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存在しない君に恋をして――『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』評

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』は、物語に一度も姿を現さないヒロインをどう形づくるのか。固定された視点、交換日記の対話性、書体が生む多声性を手がかりに、主人公と読者がともに巻き込まれる、萌えと虚構と喪失の悲劇を読み解く。

著者: 红茶泡海苔翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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红茶泡海苔

文学修士。オタク文化批評、文芸批評。

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』は、第19回電撃小説大賞の金賞を受賞し、『このライトノベルがすごい!2014』では年間35位、新作部門10位という好成績を収めた作品だ。中国国内でもそれなりに知られ、台湾版も刊行されている。ライトノベルの読者サイト「軽国」の2013年度新作投票では、1位にも輝いた。泣ける、感動する、と読者から高く評価されている本作について、本稿ではその感動の構造を分析し、背後にある原理を明らかにしたい。

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』作品タイトル画像

この作品ならではの三つの特徴

泣ける作品には、たいていお決まりの型がある。すでに死んだヒロイン、あるいは死と同じ状態にあるヒロインが、何らかの超自然的な力によって生きながらえる。死と同じ状態とは、たとえば杉井光の『終わる世界のアルバム』や麻枝准の『Angel Beats!』における消失のことだ。しかし、その超自然現象はいつまでも続かず、最後には死や消失と向き合わなければならない。『終わる世界のアルバム』や『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などは、基本的にこの型に忠実だ。『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』もおおむねこの型に当てはまる。ただし、この作品には、ほかと大きく違う点がある。ヒロインの夢前光が、一度も作品に登場しないのだ。

まずは『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』に見られる、三つの特徴に注目しよう。そこから、この作品がなぜ独特で、これほど読者を感動させるのかを考えていきたい。

視点の設定

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』の核心にあるのは、「憑依」、あるいは「身体の入れ替わり」という設定だ。

目の前で少女が死ぬのを見ているしかなかった坂本秋月は、謎の黒衣の人物から持ちかけられた、自分の命の半分を使って少女を救うという取引を受け入れる。ところが、それは文字どおり命を半分分け与えることではなかった。死んだ少女、夢前光の魂が秋月に憑依し、一日ごとに二人が交代で秋月の身体を動かすことになったのだ。

こうした「憑依」や「身体の入れ替わり」は、オタク文化ではごくありふれた設定といっていい。西尾維新の『猫物語』、吉河美希の『山田くんと7人の魔女』、最近では新海誠の『君の名は。』なども、この設定を採用している。

設定そのものに目新しさはない。しかし、本作ではその扱い方がきわめて独特だ。

最初から最後まで、主人公の坂本秋月を視点人物とする一人称の語りが貫かれ、本編全3巻を通じて一度も視点が切り替わらない。なぜ作者は、これほど視点の固定にこだわるのか。実はそれが、本作がこれほど泣ける理由と深く結びついている。詳しくは後で論じよう。

日記の対話性

本作の二つ目の不思議な特徴について、まずは原文を読んでみよう。1

『ベッドの下を探索していたらとんでもないお宝を発見!まさか坂本くんが女の子と文通していたとはね。かっわいい~~~~~!』
と続いてる。
「昔の話だよ!ほっとけ!」
——日本語版第1巻、71頁

『ねぇ、なんで友達作らないの?』
「なんでだろうね」
——日本語版第1巻、79頁

『それに坂本くんてば、わたしの好きな小説のキャラに似てるし。だからダイジョブさ!』
「それと何がどう関係あるんだよ」
——日本語版第1巻、125頁

ここまで読んで、皆さんも気づいたのではないだろうか。坂本秋月と夢前光が日々のやりとりに使っているのは、そもそも「交換日記」なのだ。交換日記もまた、「身体の入れ替わり」を扱う作品ではよく見られる設定だ。

