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訂正版||表舞台、舞台裏、そして劇場:ゴフマンのドラマトゥルギーから読む『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

ゴフマンのドラマトゥルギーにおける役割演技、印象管理、表舞台と舞台裏の概念から、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の登場人物が、舞台上で日常の演技をかなぐり捨て、隠していた真実をさらけ出すさまを読み解く。

著者: hood翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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HMS Hood

星々に手が届くはずだったのに、ただの幻だと気づいて愕然とした
そして空から落ち、星の光に焼き尽くされたのは
太陽という名の、あの星だった

前書き:この記事を映像化するにあたり、台詞として語れるように手を入れた。その過程で、通りすがりの方々の意見もいくつか取り入れ、執筆時に重大な結果を招きかねない表現上の誤りを犯していたことに気づいた。私は記事の編集機能が好きではなく、かつて「誤字すら直さない」と大言壮語したこともある。そこで、新たにV2を公開する。

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は舞台をめぐる物語だ。社会学では、舞台、あるいは表舞台、舞台裏、演技チーム、演技といった一連の言葉が、人と人との相互行為を分析し、記述するために用いられてきた。この仕事をしたのがゴフマン先生である。私たちにこの体系をさらに築き上げる力はない。ただ、この理論を使い、浅薄なアニメ分析を一つ仕上げたいだけだ。演劇の用語を社会学の体系に持ち込んだこの理論、すなわちドラマトゥルギーによって、演技と舞台を血肉とするアニメを分析する。きっと、思いがけない独特の体験になるだろう。

これからの分析では、演技、観客、演出といった演劇用語が何を指すのか、必ず区別してほしい。まず作中には、観客となる舞台少女たちとキリンがいて、舞台少女たちの演技がある。さらに映像作品として見れば、画面の中の役者、画面の外の観客、アニメの演出がある。そこへドラマトゥルギーが、第三の意味で、字面はまったく同じ言葉を持ち込む。これが理解の大きな妨げになることは、想像に難くない。

音楽を流して、りぶがカバーした「ドラマツルギー」を聴いてほしい。1 もちろん、この曲を聴いても、ドラマトゥルギーとは何かを理解する実質的な助けにはならない。これは私情だ。りぶと『少女☆歌劇』は、私が落ち込んでいた時期に心を解きほぐしてくれた。だから、この二つへの思いは、ほかの何ものにも代えられない。

演じてみるの あなたの気を惹きたいから

「Fly Me to the Star」2

一、ドラマトゥルギーについて

ゴフマンは、シンボリック相互作用論の代表的な人物の一人である。著書『日常生活における自己呈示』では、日常の行動を演劇になぞらえ、演劇理論の用語を社会学の研究へと持ち込んだ。彼によれば、人間の日常的な交際、生活、相互行為は、いずれも演劇の上演のようなものだ。誰もが独立した一人の演技者であるか、ある「演技チーム」の一員である。そのつどの状況、つまり特定の場面を舞台として、自分の必要や一般に通用する規範に従って演じる。「役割」を土台とし、「演技」「印象管理」を通して、人と人との相互行為を成り立たせる。こうして、演劇の用語が社会学へと導入される。

文学批評、あるいは今回私たちが行うアニメ批評でも、そのうちの「役割を演じること」や「印象管理」といった理論は、登場人物の分析に使える。アニメの筋の展開や対立の組み立てを、特定の状況における印象管理の現れとして捉えることができるのだ。ここではドラマトゥルギーの理論体系のほんの一部を使い、私の力の及ぶ範囲で、『少女☆歌劇』という作品について論じてみたい。

二、理想の役割と現実の役割の衝突――神楽ひかり

ゴフマンの理論によれば、生活は舞台であり、誰もが役者である。人と人との衝突や相互行為は「演技」の過程であり、それによって、意味を持った日常のドラマが形づくられる。一般的な道徳を物差しにして、演技を「不誠実」と決めつけても、この重要な理論を理解するうえでは百害あって一利なしだ。こうした批判はいまだに絶えないが、皆さんにはその見方を捨てていただきたい。この記事には、演技と不誠実を同一視し、それをもって誰かを非難する意図など決してない。

