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『天気の子』より面白いかもしれない——劇場アニメ『HELLO WORLD』を観て

映像と音の組み合わせやプレスコを切り口に、『HELLO WORLD』の三重の反転、代替による救済、ゼロ年代の物語の系譜、そしてアニメ化における人物の内面描写の取捨選択を論じる。

著者: 红茶泡海苔翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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红茶泡海苔

文学修士。オタク文化批評、文芸批評。

『天気の子』の上映前に『HELLO WORLD』の予告を観て以来、私はこの映画をずっと楽しみにしていた。『天気の子』に失望して帰ったあとには、一時、『HELLO WORLD』なら『天気の子』を超えられるかもしれないとさえ思った。公式サイトの紹介にあった宣伝文句——「『君の名は。』以降、新境地に到達した日本のアニメーションは、この秋きっと、新たなセカイ〈HELLO WORLD〉の扉を開く事になる。」——を読んで、その思いはさらに強まった。公式紹介 しかし結果から言えば、『HELLO WORLD』は作りこそまずまずだったものの、私が期待した水準には届かず、宣伝文句がうたう偉業も成し遂げられなかった。ただ、それは何よりも、私の期待が高すぎたからなのかもしれない。そもそも新海誠自身でさえ超えられない『君の名は。』を、『HELLO WORLD』ほどの規模の作品がどうして超えられるというのか。では、私はこの映画に何を期待し、映画はその期待にどう応え、あるいは応えられなかったのか。順を追って話していこう。

アニメ映画の音楽性

実のところ、『君の名は。』を超えるアニメ映画の登場に期待するのは、これが初めてではない。前にそう思わせてくれたのは、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』だった。あれだけ大いに期待をあおり、あんな予告編を見せていたのだから、私と同じ期待を抱いた人も少なくなかったはずだ。しかし、思いどおりにはいかなかった。公開された『打ち上げ花火』を観て、何よりも強く感じたのは——PV詐欺、ということだった。最大の詐欺は、米津玄師1が作曲した曲が、本編には一度も出てこなかったことだろう。言い換えれば、予告編が見せていたあの音楽性は、本編には完全に欠けていた。そして『HELLO WORLD』も同じだった。

『君の名は。』が成功して以来、アニメ映画に歌もののポップスを合わせるのが、一つの流行になったように思う。『HELLO WORLD』もその例に漏れない。予告編での2027Soundの歌と映像の組み合わせ、そしてPVが2027Soundの音楽を盛んに押し出していたことから、私はこの映画の音楽性に期待せずにはいられなかった。もちろん、その期待の基準にあるのは『君の名は。』だ。しかし、一度目の鑑賞ではひどく失望した。二度目には多少印象が変わったものの、音楽性への低い評価を覆すには至らなかった。

『HELLO WORLD』メインビジュアル

映画の冒頭では、映像と音楽の組み合わせに見るべきものがある。映像と音、そして登場人物の気持ちは、まずまずうまく重なり合っている。たとえば、気弱で、自分で決められず、優柔不断なわれらが主人公・直実が、書店で買った自己啓発本を頼りに、性格を変えようとするくだりだ。本のページがめくられ、性格を変える方法を記した章が現れる。直実はそれを実践して、失敗する。このページをめくるカットが繰り返されるたび、音楽の主題も一緒に繰り返される。こうした映像と音の同期は、ごく基本的なものだと言える。しかし基本だからこそ、アニメ映画の音楽性において重要な部分でもある。

ところが話が進むにつれ、映像と音楽のかみ合わせの拙さが、次第に露わになる。その後の場面では、映像に合わせるために音楽を無理やり切り詰めた箇所がいくつも出てくる。音楽がぷつりと途切れる。こうした編集は、あまりに唐突だ。サントラでは一分もある劇伴を、わずか数秒に切り詰めているところさえある。そして、『君の名は。』の「前前前世」の場面を明らかにまねた、日常の出来事をMV形式で一気に見せるくだり。予告編であれほど大々的に押し出されていた歌は、終わり方が唐突なだけでなく、前奏まで削られ、いきなりサビから流れ出す。強引すぎる切り替えに、どう受け止めればいいのかわからなくなる。

