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死はいかに「新生」するのか――異世界転生作品における死の研究

ファンタジーと異世界転移から異世界転生への変化をたどり、主人公がなぜ一度死ななければならないのかを、労働、社会的排除、そして日中それぞれの「人生をやり直す」想像力から考える。

著者: 甚谁翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

異世界の山野風景

要旨: 「異世界転生」とは、元の世界にいた主人公が死亡したのち異世界へ転生し、新たな人生を始めるという物語類型である。UGC的性格をもつ「小説家になろう」などのウェブ小説投稿サイトが広まるにつれ、この類型は日本のライトノベルでとりわけ好まれる題材となった。日本でも中国でも、この種の作品は大きな人気と議論を呼んでいる。しかし現在の「異世界転生」論は、ライトノベルをオタクの幻想を満たす文化消費財として定義する単純なモデルにとどまりがちであり、東アジアから欧米までオタク文化圏を席巻した異世界作品そのものに即して有効な批評を生み出すことが難しい。本稿は複数の異世界作品に立ち返り、なぜ異世界が2010年代のオタク文化消費における人気の物語類型となったのかを問い、その文化消費の背後にある一種の「超越性」を考察する。

一、「異世界」と「ファンタジア」

「異世界」という物語類型そのものを問題として考えるきっかけになったのは、強いナショナリズムと、ある種の「進歩史観的な文学史文化史観」が入り混じった、中国語圏インターネットの「網文対ラノベ論争」であった。まず、この中国語圏ネットで人気の論点を紹介しておこう。「先に書いた者は後から書いた者より上だ」「長く、多く書いてきた者は新参より上だ」という、互いに矛盾しながら文化産業の生産メカニズムに完全に従属した二つの考えを抱く一部の人々は、中国のネット小説こそ「より早く」異世界への移動とチート能力の発動という物語類型を書いた先輩であり、ここ数年になって異世界を発明した日本のライトノベルより明らかに先を行っている、と考える。これに反論する側は、日本のライトノベルでは中国のネット小説よりはるか以前からこの類型が流行していた、と主張する。

この論争そのもの、そして日本のライトノベルにおける異世界と中国ネット小説の「穿越」を比較する議論については後で詳しく述べる。ただ、この論争の過程で、日本の異世界ライトノベルを「優れた、独自の世界観をもつ異世界」と「粗悪な、ゲーム的世界観を流用した異世界」に分ける見方が現れた。それに伴い、昔の異世界小説は優れていたが、現在の日本ライトノベルは質が落ちた、という議論も数多く生まれた。まさにこの見方に触れたことで、ある重要な問いが浮かび上がったのである。近年流行している異世界と、1990年代以来日本で流行してきたファンタジーとの決定的な違いは何なのか。「高品質」のファンタジーの延長線上に、なぜ「低品質」の異世界小説が現れるのか。この「劣化」は何を意味するのか。

生産―流通―消費という文化研究的な枠組みから考えれば、この問いには簡単に答えられるようにも見える。ファンタジーから異世界への変化は、本質的には生産者の属性が変わったことに由来する、と。異世界の物語類型にも含められる『灰と幻想のグリムガル』の作者十文字青が第1巻のあとがきで述べていることを例にしよう。

十文字青は、『ドラゴンクエスト』『Wizardry』『ファイナルファンタジー』『女神転生』『メタルマックス』『ロマンシング サガ』『ブレス オブ ファイア』『LIVE A LIVE』『クロノトリガー』『アークザラッド』『タクティクスオウガ』『幻想水滸伝』『テイルズ オブ』シリーズ、『ワイルドアームズ』『ファイナルファンタジータクティクス』『スターオーシャン』『マリーのアトリエ』『サガ フロンティア』『ゼノギアス』など、家庭用ゲーム機のRPG、あるいはRPG要素の濃いゲームが、自分にとって長く「救い」であり続けた、と振り返っている。

(中略)

また、小説を書き始めた理由を問われることがあるが、最大の影響はゲームだったのだと思う、と述べる。RPGに出会わなければ小説を書き始めることはなかったし、とりわけオンラインRPGに夢中にならなければデビュー作『薔薇のマリア』も本作も生まれなかっただろう。さらに、水野良『ロードス島戦記』やベニー松山『隣り合わせの灰と青春』のようなRPGを題材にした小説を読んでいなければ、たとえ小説家になっていたとしても、現在のような作品は書かなかったかもしれない、としている。

