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『千年女優』――今敏のニンファ

『千年女優』で交錯する劇中劇と回想を出発点に、映像がいかに過去へ通じる記憶の技術となるのか、そして今敏が想像力によって日本映画史にどう応えたのかを論じる。

著者: Jack Cade中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

腕を上げた彫像を用いたJack Cadeの著者アイコン
Jack Cade

行け! この国の記録をすべて焼き払え。

まず指摘しておかなければならないのは、『千年女優』がきわめて叙事詩的な作品だということだ。この傑作にあるほかの数々の見どころに目を向ける前に、私たちはこの前提をしっかり押さえておく必要がある。

なぜそう言うのか。今敏は初めから、昭和の映画界で実際にあった出来事を語ろうとしていたわけではないからだ(千代子には、特定の一人のモデルがいるわけではない。原節子、高峰秀子、京マチ子、吉永小百合など、当時一世を風靡した女優たちが混ざり合った存在だ。東映や東宝といった映画会社だって、今も元気にやっている)。そうではなく、アニメーションがもたらす芸術的・美的な感覚を通して、私たちのために過去の記憶を一つ創り出したのである。そして、このすばらしい感覚への憧れが純粋に内的な体験にとどまらないからこそ、私たちは本来なら触れようのない過去へと向かうことができる。

言い換えれば、今敏はアガンベンのいう意味での技芸を用いて、千代子の物語を、日本の近代映画史・文化史についての一つの「真実」として私たちに伝えたのだ。この物語は、監督と私たちが生きるこの世界に先立って存在していたのではない。まったく逆に、私たちが到達不可能な過去へと遡れるようにするためにこそ創られた。したがって、叙事詩の表現手法を過去に向けられた技芸と呼ぶなら、その遡行は、見かけのように過去を復元することでは決してない(そもそも復元などできない)。そうではなく、過去の記憶となりうる技芸の枠組みを創り、その枠組みを足場にして、現在の現実に向き合うことなのだ。

さまざまな役を演じる千代子の肖像を集めたイラスト

だから、映画の中で次々と現れる劇中劇と千代子の回想が継ぎ目なく織り合わされ、どこまでが映画での演技で、どこからが実際の過去なのか見分けがつかなくなったとき、私たちは区別しようとするのをやめるべきなのだ。今敏自身もインタビューで述べている。観客の側では現実と夢や劇中劇との区別がはっきりついたとしても、その中を生きている登場人物にとっては、すべてが現実なのである。

今敏はこの状態を描こうとして、『PERFECT BLUE』と『千年女優』のどちらにも、この交錯する枠組みを用いた。初めから『千年女優』を、だまし絵のように見える映画にしようとしていたのだ。そして実際に、映画にはだまし絵のような場面が登場する。画家の故郷である北海道を目指す千代子は、吹雪で立ち往生したバスを飛び降り、大雪の中を歩いて進む。その途中で画面は、かつて彼女が出演したSF映画へと切り替わる。「宇宙飛行士」の千代子は、火星の白い砂漠を迷わず突き進む。やがて砂漠の果てに、画家がかつて彼女に贈った、雪景色を描いた一枚の油絵が立っているのを見つける。絵の中の風景と、その外の背景はぴたりと溶け合い、ふと見ると、画家の姿が前方にあるように思える。ところが千代子が喜んだのも束の間、画家は手を振って消え、カメラが動くにつれて、油絵と背景のずれもあらわになる。実はこの絵の中に画家はいなかった。絵の中の画家とは、千代子が斜めから見ることで初めて見いだせた対象aなのだ。そう考えれば、絵から画家が消えても不思議ではない。対象aが原初的な欠如を表すには、それ自体も欠けていなければならないからだ。そして、この差分としての対象aが欠けることで、満ち足りた愛が失われたことも説明できるように思える。

白い地表に置かれた雪景色の絵。中央には人影が見える

雪原の遠くで手を上げる、薄く透けた人影
画像内の中国語字幕の訳:待ってください!

