
関心領域:ACG文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感があふれて止まらない、周縁の観察者。
钟先生を讃えよ。
この記事には『政宗くん』と『ゴブスレ』の大量のネタバレが含まれます。お読みになる際はご注意ください。

アニメや漫画、小説をいろいろ見たり読んだりしてきた人なら、作品づくりのお約束や「定型」にもなじみがあるだろう。鍵と錠を絆の象徴にする物語にせよ、少年が少女たちと出会う型にせよ、転生ものや性別が変わる物語にせよ、作り手は飽きもせず、ひと目でわかるお約束を次々と盛り込んでくる。それを通じて、この作品の本筋や結末の方向、どんな層に向けた作品なのか、おおよその感情の基調まで教えてくれるのだ。同時に、お約束は作品の文脈へと誘う案内役でもある。作者の企みにまんまと乗せられ、作品世界に浸るうちに、最初はみんなで馬鹿にしていたベタな設定も忘れてしまう(「真香――結局ハマるんだよな!」)。こうした定型の一部には「王道」という札がつく。その型が市場で広く支持され、認められているということだ。
一方、定型の存在は、批評家がテクストを分析するための道も開いてくれる。こうしたおなじみの型が読者の鑑賞の枠組みに深く刻まれていなければ、また、こうした定型が作品の基本的な構造を定めていなければ、分析は概念の多義性や解釈の多様性に幾重にも阻まれるだろう。なにしろ、どんなに素朴な視聴者でも、『Re:ゼロから始める異世界生活』は異世界転生系で、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』は恋愛臭のきついロボットアニメだとわかる。ならば、その要素をじっくり論じてみてもよいはずだ。

こうしたお約束や定型について、おおよその共通理解があるなら、そこから代表的なものを取り出して分析できる。それがこの記事でやりたいことだ。数ある定型のなかでも、「復讐劇」はひときわ抜きん出ているように思う。作品全体の基調であれ、特定のエピソードの仕掛けであれ、復讐劇には見どころのある作品が多い。なぜか。「復讐」は、それだけで和解しがたい対立を示すばかりか、その対立における「復讐する側」と「復讐される側」をくっきりと分け、人物関係を明快に組み立てやすくしてくれる。腕のある作者なら、復讐劇を通して、人物心理における欲望と承認の弁証法にまで踏み込むことができる。みんな大好きな「勇者の闇堕ち」などがそうだ。こうした独自の強みのおかげで、この定型は取り組みやすいうえ、到達できる水準も思いのほか高い。
もちろん、概念としての復讐が示すのは、あくまで主体と客体の関係にすぎない。作品の構造ではなく、物語の内側から捉えるだけなら、主人公同士、あるいは主人公と敵との敵対的な態度を示すだけで、私たちが得るのも、またひとつ心をかき乱される感情体験にとどまる。(父親を殺された誰かが、その仇を討ちに行く。あの子に気持ちを傷つけられたから、仕返しに彼女の気持ちを傷つけてやる。殺人犯である私の父があなたを監禁したことがあり、そのために私とあなたの関係は曖昧で、険しいものになっている。)人物同士のせめぎ合いのほうが、テクストそのものを考えるより味わい深いこともある。だが、単なる「体験」ではなく、人物関係の構造と叙述構造を通して作品を理解すれば、どのヒロインを推すかという余計な派閥争いをいくらか避けられるだけでなく、作品と人物のあいだの構造的な緊張から、このモデルの「残酷さ」をよりよく感じ取れるのではないか。ここでは、まもなくアニメが放送される『ゴブリンスレイヤー』と、先月末に完結したばかりの漫画『政宗くんのリベンジ』を取り上げ、叙述構造と人物関係の構造を分析してみたい。
叙述構造――復讐劇の象徴的標識と「遡行」
分析に入る前に、少し退屈かもしれないが、概念を整理しておこう。復讐劇は、まず「劇」である。ここではそれを、物語を形づくるひとつの展開として捉える。つまり、ある筋の主軸にもなれば、作品のすべての筋を貫く核にもなる。一方、「復讐」が関わるのは、二つの主体のあいだで「恩」と「恨み」が生じ、解消される過程だ。その恩と恨みの弁証法的な動きにこそ、物語性がある。復讐には必ず、口にするのもつらい悲しい記憶と、その過去の経験を土台に、時空を越えて「現在」へと至る一連の現実の行動がつきまとう。
ここでは時間と空間という二つの軸から、「復讐」を考えてみたい。ふつうに考えれば、まず、復讐には過去から持ち越された恨みがある。恨みとは、他の主体によって自分に残された傷跡であると同時に、その痛みを打ち消すため、傷つけた相手へと向かう攻撃的な傾向でもある。次に、復讐は特定の空間に結びついている。傷を残すことも復讐することも、必ずひとつの共時的な構造のなかで起こり、特定の場面と結びついている。『ゴブスレ』なら主人公が姉の殺害を目撃した場所、『政宗くん』なら、幼く太っていた政宗が「愛姫」に振られたときに立っていた洋館の窓の下だ。しかもそこでは、特定の問題が解けないまま残り、作品全体、あるいは一部のエピソードの構成を貫いている。精神分析家は、こうした通常の理解からさらに一歩踏み込みたがる。復讐とは、自分自身と、自分に向き合う自己との和解しがたい矛盾でもある。それが善と悪の二項対立という形でテクストに現れれば、おなじみの、勇者が邪悪な竜を倒す物語となる。自己を保とうとする姿としてテクストを貫けば、強迫症の実存的な旅路となる(マクベス効果)。この一般化された復讐劇のモデルが、欲望の構造を分析する手がかりになる。これについては後半で詳しく述べよう。