(十文字青『灰と幻想のグリムガル』、青文出版社刊の繁体字中国語版、第1巻。)

RPGの影響を受けたからこそ、RPGのような小説を書きたいと思う。異世界ものが批判される際の「ゲーム化」は、明らかに新しい世代の作者に固有の個人的経験から来ている。SNSや個人小説投稿サイトの発達とともに、RPGやファンタジー小説を愛好してきた読者がしだいに創作へ参加するようになった。アマチュアの生産者として彼らが作る作品は、「専門性」という点では往々にしてやや劣って見える。

しかし、問題はそれほど単純に解けるのだろうか。そうではない。ライトノベルという概念は、その成立当初からこうしたメディア横断性、すなわちメディアミックスを含んでいた。大塚英志は『キャラクター小説の作り方』でライトノベルを三つに分けている。1970年代以前から存在した「ジュブナイル」、1980年代以降に現れた「少女小説」、そして1980年代以降、TRPGの創作方法論を導入して作られるようになった「ゲームのような小説」である。東浩紀が第三の「ゲームのような小説」を代表する例として挙げ、分析したのが、まさに現在多くの人が異世界小説から切り離そうとしているファンタジーの一つ、『ロードス島戦記』である。東はこの作品を次のように説明している。

東浩紀によれば、『ロードス島戦記』の出発点は、専門誌で連載された、ある著名なテーブルトークRPGのプレイ状況を伝えるリプレイ記事だった。その記録を執筆したのが創作集団グループSNEであり、『ロードス島戦記』の原案企画者は同集団の代表、作者の水野良もそのメンバーだった。連載は好評を得たが、プレイの基盤となったゲームそのものはグループSNEの著作物ではなかった。そこでグループSNEは、一方でその記録を小説化して刊行し、他方で基盤となるゲームを改変し、『ロードス島戦記』の世界観を前面に出した独自のTRPGを開発した。前者が『ロードス島戦記』、後者が翌1989年刊行の『ロードス島戦記コンパニオン』である、と説明される。

(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』、唐山出版社刊の繁体字中国語版。)

したがって、ファンタジーから異世界への変化を、消費者が創作者へ転じたことによる一種の劣化、メディアミックス的要素の影響、さらには創作者の専門性の問題だけに帰してしまえば、核心にはまったく届かない。異世界はいったいどのようにファンタジーから分離したのか。両者の境界線はどこにあるのか。

二、「転生」と「転移」

異世界という問題を考える入口になるのは、まさに「死」という命題である。東浩紀も、大塚英志によるライトノベル内部の区分を参照したあと、自然に大塚のキャラクターの死をめぐる表現論へと議論を進めている。キャラクターの死は、「ゲームのような」異世界小説の重要な構成要素なのである。

ただし、ここで論じたいのは、東が「ゲーム的リアリズム」という概念によって、ゲームそのものを複数の物語を生み出すメタ物語的システムとして捉え、それが物語制作に与える影響を論じた問題とは異なる。『All You Need Is Kill』や『Ever17』のように、ループ要素によって何度も死に、何度もやり直すゲーム的リアリズムの物語を扱いたいのではない。ここで問題にしたいのは、一度きりで唯一の死――主人公が元の世界から異世界へ来るための死である。言い換えれば、「転生」と「転移」の違いである。

先ほど、異世界小説の一大拠点とも呼べるサイトとして挙げた「小説家になろう」の内部では、異世界作品について「転生」と「転移」という二分が生まれた。簡単に言えば、転生は主人公の死から始まる。元の世界での人生が突然終わり、何らかの要因によって異世界へ行き、新しい人生を始める。これに対し転移は、元の世界にいた主人公が何らかの要因によって、そのままの状態で異世界へ移動する。この区別を立てたうえで具体的な作品を見れば、「転生」と「転移」は異世界という物語類型の内部差にとどまらず、前に述べたファンタジーと異世界の差でもあることがわかる。

1990年代以来、一つの分類として定着したファンタジー作品は、異世界へ渡る人物がいるかどうかによって二つに分けられる。そのうち異世界へ渡る人物を含む作品は、いずれも主人公が異世界へ「転移」することを主題としてきた。1990年代なら『十二国記』『魔法騎士レイアース』、2000年代なら『ゼロの使い魔』『今日からマ王!』である。主人公が死んだあと、新しい生命として人生をやり直す物語はほとんど存在しなかった。

