
しかし、どんな決断も、捉えきれていないもの、隠されたもの、惑わせるものに基づいている。そうでなければ、それは決して決断ではない。1

中国語のログの意味(上から):①心が低くきしむ音を立てた。②そして……扉が開いた。③心は鉄と風でできているのだと思う。④重い鉄板を叩くような音が響くのと同時に、潮風のような音がつま先から頭のてっぺんまで貫いたからだ。
この画面で私の心を打ったのは、もちろん三つ目の文だ。
心は、鉄と風でできているのだと思う。
訳注:表題とこの一文は、記事掲載の中国語から訳したもの。
この一文には、はっとさせられる。その素朴さと大胆さに。命題を構成する要素がどれも手の届くところにあるから、素朴なのだ。そして命題が子どもじみているからこそ、大胆なのだ。だが、その不思議さもここにある。なぜ心は、よりによって鉄と風でできているのか。思えば、若くて何もわかっていなかった頃、私も純愛ものを少しばかり書いたことがある。だが、自分の力では、こんな比喩は到底書けまい。せいぜい、心は鉄でできている、と書くくらいだろう。それならわかりやすい。鋼鉄の心、というわけだ。強がってばかりいるガキなら、誰だって「鋼鉄のような心」と書きたがる。その理由は誰もが知っている。冷酷なやつは、冷たくはないかもしれないが、いつだってクールなのだ。ところが、それに対して「心は風でできている」と書く人はいない。「心を風にまかせる」とは言っても、まず心が風でできているとは決して考えない。心はプラスチックでできていてもいいし、水や火でできていてさえいい。けれど、風でできていることはめったにない。なぜか。おそらく、その理由は哲学的なものだと私は思う。鉄は物質だが、風は物質の運動なのだ――物質は物質に変わることができるが、運動は別の運動にしか変わることができない。運動と物質は通約できない。そこにある違いは、小さな存在論的差異――深淵だ!――であり、それが両者を隔てている。

だが、鉄と風をただ要素に還元して見るのは誤りだろう。なぜなら――文脈から独立した要素など存在しないからだ。どんな要素も、ライプニッツのモナドのように、形而上学的な空間にそびえ立ち、自らの姿に、それぞれの世界を映し出している。このことがわかれば、鉄と風という比喩のイメージを、それが根ざす物語の文脈に戻して読まなければならない理由もわかる。
ここでは、作者本人についての憶測を抑えなければならない。というのも、私でさえ考えずにはいられないからだ。いったいどんな心が――いったいどんな体験を抱えていれば、心が何でできているかを想像するとき、鉄と風の両方を思い浮かべられるのか。それというのも、文章を狂気じみた比喩で埋め尽くす私のような人間でさえ、あのときにはアルコールか、大理石か、炎くらいしか持ち出せなかったからだ。――
だが、ここでの考察を、心が何でできているかという命題に限る以上、作者がどのような歴史を背負っているのかという数々の憶測は、断腸の思いで打ち切らなければならない。この一文の文脈はこうだ――暗い過去を抱えた少年である主人公は、自分が窮地に立たされていることに気づく。なんと、自分の過去が、ヒロインのみさきの過去と重なっていたのだ! みさきはもちろん彼の同級生だが、その同級生が、子どもの頃のあの子でもあったとは、夢にも思っていなかった。ここに至って、運命の輪はふたたび回り出す。しかも、その回り方はいささか速度超過だ。作者の豊かな比喩によって、主人公の内面世界は、固く閉ざされた鉄の扉として姿を取るかのようだ――みさきへの想いゆえに、鉄の扉は突然開き、風が流れ込んでくる――そして心臓と鋼鉄と風の比喩が、まさにここで、ぴたりとはまる。

