかに東京のホームレスの運命を重ねている。東京には、本当の意味で見捨てられたホームレスはいない、というわけだ。今敏はインタビューで、豊かな現代社会でもホームレスは生まれるが、その豊かさが彼らの生存を可能にもしている、そこから彼らを養っているのは都市なのではないかと考えた、と語っている。今敏インタビュー ついでに言えば、これは本作で私が唯一ひどく不快に感じた点でもある)。清子の実の両親は気を揉みながら清子を捜している――こうして、この喜劇は再び純粋な表象へ戻る。

ミユキが怒鳴る

これは、今敏がなお保っている人道主義的立場の不徹底さに対する批判を形づくるように思える。しかし、そこを指摘したうえで、なお明確にしておく必要がある。シェイクスピアの時代には同性間の愛を直接描けなかった(だがその時代、それは実際にはあふれていた)。それと同じような制約を、本作についても考えなければならない。今敏によれば、制作当時の日本は不況が続き、社会全体が活気を失っていた。ホームレスの増加は、そうした経済状況が社会の現実に生々しく現れたものだった。今敏インタビュー

この都市を直接描けない(許されない、あるいは忍びない)状況で、内部に緊張をはらむ、東京を描いたクリスマス喜劇を撮ること自体が、この問題を語ろうとする努力の姿勢をすでに示しているように思える。このクリスマス喜劇では、こうして結びつく二つの構成――時代をまたぎ、あるいはテクスト同士を結ぶ構成――が、『東京ゴッドファーザーズ』という映画テクストを再び共時的に読むことを可能にする(とはいえ、最近は日本経済もよくなったようだ)。そして、映画を一連の物語システムのなかに共存する矛盾、あるいは不均衡な発展として捉えることができる――その結果、映画テクストを社会的象徴行為として、社会的・歴史的な困難に対するイデオロギー的(形式的かつ内的な)反応として理解するという読みが可能になる。だからこそ、私たちはなお、今敏の発言を誠実な言葉として真剣に受け止めるべきなのだ。

今敏は、ホームレスを弱者や不幸の代表、あるいは社会の重荷として見たのではないという。現実のホームレスそのものというより、彼らを次のように捉えていたのである。

誰にもある弱さや後悔の象徴

――今敏インタビュー

ベルクソン(Bergson)は、喜劇には、皮肉によって社会規範からの逸脱を正し、社会規範を維持する機能があると考えた。エーミール・シュタイガー(Emil Staiger)は、喜劇は、人間存在の根本的な不条理に耐えられるようにすると考えた。ジェイムソン『政治的無意識』第2章 一見すると相反するこの二つの見解は、ある意味で、喜劇が抑圧と解放の間で揺れ動いていることを明らかにしている――しかし、より重要なのは、この視差の転換がもたらす二律背反の秘密は、主人の立場に戻ることでしか見つけられないということだ。


編者注: 作者の勤勉さに、屋根の上の鳩たちはうつむいた。

本文終わり

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