したがって、ファンタジーから異世界へという系譜は、ファンタジー世界で自分が主人公として冒険することを想像する物語――実際、TRPGの記録を原型とする『ロードス島戦記』の本質はまさにそうである――から、ファンタジー世界で自分がまったく新しい人生を始めることを想像する物語への変化として捉えられる。もっとも大きな影響力をもつ異世界転生作品『無職転生』の副題を借りれば、こうまとめられる。『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』。ここまでのファンタジー→異世界の変化を整理すると、次のようになる。

神話、歴史、民間説話をモデルにしたファンタジー物語

ファンタジー物語をモデルにした参加型メディア文化
TRPG、コンピュータRPG

TRPGのモデルをもとに、現実世界の普通の人間がファンタジー世界のキャラクターを演じる物語
1990年代以降の転移型異世界作品)

同じくTRPGのモデルをもとに、現実世界の普通の人間が死んだあと異世界でまったく新しい人生を始める物語
(『無職転生』)

ここで「死」が果たす役割は、前世と今世の境界線になることである。転移作品では、主人公は依然として元の自分である。異世界へ移った原因がどれほど謎めいていても、「帰還」は主人公の目標の一つであり続ける。元の日常生活へ戻りたいという欲望と、ファンタジー世界での冒険とのあいだの緊張こそ、この種の作品がしばしば強調するところである(『ゼロの使い魔』)。実のところ、主人公が日常と非日常のあいだで葛藤する作品は、異世界もの以外ではさらにありふれている。2000年代以降に流行した、超自然的要素を含む漫画やライトノベルには似た型がよく見られる。主人公は奇妙な超自然事件に巻き込まれて瀕死になる、あるいは一度死ぬ。超自然の側に属する少女が彼を救うため、何らかの力を行使したり、もともと主人公の内にあった超自然的な力を起動したりして、彼を治癒/再生させる。その代償として、主人公は元の日常生活から切り離され、以後、超自然的な力が支配するファンタジー世界へ入る。一方では平穏な日常へ戻りたいと思いながら、他方ではヒロインたちを見捨てられず、自分の責任を引き受けようとする。物語の結末では、同世代の仲間とともにファンタジー的冒険を成し遂げ、敵を倒し、成長し、新たに知り合った仲間とともに自分の日常へ帰ってくることが多い。この種の作品はあまりに多いため、ここでは例を挙げない。こうした作品まで異世界という類型に含めて考えれば、ゲーム世界を舞台に物語が展開する『ソードアートオンライン』シリーズも一種の異世界作品だ、とする批評がある理由も理解しやすい。

帰還を求め、時には頻繁に帰還さえできる異世界転移作品――『今日からマ王!』は主人公が比較的頻繁に異世界を往復すること自体を物語上の葛藤にしている――であれ、空間的にはごく近い学園超自然もの――多くの場合、主人公と超自然側の仲間はそのまま同級生になったり、一緒に暮らしたりする――であれ、こうした「近さ」は異世界転生作品がもっとも強く拒むものである。手を伸ばせば届きそうな距離感を徹底的に消すために、異世界転生の作者が選ぶのが主人公を死なせるという手段である。死によって、主人公の前世と今世には完全な境界が引かれる。異世界転生の代表作である『無職転生』は、主人公が死ぬ直前の場面を一章まるごと使って描きさえする。家から追い出された34歳の無職オタクの死は、原文で「俺はトラックとコンクリートに挟まれて、トマトみたいに潰れて死んだ」と描かれる。

三、必ず死ぬ主人公と人生のRE-TAKE

作者が死んだ主人公に突きつける現実は、記憶だけは残っていても、今の自分と前世の自分はもはや同一人物ではない、ということである。言い換えれば、主人公が異世界でまったく新しい人生を始める物語を書くためには、主人公を死なせなければならない。では、なぜ主人公はどうしても異世界へ行き、新しい人生を始めなければならないのか。元の世界で変わることはできないのか。少年が冒険を通じて成長し、青年が何かをきっかけに再び努力を始める。それは小説や漫画にありふれた展開である。この問いに対して、『無職転生』などの作品が出す答えは否定である。

うん。悪くない。年甲斐もなくワクワクする。そんな世界に記憶を持って転生できたのだ。これでワクワクしないやつはニートになんかならない。よし、決めた。俺はこの世界で本気で生きていこう。もう、二度と後悔はしないように。全力で。

