要旨: 本稿は、SF作家バラードの短篇小説『溺れた巨人』と、それを原作とする短篇アニメ『おぼれた巨人』の分析を通じて、その中心にある巨人のイメージを理解しようとするものである。分析からは、スウィフトの『ガリバー旅行記』における「巨人と小人(こびと)」の隠喩が、バラードの描く巨人を理解する視点を与えてくれることがわかる。具体的にいえば、巨人と見物人の関係をめぐる描写は、西洋思想史において古代と近代の優劣を争った「新旧論争」を、現代に引き継ぐものなのである。
キーワード:バラード、新旧論争、巨人と小人、スウィフト。
一、バラードの生涯と創作思想
『ラブ、デス&ロボット』シーズン2の第8話『おぼれた巨人』は、イギリスの著名なSF作家ジェイムズ・バラードの短篇小説『溺れた巨人』を原作としている。主人公スティーヴンの独白は、小説の内容とほぼ一致する。物語が基本的に彼の独白で進むため、この短篇アニメは、小説の朗読を聞いているかのようにも感じられる。それを避けるためだろうか、脚本では登場人物の会話を少し加え、その印象を和らげている。また、映像という形式に合わせて原作の描写をいくらか足したり削ったりしているが、思想の核は変えていない。したがって、原作を補助線にすれば、映像の内容やさまざまな要素を、原作者バラードの本来の意図に即して深く理解できるはずだ。
この作品に込められた豊かな象徴や隠喩を理解するには、バラードの人生経験と思想的な関心を知っておく必要がある。バラードは1930年、中国の上海で生まれた。子供のころから戦争と死を目の当たりにし、自身も戦争の苦難を味わった。日本軍の上海占領時には両親とともに龍華収容所に入れられ、第二次世界大戦が終わってようやく自由の身となった。これをきっかけに人間性を問い直すようになり、その経験は初期の破滅小説にも直接影響した。『結晶世界』はその一例である。実際、第二次世界大戦の痛ましい記憶は、彼の創作につきまとい続けた。原作『溺れた巨人』では、人々が巨人の身体に落書きし、その中にはナチスを表す鉤十字もある。ここにも戦争が作品に刻んだ傷跡が見える。
SFの創作に打ち込んではいたが、バラードは未来の科学に盲目的な楽観を抱いていたわけではない。むしろ彼の作品には、社会や技術の発展によって、かえって人間そのものの価値が損なわれるさまがしばしば描かれる。バラードによれば、1950年代半ばのハインライン、アシモフ、クラーク(Heinlein–Asimov–Clarke)に代表されるSFは、その可能性を十分に引き出していなかった。未来と科学に対して、あまりに楽観的だったからである。「ヒロシマ」と「アウシュヴィッツ」を経て、人々の科学への態度は一変したのに、SF界の科学に対する楽観は変わらなかった。1950年代初頭のSFが抱えていた病は、科学をめぐる想像がますます魔法に近づき、現実感と真剣さを失っていたことにある。
バラードは、SFが目を向けるべきなのは、私たち自身にとって最も重要な領域、すなわち「内宇宙(インナー・スペース/inner space)」だと考えた。内面世界と外の現実世界が交わる場所を描くべきなのだ。SFはただ空想を描くのではなく、心が外界とぶつかる領域を探究すべきなのである。1 この「内宇宙」という呼び名は、イギリスのSF作家マイケル・ムアコックに由来する。スワンウィックによる紹介では、次のように説明されている。「SFは外宇宙の探査よりも、『内宇宙』を描くことに重点を置くべきだ。物語の舞台は近未来でもよいが、宇宙船やロボットを描く必要はない。描くのは人間の心理だ。主人公は科学者や探検家でなくてもよく、普通の人でかまわない。実験的な散文やディストピア文学でもよいし、エントロピーや未来への悲観を語ってもよい。」2
