
高き岸は谷となり、深き谷は丘となる。
1. 人間の悪意と大虐殺
すべては『虐殺器官』から始まる。大虐殺をめぐる物語だ。
『虐殺器官』には二つの大虐殺が描かれる。一つは、ジョン・ポールが殺戮を誘発する文法を使って世界の「周辺」に引き起こす動乱や騒乱、つまり表に見える大虐殺。もう一つは、世界の「中心」にいる米帝が主導し、シェパード大尉自身も加わる作戦だ。世界の「周辺」で暴力の根源に狙いを定めて排除する。こちらは、表には見えない大虐殺である。この二つの大虐殺は、大虐殺についての二つの捉え方を表している。
一つは、大虐殺を人間の本性の問題として説明する見方である。この見方では、人間の本性には生まれつき暴力的な傾向や暗い面があり、文明化の過程が、それらの一斉噴出を食い止めてきたと考える。大虐殺は現代社会の平常の姿ではなく、さまざまな防止の仕組み(たとえば民主政治)が機能しなくなったときに生まれる「異形の産物」なのだ。要するに、大虐殺とは、ある時代のある場所にしか存在しない孤立した出来事である(たとえば1938〜1945年のナチスによるユダヤ人大虐殺)。文明の水準が高まるにつれ、私たちはこうした暴力の脅威から徐々に遠ざかりつつある。

これが、現在広く受け入れられている大虐殺の説明だ。この説明は、大虐殺を私たちの社会から(少なくとも意識の上では)追い出し、特殊なもの、周辺的なものにすることで、(少なくとも見かけの上では)平和な日常生活を守っている。その背後には、人間はより完全になりうるという、啓蒙の理性に根ざした考えがある。私たちは自らの悪しき性質を克服し、より完全な被造物になれる、というのだ。サラエボの核テロ以前のジョン・ポールも、その考えのもとで生きていた一人だった。人間の悪意は文明化の過程ですでに「消去」され、私たちはかつてない「平和」の時代にいる、と。
この考えと「進歩」の歴史観は、たしかに、人間の本性は変わらないとするキリスト教の原罪論や、中世の「停滞」の歴史観を乗り越えるものだった。だが、それらもほどなく自然科学の言説から挑戦を受ける。すでに19世紀には、犯罪学の創始者ロンブローゾが、骨相学の方法によって犯罪行為の生理学的な証拠を探そうとしていた。人間の行動傾向は、変えることのできない何らかの生理的構造(たとえば頭蓋骨の形)によって決まる、と考えたのである。この「生まれながらの犯罪者」という人間像も、キリスト教の言説における「原罪を負う人間」と同じく、人間の本性、とりわけ人間の限界は変えられないという前提に立っている。
『虐殺器官』の冒頭、サラエボの核テロは、暴力と文明社会に対する人々の認識を塗り替えた。この事件で妻子を失ったジョン・ポールも、文明社会への甘い幻想を打ち砕かれる。人間の悪意は「消去」されてなどいなかった。そこで彼自身が、その悪しき性質を探し始める。ナチスの宣伝文書の分析から導き出された殺戮を誘発する文法は、本質的にはロンブローゾの骨相学と同じ自然科学の言説である。人間の心の仕組みにはある種の限界がある。心の中で「殺戮」をつかさどる機能モジュールは、長い文明化の過程で「消去」されたのではなく、「潜伏」していたのだという。それが特定の文法規則によって作動し、大虐殺をもたらす。これこそ、チョムスキーの言語学を土台にした新たな「原罪論」だ。二百年以上が過ぎ、新たな終末の宣教師たちは、もはや聖書の言葉と粗雑な骨相学の証拠を掲げて、啓蒙の理性がもたらした善の可能性を攻撃するのではない。より鋭利な生物学、心理学、言語学の武器に持ち替えたのである。
ジョン・ポールもその一人だ。人間が善へ向かうという信頼を失った彼は、言語学の刃を振るい、「生まれながらに悪を背負う人間」を標的に、大虐殺を始めた。だが、彼が人間の悪意を追うあまり、そこから抜け出せなくなっている間に、世界の「中心」にいる米帝が主導するもう一つの大虐殺が、ひそかに進んでいた。シェパード大尉はこの事件に巻き込まれ、私たちに大虐殺を理解するためのもう一つの視点を与える。

