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三秋縋の限界――「白夜行」型の関係を読み直す

三秋縋の作品における死、自由、孤独、無意味を手がかりに、「白夜行」型の愛がなぜ心を動かすのかを考える。限界状況、実存的交わり、他者の倫理から読み直し、実存主義的なライト文芸の定型を問う。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

钟子默の著者アイコン。傘を差した少女のイラスト
钟子默

関心領域:アニメ・漫画・ゲーム文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感があふれすぎる、周縁の観察者。

原文約8,000字。

以下、『三日間の幸福』『君の膵臓をたべたい』『あおぞらとくもりぞら』の重大なネタバレを含みます。ご注意ください。

はじめに

日本の純愛ものは、いつまでも話題が尽きない。純愛を描く喜劇が、道徳の厳粛さや人生の有限性を取り除いた美的空間を私たちに与えるのだとすれば、悲劇はそこへ道徳が乱暴に踏み込むのを、いつも許しすぎる。限界があることを絶えず読者に思い知らせ、その限界とのせめぎ合いのなかで、真実の愛を求める営みへと私たちを引き込むのだ。私は「関係形式の分析に向けて(上)」という文章で、登場人物の関係を捉える「白夜行」型というモデルを提案した。追われる恋人同士のように、互いを愛し、苦楽を共にする愛のあり方を指すもので、その関係がなぜ人の心を動かすのかを、ボードレールの美学と構造的な視点から素朴に説明した。主流の純愛悲劇における人物関係は、この枠組みによく当てはまる。

とはいえ、私は「白夜行」型の関係を分析する枠組みを作りはしたものの、詳しく読み解くことはせず、感情への目配りはなおさら足りなかった。このモデルには、まだ掘り下げるべき哲学的な含意がある。そして、もっと重要なのは、日本の実存主義的な美学と深く結びついていることだ。だからこそ、いくつかの典型的な作品にもっと密着して考えることで、その美学の強みと弱みを捉えられるはずだ。ここ数年、ネット上のブログを舞台に活動してきた作家、三秋縋の人気が高まっている。また中国では少し前に、住野よるの小説を原作とする映画『君の膵臓をたべたい』が公開され、注目を集めた。こうしたことも、「白夜行」型を読み直すいまの意義につながっている。

本稿も、この道筋をたどる。三秋縋のいくつかの作品の物語とモチーフから出発し、ごく普通の人である主人公たちが直面する、死、自由、孤独、無意味といった限界状況を考える。なぜそれらが「白夜行」型の関係の鍵となるのか、そして、そこから「愛とは何か」という問いがどう生まれるのかを説明したい。最後には批判的な視点に戻り、三秋縋の作品で繰り返される型に読者が飽きることと、『君の膵臓をたべたい』のいくつかの失敗について、「揚げ足取り」をすることになる。

空と雲を背に、ガードレールのそばに立つ二人。白黒のイラスト

一、限界状況

死に向き合うときに初めて、人間の自己は生まれる。

——聖アウグスティヌスに帰される言葉(中国語からの訳)

「白夜行」型の関係が続くためには、二つの主体を、乗り越えがたい圧迫にさらす必要がある。厳密にいえば、三秋縋の作品にも、ときおり絶望を突き破る「唐突なロマン主義的飛躍」はある。「現実」の理解も、周縁にいる個人同士のあいだにとどまり、周縁に置かれた集団を全体として捉える視点に乏しい。ただ、そこで杉井光のような作家と比べるのは、酷だろう。モデルの典型性という点では、三秋縋の作品は格好の例となる。死、自由、実存的孤独、無意味という、実存主義の四つの基本的な命題を、いつも中心に据えているからだ。最もよく知られた代表作『三日間の幸福』には、いささか古めかしい設定が登場する。寿命を売る、というものだ。この設定によって、読者には初めから、主人公の人生に課された限度が見えている。平凡さの下に隠れた「限界状況」を、うまく捉えているのだ。すなわち、突然降りかかる災難であり、主体に内在する有限性ゆえに、絶対に乗り越えられない状況である。

