屋頂現視研
← 中国語原文3 分で読了編集プレビュー

回答:「网抑云」というネタをどう思う?

ソンタグの『隠喩としての病い』から、音楽サービスの憂うつなコメントをからかう「网抑云」を考える。ネット上でうつを語ることを通して、社会的な意味、感情の経験、身体の状態が互いに変わっていくさまを論じ、その嘲笑が覆い隠す社会構造を問う。

著者: 实在狗子翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

实在狗子のアイコン。エジプト風の頭飾りをつけた犬の顔と、背景のピラミッド
实在狗子

世界のない時代に、無意味な愛を広める。

1

スーザン・ソンタグの『隠喩としての病い』ほど、「网抑云」という現象を説明するのにぴったりの本はない。「网抑云」(ワンイーユン)は、中国の音楽サービス「网易云音乐」のコメント欄に寄せられる憂うつな投稿や、その投稿者をからかう呼び名だ。略称「网易云」の「易」を、同音で「うつ」を表す「抑郁」の「抑」に替えている。ソンタグが分析したのは十九世紀の結核である。当時、結核は広く流行していたが、広まっていたのはこの病気というより、この病気の意味だった。簡単に言えば、結核はアクセサリーのようなもので、結核になるのはとても「ロマンチック」で「格好いい」ことだと思われていた。こうした状況について、ソンタグは言う。「健康であることはかえって平凡に、さらには俗悪にさえなった。」

この結核を今日のうつ病に置き換えても、まったく違和感がないことに気づく。今では多くの人が、うつになるのは格好よく、他人とは違う自分になれることだと思っている。うつの人は自殺を望む。ソンタグは言う。「結核による死は、ふつう、感情が完全に昇華されることに重きを置いて描かれる。そこには、結核が患者をセクシーにする病気だとも考えられていたことが示唆されている。」

ソンタグは、結核には豊かな隠喩が含まれていると指摘した。もちろん、うつ病の隠喩はそれ以上に多いはずだ。うつ病、太宰治、「生れて、すみません。」、自殺したい、抑圧やいじめを受けている、などなど。

『隠喩としての病い』の序文でソンタグが私たちに教えてくれるのは、こういうことだ。一方では、病気を健全に捉える方法の一つは、病気について隠喩的に考えることに抵抗することだ。他方では、病気を隠喩的に捉えるのは、社会からそう強いられるところが大きい。私が考えまいとしても、そうはいかない。

しかし、うつ病とうつ病の隠喩を切り離して考えることは不可能だ。うつ病そのものが隠喩だからである。ソンタグの本の題名をひっくり返せば、うつ病をこう言い表せる。『病いとしての隠喩』。

2

では、ここで一つ問題がある。うつ病とは何か。うつ病は、何らかの明確な指標で判定できる病気ではない。その状態自体が非常に曖昧なのだ。ジェニファー・ラデンは『憂うつな心の変調――メランコリーとうつをめぐる論集』(Moody Minds Distempered: Essays on Melancholy and Depression、題名は仮訳)の序論で、うつ病の定義をめぐる問題は曖昧で、はっきりした答えのない問いが数多くあると述べている。「基本概念の曖昧さは、現代の理解と研究の基盤に、いまだ重大な欠陥があることを示している。」

ラデンはさらに、こう明言している。「二十世紀のうつ病理解を支える二つの中心的な要素――喪失と自尊心の低下――は、臨床観察よりもむしろ、フロイトの理論に含まれる観念に由来している。」

だから、うつ病は風邪と同じように、薬で治療すれば治る病気だという見方は、うつ病を論じる文脈ではふさわしくない。「网抑云」を論じるなら、なおさらだ。フロイトの文脈における病と、従来の医学における病は、まったく別の概念なのである。

ネット上で病気でもないのに苦しがるのは、一種の病気なのかもしれない。だが、安全な場所からその振る舞いを批判し、本当のうつ病ならすぐに治療を受けるべきだ、すぐに治されるべきだと考えるのも、やはり正常な考えとは言えない。うつ病をただちに消し去るべきだと考えるのは、どんな人なのか。たとえば『うつ病に抗して』(Against Depression、題名は仮訳)を書いたクレイマーが思い描くユートピアでは、遺伝子工学の力と、社会を設計する技術者たちの努力によって、うつ病はハンセン病や黒死病のように消えてなくなる。正直なところ、彼のこうした『すばらしい新世界』めいた発想でいちばん恐ろしいのは、うつ病を黒死病やハンセン病と同じ病気として扱っているところだ。これはまさに、今「网抑云」に反対するネットの人々の多くが抱く見方でもある。前向きさや健全さをよしとする「正能量」を掲げる人々だ。彼らは、自分たちの論理が最終的に私たちをどこへ連れていくのか、わかっていない。行き着く先は『PSYCHO-PASS サイコパス』のように「色相」の測定が求められる、つまり「正常な感情」を持っていることを確かめ、そうでなければ排除するディストピア社会なのだ。

