以下では、文芸の一形式として、コントのテクストの内容と構造を論じる。出演者や脚本家など、その人自身への評価は扱わない。1
一つ目のコントは、一見すると、横暴で理屈の通じない、前近代的な親父ぶりを退け、現代社会の多様性と寛容を唱えている。だが実際には、単位社会の郷愁を帯びた家父長的な〈親父〉を、一線都市型の、新たなサイバー資本の〈親父〉に取り替えているだけだ。2 その場にいない上司に息子がへつらう姿は、男女の労働者を抑圧するという点で、この二種類の〈親父〉が地続きであることも示している。
この二種類の〈親父〉のあいだにある、埋めようのない矛盾を調整する「縫合点」が、コントに登場する息子の妻だ。彼女のよい嫁ぶり――そのしるしは子供を身ごもっていること――が、両者の矛盾を中和する。一つ目のコントの構造の肝は、二人の〈親父〉の権力交代にある。女性が完璧な嫁/よい妻/よい母というジェンダー役割を演じ、その演技が媒介となって、「平和的な変質」が成し遂げられるのだ。3
二つ目のコントは、否応なく生じる金銭の貸し借りの関係に、情で対抗する。その債務関係は、現代社会で緩衝装置となっている家族や親類、友人、同窓生とのつながりを脅かす(借金を踏み倒すために偽装離婚するという筋は、かえって、現代の法体系における婚姻制度の実質が経済的な契約であることを露呈させている)。それにしても、結末のつけ方が唐突すぎる。
現代社会では、人間の社会関係がますます経済的な次元へと収斂していく。唯一、現実にものをいうのは購買力だ(婚姻をめぐる言説の「神聖さ」さえ、この論理の拡張に対抗する根拠=防壁にはなれない)。こうした俗流の経済決定論のなかで、人々はしばしば、それを超えたかのように見せてくれる幻想を求める。この疑似的な超越は、恋愛至上主義となって現れることが多い。たとえば、お嬢様と貧しい家の書生が駆け落ちする、といったロマンスだ。ところが、このコントはひどい。せめて幻想を作り出すことすら、ろくにできていない。持ち出す理由は、共感しづらい学生時代の友情=「朋友」(友だち)という曲のカセットテープ。これでは弱い。
三つ目のコントは、定番中の定番、嫁姑関係。この嫁姑のあいだには、父親が登場しない。夫の父親は亡くなったのか、母と離婚したのか、分からない。これは見逃せない点だ。姑には「晩年の恋」を育むという設定がある。これも、夫が序盤に長いあいだ席を外すことと結びつけて考えるべきだろう。ただし夫は、立ち去る前に、見逃せない態度を示している。母をなだめるときには「まあ、あの人はああいう人だから!」、妻をなだめるときにも「まあ、あの人はああいう人だから!」というわけだ。4 この自己言及的な言い方からは、夫が妻も母も、理屈の通じない相手として扱っていることがうかがえる。つまり、どちらもヒステリックな女性像にはめ込んでいる。理屈の通じない二人の「家のなかの揉め事」など、理屈では解決できないと夫は決め込む。そこで退場し、嫁姑を喧嘩させておく。
夫はあとで戻ってきて、対立する二人の考えを聞く。それでも、自分の本当の考え――どちらが正しく、どちらが間違っているのか――は明かさず、張さんとその息子を登場させる。もともとこの家にいて、「当然のように」あらゆることを裁く権威をもつ〈親父〉〔一家の長〕はいない。そうした権威がこの場で働いていたなら、おそらくこの一連の矛盾は生じなかっただろう。そこへ張さんがやってくる。張さんは愚鈍で石のような人物として描かれ、息子を通じて意思を伝える。いささか無力で、どこかおかしみのある人物像だ。
では結局、この嫁姑間の矛盾の実質は何なのか。大きな〈親父〉が死んだあと(前近代の家父長制の衰退)、二つの世代の小さな物語が、互いに折り合わず、通じ合わなくなっている、ということだ。一方は抖音という新しいメディアの世代、もう一方は広場ダンスの世代である(どちらも抖音を使ってはいるが、抖音は空気のようなものだ。同じプラットフォーム上にあるからといって、そこでの物語まで同質化しているわけではない。むしろ、一般にいう「情報の繭」や「島宇宙」のかたちをとっている)。5 この点は、自分のキャラ設定を守りたいという姑の主張に表れている。誰もが「表舞台」で守らなければならないキャラ設定をもっている。姑にも、広場ダンスの仲間や張さんの前で保ってきたキャラがあったのに、嫁の短い動画がSNSで拡散したことで、それを壊されたと感じたのだ。キャラ設定とは役割のことだ。役割とは、ある物語のなかで承認される役割のことだ。