街並みを見下ろす場所にいる『三日間の幸福』の二人

集団からの非難に追い詰められた個人は、孤独という有限性に直面する。魔王を失った勇者は、存在意義の有限性に直面する。『三日間の幸福』は、現実の都市生活を送る個人を描くことで、存在の価値をめぐる議論へ踏み込んでいく。主人公のクスノキは、生きていても意味がないと感じ、残り三十年の寿命を売り払い、思う存分楽しむために三か月だけを残す。そのあいだ、彼は監視員のミヤギと暮らす。彼女もまた、自分の「時間」を売った人間だ。クスノキがやり残してきたことに一つずつ向き合ううちに、二人は互いへの理解を深め、恋に落ちる。ついに彼は暗い過去から抜け出し、自分の存在する意味を見いだす。結末近くでは、価値あるものとなった最後の数十日の寿命を売り、その金でミヤギを自由の身にしようと決意する。一方のミヤギも、クスノキと同じように、残された数十年の寿命を売る。皆に祝福される女の子となり、残りの三日間を彼と過ごすためだけに。

空の冷蔵庫を閉め、財布を見るクスノキ。CDと本を手放すつらさが独白に記されている
『三日間の幸福』の漫画版『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』(原作:三秋縋、漫画:田口囁一)より。第1話。

物語は、クスノキの幼いころの授業の記憶から、命を金に換えるという話題へ入り、主題を定める。画面が「現在」へ移ると、何も成し遂げられずにいる大学生の独白が始まる。部屋にはろくな物もなく、欲もない。唯一の趣味は中古CDを集めることだが、生活に追われ、その大切な品々もたびたび手放さなくてはならない。絵の才能に恵まれていながら、現実の事情からその夢も諦めた。家庭環境といった、読者の注意をそらす情報は巧みに隠され、設定は現実味を失わない。読書や音楽を聴くことなど、彼の趣味はありふれている。うまくいかない仕事、偽りの友情といった彼の経験も、私たちが日常でよく出会う問題だ。満たされないものを抱えながらも、完全に社会の周縁へ押し出されたわけではない人物だからこそ、見る側は自然と親しみを感じる。

散らばった紙に囲まれて立つクスノキ。十九歳の夏に絵を描けなくなったことを語る、中国語の独白が重なる
画像内の中国語の独白(訳):しかし十九歳の夏、僕は焦りに駆られ、再び慌ただしく筆を取った。それは、創作に挑むには最悪の時期だった。その結果、僕は絵を描く力を失った。

満たされないまま、それでも日常を送れてはいる。後期資本主義社会に見られるこの心理状態は、限界状況の現代的な変化も示している。ヤスパースが経験した人類の災厄はすでに退場し、大規模な戦争は日本本土から姿を消した。市民層には、主体を欠いたリゾーム状の意識が枝葉を広げている。存在の問題は、集団的な窮地での抵抗から、個人が〈ある〉ことを問う方向へと移った。孤独と無意味が、存在論において死の占めていた位置に、徐々に取って代わる。ハイデガーが論じた「日常の世間」も、工業社会の「進歩神話」から、消費主義の虚妄の主体へと姿を変えた。

このような社会を背景に限界状況を描こうとすれば、現代の不条理な事件や、日常の周縁にある状況――無差別殺人犯、韓ドラの「お決まりの不幸三点セット」、疎外された労働など――に頼らざるをえないこともある。寿命を売る以前、クスノキは、生きる意味がわからないまま、ただ〈ある〉という事態に直面していた。このような「大げさな悩み」は、革命の時代には想像しにくかっただろう。しかし、今日の状況に照らせば筋が通る。

〈世人〉には誰しも、自分の有限性を避けようとする衝動がある。ひとたび限界に向き合えば、かつて「自分を信じる」ことで保っていた確固たる自己が、崩れ去ってしまうからだ。自分の存在の限界から目をそらすために、まずすることは、再び想像のなかへ身を投じることだ。世人の世界へ完全に頽落(Verfallen)するか、さもなければ、世俗的な名声や利益に最低限頼ることで、あの神聖にして侵すべからざる私的な空間を支えるか。ミヤギの口から語られるとおり、寿命を売るという契機がなければ、クスノキは残りの三十年を、この非本来的なあり方のまま過ごしていたはずだ。

