屋頂現視研
← 中国語原文18 分で読了編集プレビュー

虚構と真のあいだの緊張――虚構の物語のなかでリアリティを求めるには

キョンの虚構とリアリティをめぐる名言を出発点に、真理述語の階層、記述理論、可能世界、自由論理、超付値意味論を用いて、虚構世界・対象・真理値の関係を明らかにする。

著者: 乌有之人翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

烏有之人のアバター
烏有之人

たとえ私が人の異言や、天使の言葉を語れたとしても。

『涼宮ハルヒの憂鬱』でキョンが虚構とリアリティを語る場面
図7:虚構の物語のなかでリアリティを求める人は、必ず頭がおかしい――キョン。

『涼宮ハルヒ』を見たことがあるかどうかにかかわらず、キョンのこの言葉を知らない人はほとんどいないだろう。この言葉だけなら、私たちの直感に反するものではない。なにしろ、虚構はそもそも現実とは異なるのだから。だが、この言葉が置かれた文脈――まさに一つの虚構の物語のなかに現れた言葉だということ――を考えると、これは嘘つきのパラドックスに似た、逆説的な文になる。

(1)虚構の物語のなかでリアリティを求める人は、必ず頭がおかしい。

(2)「虚構の物語のなかでリアリティを求める人は、必ず頭がおかしい」は虚構である。

文(1)それ自体は直感にかなっている。しかし、特定の状況では、その直感がパラドックスに陥る。文(1)に文(2)を加えるだけで、(1)と(2)から(3)を導ける。

(3)(3)のなかでリアリティを求める人は、必ず頭がおかしい。

明らかに、(3)は嘘つきのパラドックスに似た文である。この文がパラドックスを生むのは、自分自身を指示しているからだ。そこで、メタ言語と対象言語を区別すれば、こうした自己言及的な文が現れないようにして、これを嘘つきのパラドックスの変種とみなせる。(これは強化された嘘つきのパラドックスであり、多値論理では解決できないことが論理学者によって証明されている。)しかし、本稿の目的はそれだけではない。ここで問題にしたいのは、文(1)と文(2)から文(3)を直接導けるのかどうかである。文(1)と文(2)にはどちらも「虚構」が含まれているのに対し、文(3)では推論規則によって「虚構」が消去されているからだ。ここでは「虚構」が述語として扱われている。だが、虚構が必ずしも述語だとは限らず、(1)と(2)から(3)が直接導けるとも限らない。本稿では「虚構」の解釈を変えることで、(1)と(2)から(3)を得ることを避けようとする。ただし、虚構とは何かを定義するつもりはない。「7」を手がかりに、論理学の観点から、あるテキストが虚構だとどのように「言う」のか、つまり「虚構」という語の使い方を論じるのである。

嘘つきのパラドックスの議論に添えられた対話場面
「この種の三段論法は、当てにならない。」

「虚構」を一つの述語とみなすべきだろうか。文(1)における虚構の理解には、二つの前提がある。一つは、虚構の世界と現実の世界は同等の地位を持たないということ。もう一つは、リアリティとは、私たちがいる現実世界との符合にあるということ(素朴な真理の対応説)である。この二つの前提に従えば、虚構述語を次のように定義できる。ある文が虚構であるのは、それが虚構世界の対象や出来事を記述している場合、かつその場合に限る。ある物語が虚構であるのは、それが虚構世界を記述する文と、その帰結(consequence、こうした文から導ける文)からなる文の集合である場合、かつその場合に限る。しかし、ある文が真であるのは、それが現実世界の対象や出来事を正しく記述している場合、かつその場合に限る。私たちは虚構述語によって、虚構世界を記述する文を述べる。だが、真が文と現実世界との関係であるなら、こうした文は当然、真偽とは無関係になる。実際、古典論理もまさにこのように扱っている――「虚構である文それ自体が真である」ことも虚構だという場合を考えなければの話だが。では、その場合をどう排除すればよいのだろうか。