作中では、日記の右半分に坂本が、左半分に光が書く。本来なら、長い書き置きがまとまって並ぶはずだ。ところが小説では、その日記の形式をそのまま再現せず、内容を会話のように組み直して読者に示している。身体を交代で使う秋月と光が、設定上、会話できないのは明らかだ。それでも、長い書き置きを組み直し、一言ずつの会話のように並べることで、私たちは「まるで会話しているかのような」不思議な感覚を覚える。ひとまず、これを「対話性」と呼ぼう。

疑問を持つ読者もいるかもしれない。理屈のうえでは、交換日記をあえて小説のように書いて、「会話文」を残すことも不可能ではない。それに、地の文には「……と書いてある」といった、日記であることを示す記述もある。

ただ、筆者が問題にしているのは、形式が完全に「会話文」と同じかどうかではない。こうした文章の並べ方が、「まるで会話しているかのような」読書効果を生むことだ。確かに、ここまでの例にはまだ日記であることを示す地の文が混じっており、会話の感覚はいささか弱い。しかし、引用はまだ終わらない。続きを読んでみよう。

二月ほど前だろうか。誕生日でもないのに、いきなり誕生日プレゼントを渡されたあの事件。お返しを催促されていたのだが,色々とドタバタしていて完全に忘れてた。どうやらそれが、凶行の原因となっていたらしい。
『いい?今回は許してあげるけど、今度からは気をつけること!女の子はイベントをすっごく大事にするんだからね!次はあんな復讐じゃすまないと心得よ!』
「へいへい。気をつけますよ」
アレをこえるとなると、家族会議に発展する可能性がある。気をつけよう。
——日本語版第2巻、37頁

ノートを開いて最初の一行目を目に入れる。
『タマタマ痛い……』
「女の子がそんな単語使うなよ……」
いきなりなんだ。
『なんで?坂本くんの秘蔵動画を参考に、彼氏が喜ぶポーズをレクチャーしてあげただけなのに……雪瑚ちゃん、あんなに思いっきり蹴り上げなくても……』
またいらんイベントがあったようだ。つーかどいつもこいつも秘蔵動画を漁りやがって。もう秘蔵でもなんでもねーじゃんか。
『痛いよぉ……。お風呂でマッサージしたのにまだ痛い……心なしか腫れてるような……』
あんまり触るなって、恥ずかしいんだから。
『坂本くんが童貞卒業できなくなっちゃう。ただでさえ、ちっちゃくて頼りないのに……』
泣くぞ!
『だめ。ちょっと我慢できない。薬塗っておこう。ムヒでいいや』
「…………え?」
お、おい。まさか……。
『坂本くん、ごめんね。机の上にひむ置いとくから、起きてもまだ痛かったら塗ってね』
ま、待て。そ、それだけは……。
『これでぐっすり寢られるね。んじゃ、おやすみ~』
や、やめ――。
——日本語版第2巻、60頁

中国語版の注(訳文では「ムヒ」を「風油精」に置き換えている):ムヒをあそこに塗ったときの効果は、風油精を塗ったときとよく似ている……とりわけ尿道に入ったら、とんでもないことになる。皆さん、絶対に試さないでください。

物語が進むにつれ、引用箇所からは日記であることを示す地の文が徐々に省かれ、対話性が強まっていく。最後の引用では、冒頭の一文を除けば、日記であることを示す地の文がまったくない。その後も対話性は強まり続ける。第2巻の74頁、107頁、183頁、186頁、293頁、297頁などがその例だ。もちろん、まだ終わりではない。

日本語版の第3巻を手に取り、本文を開いた、その瞬間。

季節は肌寒い十月の休日。
『怒らないと約束できるなら、真実を教えよう』
「なんだいきなり」
起床と共に開いた日記の書き出しはこんな文章。さて、嫌な予感が全力疾走してきたぞ。
『どんな真実を知っても怒らないと、ここに誓うのだ』
「へいへいわかったよ。なにをやらかしただ」
どうせまたドジを踏んだんだろうけど。
『絶対怒らない?』
「怒らないよ」
『ほんとにほんとに?』
「ほんとにほんとに」
『もし怒ったら、パソコンの検索履歴に「ミク 縞パン」があったことバラすからね』
「それバラしたら確実に怒るからな」
なんで知ってるんだ。いいから用件を言えっつーの。
『月曜日だったかな。かすみちゃんから「週末、一緒に遊びに行こう」って誘われたの。ごめん、言うの忘れてた』
「なんだ、そんなことかよ」
以下略。
——日本語版第3巻、12頁