夜店の並ぶ祭りで、将来について約束を交わす幼いクスノキとヒメノ

ラブコメのロマンチックな展開は、まさに想像上の自己像を支える役目を果たしている。三秋縋の作品は、その逆を行く。人生の欠如を読者や観客にさらすのだ。主人公と似ているからこそ、同じように日々に埋もれている読者は、その何も成せずにいる姿を理解し、受け入れやすい。自分の「何もかも嫌になった」一面を見ているようでもある。だから、無意味な人生から抜け出すために命を売る、という理由にも説得力が生まれる。だが、三十年分の人生を売り、残り三か月という寿命を前にしたクスノキは、今度は死の限界状況に直面する。三か月後には自分が死ぬという事実が、究極的関心(ultimate concern)となるのだ。のちに明らかになるように、彼が人生の無意味さに陥ったのは、優れた画家になることも、幼なじみのヒメノと結ばれることもできないと気づいたからだった。それでいて、幼いころから積み重ねてきた経験とは、どうしても折り合いをつけられなかった。だからこそ、趣味にかりそめの支えを求め、かろうじて生き長らえてきた。自らの死を認めたこと、それこそが、幼いころの「我執」と和解する道へ踏み出す契機となった。クスノキはついに、覆いを一枚ずつ取り払っていく旅を始める。

制服姿のクスノキの横顔と、中国語の台詞・独白。自分を生ける屍と呼ぶ場面
画像内の中国語(訳)。独白:すべてわかっていた。けれど、僕は止まれなかった。台詞:僕はさ、今はもう生ける屍なんだ。それで、何日か前に――。

死期を認めたクスノキは、幼少期の経験を清算しはじめる。ここで重要な手がかりとなるのが、幼いクスノキとヒメノが祭りで話した場面だ。それは、彼の幼いころからの執着を示す象徴的な標識であり、死に向き合って生きることは、この場面への遡及、つまり過去へ立ち返ることの上に成り立つ1。そこには二人がそれぞれ未来に抱いていた期待と、人生の理想がかなわなければ一緒になろうという未来が描かれていた。しかし、そんなふうに将来を思い悩むといっても、実際の成長の経験に根差しているわけではない。未来を遊びのように想像していただけだった。あまりに早く「真理」を生み出してしまったのである。現実は、こうして行き違いのなかで二人の信念を打ち砕いた。高校時代のクスノキは、すでに現実の重圧によって道を見失い、ヒメノが発した最後の助けを求める声を、完全に聞き逃していた。そのときから、幼少期の想像上の関係は壊れていたのだ。ヒメノもまた、自分の存在意義の危機に直面していた。生きる意味が失われた物語のなかで、彼女も、周囲の注目を集めながら孤高を保っていた立場から転落する。それゆえ、最後に自殺を企てることにも、深い重みがあり、筋が通っているように感じられる。クスノキとヒメノが最後に会う場面は、二人の対話というより、それぞれが鏡のなかの自分へ告白しているように見える。ヒステリックになったクスノキは、自分は変わっていないと繰り返し、幼少期の経験にしがみつく。現実での挫折を認めようとしない頽落は、もはや隠しようがない。ヒメノは、彼がどうしようもない状態にあると悟り、ついにはクスノキの目の前で死のうとすることの無意味さ(Meaninglessness)にも気づく。こうして二人は、幼少期からのわだかまりに決着をつけ、足早に対話を終える。

今日から監視員を務めると名乗るミヤギ。スプーンを持つ姿、顔のアップ、スーツケースを携えた全身像

ヒメノを捜し、幼い日のタイムカプセルを探すなかで、主要人物たちの限界状況が明らかになる。ヒメノは、理想を実現できずに崩れ落ちたところから、存在の無意味さへと向かう。クスノキは、頽落した状態を離れ、死が迫っているという事実を前に、自分の可能性を投企しはじめる。そしてミヤギも、駅でクスノキと語り合うなかで、自分の孤独と自由の欠如を打ち明ける。彼女は、ハイデガー的な意味での「存在」を売ってしまったのだ。三十年分の「共同存在」を失っただけではない――監視される者以外には、彼女の姿が見えない――。その三十年にわたって世界を経験する時間も失っている。彼女は創造や世界の営みから切り離され、いまこの瞬間の現象世界に影響を与えられないばかりか、いまこの世界の一部ですらない。ただ、クスノキの一人称という視点では、この絶望を十分には描ききれない。『CROSS†CHANNEL』(C+C)のような作品では、そこがより深く表現されている。監視する者とされる者だけに許されたつながりは、物語を高めるために作者が残した一つの突破口だ。個人の存在の限界という問題を、他者の無限性へと導いているのである。「白夜行」型の、あの胸を打つ愛は、こうした真理への憧れの上に成り立っている。