プレスコ/Pre-scoring

音楽と映像を合わせる際のこうした拙い編集は、『HELLO WORLD』が『君の名は。』の音楽性をどう誤解しているかを露呈している。映像と音楽を同期させるという目的だけを学び、その目的を達成する方法は学ばなかったのだ。私が「編集」という言葉を使っているとおり、『HELLO WORLD』の強引で唐突な編集は、映像と音楽を同期させる手法が、いまだにテレビアニメでよく見られる、後工程での音響編集の延長線上にあることを証明している。

一方、新海誠作品の音楽性は、プレスコ(Pre-scoring)に基づいている。新海誠は映像と音楽の組み合わせを十分に満足のいくものにするため、「ビデオコンテ」という方法を採っている。音響設計の工程を絵コンテの段階にまで前倒しし、絵コンテの画、音楽、そして自分で声を当てた登場人物の台詞を、Storyboard Pro上でまとめて調整するのだ。音楽担当者とのすり合わせや修正も、まずはこの「ビデオコンテ」という設計図の上で検討する。映像と音の組み合わせを設計し終えてから、本格的な作画工程へと進む。これほど入念に映像と音の関係を設計してこそ、『君の名は。』のような音楽性が実現する。

たとえば『君の名は。』では、サントラそのものにさえ物語の構造が宿っていて、あの旋律を聴けば、具体的な場面まで思い浮かぶかのようだ。もちろん、本編で使われたものとサントラの収録音源には違いがあり、本編の音楽にも編集は加えられている。実際、編集を簡単に、自由に行えるよう、アニメの劇伴の多くは、短い主題を繰り返す構成を採っている。この構成なら、いつでも編集して終結部につなげられ、映像の尺に合わせやすい。『君の名は。』の劇伴にも、当然そうやって編集で終わらせた跡はある。しかし『HELLO WORLD』のような強引さはなく、ましてや数秒しか残らないほど切り詰めることはない。

また、見逃せないのは、『君の名は。』では劇伴の前奏がほぼ切られていないということだ。前奏によって人物の感情を描く下地が整い、観客も感情移入しやすくなる。こうした音楽と映像の組み合わせは、プレスコという方法を使って初めて実現できる。映像に後から音を合わせるアフレコでも、たまたまうまく合うことはあるだろう。しかし全体を貫く音の設計がなければ、『HELLO WORLD』のように、徐々に粗が見えてくるのも当然だ。

ここで一つ注意しておきたい。プレスコ(Pre-scoring)で最も大事なのは、録音や作曲が作画よりも前(Pre)かどうかではない。たとえば映画音楽にはFilm Scoringという言い方がある。すでに撮影されたフィルム(Film)の映像に合わせ、音楽をつける(Scoring)ことだ。重要なのはむしろ、映像を設計する段階で、音との組み合わせ(Scoring)を考えているかどうかなのである。

プレスコの最も忠実な使い手であり、最も早くからの支持者でもあるのは、おなじみのミュージカルの王者——ディズニーだ。ディズニーは早くも1940年代には、長編アニメにプレスコを全面的に導入して映像と音を組み合わせ、さらにプレスコを通じて、現代のアニメで動きのタイミングやリズムを管理する「タイムシート(Timesheet)」を発明した。

それだけに『HELLO WORLD』は、何より惜しい。本作は3Dアニメで、音楽はあらかじめ作曲され、登場人物の声も3D制作に入る前に収録されていた。それなのに、依然としてテレビアニメ式の、後工程での音響編集を採っているのだ。3Dアニメなら映像と音楽を合わせやすく、音楽に合わせた映像の調整も、より低コストで、より直感的にできる。その利点を捨ててしまっている。

そもそも新海誠のアニメ映画の音楽性は、正直なところ、独特でもなければ、とりわけ優れているわけでもなく、凡庸とさえ言える。プレスコという手法は、部分的な使用に限れば、アイドルアニメの歌やダンスでとっくに広く使われている。テレビアニメのOPにも、プレスコに当たるものは多い。歴史を振り返っても、高畑勲の時代にはすでに使われていた。予告編の編集も、実はプレスコの一種と考えられる。だから『HELLO WORLD』本編の音楽性がどれほど拙くても、予告編なら映像を編集して音楽に合わせることで、優れた効果を生み出せる。『打ち上げ花火』のPV詐欺も、実は同じ理屈なのだ。