(『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』、web版第1話。)

「これでワクワクしないやつはニートになんかならない」。逆に言えば、「こんな世界へ転生することを期待していたからこそニートになった」とも言える。『無職転生』で主人公がニートになるきっかけは学校でのいじめである。いじめに直面した彼は最終的に無職のニートとなる道を選び、部屋に閉じこもって二次元へ逃げる。外部との交流を拒み、ニートになった時点で、彼は実質的にすでに現代社会のなかで死んでいた。両親の死によって家から追い出され、受動的にその「死んだ状態」から出ることになった彼は、この世界に適応できないのではない。むしろ、この世界のルールに適応しすぎている。

仕事を探す方法がわからない。いや、なんとなくだが、ハロワにいけばいいということはわかる。が、伊達に十年以上引きこもっていたわけじゃない。ハロワの場所なんかわかるわけもなし。それに、ハロワにいっても仕事を紹介されるだけだと聞いたことがある。紹介された所に履歴書を持っていき、面接をうけるわけだ。この、エッチな液体で袖とかカピカピなって、ところどころに血が付いた服で面接を?受かるわけがない。俺だったらこんなクレイジーな格好した奴は絶対に採用しない。共感は覚えるかもしれないが、絶対に採用はしない。そもそも履歴書の売っている店もわからない。文房具屋か?コンビニか?コンビニぐらいは歩いてればあるかもしれないが、金は持っていない。もし、それらがクリアできたとしよう。運よく金融機関か何かで金を借りることが出来て、服を新調して、履歴書と筆記用具を買ったとしよう。履歴書というものは住所が無いと書けない、と聞いたことがある。詰んだ。ここにきて、俺は人生が完全に詰んだのを自覚した。

(『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』、web版序章。)

生きるためには働かなければならず、仕事の機会は就職支援窓口で探せる。服や履歴書、文房具を用意する金は借りる方法を考えられるし、住所さえあれば履歴書も書ける。だが金を借りられないかもしれず、住む場所もない。だから仕事には就けず、新しい人生を始めることもできない。もし主人公がここで、苦しみながら生き延び、懸命に生きて、最後には軌道へ戻る道を選んだなら、有川浩らの作品によく見られる、挫折した若者が再起する励ましの物語に近いものになったかもしれない。しかし主人公は、34歳で住む家もなく、無職のニートである自分が現実社会でどんな立場に置かれているかをあまりによく知っている。現実世界のルールをあまりによく知っているからこそ、彼は「ずっと後悔していた」。これ以上後悔せず、わずかでも満足を得るために、人を助けることを選び、その結果として死ぬ。死後、彼がたどり着くのは剣と魔法があり、RPGのように動くファンタジー世界である。なぜその世界へ来ると、もう後悔しないために「本気を出す」必要が生まれるのか。ここで重要なのは単なる「人生のやり直し」ではない。その世界の作動原理が、彼自身の認めている二次元世界、ゲーム世界の論理であって、元の世界の論理ではないことである。その論理は自分が熟知しており、元の世界の論理に似た部分についてもすでに一度経験している。だから、もう逃げる理由がない。本気で生きなければならない。そしてその逃げる理由そのものを消すために、主人公は元の世界で死ななければならないのである。

言い換えれば、異世界転生作品が従来のファンタジー/異世界転移作品を大量に押しのけたのは、現在の社会における「努力―成功」という人生モデルには同意したくないが、それを受け入れなければ自分は排除される周縁者にしかなれない、と感じる社会的感情が噴き出した結果である。『無職転生』の主人公があまりに細かく描き込まれているため、作品固有の事情に引きずられてこの結論に同意しにくいなら、『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』の主人公アズサを例にしてみよう。相沢梓は普通の会社員で、度重なる残業による過労の末、職場で死ぬ。神に目をかけられた彼女は異世界へ転生し、不老不死の魔女になる。いわばチート能力を得たにもかかわらず、豪奢な暮らしを選ぶのではなく、普通の働き手のように毎日一定数のスライムを倒し、平凡な日常を続けている。