人影の消えた雪景色の絵と、手前の宇宙服のヘルメット。絵の縁で背景とのずれが見える

だが画家は、この絵の中の後ろ姿が消える何十年も前に、すでに行方がわからなくなっていたのではないか(年老いた憲兵が若き日の源也社長に懺悔する場面から、画家は実のところ、とうの昔に秘密裏に処刑されていたとわかる)。欠如はつねに対象aの喪失に先立っている。対象aの喪失とは、原初的な欠如に対する想像的な補償にすぎない(そもそも画面の中の姿は、対象として千代子の欲望の究極的な欠如を埋めるには足りない。絵の中から消え去って初めて、崇高なものとして、主体に対する超越性を保てるのだ)。忘れてはならない。これは千代子の語る真実なのである。長距離バスを飛び降り、北海道へ向かって歩き出した彼女が、そのまま火星まで歩いていけるはずはない。

「宇宙飛行士」の千代子が火星を進む映画の場面もまた、だまし絵のように、実際に雪の中を歩いた千代子の回想へ、いつの間にか溶け込んでいたのではないか。仮に、いわゆる現実の次元での事実を描くとすれば、おそらくこうなるだろう。千代子はぼろぼろになって北海道にたどり着き、あちこち尋ね回った末に、画家は戦時中にすでに命を落としていたと知る。観客はその表情や身ぶりから、彼女の心の変化を「推測」する。だがこれでは、回想を観客に見せるというより、むしろ回想そのものから観客を締め出してしまう。それに対して千代子は、あるいは今敏は、いわゆる「実際の状況」を直接示す代わりに、寓話のような劇中劇の場面を用いた。美的・芸術的な理解を通して、過去に向き合うための記憶の技芸を私たちに与えたのだ。だから私たちは、この虚構の場面でこそ、このときの千代子の心の動きをより深く感じ取れるのである。

インタビューで千代子が語る、現実の記憶と映画の筋との間を絶えず行き来するこの一代記は、彼女が出演した映画と同じく虚構だと言い切ってもよい。だが、映画の中で現実の生活が失われることこそ、叙事詩としての『千年女優』が、想像力によって真実性を補う仕方なのではないか。

こうして見ると、インタビューに応じる千代子の回想は、そもそも純粋に客観的な次元で生まれたものではない。それは忘却に抗うために組み立てられた記憶なのだ(千代子は画家の顔を忘れても、約束は覚えている。忘却がかえって記憶の深さを際立たせる)。だからこの映画は、数々の映画にオマージュを捧げる断片でできているように見えながら、全体としては、ある意味でドゥルーズのいう行動イメージの「大形式」を示している。

言い換えれば、回想そのものが形づくる〈雰囲気の空間〉には、事物の状態や出来事の生成にかかわる質―力が、一つの全体として潜んでいる。たとえば、『千年女優』がオマージュを捧げた『蜘蛛巣城』で、黒澤明が設定した全体とは権力への欲望である。王の城は、それ自体が権力の王国だ。巨大な城門、そびえ立つ楼閣、無数の矢狭間。その空間が王権の威圧的な力を示し、その力が登場人物に作用して、暴虐な殺戮を引き起こす。一方、濃霧が立ち込め、枝が入り組む蜘蛛手の森は、欲望の迷宮だ。そこに囚われた者は何度も出口を求めて駆け回りながら、そのたびに元の場所へ戻ってしまう。そして『千年女優』で全体をなすのは回想なのである(だからこそ今敏は、満州から戦国時代へと筋が切り替わったあとに、一度、千代子たちが我に返る場面を置く。これらの映画の断片は、インタビューでの千代子の回想の中に位置づけて理解しなければならない、と観客に思い出させるのだ)。

炎に包まれた城で驚く千代子と源也、カメラを構えた恭二
画像内の中国語字幕の訳:満州はどこへ行ったのか?
取材中の部屋で身を乗り出す年老いた千代子と源也、そのそばに立つ恭二
画像内の中国語字幕の訳:あなたの忠義は忘れない!

回想というこの全体に対応しているのが、映画から映画へ移るたびに、登場人物がそれまでの映画の状況を忘れてしまうことだ。モンタージュで切り替わるたび、登場人物は記憶を奪われるように見える(別の映画なのだから)。それでも、千代子の生(bios)そのものを形づくる最も重要な記憶は、不思議なことにつねに変わらず保たれ、映画が変わるごとに異なる対象に宿る。千代子が女優人生を通して若いままでいる隠れた理由も、ここにある。生き生きと生きるためには、記憶が欠かせないからだ。