復讐の物語性には、行動のつながりと断絶、すなわち歴史のつながりと断絶が含まれている。いじめられた過去と復讐の歩みは、切れたようで切れておらず、いつまでも絡み合う。復讐劇が始まると、二本の筋が同時に動き出す。ひとつは「過去形」で語られる主人公の挫折、もうひとつは、喉に小骨が刺さったような思いを抱える主人公の、「現在進行形」の復讐だ。これによって、本筋における主人公と「敵」の対立が明らかになると同時に、「挿叙」が入り込む条件も整う。そして物語の仕掛けとして見れば、その「小骨」は、ふだん私たちがよく使う言葉では伏線に近い。これが復讐劇を成り立たせる鍵となる。
優れた作品における悪役の名誉回復は、最小単位の「復讐劇」として理解できる。この点を理解するには、復讐を読者の感情移入に対する、悪役からのメタ的な復讐と考えてほしい。巧みな作品は、悪役への見方を変える前に、まず「小骨」となる引っ掛かりをひとつ用意しておく。悪役の過去にはまだ明かされていない事情があると、読者に知らせるのだ。そうして悪役が退場する間際に、読者はその小骨を通じて、切り離されていた悪役の時間と空間を再びつなぎ合わせる。悪役の苦衷、そこへ至るまでの歴史の積み重ね、そしてテクストのなかで悲劇的な権力関係のどこに置かれていたかを理解し、ついには納得する。悪役の姿も生き生きと立ち上がってくる。ここで小骨が果たすのが、重要な「再埋め込み」の役割だ。名誉回復のために示される「過去形」の悪役と、「現在形」の悪役をつなぐことで、いかにも無理やりな展開になるのを防ぐ。逆にこの標識がなければ、読者は名誉回復のくだりで、過去と現在の悪役を結びつけることができない。(もちろん、悪役の名誉回復などまったく気にしない造形もある。『ダンガンロンパ』の江ノ島盾子にとって、絶望は絶望であって、過去へ遡れば説明できる何か別のものではない。)

ここからは「小骨」を、もう少し正式な言葉――象徴的標識――に置き換えよう。では、この象徴的標識は具体的にどんな形でテクストに現れるのか。復讐には、二つの主体のあいだの恩と恨みが時間と空間のなかで断たれ、受け継がれることが含まれる。生身の人間にとって、その連続性を保つ最もわかりやすい標識は、自分の身体だ。たとえば、子どものころの喧嘩でできた傷跡や、妊娠・出産を経て女性の体に残る妊娠線がそうである。『政宗くんのリベンジ』では、主人公の乙女向け作品に登場する美青年のような顔立ちと、背が高く引き締まった体が、最も明白な象徴的標識になっている。今の政宗を外から見ているだけでは、以前どんな体をしていたのかはわからず、愛姫に復讐しようとする動機も理解できない。だが政宗が主人公として描かれるからこそ、私たちはその身体――漫画が描く、痩せた姿と太った姿の対比――を通して、愛姫への復讐の確かな根拠と、その決意を見いだせる。読者には、期待どおりのうれしい驚きももたらされる。(デブオタが長身・金持ち・イケメンに変身して、美少女にリベンジ。爽快だろ?)同じように、『ゴブリンスレイヤー』の主人公がまとう、毛や血がこびりついて悪臭を放つ鎧と、意図的に顔を隠した姿もまた、復讐の核心にある結び目を強く指し示している。表現の手法という点では、さらに深く人物の心理と欲望の構図へ踏み込んでいる。

