
世界のない時代に、意味のない愛を伝える。
見落とされがちな点は、半沢の父と大阪の中小企業社長が帯びる、明白な象徴性である。ドラマ全体の背景にはバブル期がある。日本が経済的に急成長した時代、郊外と都市の矛盾――地方の小さな工場を営む半沢の父と、世界的な大銀行を体現する大和田との対立――が、ここで徹底的に噴き出している。半沢直樹は父の死をきっかけに、銀行へ入ることを決める。父の死は、郊外=地方の死を意味する。半沢直樹の最初の決断とは、かつてのよき時代(工場)が完全に失われたことを受け入れることだ。地方=郊外は都市に完全に従属しており、地方=郊外を救う唯一の方法は、銀行という巨大な制度を変えることにある。この制度には明らかな問題がある。それを受け入れることが、半沢の出発点だった。まさにこの考えに立って、半沢は大阪の中小企業社長を助ける。そしてその人物も、自分の置かれた状況をよく理解し、一人では何もできないと知っていた。

『半沢直樹』には、家族の回復というものがある。まさにこの家族の回復こそが、郊外の死を埋めるのである。これは、いくつかの側面から語る必要がある。
- 半沢直樹とその仲間たちは、擬似家族のような関係を形成する。
- 半沢直樹自身が、自分の家庭をとても大切にしている。
- 半沢直樹は、自分と同僚との関係を擬似家族的な関係として、銀行(大制度)の上層部へ持ち込もうとする。
都市を再び郊外化し、制度を再び人間化する。
これは一つの側面にすぎない。しかし別の側面では、半沢こそ制度そのものの比喩である。半沢は銀行自身の問題を次々と埋め合わせ、そのことによって銀行に利益をもたらす。半沢は、銀行を完全に人間化するという終点にたどり着けると考えている。だが、この非人間化こそが銀行の基盤なのだ。明らかに、銀行は東田のような人間を必要としている。そうした人間のために、別の人間を犠牲にしなければならない。そうして初めて、銀行は自らの均衡に達する。銀行の均衡は多方面の利害にかかわるため、こうした情報を表に出すことはできない。半沢の誤りは、これらをそのまま口にしてしまったことにある。彼は銀行のもう一つの顔を明るみに出した。しかし、その一面を失えば、銀行そのものが支えられない。浅田の真相が東田にあるのと同じように、銀行もまた、表に出されない自らの暗部に依存しなければならない。

だから制度を完全なものにするためには、半沢は排除されなければならない。しかし、完全に排除することもできない。半沢自身があまりに切れ者で、簡単には片づけられないからだ。一方で、半沢には利用価値もある。半沢は、自分の目的(銀行の上層部に入り、銀行制度そのものを変えること)に近づいていると思っている。しかし、その目的へ近づく過程自体が、銀行にとっては半沢を利用する目的(価値)になってしまう。
もちろん、半沢が一人か二人の銀行員の秘密を暴くだけなら、それを自分のゲームの駒にして、少しずつ力を蓄えることもできただろう。問題は、半沢が上層部の秘密に近づくのがあまりに速かったことだ。何かに近づくのが速すぎると、私たちの行動そのものがその対象を変えてしまう。だから、中野渡頭取がもともとどんな性格だったかは重要ではない。彼の性格そのものが、半沢の行動によって変えられてしまったからだ。同じことは、半沢と関わる多くの悪人にも当てはまる。半沢は性急に動き、受けた恨みを一つも忘れず報復する性格でもあったため、あまりにも多くの悪人に出会うことになった。彼は、そうした悪人たちの一部を自分自身が生み出したことを忘れていた。
資本主義は自らの欠陥を自らの原動力へと変え、絶えず再生産していく。この観点からすれば、半沢そのものが銀行資本の一つの体現である。銀行に「鍋」(誰かに責任を負わせる案件)が多ければ多いほど、半沢はその「鍋」を通じて銀行に利益をもたらせる。半沢は銀行を、ある種の均衡、ある種の人間化へと導こうとする。彼は、銀行そのものが不均衡を均衡とし、非人間性を人間性として成り立っていることを見落としている。

中国語字幕の意味(上から):どんな仕事をしてもいい。人と人との付き合いを、必ず大切にしなさい。ロボットのような仕事だけはしてはいけない。
では、半沢自身の人間性はどうなのか。明らかに、半沢の家庭は幸福だが、それは理想的な妻がいることを前提としている。その妻がいなければ、半沢はおそらく苦戦を強いられる。銀行を家族化するという彼の理想そのものが、自分の理想の家庭の上に築かれている。家庭ではよき夫であり、友人にはよき家族のように接する。そのため半沢は、公と私の境界を著しく混同している。(もちろん、公と私の境界自体は曖昧だが、まったく区別がないわけではない。)彼は仕事上の敵に対して、自分の家族の敵(父の仇)に対するような態度をとる。しかしこのドラマは、仕事上のこうしたろくでなしどもも、家庭には非常に心を砕いていることを何度も思い出させる。その意味で、半沢は、日本の伝統的な共同体=郊外が持つ、公私を分けない性格を保っている。まさにこの性格が半沢の行動を形づくっている。だから彼は制度そのものを打ち倒せない。

中国語字幕「加倍奉还」は、画像に併記された日本語の「倍返しだ!」に当たる。
もう一度強調したい。半沢は、郊外型の性格と都市的な行動が奇妙に融合した存在である。まさにこの点に、観客は自分自身を見いだした。現代の日本人は、冷え切った仕事のあり方と、職場の人間関係を憎み、いわゆる昭和ノスタルジアが語る、公私が一体となった温かな環境へ戻ることを期待している。半沢は彼らの願望を体現すると同時に、その願望の非現実性も示している。半沢はいつも失敗しているが、失敗するたび、その目には強烈な緊張が宿る。ここで私たちは、仕事に挫折させられ続ける自分自身を、想像のなかに見いだす。半沢の表情がクローズアップされると、半沢の身体は当然、画面から消える。しかし同時に、観客はその空白を自分の身体で埋め、半沢の凝視に自分を重ねるのだ。