そう考えれば、新海誠の音響設計の手法は、確かに平凡なものだ。しかし、これほど平凡な手法でさえ、今の日本のアニメ映画界には、それを超えるどころか、きちんと使いこなす後続の作り手すら現れていない。これには、ため息をつかずにいられない。

『HELLO WORLD』宣伝ポスター

ラスト一秒で反転する物語

音楽性にはいささか失望したものの、この映画の物語はかなりよくできている。予告編でうたわれた「この物語(セカイ)は、ラスト1秒でひっくり返る」というコピーも、確かに観客に衝撃を与えた。2 原作小説の作者・野﨑まど3は、こうした反転を書くのが実にうまい作家でもある——その反転をよい意味で受け取れるか、悪い意味で受け取るかは別として。皆さんも『正解するカド』の結末は、まだ強く印象に残っていることだろう。以下、あらすじを紹介する。本作の反転やネタバレに関わるくだりは、引用形式の囲みで分けておくので、知りたくない方は飛ばしてほしい。

舞台は近未来の京都。気弱で、自分で決められず、優柔不断でありながら、そんな自分を変えたいと思っている主人公・堅書直実は、ある日、十年後から来た自分に出会う。十年後の自分は、突然、この世界の秘密を明かす。この世界は、京斗大学とある検索エンジン企業が共同開発した量子コンピュータに記録された、現実世界のデータであり、直実自身もそのデータの一断片にすぎない。そして十年後の自分は、実際に十年後の現実世界からやってきたのだという。

データ世界の中にいる直実にとって、現実と仮想の区別には意味がない。自分で判断できない直実は、何の抵抗もなくこの事実を受け入れ、現実世界の自分に、その目的を尋ねる。現実世界の自分は、直実に彼女を作らせるために来たのだと、冗談めかして言う。しかし、その冗談の裏には、救いようのない悲劇があった。

現実世界の自分——以下、こちらをNAOMI、仮想世界の自分を直実と呼ぶ——がヒロインの一行瑠璃と付き合い始めて間もなく、瑠璃は落雷事故に遭った。幸福が始まる前に、二人は悲劇の淵へと落ちてしまったのだ。NAOMIが現実世界を記録した仮想世界にやってきたのは、まさにこの悲劇の歴史を変えるためだった。しかし直実は、NAOMIに問いかける。仮想世界の歴史を変えたところで、現実世界の彼女が生き返るわけではないのではないか。NAOMIは黙ってそれを認める。彼にとって、仮想世界の歴史を変えるのは、ただ一行瑠璃の幸福と笑顔を見るためであり、自分と彼女の間に訪れることのなかった、幸福の可能性を見るためなのだ。それを見届けられさえすれば、たとえ仮想世界の直実が自分に代わって彼女と結ばれるだけであっても、それで十分に満足できる。

代替による救済

こうした代替による救済は、ゼロ年代のセカイ系・ループ系の美少女ゲームによく見られる。たとえば『マブラヴ オルタネイティヴ』では、BETAに荒らされた世界で、白銀武と鑑純夏は恋が実る前に死んでいる。その代わりにいるのが、鑑純夏の脊柱と脳から作られた生体コンピュータ・00ユニットと、その00ユニットが並行世界の白銀武の情報を集めて作り出した因果導体だ。だから、因果導体としての白銀武が、00ユニットとしての鑑純夏に告白したとき、彼女は拒む。BETAに蹂躙されたこの世界で死んだ鑑純夏にとっても、その代わりとして彼女の遺志を継いだ00ユニットにとっても、ほかの並行世界の白銀武の情報を集めた因果導体は、かつて好きだった、あの白銀武ではないからだ。

同じくゼロ年代の美少女ゲームである『BALDR SKY』にも、よく似た構造がある。主人公の甲とヒロインの空の恋は、ナノマシンの流出事故によって引き裂かれる。空がナノマシンに分解され、どろどろの肉塊になるのを目の前で見た甲は、寛容な心を失い、ナノマシンに荒らされた世界で、冷酷なサイバー傭兵として生きている。サイバー空間と現実空間で殺し合いを繰り返す甲は、ある日、サイバー空間での戦闘中に突然記憶を失う。記憶を探すうちに心の重荷を少しずつ下ろし、ほかの女性と結ばれていく。