二、実存的交わりと他者の倫理

誰かと比べ、自分自身と比べて、ようやく自分を見いだす。

それが、「私にとって生きる意味」。

——山内桜良の言葉として掲げられた一節(中国語からの訳)

ここまでは、戦争や広範な災厄による窮地から遠ざかった日常が、どのように限界状況を生み、それがどのように読者の共感を得るのかを考えた。では、同じように限界状況に直面した二人が、揺るぎなく、しかも胸を打つ愛の関係を築けるのは、なぜだろうか。

奇しくも、限界状況という概念を提起したヤスパース自身、その状況のなかで愛が高められ、確かなものとなることを経験している。第二次世界大戦中、彼はユダヤ人の妻を守るために教職を捨てることもいとわず、周囲の人々から見放された。ナチスの兵士たちが家を取り囲み、妻を引き渡すよう迫っても、死を覚悟したヤスパースは妻と支え合い、毅然として守り抜いた。危機が迫ったそのとき、連合軍がベルリンを占領し、二人を救い出した。戦後、この経験は美談として語り継がれることとなった。

本棚のある部屋で笑うヤスパース夫妻

ヤスパースの言葉でいえば、このような絶体絶命の状況で二人が支え合うことこそ、「実存的交わり(愛の闘争)」である。この交わりは、二つの主体が災難を前に、共にその場にいることから生まれる。命の軽さを知りながらも、ただちに次の行動を選ばなければならない人にとって、限界が迫っている以上、心の内側を守ろうとする振る舞いには、もはや意味がない。真剣で誠実な告白は、自己を保つだけでなく、他者の目に映る「私の欠如」を「私」が受け入れることも促す。主体同士のあいだに、互いの心が通じ合う動きが生まれるのだ。

折り鶴を手にするミヤギと、折り鶴に囲まれて横たわるクスノキ

大きな歴史的事件が遠のいた今日、共通の苦難は舞台の中心を去った。愛の闘争はますます望みがたいものとなり、人の心の壁が、〈世人〉同士で一つの物語を紡ぐ可能性を遮っている。そこで、写実的な作品が「共にある現存在」をどう描くかが問題となる。『三日間の幸福』と『あおぞらとくもりぞら』は、周縁に置かれた集団のもとへ分け入り、自然主義の道を行くことを選ばなかった。代わりに「何の理由もない超現実」を作り上げ、ごく普通の人を周縁的な境遇に置いたのだ。命を売り買いする質屋も、他人を操って自殺させる力も、そのためのものだ。『三日間の幸福』では、監視員もまた、自らの時間を売った人間である。存在の無意味さや絶対的な孤独という点では、寿命を売った人より楽に暮らしているわけではない。こうしてクスノキとミヤギの物語には共通のモチーフが生まれるが、二人の存在を実際につなぐのは、長くそばにいることだ。幼少期のわだかまりを解き、再び考え込むようになったクスノキにとって、自分から働きかけられる相手は、目の前にいるミヤギだけである。社会のなかで他者と共にある時間を売り、「存在」を失ったミヤギにとって、クスノキは頼ることのできる唯一の現実のつながりだ。ほんの数日を共にしただけで、彼女はもう、クスノキをこれまでのひどい監視対象者たちとは区別していた。後半の二人の感情は、それを契機として育ち、高まっていく。語り合い、写真を撮り、鶴を折り、恋人になる。クスノキはミヤギの励ましを受けて再び筆を取り、彼女のために積極的に行動しはじめる。ミヤギのほうも、世間の疑いの目に正面から向き合うクスノキの行動と、馬鹿がつくほどのまっすぐさによって、再び「認められている」という感覚を得る。道具扱いされるだけの冷たい役割から、解き放たれるのだ。