内宇宙を執拗に追い求めたことは、バラードのSF作品の多くが純文学の色彩を強く帯びている理由の一つであり、短篇『溺れた巨人』も例外ではない。彼の作品がSFなのか純文学なのか、そもそも区別しがたい。おそらく、その両方なのだろう。『ラブ、デス&ロボット』はこの短篇をSFとしてアニメ化したが、実際には、隠喩と哲学的な思索をふんだんに含む美しい寓話といったほうが近い。何よりバラード自身が、この短篇は純粋な幻想、あるいは寓話だと明言している。3
啓蒙思想に対するバラードの態度にも触れておきたい。彼は繰り返し啓蒙思想に疑問を呈していた。2003年、オーストラリアの新聞『ジ・エイジ』のインタビューでは、こう述べている。「啓蒙思想が描く人間像は、まったくの神話です。それは、私たちがたいていは正気で理性的な生き物なのだと思わせます。実際はそうではありません。」また別のインタビューでは、啓蒙は成功しなかったとも述べている。「実のところ私たちは、啓蒙の伝統を受け継ぐ文明人だという自己像にそぐわないものを、自分自身のうちに絶えず見いだしているのです。」4 いずれにせよ、バラードの経験、創作上の関心、そして啓蒙思想への疑念は、この作品に込められた意味を考える手がかりとなる。
二、『溺れた巨人』に似た文学作品
『溺れた巨人』を、より広く知られた古典的作品と比べることは、その意味を探る手がかりを与えてくれる。古典的作品については、その意味を探る研究が、より深く、広く進められているからだ。比較を通じて共通点が見つかれば、一方の読解をもう一方に応用できるかもしれないし、新たな視点が得られるかもしれない。逆に、表面的な類似の奥に相違が見つかれば、誤った方向へ導く解釈を検討から外すこともできる。
(一)メルヴィルの『白鯨』
バラードは巨人をたびたび鯨に結びつけるので、読者は自然にメルヴィルの『白鯨』を思い浮かべる。巨大な白鯨という象徴は、巨人の意味を探る手がかりになるかもしれない。バラードは意図的にメルヴィルを参照しているようにも見える。語り手が巨人を観察して、「この溺れたリヴァイアサンは、最大級のマッコウクジラに匹敵する重さと大きさを持っていた」と述べるからだ。5 巨人の身体は肥料や家畜の飼料となるが、これは巨人の身体を鯨の脂身に見立てるものだ。映像では、主人公が夜の浜辺を訪れる場面に樽がいくつも映る。中身は巨人の脂肪から煮出した「鯨油」である。肉屋たちが巨人の解体を相談する場面も、その肉が最終的には肉屋の店先に並んだことを暗示している。これらの場面はいずれも環境保護という主題をほのめかしているようだ。小説の終わりでは巨人の遺骸が周囲の生態系に溶け込むさまが描かれ、これも環境保護こそ主題だという読みを後押しするように見える。比較の対象となる『白鯨』にも、生態学的な観点からの研究はある。しかし、誰もが知るように、この作品の偉大さを支えているのは、決して環境保護という主題ではない。環境保護という主題は、人間と自然の関係を表面的に捉えたものにすぎない。その関係そのものの探究こそが『白鯨』のより深い主題であり、そこには文化のあり方、精神の状態、生活様式が映し出されている。同じように、『溺れた巨人』にも環境保護の意味合いはいくらかあるが、それが最も深く、最もふさわしい解釈というわけではない。小説と映像は、ともに『白鯨』へのある種のオマージュを意図し、人間と自然の関係がますます緊張をはらんでいることに気づかせようとしているのかもしれない。だが、それはさらに上へ進むための梯子にすぎない。その先で問うべきなのは、人間が生きるとはどういうことか、という問題なのだ。
