要旨: 本稿は、SF作家J・G・バラードの短篇「溺れた巨人」と、それを同名で映像化したアニメーション作品を分析し、作品の核心をなす「巨人」のイメージを理解しようとするものである。分析からは、スウィフト『ガリヴァー旅行記』における「巨人と小人」の隠喩が、バラードの巨人像を読み解く一つの視角を与えることがわかる。より具体的に言えば、巨人と見物人との関係をめぐる描写は、西洋思想史上の「古代人・近代人論争」を現代において継続するものとして読むことができる。
キーワード:バラード;古代人・近代人論争;巨人と小人;スウィフト。
一、バラードの生涯と創作思想
『ラブ、デス&ロボット』シリーズ2第8話「おぼれた巨人」は、イギリスの著名なSF作家J・G・バラードの短篇「溺れた巨人」を原作としている。主人公スティーヴンの独白は、小説の内容とおおむね一致する。物語がほぼスティーヴンの独白によって進むため、短編アニメーションは一種のオーディオブックのようにも見える。その印象を和らげるためだろうか、脚本には少量の人物間の会話が加えられている。また映像形式に合わせて原作の描写には若干の削除や追加があるが、小説の思想的な核を改変するものではない。したがって原作本文を手がかりにすれば、映像の内容や要素をより深く、かつ作者の意図に即して理解することができる。
『溺れた巨人』に満ちた象徴や隠喩を理解するには、まずバラードの人生経験と思想的関心を知る必要がある。バラードは1930年、中国・上海に生まれた。幼いころから戦争と死を目撃し、自らも戦争の苦難を経験した。日本軍の上海占領下では両親とともに龍華の収容所に入れられ、第二次世界大戦の終結まで自由を失っていた。この経験を契機に人間性を考えるようになり、それは初期の災害小説にも直接影響した。たとえば『結晶世界』は、その影響のもとにある作品の一つである。第二次世界大戦の痛みは、実際にはその後も小説創作につきまとい続けた。原作「溺れた巨人」では、人々が巨人の身体に落書きをし、そのなかにはナチスを示す鉤十字まで描かれる。戦争が彼の作品に残した刻印をうかがわせる細部である。
SFに力を注いだとはいえ、バラードは科学や未来に対して盲目的に楽観していたわけではない。むしろ彼の作品は、社会と技術の発展がかえって人間自身の価値の失墜を招く様子をしばしば描く。バラードは、1950年代半ばに主流だったハインライン-アシモフ-クラーク的なSFが、未来と科学をあまりに楽観的に見ているため、SFの可能性を十分に引き出していないと考えた。「広島」と「アウシュヴィッツ」以後、人々の科学観は根本から変わったのに、SF界の科学に対する楽観主義だけは変わらなかった。1950年代初頭のSFが抱えた病は、科学的想像力がますます魔法に近づき、現実感と真剣さの一部を失ったところにある。これに対してバラードは、SFが私たち自身にとって最も重要な領域、すなわち「インナー・スペース」に目を向けるべきだと考えた。それは内面世界と外部の現実とが交差し、心が外界に衝突する領域であって、単に幻想を描くことではない。1 「インナー・スペース」という考え方は、イギリスのSF作家マイケル・ムアコックにも由来する。そこで強調されるのは、SFが外宇宙の探検よりも内面の領域を描くべきだという転換である。舞台はさほど遠くない未来でもよく、宇宙船やロボットを必ずしも描く必要はない。主人公も科学者や探検家である必要はなく、ごく普通の人間でよい。実験的散文やディストピア文学の形をとることもでき、エントロピーや未来への悲観を語ってもよい。2 バラードが「インナー・スペース」の探究に執着したことは、彼のSFの多くが強い純文学的な色彩を帯びる理由の一つであり、短篇「溺れた巨人」も例外ではない。彼の作品をSFと呼ぶべきか純文学と呼ぶべきか、判然としないことさえある。おそらく両方なのであろう。『ラブ、デス&ロボット』はこの短篇をSFとしてアニメーション化したが、実際には美しい文体と多くの隠喩、哲学的思索を備えた寓話に近い。しかもバラード自身、この短篇を直截なSFというより幻想ないし寓話の側に属するものとして語っている。3