クスノキに抱きしめられ、驚いた表情を浮かべるミヤギ

限界状況が主人公にもたらす、乗り越えられない障害。それは、有限性を前にした主体が、自分の経験を組み直し、迫り来る限界と付き合っていかざるをえないことを示している。存在の問題は、つねに他者との「共同存在」のなかで生まれる。これが、「白夜行」型の関係を生み出す動機なのだ。一般に、永劫に繰り返される日常と、人々がますます孤立していく現実のなかで、二つの孤独な存在者をつなぐのは、限界状況の象徴的な標識となるものだ。その標識は、作品内の時間と空間を結ぶ接点であるだけでなく、互いの生活へ踏み込む際の象徴的な行為や物にも関わる。たとえば、監視する者とされる者、操る者と操られる者という特殊な立場。あるいは「共病文庫」や、『narcissu』のホスピスを指す「7F」といった記号だ。

書斎で片手を差し出すレヴィナス

同じく苛酷な不幸を経験し、ナチスによって家族を皆殺しにされかけたレヴィナスは、しかしヤスパースとは異なり、「他者」を倫理学の第一の位置に据えた。それによって、主体同士の関係であるはずの間主観性を、一方の主体の視点からしか考えない、偽りの哲学を乗り越えたのである。要するに、他者とは、私たちが「超越者」に向き合うために利用する道具ではない。無限性そのものを表すのだ。他者の無限性を認める点では同じでも、他者を地獄とみなし、主体の立場から「否定的な他性」を提起するサルトルとも違う。レヴィナスは他性を肯定する態度へと向かい、無限性へのこの扉を、「他者の顔」と呼んだ。通りすがりの人が、傍らの物乞いとうっかり目を合わせたとする。その通行人は、相手もまた自分を意識しているのだと気づく。そのとき、ほんの短いあいだであっても、通行人は一つの問いにさらされる。私は施しを与えるべきなのか。

『あおぞらとくもりぞら』の男女の主人公の出会いは、他性の倫理をめぐるこのせめぎ合いを、ありありと描き出す。人を操って自殺させる「掃除人」として、くもりぞらは、相手が「抵抗」するものと予期している。掃除される側が抵抗すれば、それは自分の身に異変が起きたと気づき、もがいていることを意味する。同時に、背後で操るくもりぞらの存在には気づいていないことも示している。こうしてくもりぞらは、覗き見る側に立って、他者を人形に、道具にしてしまう。この過程が続くかぎり、彼は自分の存在の有限性に気づくことなく、仕事へと頽落していられる。他人を操って自殺させる、この野蛮な過程では、彼は神なのだ。「掃除」を繰り返すことで、生きる意味からも、あの説明できない「主語のない〈ある〉」からも、逃れ続けられるのである。2

遺書を掲げる青空と、遺書の文面を変えるよう求める台詞
漫画『あおぞらとくもりぞら』(原作:三秋縋、作画・ストーリー構成:loundraw)より。第2話「朝焼けはいつもより」。

青空の出現は、この頽落の循環を根底から断ち切る。彼女は、自分の意志によらず体が動くことに、まったく抵抗しない。観察を続けるうちに、くもりぞらは、彼女の生活がもともと救いようのない状態にあると知る。世界と前向きにつながろうとする生気(vitality)がほとんどなく、この世への未練も失い、死ぬのが自分の宿命だと確信している。自らの欠如をさらすという点で、彼女はあまりに「完璧」だった。青空が初めてくもりぞらに抵抗したのは、なんと、遺書に込める拒絶をもっと徹底したものにするためだった。そして、見えるはずのない彼へ、冷たい口調で「……殺さないんですか?」と尋ねた瞬間、くもりぞらはようやく、そこまでを振り返って自分の有限性に気づく。他人を操って自殺させるという自分の手品は、このやけっぱちの他者に見破られていたのだ。ここで欠如を暴かれるのは、死に正面から向き合い、それゆえに無限性を示す少女、青空ではない。他人の生死を操るほかには何一つできない、くもりぞらのほうなのだ。そこから逃れようとして、彼はヒステリーに陥る。