この作品でも、相沢梓は同じように「必ず死ぬ」運命に直面する。ここで言うのは生理的な死ではない。主人公には、自分が内心では拒んでいる社畜的な働き方を選ぶか、そこから離れるかしかない、という意味である。そして一度離れれば、「社畜として働く人生」の意味から見れば、彼女はすでに死んだことになる。『半沢直樹』で何度も語られる「出向は銀行員としてのキャリアの終わりだ」という感覚と同じである。より厄介なのは、離れたあとに何があるのか、という問いである。現実世界の社会環境全体が同質的な生活モデルで満たされており、しかも主人公は死んで転生したあとになって初めて自分の愚かさを反省するのであれば、実のところ「離脱」という選択肢はない。一時的に逃げることしかできない。

反都市化的な色彩をもつ「地方へ帰る」「都市から逃げる」といった作品がしだいに衰退していくなか、比較的若く、豊富な社会経験をもたない創作者たちが最後に選ぶのが異世界である。自分がよく知るゲーム世界をモデルとし、努力すればその分だけ報酬が返ってくる異世界を選び、そこで自分の日常をリセットし、人生をリセットするのである。

四、日中異世界転生の差異構造

「人生をリセットする」という話題になれば、近年話題になった『ぼくたちのリメイク』、そして中国語圏インターネットで何年も流行してきた「重开(やり直し)」のミームに触れないわけにはいかない。この二つを入口に、日本と中国の異世界転生に見られる構造の違いを簡単に考え、ここまでの議論を少し補ってみたい。

まず『ぼくたちのリメイク』を見よう。これは人生をやり直す物語である。ゲーム業界を夢見る28歳の主人公は、専門外からゲーム会社に入るが、力を発揮する機会を得られない。会社が倒産し、失意のまま実家へ戻ることを選ぶが、一眠りしたあと目を覚ますと、自分が大学進学を選択した時点へ戻っている。そこで今度こそ機会をつかみ、芸術大学へ進み、夢を実現しようと決意する。主人公が過去へ戻らない外伝『ぼくたちのリメイク Ver.β』や、先ほど触れた若い社会人の努力―成功を描く作品が、まだ素朴な「初心を忘れるな」「諦めずに続けろ」という価値観を伝えているのだとすれば、人生やり直しものは、実のところ『無職転生』のような作品以上に妄想的で、有害である。なぜなら、やり直しものは、励ましの物語のように自分が拒んでいる論理や価値観と共存するわけでも、異世界転生もののように別の天地を切り開くわけでもない。過去へ戻り、結果を知った状態で、その価値観のなかの勝者になる道を選ぶからである。この点で『ぼくたちのリメイク』は突出した例ではない。もっと露骨なのは中国のネット小説における「穿越」ものだ。実際、中国ネット小説の大部分は「人生やり直し小説」とでも呼べる。作者の目から見た世界――本質的には現実世界の作動原理や価値観と何も変わらない世界――を設計し、さまざまな要因によって主人公に先行者利益を独占させ、その世界で抜きん出た存在にする。玄幻からファンタジー、歴史、都市ものまで、ほとんど例外はない。主人公が拒んでいるのは現実世界の作動原理ではない。拒んでいるのは、自分がその論理と価値観のもとで敗者であることだ。だから機会さえあれば、必ず成功しなければならない。

「重开(やり直し)」や「投胎(生まれ直し)」のミームが流行するのも、まさにこうした社会感情からである。格差社会の論理を受け入れ、そのなかの強者になり、優越した暮らしを享受したいからこそ、人生のやり直しに執着する。田園牧歌的な夢を売る文化産業以上に警戒すべきなのは、「強者」だけが自分自身の日常生活をもつ資格がある、と考えるまでに作り替えられてしまった、このばかげた考え方である。

結論:死と新生

/remake はゲーム『リーグオブレジェンド』で味方の回線が切れた際に試合をやり直すためのコマンドであり、近年流行する「重开」ミームの一つの表現でもある。ゲーム用語を使って自分の感情や直面する問題を表現することは、今日の若者における想像力の一つのあり方である。だが文化消費のなかで、その想像力の境界をさらに広げることはできるだろうか。私たちは生きているのに、なぜか人生をやり直したいとも感じてしまう――そうした既存の現実世界の論理から抜け出し、自分から本気を出して向き合いたいと思え、逃げたり投げ出したりする余地のない世界を想像することはできるだろうか。おそらくそれこそが、日本の異世界転生作品が主人公の「必ず訪れる死」を通して示す超越性なのである。そして、チート、ハック、ゲーム改造ツールという隠喩そのものが示すように――想像上の世界で無敵になったあと、私たちはどのような「新生」を生きたいのだろうか。

本文終わり