いくつかのヒロインのルートを攻略すると、シナリオのロックが解除される。新たなルートで目を覚ました主人公は、突然、ログアウトのできないサイバー世界にいる。そこで、すでに死んだはずのヒロイン・空と、夢のような再会を果たすのだ。しかし、ようやく再会できたというのに、空は甲の告白を拒む。実はこの世界——世界0——は、それまでの世界——世界1——とは別の世界だった。世界1では甲が生き残り、空が死んだ。そして世界1を作り出したのは、空が生き残り、甲が死んだ、この世界0だったのだ。世界0にいる甲は、かつて二人がサイバー空間で作った、甲を模倣するAIにすぎない。空に思いを告げる甲は、甲の感情をまねたAIでしかない。この甲は、空がかつて好きだった、あの甲ではない。

失われたあの大切な人は、永遠に救えない。壊れてしまった幸福は、永遠に取り戻せない。ゼロ年代の美少女ゲームにおけるループ系の代表格であるこの二作品は、いずれもこうした悲劇の構造を持っている。しかし興味深いことに、結末までよく似ている。『マブラヴ オルタネイティヴ』では、あらゆる並行世界の白銀武の情報を集めた因果導体が、自分を、すべての世界の白銀武の集合、すべての世界の白銀武が鑑純夏に抱いた愛の集合として捉えることで、00ユニットの心を動かす。『BALDR SKY』では、甲を模倣したAIが、自分を、すべての世界の甲の記憶を受け継ぐ集合体、すべての世界の甲が空に抱いた思いの集合として捉えることで、空の心を取り戻す。二人とも、自分を一種の超越的な自己として捉えることで、代わりでしかないというこの難題を乗り越えるのだ。

それどころか『BALDR SKY』の最後には、ナノマシンによって現実世界に肉体が再構築されると、甲を模倣したAIが、なんとその肉体に入り、現実世界で空と再会する。ここでは肉体に戻ることで、甲の同一性が保証される。この人はあの人の代わりにはならないという、二作品に共通する単独性の問題は、両者は同じ者だという同一性によって乗り越えられるのだ。『HELLO WORLD』の先ほどの展開を観たとき、私は一時、これも同じような代替による救済の物語なのだと思った。しかし、世界の秘密が物語の冒頭で明かされていた時点で、すでに予兆はあった。野﨑はここで反転を仕掛けてくる。

『HELLO WORLD』「ラスト1秒でひっくり返る」ポスター

第一の反転

一行瑠璃を救うという点で一致した二人は、グッドデザイン(Good Design)を使う練習を始める。NAOMIと一緒に仮想世界にやってきた三本足のカラスが姿を変えた、仮想世界のデータを操る手袋だ。同時に、未来から持ってきたノートを使って、二人で一行瑠璃を攻略していく。こうして、ラブコメが始まる。

ただ、このラブコメの攻略過程で、直実はNAOMIの攻略法どおりに動くわけではない。NAOMIが経験した歴史では、直実と一行瑠璃が待ちに待っていた古本市は、照明が原因の火災で古本が焼け、中止になった。焼けた古本の大半は、瑠璃の亡き祖父の蔵書だった。二重の打撃を受けた瑠璃に、NAOMIは寄り添い、慰めることを選んだ。直実にも同じように行動し、歴史を変えず、攻略法どおりに恋を実らせてほしいと望む。しかし直実は、瑠璃が不幸になることに耐えられず、グッドデザインの力で焼けた本を再構築する。違う行動を取ったとはいえ、一途に瑠璃を思ってしたことは、やはり瑠璃の心を動かした。古本市が無事に開かれたあと、瑠璃は直実の告白を喜んで受け入れる。

しかし、あまりに早く歴史を変えたため、仮想世界の管理システムに異変を察知されてしまう。救出作戦の当日、管理システムの執行役である、狐面をつけた警官の群れが動き出し、瑠璃を襲う。狐面の警官を止めようとした直実も、落雷地点へと強制転送される。最後の決戦に、仮想の自分と現実の自分は力を合わせて挑む。グッドデザインで小型のブラックホールを作り、狐面の手から、落雷から、瑠璃を救い出す。歴史は変わり、恋は実った。しかし、何もかもがうまくいきすぎている。そこで野﨑は、第一の反転を仕掛けてくる。