巨人が鯨である証拠を探すよりも、私たちが注目すべきなのは、作中で繰り返されるもう一つの手がかりだ。見物人たちは巨人についての記憶を書き換え、やがてその存在を忘れてしまう。だが、語り手のスティーヴンだけは忘れない。小説が暗に示すのとは異なり、映像の結末では、語り手は巨人の存在を忘れていないとはっきり述べ、巨人がよみがえって自分の身体の断片を拾い集め、海へ駆け戻る夢を見る。つまり物語は、巨人の存在を信じないところから始まり、語り手以外の全員がその存在を忘れるところで終わる。巨人が生態系に溶け込んでいく描写が示すのは、環境保護ではなく、人々が巨人を忘れていくことなのだ。巨人を安易に白鯨の隠喩とみなすのではなく、まずは、見物人たちが巨人をどう記憶し、どう忘れていくのかを考えなければならない。
(二)カフカの『変身』
『溺れた巨人』も『変身』も寓話である。構成を見ると、前者は溺れた巨人という超現実的な出来事から始まり、後者もまた、グレゴールが自分の姿が大きな甲虫に変わっていると気づく、ありえない出来事から始まる。この一点を除けば、どちらもほかの部分はかなり現実的だ。また、二つの物語はともに、解釈の余地を残した結末を迎える。バラードとカフカが扱うのは、同じ問題である。超現実的な存在を前にした人々の態度が、どう変わっていくかという問題だ。もちろん、「大きな甲虫」と「巨人」が自分自身をどう見ているかにも目を向ける必要がある。『変身』では、甲虫に変わったグレゴールの内面を通してそれが示される。『溺れた巨人』では、語り手が巨人の心情を想像することで、間接的に示される。
普通の人間なら、自分の姿が大きな甲虫に変わったと知れば、まず本能的に自分の身を案じるはずだ。真っ先に解決しなければならないのは、どうすれば人間に戻れるのかという問題だろう。ところがグレゴールが最初に考えるのは、どうやって会社へ行くかということであり、彼はその後も家族の暮らし、父の老い、妹の教育を気にかけ続ける。まるで最悪なのは、自分が甲虫になったことではなく、そのせいで周囲に悪影響を及ぼすことであるかのようだ。自分と他人に対する主人公の態度は、周囲の人々が彼に向ける態度と激しく対立する。父は冷淡なままで、暴力によって彼を死へと追いやる。母と妹は初めこそ同情するが、やがて冷たくなる。「自分を消し去ろうとする彼の決意は、彼の消失を望む妹の気持ちよりも強かった」のである。 グレゴールは自ら死に向かう。家族の役に立たず、かえって重荷になっていると悟った末の、自発的な選択なのだ。
バラードの作品に戻ろう。人々は初め、巨人に惹きつけられ、好奇心を抱いて集まってくる。やがてその身体の上で大騒ぎを始めるが、巨人が切り刻まれるにつれ、熱は次第に冷めていく。数か月後には全員が巨人の存在を忘れ、巨大な遺骸を目にしても、それはただの鯨の残骸だと考える。『変身』では、家族の態度の変化を手がかりに、グレゴールが何を象徴するかを読み取れる。それは疎外された労働者であり、家族の冷淡さと抑圧のもとで自分を消し去ろうとする「精神病者」でもある。ならば、バラードが最初から最後まで際立たせている見物人の態度も、巨人を理解する重要な手がかりに違いない。
もし作品の核心が環境保護にあるのなら、あるいは単に人間と生態系の関係を示すことにあるのなら、原作も映像も、人々の態度が驚きから無関心へ、そして巨人の忘却へと変わるさまを、あれほど苦心して描く必要はないはずだ。実際、この作品の解釈を難しくしている描写こそが、その難しさを解く手がかりを与えている。『変身』もまた教えてくれる。人々が巨人に向ける態度の変化と、その存在を忘れることこそ、この寓話を理解する鍵なのだ。
三、巨人の隠喩
巨人の正体は謎である。激しい嵐の後、何の前触れもなく浜辺に現れ、どこから来たのか誰にもわからない。原作でも、まるで空から落ちてきたかのようだと描かれている。6 この冒頭の設定は、巨人の正体を探る私たちに、大きな余地を残している。巨人が何者で、何の隠喩なのかを見定めることは、解釈の方向を直接左右するため、きわめて重要だ。たとえば鯨の象徴とみなせば、解釈は環境保護という主題へ向かうか、自然への畏敬といった漠然とした話になる。しかし、ここまでの分析が示しているのは、明らかに別のことだ。