もう一つ触れておくべきなのが、バラードの啓蒙主義に対する姿勢である。彼は一度ならず啓蒙主義への疑念を表明している。2003年にオーストラリアの新聞 The Age のインタビューを受けた際、彼は、啓蒙主義的人間観を「完全な神話」と呼んだ。それは私たちに、人間はたいてい正気で理性的な存在だと思い込ませるが、実際にはそうではない、と彼は言う。4 いずれにせよ、バラードの経験、創作上の志向、そして啓蒙主義への疑念は、いずれも『溺れた巨人』の内実を考えるための手がかりとなる。
二、『溺れた巨人』と似た文学作品
『溺れた巨人』を、より広く知られた古典作品と比較することは、本作の含意を掘り起こす助けになる。古典作品については、その意味がより成熟したかたちで、より多面的に論じられてきたからである。作品同士の比較から実質的な類似が見つかれば、ある作品で得られた洞察を別の作品へ移したり、少なくとも示唆的な視角を得たりできる。逆に、表面的な類似の背後にある相違が見つかれば、誤解を招く読みを考察から退けることもできる。
(一)メルヴィル『白鯨』
バラードは巨人を繰り返し鯨と結びつけているため、読者がメルヴィルの『白鯨』を連想するのは自然である。白鯨は巨大な象徴的存在であり、巨人の意味を探る助けになるように思える。バラード自身、メルヴィルを意識しているのかもしれない。叙述者は、溺死したこのリヴァイアサンを、最大級のマッコウクジラに比肩する質量と大きさの存在として観察する。5 巨人の身体はのちに肥料や家畜の飼料に変えられるが、これは鯨脂を連想させる。映像では、主人公が夜の浜辺を訪れた場面に多くの樽が置かれている。そこに入っているのは、巨人の脂肪から精製された「鯨油」のようにも見える。肉屋たちが巨人を解体する相談をする場面も、その肉が最後には肉屋へ回ったことを暗示しているようだ。こうした映像は、環境保護という主題を示しているように見える。小説の末尾で巨人の遺骸が生態環境に溶け込んでいく描写も、その読みをさらに強めるだろう。だが比較してみると、『白鯨』にはもちろん生態学的な研究があるものの、この作品の偉大さを成立させている核心が環境保護にあるとは言いにくい。生態という主題は、人間と自然の関係を表す比較的浅い一層にすぎず、より深い主題は人間と自然の関係そのものにある。その関係には、文化的な空気、精神状態、生活様式が映し出される。同じように、『溺れた巨人』にも環境保護の意味は多少あるが、それだけが最も深く、最も適切な解釈ではない。小説と映像は『白鯨』への何らかのオマージュを意図し、人間と自然の関係が緊張を増していることに気づかせようとしているのかもしれない。しかしそれは一段上へ進むための梯子にすぎず、最終的には人間の生そのものをめぐる議論へ私たちを導く。
巨人が鯨であることの証拠を探すより、作品内で反復される手がかりに注目すべきである。すなわち、見物人たちは巨人を改変し、ついにはその存在を忘れてしまうのに対し、叙述者スティーヴンだけは巨人を忘れない。小説では暗示にとどまる点を、映像の結末はより明確にする。叙述者は巨人の存在を忘れていないと言い、巨人が蘇って自分の身体の断片を拾い集め、海へ走り去る夢を見る。つまり物語は、巨人など存在しないという不信から始まり、叙述者以外の全員が巨人の存在を忘れるところで終わる。巨人が生態環境へ溶け込む描写が示すのは、環境保護の主題というより、人々による巨人の忘却なのである。巨人を白鯨の隠喩だと早急に決めるのではなく、まず巨人と傍観者の記憶/忘却の関係を処理しなければならない。