画像内の中国語の訳:「だんだん楽しくなってくる」
もうひとつの明白な象徴的標識が、人物の記憶だ。記憶と身体は、内側と外側の二つの面をなす。特定の記憶は身体像と切り離せないことも多く、それゆえ「身体記憶」という言い方もある。それでもここで区別するのは、小説や漫画の表現において、記憶の描写には、身体像を示すよりも時間と紙幅を要するからだ。身体像ならひとつのクローズアップで表せる内容も、記憶として描くなら過去の時間と空間をある程度まとまった形で示し、本来の意味での挿叙を成り立たせなければならない。復讐劇で記憶が現れるときには、しばしば主人公の激しい感情の反応が伴う。そして転移の対象が復讐の核心と結びつけられ、本筋が収束へと向かう。回想が現れたということは、その時、その場所、その状況に、復讐を再び呼び起こす条件がすでにそろっているということでもある。
最後に、第三の象徴的標識もある。自分とは異質でありながら、外から押しつけられた物や言葉の記号だ。これも、記憶に伴って現れることが多い。たとえば傷跡は、自分の身体で感じるかぎりでは、身体そのものが象徴的標識となっている。一方、外から見える印として捉えれば、物の記号として働く象徴的標識ともいえる。そして最も典型的な例が言葉だ。『政宗くんのリベンジ』の「豚足」(画像の中国語では「猪脚」)という言葉もまた、政宗を絶えず復讐へと駆り立てる、記号としての象徴的標識である。

画像内の中国語の訳:「あなたみたいな人を好きにはならない」「豚足」
このように区別し、結びつけてみると、象徴的標識が復讐関係のなかで、時間と空間をつなぐ結び目として働くことがわかる。もうひとつ注意したいのは、復讐劇の物語が大きく動き出すきっかけは、すべて復讐という対立を軸にしていることだ。そこでは、過去に生じた衝動がいったん停止し、それが激しい形であれ穏やかな形であれ、「現在形」で再開されることになる。復讐の行動は、長いあいだ中断されていることが多い。誰かが「私」の仲間を殺し、怒った私がその場で相手を殺す。そんなごく短い応酬だけでは、まだ「復讐劇」とはいえない。象徴的標識を土台として時空が分かれるからこそ、物語は続き、核心の対立から枝を伸ばして、複雑な人間関係のもつれを取り込める。その結果、復讐はいつも「遅延された否定」として引き延ばされることになる。通常、復讐劇が終わりに近づくと、象徴的標識は自ら退場することで、分かれていた時間と空間を再びひとつにする。過去へと立ち返り、断たれた時空を結び直すこの動きを、ここでは「遡行」と呼ぼう。遡行は、復讐の環を閉じること、すなわち恩と恨みの「和解」を意味する。その代償となるのは、たいてい象徴的標識だ。『政宗くんのリベンジ』では、愛姫が好きだった政宗になるために、体重管理をやめて彼女の作ったお菓子を食べようとすること、そして最終話のひとつ前で記憶が再現されることが、それに当たる。『ゴブスレ』における遡行の可能性としては、主人公の顔が多少なりともあらわになることや、仲間との充実した新しい記憶が、姉を殺された屈辱的な記憶の象徴性を少しずつ解いていくことが考えられる。
作品の叙述は、恩と恨みの関係を通して、時間と空間の「脱埋め込み」を行う。対立は一度にできあがるものではない。一方では物語を展開させる前提として、物語を引き延ばす役割を担い、他方では作品を続ける必要があるからこそ生じる結果でもある。象徴的標識はその時間と空間を背負い、復讐を「現在進行形」の物語へと持ち込む。作者が物語の環を閉じようとすれば、象徴的標識は最もふさわしいときに、自らの象徴性を犠牲にして遡行を成し遂げる。もっとも、ダンジョンRPGやポストモダンの通俗喜劇には、そもそも物語の環を閉じるということがない。その場合、「復讐」は主体の享楽に沿って、果てしなく続いていくことができる。ただし、それが読者の喜ぶ展開だとは限らない。ここで復讐が担うのは永遠の快感であり、それは主体が完全な復讐は不可能だと信じているからこそ持続する。したがって遅延は、物語の筋だけが生むものではなく、人物の心理構造にある、目的のないある種の期待でもある。そう考えるなら、復讐劇の遅延性は、人物の欲望構造から理解することもできる。
欲望構造――ハムレットと復讐の欲望
復讐劇の叙述構造が果たす独特の役割のほかに、先ほどもうひとつ、精神分析家が好んで取り上げる構造に触れた。欲望構造である。叙述構造の分析が、主要人物の時間と空間を物語の筋がどう分離し、統合するかを明らかにするものなら、欲望構造の分析は、復讐する側とされる側の関係の形へ、さらに一歩踏み込むものだ。この人物関係の構造は、作品の成り立ちに大きな役割を果たしている。叙述構造と並べて論じるのも、そのためである。
シェイクスピアの代表的な悲劇『ハムレット』は、あらゆる復讐劇を分析する入口を与えてくれる。ドイツに留学していたデンマーク王子ハムレットは、父の訃報を聞き、葬儀のため帰国する。ところが叔父は王位を継いだだけでなく、葬儀から一か月後にはハムレットの母を妻に迎え、継父となっていた。世界がひっくり返るような一連の変化に、ハムレットの思考と感情は混乱する。やがて父の亡霊が突然現れ、叔父に毒殺されたことを告げ、復讐を託す。ここで、ハムレットの心にあった激しい矛盾が一気に噴き出す。一方では、無意識の領域に抑圧されていたエディプス的願望を叔父が実現してしまっている。他方では、父の法への同一化が、復讐を命じる言葉を通して、叔父への憎悪を生み出している。「復讐」はたちまち、ハムレットの症状の結び目となる。