第3巻は、冒頭からいきなり先制パンチを食らわせてくる。ここでの対話性は、ほとんど完成形に達している。日記であることを示す地の文があっても、この引用の強烈な会話の感覚は揺るがない。作品の進行とともに、第1巻ではまだ弱かった対話性が第2巻で成長し、第3巻で頂点に達する。第3巻には、ほかにも92~94頁、101頁、127頁、175頁などの例がある。

ここまでをまとめよう。『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』で坂本秋月と夢前光は交換日記を使っており、光の残す言葉は、本来、日記の形式に沿っているはずだ。ところが本作は、日記をそのまま写し出すのではなく、その内容を分割し、会話のように組み直している。秋月が向き合っているのは長い書き置きのはずなのに、小説の中での並べ方によって、読者には――まるで秋月と光が会話しているかのような――錯覚が生まれる。ヒロインはこれらの場面に一度も登場していない。それなのに、会話形式で読ませることで、読者は夢前光が実際に作品の中に存在していると思い込む。そしてこの錯覚が、作品全体の悲劇の源となるのだ。

書体の違いがもたらす多声性

三つ目の特徴について、さらに原文を見てみよう。

「セクシードリーム自身が『わたしは桜姫高校2年2組在籍の者だ!悔しかったら明日か三日後か五日後に仕返しにこい!』とほざいとったんじゃい!文句あんのか!」
――日本語版第1巻、98頁

これは、モヒカン頭の男がセクシードリーム――秋月の身体を使っている光――への仕返しに、主人公の教室へやってくる場面だ。引用したのはモヒカン頭の男の台詞だから、読むときには頭の中で男の声を思い描くはずだ。だが、大半の読者は、ここで女の声を思い描くのではないだろうか。少なくとも筆者はそうだった。引き続き原文を見よう。

「『教えてくれてありがとう。ごめんね、勝手なことしちゃって。わたしなりに坂本くんにたすけてもらったお礼をしたかったんだけど、余計だったよね。かすみちゃんにも悪いことしちゃっったし……。かすみちゃんにはできるだけ普通に接してあげて。急に距離を置いたら傷ついちゃうから。わたしもかすみちゃんのこと、できるだけ気をつけるようにする。本当にごめんなさい。
んでんで、やっぱり好きな子いたんだ!んもう、恥ずかしいがらなくていいのに~!坂本くんて結構かっこいいし、実はヘタレ萌えキャラだから母性本能がアレでコレで絶対うまくいくよ。がんばれ坂本くん!応援するぜぇ!』か……」
――日本語版第1巻、176頁

「『南極星で風城くんのお誕生日会を開いた!財布忘れたからおごってもらった!』『風城くんの家で化学のテスト勉強をした!モルって何?って訊いたら笑われた!』『進路希望に風城くんが教師って書いてた!』『向いてなさそうって言ったら怒られた!』『風城くんに無理矢理パセリ食べさせたらむちゃくちゃ怒られた!今度もっかいくわせてやる!』」
——日本語版第1巻、288頁

これらも前と同じく、夢前光が坂本秋月の身体を動かしていたときの「発話(parole)」や「記述」を引用している。そして、それを第三者が改めて声に出すことで、もう一つの「発話(parole)」が生じている。理屈からいえば、直接声を出しているのはモヒカン頭のチンピラや坂本秋月であり、私たちが頭の中で聞くのも男の声のはずだ。ところが読者は、その理屈どおりの声のほかに、繊細な少女の声まで思い描いてしまう。つまり、引用箇所では文章の「声」が「多層化」している。ほかにも、第2巻の128頁、254頁の目覚ましの一件などがある。本来なら男の声を思い描くところで、読者が少女の声を思い描いてしまう。この現象を、筆者は多声性と呼ぶ。