(二)カフカ『変身』
『溺れた巨人』と『変身』はいずれも寓話として読むことができる。構造上、前者は溺死した巨人という超現実的事件から始まり、後者もまた一つの不可能な出来事――グレゴールが自分は巨大な虫になっていると気づくこと――から始まる。その一点だけは現実には起こりえないが、ほかの部分は比較的現実的である。また二作とも、開かれた結末を採用している。バラードとカフカはともに、物語の人々が超現実的な対象に接したとき、その態度がどう変化するかという問題を扱わなければならない。同時に、「大きな虫」と「巨人」が自分自身をどう受け止めているのかにも注意する必要がある。前者は虫になった後のグレゴールの内面によって直接示され、後者は叙述者が巨人の心情を想像することによって間接的に表現される。
常識的に考えれば、普通の人間が自分は巨大な虫になったと知ったとき、まず自分自身を心配し、人間へ戻る方法を考えるはずである。だがグレゴールが最初に考えるのは、どう会社へ出勤するかである。その後も彼は家族の暮らし、父親の老い、妹の教育を気にかけ続ける。虫になったこと自体が最悪なのではなく、虫になったことで他人へ悪影響を与えることのほうが重大であるかのようだ。主人公が自分や他者に向ける態度と、周囲の人々が彼に向ける態度とのあいだには強い緊張が生じる。父親は冷淡で、暴力によって彼を死へ追い込む。母親と妹は当初こそ同情するが、やがて冷淡になる。最後にはグレゴール自身の消滅への決意が妹以上に強くなる。自分が家族へ貢献できず、かえって重荷になったと理解した後、彼は自ら死を選ぶのである。バラードへ戻ろう。人々は最初、巨人を見ると引き寄せられ、好奇心を抱く。やがて巨人の身体の上で騒ぎ、解体が進むにつれて熱意を失っていく。数か月後には誰もが巨人の存在を忘れ、巨大な遺骸を見ても鯨の残骸だと思う。『変身』では、家族の態度の変化が、グレゴールを疎外された労働者として、また親族の冷淡さと圧迫のもとで自己消滅へ向かう「精神病者」として読み解く手助けになる。それならば、バラードが最初から最後まで強調する傍観者の態度も、巨人を理解する重要な手がかりであるはずだ。
もし作品の核心が環境保護にある、あるいは単に人間と生態の関係を示すことにあるのなら、原作も映像も、人々の態度が驚きから冷淡さへ、そして最後には巨人の忘却へ移る過程をあれほど丹念に描く必要はない。実際、『溺れた巨人』を読み解きにくくしている描写そのものが、困難を解くための手がかりを与えている。『変身』からも同じことがわかる。巨人への人々の態度が前後で変わること、そして巨人そのものが忘れられることこそ、この寓話を理解する鍵なのである。
三、巨人の隠喩
巨人の正体は謎である。大雨の後、何の前触れもなく海辺に現れ、その由来を知る者はいない。原作でも、巨人はまるで空から落ちてきたかのように描かれる。6 物語冒頭のこの設定は、巨人の正体を探るための大きな余白を残している。その正体あるいは隠喩を確定することは重要である。何を巨人に代入するかによって、解釈の進む方向が直接変わるからだ。たとえば巨人を鯨の象徴とみなせば、読みは環境保護や自然への畏敬といった一般論へ導かれる。しかし前節までの分析からすれば、それでは十分ではない。