異質な二つの物語=島宇宙がぶつかれば、必然的に対立が生じる。対立を避けて自分の役割やキャラ設定を崩してしまえば、それは社会的な死になる。この点は老若男女、誰でも同じだ。そして矛盾を解くのは、張さんが占める言説上の位置である。張さんはいささか愚鈍にも見えるが、自らの真実を示す一面もある。その張さんを介して、姑は自分の役割=キャラ設定が、抖音の短い動画の語りによって崩れてはいないと気づく。それどころか、真実の誤認を通じて、好意を寄せる小文字の他者(張さん)からの承認まで得られたのだ。6 もともと対立していた二つのコミュニケーション・ネットワークが、張さんという結節点でショートし、一つになった。
総じて、この嫁姑関係での嫁は、非常に危険な抖音ユーザーとして悪者に仕立てられている(短い動画という新しいメディアを使う人々すべてを雑な描き方で貶めながら、それを嫁姑関係の問題のなかに置いている)。嫁は、基本的には姑をネット上の攻撃にさらす役回りだし、その詭弁もまるで説得力がない(私には私の意味のネットワークがある、高齢者はネットを分かっていない、寛容さが足りない! と言い張るばかりで、姑にも独自の言説の体系や価値観があることを認め、尊重しようとはしない)。幸い、あとから張さんが現れ、嫁が面子を保って引き下がれるようにしてくれる。そうでなければ、この嫁姑の対立は、世俗の倫理に照らせば、偽りの和解さえ成り立たなかっただろう。
結局のところ、この嫁姑関係の和解はまったくの見せかけだ。その過程には、姑=前の世代の女性/母への敬意の欠如もあれば、いまの世代の新たな働く女性像/若い抖音世代に対する悪意ある歪曲もある。ただ、このコントは、人を傷つける攻撃性がいくらか弱いように見える。その代わりに姑が払わされる代価は、最後には新しい世代の抖音の言説ネットワークへ入っていくことだ(高齢者よ、ネットサーフィンを覚え、多様な価値観を受け入れろ!)。その背後にある、とりわけ姑にとっての暴力性は、晩年の恋によって矛盾を超えられるかのように見せる、あの疑似的な超越のなかで覆い隠される。姑が何度か自分の体や体重を自虐ネタにするのにも、呆れる。夫であり息子でもある男は、終始、実質的な立場を何ひとつ表明しない。張さんが現れ、情に訴えて丸く収めてくれるのを待てばよく、どちらが正しいかを論じる必要はないからだ。
四つ目のコントは、低調ななかでは頭一つ抜けていて、まずまずの出来だ。テーマも定番中の定番、情で金銭の力を打ち消すというもの。金の力が失われると、それまで和気あいあいとしていた親類や友人との関係が、どれも揺らぎ始める。それとともに、兄貴分が父親のように振るう権威も揺らいでいく。そのぐらつく権威を保つには、やはり車を売って金の穴埋めをしなければならない。資本の利潤の論理によらず、労働者を結びつけ、団結させる力には思い至らない。最後はお決まりのどんでん返しで、実は親類や友人との関係は金銭関係を超えられるのでした。笑える。この偽りの勝利は、一つの症候として、日常では結局、金が最後に勝つという事実を露呈させるだけだ。貧しければ、親類や友人との付き合いも、何もかもが哀しい。7
五つ目のコントでまず注目すべきは、この夫婦のあいだの矛盾が、家庭が本来の姿を失いつつあることから生じている点だ。双方とも、相手が「家庭を顧みず」、自分に心を配らず、大切にしてくれないと思っている。それは、真実の愛が永遠であることを確認する婚姻の儀式――結婚式をいつまでも挙げられないというかたちで現れる。ところが、この家庭の衰退に、大きな〈親父〉=院長が強い関心を寄せる(院長は電話で、この夫婦の関係に問題があることはとっくに知っていたよ、と言い、小さな〈親父〉である主任に早く仲を取り持つよう指示する)。さて、どうしてだろうね?