多声性が生じる理由は二つある。

第一に、これらの引用で女性的な言葉遣いが使われていること。

第二に、引用箇所を見ればわかるとおり、書体を太字にしていることだ。夢前光の「発話(parole)」と「記述」をすべて太字で示すことで、太字=夢前光の発言という一貫性が生まれる。そのため読者は、太字に出会うと思わず少女の声を思い描いてしまう。ただし注意したいのは、書体の仕掛けに気づけるのが読者だけだということだ。作品の中の主人公には、小説が会話形式で読ませる効果も、多声性も感じ取れない。たとえば第2巻129頁では、坂本は前日の自分――夢前光が動かしていた坂本秋月――が録音した声に起こされ、ひどく嫌な気分になる。しかし読者には、多声性によって、小悪魔めいた少女の声が聞こえてくる。ここに主人公と読者の情報の差が垣間見える。

存在しないヒロイン

厳密にいえば、夢前光は物語の中に存在しない。設定上、光は坂本の身体に宿ることでしか存在できず、幽霊のように宿主を離れて単独で存在することもできない。身体が入れ替わっているあいだの記憶を二人が共有できないことも、光がずっと坂本に取り憑いているわけではないことを示している。要するに、夢前光は実際には、不連続な存在なのだ。

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』では、語りの視点が固定されている。視点人物は主人公の坂本秋月だ。夢前光に「憑依」されているあいだ、秋月は意識を失う。だから光が活動しているときには、視点人物である秋月は光を観察できない。同様に、秋月が活動しているときには光の意識が消える。坂本秋月は永遠に夢前光と会えない。視点人物は、永遠に夢前光を観測できないのだ。

後から付け加えられたヒロイン

本作には、夢前光そのものを直接描いた箇所がない。では、その声はどんな声なのか。それどころか、彼女が女性なのかどうかさえ証明できない。それなのに読者は、ごく自然に彼女を女性だと想像し、ヒロインと見なし、その姿を、声を思い描いている。そして、彼女と坂本秋月の成就しえない恋に、涙を流す。

ヒロインの夢前光は存在しない。だが、坂本秋月の身体を動かすことによって、確かに作品世界に影響を与えている。ところが読者は、「夢前光が存在する」、しかも女性の姿で存在するという錯覚を抱く。先に述べたとおり、その原因は対話性と多声性にある。

ここで、なぜ読者がこの錯覚を抱くのか、別の角度からも見てみよう。

筆者は、ライトノベルという形式がもたらす先入観も、その一因だと考える。読者の第一印象を決める表紙にヒロインを描くのは、電撃文庫のライトノベルではお決まりの形式だ。この形式に慣れている読者ほど、言い換えれば、ライトノベルを多く読んでいる読者ほど、その先入観を抱きやすい。

そして本作も、読者の先入観を意図的に利用して、夢前光というヒロインを形づくっている。作者はインタビューでも、ある重要な事実に触れている。電撃小説大賞を受賞した時点では、本作は単なる多重人格の物語で、女性キャラクターが少なく、何よりも、その版にはヒロインがいなかった。受賞後、刊行までの過程で、もっと「電撃文庫」らしくするために改稿し、夢前光というヒロインを付け加えたのだ。2

挿絵と物語の矛盾

夢前光は最初から存在したのではなく、後から作り上げられた存在だ。そのことは、挿絵と物語の矛盾にも表れている。すでに述べたとおり、設定上、光と坂本秋月は物語の中で同時に存在できない。ところが、物語の外、つまり表紙や挿絵には、二人が同時に登場する。表紙については先に論じたので繰り返さない。挿絵では、たとえば第4巻にあたる短編集の最初と最後の白黒イラストに、夢前光が日記を書く場面が描かれている。だが本文に記されているのは、まだ慣れない少年の身体を動かして、少女が筆を執るという光景だ。文章に描かれているのは、夢前光が主導権を握った坂本秋月なのに、挿絵に描かれているのは夢前光である。挿絵と物語の描写が矛盾している。しかも、この矛盾は意図的なものだ。この矛盾を読み解けば、このライトノベルをまったく新しい視点から捉えられる。