原作を精読すると、巨人がまだ解体されていない段階では、作者は彼を叙事詩の英雄のように描くことに多くの筆を費やしている。ところが解体が進むにつれて、巨人を鯨に近づける描写が増えていく。バラードがこうした変化を置くのは、巨人が忘れられていく事実と、人々が誤って巨人を鯨として記憶していく現象を示すためである可能性が高い。叙述の重点は、傍観者の記憶に生じるこの誤差にある。しかも叙述者は、群衆が最後には巨人を集団的に忘れ、わずかに覚えている者さえ巨人を鯨と取り違えると語る。この描写は、叙述者自身だけは一貫して巨人の存在を忘れていないことを意味する。映像の結末も同じで、叙述者は巨人が蘇り、自分の身体の断片を拾い集めて海へ走っていく夢をいつも見ると語る。
作者が埋め込んだ手がかりをたどり、人々による巨人の忘却から改めて隠喩を考えてみよう。巨人が忘れられること自体、奇妙な出来事である。あれほど多くの人が自分の目で巨人を見たのに、どうして簡単に忘れられたり、鯨の記憶へとすり替えられたりするのか。ここを理解することこそ作品の主旨を理解する鍵である。これは面白い代数問題のようなものだ。巨人を未知数Xと置こう。読者がすべきことは叙述と筋へ戻り、Xにどの具体的なイメージを代入すれば文脈と論理に最もよく合い、記憶と忘却が反復して描かれる理由を最も合理的に説明できるかを推論することである。
巨人は完全であり、人間はコピーである。原作も映像も、叙述者を巨人へ引きつける主因が、その巨大な体格ではなく、巨人の絶対的な存在のあり方にあることを示す。それに比べれば、私たちの側は「絶対」に似せて作られた世界に生き、完全ではなく取るに足りない複製にすぎない。7 この命題を逆に言えば、巨人が存在しなければ、人間は自分自身こそ「絶対」で完全な存在だと思い込むかもしれない。ここからまず連想されるのは、人間中心主義と科学主義の風潮であるが、その点はひとまず置いておこう。人々の巨人への態度が、最後には無関心と忘却へ変わることは、偉大さを忘れ、巨人の影のもとで生きる状態から逃れたいという欲望を意味する。プラトンにおいて、人間は完全な神ではなく模倣者であり、限界を持つ存在である。したがって巨人の忘却は、魂の想起説になぞらえることができる。巨人の記憶を失うとは、偉大さについての知を失うことであり、それは同時に「無知の知」を失い、傲慢で無知になることを意味する。こうしてこの箇所は、プラトンにおけるイデアと模倣者の関係、魂の想起説、さらには「汝自身を知れ」と「無知の知」へと私たちを導く。バラードの啓蒙主義への疑念、科学的楽観主義者への懐疑と合わせれば、ここで描かれているのは、人間が自分の限界を忘れ、傲慢な無知へ陥る姿だと考える理由がある。巨人はこの時点で、鯨というより、完全さと知恵に近づいた何ものかの象徴に見えてくる。おそらくこれが、巨人の真の隠喩に近い。
叙述者は何度も、巨人を叙事詩の英雄になぞらえる。その描写は巨人の外見と心性をたびたび結びつけ、身体によじ登る人間たちの心性と対比する。巨人は古代の英雄に近く、現代人はその身体を踏みつけ、切り分ける小人なのである。巨人と小人が示すのは古代人と近代人の対比であり、より具体的には二つの品性、すなわち古代人の魂と近代人の魂との対比である。巨人が古代人の偉大な魂を隠喩するのだとすれば、物語の多くの不合理な箇所が合理的に見えてくる。映像は、巨人が死んでいるのではなく眠っているだけのように見せる。いつでも目覚め、周囲のコピーを押し潰しかねない。原作では、巨人は空を見つめ、そばのコピーなどまるで意識していないかのようだ。巨人の胸に立った漁師が群衆へ合図を送り、人々は近づきながら驚嘆と勝利の歓声をあげる。しかし本当に巨人へ近づくと、少なくとも叙述者と仲間たちの興奮したおしゃべりは消えていく。8
