屋頂現視研
← 中国語原文5 分で読了編集プレビュー

『都市・空間』寄稿企画 日常の空間:ライトノベルの「スローライフ」への転回とその本質

Webライトノベルの「スローライフ」への転回を手がかりに、異世界がいかに日常を取り戻すための空間を提供するのかを分析し、その想像力と都市の労働、消費社会、郊外の共同体との関係を論じる。

著者: 甚谁翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

甚谁のプロフィール画像
甚谁

もう二度と、キャンディーの弾丸は見られない。

「スローライフ」は単純明快な言葉だ。明らかに時間の面から社会的な行動を捉えた概念であり、生活の速度を落とすことを意味する。現代資本主義のもとで24時間・週7日、眠らず休まず続く「仕事中心の生活」に対して、新自由主義社会による個人の支配から抜け出し、しだいに境界が曖昧になっている「仕事の時間」と「休息の時間」を、もう一度はっきりと分ける可能性を示唆している。ところが面白いことに、個人の生き方として「スローライフ」を選ぶ層と、それを描いた作品を読む層は異なる。前者が「スローライフ」の理念を実践するのに対し、後者にはそれを実践する条件がなく、結局は文化産業の商品を消費することで、想像のなかで「スローライフ」を体験するのである。本稿では、いま人気を集める「スローライフ」という作品類型を入口に、その実質と意義を分析してみたい。


「スローライフ」というキーワードは、すでに「小説家になろう」の人気タグになっている。実際、このタグを付けていなくても、スローライフの性格を備えた作品は数えきれない。明らかに、日本のライトノベルには、ひとまず「スローライフ」への転回と呼べる流れが生まれている。こうした作品の多くに共通するのは、次のような筋立てだ。主人公はもともと忙しい生活を送っていた→何かのきっかけで、のんびりくつろげる日常を手に入れる→主人公は、その日常を穏やかに送る。

スローライフ作品は、いま日本のライトノベル界で盛んなWeb小説の創作という流れと、抜群に相性がいい。

  1. 「スローライフ」を描くには、日常生活の細かな描写を、ときには取るに足りないことまで大量に積み重ねる必要がある。文体に制約のないWeb小説は、スローライフの物語を書くうえで最適な場となる。
  2. 出版業界では、何らかの使命のために行動する従来型の作品(非日常系)や、ある主題や中心的な葛藤を備えた作品(日常系)が、依然として主流である。明確な主題を持たず、主人公がどう悠々と暮らすかを描くだけの作品には、市場が成り立つという確かな見込みがない。
  3. どのようにスローライフを送るかは、人によって定義が異なり、きわめて個人的なものだ。Webでの創作もまた、きわめて個人的な営みである。それぞれが自分の望むスローライフを描くだけで、似た考えを持つ人々から支持を得られる。

こうした状況なら、スローライフがWeb小説の投稿サイトで人気になるのも不思議ではない。「スローライフ」が時間の面で持つ意味は、わかりやすい。だが明らかに、「スローライフ」には空間の面での意味もある。このことは、Webのスローライフ作品の多くが異世界を舞台にしていることと切り離せない。現実の都市を舞台にしたら、いったいどうすればスローライフを実現できるのか。これは明らかに、鍵となる問いだ。

実際、多くのスローライフ作品の主人公は、現実世界からやってくる。たいていは仕事があまりにもつらく、何かの巡り合わせで異世界へ転生し、自分のスローライフを始めるのである。たとえば人気作『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』の主人公は、過労死し、永遠に生きる魔女へと転生する。毎日スライムを倒すほかは、散歩や買い物、料理をして過ごす穏やかな日常を手に入れるが、「残業」にはトラウマを抱えている。

一方、「異世界の住人」にも、多かれ少なかれ、それぞれの「疲れる日常」がある。多くは使命を背負った勇者や魔王といった「重要な人物」なのだが、さまざまな理由から、その重荷をこれ以上背負うことを望まず、田園に隠棲して穏やかな日常を送る道を選ぶ。『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』では、主人公は勇者のパーティーに認められずに追放され、辺境で野菜を育て、薬を作る穏やかな日常を送る。