(一)真理述語の階層

クレタ人はみな嘘つきだと断言する人が、本人もクレタ人かもしれないのと同じように、私たちは「虚構」という述語を、「虚構は真偽に関係しない」という文そのものに用いて述べることもできる。タルスキ(Tarski)の真理述語の定義不可能性定理(略してタルスキの定理、または定義不可能性定理)によれば、意味論的に閉じた言語(semantically closed、自分自身を含む文を述べることのできる真理述語を含む言語)は、つねに対角線補題によって嘘つき文を構成できる。同様に、虚構述語を含む言語も、虚構述語を虚構の文そのものに適用することを避けられない。

真理述語の定義不可能性定理の結論は、意味論的に閉じた言語は自分自身によって真を定義できず、その言語の外部で、その言語に相対的な真を定義しなければならないということである。この言語を対象言語(object language)、この言語について語るための言語をメタ言語(metalanguage)と呼ぶ。対象言語LLについて、メタ言語のなかで「LLにおいて真」という述語を定義できる。真/偽はメタ言語の述語なので、一つの文のなかでそれ自体について語ることはできず、したがって嘘つき文の構成を避けられる。このように、文を階層に分けることで、メタ言語では対象言語の真を、メタ・メタ言語ではメタ言語の真を、さらに高い階層の言語ではある言語の真を定義できる。

メタ言語のなかで対象言語LLにおける真を定義するには、TTスキーマ(規約T)を用いる。すなわち、「SSが真であるのは、ppである場合、かつその場合に限る」とする。ここでppは、LLの文をメタ言語へ翻訳したもの、SSはppのメタ言語における名前、または構造記述語(たとえば、その文のゲーデル数)である。TTを真理述語、PPを対象言語における任意の文とすれば、TTスキーマは次のように表せる。

T(P)↔PT(P) \leftrightarrow P

言語LLの文が真だと言うとは、その文をPPに代入し、同時にその文の名前をT(P)T(P)に代入できるということである。そして、言語LLにおける真の概念を定義するには、TTスキーマのすべての実例をその帰結として導けなければならない――ある言語のすべての真なる文を得られるなら、それで真の定義を得たことになる。TTスキーマの実例を真の定義の一部とみなすなら、すべての実例の選言(orを表す論理記号)が、TTスキーマに合致する真の定義になる。しかし無限言語(真なる文が無限にある言語)では、「すべての真なる文の選言」は存在しない。したがって、TTスキーマは真の定義の基準でしかなく、それ自体が真の定義になることはない。タルスキは自然言語における真の定義に悲観的な態度を取ったが、再帰によって一階言語の真の定義を与えた。

(二)虚構述語

TTスキーマによって、私たちは一つの文と、その文の名前を区別できる。タルスキは、文の名前を引用符で表すことを選んだ。真とは、まさに文とその名前との関係である。彼が挙げた有名な例は次の通りだ。

「雪は白い」は真である、かつその場合に限り、雪は白い。

ある文の真は、そのメタ言語の性質である。その文が真であるとは、メタ言語のなかで引用符を取り去れるということだ――この真の性質を「引用解除」または「意味論的上昇」と呼ぶ哲学者もいる。対象言語とメタ言語の違いは、文とその名前との違いと同じである。文の名前は一つのまとまりとして扱い、文そのものと区別しなければならない。そうすることで自己言及の出現を避けられる。

真理述語の階層構造を考えることは、虚構述語の研究に重要な意味を持つ。このような階層構造は、真理述語だけでなく、文の述語としての虚構述語にも用いることができる。これは、前に述べた、文(1)における真についての対応説的前提を修正する一つの方法とみなせる。言語の階層を設定し、言語に相対的な「真」を定義するのである。世界と言葉の対応関係を考察するより、この見方は言語そのものに注目し、言語による世界の記述には階層があると考える。同じように、対象言語とメタ言語の区別を虚構述語にも適用し、虚構を、ある世界に相対的な虚構とみなし、「世界Wにおいて虚構である」と定義する。虚構述語を階層に分ければ、現実世界に相対する第一の虚構世界と、それに相対する第二の虚構世界を区別でき、虚構述語の自己言及を避けられる。こうして、キョンが語る虚構世界は「1096世界」であり、この世界は「涼宮ハルヒ世界」において虚構であることになる。これによって、二つの世界を同等のものとして扱わずに済む。