夢前光が日記を書く挿絵・その1

夢前光が日記を書く挿絵・その2

虚構のヒロイン

そうであるなら、挿絵と物語は分けて考えるべきだ。たとえば、表紙に描かれた坂本秋月と夢前光は、どれも視線が交わらない構図になっている。表紙は物語の内容を描くというより、物語全体の核心である「会うことのできない恋」を別の角度から読み解いた、独立した作品なのだ。また、表紙や先ほどの矛盾した挿絵に含まれる情報は、書体がもたらす多声性と同じく、物語の中の登場人物には知りえない。

そこで筆者は、表紙と挿絵を物語の外部と見なすことを提案したい。こう整理すれば、かなり明確な構造が見えてくる。夢前光というヒロインは、物語の中には一度も存在せず、物語の外にだけ存在するのだ。

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』第1巻の表紙

憑依の正体

ここまでの議論で、二つの点を指摘した。夢前光が存在するのは、物語の中ではなく、その外だ。一方、物語の中で彼女がとれる姿は、坂本秋月の姿しかない。秋月はそのことをわかっていながら、どうしようもなく、この存在しない少女を愛してしまう。ここでは、この二点の背後にある特別な意味を明かしていこう。

すでに触れたとおり、本作の「身体の入れ替わり」は、従来のそれとは大きく異なる。入れ替わる相手が、一度も作品の中に存在していないからだ。では、この「身体の入れ替わり」とはいったい何なのか。

実は答えは、最初から作品の中にある。次の一節を見てみよう。

『あぎゃほぼうちゃれひゃはばあひゃhfせーじぇいpはどえあ』
——日本語版第2巻、59頁

訳すと?……いや、訳しようがない。

この引用は、夢前光がうっかりデリケートな部分に風油精を塗り、床に残した「ダイイングメッセージ」だ。よく考えると、このダイイングメッセージは実に不思議だとわかる。何が不思議なのか。

まず、皆さんにこんな小ネタを紹介しよう。

『紫ババアって呼んで何が悪い。まさかあいつが後ろから現れて、俺の頭をキーボードに押しつけてめちゃくちゃにsidufgusydufg维素ftjusdygjhweth29w783trsydvgjsfsdk』

おわかりのとおり、夢前光が床に残した意味不明なダイイングメッセージは、よくよく考えると、ペンで書いたものとは思いにくい。むしろ、キーボードで打ったものに見える。

つまり、夢前光と坂本秋月の奇妙な入れ替わり生活。その本質は、憑依や交換というより、オンラインゲームのアカウントを共有することに近いのだ。

身体の入れ替わりに関する設定を整理しよう。夢前光と坂本秋月は、一つの身体を共有する。身体の主導権は一日ごとに入れ替わる。互いの記憶は共有できない。二人は決して同じ時間に存在できない。そこで筆者は、坂本秋月の身体をオンラインゲームのアカウントと見なせると考える。光の意識と秋月の意識は、そのアカウントのパスワードを共有している。一方がログインすると、もう一方は強制的にログアウトさせられる。そのアカウントで一方が何をしたかは、記録としての「日記」や、ほかの登場人物からの伝聞がなければ、もう一方にはわからない。そして、死んだ夢前光に坂本秋月のパスワードを渡したのが、黒いマントをまとったGM(ゲームマスター)なのだ。

だから、すでにアカウントを抹消された夢前光は、坂本秋月のアカウントを使ってしか物語に入ってこられない。坂本秋月が知ることのできる相手も、日記に記された、もう一人の自分でしかない。これこそ、本作に隠された「ゲーム的リアリズム」である。

もちろん、これほど複雑な仕組みを作者が意図的に作ったとは言い切れない。だが、知らず知らずのうちに受けた影響だとすれば、十分に筋が通る。そして、その影響の存在を示す証拠も十分にある。先ほど引用したダイイングメッセージ。第1巻43頁でネタにされている細田守――ゲーム的リアリズムの典型とされる『時をかける少女』の監督だ。ほかにも、Yahoo!知恵袋やTwitterを描いたくだりが大量にある。それらも、ある程度は隠喩となっている。たとえば、妹のツイートにも別の書体が使われている。キャラクターごとに書体や文字の色を変えるのは、ギャルゲーではごくありふれた手法だ。