原作を丹念に読むと、巨人がまだ切り刻まれていないうちは、叙事詩の英雄に似ているという描写に多くの筆が費やされていることに気づく。そして切断が進むにつれ、巨人を鯨になぞらえる描写が増えていく。バラードがこう書いたのは、巨人が忘れられていくこと、そして人々が巨人を鯨と取り違えてしまうことを示すためである可能性が高い。その筆致は、見物人の記憶の誤りを描くことに重点があると教えてくれる。しかも語り手は、最後には人々がそろって巨人を忘れ、かすかに覚えているわずかな者も、誤って鯨として記憶していると述べる。この描写は、語り手自身は巨人の存在をずっと忘れずにいることを意味する。映像も最後にそのことを示し、語り手は、巨人がよみがえって自分の身体の断片を拾い集め、海辺へ駆けていく夢を繰り返し見るという。
作者が埋め込んだ手がかりをたどり、人々が巨人を忘れていくことから、その隠喩をあらためて探ってみよう。そもそも巨人が忘れられること自体、奇妙な出来事ではないか。あれほど多くの人がその目で見たのだ。その存在がどうして簡単に忘れ去られるのか。巨人を見た記憶が、どうして鯨を見たという記憶にすり替わってしまうのか。この点を理解することこそ、作品の主題をつかむ鍵である。これは面白い代数の問題だ。こんなふうに解いてみてはどうだろう。巨人を未知数Xと置く。読者は語りと筋の展開に立ち戻り、Xにどのような具体的イメージを代入すれば文脈と論理によりよく合い、記憶と忘却が繰り返し描かれる理由をうまく説明できるか、推理するのである。
巨人は完全であり、人間はその複製である。原作も映像も、語り手が巨人に惹かれる主な理由は巨大な身体ではなく、その絶対的な存在にあると説明している。一方、私たちの生きる世界は、その「絶対」に似ているにすぎない。巨人に比べれば、人間は不完全で取るに足りない複製なのだ。7 裏返せば、もし巨人がいなければ、人間は自分こそ「絶対」であり、完全な存在だと思い込むかもしれない。この一節から、まず人間中心主義や科学主義の風潮が思い浮かぶが、ひとまずそれは置いておこう。
人々はやがて巨人への関心を失い、ついには忘れてしまう。それは偉大さを忘れることであり、巨人の影の下で生きることから逃れたいという願いを意味する。プラトンにおいて、人間は完全な神ではなく、限界を持つ模倣者である。人々が巨人を忘れることは、魂がかつての知を思い出すという想起説になぞらえられる。巨人についての記憶を失うことは、巨人についての知を失うことだ。それはつまり、傲慢になり、「無知の知」の意味がわからなくなることを意味する。こうしてこの一節は、プラトンのいうイデアとそれを模倣する者との関係、そして魂の想起説へと思考を導く。そこから教えられるのは、「汝自身を知れ」、そして「無知の知」である。バラードが啓蒙思想や科学に楽観を抱く人々に疑念を抱いていたことを踏まえれば、ここで彼が表しているのは、人間が自分の限界を忘れ、無知なまま思い上がっていることだと考える理由がある。巨人はここでは、むしろ完全さと知恵に近いものを象徴している。この読みは、巨人という隠喩の真の意味に近づいているのかもしれない。
語り手は繰り返し、巨人が叙事詩の英雄に似ていると強調する。そのたびに心のあり方へと結びつけ、身体によじ登る人間たちのそれと対比している。つまり、巨人はむしろ古代の英雄であり、現代人はその身体を踏みつけ、切り刻む小人なのだ。巨人と小人は、古人と現代人の対比を暗示する。より具体的には、両者の品性、すなわち古人の魂と現代人の魂の対比である。もし巨人が古人の偉大な魂の隠喩なら、物語の不合理な点の多くにも筋が通る。映像では、巨人は死んでいるのではなく、眠っているように見えるという。いつ目を覚まし、周囲の複製を押しつぶしてもおかしくない。原作では、巨人は空を見つめ、周囲の複製などまるで意識していないとされる。また原作には、巨人の胸に立った漁師が人々に合図すると、群衆が近づきながら驚きと勝利の声を上げたとある。だが、実際に巨人のそばへ来ると、少なくとも語り手とその仲間たちからは、興奮にまかせた絶え間ないおしゃべりが消えた。8