ここでいう「世界」についても、私たちは言語の水準に戻って考えなければならない。虚構述語を階層化すれば、階層に従って無限に上昇する虚構世界の系列を得られるが、存在論上の仮定を多く置く必要はない。それを文の集合とみなせばよい――世界について語るとき、私たちはその世界を記述する文の集合について語っているのである。このように、異なる階層の世界はメタ言語と対象言語の関係に似ており、異なる階層を記述する文同士の関係も、文と文の名前との関係に似ている。つまり、虚構世界のなかの文は、私たちにとって文の名前に当たる。私たちが直感的にそれを真だと思うのは、それを現実世界に置いて理解し、文の名前を一つの文として扱ってしまうからだ。実際には、私たちはそれほど簡単に引用符を取り去ることはできない。TTスキーマにならえば、虚構述語の使い方を次のように記述できる。「虚構の物語のなかでリアリティを求める人は、必ず頭がおかしい」という文が現実世界において虚構であるのは、「涼宮ハルヒ世界」に相対して虚構である物語――すなわち「1096世界」――のなかで、リアリティを求める人は必ず頭がおかしい、という文が成り立つ場合、かつその場合に限る。

ここで、最後の答えはきわめて皮肉なものになる。「虚構の物語のなかでリアリティを求める人は、必ず頭がおかしい」は、キョンがいる虚構世界に相対すれば正しい。実際、この文はどの世界に対しても――現実世界であれ虚構世界であれ――正しいと言える。私たちのいる世界について言えば、それが別の世界にとって虚構であるという可能性を、実際には排除できない。私たちにとっては、この世界が現実であるだけだ。

二.存在論の観点――虚構世界の存在論的地位

前段で示した解決策は、真についての対応説的前提を修正したものだった。しかし、この修正はもう一つの前提にも影響する。タルスキが真理述語を階層化した方式を受け入れると同時に、虚構述語も階層化することになり、「真」はある言語に相対するだけでなく、まずある世界に相対するものとなる。虚構世界について、私たちは依然として言語の水準で考えている。だが、虚構世界はもはや排除される例外状態ではなく、階層のはっきりしたもう一つの世界になる。他方、虚構世界を考察することで、私たちの現実世界にも境界が引かれ、これまで曖昧だった「世界」の認識がより精密になる。虚構と現実を区別すること自体は誰も否定しない。しかし前段の結論を借りれば、異なる階層の世界同士、さらには同じ階層にある異なる世界同士の関係を、もっと正確に描き出せる。

(一)虚構対象と記述理論(description)

孫悟空であれ、私の妻であれ、共通する特徴が一つある――現実世界には存在しないことだ。哲学者は、現実世界に指示対象を持たないこうした項を、空項または空名と呼ぶ。文の意味がその指示にあるなら、指示を持たない項は当然、意味も持たないことになる。しかし虚構主義は、空名は存在しないのではなく、現実世界には存在しないだけだと主張する。

虚構主義はマイノング主義とも呼ばれる。哲学者マイノング(Meinong――これは本当に中国語の拼音ではない)に由来する名である。マイノングの理論は、ラッセル(Russell)の批判によって広く知られるようになった。そして、マイノング批判を土台として、ラッセルは記述理論を提唱した。マイノングは、空名の指示対象は虚構対象であり、実在する事物とは異なる、虚構対象は不完全な存在の一種だと考えた。だがラッセルは、それはばかげていると考えた。「金の山は存在しない」のような文について、金の山は存在しないが、ある意味では存在すると言うことはできない。ラッセルによれば、空名は実際には偽装された記述句であり、それを含む文のなかから述語論理の技法によって消去できる。

