屋頂現視研
← 中国語原文5 分で読了編集プレビュー

ACGキャラクターの内面・属性・文学性

キャラクターの属性と意志の衝突を出発点に、手塚治虫、『かぐや様は告らせたい』、長門有希、里村茜を結び、キャラクターの内面の葛藤を通じてライトノベルと漫画が文学性を獲得する過程を論じる。

著者: 红茶泡海苔翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

紅茶泡海苔のアバター
紅茶泡海苔

文学修士、オタク文化批評、文芸批評。

最近、こんな記事を見かけた。

『岐路の預言者――属性と人間性の対立と統一』

この記事を読んだとき、私は少し驚いた。キャラクター性の問題は、オタク文化批評における極めて重要な問題である。同時にそれは、もう一つの問題――ライトノベルや漫画の文学性の問題――の核心でもある。まさかこの記事の作者は、たった一人でそこまで考えたのだろうか。そんな興味を抱いて読み始めたのだが、読み終えてみると、この記事はそこまで到達していなかった。

属性と理由

この記事は、いくつかの魔改造された哲学用語で全体を包み、ずいぶん複雑に書かれている。だが実際に言っているのは、キャラクターに過去を付け加え、属性に成因を与えれば、キャラクター像がより豊かで、より合理的になるというだけだ。人間性とは何の関係もない。せいぜい理屈でこねくり回して説明できるという程度であり、作者自身の人間性の定義――「跡をたどることのできる思考体系」――に従えば、結局のところ、人間のあらゆる行動や性格には、過去の中に確定した理由が見つかると言っているにすぎない。だが、このような理性主義的な人間観を支持する人は、すでにほとんどいない。むしろ、これほど明確に把握できる理性的な人間こそ、虚構のキャラクターに似ていると言える。そして、ここで別の問題が生じる。もしこの人間性が属性への単なる補足にすぎないのなら、人間性はいったいどうやって属性と対立するのか。

実際、この記事の後半にある議論の多くは混乱している。たとえば、『僕は友達が少ない』の幸村では、属性を形づくった過去を補えば、なぜ彼女に葛藤が生じるのか。『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』の真涼では、過去を補えば、なぜ彼女が動揺するのか。『冴えない彼女の育てかた』の英梨々では、属性を読み解くことが、なぜ彼女の束縛になるのか。この記事の作者は、属性と人間性の関係を「対立と統一」という言葉で説明する。だが、彼のいう「敷設――解読――昇華」という過程には、ヘーゲル哲学の「正反合」にあるはずの「反」の段階が見えない。そもそも、作者が語る属性の定義にも問題がある。属性とは、その背後にある理由や過去を排除するものだという。しかし、幼なじみという属性は、過去を排除しなければ成立しないのか。ごく簡単な例だけで、この定義は矛盾してしまう。

おそらく、この作者が本当に語りたかったのは、属性から人間性への転化ではなく、属性の克服なのだろう。オタク文化批評の言葉で言えば、キャラクターが自分自身のキャラクター性を克服する問題であり、それは同時に、ライトノベルや漫画の文学性の問題でもある。

記号と死

この問題については、大塚英志『アトムの命題――手塚治虫と戦後まんがの主題』が詳しく論じている。初期のアニメや漫画のキャラクターは、みな不死身だった。ぺしゃんこにされても、灰になるまで焼かれても、せいぜい全身に包帯を巻かれるだけで、次の画面ではたちまち元に戻ってしまう。

不死の記号的キャラクターが傷つく前後の画面

戦時下の日本で流行した翼賛漫画は、まさにこのような記号化の手法を利用して、戦争の現実性を覆い隠していた。敵は銃弾を受けても「痛い、痛い」と叫ぶだけで血を流さず、兵士も本当の意味では傷つかない。そうした文化環境の中で育った少年だった手塚が、この手法を受け継いだのは当然だった。

手塚治虫は、習作漫画『勝利の日まで』の大部分でこの手法を踏襲している。ところが、この図にある一コマで、手塚は驚くべきことにその手法の束縛を脱し、不死の記号であるキャラクターが、戦闘機に乗ったミッキーマウスに撃たれて血を流す場面を初めて描いた。死を覆い隠す記号で死を描き、虚構のキャラクターで現実の出血を描く。この矛盾した表現方法を、大塚英志は高く評価した。

手塚治虫の戦時習作漫画の図版

また、漫画『アトム大使』では、手塚は次のような物語を描いている。子どもを失った天馬博士は、子どもの姿をしたロボット、アトムを造った。だが、ロボットであるため成長できないことに腹を立て、アトムを捨ててしまう。ある日、宇宙人が地球に襲来する。捨てられたアトムは、宇宙人と交渉する大使の役目を引き受ける。そして宇宙人と和解した最後の場面で、アトムは礼として「大人の顔」をした頭部を贈られる。