だが同時に、やはり不思議なほど変わらず潜み続けるものがある。若い千代子と対をなす、執拗につきまとう年老いた魔女の姿だ(詠子ではない。詠子が示すのは、どちらかといえば日常的な倫理の視点である)。彼女は、その原型となった『蜘蛛巣城』の老婆と同じく、幽霊さながらに、近づくとすっと消え、忘れかけると不意に現れる。そして秘密を明かすような口調で、千代子の悲惨な未来を先取りして告げる。ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』での説明に従えば、糸を紡ぐ女とは、夫を思いわびる老女、あるいは年を重ねた処女である。時間ならいくらでもある彼女は、糸を紡ぎながら小声で歌う。その紡ぎ歌には、安らかな静けさと、何かを失ったような寂しさが漂っている。

桜を背に走る若い千代子

千代子が待ち続けることを否定的に捉えるなら、行き着くのは、まさに糸を紡ぐ魔女が象徴する悲劇だ(最後の場面で魔女と千代子が重なるのも、ある面ではこの事実を悲観的に裏づけているように見える)。だが見落としてはならないのは、まさにこの忌まわしい魔女の誘いに欺かれたからこそ、若い姫は千年の命を与えるという茶を飲み、「未来永劫、恋の炎に身を焼く定め」という不老の「呪い」を受けたことだ。これは「私」が「私」を欺いたという逆説ではない。むしろ魔女は、千代子にとって「私の内にありながら、私ではないもの」なのだと見るべきだろう。彼女は回想の中の千代子の身体の中心にあって、「身体なき器官」として、その内側から幽霊のような声を発する。あるいは、いわゆる声という対象(voice-object)、すなわち小対象なのである。

糸を紡ぐ魔女こそ、千代子を内側から制御する超自我の器官(superego organ)だと言える。千代子が女優人生を通して自分の身体を律してきたことを、これほどはっきり示す比喩はない。彼女は芸能界のきらびやかな歓楽に惑わされず、純潔を守り、愛を待ち続けた。それはアニメーションの中では、つまり回想の中では、若い容貌が永遠に保たれるという形でさえ表される(何十年たっても少女の顔のままなのに、詠子はもうおばさんだ)。恐ろしい魔女と千代子との関係は、カフカの『田舎医者』に登場する不死の傷と身体との関係に等しい。私の身体に寄生しながら、私が老いることも死ぬことも妨げるのだ。

煙と矢に囲まれた千代子の背中と、その向こうにいる糸を紡ぐ老婆
画像内の中国語字幕の訳:あなたは永遠に、消えない恋の炎に苦しめられる。

だから糸を紡ぐ魔女が現れるたびに、千代子は実体のない聖なるまなざしにさらされていることになる。それは恐るべき究極の悪夢(ultimate nightmare)であると同時に、外からの客観的なまなざしで自分を見つめる機会でもある。ちょうど『蜘蛛巣城』の原作『マクベス』に登場する魔女たちが、嘲弄する者であると同時に、マクベスの物語を展開させるのに欠かせない導き手でもあるように(つまり、野心によって悲劇的な運命へ踏み出すマクベスのほうが、最初から謙虚に、スコットランドの気楽な貴族として暮らすマクベスよりいい。そんな暮らしでは、『マクベス』という偉大な芝居が生まれないのだから)。

この意味では、千代子の生そのものを形づくる記憶は、もとからこの幽霊に取り憑かれていたと考えるべきだ。スティグレールが引く言葉を借りれば、幽霊に取り憑かれるとは、私たちが現在として一度も経験したことのないもの、本質的に現前の形を持ちえないものを記憶することなのである。だから魔女が現れるたびに、私たちはむしろ喜ぶべきなのだ。このとき老いと絶望は、内なる本質の単なる現れにすぎないのだから。最後に千代子がロケットに乗ってひたすら飛んでいく場面もそうだ。魔女と年老いた千代子が鏡像として重なり合ったあとに起こるのは、逆に、老いた千代子の顔が若いころの顔に戻ることなのである。

若い千代子の肖像に、白髪の老婆の姿が重なる
画像内の中国語字幕の訳:あなたが憎い!

病床の年老いた千代子と、宇宙服姿の千代子が重なる

物語の中で繰り返し、同じように千代子を目覚めさせる役目を果たすのが、手がかりとなるあの鍵だ。画家を捜すことこそ、千代子が女優の道へ進んだ根本の理由である。だが、捜しても見つからず、時が流れるにつれて、画家を捜し求める思いは、女優としての仕事によって次第に抑圧されていく。そしてこの抑圧そのものが、ますます華々しくなる千代子の女優人生の根底に、空白を生んでしまう。その空白を表すのが、対応する錠を失ったあの鍵、あるいはファルス、シニフィエのないシニフィアンなのだ(同時に、抑圧された無言の画家の姿も形づくられる。無数の映画のイメージがその姿を表そうとしながら、ついに表しきれない。これが絵の中で千代子の垣間見た対象aであり、彼はシニフィアンのないシニフィエなのである)。