「役割を演じる」とはどういうことか。具体的なやり取りの場面で、人はいつも、観客、つまりほかの人々に見せたいと思う役割へ、できるかぎり自分の演技を近づけようとする。観客が見ているのは、その役割を演じる姿にすぎず、役割そのものではない。演じている自覚があろうとなかろうと、人は自分のよりどころとして、理想化された役割を設定する。その理想の役割を成り立たせるのは、その人を取り巻く社会と、それまでの経験である。

神楽ひかりの理想は「(華恋と一緒に)トップスタァ」になることだ。それを追うなかで、境遇は幾度も浮き沈みし、現に担っている役割も、理想とする役割も、何度となく変わった。理想の役割と現実の役割との激しい衝突が、彼女を内側から動かしている。

ひかりに至上の目標を与えてくれた作品に感謝したい。おかげで、彼女が理想とする役割はどれも、その目標を実現するために経なければならないものになっている。先に述べたように、作中に描かれるひかりの姿は、そのほとんどが理想の役割と一致していない。ロンドンで王立演劇学院の学生だったころ、理想の役割は「勤勉な優等生」だった。そうなることで、「トップスタァ」という栄誉に見合う実力をつけようとしたのだ。二番手の役しか演じられないという現実に、彼女はいっそう厳しく自分を律する。やがて、より効率のよい手段である謎のオーディションに出会うと、喜んで参加する。たちまち理想の役割は「オーディションの勝者」となった。この理想の役割は、その後長いあいだ、彼女の行動を律することになる。オーディションで困難を切り抜けていく姿は、当然その一例だ。その後の敗北によって、現実の役割は理想の役割からさらに遠ざかった。だが、二度目の機会を与えられ、「参加者」としての立場は保たれた。そのため、理想の役割は修正されるどころか、ますます強固になる。「オーディションの勝者」ならこうあるべきだという姿で自分の演技を律し、ほかの人々を、華恋さえも遠ざけた。

一人で練習する神楽ひかり

愛城華恋の参加によって、ひかりは理想の役割を修正せざるをえなくなった。「愛城華恋の対戦相手」、あるいはただ「参加者」であるだけでも、現実のその役割は、「(華恋と一緒に)トップスタァ」という理想からかけ離れている。この隔たりから、彼女は「オーディションの勝者」という理想の役割を完全に捨てる。そして実際に勝者となったあと、「参加者」としては決してしてはならない犠牲を払った。愛城華恋を守るため、自らのキラめきを差し出したのである。もちろん、その先に待っていた悲劇までは、この判断に織り込まれていない。

レヴューで涙を流す神楽ひかり

ここは説明しておかなければならない。理想の役割に伴う規範は、それを理想に掲げた本人が勝手に決めるものではない。特定の地位にある人に社会が何を期待するかによって決まる。たとえば「優秀なスポーツ選手」を理想の役割とする人は、自分から金メダルを譲ってはならない。アニメに目を戻すと、「オーディションの勝者」という役割に期待されているのは、おおむねジュディのような姿であり、少なくとも大場ななや神楽ひかりであってはならない。同じように、自らキラめきを譲る参加者がいてはならない。キリンの反応は、その傍証になるだろう。

もう一点、断っておきたい。理想の役割とは、実のところ終着点ではなく、進む方向である。完璧すぎてほとんどの場合は実現しがたい、というだけではない。たとえ演技が非の打ちどころなく理想の役割と一致しても、その先の演技を律するためには、やはりその理想の役割が必要なのだ。舞台第2作『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE-#2 Transition』に、よい例がある。愛城華恋も神楽ひかりも、現実の役割と理想の役割との一致を実現したが、前者は一時、それによって自分を律し続けることをやめ、後者はやめなかった。

神楽ひかりの二年間を見渡してみよう。理想と、そこから遠ざかる一方の現実の役割との間でもがき、理想の役割を何度も修正する。それが、彼女の行動を根本から動かしている。理想を実現するために、一歩また一歩と奥へ進み、悲劇の深淵へと向かうほかなかった。それでも物語は最後に幸福な結末を用意し、彼女の至上の理想をかなえてくれた。

三、神楽ひかりの印象管理の戦略

「印象管理」とは、演技者が役割を演じる際、その役割をうまく形づくり、観客に「よい印象」を残すために行う自己管理、自己統制を指す。他人とかかわる以上、人はその相手の心に映る自分の印象を考えなければならない。ここで範囲をはっきりさせておこう。「役割」と「観客」とは、登場人物と画面の外の私たちを指すのでは決してない。作中のある人物が演じる役割と、その人物とかかわるほかの人物を指す。同じく「よい印象」とは、「その役割に合った印象」のことであって、「好ましい印象」ではない。