ラッセルの記述理論の議論に添えられた対話場面
「これは論理的な誤謬だ。」

記述理論は実際には、単称項を含む文を、単称項を含まない文へ同値な形で置き換える技法である。異なる種類の記述句を含む、異なる種類の文には、それぞれ異なる処理方法がある。不定記述句(one...)を含む文では、「性質Pを持つある事物が性質Qを持つ」(どの対象かを指定していないので不定である)を、「性質Pを持つすべての事物が性質Qを持つ」に置き換える。

∀x(Px→Qx)\forall x(Px \to Qx)

確定記述句(the...)を含む文では、「性質Pを持つこの事物が存在する」(対象を指定しているので確定的である)を、「性質Pを持つ対象がちょうど一つ存在する」に置き換える。

∃x∀y(Px↔x=y)\exists x\forall y(Px \leftrightarrow x=y)

「性質Pを持つこの事物が性質Qを持つ」は、「性質Pを持つ対象がちょうど一つ存在する」と、「性質Pを持つ対象ならどの対象も性質Qを持つ」の連言(andを表す論理記号)に置き換える。

∃x∀y((Px↔x=y)∧Qx)\exists x\forall y\bigl((Px \leftrightarrow x=y) \land Qx\bigr)

こうすれば、「金の山は存在しない」のような文は、金の山の性質を持つ対象は存在しないと表現できる。ここで金の山は対象ではなく、一つの性質である。ラッセルが示そうとしたのは、空項を含む文が表現できることは、量化子と述語を適切に使っても表現できるということだ(同じ条件のもとでは、つねに同じ真理値を持つ)。筆者が記述理論をこれほど詳しく説明したのは、量化子と述語をよりよく説明するためである。

(二)真の定義と現実世界のモデル

前段ではタルスキの真理論を紹介した。論理学者たちはタルスキの道筋に沿ってモデル論的意味論を発展させ、「モデル」の概念によって一階論理における真を定義するだけでなく、「真」を用いて量化子と述語を解釈できるようにした。

「一階言語LLにおいて真」を定義しよう。LLの一つのモデルMMは順序対⟨D,f⟩\langle D,f\rangleである。論域DDは空でない個体の集合であり、ffは項から論域への解釈関数、つまり項から個体領域への写像である。ffは単称項を個体領域内の指示対象に割り当て、述語を個体領域内の述語の外延に割り当てる。

単称項ttの指示対象が述語FFの外延に属するとき、モデルは文FtFtに真を割り当てる。その後、命題結合子(含意、選言、連言、否定、同値)を含む文を再帰的に定義する。量化子を含む「すべてのxxはFFである」のような文については(「存在する」を「すべてそうでないわけではない」の省略とみなす)、FFの外延が論域DD全体であるとき、モデルはそれに真を割り当てる。

ある文を真にするモデルを、その文を真にするモデルと呼び、文の集合に含まれるすべての文を真にするモデルを、その文の集合のモデルと呼ぶ。ある文が論理的真理であるのは、すべてのモデルで真である場合、かつその場合に限る。

ここでいう真の定義は、本稿の前半と矛盾しないことが分かる。論域DDを現実世界の対象の集合とみなし、このようなモデルを現実世界モデルと呼べる。前段では、ある世界を、その世界を記述する文とその帰結の集合と定義した。ここでいう帰結は構文論的帰結である。