2. 近代性と大虐殺
もう一つは、大虐殺の原因を近代性に求める見方である。大虐殺はある時代のある場所に限られた事件なのではなく、徹頭徹尾、近代の発明なのだ。近代文明を構成するさまざまな要素が、不思議な「化学反応」を起こして大虐殺を生み出した。木炭、硫黄、硝石と同じで、一つひとつはありふれたものでも、特定の割合で混ぜ合わせれば、巨大な威力を持つ火薬になる。人々はそれを「異形の産物」だと驚くが、それは私たちの文明の内側にある。
大虐殺の歴史を真剣に検討すれば、前近代の社会には、特定の人々を大規模に「排除」する、これほど計画的な行動はなかったことがわかる。戦争や疫病、飢饉は無数の命を奪ったが、それは生産力の低さがもたらす副産物だった。人類はかつて、これほど優雅にガラス窓のこちら側に立ち、向こう側の「シャワー室」で同じ人間が死んでゆくのを眺めたことなどなかった。
7年間で少なくとも600万人を「排除」するにせよ、7週間で少なくとも30万人を「排除」するにせよ、自発的な憎悪と熱狂だけでは到底足りない。それには、高度に合理化され、組織化された行動が不可欠だ。最も優秀な頭脳を集めて最も科学的な計画を立て、最も効率的な官僚制組織――通常は政府機関と軍隊――に実行させる必要がある。この精密な作業においては、同情であれ憎悪であれ、あらゆる感情が計画の妨げになる。実際、ナチスによるユダヤ人大虐殺を研究した歴史家ヒルバーグの描くところでは、恐怖の代名詞となったナチスの強制収容所でも、苦痛を与えることを楽しんでいた看守はごくわずかだった。より多くの看守が示したのは、冷淡さと抑制された同情、つまり自分は「合理的に動く機械」なのだという自覚だった。
ジョン・ポールは復讐の相手を間違えた。激情としての憎悪は長続きせず、すぐに消えてしまう。それはもしかすると、1938年にユダヤ人を襲った「水晶の夜」にしか存在しなかったのかもしれない。一方、政治の道具としての憎悪は、隅々まで染み込み、長く続く。ユダヤ人大虐殺の7年間を真に貫いていたのはこちらなのだ。サラエボの核テロを引き起こしたのは人間の悪意ではなく、核兵器の製造から起爆までをつなぐ命令の鎖全体だった。合理化され、私的な感情を排した命令の鎖である。
この鎖の背後には、米帝の姿と、強大な政治的国家としてのその野望がおぼろげに浮かんでくる。ジョン・ポールは、この命令の鎖をなす一つの輪であり、すでに制御がきかなくなっている。シェパード大尉はもう一つの輪で、まだ制御がきく。いま、後者は国家の命令を受け、壊れてしまった輪を交換しに向かう。こうして二人の運命は絡み合い始める。

3. 合理化と、それが可能にするもの
大虐殺の命令はどのように下され、人々はなぜそれに従うのか。合理化は結局、人々にどんな結果を受け入れさせるのか。
長い間、私たちは大虐殺の背後には強烈な人間の悪意があると考えてきた。たとえば映画やドラマのヒトラーは、いつも極端な反ユダヤ主義者として登場する。だが、先ほど述べたように、どれほど憎悪をたぎらせても、一個人が7年もの間、何千万人もの民衆に憎悪を「感染」させ、高度な合理化を特徴とする国家機構を動かすことはできない。実際、ヒトラーは民衆のあいだに反ユダヤ感情を広めようとしたこともあったが、ゲッベルスでさえ、応じる者はごくわずかだと認めざるをえなかった。ナチスによるユダヤ人大虐殺は、初めから虐殺を目標に設計されたものではない。むしろ、政治的国家が主導する巨大な「合理化プロジェクト」のなかで、行動の修正を重ねた末に生じた、予期せぬ一環だったのである。
公に行う政治宣伝で、ナチスが一貫して掲げていたのは、ゲルマン人の「千年帝国」を再建するというスローガンだった。ユダヤ人問題は、この「国家的使命」のうちの取るに足りない一部分にすぎない。ナチスは国外追放、集中的な監視、通婚の禁止など、次々と手段を講じてユダヤ人を管理した。だが帝国の領土が拡大し続け、ヨーロッパに彼らを収容する場所がなくなると、彼らを「シャワー室」へ送り、一括して処理することが、最も「合理的」な方法となった。これは初めから周到に計画されていた虐殺ではなく、ナチスの官僚が来る日も来る日も行政上の計画を練った末にたどり着いた結論だった。古い措置が新しい変化に対応できなくなれば、より効率的な案がおのずと議題に上る。同じように、日本の軍国主義政府が定めた最上位の戦略目標は、蒋介石政府を屈服させることだった。そのために彼らは北平で攻勢をかけ、上海で攻勢をかけ、南京で攻勢をかけた。