時間が流れるにつれて巨人の容貌は変化し、叙述者はその変化から巨人の心理の変化を想像する。最初はギリシアの英雄のようだった巨人が、次第に慎ましく成熟した気配を帯び、解体される段階では苦痛と無力さを示すように見える。バラードは人々による解体を depredation、すなわち「略奪」と表現し、巨大な身体は逆に巨人の脆弱さを増していく。9 もし今日の私たちが古代人の魂の高貴さを本当に理解できるのが書物を通じてだけだとすれば、小人による巨人の解体と、その巨人が苦しんでいるように見えることは、近代人による古代人の曲解と誤読、そして高貴な魂の解消を意味する。初めに巨人の偉大さと完全さを強調し、ここでは弱さを描くことは矛盾しない。前者は古代人の崇高さそのものを指し、後者は皮肉である。古代人は後世の者による恣意的な分解に抵抗できず、その問題に関して巨人にはなすすべがない。巨人は切り刻まれるだけでなく、人々の勝手な書き換えによって侮辱も受ける。巨人の徳が古代の書物に体現されているのだとすれば、人々の行為は古典の断章取義にあたる。では、その曲解は何をもたらすのか。バラードは巨人への落書きを通じて一つの暗示を与えている。落書きにはふざけた標語とナチスの鉤十字が含まれる。ふざけた標語は、現代人が厳粛な古典の真剣さを解体することを意味し、ナチスの印は、その解体と改変が破滅的な戦争へつながることを示しているのかもしれない。バラードはここで第二次世界大戦を風刺し、その原因を暗示しようとしているように見える。戦争を近代性の帰結の一つとみなし、近代性によって人間の理性への自信が膨張し、神的な教えと古代人の謙虚さが忘れられた、と考えているのかもしれない。ところが映像版には、この重要な鉤十字が描かれていない。
さらに解体が進むと、巨人の頭部が切り落とされる。10 頭が切断されることは、巨人がついに人間として最も主要な特徴を失うことを意味する。目の前の肉塊は魂を欠いた記号の集積に近づき、人々も畏敬とは何かを思い出せなくなる。巨人から人間らしさが消えることは、人々が巨人の存在そのものを忘れようとしていることの予兆でもある。時間の流れに伴う身体の変化と解体の過程は、歴史の長い流れのなかで西洋人が古代人に対して行ってきたことと驚くほど似ている。原作は、身体が失われ、切り刻まれた巨人に残っていたわずかな人間的特徴も消えるにつれて、見物人の関心も消えたと直接述べている。11 皮肉なのは、巨人から崇高さを奪ったのが人々自身による解体と改変であり、しかも小人が自ら作り出したその結果を、最後には小人自身が忘れてしまう点である。
数か月後、叙述者が再び巨人に出会うとき、巨人はすでに断片のかたちでしか現れない。そのころには、人々は巨人がかつて存在したことを忘れている。小説では、最初に巨人を発見したと主張した漁師さえも今では巨人を忘れ、代わりに巨大な海獣の記憶を抱いていることが強調される。12 巨人を古代人の魂と理解するなら、人々がこれほど早く巨人を忘れ、鯨の記憶へ置き換える理由もわかる。なぜなら、それこそ近代人が古代人に対して行ってきたことだからである。今日の小人は古代人の偉大さを信じず、偉大さがかつて存在したことすら信じず、近代人の魂の高さから古代人の魂の深さを見下ろす。映像と原作はいずれも、技術的理性と科学主義への反省を暗に含んでいる。