『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』の宣伝画像

ここで見えてくるのは、「それまでの生活」から「スローライフ」へと生活のあり方が変わるとき、必ず空間の移動が伴うということだ。現実世界で労働者だった主人公が、この「労働の空間」を離れ、何らかの超自然的な力を借りて日常生活を送るようになる。あるいは、もともと「異世界の住人」だった主人公が運命を背負わされた場所を離れ、いかなる使命とも関わりのない空間――たとえば辺境――へと移り、自分の日常生活を始める。

こうした作品では、実のところ設定として説得力に乏しく、ただ「日常の空間」を提供することを目的とした「異世界」が提示されるのだ。


「日常生活」は曖昧な概念だが、少なくとも、ジョナサン・クレーリーの言うように、それが一種の「残余」であることはわかる。

1940年代末から1950年代にかけて、日常生活という考え方は、経済の近代化と社会的活動の細分化が進むなかで、残されたもの、なお残っていたものを記述するためのものだった。日常とは、仕事、同調、消費主義を中心に組織化・制度化されたものの外側にある、空間と時間の漠然とした集まりだった。

ジョナサン・クレーリー『24/7』の書影
『24/7――後期資本主義と睡眠の終焉』(原題の直訳。邦訳題『24/7――眠らない社会』)

ジョナサン・クレーリー著。引用は英語原著70頁に基づく新訳。

「日常」は、もとより日本のACG(アニメ・漫画・ゲーム)作品の主題の一つである。だが、ふつう「純粋な日常もの」に分類される作品でさえ、いまのスローライフ作品の特性は備えていない。「スローライフ」作品で最も重要なのは、いずれも、一度は日常を失った主人公が、それを再び自分の手に取り戻す物語になっていることだ。『けいおん!』のような作品では、確かに初めから終わりまで「日常」が描かれているが、登場人物たちにとって、その「日常」はそのまま自分たちの生活である。これに対してスローライフ作品では、読者と主人公が重なり合う。その物語が象徴するのは、「日常生活」を失った主人公=読者が、再び「日常生活」を手に入れることなのだ。

では、なぜ異世界にこのような働きがあるのか。実のところ、異世界そのものに、人に「日常生活」を与える働きがあるわけではない。この物語を成り立たせているのは、人が現実世界の力によって日常を奪われているということだ。人は生きるために働き、日々の生活を再生産しなければならない。ところが資本主義がさらに進化するにつれ、私たちの「仕事の時間」と「余暇の時間」の境界はしだいに曖昧になり、休息の時間――個人の生活――日常を犠牲にして、「明日」のために奮闘せざるをえなくなる。ついには、「仕事」と「休み(仕事の準備)」の二つしか選択肢がなくなる。

これが現代都市という空間のルールでもある。そこでは個人は生産手段、とりわけ自分の生活を再生産するための生産手段を持っていない。都市で挫折した人や、これ以上踏ん張れなくなった人は、退避を選ぶ。つまり、「都市ではない」場所へと退くのだ。

宇野常寛が決断主義とは別の道として提示したのが、宮藤官九郎の作品を考察するなかで見いだした、いわゆる「郊外型中間共同体」である。都市と郊外の関係は、単純化すれば次のような対立にまとめられる。「都市」が、既定の社会的分業、組織化と消費主義、スペクタクル化された日常を表すとすれば、「郊外」は、高い流動性を持つと同時に、都市と同じく、人々が集まり「共同体」をなす性質も備えた、新しい空間を表す。この「郊外」は、文字どおりの郊外や田舎といった、都市の開発がまだ及ばず都市化されていない地域だけを指すのではない(もちろん、そうした地域を舞台とする作品が多いのだが)。実際には「都市」の価値観を受け入れられない周縁の人々が集まって暮らす場所も、また「郊外」になりうる。そうした場所には、何らかの可能性が潜んでいるように思われる。