だから、結末を除けば糸を紡ぐ魔女が最後に現れたあと、間もなく鍵も失われる(あの監督が隠してしまったのだ)。千代子はしばらくあがいたのち、突然、運命を受け入れたかのように、もう夢を見る年齢ではないと語り、お坊ちゃん監督と結婚して引退し、専業主婦になる。これはある意味で、伝説の女優としての千代子の生が終わったことを告げるものだった。記憶こそ私たちの生であり、記憶を奪うことは、私たちの生を奪うことだ。記憶を奪われたあとの生は、アガンベンの言葉を借りれば、剥き出しの生だ。そこでは人は獣のように、ただぼんやりと日々を無駄にする。

だが、物置を掃除していた千代子があの鍵を再び見つけた瞬間、彼女は「記憶に目を開かれ」、自分の本当の生活へと戻っていく。女優としての千代子は、再び比類のない輝きを放ち始めるのだ(その後、鍵はもう一度失われ、源也が千代子のもとへ届ける。こうして、この幻想的な「インタビューという演技」が始まる)。

ここで気をつけたいのは、千代子の本当の生活を支えるこの記憶には、冒頭で述べたように、現実と映画が織り合わされているということだ(だから鍵を見つけることは、女優人生の再開をも意味する)。そして映画そのものが、映像を中心とする記憶の技術なのである。千代子の物語は初めから源也社長のインタビューだったことを、忘れてはならない。取り壊される銀映撮影所を偲び、かつて銀映のスターだった千代子の姿を映像に残そうとする、源也社長の仕事なのだ。彼が試みているのは、まさに映像を記録し、歴史の記憶を裏づける証拠を残すことである。

振袖姿の千代子を中心に、複数の場面を配したイラスト

源也のインタビューにも、語るべき面白いところがたくさんある。彼がインタビュアーであるという基本設定と、映画がモンタージュによって意図的に作り出す錯覚のために、最初、観客は源也と恭二のカメラを通して千代子の回想の世界を見ているように感じる。二人が当初、覗き見をするように、こそこそと身を潜めているのも、その印象を裏づけるようだ。だが実際には、恭二が肩に担ぐカメラが画面に映った瞬間から、私たちは気づくべきだった。このカメラは、やがて必ず飾りになってしまう、と。案の定、源也社長自身が千代子の回想に入り込み、ともに思い起こすようになる。これは、取材の視点に映画の眼を固定する、それまでの構えを否定することを意味する。だが、それに先立つモンタージュの効果によっても、事物が一つの中心のもとにある状態は、すでに退けられていたのだ。

言い換えれば、今敏は非常に巧みな手法によって、この世界を、単に千代子が語る思い出として見ることも、源也と恭二による観察の記録として見ることもできないようにした。そして、回想と映画が織り合わされた世界を、再び、事物が一つの中心に縛られない状態へと向かわせる。それによって、さまざまな映画の中で目まぐるしく起こる出来事が、互いに寄り添い、ぴたりと重なり合うようになる。こうして、インタビューが横断する物語の映像全体を通じて、現象学的な意味での知覚主体は一つに定まらなくなる。物語の中では知覚に固定された中心がない。あるいは、中心は至るところにある。知覚は、一見断絶している映画の断片の一つひとつで起こる、あらゆる事物そのものに遍在しているのだ。だから、源也がインタビューをしている、あるいは千代子が語っているというよりも、千代子の物語がそれ自体を現していると言ったほうがよい。

千代子にぞっこんで、かつて銀映で助監督を務めていた源也社長は、彼女が出演した映画を一本残らず知り尽くしている。だが、彼の内にとどまる記憶だけでは触れられない過去を見せてくれるのは、千代子とともに思い起こす、この過程だけなのだ(恭二はずっと、冷や汗をかきながら眺めるばかりで、私たち観客とも違っている。だからこそ、ただの飾りとなったカメラを持つには、彼がいちばんふさわしい)。千代子の出演した映画も、源也と千代子の脳裏にある過去の情景も、単なる映像のままでは記憶と同一視することはできない。それらが結びつくことで生まれる自動的な仕組みも、それ自体が記憶なのではない。千代子と源也が回想の中で経験する、映画のメドレーのような大冒険は、まさに映像を組み直すことで潜在的な過去を回復し、そこから過去の事物の可能性を取り戻そうとする試みなのだ。このインタビューの中で、以前とは違う、より広がりのある、より細やかな記憶が生み出された。鍵は再び千代子の手に戻り、彼女はまた、追い求めて進むことで、永遠に若くあり続ける。