一階言語LLの演繹体系において、文の集合TTを与えたとき、ある文AAがTTの構文論的帰結であるとは、Bn=AB_n=Aとなる文の列B1,…,BnB_1,\ldots,B_nが存在し、B1,…,BnB_1,\ldots,B_nがTTに属するか、公理であるか、あるいは前の文から推論規則によって導かれる場合である。そしてモデルの概念によって、意味論的帰結を定義できる。 ある文AAが文の集合TTの構文論的帰結であるとは、TTのすべてのモデルがAAのモデルである場合、かつその場合に限る。偉大な論理学者ゲーデル(Gödel)は一階論理の完全性(completeness)を証明し、すでに証明されていた健全性(soundness)と合わせることで、意味論的帰結と構文論的帰結の同値性が得られる。すなわち、任意の一階文AAと一階文の集合TTについて、AAがTTの構文論的帰結であるのは、AAがTTの意味論的帰結である場合、かつその場合に限る。このように、世界に相対して真であることは、モデルに相対して真であることによって正確に記述できる。世界とは、その世界を記述する文の集合というより、むしろその文の集合を満たすモデル(の集合)なのである。

したがって、前段で述べた「現実世界において真」とは、現実世界モデルにおいて真ということである。ある対象が存在しないとは、それがモデルの論域に割り当てられていない、またはその対象に対応する性質が論域に外延を持たないということだ。記述理論によって、空名が現実世界に現れなくても、空項がもともとの古典論理を危うくする心配はなくなる。このように説明すると、ラッセルの記述理論は虚構主義を本当に反駁してはいないことが分かる。虚構対象はそもそも現実世界には存在せず、記述理論はむしろ、現実世界で虚構対象を記述する方法を私たちに与えているのである。

(三)事物について、言明について

「性質Pを持つこの対象が性質Qを持つ」という文の否定を考えると、二つの場合が現れる。

¬∃x∀y((Px↔x=y)∧Qx)∃x∀y((Px↔x=y)∧¬Qx)\begin{aligned} &\neg\exists x\forall y\bigl((Px \leftrightarrow x=y) \land Qx\bigr) \\ &\exists x\forall y\bigl((Px \leftrightarrow x=y) \land \neg Qx\bigr) \end{aligned}

たとえば、「孫悟空は章姓である」を否定したいとする。第一の場合、否定されるのは「孫悟空は章姓である」という文全体であり、つまり「性質Pを持つ対象が存在しないか、その対象は性質Qを持たない」ということになる。第二の場合は、「孫悟空は章姓ではない」となり、「章姓である」という事実だけを否定する――周知の通り、孫悟空は現実の人物ではないし、法律によって、建国以来、猿が妖怪になることは禁止されている。第一の場合、記述句が置き換えるのは文全体であり、第二の場合、置き換えるのは文の前半だけである。これは記述句の二つの作用域を反映している。前者を広い作用域、後者を狭い作用域と呼ぶ。ある文を狭い作用域で読むと、孫悟空が章姓であろうとなかろうと、孫悟空の存在を本当に否定したことにはならない。猿を妖怪にしたくないなら、作用域の混同を避けなければならない。

作用域の選択は、なぜ虚構を語からではなく文から考えるのかという重要な問題に関わる。語から出発する見方を事物について(de re)、文から出発する見方を言明について(de dicto)と呼ぶ。これまでの虚構主義者は、虚構対象を定義の出発点とし、虚構対象は現実とは異なるもう一つの存在にすぎないが、虚構対象を含む文にはなお意味があると論証しようとした。しかし記述理論が明らかにしたように、作用域を明確に理解していないと、存在しない対象を認めるよう私たちは誤導され、虚構の対象と現実の対象を同じ世界に置いて考えることになる。ラッセルにとって、それはまさに消去できる記述句である。虚構のものは必ず現実世界の外にあり、世界を記述する基本単位は語である。虚構の事物と現実の事物についての虚構述語を狭い作用域にすると、世界をまたぐ対象の存在を認めざるをえず、二つの世界が混同される。したがって、それは広い作用域でなければならない。虚構を現実と厳密に区別するなら、虚構は語の属性ではなく文の属性、個体の属性ではなく世界の属性でなければならない。