そして最も重要な証拠は、作者インタビューで、夢前光を作る際に2ちゃんねるを参考にしたと、作者自身が明言していることだ。夢前光は2ちゃんねるから生まれたヒロインなのだという(電撃文庫インタビュー、3頁)。3 筆者はここまで「ゲーム」をたとえに使ってきたが、重要なのは「アカウント」という概念だ。ゲームであれ掲示板であれ、アカウント、ユーザー、管理者という三つの概念は共通している。

表象としてのヒロイン

夢前光は物語を超えた存在だ。物語には一度も登場せず、対話性や多声性といった言葉の仕掛けによって表象されている。読者は、本作の日記の見せ方によって、その表象を実体だと錯覚する。夢前光がそこにいて、坂本秋月と会話していると思い込む。特殊な書体を見ると、頭の中で自ずと光の声を補ってしまう。夢前光というキャラクターの形成には、私たち読者が読むという行為が欠かせない。ある意味では、読者が読み、錯覚を抱いて初めて、光はきわめて特殊な形で作品の中に存在できるのだ。夢前光は表象としてのヒロインであり、自律的な記号であり、後から補完されたヒロインなのである。

存在しない少女に恋をする

ヒロインは表象だ。物語の中では、男性として存在している。それなのに主人公の坂本秋月は、何の抵抗もなく、光を女性として受け入れる。たとえば、日本語版第1巻143頁には、こうある。

『それはさておき、いつも優しくしてくれてありがとう。きみと一緒ですっごくたのしいよ。これからもずっと一緒にいようね。坂本くん』
という台詞に、似合わないとわかっていながらも赤面してしまう。

ここからわかるのは、坂本秋月が夢前光を思い描くとき、いつも女性として思い描いていることだ。だからこそ、想像の中の夢前光に顔を赤らめる。秋月は男が好きなのでは、という読者もいるかもしれない。そんなわけがあるか。女の子みたいな木下くんさえ恋の相手として受け入れなかった坂本くんが、男を好きになるって? 誰が信じるんだ。

話を戻そう。坂本秋月は夢前光をいつも女性として思い描く。とはいえ、その想像を妨げる瞬間はある。光が「性別」のせいで騒ぎを起こすたび、たとえば女子更衣室に入り込むたびに。自分から自分へ手紙を出し、妹から、昨日のあんたに伝言を頼まれたんだけど、と突っ込まれたときに。夕日の中、土砂降りの雨を浴びながら『ショーシャンクの空に』をまねて撮った光の自撮り写真を見たときに。そのつど秋月は、夢前光が実際には男であり、しかもその男が自分自身だと、改めて思い知らされるはずだ。

だが、そうした場面があっても、坂本秋月はごく自然に夢前光を女性として扱う。光の文字を見て顔を赤らめ、女の子が顔を赤らめる姿を思い描く。少女の声を頭の中に響かせる(日本語版第2巻13頁)。前日の自分の声で起こされてひどく嫌な気分になったかと思えば(同巻129頁)、同じ録音を聞いて涙をこらえられなくなる(同巻254頁)。彼女の文字をゆっくりと撫で(日本語版第1巻27頁)、この世界のどこにも存在しない君へ向けて、心の中で決意を固める(同巻237頁)。

巨乳のかすみが押し倒し、誘惑してくる。絶対領域が魅力的な美少女の後輩、美紗貴が、今日の自分は先輩の理想どおりかと問いかけてくる。坂本秋月は、彼女たちからの愛の誘いをためらいなく断る。物語の中に実際に存在する二人の女性をためらいなく拒み、存在しない少女に、どうしようもなく恋をするのだ。