直実のグッドデザインが一瞬で奪われ、檻に姿を変えて瑠璃を閉じ込める。NAOMIは、量子的な精神と肉体の隔たりをなくす必要がある、とつぶやく。実は、現実世界の瑠璃は落雷のあと、完全に死んだのではなく、脳死の状態にあった。複製できない量子的な精神を肉体に移植できれば、現実の瑠璃を救えるのだ。しかし移植には、精神と肉体の隔たりをなくす必要がある。そのためには、移植する量子的な精神を、現実の瑠璃が脳死に陥る直前の状態に限りなく近づけなければならない。だからNAOMIは直実を利用し、瑠璃を直実に恋させることで、落雷事故前のデートのときと同じ精神状態にした。すべての準備が整った今、NAOMIは瑠璃の精神を連れ、仮想世界を去る。あとには、打ちひしがれてその場に座り込む直実だけが残された。

第二の反転

NAOMIは、自分の瑠璃を救うため、十年近く、屈辱に耐え、重荷を背負ってきた。あるとき偶然、京斗大学の千古教授が、量子情報による脳神経の修復について講演するのを聞き、それからは時間も精力もすべてつぎ込んで、教授のチームに加わる。最下層の研究助手から、システム管理主任の地位までのし上がった。十分な権限を得たNAOMIは、自作の潜入装置で何度も量子記録システムへの侵入を試み、そのために大きな代償を払う。背中が焼け焦げ、さらには脊髄神経の損傷によって片足が麻痺してしまう。

しかし、これほどの犠牲を払っても、NAOMIは報われないようだった。目覚めた瑠璃に十年分の思いを伝えたところ、無残にも突き放されてしまう。瑠璃は困惑した顔でNAOMIに向かい、目の前にいるのは直実ではないと告げる。そう、この瑠璃が愛した直実は、目の前のこの直実ではない。システムに目をつけられることもいとわず、瑠璃が失った古本を修復し、その不幸を取り消そうとした、あの直実なのだ。NAOMIは驚かない。拒まれる覚悟は、とうにできていた。これは一時的なことにすぎない。この世界には、自分という直実しかいない。時間が二人の直実の違いをならしてくれるだろう。一方、仮想世界では、瑠璃の精神が移されたことでデータエラーが生じ、修復処理が始まっていた。

仮想世界の直実には、もう打ちひしがれている時間はない。修復処理に入った世界は少しずつ崩れ、世界の断片は空に広がる果てしない深淵へと吸い込まれていく。瑠璃が吸い込まれた、あの深淵。自分も飛び込めば、もう一度瑠璃に会えるかもしれない。直実は勇気を振り絞り、すべてを賭けて深淵へ身を躍らせる。サイバー調の不思議な映像演出を経て、直実は謎めいたサイバー空間にたどり着き、あの三本足のカラスに再び出会う。なんとカラスは言葉を話し、瑠璃を取り戻したいかと直実に尋ねる。直実は驚きながらも迷わない。取り戻したいときっぱり答えると、カラスは新しい手袋に姿を変え、直実は再びグッドデザインの力を手にする。

時間に溝を埋めてもらおうと決めたNAOMI。その彼がいる病室の扉が、突然開く。そこに現れたのは、なんと狐面の警官だった。窓の外も、たちまち狐面の警官に取り囲まれる。事態を呑み込む間もなく、NAOMIは床に押さえつけられ、ほかの警官たちは瑠璃のベッドへ飛びかかって、その首を締め上げる。恐怖と怒り、そして無力さの中で、NAOMIはようやく気づく。自分のいるこの世界も、自分自身も、実は仮想のものだったのだ。そのとき、仮想世界の直実の記憶が、突然頭に浮かぶ。我に返ると、瑠璃はすでに救い出されていた。突如駆けつけた直実が、狐面の警官をすべて壁に縛りつけていたのだ。ひとまず危機を脱すると、直実はNAOMIの顔面に一発食らわせ、瑠璃を連れて自分たちの世界へ戻ろうとする。あとには、途方に暮れ、力なく床に崩れ落ちるNAOMIが残される。

