
世界のない時代に、意味のない愛を広める。
『ウルトラマンレオ』は昭和ウルトラマン最後の挽歌だ。昭和ウルトラマンが死の間際に放った、最後の輝きでもある。『ウルトラマンタロウ』は、かなり低年齢の子ども向けにできている。ウルトラマンタロウは「皇太子」で、欲しいものは何でも手に入る。主題歌を聴いてみてほしい。「ウルトラの父がいる/ウルトラの母がいる/そしてタロウが ここにいる」。1 タロウは典型的な「コネ組」だ。欲しいものは何でも手に入り、強力な後ろ盾がある。それに、歌詞にはウルトラの父もウルトラの母も出てくるが、『タロウ』全体を包んでいるのは母性的な空気だ。タロウは守られる側にいる。建築の様式から衣装のデザイン、さらには怪獣の名前まで、作品全体にポストモダン的な遊びの感覚が色濃く出ている。タロウの人間体も、わがままで明るい青年だ。彼にとって世界はあまりにも単純で、ただの遊びでしかない。
それに対して、『ウルトラマンレオ』は『タロウ』のまったくの裏返しだ。まず、レオは故郷という足場を根こそぎ奪われる。こうして私たちは、かわいがられる「小皇帝」タロウから、父も母もいないレオへと、一気に連れてこられる。レオの足元にはもう、しっかりした大地はない。果てしない空虚があるだけだ。レオは徹底して故郷のない者であり、それでいて、どのウルトラマンよりも自分の肉体を頼りに、宇宙人と真っ向から殴り合う。なぜか。自分の身体以外、もう何も持っていないからだ。
『ウルトラマンレオ』の主題歌が描くのは、こんな情景だ。突然、嵐が襲ってきた。突然、炎が立ち上がった。ある予言が実現する時だ。ある終焉が告げられる時だ。誰も勇気を忘れてはいけない。誰もやさしさを忘れてはいけない。2

画面下の日本語字幕は「何かが終りを告げる時」。その上の中国語字幕は、何かの終わりが宣告される時、という意味。
この主題歌を聴いて、泣いてしまった。本当に。昭和ウルトラマンの主題歌では、たいてい最初からウルトラマンが登場する。遠い星からやってきて、地球を守る、といった具合だ。ところがこの歌では、ウルトラマンは最後になってようやく現れる。最初に現れるのは、ほとんど絶望しかない光景だ。まるで、理想のために今にも自爆しようとする戦士が、子どもたちに歌って聞かせているような歌だ。
レオはだんだん強くなっていく。なぜ少しずつ強くならなければならないのか。置かれた状況があまりにも厳しいからだ。「自分は強い」ではなく、「自分が強くなければ、みんな死んでしまう」。そういう感じなのだ。
それでもみんな死んだ。レオは強い。とても強い。レオは力を尽くした。力の限りを尽くした。それでもみんな死んだ。
レオには本当に故郷がない。地球でようやく大勢の仲間に出会えたのに、知り合った人たちの大半が、一人、また一人と、残酷に殺されていく。

先ほどの歌詞のくだりを、もう一度見てみよう。いきなり「突然」が二つ続く。何もかもが、あまりにも突然だ。『ウルトラマンレオ』の第1話からして、「セブンが死ぬ時!東京は沈没する!」なのだ。セブンはのっけから、身体が不自由になるほどに打ちのめされる。レオの助けを必要とすると同時に、天涯孤独のレオの父親役も務める。傷つき、不完全でありながらも、強い父親だ。タロウが母親に同一化するのだとすれば、レオは父親に同一化する。もっとも、老い、死を間近にした父親なのだが。
だが、こんな不完全な父子関係さえ続かなかった。物語の中盤で、セブンことダンは円盤生物の襲撃を受け、行方不明になる。
ご存じのように、ウルトラマンはふつう、人間の中から一人を選び、自分の人間体にする。だが、ウルトラマンレオは自ら人間の姿になる。これはちょうど、ヘーゲルとキルケゴールによるイエスの解釈の違いに似ている。ヘーゲルは、イエスとは人間に神が宿ったものだと考える。ウルトラマンが人間体を選ぶのと同じだ。一方、キルケゴールに言わせれば、イエスは他者だ。人間でもあり神でもある、と言ってはならず、神でもなければ人間でもない、と見るべきなのだ。イエスは絶対的な他者であり、一般―特殊という枠には収まらず、個別の存在でありながら普遍性に直接つながっている。
ウルトラマンレオもまた、どのウルトラマンとも違いながら、すべてのウルトラマンを直接代表しうる。レオは、そうした普遍性を体現しているのだ。故郷のない者、つまり全世界を異郷とする者。アウエルバッハは、そういう者こそ完全な人間だと言う。3

『ウルトラマンレオ』は円盤生物編に入ると、濃厚な終末の空気を帯びる。円盤そのものにも当時のUFOブームが重なるが、この終末の空気は時代精神とさえ言える。前世紀の後半、日本には世紀末への恐怖が蔓延していた。円盤生物を操るブラック指令の姿は、1999年7月に世界が滅びると予言したノストラダムスの、いかにも恐ろしげな紋切り型のイメージにそっくりだ。『レオ』と同じ時期、日本では『ノストラダムスの大予言』という、ひたすら気が滅入る絶望的な映画が公開された。1974年、この映画の興行収入は、なんと邦画で第2位だった。さらに信じがたいことに、この「暗黒映画」は日本の文部省の推薦映画にまでなった。世界の終わりを前に絶望した若者たちが、手を変え品を変えて集団自殺するさまを、たっぷりと描いた映画が、だ。われらが日本の文部省、すごい、すごい、すごい、すごすぎる!
ともかく、たとえ明日が世界の終わりでも、勇気を忘れないでほしい。やさしさを忘れないでほしい。ウルトラマンレオ、ありがとう。