自分を操っていたのかと問う青空に、くもりぞらが肯定する四つのコマ

すでに死を見透かした青空は、進んで死を受け入れる、徹底して消極的な姿勢を取っている。自由意志さえすべて放棄し――生きたいという欲求も、「自殺」も放棄して――、自分の弱さや足りなさを、くもりぞらに余さず伝える。くもりぞらは、知らず知らずのうちに自分を悪と規定し、それを内面化して、「掃除人」の仕事をごく当たり前のこととして受け入れていた。そこへ青空が現れ、新しい視点をもたらす。彼女が何の留保もなく死を受け入れようとするために、出来事そのものが道徳的判断の枠から外れるのだ。自分と他者の有限性を認めたくもりぞらは、「恥辱」からの逃避をやめ、「欠如」を受け入れるほうへ転じ、より高い宗教的段階へと向かう。

ここに至って、彼の青空への愛は、一方では彼女の存在意義への好奇心として現れる。何があれば彼女はこの世に未練を持つのか。なぜ彼女は、あれほど平然と死に向き合えるのか。他方では、まったく新しい存在に出会った主体が、「人間を気にかけること」をめぐる真理へ進んでいく姿として現れる。彼女とは何か。彼女には、まだ何が「ある」のか。

主体と、それが身を置く現象世界とが本質的に同じものなら、世界の限界は主体の限界である。愛が生まれるのは、主体が自分の限界に気づき、相手の限界を知り尽くそうとする、その永遠の徒労においてだ。こうして私たちは、間主観性の宇宙へと導かれる。

世界の果て、世界の限界の空を共に見られるかと問いかける、五行の中国語引用画像
画像内の中国語引用の訳:

そのとき、君も同じように世界の果てを見ているのだろう。
君が見た、世界の果ての空。
世界の限界の空。
いちばん果ての空。
僕は君と一緒に見られるだろうか。

三、実存主義的な作品に欠けているもの

優れた作者は、災厄をめぐる大きな物語が退いた現代の都市で、普通の人が直面する実存の問題を鋭く捉える。自由であることへの疲れ、孤独への恐れ、存在する意味への問い。読者がこうした作品を好むのは、登場人物に私たちのもう一つの顔があるからでもある。私たちは、人の心に潜む悪意や、人間関係の駆け引きのなかから、純粋なものを取り出したいと願う。疎外された労働を離れ、これまでとは違う人生の意味を探したいのだ。

しかし、このように深みのある仕組みを備えていても、二つの点で欠落が生じやすい。一つは人物の造形だ。二人の絆を扱う実存主義的な作品が、すべて「白夜行」型の関係を描いているわけではない。一方が目立った限界に直面しておらず、たとえば「ある秘密を知った」というだけの理由で相手の生活へ入り込むのなら、二人の関係は不均衡になる。もう一つは主題の問題である。実存主義的なライト文芸には、根本的な誤認がある。こうした作品は、今日の日常生活の症状を映し出すとともに、幻想を縫い合わせるという消極的な働きも担っているのだ。

満開の桜の下で、「僕」の肩に手を置く桜良。アニメ『君の膵臓をたべたい』の一場面

『君の膵臓をたべたい』は、「僕」という「平凡な同級生」を語り手に選んだことで、関係の不均衡を露呈している。「僕」には桜良と似た身体的経験がなく、彼女の行動を共感によって受け止めるだけにとどまる。その姿は、むしろ冷たい語り手に近い。人物造形の面では、そこに「僕」の薄っぺらさが表れている。読者の側からすれば、桜良は覗き見られる崇高な対象となる。二人での遠出でも王様ゲームでも、桜良は能動的な位置にありながら、「僕」の視点に捉えられている。それに対して「僕」――春樹――は、絵を描く趣味を諦めたクスノキでも、兄になりたかったくもりぞらでもない。その退屈な生活はごくありふれたものだが、クスノキのように自分の欠如に気づくことなく、その生活に満足している。だから、彼がこの関係に踏み込む姿には、どうも何かが足りない。まるで、どんな登場人物でも読者でも、十分に普通でさえあれば、この空っぽのシニフィアンの位置に収まるかのようだ。この非対称性のせいで、二人の関係は腑に落ちにくくなる。結果として、物語で心を動かされるのは二人の愛ではない。ヒロインがカミュ的な不条理のうちに世を去り、その遺書が明かされたとき、すべてが見通せるようになる、その瞬間である。そこで初めて、桜良の本当の経験と、彼女が「僕」の無限性を通じて、いかに自分の存在する意味を見いだしたのかが明らかになる。しかし、無限は、自分と相手の有限性を認めることを前提としなければならない。「僕」が困難に直面し、欠如を抱えた主体ではないために、桜良の成長は、どこかロマンチックで偶然めいて見えるのだ。