病床の千代子が手に持つ鍵
画像内の中国語字幕の訳:ほら、また鍵を見つけた。あなたのおかげで。
病床の千代子を見つめる源也
画像内の中国語字幕の訳:それが、私の心にある記憶の扉を開いた。

酸素マスクを着けて語る千代子

語りながら目を閉じる千代子

上の2枚の中国語字幕の訳:こうして私たちが話しているうちに、あの少女がよみがえったようだった。

さて最後に、『千年女優』で千代子が画家を果てしなく追い続けることを、アガンベンの視点から読むならば、この追跡を、千代子という女性に対する男性の力の究極的な支配として、単純に捉えることはできない。千代子が表すのは、まさに昭和の日本映画という映像それ自体なのだと気づく必要がある。アガンベンは映像をニンファにたとえる。ニンファはつねに人との結合を求めている。記憶と過去へ通じる可能性を開くためだ。それこそが「千代子」の最も秘められた願いであり、映画の冒頭で廃墟となる銀映の、本当の秘密を明かすものではないだろうか(千代子が倒れた直後、継ぎ目なくつながる次のショットは、銀映の解体である)。

重機によって解体される建物

なぜなら映像は単なる物ではなく、生きたものと、生命のない物との境にある存在だからだ。映像には表現できる何かがあり、自らの記号、文法、表現の原則がある。だから映像もまた、過去へ通じる可能性を私たちに示してくれる。源也があれほど夢中になって、銀映の古い映画を何度も何度も、飽きもせずに見るのもそのためだ。だが映像そのものだけでは、感覚を閉ざす壁を取り払うことはできない。この可能性を呼び覚まし、実現するには、映像の外にある力が必要になる(たとえば映画の冒頭で、源也が、発射に備えて震える映画の中のロケットを見ているとき、突然、現実の地震が起こる。その瞬間、画面の内と外を隔てていた感覚の壁が取り払われ、観客までもが夢のような衝撃を受ける)。そして作中でオマージュを捧げられる数々の古い映画は、まさに過去の断片を封じ込めたニンファなのである。このように捉えて初めて、私たちは、この映画が実は今敏から日本映画に宛てたラブレターなのだと、はっと気づく。今敏は、想像力に富んだアニメーションの手法を駆使して、日本映画への恋心を自ら示した。その想像力が映像に宿るとき、ニンファは人と結ばれ、その可能性を開く。こうして映像はニンファから、生きた存在へと変わるのである。

発射施設の中を上昇するロケット

ロケットの映像をモニターで見る源也の後ろ姿

資料が積まれた部屋で振り向く源也

だから、『千年女優』が描き出す、日本の映画史・文化史における波瀾に満ちた壮大な過去は、私たちとニンファとの情熱的な結びつきの中で創り出された記憶なのだ。そこには今敏と私たちの、恋するような想像力が注ぎ込まれている。『千年女優』で起こっているのは、無数の映像の小さなニンファたちが集まり、巨大なムネモシュネのニンファになることなのである。記憶の技術は、生を吹き込まれた映像を通して、私たちを過去へと導く可能性を得る。その瞬間、想像力が記憶を絶えず生まれ変わらせるのだ。

病床で微笑みながら語る千代子
画像内の中国語字幕の訳:何といっても……

病床の千代子から、宇宙服姿の千代子へと像が重なる

宇宙服姿で立つ恭二と源也の後ろ姿に、病室にいる二人が重なる

地球の見える天体の地表から飛び立つロケット

ふと、ユリシーズが、心を奪われ夢にまで見たあのイタカへ、本当に帰り着いたように思えた。


編集者より:いい!

屋頂の批評・編集方針と投稿案内を記した中国語のカード
屋頂の批評・編集方針と投稿案内(画像内の文章の日本語訳)

映画批評は創造的な誤読にもなりうるし、アニメ批評もときにそうである――カードの冒頭には、戴錦華教授の言葉として、この趣旨が掲げられている。

作り手による自作の理解は尊重すべきですが、読者に許される理解は一つだけだと頑なになる必要もありません。もちろん、私たちの出した答えがどう評価されるかは、歴史と読者、そして論者たちの判断に委ねましょう。

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