こうした共同体を描く作品は宮藤官九郎以外にも数多くあるが、読者にはますます選ばれなくなっている。現実の「都市」を舞台に、人と人が互いを認め合うことで、新たな共同体――ユートピアを築く物語は、共同体に支配されている個人の心には、なかなか受け入れられないのである。


現実を舞台とする「郊外型中間共同体」の物語は、人と人が再び結びつき、日常生活を奪い返し、スペクタクル化や消費主義に抗う道を示していた。それがしだいに、異世界でしか「日常」を想像できない物語へと移ってきた。だが、だからといって、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)に頼らなければ「日常」を手に入れられない異世界スローライフ小説を、全面的な失敗と呼ぶのも、おそらく適切ではない。

アニメに描かれた地域共同体の会議場面

確かに、スローライフのWeb小説は文化産業の一部をなす商品であり、ある意味では、「都市」が労働者を際限なく駆り立て、価値を生産させ、消費させるなかで生じるひずみを繕う補修材である。だが、ここでこそ考えたいことがある。従来のある種の「ユートピアを建設する」作品とは違い、スローライフ小説の核にあるのは、「失った者」がいかにして「手にした者」になるかを描くことなのだ。この点は、とりわけ重要である。何らかの「大きな物語」のために奮闘するのではなく、想像の次元で「日常生活」を自分の手に取り戻すこと。これは、「仕事―休息」という論理が生活のなかで占める位置を根本的に変える。この文化現象の働きは、「人を目覚めさせる」ほど偉大なものではない。だが、それでも、取り戻そうとする「日常生活」と、私たちがいま「都市」という場で送らざるをえない、いわゆる「終わりなき日常」との、鋭い衝突を浮かび上がらせることはできる。その先にあるのは、スローライフ小説をはじめとする、ある種のACG作品における唯一の戦い、すなわち自分の日常生活を守るための戦いだ。これは観念の戦いであり、つまりは文化の次元での戦いである。日本のACG作品、とりわけライトノベルで、空間そのものが詳しく描写されることは少なく、主人公がその空間をどう捉えているかを基準に描かれるのも、この戦いが観念の次元で行われるからだ。このような語り方のなかで、世界はいつも、まず観念の次元から変革される。それこそが、私たちの日常生活に活路を見いだすために、踏み出さなければならない第一歩でもある。


本文へのコメント

红茶泡海苔:武先生1のこの記事が好きだ。武先生も大好きだ。

ただ、初めてこの記事を読んだときには、少し疑問も感じた。なろう系ライトノベルのスローライフは、武先生が例に挙げたとおり、都市から遠く離れた「辺境/郊外」や「日常」と結びついていることが多い。だが、「郊外」や「日常」は、本当に「スロー」なのだろうか。

武先生は「郊外」を論じるなかで、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で論じた「郊外共同体」に触れている。ゼロ年代批評におけるこの「郊外」の問題は、三浦展の「ファスト風土化」にまで起源をたどれるはずだ。「ファスト風土化」は、「風土」と「フード(food)」の同音を利用して、「ファストフード」をもじった造語である。三浦がこの語で描き出したのは、経済のグローバル化と消費社会化が進むなか、日本の地方の街並みがファストフードのチェーン店、大型ショッピングセンター、コンビニなどの商業施設で埋め尽くされ、その街固有の歴史や文化を失い、匿名的で均質な空間になっていくということだ。だから宇野は、『ゼロ年代の想像力』で「郊外共同体」を論じる際、宮藤官九郎の「地名」へのこだわりに強く注目する。だが、地名――つまり街の固有名――にこだわることは、こうした匿名の空間を元の姿へ戻すことではない。匿名の空間を認めたうえで、小さな共同体の可能性を探ることなのだ。そしてこの小さな共同体――言い換えれば日常――こそ、宇野が提唱する「郊外型中間共同体」なのである。