以上の分析から、巨人が何を隠喩するのかがようやく見えてくる。巨人は古代の偉大な人物と、その人物たちが備えた偉大な品格を象徴し、それらは古代の大著、神性を帯びた知恵に満ちた古典のなかに保存されている。映像全体が示すのは、古代人と近代人の戦いである。小人は巨人に勝ったように見える。しかし映像の最後で叙述者が言うように、巨人は死んでいない。巨人は蘇り、自分の断片を拾い集め、自ら海へ走っていく。それは巨人が傲慢な小人を置き去りにしたことを意味する。巨人が古代人の魂、古代の古典と知恵の隠喩であるなら、この読みは『ガリヴァー旅行記』によって確かめられ、同時に『ガリヴァー旅行記』との比較が巨人というイメージをさらに深く理解させる。つまり『溺れた巨人』という物語全体が隠喩しているのは、思想史上の古代人・近代人論争なのである。
四、『ガリヴァー旅行記』から『溺れた巨人』を読む
前節までの分析では、『白鯨』との比較によって巨人を鯨の隠喩へ還元する読みを退け、『変身』から、傍観者の態度の変化を手がかりに巨人の隠喩を探る発想を得た。しかし『ガリヴァー旅行記』は、バラードが表現しようとした意味へさらに直接的に私たちを導く。バラードとスウィフトのつながりにも手がかりがある。サイモン・セラーズは、「溺れた巨人」を通して初めてバラードを知った読者なら、スウィフト的伝統に連なる魔術的リアリズムの名手を偶然発見したと思うかもしれない、と述べている。13 『溺れた巨人』と『ガリヴァー旅行記』を比べると、傍観者の態度の変化とは、まさに近代人が古代人に向ける態度の変化ではないかと見えてくる。傍観者が近代人=小人であり、巨人は古代人と、彼らの著した古典を表しているのである。
実際、プラトンの『パイドロス』には、魂の質の優劣を大人と子どもの身長差のように捉える発想がすでに見られる。身長の差は、プラトンにおいて魂の質の違いを類比するものとして用いられうるのである。スウィフトは『ガリヴァー旅行記』でこの類比を寓話へ直接発展させた。スウィフトの時代背景と執筆動機を考慮した研究には、『ガリヴァー旅行記』を古代人・近代人論争に対するスウィフトのより徹底した思考として捉え、この論争期でも最も深い政治哲学的著作の一つとみなすものがある。「小人国」と「大人国」の対比を、近代の民主政と古代の君主政との対比と読むのである。14 私は『溺れた巨人』という短い小品とその映像化から、古代と近代の政体比較まで読み出そうとは思わない。それは明らかに過剰解釈の大きな危険を冒す。『ガリヴァー旅行記』の豊富な筋と象徴に比べて、『溺れた巨人』はあまりに短く、象徴性を帯びているとしても二つの政体の類比へ直接拡張することは難しい。政体の比較にまでは至らないとしても、『溺れた巨人』が一種の古今比較を行っていることは確かであり、より具体的には二つの魂の質を比較している。もちろんプラトン『国家』によれば魂の質は政体の形を決めるので、この延長自体が許されないわけではない。しかしここでは、バラードの本文と映像の脚本に密着して解釈するほうがよい。
叙述者は科学者として現地調査へ向かう。独白によれば、彼らは当初、巨人が実在するという話を信じず、光線が生み出した錯覚にすぎないと近代科学的に説明する。この疑いは、近代科学の目によって巨人の存在そのものを疑う態度である。スウィフトの古代人・近代人論争に照らせば、近代派は科学の発展を持ち出して古代人の愚かさをあざ笑う。だが古代派の反論は、科学において近代人が古代人より進んでいるとしても、それが芸術や心性において近代人のほうが高貴だということにはならない、というものだ。むしろ私たちはつねに近代科学の思考様式から古代人を眺めるため、古代人を見つけられなくなったり、その存在自体を疑ったりするのかもしれない。叙述者も見物人も小人であり、だから世界に巨人がいる、あるいはかつていたという事実を認めにくい。しかし巨人の死体が現れることで、その科学的認識は打ち破られる。