(四)可能性と超現実性

世界の属性としての虚構は、世界のもう一つの属性である「可能性」と区別する必要がある。可能世界意味論は、モーダル論理(古典論理を基礎に、「必然」などの様相語を加えた論理)を説明するための意味論である。モデル論の方法に従えば、可能世界モデル⟨W,R,V⟩\langle W,R,V\rangleを構成できる。ここでWWは空でない集合で、すべての可能世界の集合、RRはWW上の二項関係、すなわち世界間の到達可能関係であり、VVは付値関数で、様相言語(一階言語に様相語を加えたもの)の文がWWのどの世界で真になるかを割り当てる。 可能世界モデルによって様相語を定義できる。必然性をNpNpと書けば、可能性は「必然的に非ppではない」、すなわち¬N¬p\neg N\neg pの省略とみなせる。

NpNpが可能世界wwにおいて真であるのは、ppがwwから到達可能なすべての世界で真である場合、かつその場合に限る。

このように、様相言語の文はWW内のある世界に相対する真として定義できる。現実世界も可能世界の一つなのだから、これまで述べてきた真も、現実世界に相対する真である。

可能世界意味論も、「真」を世界に相対して定義し、可能性を世界のある属性とみなしていることが分かる。しかし虚構世界とは異なり、可能世界の「可能」は純粋に外延的で明確な概念ではない。「可能世界」そのものにも適切な定義が与えられていない。哲学者が与える定義は、不完全であるか循環的であるかのどちらかであり、論理学者はそれを原始概念とみなさざるをえない。それでも、可能世界の性質をいくつか得ることはできる。第一に、可能世界は論理法則にかなっている(矛盾を含まない)。第二に、可想像性(conceivability)を持つ。

定義が不明確なことに加え、可能世界には可能個体の世界をまたぐ同一性という問題もある。個体ttが性質SSを持つ可能性があると言うとき、それはある可能世界wwが存在し、wwのなかのtt(t′t'と記す)が性質SSを持つという意味である。では、現実のttが性質SSを持たず、wwのなかのt′t'が性質SSを持つなら、ライプニッツの法則(t=st=sであるのは、かつその場合に限り、ttが持つあらゆる性質をssも持つとき)によって、ttとt′t'は同一ではない。ライプニッツの法則は厳格すぎるとしても、それを弱め、ttのあらゆる性質をttのいくつかの性質へと弱めれば、今度は本質主義へ導かれ、あるものをいくつかの本質的属性と同一視することになる。しかし両者が同一ではないと認めれば、代償はさらに大きい。ttがt′t'でないなら、ttはいったいどうして、性質SSを持つt′t'になりうるのか。哲学者のなかには、ttとt′t'のあいだに相互対応の関係があると示そうとする者もいるが、それはさらに説明が難しい。

アニメの台詞における世界の可能性
「この世界の可能性だ。」

以上の見方はいずれも、可能世界のなかの対象を実在する対象とみなしている。可能世界を一つの「遠い国」とみなし、可能性を、望遠鏡でその国を観察して対応する現象が起きているかを探すこととみなすのである。すべての世界は実在するが、そのうち現実であるのは現実世界だけだ。同時に、これらの見方は固有名を、その性質を表す記述句(性質Sを持つ対象)の集合と同一視する。この見方を可能世界実在論と呼ぶ。実在論が抱えるさまざまな問題に対して、クリプキは可能世界の概念説を提起した。可能世界は「可能な世界」ではなく、「世界の可能性」(『ブギーポップ』より)である。クリプキは記述説を否定し、固有名はそれに結びついた記述句によって一意に決まるのではなく、その指示対象によって一意に決まるとした。すると、可能世界の議論とは、こうした対象からなる世界の可能な状態についての議論になる。しかしクリプキによる固有名の定義は、「すべての可能世界で同じ対象を指示するもの」であり、循環定義の疑いが残る。