表象に恋をする

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』は、実際に存在する二人の女性、かすみと美紗貴について、多くの紙幅を費やして性的な魅力を描いている。夢前光が実際には存在しない少女だと、あるいは作品の中では男性としてしか存在できないのだとわかれば、両者の対比は鮮明になる。

一方には、よだれが出るほどの絶対領域とすらりとした美脚を持つ後輩、そしてこの世の諸悪の根源たる巨乳を持つ同級生がいる。他方には、男の姿で存在する「存在しない少女」がいる。坂本秋月は、ためらいなく後者を選ぶ。実際に存在する女性ではなく、虚構の女性キャラクターを選ぶ。こうした坂本秋月の好みは、ライトノベルの主要な読者であるオタクたちの好みと、きわめてよく似ている。

しかし、先ほど述べたように、坂本秋月は物語の登場人物であり、物語の外の情報を集めることができない。読者が夢前光を女性と見なし、光に萌えるのは、「表紙」「挿絵」「多声性」「対話性」といった、物語の外の情報に触れられるからだ。秋月はそれらに触れられない。それどころか、身体の入れ替わりの当事者として、光が男性として存在していることを、読者よりも生々しく実感しているはずだ。それでも坂本秋月は、読者と同じく、夢前光を好きになる道を選んだ。

ライトノベル読者と主人公の対応関係

本作は、文章を巧みに組み立てることで読者に錯覚を起こさせ、もともと作品の中に存在しないキャラクターに萌えさせる。一方、坂本は、その仕掛けによる効果を感じ取れないまま、読者と同じ道を選んだ。

坂本秋月も私たちも、作品の中に存在しない光の姿を、明日の坂本秋月に投影している。ともに、存在しない少女に恋をしている。こうして読者と主人公の坂本秋月のあいだに、「共犯関係」が築かれる。この関係によって、読者はより容易に主人公へ自分を重ねられる。本作が坂本秋月を視点人物とする一人称にこだわるのは、読者と主人公を同調させ、その関係を強めるためなのだ。

メタフィクション

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』は、虚構のヒロインを描きながら、最初から、そのヒロインは存在しないと私たちに告げている。それでも、坂本秋月も私たち読者も、この虚構のキャラクターをどうしようもなく愛してしまう。

夢前光は交換日記を書くとき、いつも自分のイラストをいくつか描き添える。小説の中で会話のように組み直された日記と、日記に描かれたイラスト。光と坂本秋月の交換日記は、このライトノベルそのものの隠喩なのだ。

私たち読者は、このライトノベルを通して夢前光に萌える。坂本秋月は、日記を通して夢前光に恋をする。

だからこそ、光が消えようとするとき、私たちは坂本とともに涙を流し、もう光に会えないことに胸が張り裂けそうになる。作品を超え、現実にいるはずの私たち読者が、作品の中に引き込まれ、主人公と一体になってしまう。このように、作中のキャラクターを通して作品外の環境を隠喩的に指し示す手法によって、本作は巧みに仕組まれたメタフィクションとなっている。

メタフィクション的な悲劇

本作が悲劇であるのは、坂本秋月と夢前光の恋が実らないからだけではない。光が存在しないと知りながら、それでも彼女に恋をする坂本秋月。ライトノベルのヒロインは虚構だと知りながら、それでも彼女に萌えるオタクの読者たち。ライトノベルのヒロインは、決して触れることのできない虚構であり、最初から喪失の契機をはらんでいる。虚構のキャラクターを好きになり、萌えたそのときに、私たちは同時に彼女たちを失う。永遠に触れることができない。萌えと喪失は同義なのだ。この作品が描いているのは、ほかの誰かの悲劇ではない。読者=オタクたち自身の悲劇だ。ライトノベルを読み込んでいるほど、オタク文化の市場に深く入り込んでいるほど、読者は本作に描かれた悲しみを深く感じ取る。悲劇的な運命を描く物語に涙するだけではなく、自分自身のためにも泣きじゃくるのである。