自分こそ現実世界の住人だと思っていたNAOMIも、実は仮想世界の一員にすぎなかった。仮想世界の中にいる人間は、自分の力だけでは、世界の真偽を見抜けない。この第二の反転を経て、物語は先ほどの、代替による救済の構造に戻る。この偽りの現実世界にいるNAOMIは、自分の瑠璃を永遠に取り戻せない。ただ無力さに沈み、打ちひしがれていくしかない。

最後の反転

瑠璃を元の世界へ送り返すには、京都駅にある有名な観光スポット、大階段へ行かなければならない。階段にデータ変換装置を設置し、瑠璃を上から下まで歩かせる必要があるのだ。しかしシステムは、別の世界から異物が入り込んだ状態を修復しようとする——言い換えれば、瑠璃を消し去ろうとする——動きを続けている。洪水や津波のように押し寄せる狐面の警官たちが、直実と瑠璃の行く手を阻む。そこへNAOMIが車で駆けつけ、二人を助ける。車中でNAOMIは悔恨を打ち明ける。最初の反転より前に掲げていた目的に立ち戻り、直実に協力して、瑠璃を元の世界に送り返すと決めたのだ。

手に汗握るアクションシーンを経て、三人は大階段の頂上にたどり着き、人々を避難させ、変換装置を設置する。階段を下りる前、瑠璃はNAOMIに、堅書直実なのかと尋ねる。不意の問いに心を揺さぶられたNAOMIは、自分はただの端役にすぎないと答える。しかし瑠璃には、すべてが見えているかのようだった。そっとNAOMIを抱きしめ、自分を愛してくれたことへの感謝を伝えると、身を翻し、たどたどしい足取りで階段を下りていく。その言葉が、NAOMIの心を守っていた最後の壁を崩した。どんなにこらえても涙を止められず、NAOMIはすすり泣きながら、長く押し殺していた言葉を漏らす。かつて、彼女が好きだったのだと。

瑠璃の変換は無事に終わり、あとは直実自身の変換を残すだけとなった。しかし、瑠璃が帰ったあとも、システムの修復の力は止まらない。この世界にはまだ、二人の直実がいる。データのアドレスの重複を修復すること——直実を消し去ること——が、今やシステムの最優先の目標となった。狐面たちは積み重なって巨大な怪物となり、大階段の変換装置を破壊して、二人の直実との決戦に突入する。だが不幸にも、グッドデザインの力を持つ直実でさえ、計算能力のすべてをつぎ込んだ修復システムにはかなわない。観光客を乗せたままの京都タワーが、飛び道具として直実に投げつけられる。直実は口や鼻から血を流し、目を真っ赤に充血させるほど力を尽くしても、京都タワーの落下を止めるのが精一杯だ。

システムの仕組みを知るNAOMIは、目的はアドレスの重複をなくすことなのだから、グッドデザインで自分を消せば危機を脱せると直実に説明する。しかし直実は拒む。NAOMIは自分を裏切り、瑠璃を奪った。それでも怒りは湧いてこない。それどころか、彼が味わった苦しみを、自分のことのように感じていた。直実にとって、別々の世界で違う歴史を生きてきたとしても、NAOMIは直実なのだ。彼は私だ。彼の願いは、私の願いだ。彼の幸福は、私の幸福だ。だから直実はNAOMIの提案を拒み、最後の力を振り絞ってシステムに攻撃を仕掛ける。

しかし残念ながら、システムの力がわずかに上回っていた。追尾する針が直実に命中しようとした瞬間、麻痺した足を引きずるNAOMIが、直実に代わって攻撃を受ける。この最後の瀬戸際に、小さな奇跡が起きたかのようだった。直実を生かし、幸せにするために、麻痺していた神経が働きを取り戻し、足が動いたのだ。NAOMIは自分を消すよう、直実に合図を送る。直実の泣き叫ぶ声の中、幸せに生きてほしいと言い残して、NAOMIは灰となる。システムの怪物も、ぴたりと動きを止めた。