可能世界がどのように構成されるかはともかく、少なくとも、これらの議論から可能世界の第三の性質を得られる。可能世界の個体は、現実世界の個体と対応関係を持つ。可能性を考えるとき、私たちは現実世界を基盤に考える。この点で、可能世界と虚構世界を区別できる。虚構世界も想像を基盤とし、論理に従わなければならないが、決して現実ではない。どうしてもその可能性を考察するなら、それは不可能であるしかない。これまでの可能世界理論が直面した困難の根の大部分は、虚構の不可能な対象を可能世界に入れてしまったことにある。

これで、可能世界と現実世界の区別を導ける。どちらも現実世界に相対する概念だが、現実世界と可能世界の関係は現実と非現実の関係であり、現実世界と虚構世界の違いは現実と超現実の関係である。虚構が超現実であることは、虚構述語の階層構造に現れている。それに対して、可能世界は現実世界と並行している。

こうして私たちは、虚構世界と現実世界との関係を十分に明確に描き出せた(十分とは限らない。なにしろ、論証の細部は紙が小さくて書ききれず、十分に補足できていないのだから)。筆者は、ここで示した虚構対象は、モデル論的意味論、記述理論、可能世界理論など、私たちがすでに持つ論理学/哲学の主流分野と競合するものではなく、むしろ有益な補足だと考える。この考え方は、モデル論的意味論の枠組みで真を定義すること、可能世界意味論の枠組みでモーダル論理を論じること、記述理論を道具として現実世界で虚構対象についての記述を語ること(この記述は虚構文の翻訳とみなせること)を、少しも妨げない。

三.認識論の観点――真でも偽でもない虚構?

「世界に相対する真」と、これまでの真の概念は何が違うのだろうか。虚構世界における真は、必ず現実世界では偽なのだろうか。

ラッセルもタルスキも二値原理の忠実な支持者であり、すべての命題は真か偽かのどちらかで、第三の選択肢はないと考えた。しかしこの考えは、虚構対象を前にすると困難に直面する。特に、本来ならすべてのモデルで真であるはずの論理的真理――同一律や排中律のなかの単称項を虚構対象に置き換えた、「孫悟空=孫悟空」「孫悟空は章姓であるか、そうでなければ章姓ではない」のような文――は、現実世界でもなお真なのだろうか。これを偽だと考えるなら、こうした論理的真理はすべての場合に真ではないことになり、論理の妥当性に挑戦することになる。私たちはこうした文を、虚構世界モデルにおける論理的真理の実例と呼ぶ。論理的真理は、すべての世界で、どの世界に相対しても真であるべきであり、各世界においてその世界に相対してだけ真であるべきではない。

こうした文について、ラッセルは二値原理を守り、広い作用域と狭い作用域を区別できれば、存在しない対象を述べる文をすべて偽としても排中律に違反しないと考えた。だがラッセルはここで「反虚構主義の拡大適用」という誤りを犯し、虚構世界の記述と、現実世界についての誤った記述とを区別できなくしている。実際、虚構文は現実世界において真ではないとしても、現実世界についての誤った記述と同じではない。ラッセルの「反虚構主義の拡大適用」は、空項を文から排除するとき、普通の無害な名前まで排除してしまったことにも現れている。実際、空項と一般の項との区別は先験的なものではない。虚構対象は現実世界に存在しないが、虚構対象を指す空項は現実世界に存在する。その指示対象が存在するかどうかは、先験的な断定ではなく、経験的な断定である。

虚構主義の立場を守るなら、次の事実を明確にしなければならない。虚構文には意味があり、それは虚構世界の記述である。したがって、現実世界の真偽によって虚構文を規定することはできない。また、虚構世界は現実ではないが、虚構文の名前や、虚構世界を想定する活動はなお現実である。最後に、古典論理の定理は、現実世界においても虚構対象に適用できる。虚構主義という哲学的立場は、古典論理に反することなく、虚構主義の論理を構築することを求めている。