時がたつにつれ、巨人の容貌は変わり、語り手はそこから巨人の心情の変化を想像する。初めはギリシアの英雄のようだった巨人が、次第に謙虚で成熟した雰囲気を漂わせ、やがて切り刻まれると、苦痛と無力さを示すように見える。バラードは、人々による巨人の切断を「略奪(depredation)」という語で描く。その巨大な身体は、かえって彼の脆さを増すのだ。9
もし現代の私たちが、書物を通じてしか古人の魂の高貴さを真に理解できないのなら、小人による巨人の切断と、その苦しげな様子が意味するのは、古人の思想が曲解され、その書物が誤読されて、魂の高貴さがついには失われてしまうことだ。初めに巨人の偉大さと完全さを強調し、ここでその弱さを描くことに矛盾はない。前者は古人の崇高さそのものを形容している。後者は皮肉である。古人は現代人の勝手な解体に耐えられず、後世の者に解体されるという点では、巨人もなすすべがない。巨人は切り刻まれるだけでなく、人々の恣意的な改変による屈辱にも耐えなければならない。巨人の徳は古代の書物に宿っており、人々がしているのは、実のところ古典の文脈を無視して一部だけを切り取ることなのだ。
では、こうして古人の思想を曲解すると、何が起こるのか。バラードは、人々が巨人の身体に施す落書きを通して、その答えをほのめかす。そこには、ふざけた標語とナチスの鉤十字がある。ふざけた言葉は、厳粛な古典からその厳粛さを奪うことを意味しているようだ。そしてナチスの印は、こうして古典の厳粛さを奪い、勝手に書き換えることが破滅的な戦争をもたらすことを意味しているように見える。バラードはここで第二次世界大戦を風刺し、その原因をひそかに教えているかのようだ。彼は戦争を近代性の帰結と見ているのだろう。近代性こそが、人間の理性を肥大させ、神の教えと古人の謙虚さを忘れさせたのである。ところが映像には、この肝心な鉤十字が描かれていない。
切断はさらに進み、巨人の頭が切り落とされて持ち去られる。10 頭を鋸で切り取られたことで、巨人はついに人間としての主要な特徴を失う。目の前の肉塊は、もはや魂を持たない記号のようであり、人々も畏敬とは何かを思い出さなくなる。巨人から人間らしい特徴が消えることは、人々がまもなくその存在を忘れることの予兆でもある。時の経過に伴う巨人の容貌の変化と、切り刻まれるその運命は、長い歴史の中で西洋の人々がたどった運命に驚くほどよく似ている。原作にも、身体が失われ、切り刻まれた巨人にかすかに残る人間らしい特徴まで消えるにつれて、見物人の関心も失われたとはっきり記されている。11 皮肉なのは、巨人から崇高さをますます奪ったのが、ほかならぬ人々による切断と改変だったという点だ。しかも、小人たちが自ら作り出したこの結果さえ、最後には当の小人たちによって忘れられてしまう。
数か月後、語り手が再び目にする巨人は、切り離された断片となっている。このころには、人々は巨人がかつて存在したことを忘れている。小説では、最初に巨人を見つけたと言い張っていた漁師さえ、その存在を忘れ、巨大な海の怪物を見たという記憶に置き換えていることが強調される。12 巨人を古人の魂と考えれば、人々がなぜあれほど早くその存在を忘れ、鯨を見たという記憶にすり替えたのかも理解できる。それこそ、現代人が古人に対して行っていることだからだ。現代の小人たちは古人の偉大さを、あるいは偉大さがかつて存在したことさえ信じず、現代人の魂の高さから古人の魂の深さを見下ろす。映像も原作も、技術的理性と科学主義への問い直しをひそかに含んでいる。