復讐をめぐるハムレットの内面の矛盾を説明するため、フロイトは彼の抑うつ的な態度を強調した。愛する人が死ぬと、人はふつう、時間をかけて、その人に転移していたリビドーを少しずつ引き戻し、再び自分自身で満ち足りるようになる。愛する人の存在は、記憶のなかで生き続ける。この過程を、フロイトは「喪」(あるいは「哀悼」)と呼ぶ。ハムレットの問題は、この喪の仕事を終えるだけの時間も可能性も、十分には与えられなかったことにある。叔父があっという間に継父となったため、象徴的な父はいまだ死んでいないかのようなのだ。言い換えれば、ハムレットは悼む対象を失い、ついには自分自身を悼むほかなくなった(抑うつ症の構造)。
ラカンは、この「遅延された復讐」をさらに説明する。エディプス・コンプレックスに従えば、ハムレットが原初に失った対象は、自分のファルスである。彼は父が自分のファルスを持っていると思い、父に自分を重ね、同一化を図る。そして象徴秩序のもとで、父の法から、いずれは母のような女性を妻にできるという約束を得る。父の死は、ファルスを「持つ」者が去ったことを意味する。ゆえに、父を悼むことには、原初に失った対象――ファルス――を悼むことも伴う(父を失った母を、私は悼む)。ところが、ハムレットが喪に服するあいだに、父を陥れた叔父が、ハムレットの父になってしまう。象徴的なファルスが、なんと再び「現前」するのだ。そこには逆説がある。母なる大他者、すなわち母親の欲望は、いったいどうなっているのか。母(ファルス)の欲望が父に向いているのなら、どうして母は平然と叔父と結婚できるのか。自分の継父はいったいどこから来たのか。鋭敏なラカンは、ここに問題の核心を見いだす。ハムレットの悲劇は、これらの問いに答えられないことではない。問いが生まれること自体が悲劇なのだ。ハムレットは初めから終わりまで、自分の欲望と大他者(母)の欲望を区別できない。そのため、激しい内的葛藤を抱えた神経症の状態へと陥り、抑うつ症の構造を帯びるのである。

「父が殺された」といった危機は、主体がエディプスの過程をどこまで完了しているかを見る機会となる。多くの復讐劇が、こうした原初的なトラウマを主人公の幼少期に置きたがる。天真爛漫で、ときには幼稚でもある主人公は、想像界の幸福を保つため、大他者に助けを求め、自分の欲望を満たす応答を求め続ける。ファルスを持っているふりをするのだ。この大他者に当たるのが、ゴブリンスレイヤーにとっての「姉」であり、太っていた政宗にとっての幼い愛姫である。だが、突然の変事が、この儚い欲望の幻想を打ち砕く。ゴブリンの大群が静かな村を襲い、ゴブリンスレイヤーは家族が辱められ、殺されるのを目の当たりにする。「愛姫」は家の窓から政宗を「豚足」とひどく罵り、もう会いに来るなと突き放す。同時に、主人公たちの復讐の意識が目覚める際にも、それぞれ決定的なきっかけがある。ゴブリンスレイヤーは洞窟で恐ろしい「師」に出会い、政宗は故郷に帰って、厳格な祖父のもとで鍛えられる。
ゴブリンスレイヤーの欲望構造の働き方は、西洋風のファンタジーでよく見られるものだ。大筋では「勇者が邪悪な竜を倒す」物語である。ゴブリンが大切な人を辱め、心のなかで完全だった想像の世界は砕け散る。原初の対象である姉を失った主人公は、極めて苦しい喪の過程に入る。ただしハムレットと違い、彼の喪は中断されない。主人公は姉を悼み続けることができるため、行動もハムレットより迷いがない。その論理は、姉を幸福にするには、姉を不幸にした存在を殺さなければならず、それには疑いの余地がない、というものだ。一方、ハムレットと同じなのは、この状態が自分の欲望と大他者の欲望を分けられないことの帰結だという点である。姉は主人公の記憶のなかで生き続ける。ゆえに、ゴブリンを虐殺するたびに、彼は記憶にとどまる姉を慰める。だが主人公自身は、欲望の抜け殻だ。姉のためにある自分のほかには、何者でもないのである。この特徴は、意図的であれ無意識であれ、主人公の素顔をまったく描かないという表現の手法に現れている。