聖翔に来たばかりの神楽ひかりは、なお「勝者」を理想の役割としていた。その役割をうまく演じるために、印象管理の戦略を効果的に使っている。

一つ目は、演技の理想化。「参加者」という役割について広く認められた数々の基準や規範から外れる行動を隠し、華恋に過去を伏せる。二つ目は、偽りの提示。相手を錯覚させ、誤った印象を抱かせることが目的だ。わざとほかの人々を遠ざけ、人付き合いを避ける性格だと思わせる。これは第三の戦略、神秘化と組み合わせるためのものだ。ゴフマンの理論によれば、二人の親しさが増すほど、その間にあった崇敬の念は薄れ、互いを軽く見るようになりやすい。ひかりは偽りの提示によってほかの少女たちを近づけず、自分からも距離を置くことで、感情に煩わされずにオーディションを最後までやり遂げようとする。

神楽ひかりと大場ななは、印象管理をめぐって何度も渡り合っている。「人は他人の前に現れるとき、つねに自分の知る情報をもとに状況を定義する。相手が初対面なら、観察する側はその振る舞いや外見を手がかりとし、かつて似たような人々と接した経験を当てはめて、どう行動するかを判断する。」3 ななは、ほかの同級生とのこれまでの付き合いをもとに、ひかりにも接した。最初の印象管理の応酬は、エレベーター前で行われる。「輪廻の守り手」であることを隠そうと、優しい顔を見せるななは、他人を寄せつけないひかりを前に、あっけなく敗れた。プリンかマフィンかは、重要ではない。

エレベーター前の大場なな

作中で繰り返される同様の応酬は、状況が組み替わることで成り立ち、それが筋を進めていく。相互行為のなかで、演技者たちは手元にある限られた情報だけを頼りに、状況を定義する主導権を奪い合う。だが私たちは、それぞれの演技者の情報をすべて握っている。胸に秘めた心の動きまでも。だから第10話の悲劇を前に、どれほど気が気でなくても、中に入って事態を動かすことはできない。脚本は、愛城華恋を神楽ひかりの劇場へと踏み込ませた。この芝居を読み解かせ、ひかりが隠していた心を探り当てさせた。愛城華恋は、作中の人物でありながら、私たちと同じところに立ったのだ。華恋の悲痛と、ひかりが受けてきた苦しみとが結びつき、すべての事情を知っている私たちは、ついに華恋にも謎が明かされるときを迎えた。「舞台少女心得 幕間」とともに、すべてが一つになり、劇場全体が大団円を迎える。

四、表舞台と舞台裏――舞台少女たちの隠された世界

「表舞台」とは、決まった仕方で演技を行い、観客にどのような状況なのかを示す、舞台の一部である。「舞台裏」は観客に見せず、観客や部外者の立ち入りを制限する部分だ。より親しい関係にある人だけが、そこで起こっているすべてを見ることを許される。4 表舞台と舞台裏は、きっぱりと分かれているわけではない。教室と比べれば、二人で暮らす寮の部屋は当然、舞台裏である。だが一人でいるときと比べれば、実はそこも表舞台だ。

教室で発言する星見純那

寮の部屋で一人、写真を見る神楽ひかり

舞台少女たちの「観客の分離」は完璧だ。観客を分ける目的は、ある舞台の観客に、別の舞台での演技を見せないことにある。家では上品で穏やかな青年が、仲間とつるむと途端に妙な悪ノリを始めるようなものだ。作中の人物たちによる観客の分け方は、さらに恐ろしい。極度に閉ざされた舞台裏に、数々の秘密を隠している。表舞台の露崎まひるは愛城華恋のルームメイトであり、親友だ。だが、その関係に自分のすべてを預け、心の底では劣等感を抱いているという事実は、舞台裏に隠している。大場ななが表舞台で演じる優しい人物像も、純那と二人きりでなければ見せられない、絶望に満ちた舞台裏を覆い隠している。