もう一つの問題は、まさにこの「日常」にある。オタク文化批評でいう「日常」は、宮台真司の「終わりなき日常」と、先ほどの「郊外」の問題とが合わさって生まれた言葉だ。オタクの日常風景を最も典型的に表す二つのものの一つが、24時間営業のコンビニであるように(もう一つは学校だ)、「日常」はまさに、こうした消費主義的な匿名の空間の上に成り立っている。その延長にあるのが、私たちのよく知る「日常系」の作品群だ。そこでは登場人物たちが、均質化した地方の街――たとえば『らき☆すた』の埼玉、『けいおん!』の京都――で、終わりなき学校生活を送り続け、放課後にはコンビニに寄り道し、週末には大型ショッピングセンターで待ち合わせて遊ぶ。私たち視聴者が聖地巡礼で訪れるのも、「学校の校舎」「踏切」「繁華街のショッピングセンター」といった、どこの地方の街にもありそうな施設なのである。

こう考えると、「郊外」と「日常」は、武先生が言うような「slow life」ではなく、むしろ消費主義的な「fast food」のように思える。だが、だからといって武先生の記事が間違っているわけではない。武先生はやはり、「slow life」という文化状況の本質を的確に捉えている。武先生が最後の段落で述べたように、「slow life」は本質的に文化産業に属し、自らが置かれた消費主義的な社会環境を肯定する態度を持っている。そこに込められているのは、「終わりなき日常」への憎しみや居心地の悪さではない。宮台真司が描く制服姿の少女たちのように、この「日常」を受け入れ、まったりと(ゆっくりと)生きていく態度なのだ。ゼロ年代批評、とりわけオタク文化批評は――論者の大半は左翼なのだが――「日常」という、消費主義社会がもたらした文化状況を肯定している。宇野常寛もそうだし、東浩紀もそうだ。当時の東は『動物化するポストモダン』で、オタクの生き方を、ポストモダンの状況、消費社会に最もよく適応した態度として捉え、オタクをその主体と見なしていた。その主体は、やがて『観光客の哲学』で「観光客」へと更新される。これは、武先生が述べる肯定的な態度とも、期せずして一致している。

最後に一つ提案したい。ジェイムソンはかつて、消費主義のもとで商品となるノスタルジーを論じていた。武先生の記事でも、この視点を強調してみてよいのではないか。オタク文化のなかで Fast foodの性格が最も強いWeb系ライトノベルで、これ以上ないほど Slow lifeを追求する展開が流行している。この相容れない両極の結びつきから、私たちは何を考えるべきなのだろう。

HMS Hood:大づかみに言えば、現代人は都市化の過程で、社会の変化のなかで、「日常」を失った。都市社会学の観点からのコメントはここまで。どんな教科書でも一冊開けば、私がここで話せることより、ずっと詳しくて面白い話が載っている。

日本のACG作品、とりわけライトノベルで、空間そのものが詳しく描写されることは少なく、主人公がその空間をどう捉えているかを基準に描かれるのも、この戦いが観念の次元で行われるからだ。

著者がその理由として挙げるのは、先ほど述べられた「スローライフ」ライトノベルの戦いが、「観念の戦い」であり「文化の戦い」であるということだ。なるほど。ただ、ここで私は別の説明の可能性を持ち込みたい。「状況」から考える可能性だ。

単位を落としかけた都市社会学より、こちらのほうが私にはいくらか扱いやすい。私はいつも、文学作品のさまざまな衝突を、「状況の定義」をめぐる争いとして理解している。空間の描写とは、つまり「状況」の描写なのだ。効果という点から考えてみると、主人公の捉え方に沿って空間を描くほうが、読者は主人公の示す状況の定義を受け入れやすくなるのではないか。つまり実際には、作者が意図する状況の定義を受け入れてもらうことで、さらに、その定義に基づいて登場人物が次に示す反応も受け入れるよう、読者を促せるのではないか。もっとも、こうした考えは、この記事とはあまり関係がないのだけれど。

本文終わり
注01

注釈

  1. 「武先生」は、コメント中で本稿の著者に用いられている呼びかけ。 ↑

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。