桜良と「僕」が一緒に写る自撮りの場面。アニメ『君の膵臓をたべたい』より

こうした実存主義的なライト文芸の主題上の問題も、明らかである。限界状況を離れたとたん、一部の作者が描く人物たちは、行動の論理をまったく失ってしまう。だから作者は、その状況を作るために、自然の理を少し逸脱する設定を、いつも用意しなければならない。「二人」と「世界」を純粋に対立させるため、そのあいだにある媒介構造をほぼすべて捨ててしまうのだ。語りの上で社会的な描写を避けているのではない。人物の存在そのものから、通常の社会関係を切り落とし、すでに「去勢」された人物を提示しているのである。直感的にいえば、この種のライト文芸は、セカイ系の発展形であり、その延長にある。セカイ系の「白夜行」型は、主人公の内面へ向かいながらも、大きな問題を解決したいという願いを、なお残していた。それに対して、こうしたライト文芸は、すでに別の視差を導入している。そこにはもはや共同体の運命はなく、物語の関心は個人の正義へと向かい、生死や記憶や絆をめぐって、あれこれと物語を展開する。共通の限界は姿を消し、代わりに心の壁を破ることや成長が置かれ、二人は互いに他者の無限性を用いて、自分の願いをかなえるのだ。

青空の下で片腕を上げる少女と『narcissu』の作品ロゴ

だが、人物は、その存在そのものにおいてすでに媒介を断たれている。自らの有限性に気づかせるはずの、社会的事実とのつながりを失っているのだ。そのため――ほかにほとんど選びようもなく――、他者との差異を探り続けるしかない。さまざまな理由で「有限」が不在となり、無限ばかりが膨らめば、主体は形而上学的な「悪無限」に陥りやすくなる。他者は欲望される「崇高な対象」となり、実在の硬い核を露わにするものではなくなってしまう。人間の本質に関わる歴史的経験と社会的な刻印をどう取り戻すかが、おそらく一つの課題なのだろう。

ここから、『君の膵臓をたべたい』の「僕」の位置づけにも、別の理解が生まれる。純粋で善良な桜良と純愛の関係を描き出すために、「僕」の特殊性を剥ぎ取り、誰でもその位置に入れるようにしたのだとすれば、ヒロインが「僕」(春樹)に思いを寄せるという結果も、想像の産物にすぎない。この一点だけでいえば、同じく不治の病のもとで存在の意味を描く『narcissu(ナルキッソス)』や、終末における人間の状況を描く『planetarian ~ちいさなほしのゆめ~』のほうが、うまく処理している。語り手となる主人公も限界状況から免除されておらず、どちらも結末で、その後の運命を空白のまま残しているのだ。

動機を邪推して責めるつもりはないが、こうした設定を都市に生きる人々の比喩と受け取ったとしても、巧みとはいえない。そこでは、一つの政治的な敗北が文学の上で引き継がれている。人々は、生きる意味の探求に力を注ぐことで、批判へと情熱を向けるのを避けようとしているのだ。もちろん、生きる意味を問うことは時代遅れの主題ではないし、それに作品の「幻想性」の責任を負わせるべきでもない。何しろそれは、たしかに作者自身の経験と日々の実感から生まれている。人間関係を覆うスモッグを突き破りたい、「本物」を見つけたいという欲求が、作者にはあるのだ。日本のバブル経済崩壊後に育った世代の表現者にとって、接することのできる社会の現実は、創作の可能性を形作ると同時に、その限界にもなる。彼らが感じる雰囲気(aura)や人間関係の構造も、ソーシャルメディアの影響で激しく変わった。大きな限界が消えてしまえば、日常の小さく確かな幸せ――「小確幸」――こそが、手を伸ばせば届き、自分の意味を形作るために使える、現実の現象なのである。