同時に、もう一つ説明しておきたい。表舞台と舞台裏は、空間によって隔てられているわけではない。観客が舞台裏へ踏み込めば、そこはおのずと表舞台になる。エレベーター前のななとひかりに戻ろう。見つかるまでのひかりは、華恋を気遣う思いが顔にはっきりと出ていた。舞台裏でしか見せられない顔だ。だから見つかった途端、その優しさを引っ込め、壁を築いた。場所は変わらなくても、そこに部外者が加われば、舞台に立つことを強いられる。

エレベーター前の神楽ひかりと大場なな

とはいえ、観客もまた役者であり、どんな状況でどんな演技を見せるべきかを心得ている。うっかり他人の舞台裏へ踏み込んでしまったとき、たいていの観客は、自分から身を引くか、見なかったことにして、相手に態勢を立て直す機会を与える。まひるの舞台裏に踏み込んだひかりも、気づかないふりをし、言葉で気まずさを消そうとした。もっとも、いろいろあって、そのすべてが逆効果だったのだが。そもそも、同じ人に三度続けて舞台裏へ踏み込まれたまひるに、なお表舞台の役割を保てと求めるのは無理な話である。

五、対立の激化――演技の失敗と「キャラ崩壊」

われらが露崎まひるは、表舞台で必死に保ってきた役割を、もう保てなくなった。まだ部外者であり観客であるひかりに、舞台裏の感情をさらけ出す。ゴフマンの体系では、これは演技の失敗だ。その失敗が招く結果を恐れ、誰もが必死に避けようとする事態である。だが「演技の失敗」は、今回の分析には適さない。舞台少女たちは、自ら仮面を引き剥がし、キリンの舞台で本心をさらけ出す。それを捉えるのに、これほど強く「賞罰」を匂わせる表現はふさわしくない。

それなら私も、アニメの用語を一つ借りて使い直してみよう。これはゴフマン先生がやらなかった仕事だ。

この作品が矛盾や対立を形づくる鍵は、キャラ崩壊であり、表舞台と舞台裏のずれにある。つまり、もう仮面を保てなくなったときに、さまざまな目的のために作り上げてきた仮面を徹底的に引き裂き、本心を人前にさらす。自分の舞台裏に入れていなかった人を、そこへ引き込むのだ。

ジンメルは社会的な闘争を論じるなかで、あまりに深く隠された対立は最終的な解決の助けにならず、かえって事態を激化させかねないと考えた。簡単になぞらえてみよう。この作品の人物たちは、胸の内の葛藤を深く埋め、悲しみも苦しみもすべて自分だけの舞台裏に置き、表舞台の完璧な役割で覆い隠している。その葛藤を表に出し、徹底的に激化させなければ、「日々進化」など空論にすぎない。もちろん、対立の噴出が全体の発展に役立つというのも、ジンメルの理論の一部である。ここでは立ち入らない。

まひるを例にしよう。問題の核心は、嫉妬、自信のなさ、そして華恋への絶対的な依存だ。だが、そのすべては深く埋められていた。ひかりが何度も舞台裏へ踏み込んだことで、まひるはもう仮面を保てず、すべてを表舞台へ持ち出したのである――そのころのひかりは、まひるが舞台裏へ招き入れられる相手ではなかった。忘れてはならない。舞台裏にいる、あの弱く無力なまひるは、華恋でさえ見たことがなかったのだ。観客の前で表舞台の仮面を脱ぎ、本当の心を表す。そこから一連の対立が生まれ、ようやく問題を解決の対象にできるようになった。これは一例にとどまらない。ほかの対立も同じ方法で形づくられている。表舞台を保てなくし、ずっと舞台裏に隠してきた感情を、余すところなく露わにする。第9話の大場なながそうだし、第2話で教室の同級生たちを叱る星見純那もそうだ。第6話で胸の内を打ち明ける石動双葉もそうであり、第10話で憧れを隠すのをやめた西條クロディーヌは、なおさらそうだ。

涙を浮かべる大場なな

ここでいう仮面は、決して侮辱でも非難でもないと分かってほしい。私が『少女☆歌劇』に注いだ時間も労力も金も、すべて本心からのものだ。それでもゴフマンの体系では、「『少女☆歌劇』ファン」や「筋金入りのスタァライト研究家」といった役割を形づくるための演技である。こういう演技は「誠実な」演技と呼ばれる。自分の演じる役割を本当に信じていなければ、ここまでできはしない。一方、自覚的に偽りを演じることは「シニカルな」演技とされる。本筋には関係ないので、これ以上は述べない。