初め、人々は遠くから眺めるだけで、巨人へ近づこうとしない。だがゆっくり近づいていくと、巨人と小人の対比が生み出す強烈な衝撃によって群衆から騒めきが爆発する。この喧騒は、巨人を前にした小人の心境の変化を表す。小人たちは巨人の上へ登るほど騒がしくなっていくのに、巨人は終始沈黙し、古代ギリシア人のような威厳を保つ。ここに巨人と小人の対比が作られる。原作は続いて、巨人の掌にたまった水を、別世界の残滓のようなものとして描くが、それは腕をよじ登る人々によって壊されてしまう。叙述者の視点が与えるこれらの手がかりをつなぎ、スウィフトの巨人/小人の隠喩を思い出せば、バラードが二つの性質を対照させているように見えてくる。一方は騒々しく軽薄な近代人、もう一方は気品を保つ古代人である。近代人は古典世界とのつながりを大切にせず、掌の水を壊す場面はそのことを暗示する。この破壊がすべての破壊の始まりとなり、最後には巨人の踏みつけ、解体、完全な忘却へ至る。同じ段落で叙述者は巨人の正体を示す手がかりを探そうとするが、膨れた身体のために希望は失われる。これは私たちと古典時代との距離がますます広がり、古典を理解するための手がかりそのものを見つけにくくなったことの隠喩である。叙述者は巨人の正体を知らないのに、その顔がギリシア人に似ていることを何度もほのめかす。それは、私たちがギリシア人の偉大さを忘れつつあるということなのだ。
巨人を形容する修辞と傍観者を形容する修辞を比べると、褒貶の方向はスウィフトと一致している。巨人の皮膚は真珠のような光沢をもち、甘く濃厚な香りを放つのに対して、群衆はその周りを蠅のように飛び回り、若者のなかには鼻孔へ潜り込み、狂犬のように吠える者までいる。さらに、巨人の長く続く沈黙と静謐は、群衆の一瞬だけの喧騒と対照をなす。15 映像でも同じである。巨人には繰り返しギリシア人の面貌や叙事詩の英雄のような体格が暗示され、身体が変化した後には、慎み深さ、控えめさ、恵まれた成熟の落ち着きといった性質が重ねられる。傍観者は逆にコピーと呼ばれ、騒々しく非文明的に描かれる。明らかに巨人と小人という二つの品格を比較しているのであり、そこでは巨人が高貴さ、小人が卑小さを担う。スウィフト『書物合戦』の修辞と比べることもできる。スウィフトはまず獲物を奪い合う犬を使って近代派のホッブズを風刺し、続いて蜜蜂と蜘蛛の寓話を語る。16 蜜蜂は古代人、蜘蛛は近代人を表す。並べてみれば、バラードもまた修辞によって古代人と近代人の二種類の魂の質を対比していることが見えてくる。
警察が封鎖をやめると、何千人もの人々が浜辺へ押し寄せ、少なくとも二百人が巨人の身体の上に立ったり座ったりする。ここでも小人を貶める修辞が現れる。午後には警察が戻って道を空け、大学から解剖学の専門家と海洋生物学者を連れてくる。警官が専門家を掌へ登らせようと助けを申し出ると、彼らは断る。やがて人々が再び浜辺へ戻り、群衆はまた巨人へ登る。ここでは、巨大な魚の身体に集まる海鳥の群れのように描かれる。警察と学者はこの出来事に現れては消え、まるで形式だけ整えて通り過ぎたように見える。国家機関にも学者にも巨人を保護する意識がなく、その結果、人々が押し寄せ、小人が巨人を踏み荒らし破壊するのを放置した、と読むことができる。この場面は、国家が教化を軽視して民衆を放任すれば、偉大さが忘れられ、私たち自身の心が貧しく傲慢になる、と語っているようでもある。