画像内の中国語の訳:「あるいは、自分の姉が襲われ、犯され、玩具のように踏みにじられて殺されるところを見たら。やつらは大笑いし、好き勝手に振る舞い、家族の遺体を放り出している。そんな光景を、最初から最後まで見ていたら……」
主体の欲望が大他者の欲望に置き換わったあと、復讐劇に残された仕事は、主体の幻想を完成させることだ。主人公が姉の欲望を自分の欲望と同一視するなら、それに対応する享楽の仕組みも作動させなければならない。自分の力が足りないという認識――無力なまま、ひとりで復讐することへの恐怖――を乗り越えずにはいられないのだ。この「恐れないこと」は、無意識における全面的な恐怖を前提としている。作中では、ぼろぼろになった主人公が「師」に出会い、殴打され、罵倒されたあとの心境の変化として表れる。師は彼の無能さと弱さを責め続け、主人公は自分を抑圧し続ける。つまり、「ゴブリンを根絶することは不可能だ」という認識を抑圧する。根絶は不可能だという認識は、主体の本当の欲望につながっており、逃避の仕組みとして働く。こうして主人公は、徹底して劣等感に囚われた者となり、幻想を築くために残されていた最後の可能性をも、力ずくで打ち破ってしまう。

画像内の中国語の訳:「武器を手に取り、自分を鍛えなければならない。成長し続ける。やつらを見つけ、恨みを晴らすまで。捜し続け、追い続け、見つけたら殺す。全力を尽くして、追い払い、殺し尽くす。決して逃さない、一匹たりとも」
ここでゴブリンスレイヤーは、その精神の構成において、ナチスに似た構造を帯びているように見える。その論理はこうだ。私の欲望と大他者の欲望が混ざり合い、異民族が私の欲望を満たす享楽を占有している。だから私は立ち上がらなければならない。
しかし、ナチスの欲望の仕組みとは異なる点もある。小説の後半を読むと明らかなように、ゴブリンスレイヤーの世界には、強大な魔王も、さまざまな英雄豪傑もいる。最弱のゴブリンへの復讐は、この物語世界で中心となる復讐の物語からは外れている。危険に満ち、秩序の崩れたファンタジー世界では、ゴブリンの大群による襲撃より残酷な場面が、刻一刻と繰り広げられているだろう。だが、それは主人公には関係がない。主人公の欲望は、結局のところ悲劇の欲望なのだ。その悲劇性は、ナチスにとっての第二次世界大戦のような世界規模の物語を持たず、ハムレットのように国内や国家間の対立と衝突にも関わらないところにある。作中では取るに足りず、壮大な物語と比べれば、ひどく平凡ですらある。
作品の外でも、サブカルチャーの産物であるこの作品は、主流の文化圏の周縁に置かれている。私たちは作品の視点に導かれて異世界の片隅へ入り込み、弱い個人の抗いには終わりがないという悲劇性をおぼろげに感じ取りながら、その悲劇性から目をそらすことを選ぶ。彼はファンタジー世界にいる、近代性の予言者であり、一個の駒だ。主流の言説のなかで声を失った個人は、どう復讐を実践し、どう欲望に翻弄されるのか。テクストの外にいる読者に対して、彼は実存主義的な重要な答えを示す。同時に、そこには実存主義に反する欲望の構造も現れている。私の欲望は私の欲望ではなく、大他者の欲望なのだ。ゴブリン狩りのゲームに終わりはなく、取るに足りない者の声は届かない。私たちは無意識にそれを知っているからこそ、何度もの危うい逆転のなかで、ゴブリンスレイヤーと同じ快感を味わえるのだろう。ここには文化的再帰性が表れている。
こうした、一人の復讐に焦点を絞る「個別化された語り」の緊張は、ラブコメでは軽やかに表現され、「残酷さ」のもう一方の面である「甘さ」を形づくる。そして、比較的単純な娯楽の形になる。『政宗くんのリベンジ』の復讐の型は、ラブコメによくあるものだ。主人公にとって「仇」である相手が、そのまま「愛する人」でもある(会いたくない相手に限って、顔を合わせるものだ)。政宗の復讐計画も、誰もが好きになるイケメンになって愛姫を惚れさせ、恋が燃え上がったところで振ってやる、というものだった。かつて愛姫が政宗を振ったとき、そこでは役割の分離と置き換えが起きている。「想像的な愛姫」と「象徴的な愛姫」が分離したのだ。前者は政宗を支え、自己愛的な幻想を築く手助けをする欲望の対象であり、後者は「残虐姫」の姿を取った空虚なシニフィアンである。象徴的な愛姫は、自己愛的な幻想に浸る政宗を「殺し」、強引に象徴界へと引きずり込んだ。「豚足」という言葉は、まさに「このデブが、美少女に愛されるなんて夢を見るな」という宣告なのだ。ここで政宗はようやく、自分のファルスが永遠に欠けていることに気づき、恋愛と報復の欲望のゲームを始めたかのようだ。その後の復讐で政宗が試みるのは、復讐の場面の「遡行」である。自己愛的な幻想を実現するため、象徴的な自分、すなわち理性的で目的を持った自分に、政宗への転移にとらわれた愛姫を「殺させる」のだ。