人は互いを完全には理解できないことと、相手の立場で考えることを述べた中国語の引用カード。住野よるの中国語表記「住野夜」の署名がある
住野よるの言葉として掲げられた中国語の引用(訳):人は互いを完全に理解することはできない。わざと他人を傷つけ、さらにはそれを楽しむような人は別として、他人も自分と同じ考え方をすると思い込まず、相手の身になって、その考えを理解しようとする。それが、他人と関係を築く方法だ。

ますます増えていくこうした現象に、私たちはどう向き合えばよいのか。それを、本稿を閉じる問いとしたい。経験からいえば、真実の愛を過剰に思い描けば、いつしか同じ型に飽きがくる。三秋縋に対する少なからぬ読者の批判も、そこから生まれている。

限界状況が物語の手段となり、作者がそこから抜け出せない、身体に根差した経験となれば、崇高さはたちまち作品から去ってしまう。現実にはそのような感情を再び経験できないからこそ、「災難」の訴えも、「オオカミ少年」のように受け止められてしまうのだ。社会の周縁にいる人々へのソーシャルワークや心理相談では、この危険がとりわけ際立つ。いつも自殺したいと口にしながら、何の動きも見せない人は、助ける側の熱意を少しずつすり減らしていく。いつか訪れるかもしれない「死」を防がなければならないという思いは、不安をかき立てる。さらに落胆させられるのは、私たちが今後も長く、この抑圧的なリスク社会に身を置くことだ。

まだ成長の途上にある作者たちを「責任感がない」と責め、突破を迫るのも酷ではある。彼らが――読者も含めて――青春文学の描く「苦さと甘さ」の現象世界に包まれ、彼らなりのエスノメソドロジーを、日常を生きる方法として貫くなら、周縁に生きる人々への想像を借りて他者の無限性を作り上げ、こうした「つまらない」存在のありようを生み続けることは避けられない。そして私たちが、繰り返し差異を求めることで得るのは、装いを変えただけの「悪無限」にすぎない。

おそらく、そもそも変わるべきなのは、この創作手法ではなく、そうした人格を形作る、人々の生きる環境なのだ。欠けているのも、実存主義そのものではなく、私たちの「語る実存主義」のほうなのだろう。技術の現象学が示す現実のもとで、私たちが平面上の表現から受け取るのは、真の無限性を意味する「他者の顔」でも、欠如を抱えた主体同士の真実の愛でもなく、ボードリヤールの「缶詰の笑い」なのかもしれない。それでも私たちは、こうした作品がもたらす感動を、これからも長く頼りにするだろう。そして、この領域が偶然の逸脱によって限界を突き破ることを願うだろう。文学の創作であれ、作品を読み解く批評であれ、自分の手が届く現象のなかにとどまって「閉じこもり」、新たに立ち現れる存在――新しい経験、新しい理論――を避けるのは、よい策とは思えない。対話し、伝え合うことを続けるのが大切だ。それも当然、変化を求めるための重要な一歩となるはずだ……。

だが、何はともあれ、これだけは言っておかなければならない――loundraw、マジですげえ!!

(立ち止まって読んでくれて、ありがとう。)


編者より

私も、まだじっくり考えてみたい。钟先生の分析は、的を射ている。

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本文終わり
注02

注釈

  1. 象徴的な標識とは、象徴的な意味を担う具体的なものであり、多くの場合、特定の時空間において主人公の行動に大きな影響を与えるものと結びついている。復讐劇では、主人公を傷つけた人物や事件のいきさつが具体的な形を取ったものだ。「白夜行」型の関係では、人間の限界や、存在をめぐるさまざまな不条理のいきさつが具体的な形を取ったものである。「遡及」とは、この標識を犠牲にすることで矛盾を解決する、物語構造上の過程を指す。钟子默「復讐劇の構造――『ゴブリンスレイヤー』と『政宗くんのリベンジ』」の前半を参照。 ↑

  2. 「風がある」と言うとき、「風」は存在者であり、「ある」が存在である。だが、未知のものを前にすると、その未知の存在者が何なのかを、私たちはまったく指し示せない。それはただ「あのような恐ろしい存在」としてあるだけだ。何があるのかを指し示せず、いわば「主語がない」この存在が、〈ある〉(イリヤ)である。レヴィナスによれば、「他者の顔」を通じて他者の倫理的な呼びかけに応えることによってのみ、〈ある〉への恐れと敵意を乗り越え、自己中心性から抜け出すことができる。 ↑

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