『虐殺器官』に戻ろう。米帝が主導する巨大な「合理化プロジェクト」は、本土の絶対的な安全を目指すものだ。米帝はこれを最優先の目標に据え、合理化の原則に従って意思決定を進めていく。国内では、監視体制を強化し、民衆の生命を全面的に剥奪することで、潜在するあらゆる暴力の危険を「消去」する。丸腰の民衆は、リヴァイアサンという国家機械にくまなく監視されると、制度的な暴力による報復を恐れ、自分たちで武力を持つことを断念せざるをえなくなる。こうして帝国の領内に「平和」が実現する――実際には、「暴力」を、より強大な「他者」の手に移したのだ。国外では、世界の「周辺」にいる過激派に狙いを定めて排除し、混乱の根を断つ。そのためなら、ジョン・ポールが発見した殺戮を誘発する文法を使って、民族集団のあいだに長期にわたる殺し合いを引き起こすこともいとわない。
シェパード大尉の秘密作戦が進むにつれ、私たちはようやく、ジョン・ポールが引き起こした大虐殺を、より高い次元から捉えられるようになる。大虐殺は悪意の結果ではなく、米帝の合理的な意思決定に組み込まれた「非情な」一環なのだ。実際、シェパード大尉のソマリアでの行動をよく見れば、ジョン・ポールが引き起こしたかに見える「周辺」地域の大虐殺でさえ、その成立に必要な条件――たとえば効率よく機能する軍閥政府、多数の殺傷用兵器――を米帝が提供していたことが、容易にわかる。憎悪から始まった殺戮では、それほど多くの人を傷つけることはできない。組織を整え、武装した軍隊だけが、大虐殺を継続させる力を尽きることなく供給できる。その力もまた、米帝の精密な計算から生まれている。
ジョン・ポールは「殺戮の鎖」をなす一つの輪として操られていた。復讐の感情のために「合理化プロジェクト」を動かす役目を果たせなくなると、米帝はシェパード大尉に、ジョン・ポールの「回収」を命じた。ジョン・ポールなど、壊れた「部品」にすぎない。政治的国家の野望、巨大な「合理化プロジェクト」に比べれば、まったく取るに足りないのだ。

4. 『ハーモニー<harmony/>』と「生府社会」
いまや私たちにはわかっている。ジョン・ポールは復讐の相手を間違えた。サラエボの核テロの黒幕は、人間の悪しき本性ではなく、米帝と、それが主導する世界秩序だった。『虐殺器官』の結末で、ジョン・ポールは殺戮を誘発する文法によって北米をパニックに陥れるが、この世界秩序にかすり傷一つつけられなかったばかりか、逆に合理的な行政が社会全体を統制する力を強めてしまった。その先に見えてくるのが、『ハーモニー<harmony/>』のフーコー的な「医療社会」――「生府(ヴァイガメント)社会」である。