画像内の中国語の訳:「かつては太った豚足だった自分にも、きっとできる。そして、彼女が本気でこの恋にのめり込んだところで、最悪の振り方をしてやる。これを『Dead or Love計画』と名づける!」
物語の巧みなところは、復讐を動かした原初的なトラウマの場面が、そもそも政宗の思っていたとおりではなかったことにある。あのとき政宗を振ったのは、愛姫ではなかった。愛姫に扮した、彼女付きのメイドの吉乃――政宗のいう「師匠」――だったのだ。すると、トラウマの場面ががぜん生き生きと、面白みを帯びてくる。いじめられた政宗は、愛姫の家の門の外で這いつくばり、愛姫を呼んで助けを求める。彼女の部屋の窓辺に、ぼんやりとその影を見つけ、愛姫本人だと思い込む。そして、吉乃が発した、政宗を傷つける言葉を、何も疑わずすべて信じてしまう。復讐そのものをめぐる誤解が、この作品最大の象徴的標識となった。この誤解を解くことが、全編を通じた重要な、隠れた本筋になっている。物語に浸った読者には、たまらない仕掛けだ。

言い換えれば、復讐の発端がすべて誤解だったとしても、それはむしろ「象徴的な愛姫」が存在したことの証明になる。彼女は確かに政宗へ影響を及ぼしたのだから。誤解が解け、「象徴的な愛姫」は確かに殺された。しかし、手を下したのは政宗ではなかった。こうして悲劇的な現実が、政宗の復讐の幻想を打ち砕く。どうしても思い浮かぶのは、カミュの悲劇『誤解』だ。政宗はマルタと同じ、実存をめぐる行き詰まりに直面する。それまで自分がしてきたことは、すべて間違いだった。自分の手で、最も愛する人を復讐の対象という誤った位置に置いてしまったのだ。政宗に必要なのは、現実に粉々に砕かれた自己愛的な幻想を拾い集めることではない。むしろ、この遡行を通じて、過去の自分と和解することである。なぜなら、政宗が復讐の欲望を動かし始めたとき、過去の「想像的な政宗」――自分の本当の欲望に道を開く政宗――は、あの時間と空間に置き去りにされたままになったからだ。今のイケメンの政宗は、太っていた政宗を排除することで幻想を築いている。「復讐する自分」が砕かれたとき、彼は過去の想像的な自分の位置へと戻り、その自分をもう一度受け入れるか、止揚しなければならない。

ここに現れるのが、ラカン派のカウンセラーのいう、想像的な関係によって人物の欲望の結び目を組み直す働き、いわば「母の支え」である。その支えを得ることで、当人は大他者の欲望と自分の欲望を区別できるようになる。『ハムレット』でこの役割を果たすのは、ハムレットの欲望の対象、オフィーリアだ。男性ショーヴィニズムの色濃い『ゴブリンスレイヤー』では、主に各ヒロインがその役割を果たす。もちろん、まずは女神官ちゃんだ。異性愛者の男性である政宗は、復讐が崩れ去った現実に向き合うにあたり、主体としての欲望を立て直す働きを担ってくれる女性を必要としている。愛姫か、吉乃か。