3

だが、気分にはどうしても制御できない部分がある。ハイデガーも、気分は私たちの所有物ではなく、私たちの外にあって、しかも至るところにあるものだと述べている。「网抑云」に引きつければ、こう考えられる。「网抑云」と呼ばれる人がうつを装えるとしても、装っているうちに、その人の「本当の」感情にも何らかの不可逆的な影響が及ぶのだ。

前にも言ったように、「网抑云」は通常の病気という概念を脱構築する。病気でもないのに苦しがる「网抑云」の人を考えてみよう。一方では、その人は病気ではない。他方では、病気でもないのに苦しがるのも正常な振る舞いではない。つまり、病気でもないのに苦しがること自体も、一種の病気なのだ。この病の場合、広まるのは、身体的な病ではなく、隠喩的な意味での病である。しかも、ここには弁証法的な反転もある。隠喩的な意味での病が広まる過程で、そこから身体的な意味での病が生まれるのだ。

純粋に身体的な意味での病などない、と言える。人はつねに、その病に外から「意味」を与えるからだ。同時に、純粋に隠喩的な病もない。隠喩も意味も感情も、身体の状態と結びついているからだ。このことは、言葉を使える地球人なら誰でも実感できると私は思う。私たちはロボットではないのだから。

だから、「网抑云」を罵ったり嘲笑したりするより、それを生み出した構造を探るほうがいい。「网抑云」が何もないところから生まれたのでないことは、明らかなのだから。それに、「网抑云」を罵り、嘲笑するうちに、その罵倒から本物の「网抑云」が大勢生まれてくるかもしれない。

3.5

「正常な人間」の想像力は、定義からして悲惨なものだ。無知は、正常な人間を成り立たせる不可欠な要素の一つである。簡単に言えば、バカなのだ。うつ病は、あらかじめ存在する心理状態とは限らない。うつめいたことを口にすれば、たとえ格好をつけるためであっても、「本当の」うつ病になる可能性がある。ウィトゲンシュタインは言う。人は考えてから話すのではない。ただ話すのだ。話すこと自体が人に考えさせる。同じことが、うつ病にも当てはまる。人はまずうつ病になって、それを言葉にするとは限らない。ただ自分はうつ病だと言い、そう言うことを通してうつになることもある。ただ言うという行為にも、状態を生み出す働き、すなわち遂行性(創造性)があるのだ。問題は、その人たちがそんなことを言って何をしたいのかではない。そもそも、なぜそんなことを言うようになったのか、である。

正常な人間は、はっきり言えば「うつ病」を正常化したいのだ。判定できる基準を定め、そのうえで治療を通じて、うつ病の人を「正常な人間」に作り替えたい。病気なら治療しろ、病気でないなら黙れ。この人たちの貧しい思考には、いかなる「他者」も入り込む余地がない。だから、完全に正常でも、完全にうつでもない「网抑云」が現れると、神経を逆なでされる。なぜ「网抑云」はこれほど彼らを刺激するのか。「网抑云」は、一方では治療を必要とせず、他方では完全に「正常」とも言えそうにないからだ。これが、病気である(=治療を受けるべき)/病気でない(=正常な人間)という、普通の人の二項対立を脱構築する。彼らはこういう人を何らかの枠に分類しなければならない。たとえば、気取った文芸好きの若者という枠に。そして、そのうえで何度か踏みつけるのだ。

4

では、なぜ「网抑云」は社会現象にまでなったのか。それは、人々の原子化と大きく関わっている。つまり、社会が発展するにつれて、人々のネットの外での交流はかえって減っている。また、中国の文化には、日本の文化と同じように、ある種の憂うつさがある(私たちの国、中国の古典詩歌や文学を見てほしい。太宰治が中国でどれほど人気を集めているかを見てほしい)。人々のネットの外での交流が減り、ネット上の交流が増える。すると、負の感情を通じた交流が生まれる。否定的な気持ちを吐き出す交流、互いにつらい思いを語り、愚痴をこぼし合う交流だ。「网抑云」の広がりは、この延長線上で考えるべきなのだ。

こうした交流を抑え込むよりも、そのための空間をもっと広げたほうがいい。ある学者が言っていた。「うつは誰にも避けられない。」ある意味では、うつは今の時代精神なのだ。リースマンは『孤独な群衆』で、アメリカに見られる一種の普遍的なうつについて語っている。以前のような確かな安心感がなくなり、私たちを支えてくれる全能の父や神は、もういない。

もちろん、うつが時代精神だと言うのは、うつが「正しい」と言うことではない。うつを嘲笑するすべての人に、こう問いかけたいのだ。あなたは本当に、この先自分がうつにならないと言い切れるのか。あなたの周りにいる人たちは、本当にみんな幸せそうに見えるのか。狂ったふりや愚かなふりをする道化のほうが、利口ぶる愚者よりも、はるかに真実味があり、役にも立つことが多い。

本文終わり

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。