画像内の中国語字幕「米歇爾·福柯」:ミシェル・フーコー。
先ほど述べた政治的国家と、それが実践する「合理化プロジェクト」の背後には、実は二つの仮定がある。一つは道徳的な仮定、つまり政治的国家は「ポリス(都市国家)」の生活の延長だというものだ。「ポリス」の生活とは、公的領域と私的領域がまだ分かれていない暮らし方を指す。「ポリス」の公民、すなわち政治共同体の一員は、共同生活のなかで形づくられる。その行動を動機づけるのは、私的な享楽ではなく、共同体全体の幸福を高めることだ。「ポリス」は個人より上位にある社会的な存在として、構成員に一定の「徳性」を求める。ルソー的な「道徳的共和国」がその一例だ。
もう一つは技術的な仮定で、「合理化プロジェクト」は「ポリス」の生活を実現する技術的手段だというものだ。個人は生まれながらに「ポリス」の公民なのではなく、「公民」を作るための原材料であり、管理し、飼い慣らす対象である。これは、孫文が『中華民国建国大綱』で述べた「訓政」(政府が国民に自治の訓練を施すこと)に似ている。政治的国家は、個人を管理し、飼い慣らすことで、「適格な人間」にする。こうした政治実践が最終的に生み出すのが、『ハーモニー<harmony/>』の社会なのだ。
政治的国家は「ポリス」の公民を生み出す「助産師」である。だから、人間の本質が、それ以上還元できない「魂」にあるとされるとき、政治的国家は人間の「魂の技師」となり、文化の領域でさまざまな強制手段を用い、民衆の徳性や好みを形づくる。一方、生物学、心理学、医学などの自然科学の言説が広がり、人間の本質が身体の物理的な活動に還元されるようになると、政治的国家の監視対象は身体となる。「生府社会」は、やがて公民となる子供たち一人ひとりに身体監視システム「WatchMe」を組み込み、薬剤を精製する装置でその生理反応を制御する。子供たちが17歳の誕生日を迎えると、「WatchMe」は自動的に起動する。こうして子供たちもまた、自動的に「ポリス」共同体の一員となる。
これが『ハーモニー<harmony/>』の本質だ。フロイトの考えでは、「自我」は私的なものであり、つねに外界と相いれず、緊張と抑圧の関係に置かれている。これに対しミードの考えでは、「自我」は公共的なものであり、「他者」によって与えられ、自らの属する集団の道徳、理想、価値観と一致する。つまり、内と外が調和しているのである。
『ハーモニー<harmony/>』の最後に、「生府」はすべての人の自我意識を消し去り、多を一に変えることで、人類全体としての永遠の生を実現した。あるいは、個人という意味では「誰ひとり生き残らない」と言うべきか。新たな社会では、誰もが「他人」を気遣う存在であり、「他人」のために生きる人間なのだ。多様性を消し去ることで、人類はついに画一的な調和、『ハーモニー<harmony/>』を手に入れた。これは人類の昇華なのか、それとも人類の絶滅なのか。いったい誰にわかるだろう。

5. あとがき
伊藤計劃の物語は、現代社会を見透かすための面白い材料をいくつも与えてくれる。だが、それでも私は、この二本の劇場版を見ることを皆さんに勧めない。映画としては、実につまらないからだ。
これらの物語が描くのは大虐殺だけではない。まだ掘り起こすべき思想の手がかりが数多くある。たとえばウォーラーステインの「世界システム」、フーコーの「生政治」、ギデンズの「暴力の国家独占」などだ。とはいえ、この記事もすっかり長ったらしい文章になってしまったので、大虐殺の話で打ち切り、新たな分析には踏み込まないことにする。
私たちは認めざるをえない。大虐殺をもたらしたさまざまな要素は、いまなお現代社会に存在しており、それらに対する備えも十分になされてはいない。人々は日常のなかの「恐怖」を直視するよりも、この話題を社会学に任せてしまいたがる。そうして日常の恐怖を意識の上で「排除」し、「見かけの平和」のもとで暮らし続けるのだ。政治的国家と「合理化プロジェクト」が私たちの社会にどれほど大きな害を及ぼすのか、まだ気づいていない人は多い。彼らはいまも無邪気に、自発的に抱いた「道徳的責任感」に応じて、国家が文化の領域で行動してくれるよう求めている。それだけに、この記事で論じてきたことも、いっそう現実味を帯びてくる。問題によっては、現実の制度を変えるだけでは足りない。ものの見方を支える枠組みもまた、変えなければならないのだ。