ここまでの分析によって、巨人が何の隠喩なのか、ようやくわかった。巨人は古代の偉大な人物と、彼らに備わる偉大な品格を象徴している。それらは古典の大著に保たれており、その書物には神的な知恵が満ちている。映像全体が描くのは、古人と現代人の戦いなのだ。小人は巨人に勝ったように見える。だが、最後に語り手が述べるように、巨人は死んでいない。巨人はよみがえり、自分で海辺へと駆けていく。それは、傲慢な小人たちを巨人が置き去りにしたことを意味する。巨人が古人の魂、古典、そして古代の知恵の隠喩だという解釈は、『ガリバー旅行記』によって裏づけられる。そして、その裏づけがさらに巨人のイメージを深く理解させてくれる。そう、『溺れた巨人』の物語全体が、西洋思想史上の新旧論争を隠喩として描いていたのだ。
四、『ガリバー旅行記』から『溺れた巨人』を理解する
ここまでの分析では、『白鯨』との比較によって巨人を鯨の隠喩とみなす読みが退けられ、『変身』からは、見物人の態度の変化を手がかりに巨人の隠喩を探る視点が得られた。これに対して『ガリバー旅行記』は、バラードが表そうとした意味へ、私たちを直接導いてくれる。バラードとスウィフトのつながりをうかがわせる記述もある。サイモン・セルラーズはこう述べている。「もし短篇『溺れた巨人』を通して初めてバラードを知ったのなら、スウィフトの伝統を受け継ぐ魔術的リアリズムの巨匠を、偶然見つけたと思うかもしれない。」13 『溺れた巨人』と『ガリバー旅行記』を比べると、見物人の態度の変化は、そのまま古人に対する人々の態度の変化であることがわかる。これもまた、見物人が現代人、すなわち小人であり、巨人が古人とその著した古典を表すことを示している。
実は、プラトンはすでに『パイドロス』で、魂の質の優劣は、大人が子供より背が高いようなものだと述べていた。身長の差を魂の質の優劣になぞらえることは、プラトンの時代に始まっていたのである。スウィフトは『ガリバー旅行記』で、この類比をそのまま寓話へと発展させた。彼が生きた時代と執筆の動機を踏まえた分析には、『ガリバー旅行記』を、新旧論争に対するスウィフトのいっそう徹底した考察と捉え、この論争の時代に書かれた最も深い政治哲学の著作と評価するものがある。この読み方によれば、「小人国」と「大人国」の対比は、近代の民主政と古代の君主政の対比なのである。14
ただし私は、『溺れた巨人』という小品とその映像化から、古代と近代の政体の対比まで読み取ろうとは思わない。それでは、過剰解釈の大きな危険を冒すことになる。しかも、豊かな筋と象徴を備える『ガリバー旅行記』に比べ、この作品はあまりに短い。描かれたものに象徴的な意味を認めても、それを直ちに二つの政体の類比にまで広げることはできない。政体を比較するところまでは達していないとしても、『溺れた巨人』が古代と現代を対比していることは確かだ。具体的には、古人と現代人の魂の質を比べている。もちろん、プラトンの『国家』によれば、魂の質が政体の形を決めるのだから、そのように議論を広げることも許される。だが、ここではやはり、バラードの小説と映像の脚本に即して解釈するのがよいだろう。
語り手は科学者として現場の調査に赴く。その独白によれば、初め、彼らは巨人の存在を信じず、光が作り出した幻にすぎないという近代科学の説明を添えていた。これは、近代科学の目で巨人の存在を疑う態度である。スウィフトが関わった新旧論争では、近代派は科学の発展を持ち出して古人の愚かさをあげつらった。だが、古代派の反論が教えてくれるように、たとえ科学では近代人が古人を上回っていても、芸術や心のあり方まで、古人より高貴だということにはならない。それどころか、常に近代科学の枠組みで古人を捉えようとするからこそ、古人を見いだせず、その存在を疑うことになるのかもしれない。語り手も見物人も小人であり、それゆえ世界に巨人がいること、あるいはかつていたことを認めようとしない。だが、この科学的な認識は、巨人の死体の出現によって打ち破られる。