画像内の中国語の訳:「あのね、小さな自分。君の敵は、あの人じゃない。敵はとっくに倒されている」
漫画の終盤の処理は、分析家のこうした予想に、ほとんど完璧に沿っていた。だが、そこで次の問題が生じる。現在の政宗の本当の欲望は、いったい何なのか。過去の「想像的な自分」にとって、欲望が向かう先は間違いなく過去の愛姫だ。その「想像的な自分」を愛していた愛姫である。ここで政宗は「想像的な自分」と出会い、欲望の選択を迫られる。復讐が崩れたことへのヒステリーを選ぶのか、それとも象徴的なものと想像的なものの分離を受け入れるのか。漫画のなかで政宗は、答えを出している。敵はあの人、つまり愛姫ではなく、その敵はとっくに倒されているのだと、幼い自分に伝えるのだ。これは復讐の欲望が偽りだったことを認めるものである。要するに、政宗は復讐をめぐる迷いからすばやく抜け出し、想像的な自分の欲望を受け継いだ。「現在形」のヒステリーのなかで愛する人に寄り添ってもらい、母の支えを得るのではない。幼少期の経験へと遡行することで、現在の欲望へつなぎ直すのである。この不穏な変化は、政宗の欲望が愛姫へと向かおうとしていることを示すように見える。
ところがその直後、この回の終わりに、復讐劇の発端を作り、最後には政宗を好きになった吉乃が現れ、政宗にキスをする。あまりに不意打ちな変化が、読者の思考を断ち切る――どうやら吉乃ルートで決まりっぽい。

画像内の中国語の訳:煽り文「愛姫と吉乃、政宗が選ぶのは!?」
ここは作品後半で最も激しく展開が揺れるところであり、同時に、作者が物語の収束のさせ方を誤ったところでもある。紙幅が足りなかったのか、意図的に小さな「どんでん返し」を仕組んだのかはわからない。ここでは「どんでん返し」を、めまぐるしく変わるテンポで読者を惑わせ、それを見せ場とする叙述の技法、お約束としておこう。だが、時間と空間の関係は、結末まで断たれたままだ。締めくくりのわずか三、四話で、絡まり合う欲望の関係をすべて乱暴にほどこうとした結果、かえって逆効果になっている。愛姫に振られたあとの政宗は、驚くほど平静だ。内面で葛藤する過程は「故郷へ帰る」という出来事ひとつで片づけられ、最終話のひとつ前になってようやく、「想像的な自分」との対話を通して、曖昧な合図が読者に送られる。その回の終わりには、みんなが待ち望んでいた吉乃まで引っ張り出して、切ない恋の芝居を演じさせる。作品の中心人物である政宗の欲望構造から考えれば、この演出の偽りを見抜くのは難しくない。だが叙述構造の側から見れば、ふつうの読者は目の前の画面から受ける刺激を、そのまま受け止める。キスの場面が展開を一気に加速させ、そのあとのどんでん返しが、読者の感情を弄んだのだ。(愛姫派は失恋を悼み始め、吉乃派は自己愛的な幻想を抱き始めていたはずなのに。)

画像内の中国語の訳:「こんなにも気にかかって仕方がない相手は、君だけだ」
政宗の欲望構造とは別に、読者に女性への共感力――フェミニズムの意味での共感力――がいくらかあれば、結末で愛姫と政宗が結ばれるのは、現在の成熟した二人が想像的な関係を築いたからとも、過去の想像的な関係を引き継いだからとも読めるだろう。しかしいずれにせよ、この自己愛的な幻想の成立は、「復讐劇」を「ディズニーのお姫様もの」に置き換えてしまう。政宗になりすました人物が現れる「偽政宗」の事件は、政宗の復讐計画への挑戦だっただけではない。愛姫自身の精神的な成長の歩みでもあり、のちに彼女が見せる、意外なほど大人びた行動への伏線にもなっていた。そのことを見落としてはいけない。つらさをこらえて政宗を振った愛姫は、本来なら、すべてを手放して現実を受け入れる準備ができたはずだ。本来なら、吉乃を祝福し、自立して生きることを学べたはずだ。本来なら、自分の原初的なトラウマを受け入れ、過去の幼さに別れを告げ、男女関係のさまざまな現実を見つめることができたはずだ。ところが、結末の政宗の告白によって、すべてがどういうわけか元の形へ戻ってしまう。
同じように、政宗と恋愛関係を築くことで、「愛姫のために」という大他者の欲望から抜け出すはずだった吉乃は、失恋を悼む過程に入る。もともと自我意識の弱い吉乃は、失恋のあと、いったいどうやって失った恋を手放せるようになるのか。また「愛姫のために」に戻ってしまうのではないか。失った政宗を、いつまでも欲望をかき立てる対象 a として、抑うつ状態の「片思い劇」に入ってしまうのではないか。読者、とりわけ吉乃派には、不安の爆弾が仕掛けられた。短い最終回で恋愛をめぐる筋は再び複雑になり、いったんは比較的はっきりしていた欲望構造が、また結び目を作ってしまったのである。
全体として、『政宗くんのリベンジ』はラブコメが果たすべき仕事をひとつ果たした。「愛し合う二人は結ばれる」ということだ。これはほかの復讐劇、とりわけ『ゴブリンスレイヤー』のようなハードコアな復讐劇が結末を考えるうえでも、いくらかの示唆を与えてくれる。ここまで読んだ人なら、もう気づいているだろう。「恋愛復讐劇」と「ハードコアな復讐劇」が二つの面をなすというのは、互いに相手の欠けているものを持っているからだ。恋愛復讐劇には、決して埋まらない欠如の苦痛と、むなしい追求がない。それが示す未来は想像的で、恋の成就によって閉じる甘い環である。対して、ハードコアな復讐劇には想像的な支えが欠けており、比類のない残酷さと復讐の輪廻が示される。こちらは復讐を繰り返す、苦い閉じた環だ。もちろん、どちらも相手の要素を補うことはできる。先ほどの仮定でいえば、愛姫は政宗を手放したあと、再び彼を受け入れるのではなく、ひとりで長い葛藤を始め、男性に頼らずに自分の運命を自分で動かすことを学ぶ。吉乃と政宗も、結ばれたからといって順風満帆ではなく、感情と考え方の複雑なもつれを抱える。一方、ゴブリンスレイヤーは「恋」をするかもしれない。仲間が自分をどれほど大切にしているかを知り、その思いのなかで自分を受け入れ直し、熱狂的な復讐願望そのものが道徳に背くことを認める必要があるのだ。