『アトム大使』漫画の図版

大塚によれば、手塚がこの物語で描いたのは、人間のようには成長できないと決められたロボットであるアトムが、象徴的に成長を手に入れる物語である。成長できない記号=属性=設定と、成長したいという意志との矛盾は、当時、GHQの占領下にあった日本の姿と重なる。だからこそ大塚は、アトムが直面するこの記号=属性=設定と意志の矛盾を、戦後漫画の基本的な問題とみなした。

そして大塚は、『キャラクター小説の作り方』で、ライトノベルを漫画の素描と捉え、漫画の問題意識を受け継ぐものだと考えている。ライトノベルの文学性もまた、そこにある。

かぐや様の判決

言い換えれば、ツンデレ属性を例に取ると、ツンデレ属性の成因を示すことがキャラクター像を豊かにするのは確かだ。しかし、ツンデレ属性の最も魅力的なところは、彼女が根本的にはこの属性を克服できないのに、それでも克服したいと願う、その感情の矛盾にある。

たとえば『ゼロの使い魔』のルイズだ。才人に自分の気持ちを伝えたいという彼女の願いに、疑いの余地はない。だが、彼女はそれをうまく伝えられない。素直になりたいのに、素直に表現できない。愛情は暴力に変わり、愛の言葉は「バカ」になる。そして、素直になれない自分に、深い後悔と葛藤を抱く。自分の属性に対するこの複雑な感情、キャラクター性/属性と意志のこの共存こそが、虚構の存在としてのキャラクターを最も魅力的にしている。幸村も、真涼も、英梨々も、そしてかぐや様も同じだ。私たちを最も惹きつけるのは、彼女たちがどのように今の属性を身につけたかではない。自分の属性を克服しようとするときの努力、失敗したときの後悔、反省するときの心の乱れこそが、私たちを惹きつけるのである。

『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』を例に取るなら、おそらく漫画第43話が最もよい例だろう。脳内法廷では、かぐやのクールな設定と恋愛戦争という設定を代表するかぐや検察官が、白銀会長への感情を代表するかぐや弁護人と、会長にケーキを贈るべきかどうかをめぐって激しく争う。十数ページに及ぶ討論の最後、かぐや被告人は、かぐや大法官に判決を求める。

かぐやの脳内法廷での論争

図中の台詞(上段→右下→左下):

  • 上段:「そんな……」「裁判長が判決を下さないなら、誰が決めるんですか?」
  • 右下:「あなた」「え……」
  • 左下:「私たちはみんな、あなたなんだから」「決められるのは、あなただけ」

クールなかぐや検察官、恋に浮かれたかぐや弁護人、純真なかぐや大法官――そのすべてがかぐや自身であり、自分の設定と意志の矛盾に心を乱される、かぐや被告人自身でもある。最終的に会長へケーキを贈る決意をしたかぐやは、口ではなおクールな口調を崩さない。それでも、彼女の一挙一動は暗闇の中で熱を放っている。

そして、この恋愛戦争の勝敗の行方もまた、意外なものだった――

かぐやが判決を下した後の場面

今回の恋愛戦争は、かぐやと白銀の戦争ではない。かぐやと、かぐや自身との戦争だった。勝利したのも、他人から勝ち取った勝利ではない。かぐやたち――つまり、かぐや自身――が自分自身を克服したひとつの勝利だった。これは、キャラクターが葛藤の中で自分のキャラクター性を克服しようとする、典型的な試みでもある。

樋上いたるのピクセル

キャラクターが自分の属性を克服しようとするときに生まれる、あの葛藤、あの複雑な内面の感情の動きこそが、私たちを最も惹きつけるものだ。ツンデレだけではない。他の属性でも同じである。

では、無口属性はどうだろう――。この文脈では、無口属性を描くのは難しい。この属性は、かぐや様のように、外面はクールなのに内面のドラマが多い、という形では描けない。言い換えれば、無口属性では内的独白やポリフォニーが禁じられている。無口とは、ただ話さないということではない。読者に示される叙述の上でも無口であり、無口なキャラクターの心理描写は禁じられているのだ。では、無口なキャラクターには、私たちが語ってきたような葛藤する内面を持てないのだろうか。

答えは否である。葛藤する内面は、必ずしも内的独白によって表現されなければならないわけではない。たとえば『涼宮ハルヒの消失』で、長門が勇気を振り絞ってキョンの袖をつかむ。そんな単純な仕草だけで、起伏に富んだ内面の葛藤を十分に表現できる。

あるいは、麻枝准の初期作品『ONE ~輝く季節へ~』の里村茜を見てみよう。彼女が主人公に少しずつ心を開いていく過程で、その内面の変化が長大な心理描写によって描かれることは一度もない。それは、樋上いたるが描いた立ち絵の中に現れる、微細な変化によって示されている。