初め、人々は遠くから眺めるだけで、巨人に近づこうとはしない。だが、ゆっくり近づくと、巨人と小人の対比が強烈な衝撃となり、見物人たちの間にどよめきが起こる。それは、巨人を前にした小人たちの心の変化を表している。小人たちは身体によじ登り、ますます騒がしくなるが、巨人は沈黙を守り、古代ギリシア人のように威厳ある顔を保ち続ける。ここに巨人と小人の対比が生まれる。原作では続いて、巨人の手のひらにたまった水が、別世界の名残のようだと描かれる。だが今、その水たまりは腕によじ登る人々によって踏み荒らされてしまう。語り手の視点が与えてくれるこれらの手がかりを結びつけ、スウィフトの巨人と小人の隠喩を思い返せば、バラードがここで示そうとしているのが、両者の品性の違いだとわかる。一方は騒々しく軽薄な現代人、もう一方は気品を保つ古代人である。現代人は古典世界とのつながりを大切にしない。水たまりを踏み荒らす行為が、そのことを暗示している。この小さな破壊が、すべての破壊の始まりとなる。やがて巨人は踏みつけられ、切り刻まれ、ついには完全に忘れ去られる。原作のこの場面では、語り手は巨人の正体を知る手がかりを探したいと述べるが、膨れ上がった身体がその望みを断ってしまう。これは、私たちと古典古代との距離がますます広がり、古典を理解する手がかりさえ見いだせなくなったことの隠喩である。語り手は巨人の正体がわからない一方、その顔がギリシア人に似ていることを繰り返しほのめかす。私たちがギリシア人の偉大さを忘れつつあると、語っているのだ。
巨人と見物人を形容する言葉を比べると、そこに込められた評価はスウィフトと一致する。巨人の肌は真珠の色を帯び、甘く強い香りを放つ。それに対して人々は、蠅のように彼の周囲に群がる。鼻の穴にもぐり込み、狂犬のように吠え立てる若者までいる。また、巨人の長く続く静寂と、人々のつかの間の喧騒も対照をなす。15 映像も同様だ。巨人を描く際には、ギリシア的な容貌と、叙事詩の英雄のような身体を繰り返しほのめかすだけでなく、変化した巨人の姿に、discreet、modest、well-fed maturity といった言葉を用いる。「慎み深い」「謙虚な」、そして「何不自由なく暮らしてきた者の成熟した風貌」というわけだ。 一方、見物人は複製と呼ばれ、その騒々しさと無作法が描かれる。これは明らかに、巨人と小人の品性を比べている。巨人と小人は、ここでは品性の高貴さと卑しさを暗示している。スウィフトの『書物戦争』の修辞と比べてみよう。彼はまず、獲物を奪い合う犬によって近代派のホッブズを風刺し、続いて蜜蜂と蜘蛛の寓話を語る。16 蜜蜂が古人、蜘蛛が近代人の比喩である。両者を比べれば、バラードが確かに修辞を用いて、古代と現代の人間の魂の質を対比していることがわかる。
警察が立ち入りの規制をあきらめると、何千人もの人々が浜辺へ押し寄せ、少なくとも二百人が巨人の身体の上に立ったり座ったりする。ここでも、小人たちをおとしめる描写が現れる。午後、警察が戻って群衆の中に道を開き、大学から来た解剖学者と海洋生物学者の一団を連れてくる。警察は専門家たちが巨人の手のひらに登れるよう手を貸そうとするが、専門家たちは断る。警察と専門家たちが岸へ戻ると、群衆は再び巨人によじ登る。ここでは、巨大な魚の身体に群がるカモメにたとえられている。警察と学者は現れては消え、形ばかり顔を出して去ったようにも見える。それは、国家機関にも学者にも巨人を守る意識がなかったことを示しているようだ。結果として人々の殺到を許し、小人が巨人の身体を踏みつけ、傷つけるに任せてしまった。この場面は、国家が教化を軽んじ、民衆を放任すれば、偉大さは忘れ去られ、私たち自身の心が貧しくなり、傲慢になると語っているかのようである。