こうして、この比喩の巧みさが、ようやく見えてくる。主人公の心はただの鉄ではなく、鉄でできた扉なのだ。固く閉ざされた扉。それ以外の何ものでもない。だが風は――いまやただの風ではなく、開いた扉をも暗示している。閉ざされた扉の内側には、風など吹かないのだから。
だから、主人公の心が鉄と風の結びつきであるなら、それはつまり、主人公の心がいま、開いた扉になっているということにほかならない。その外には、無限の世界がまるごと広がっている。気流が自由自在に駆けめぐることのできる、広大な空間だ。いま「心は鉄と風でできている」と言うことは、心がもはや自らを閉ざす牢獄ではなく、運命に開いた裂け目だということを意味する。老子が言うとおり、「粘土をこねて器を作る。その何もない部分があるからこそ、器としての用をなす」――この欠けた部分にも、風を受け入れることで、欠けていることの意味が生まれたのだ。
心は、その裂け目で内と外をつなぐ。だから私たちは、心を、主人公が世界へと開かれていくための媒介と呼ぶ。鉄と風のあの比喩によって、隠れた状態から姿を現すまでの移り変わりが、いまや鉄と風という要素のうちに具体的な姿を得た。これが詩句の意図なのかどうか、私にはわからない。ただ一つわかるのは、ハイデガーが entscheiden(決断する)を ent-scheiden と分解したとき、彼もまた、同じような媒介関係を強調しようとしていたということだ。ドイツ語の接頭辞 ent- には、まさしく「開く、取り去る」という意味がある――こうしてみると、entscheiden を ent-scheiden とするのは、結局、entscheiden(決断する)と scheiden(分ける)のあいだに、ent-(開く、取り去る)という関係があることを強調しているだけなのだ。
それゆえハイデガーは、こう言うことができる。「しかし、どんな決断も、捉えきれていないもの、隠されたもの、惑わせるものに基づいている。そうでなければ、それは決して決断ではない」(ハイデガー『芸術作品の根源』)1。――なぜなら、ほかならぬ決断こそが、自らを有と無のあいだの媒介として打ち立てるからだ。これによって私たちは、ふだん姿を現さないものが、なぜ私たちに知られうるのかと問わずにすむ。たとえば、隠されたもの、惑わせるもの、狂ったもの……。そうしたものを知ることが、いかにして可能なのかを知る必要はない。決断がすでに、それが可能だと示しているのだから。

だから私はよく思う。ハイデガーを学んでいる高校生たちが、対戦ゲームでもやってくれたら、どんなにいいだろう――いや、せめて麻雀でも打ってくれたら、どんなにいいだろう。私たちは知っている。決断と惑乱の体験は、言葉によってではなく、決断と惑乱によって得られるのだと。たとえば麻雀の魅力は、完全には合理化できない、その一点にあるのかもしれない。「スジ」や「壁」の理論にどれほど通じていても、計算では尽くせない局面が必ずある。だが、もし――もし、いまが決断を下すべきときだとしたら、あなたはどうする? 本当にそのときが来たら、きっと、狂気に身をまかせて牌を切るしかないだろう。だが、いまの人たちは何でも計算ずくで考えることに慣れ、計算こそがすべてだと思っている。おかしいことに、本当の計算は、自分には決してすべてを計算し尽くせないと知っている。なぜなら、型が、型になる以前のものに支えられているように――本当の計算も、混沌が支配する領域が確かに存在すると知っているからだ。その混沌に対して、計算はいつも遅れてやってくる。

私は、このうわごとを通じて『あおかな』の何かを見抜けるかのように装うつもりはない。もったいぶって文章を書くことで、この体験に終止符を打てるふりをするつもりもない。そんなことは、あまりに簡単で、あまりに簡単で、しかも不誠実すぎる。ただ、こうすることで、あれと同じような風をひと吹き呼び起こせたらと思っている。たとえ台風でもいい。私の心も、風と鋼鉄と同じ構造をもつものに変えてくれさえすれば。あるいは、風がないのなら、火か水を呼び起こす――鋼鉄そのものになるのだっていい。どれも私の望むところだ。ただ、こうなると、私は結局ずっと自分の心のことばかり考えているようにも見える――それに、そもそも、自分の心を気にかけない人なんているだろうか? だが、そんなことももうどうでもいい。心を搾って汁にしてしまうこの夜が過ぎ去れば、何もかも忘れてしまえそうだ。だから、もうこれでいい。このとりとめのない考えが、すべて消えてしまえばいい。