里村茜の立ち絵における微細な表情変化

黒瀬陽平は『新しい「風景」の誕生――セカイ系物語と情念定型』(『思想地図 vol.4 特集・想像力』所収)で、佐藤心の言葉を次のように紹介している。

表情がピクセル単位で変化する瞬間には、アクションゲームでコンボがつながったときのような快感が生まれる。たとえば『ONE ~輝く季節へ~』の里村茜には、一緒に弁当を食べる場面がある。三度目くらいになって、ようやく少しだけ笑ってみせる。ほんの少し突き出した唇は、本来なら心が少し弾む程度の出来事にすぎないはずだ。ところが私は、あまりに感動して、拳を握りしめながら勝利を叫ばずにはいられなかった。彼女の表情に生じた、ほんのわずかなピクセルの変化のために、手を振り足を踏み鳴らしていたと言ってもいい(笑)。……

佐藤がここで「表情のほんのわずかなピクセルの変化のために手を振り足を踏み鳴らす」という反応を見せているのは、実に興味深い。一般に、どれほどデフォルメされた漫画やアニメであっても、人間の表情を描くときには、頭蓋骨や顔全体の筋肉の変化を無視できない。骨格と筋肉と表情は連動しており、一枚の絵の中で釣り合いが取れていなければ、ひどく奇妙な表情になってしまう。

だから、元長が指摘するように、これまでの美少女ゲームでは、キャラクターの表情として喜怒哀楽など複数の画像を用意し、シナリオに合わせて場面ごとに立ち絵そのものを差し替えるのが一般的だった。ところが、KeyやLeafの作品における表情の変化は、リミテッド・アニメーションのように、頬がほんのり赤くなるだけだったり、口元がわずかに動くだけだったりする。この手法によって奇妙な表情にならず、むしろ微細な感情の変化をうまく表現し、伝えることができるのは、「ピクセル単位の変化」で人の表情を描くインターフェースを導入したからだ。

言い換えれば、情念定型論における「語根」の変換と同じように、樋上いたるは「顔」という概念を、頭蓋骨と表情筋に支配されるものから、格子状のピクセル配列に制御される平面へと再設定したのである。ここでは、一、二ピクセルの移動だけで表情の変化を感じさせる新しい現実の尺度が導入される。

樋上いたるのこの独特な表現形式と、そこから生まれる独特な現実の尺度は、先ほどの長門の例において、微細な動作で複雑な内面の変化を表現したことと、同じ効果を持っている。むしろ、無口属性のこのような束縛があるからこそ、この表現方法が可能になったのだ。属性が感情や心理描写を抑圧していなければ、こうした微細な変化がこれほどまでに拡大されることもなかっただろう。

こう言うこともできるかもしれない。キャラクターが自分の無口属性を克服しようとしても、属性の枷から完全に抜け出すことは決して許されない。だから、そうした克服は、このような小さな形でしか表象できない。だが、その勝利が小さいからこそ、もたらされる効果は絶大になる。この意味で、属性はその絶大な効果を生む基本条件となり、あのわずかなピクセルの変化に私たちが手を振り足を踏み鳴らして喜ぶための前提となっている。

キャラクター性と文学性

最後に付け加えておきたいのは、キャラクターが最終的に自分の属性を克服できたかどうかは問題ではない、ということだ。重要なのは、その克服の過程で、キャラクターが自分自身のキャラクター性について反省し、葛藤することである。そして、この反省と葛藤には、内面=私=主体という存在が必要になる。

近代文学とは、柄谷行人が述べるように、内面=主体の発見である。反省し、葛藤するという行為が意味するのは、まさに「私」の発見と獲得なのだ。ライトノベルや漫画のキャラクターは、単なる記号である。記号は虚構しか描けず、現実を描くことはできない。だが、近代文学が成立する過程において、現実はまさに、私たちが言文一致体と呼ぶ人工的に作られた言語の上に築かれた。西洋からもたらされた主体=私という観念も、まずは人工的な言語で書かれた近代文学を通じて日本に導入された。だから、「私」や内面、主体、さらには近代的な人間のイメージでさえ、その成立の初めから、虚構=キャラクターという側面を含んでいたのである。

虚構としての私、キャラクターとしての私を描くこともまた、文学の一部となる。私たちがキャラクターに共感し、キャラクターの内面の葛藤に共鳴できるのは、キャラクターが虚構から現実へと変わったからでも、キャラクターが人間性を獲得したからでもない。現実や人間性の一部は、最初から虚構の中に含まれていたからである。

大塚が語るライトノベルや漫画の文学性は、まさにこのような文脈の上に築かれている。『キャラクター小説の作り方』の最終章で、大塚は次のように書いている――

キャラクター小説(ライトノベル)を書こうと志すあなたたちは、それが「文学」になることを恐れてはいけない。優れたキャラクター商品としての小説と文学は、完全に両立しうる。むしろ、それこそが、作者として読者と社会への責任に同時に応えるために取るべき姿勢なのだ。

私たちは、キャラクター性/属性を単なる「商業化」や「下限」とみなして捨て去るべきではない。むしろそれは、作品を商業と文学の両立へと向かわせる基本条件の一つなのである。

本文終わり

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。