狐面の警官たちが停止した隙に、千古教授は量子記録装置のリミッターを解除する。制御から解き放たれた量子世界は、本来の力を取り戻す。無限の記録能力を持つ量子記録装置は、人為的な制限を脱すると、この仮想世界を離れ、忽然と宇宙の果てへ消えていった。直実もまた、いるべき世界へと送り返される。サイバー調の空間をくぐり抜けたあと、直実と瑠璃は、新しい世界で目を覚ます。この世界には、京都の全貌を記録するための無人ドローンはもういない。降り注ぐ陽光の中、元の世界に戻ったのかと尋ねる瑠璃に、直実は、ここはきっと新しい世界なのだろうと答える——HELLO WORLD。 消えゆくグッドデザインの塵が、抱擁と口づけを彩る。二人の物語は幕を閉じた。

場面が変わる。ぼんやりと目を覚ましたNAOMIの目に映るのは、病院の病室のような部屋だった。かすかに聞こえてくるのは、医療スタッフの歓声だ。すぐそばの白衣の女性が、三本足のカラス、グッドデザインの声でNAOMIに語りかける。容器と中身を同期させる必要があったこと。大切な人のために行動したことで、今ようやく、彼の精神が容器と同期したのだということを。視界が次第にはっきりしてくる。白衣の女性は、自分が誰よりもよく知り、誰よりも愛している、あの彼女だった。堰を切ったように涙を流しながら、大人になった一行瑠璃が、ベッドの上のNAOMIを抱きしめる。カメラが外へ向く。再会した二人がいるのは、建設と開発の進んだ月面都市だった。ここで、映画はようやく最後の幕を下ろす。

これが、予告編でも触れられていた、最後の瞬間の反転である。実は、本当の現実世界で死んだのは、瑠璃ではなくNAOMIだった。瑠璃の言葉から推測すると、運命の日、NAOMIは身を投げ出して瑠璃を救ったはずだ。瑠璃はNAOMIの脳を修復するため、量子データからその精神を再構築した。しかし精神と肉体を同期させるには、NAOMIが死の直前の精神状態に近づかなければならない。最終決戦で、大切な二人の幸福、同時に自分と瑠璃の幸福を守るために身を捧げた行動が、身を投げ出して瑠璃を救った、死の直前の状態と重なった。容器と中身の隔たりはなくなり、NAOMIは脳死状態から回復する。彼と瑠璃もついに幸福を手にし、ハッピーエンドを迎えたのだ。 そしてこの最後の反転で、さらに興味深いのは、それまでの本編とはまったく異なる2D作画が使われていることだ。2Dの世界が本当の世界であり、3Dの世界はサイバー空間の世界なのである。

『HELLO WORLD』のデータ世界

ゼロ年代の作家・野﨑まど

『HELLO WORLD』の、何重ものメタ構造が入れ子になった反転の仕掛けは、評価に値する。ネタバレを恐れて本文を飛ばした読者にも、三つの反転を示す見出しから想像を膨らませてもらえるだろう。こうした構造は、一方では先に挙げたゼロ年代の美少女ゲームによく似ているが、同時に、ゼロ年代の推理小説で流行した手法でもある。たとえば舞城王太郎の『九十九十九』、そして西尾維新の『きみとぼくが壊した世界』だ。4

この二作品はどちらも、一つの輪の中にまた次の輪があるような、多重のメタ構造を採っている。前の章の内容が、次の章では一篇の小説にすぎなかったことにされるのだ。後者では西尾は、鉤括弧の片側だけを使うという形式まで、あえて採用している。すべて開き括弧だけを使い、メタ化がどこまでも重なっていく、その速度感を作り出すのである。主人公とヒロインがロンドンで遭遇した殺人事件は、一つ、また一つと、書かれた小説の中の出来事にすぎなかったことにされていく。そして最後の一段に至って、二人はまだロンドンに着いてさえいなかったとわかる。それまでの入れ子構造はすべて、二人が空港で飛行機を待つ間に書いていたリレー小説だったのだ。この点で、野﨑はやはり、実にゼロ年代的な作家なのである。

ゼロ年代といえば、もう一つ触れずにはいられない表象が、カラスだ。このカラスのモチーフの元ネタは明らかに、皆さんご存じ、セカイ系の不能性を代表する『AIR』のカラス——そら——である。ただし、『AIR』を元ネタにしていても、担っている役割は明らかに違う。『AIR』のカラスは、主人公が、そして同時にプレイヤーが、すべての選択肢を失い、カラスの視点から観鈴が死んでいくのを静かに見守ることしかできない、という不能性を代表する。一方、『HELLO WORLD』のカラスは、仮想世界のデータを書き換える、ゲームの管理者(GM)級の力であり、一種の全能性を代表する。しかし、物語の最後のあの反転を踏まえたとき、この全能性は、なお本当の全能性なのだろうか。皆さんの中には、もうそれぞれの答えがあるはずだ。

