作者がBangumiで発表した記事を、許諾を得て屋頂現視研のコラムに掲載したもの。ごくわずかな修正を加えている。作者のさらなる作品を期待したい。気に入った方は原作者をフォローしてほしい。
いつものように、まずは短評を少し。大きな構成についてはひとまず置いておく。本当に面白いところがあるなら、二周目を見終えてから改めて話すことにする。『超人幻想』の失敗は、會川昇が選んだ語りの戦略の失敗だと言える。単元劇(一話ごとのエピソード)の語りは、神化42年(1967年)と神化47年(1972年)を中心とする二つの時間層のあいだを行き来する。そのあいだに置き去りにされた五年間が、キャラクターの性格に巨大な空白を生んでしまった。本来なら社会空間のなかに現れえた「迂回」や豊かな行動動機が、時間の圧縮によって、わずか20分のアニメーションへ投影される。その結果は、通俗的な読み方をすれば滑稽で笑えるものになる。全体を補いながら見れば、これは内実のない物語ではない。だが、時間軸の両端から恣意的に切り出すやり方では、部分的には、牛でも馬でもないような怪物を作り出すことしかできない。この怪物を見たのは観客のせいなのか? 明らかに會川昇のせいだ。アニメ第2期のエンディング映像は、この困難をよく示している――時間軸をあまりに気軽に飛び越えると、ろくなことにならない。

時間を制御する力のなさは、會川昇の社会をめぐる語りの弱さを露呈させる。実際、會川昇はいつも「社会派」の脚本家と見なされているが、だからといって社会描写が得意だというわけではない。単に、社会描写にこだわり続ける脚本家だというだけのことだ。この時間制御の弱さは、空間の描き方において、さらに露骨に現れる。結局、時間とは空間の状態を記述するための一つの記号にすぎないからだ。しかし、視点を空間へ移してみると、神化42年と神化47年では、キャラクターの服装が違うだけで、背景はなお同じであることに気づく。この空間の類似――というより同一さ――が、時間についての観客の曖昧な感覚をいっそう強める。弾幕(画面上を流れるコメント)に現れる「また時間軸が飛んだ?」という問いの背後には、疑いようもなく巨大な混沌がある。
初回の検討は、この不足を指摘するためのものだった。再検討では、その不足の背後にある物質的条件を暴く。まずは、會川昇が名を上げるきっかけとなった特撮映画へ戻ろう――アニメーションに大きな影響を及ぼしたメディアであることは疑いない。特撮映画の二つの核心要素。それは、スーツアクターと、破壊可能なミニチュア(縮小模型)だ。カメラがスーツアクターの動きを追うとき、背景として画面に入るミニチュアは、破壊される対象になる。スーツアクターの現実性と、ミニチュア(背景)の虚構性が、一つの矛盾として現れるのだ。この矛盾は、翌日の撮影でさらに際立つ。スーツアクターは、前日に身につけた新しい技能や負った傷を抱えて現れる。そこには、時間が彼の身体のうえで成長していくことが示されている。一方、ミニチュアは復元され、それによって時空の外へ追放される。

