
世界なき時代に、無意味な愛を広める。
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なぜ日本のアニメ・漫画・ゲームでは、たいてい男性が家庭内暴力を受けるのか?
この種の「家庭内暴力」に共通する特徴で、見落とされがちなものがある。そもそも暴力的ではない、ということだ。宇野常寛には、こうした暴力を言い表す言葉がある。安全な痛み(宇野のいう「安全に痛い」)だ。こうした暴力は一見、家父長制に反するようでいて、実際にはたちまち家父長制の回路へと回収され、家父長制の暴力をいっそう巧みに覆い隠す。
『まよチキ!』はいい例だ。主人公は、ハードコア・プロレスに夢中の妹に毎日殴られる。毎日だという点に注目してほしい。しかも彼は身体が弱い。それでも大抵は、何事もなかったかのように毎日学校へ通っている。考えられる説明は、次のどちらかしかない。
- 主人公は怪物で、死ぬことも傷つくこともない身体を持っている。
- 主人公の妹が弱すぎる。

では、主人公が強すぎるのか、それとも妹が弱すぎるのか? 両方だ。実はこれが、こうした「家庭内暴力」に広く見られる構造なのだ。女性の暴力は暴力として成立せず、笑い話か性的な隠喩にしかならない(この二つは往々にして切り離せない)。私が『まよチキ!』を例に挙げたのは、主人公がとても「弱い」からだ。彼が格好の例になるのは、主人公(男性キャラクター)がどれほど弱くても、女性による家庭内「暴力」の被害者にはならないからだ。女性による、いわゆる「家庭内暴力」が頻繁であればあるほど、男性キャラクターの怪物じみた身体が作り上げられ、同時にその女性自身はますます弱くなる。
この回路の基本構造は、女性の暴力を身に受けながら、女性に暴力を振るう力があることを否定する、というものだ。宇野は『AIR』を論じる際、この回路を次のように説明している。ユーザー(観客)は、「安全な痛み」を伴う自己反省の「演技」を経ることで、強化された男性優越主義(マッチョイズム)を、いっそう心置きなく享受できるようになるのだ。
「美しい見た目は似たり寄ったり、面白い魂は万に一つ」をどう考えるか?
なぜ面白い魂と美しい見た目1を分けるのか? この二つは、分けるべきでないだけでなく、分けることができない。実際、二つのものですらなく、一つのものなのだ。面白い魂とは、美しい見た目のことだ。(思想の身体化)
美しい見た目が似たり寄ったりであることは、絶対にない。似たり寄ったりの見た目は、そもそも美しい見た目とは呼べないからだ。たとえば、中国で「网红脸」と呼ばれる、ネットで流行する型にはまった美人顔だ。そんな美人顔はどれも、見ていれば飽きる。こうした複製できる美は、美というより、美の拒絶だ。美には思考が必要なのだ。考えることを拒み、やみくもに人に倣うのは、美そのものを拒むことだ。私たちが目にする、似たり寄ったりの美。たとえば、WeChatの投稿機能「モーメンツ」に並ぶ、同じフィルター、同じ背景、同じポーズ、同じ角度。こうした似たり寄ったりのものは、美しい見た目などとは言えない。ありふれた見た目なのだ。

ニーチェ(どう考えても面白い魂の持ち主ではあるだろう)は、『偶像の黄昏』の「ある反時代的人間の逍遥」で、美は偶然ではない、美には大きな努力が必要だと強調している。キケロはかつて、アテナイの男たちや少年たちの美しさに――女たちの美しさではなく――驚嘆した。当時、男たちは美しくなるために大きな努力を払っていたからだ。美しさは、生まれつきの顔立ちとして天から授かることもある。だが、美は維持しなければならない。2
そして、誰もが美しい顔立ちを生まれつき授かるわけではないが、美を作り、美を維持する力は、たしかに大半の人に備わっている。日本ではとりわけそれを実感する。醜さなどない。あるのは怠惰だけだ。そしてこの怠惰は、根本のところで、つまらなさと結びついている。
ワイルドの言葉を借りれば、芸術作品として生きるか、さもなければ芸術作品を創るかだ。3彼はかつて「生きる目的は、一つの芸術作品になることだ」と書いた。4ワイルドはそう言ったし、そう生きた。初めてロンドンに来たときには、頭にベルベットの柔らかな帽子をかぶり、縁飾りのついたシャツと別珍の半ズボンを身につけ、足には黒い絹の長靴下をはいていた。イェイツはかつてワイルドと夕食をともにし、後に、完璧に調和した一家の暮らしの光景は、まるで意識して構成された芸術作品のようだったと回想している。5ここで重要なのは、調和のとれた暮らしも、意識して作り上げなければ成り立たないということだ。「自然な美しさ」にも、人の手が欠かせないのと同じように。
見た目があまりにつまらなければ、それはその人の魂もつまらないことの証明でしかない。そもそも魂など、古臭いキリスト教の考えにすぎない。ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』で、ツァラトゥストラの口を借りて言う。
私はまるごと身体であり、それ以外の何ものでもない。6
魂など、多くの場合、怠け者が自分のために見つけてきた言い訳にすぎない。それも、ひどくお粗末な言い訳だ。四六時中、自分の魂を強調している連中にとって、魂は……病気だ。治さないといけない。
中国語版編集者注: 異議あり! 綾波の見た目は、まさに似たり寄ったりじゃないか! (審査の都合で、タイトルは元の題と多少異なります。)