結び

最後に話したいのは、アニメ化における翻案の問題だ。一度目を観終えた直後、実のところ、私にいちばん強く残った印象は「アクション映画」だった。作品全体には三重の反転構造があるのに、登場人物がそれぞれの反転に直面したときの心理描写は、あまりに乏しい。その代わりにあるのは、非常に精緻なサイバー空間の映像演出と戦闘シーンだ。疑問を抱いた私は小説版を買って読み、こうした精緻なサイバー空間の演出や戦闘シーンが、小説ではごくわずかな割合しか占めていないことに気づいた。野﨑は、小説という形式の得意分野である登場人物の内面の変化に、より多くの筆を割いている。サイバー空間の雰囲気や演出、戦闘の描写は、必要最小限にとどめられているのだ。

となれば、私はこう推測せずにはいられない。本作のアニメ化を引き受けたのは、SAOのアニメ監督として名を上げた伊藤智彦である。彼が得意の想像力で描くサイバー空間を、映画に詰め込みすぎたことが、この作品の繊細な内面描写を破壊してしまったのではないか。伊藤智彦の、映像を中心に据えた翻案のほうを好む人も多いのかもしれない。しかし『君の名は。』を持ち上げてばかりの私としては、やはり登場人物の内面と葛藤、そしてその内面の揺れに重なる音楽性を、もっと見たかった。

T・ジョイ京都で映画を観終えて、ほんの数分歩けば、京都駅の大階段にたどり着き、聖地巡礼ができる。大階段の展望スペースにも、小さな竹の公園にも、雨水がたまっていた。映画の最後、新しい世界の大階段にたまっていた水と、そっくりだった。しかし京都タワーを見上げても、私の中に大した感慨は湧いてこなかった。伊藤監督の翻案が力不足だったせいにもできるし、私が今回のアニメ化に期待しすぎたせいにもできるだろう。けれど、ゼロ年代の文芸の洗礼を深く受けた一人として、やはり前者のせいにしたくなる。

追記

『HELLO WORLD』の音楽性の問題について。たった今、伊藤智彦監督のインタビューを読んだ。実は『HELLO WORLD』の制作でも、新海誠と同じようにStoryboard Proを使い、新海誠と同じように実制作で映像と音の組み合わせに気を配り、新海誠と同じようにプレスコを使い、新海誠と同じように一年近く音楽担当者とすり合わせを続け、新海誠と同じようにビデオコンテを作っていたという。しかもそれを製作委員会に見せ、百項目以上も修正したらしい。最初は伊藤智彦の顔を少しは立ててやろうと思っていた。制作の手順を学んでいなかっただけだろう、と。まさか、何もかも学んでいたとは。ほとんど、新海誠の手法を丸ごとまねたとさえ言っていい。それで出来上がったのが、やっぱりあのざまだ。人によって……ここまで力量に差があるとは、思いもしなかった。

本文終わり
注04

注釈

  1. 訳注:原文では、米津玄師の中国語圏での愛称「八爷」を使用。 ↑

  2. 訳注:公式コピーでは「物語」に「セカイ」のルビがある。公式コピー画像 ↑

  3. 訳注:「原作小説」や後半の「アニメ化」「翻案」は、小説から映画への改編として捉える著者の記述。映画は公式にはオリジナル劇場アニメで、野﨑まどは脚本を担当している。一方、刊行時の出版社提供紹介には、小説を映画の「原作」とする記述もある。映画公式紹介、出版社提供の刊行時紹介 ↑

  4. 訳注:原文の題名は「我与你的崩坏世界」で、『きみとぼくの壊れた世界』を思わせる表記。ただし、ロンドンをめぐる記述は、出版社の紹介と照らすと『きみとぼくが壊した世界』を指すと考えられるため、本文では後者の題名を用いた。前者は学園内の密室殺人を扱う別作品。講談社『きみとぼくが壊した世界』、講談社『きみとぼくの壊れた世界』 ↑

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