小人は異常なほど騒々しく、死んだ巨人の身体へよじ登るため、生気があるように見えるのは巨人よりむしろ小人のほうである。ところが叙述者にとって巨人はなお生きており、見物する小人よりも生命力に満ちている。この生命力は明らかに別の意味をもつ。巨人と小人を古今の心性の隠喩とみるなら、その生命力とは古典と永続的価値の生命力であろう。その後、巨人へ登ったとき、叙述者は巨人がすでに時間の体系へ屈服し始め、腐敗を迎えようとしていると感じる。絶え間ない質的変化、目に見える死のなかに含まれる生気こそ、叙述者に巨人へ足を踏み出す勇気を与えた。巨人も小人も、最後には時間へ屈しなければならない。ここには少なくとも二つの意味がある。第一に、巨人が表す古典の伝統と高貴な精神が近代人より長く時間に耐えるとしても、浅薄な近代人が巨人を忘れることを巨人自身は止められず、古典が誤読されたり書き換えられたりしないことも保証できない。第二に、巨人は神ではなく、限界をもつ生命体である。巨人ですら肉体の限界を持つのなら、小人がどうして傲慢でいられるのか。叙述者は、巨人の身体が受ける侮辱が彼をいっそう人間らしくすると同時に、いっそう脆弱に見せると語る。その脆弱さが、抑圧されていた悪意の奔流を解き放ち、周囲の小さな生き物にこの巨大な身体を食い荒らさせる。これは、後に小人たちが巨人をさらに切り分け、改変していくことへの風刺である。映像にも巨人への落書きは出るが、ナチスの鉤十字は示されない。原作でその印が描かれることは、バラードによるナチズム批判と読めるし、彼はナチズムの悪の相当部分を近代性の悪として理解していたのだろう。鉤十字は、第二次世界大戦と近代人の罪悪が、古代人の曲解と忘却の帰結として生じたことを暗示しているように見える。巨人の頭が切り落とされると正体はいっそう曖昧になり、人々は巨人への関心を失う。先に警察と学者が下した判断は誤りだったことになる。本来、学者の役割は巨人の価値を確認し、警察の力によって巨人を人類の永続的な記憶として守ることだったはずである。
巨人が再び現れるとき、その姿は断片になっている。これは古典の断章取義を意味し、ポストモダンによる古典的伝統の脱構築にもよく似ている。さらに深刻なのは、人々が巨人をすでに忘れていることである。巨人の断片を目の前にしても、それを頑固に鯨の一部だと考える。小人は巨人の遺産を解体し、巨人そのものを忘れた。「神は死んだ」。彼らの心にはもはや崇高さも偉大さも入る余地がない。ここで注目したいのは、映像の結末が原作に加えた改変である。叙述者は巨人がまだ生きていて、自分の身体の断片を集め、海へ帰っていくと語る。まるで巨人が小人たちの振る舞いに失望し、自分の思想を回収して、私たちのもとから失望のうちに去っていくことを暗示しているかのようだ。
もし「巨人と小人」のイメージが、バラードとスウィフトの作品で似たものを象徴しているのなら、アラン・ブルームの次の言葉は、本稿の結びとして『溺れた巨人』にもふさわしい。「私の著書の題名『巨人と小人』は、『われわれは小人だが、巨人の肩の上に立っている』という古い決まり文句を指すものでは断じてない。それは謙虚さを装いながら、あまりにも強い自己満足を表している。巨人はそんなにたやすく、自分の上によじ登らせてくれるものだろうか。小人を肩に載せることが、巨人の役目なのだろうか。かつてはそれほど寛大だったのかもしれないが、今では私たちを地上へ降ろし、ひそかに立ち去って、視野が広がったという幻だけを残したのかもしれない。偉大な者と親密であるという根拠のない思い込みは、やがて次の世代に、巨人など初めから存在せず、話のすべては教師たちが自分に力をつけるためにでっち上げた嘘だ、と否定させることになる。巨人たちはおそらく、私たちを見下ろしながら、このささやかな喜劇を笑っていることだろう。」17