登場人物の仮面が引き裂かれるのは、周到に設計された状況の結果だ。だが、もっと面白いことがある。彼女たちの日常で、一人ひとりを覆う目に見えない表舞台が崩れ始めても、そこで問題が本当に解決するわけではない。当事者同士が互いの舞台裏へ入り、対話して問題を解決するのは、レヴューの競演の場なのだ。比喩ではない、実際の舞台の表側で、それは行われる――ところがこの実際の舞台を、登場人物たちは舞台裏の空間として定義する。そこで彼女たちは、文字どおりの演技を装いながら、舞台裏に隠し、日常の演技ではとても見せられなかったものを、すべてさらけ出すのである。

暗いレヴューの舞台にいる二人の舞台少女

六、結び――「容器人」、私たちの悲哀

登場人物たちは、周到に設計された「舞台」で演じるときにだけ、普段は自分だけのものである舞台裏を見せる。言い換えよう。文字どおりの「演技」という偽装のもとでのみ、彼女たちは日常生活で当たり前のように続けなければならない演技をやめ、ずっと観客と見なしてきた親しい誰かに、本当の自分を見せるのだ。もちろん、場外にいる、私たちが普通の意味で「観客」と呼ぶ人々にも。

誰もいない舞台に向き合うキリン

ここで一つの考え方を持ち込もう。日本の研究者、中野収が提唱し、中国語で「容器人」と呼ばれる概念だ。5 マスメディアの時代に育った現代人に広く見られる心理状態を指し、その内面を、孤立して閉じた缶のような容器になぞらえる。「容器人」も孤独から抜け出したいし、他人とかかわり、交際したいと願っている。だが、缶と缶が触れ合っても、実際に触れるのは壁と壁だけだ。生まれつき備わっているわけではないが、決して壊せないこの壁。自分を守るための、あるいは他人を守るという名目を与えられたこの壁のために、人は互いの心の奥へ決して入っていけない。

暗闇に浮かぶ仮面の人物

これは私たちの世代だけの悲劇であり、実は、舞台少女たちがそれぞれに解決していった悲劇の根源でもある。大場ななだけを例にとってもいい。誰もがこんな壁を抱えたまま、もしオーディションがなかったら、卒業を迎えるころ、彼女はいったいどこまで追い詰められていただろう。その可能性を想像するのは忍びない。人は自分を表したいと願いながら、自分の舞台裏をさらすことを嫌う。まひるは黙って華恋を守り、華恋にすがりつき、決して本心を明かさない。そして前の記事で述べたように、他人の心を探れない華恋は、まひるを思い悩ませる存在となり、もともとはなかった嫉妬を引き起こす。

これは私たちの世代だけの悲劇だ。どの世代も一つの芝居を演じる。だが、今の私たちほど、舞台裏が誰にも見せない領域になった世代はなかった。このかつてなく強固な壁こそが、悲劇の核心なのである。

ならば、彼女たちに「舞台」を与えよう。あの舞台少女たちに、本物の「舞台」を与えよう。文字どおりの「上演」という偽装のもとで、来る日も来る日も続ける演技をやめさせ、あの悲しい缶を打ち壊させよう。「表舞台」と呼ばれながら、実は二人だけの舞台裏である空間で、二つの心を、ぴったりと寄り添わせよう。

なんと素晴らしいことか。ならば、私たちにも舞台を与えてほしい。

舞台から抜け出せない人たちに、文字どおりの「舞台」を与えてほしい。いつまでも表舞台をさまよう哀れな人たちにとって、その「舞台」が、ようやく息をつける唯一の舞台裏になるように。

豪奢で美しく、目を奪い、胸を高鳴らせる本物の「舞台」を与えよう。この「舞台」の上にあるものは、何もかも偽りだ。どれも他人を喜ばせるための「演技」だ。見せる勇気がなく、自分の舞台裏に隠していた真実が、こうして、何もかも偽りの「舞台」に、余すところなくさらけ出される。舞台少女たちは寮では言えない言葉を、「舞台」の上ですべて打ち明ける。自分のすべてを奪ってほしいと、相手に差し出すほどに。