家庭の衰退と解体は、有機体としての社会共同体の衰退と解体につながるからだ。本当に離婚したらどうなるか。作中で妻が夫に突きつけた問いを借りれば、「年老いた家族の世話は誰がする、子供の送り迎えは誰がする、家事は誰がする?」。8 これらを誰もやらなければ、まず夫の側では仕事の効率が落ちる。さらに、社会全体としては人口の再生産ができなくなる。病院の機能も低下する。だから「院長」は焦り、大急ぎで矛盾を調整して、家庭を再び機能させるよう求める。
だが、そもそも家庭が衰退した原因は何だったのか? 作品が示すのは、非難しようのない理由だ。人民に奉仕するのに忙しすぎる! 社会という大きな家を気にかけて、自分たちの小さな家には手が回らない! これでは観客は、夫婦のどちらの人柄も責められない。二人の関係に亀裂が入ったのは、道徳や倫理が堕落し、崩壊したからでも(『昼顔』のような不倫は起きていない)、悪徳企業の996勤務のせいでもない(夫婦は大都市のネット企業のプログラマーとしては描かれておらず、舞台は公益性を帯びた病院だ)。9 二人とも、あまりにも無私だからなのだ! だから、この関係の破綻はただの偶然、何もないところから持ち出されたデウス・エクス・マキナにすぎない(何度結婚式をしようとしても出張とぶつかるなんて、偶然が過ぎる)。そして、すぐに元の鞘へ収められてしまう。そもそも、現実に即した筋の通る論理などなかったのだから。
ここに、この脚本の力のなさが表れている。結婚や家庭を不安定にする(離婚率を上昇させる)最大の原因を本当にあばきたいのなら、夫婦のどちらかが実際に不倫をした=ポストモダンな欲望が近代の道徳に勝った、と描くこともできる。あるいは、悪徳経営者が労働者を搾取し、家庭や結婚から活力を奪っていくと描くこともできる。しかし、そのどちらもない。だから、この作品が目指す近代的な結婚と家庭の擁護には、説得力がひどく乏しい。現実にある切実な問題に触れず、答えようともしないからだ。
矛盾は、二人が無私で、あまりにも無私であることから生まれ(家庭を顧みない)、その矛盾は、二人が引き続き無私で、あまりにも無私であることによって解決される(相手のために自分を犠牲にし、命を賭けて真実の愛を永遠のものにする)。とにかく真実の愛は永遠、それでおしまい!
最後に指摘しておきたいのは、前半の喧嘩の段階でも、後半の和解の段階でも、妻が「家事」の主たる責任を負うことが当然とされ、そうするのが美徳とされている点だ。女性は公共的な領域でも働き、病院の看護師や医師など、社会を支える仕事を担っている。それでも家庭内の仕事は、なお多くの場合、女性が無償で引き受ける。その分担を正当化する説明すら求められない(つまり、女性は生まれつき家事に向いていると見なされている)。このコントでも、そうした価値観は依然として当然視され、疑問に付されない。
いま、「家庭にとどまる主婦」を礼賛する風潮が、水面下で勢いを増している。古い家父長制の美徳としてであれ、自由な選択に見える「専業主婦」という、中産階級のブルジョワ的な新しい流行としてであれ、そうだ。前者についてはさんざん語られてきたが、後者は新たに現れた、きわめて不安をかき立てる現象である。「女性は天の半分を支えられる」という赤い歴史の遺産を、胸に刻んでおかなければならない。社会の公共的な領域で働き、社会をともにつくっていくことを手放してはならない。家庭の領域へ退くべきではない。
万人の好みに合わせるのは難しい、なんて言わないでほしい。革命的であり、かつ専門的な力量も備える「又紅又専」を重んじること自体は、何の問題もない。それなら、いっそ音楽舞踊史詩『東方紅』をそのまま再放送すればいい。むしろみんな結構好きなんじゃないか、と私は思う。「松花江上」「黄河大合唱」「団結就是力量」「抗大校歌」「東方紅」「跨過鴨緑江」「歌唱祖国」「インターナショナル」「唱支山歌給党聴」、いいじゃないか。老若男女が楽しめて、わけの分からない説教や性差別も、春晩のコントほど多くない。
大型音楽舞踊史詩『東方紅』――bilibili。とくに後半が本当にいい。名曲メドレーで、延安文芸座談会の理念が受肉したようなものだ。とっくにこういう作品を見て、学んでおくべきだったのだ。
参考図書:
戴宇辰『遭遇“视差之见”:齐泽克与文化研究』、華東師範大学出版社。10
柄谷行人『日本近代文学の起源』(中国語版『日本现代文学的起源』、中央編訳出版社)。11
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』。12