ここで、掘り出した微妙な「倒錯」をさらに見てみよう。考古学(archaeology)とは、物質文化を調べることで当時の社会状態を復元し、器物と、器物が地層のなかに凝固させた時空の関係に目を向ける学問だ。この広く認められた科学の枠組みは、日常生活において、私たちが物質的な時空の記録を信頼していることを意味する。ところが特撮映画では、すべてが逆転する。道具の虚構性は、時間を固定する錨にはならない。だから物語を理解するには、「身体考古」とでも呼ぶべきものに頼るしかない。特撮映画では、スーツアクターがますます多くの技能を身につけ、傷痕を増やし、変身ポーズを身につけていく。身体状態の記述が、新たな時間系列を感じ取る源になるのだ。新作の特撮大作映画でも、観客はしばしば、キャラクターの身体的属性(技能、傷痕、姿勢)によって、物語がどの時間的位置にあるのかを判断する。外部の物質的な標識はどうなったのか? 外部の物質的な標識は、捨てられた。
アニメーションにも、同じ苦境が存在する。すなわち、「動く」キャラクターと「動かない」背景であり、しかもこの構造は伝播する。背景の手抜きは(単に)背景レイヤーの手抜き(表現力の欠如)ではない。アニメーションの社会的背景の手抜き(意識の欠如)でもあるのだ。「社会派」アニメがまず克服すべきなのは、まさにアニメーションそのもののこの不足である。空間的背景の再構築は、語りの焦点の転換を意味する。そうすれば、「人間以上」の広い社会空間へ向かい、自律的に運動する客観的な物質法則のなかへ入っていくことになる。それまでの焦点は、意識的にも無意識的にも、技術によってキャラクターへ固定されていたのである。

「俺たちはもう正義じゃない。」
ここから出発して、2000年以降の「世界系」や、精神分析的な手法がアニメ解釈へ「侵入」したことをあらためて見直すと、社会空間が凝り固まっているために、多くの物語が夢という結末で説明できるようになったことがわかる。キャラクターの精神状態だけに変化が起きるなら、それはたしかに一場の「夢」にすぎない。もちろん、一日を無限に引き延ばせる「意識の流れ」という手法が悪いと言っているわけではない。だがその一方で、庵野秀明、幾原邦彦、湯浅政明といった有名監督の作品まで「意識の流れ」だと見なされている。さらには、幕間によって時間を区切る新房昭之の作品まで、時間の曖昧さゆえに、「酔って記憶を飛ばしたような意識の流れ」だと見なされる。これは、アニメーション監督たちに共通する、ある種の技術的傾向を示している。そして、ここでもう一度『超人幻想』を見ると、その英題は実のところ『Concrete Revolutio ~ Superhuman Phantasmagoria』である。作者は、phantasmagoriaを死の間際に見る走馬灯のような現象だと説明する。それはしばしば、平面に広げられた映画フィルムのような形に具象化される。それもまた一つの意識現象だ。ここで見えてくるのは、技術が悪さをしているということだ。アニメーションは、一つのメディアなのである。

編者注:以下は作者がコメント欄で補足した議論の一部を、編者が抜粋して本文を補うものである。
(……議論)大きな構成の問題。會川昇が、政治的な人物を核として設計した変革(日本社会)をめぐる主体性の問題、そして変革の精神分析。この議論が間違いなく強調するのは、人間の主観性と能動性だ。その一方で失われるのは、客観性と対象性である。いわゆる「社会派」がなお直面しているのは、社会が虚化していくことだ。この虚化を、日本のアニメーションがリミテッド・アニメーションだからだと単純に片づけることはできない。どんなメディアも有限なのだから。書くことは書くことではなく、削除することだ。つまり「削除記号の下での執筆」であり、これは言説資源の配分に関わっている。日本のアニメーションが最も貴重な資源をキャラクターに配分することに慣れてしまえば、精神分析の言説が(成立し)うる。通時性ではなく共時性が主導権を握り、それ自体がいくつかの表現を制限する。なぜ、會川昇のこの語りの戦略は失敗したと言えるのか? それは、日本のアニメーションのメディア形態と衝突しているからだ。余白が空白に変わり、観客の身体化された習慣が告げる――キャラクターに歴史がなければ、歴史もないのだと。
『超人幻想』は最後には、当初つくり出そうとしていた「神化」の時代感覚をも放棄し、會川昇がよりよく知る、しかもより一般化された問題である個人の成長へと退いていった。普遍性それ自体が、異なる種類の人間社会もみな同じ進化の平面にあると仮定している。歴史が退場した後には共通の支配構造が存在すると仮定し、(社会的)背景の特殊性を否定したうえで、人間の状態を論じることなのだ。
編者注:『超人幻想』には、まだ論じる価値がある。