光は本当に消えたのか

夢は終わった。夢から覚めると、光はいない。明日の自分も、今日の自分に戻ってしまった。虚構の少女との恋は、結局、悲劇として幕を閉じる。

だが、幕を閉じたはずの舞台に、再び白い光が灯る。

部屋中をひっくり返す。見つかった。絨毯の下にも、椅子の隙間にも、掛け時計の裏にも。

いつ……いつの間に、こんなにたくさんの――。

あちこちから現れる、無数の紙片。僕の愛した、もう一人の――

無数の紙片。あちこちから現れる紙片が、夢はまだ終わっていないと、坂本秋月に告げているかのようだ。

パソコンの隙間に隠れていた紙片には、一人暮らしで寂しくなったところに光ちゃん登場、油断したね!とでもいうような言葉がある。

それを見て、坂本秋月は気づく。

なぜだかわからないけれど、顔に笑みが浮かぶ。予感がする。きっと、何かが変わったのだ。

だから彼は、机に残されたノートを手に取る。信じている。日記には――

明日の坂本秋月はもういない。坂本秋月は日常の暮らしへ戻っている。光はもう、明日の坂本秋月を動かして紙片を書き残すことはできない。パソコンの隙間の紙片は、確かに、光が今の暮らしを偶然言い当てていただけかもしれない。

だが、坂本秋月は「気づいた」。もう一つの可能性に気づいたのだ。もし、自分に憑依しなくても、この紙片を書き残せるのだとしたら。もしかしたら、光は今もどこかで自分を見ているのではないか。光の残した紙片がいくら探しても尽きることなく、ふとした折にいつも自分のそばに現れるのなら、それこそ光が存在する何よりの証拠ではないか。光のいる場所が自分のそばでなくても、紙片が自分と光を結ぶものになる。自分と光は、今もつながり合っている。

そして、この「どこか」、「自分のそばではない場所」こそ、物語の外部であり、キャラクターのデータベースなのだ。

短編集で描かれるのは、夢前光が計画した、数年後のクリスマスの集まりだ。そのときには、坂本秋月との入れ替わり生活はすでに終わっている。光は物語から跡形もなく消えてしまっている。それでも――

皆が手を上げ、空を見上げた、そのとき。

まるでタイミングを見計らったように。まるで光が皆を見ているかのように。白い雪が、空からゆっくりと降ってくる。

まるで、この雪を光が降らせているかのように。

おかえり、夢前光。

萌えの肯定

虚構の少女に萌えることは、結局、悲劇になる。

だが、悲劇であっても、坂本は――そして読者は――それでも信じる。

その信じる心に、物語の外にいる光が応えるかのように、空から雪が降ってくる。

『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』が私たちに伝えるのは、萌えた相手が存在しない少女であっても、その行為自体が悲劇であっても、私たちは信じていいということだ。それが本物だと信じていい。彼女たちと、今もつながり合えると信じていい。

私たちをつなぐのは、一冊一冊のライトノベルだ。作品が終わらないかぎり、光は永遠に存在し、私たちはいつまでも光とつながることができる。たとえ作品が完結しても、二次創作を通して、批評を通して、絵を通して、あらゆる創作の手段を通して、私たちは光とつながれる。あの尽きることのない紙片のように、作品が次々と生まれ、私たちがそこに絶えず命を吹き込むかぎり、光が本当に消えることはない。

これこそ、筆者がこの批評を書く最大の原動力だ。

今日、私は批評を書く。明日、光は生き返る。

坂本秋月と夢前光

編者より

いいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞいいぞ!

本文終わり
注03

注釈

  1. 日本語引用は中国語原記事からの再引用。頁数・太字・表記も同記事に従う。 ↑

  2. 訳注:電撃オンラインのインタビュー第2頁では受賞後の改稿が、第3頁では多重人格という初期構想とヒロインの導入が語られている。ただし、光を加えたのが受賞後だったとは明記されていない。 ↑

  3. 訳注:インタビュー第3頁で藤まるは、光を2ちゃんねる好きのつもりで書いたと説明する。「2ちゃんねるが生んだヒロイン」という言い方には、そうなのかもしれない、という留保と冗談が伴う。 ↑

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