すべてを「表舞台」に並べたよ。すべてをあなたに「見せた」よ。これは、私が念入りに用意した「演技」なんだよ。現実の世界では絶対に見せられない、私一人だけの舞台裏の真実なんだよ……

レヴューの舞台に立つ愛城華恋

この虚構の空間でこそ、束の間の真実を表すことができる。別名義の陰に、仲間内に、アイコンの中に自分を隠して初めて、口にできないことのすべてを、ネットのバカな仲間たちへ話のネタとして差し出せる。それでようやく、ひととき気が楽になり、休むことができる。そして、また身支度を整えて出陣する。表舞台へ戻り、決して止まらない運命の舞台に上がり、身に染みついた退屈な演目を繰り返す。ほかの人たちのことなら、気にしなくていい――あの人たちも、あなたと同じだ。

この小さな劇場から出らんない、気づいたら最後逃げ出したい

僕ら全員演じていたんだ、エンドロールに向かってゆくんだ さあ、

皆必死に役を演じて、傍観者なんていないのさ

「ドラマツルギー」6

これは私たちの世代の悲劇だ。

そして、見通せるかぎり、この悲劇は次の世代のものにもなる。その先も、絶えることなく続いていく。

これは、人間の悲劇なのだ。

参考文献

以下は原著者が挙げた文献。中国語文献の題名は日本語に訳して示す。

  1. 王晴鋒「ゴフマンの自己観の二重性を読み解く」『創新』2019年、第13巻第1号、34–41頁。
  2. 張佳怡「ソーシャルメディア時代における新たな『容器人』の生成」『記者揺籃』2018年第10号、95–96頁。
  3. 呉徳勝・欧陽夢琦「モバイルインターネット時代の『容器人』現象の分析」『北方伝媒研究』2018年第3号、48–49頁。
  4. 陳傑「ゴフマンの『ドラマトゥルギー』とその実践を現代から問い直す」『戯劇文学』2017年第8号、107–110頁。
  5. 孟蔚「ゴフマンの演劇的分析理論についての論評」『黒竜江史志』2008年第5号、58–59頁。
  6. 黄建生「ゴフマンのドラマトゥルギーと行動分析」『雲南師範大学学報(哲学社会科学版)』2001年第4号、91–93頁。
  7. 廖克凱「オンラインゲームにおける演技と自己呈示――ゴフマンのドラマトゥルギーに基づく観察と分析」『西部学刊(新聞とコミュニケーション)』2016年第5号、64–66頁。
  8. アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』北京大学出版社、2008年(中国語版)。

訳注

本文終わり
注06

注釈

  1. 社会学の理論名は本文では「ドラマトゥルギー」、Eveの楽曲名は「ドラマツルギー」と表記した。中国語原文では、どちらも「拟剧论」。 ↑

  2. 原文に併記された中国語訳は「私は懸命に演じよう、ただあなたに見つめてもらうために」という意味で、努力と願いを原詞より強めている。日本語歌詞を参照。 ↑

  3. 記事にある中国語の引用からの訳で、既存の邦訳からの引用ではない。後半の、外見や振る舞い、似た人々との経験を手がかりにするという説明は、ゴフマン原著序論の抜粋に対応する。 ↑

  4. 本文の「表舞台/舞台裏」は、専門用語では「表局域/裏局域」に対応する。これは演技を行う場所の区分である。一方、ゴフマンの「外面(front)」は、服装や振る舞い、舞台装置など、観客の印象を形づくる要素を指す。この節の冒頭の定義は、両者を重ねている。ゴフマン原著「Front」を参照。 ↑

  5. 原文の人名は「中野牧」だが、中野収の「カプセル型人間」論を指すと考えられる。小川博司「ポピュラー音楽の変容」37頁を参照。本文は「容器人」という中国語の呼称を使った著者の要約で、中野の原文の引用ではない。 ↑

  6. 原文に併記された中国語訳は「この小さな劇場から出られず、我に返れば逃げたいばかりだ/私たちはすべての役を演じ、エンドロールへ向かって二度と戻らない/さあ、誰もが命懸けで演じよう、傍観者などいない」という意味。原詞の「全員が演じていた」とは異なり「すべての役を演じる」とし、引き返せないという意味も加わっている。日本語歌詞を参照。 ↑

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