小人たちはひどく騒々しく、死んだ巨人の身体によじ登っている。活力があるように見えるのは、明らかに巨人ではなく小人だ。ところが語り手は、自分にとって巨人はまだ生きており、彼を眺める小人たちよりも生命力にあふれているという。この生命力は、明らかに別のものを指している。巨人と小人を古代と現代の心のあり方の隠喩とみなすなら、それは古典と永遠の価値を指すはずだ。語り手はその後、自分がよじ登ったときには、巨人はすでに時の支配に屈し始めており、腐敗が始まろうとしていたと述べる。この絶え間ない変質、目に見える死のうちに宿る生こそが、語り手に巨人の身体へ足をかける勇気を与えた。巨人であれ小人であれ、最後には時の支配に屈しなければならない。ここには少なくとも二つの意味がある。第一に、巨人が表す伝統的な古典と高貴な精神は、現代人よりも時間の試練によく耐えるが、浅薄な現代人が巨人の存在を忘れることまでは阻止できない。古典が誤解や改変を免れる保証もない。第二に、巨人も神ではなく、限界のある生命だということだ。巨人ですら肉体の限界を免れないのなら、小人がどうして思い上がっていられるだろう。
語り手によれば、身体に加えられた屈辱は、巨人をいっそう人間らしく見せると同時に、いっそう弱く見せた。その弱さが、抑え込まれていた悪意を洪水のようにあふれ出させ、周囲の小さな生き物を、この巨大な存在を食い荒らすよう駆り立てる。これは、その後も巨人をさらに切り分け、勝手に改変していく小人たちへの風刺である。映像には、小人が巨人の身体に落書きする様子は出てくるが、ナチスの鉤十字は出てこない。一方、原作にはそれが描かれる。身体の落書きは、バラードによるナチス批判のようだ。ナチスの悪の多くが近代性の悪でもあることを、バラードはきっと理解していたはずだ。ナチスの印は、第二次世界大戦と現代人の罪悪が、古人の思想を勝手に書き換え、忘れ去ったことの悪しき帰結であると暗示しているように見える。
頭が切り落とされると、巨人が何者なのかはますます曖昧になり、人々も関心を失っていく。それ以前に警察と学者が下した判断は誤っていた。学者の本来の務めは、巨人の価値を確かめ、警察の力を借りてそれを守り、人類の永続的な記憶として残すことだったはずだ。
次に巨人が姿を現すときには、ばらばらの断片となっている。これは人々が古典の文脈を無視し、一部だけを切り取ることを意味し、ポストモダンによる古典的伝統の脱構築にもよく似ている。さらに深刻なのは、人々がすでに巨人を忘れ、その断片を見ても頑として鯨の一部だと思い込むことだ。小人たちは巨人の遺産を脱構築し、巨人を忘れた。「神は死んだ」。彼らの心には、もはや崇高なものや偉大なものを受け入れる余地がない。ここで注目したいのは、映像の結末における原作からの改変だ。語り手は、巨人はまだ生きていて、自分のさまざまな断片を集め、海へ戻っていくと語る。それは、巨人が小人たちの振る舞いにすっかり失望し、自らの思想を回収して、失意のうちに私たちのもとを去っていくことを暗示しているようだ。
もし「巨人と小人」というイメージが、バラードとスウィフトの作品で似たものを象徴しているのなら、アラン・ブルームが『ガリバー旅行記』を読み解いた言葉を、『溺れた巨人』の評として引き、本稿を結ぶのもふさわしいだろう。「『私たちはみな小人だが、巨人の肩の上に立っている。』この謙虚な姿勢には、あまりにも強い自己満足が表れている。巨人はそう簡単に私たちを登らせてくれるものだろうか。巨人の役目は、小人を肩に担ぐことなのだろうか。かつては親切で優しかったのかもしれない。だが今では、私たちを地面に投げ落とし、ひそかに立ち去ってしまった。私たちに残されたのは、視界が少し広がったという幻だけである。偉大な人々と自分たちが親しい間柄にあると、何の根拠もなく思い込めば、やがて若い世代は巨人などいないと言い出し、この話はすべて、教師たちが自分を偉く見せるためにでっち上げた嘘にすぎないと断じるようになる。巨人たちは、この小さな喜劇と冗談を軽蔑するのではないかと私は思う。」17