画像内の中国語の訳:「たまには、こうして穏やかに過ごすことも考えてみたら。いいものだよ」「穏やかに、か」「うん。そんなに無理しなくてもいいんだよ」
『ゴブリンスレイヤー』には、方向を決める重要な選択が必要だ。『ハムレット』にならって徹底した欲望の悲劇へ向かうのか、それともラブコメの要素を使って王道へ向かうのか。前者に対応するのは、主人公の破滅である。ゴブリンを虐殺する殺し屋は、最後に怪物となる。主人公の欲望の対象であるヒロインは、決定的なときに退場しなければならない。あるいは、初めから終わりまで、その愛で主人公の心を変えられないまま終わることになる。一方、後者に対応するのは、主人公が自分を受け入れることだ。「死んだ人は生き返らない」「ゴブリンを殺し尽くすことはできない」という事実を受け入れる。大切なのは、愛する人や仲間と苦楽をともにすることだ。このときヒロインが担うのは、主人公の心に働きかけ続け、欲望の転移を促す役割である。

画像内の中国語の訳:「ゴブリンスレイヤー、しばらく見なかったな……生きてたのか。どうした……」「みんな、聞いてくれ。頼みたいことがある」
こうしたすべては、やはり『ゴブリンスレイヤー』が叙述構造をどう扱うかにかかっている。主人公は現在の時間と空間のなかで、家族が殺された記憶の「心理劇」を、実際に演じ直せるのか。何らかの契機によって、隠されていた身体像をあらわにし、断たれた時間と空間を結び直せるのか。村の防衛戦の過程で、作品は初めて、主人公が自らの復讐の欲望にある欠如を認める姿を示した。彼は助けを求め始める。そして、他者から承認されるなかで、ある種の喜びを得る。祝勝会では、顔が隠されていること、すなわち象徴的標識としての「消えた顔」が、仲間たちのために、ひととき「消える」。「消えた顔」が消える、つまり顔が「現れる」のだ。この点からいえば、作者には確かに、物語を喜劇的な結末へと導く力がある。

画像内の中国語の訳:「こっちのほうが、ずっと格好いいよ」「そうか」
結び
まとめよう。ひとつの作品には、さまざまな要素の組み合わせからなる、いくつもの創作の定型がある。ここでは「復讐劇」という定型について、叙述構造と欲望構造という二つの分析の視点を示した。叙述構造では、復讐の物語で断たれた時間と空間が、象徴的標識によってどう結ばれるか、また象徴的標識がどう「遡行」を始動させ、「復讐」を決着へと導くかを考える。欲望構造では、『ハムレット』を入口として、復讐劇の人物を動かす心理的な力をさらに論じ、断たれた時間と空間における人物の精神的な歩みをたどった。作品を分析するための新鮮な視点を、あるいは、誰かが見落としていたところに目を向ける機会を、少しでも提供できていればと思う。
さて、愛しの師匠のために、自分もこの間違った恋を悼みに行くとしよう……

編者より:钟先生! 钟先生!