(一)空項と存在前提

まず、モデル論的意味論によって空項を定義しなければならない。モデルM=⟨D,f⟩M=\langle D,f\rangleについて、ffがある項ttをDDのなかで割り当てていないなら、ttはMMにおいて未定義だと呼び、このような項を空項と呼ぶ。古典論理は、すべての項が指示対象を持つことを前提としている。この要求を存在前提と呼ぶ。前提を、文と文のあいだの意味論的関係として定義しよう。

文AAが文BBを前提とするのは、かつその場合に限り、AAと非AAの両方を真にするすべてのモデルで、BBも真であるときである。

存在前提とは、個体定項ttを含む文φ\varphiについて、φ\varphiがttは指示対象を持つことを前提とする、つまりφ(t/x)\varphi(t/x)が真であるかどうかにかかわらず、それを導けるということである。ここでも記述理論と同じように、量化子と等号を使って項が指示対象を持つことを表す。ttが指示対象を持つことを∃x(x=t)\exists x(x=t)と記し、これはttがモデルMMで定義されていることを表す。したがって、虚構主義が空項を導入するという要求の本質は、もともとの項の集合に空項を追加することではなく、すべての項に対する存在前提を取り消し、一階言語では項の指示対象が存在するかどうかを先験的には知ることができないようにすることだと分かる。これは直感にもかなっている。名前が存在することは、その指示対象が(現実に)存在することと同じではないからだ。

存在前提を取り消すと、モデルMMの付値関数ffはすべての項に割り当てを持たなくなり、部分関数(partial function)となる。このようなモデルも部分モデル(partial function)と呼ばれる。空項を導入しても、量化子はなお存在の含意を持つ。量化子を「個体領域にあるすべての対象」と解釈するのである。ある対象が存在するとは、それを量化子に束縛された変数xxに代入できることだ(クワインの存在論的コミットメント)。存在前提から自由でありながら、量化子の存在の含意を保つ論理を、自由論理(Free Logic: free from existential presupposition)と呼ぶ。筆者は、自由論理を土台として虚構主義にかなう意味論を構築できると考える。

自由論理は個体領域を二つに分ける。量化子に束縛される個体領域を内個体領域、空項の指示対象が属する領域を外個体領域とみなす。古典論理は内個体領域にはなお適用できる。外個体領域については、虚構対象からなるものとみなせる。ここでの外個体領域は、現実世界で虚構を考えるための一つの技術的手段にすぎず、明確な境界を必要とせず、虚構世界と同じでもない。こう理解できる。この世界の個体は内個体領域に属し、他の世界の個体は外個体領域に属する。

(二)真理値ギャップと二値原理

存在前提を取り消すことがもたらすもう一つの結果が、真理値ギャップ(truth-value gap)である。真理値ギャップは前提の失効から生じる。文AAが文BBを前提とし、BBが偽なら、AAは真でも偽でもない。このときAAは真理値ギャップにある。自由論理では、存在前提を取り消したMMは部分モデルであり、空項に個体領域の対象を割り当てられない。そのため、空項を含む文に真偽を与えることもできない。

MMを虚構対象の名前を含む現実世界モデルとみなせば、虚構文がMMで真偽を持たない、つまり現実において真偽を持たないのは自然である。だが、空項を含むトートロジーや矛盾式もなお真偽を持たないのだろうか。トートロジーを真にし、矛盾式を偽にするのは、世界との対応ではなく、論理記号の定義と論理規則の構成、つまり純粋な論理形式である。たとえば孫悟空について、「孫悟空は章姓である」と「孫悟空は章姓ではない」は、現実世界では確定した真理値をどちらも持たない。ここでの真は、世界に相対する真だからだ。しかし、「孫悟空は章姓であるか、そうでなければ章姓ではない」は真である。その真は「または」の定義に依存している。

古典論理では、論理的真理をすべてのモデルで真となる文と定義し、健全性定理と完全性定理によって、すべてのモデルで真となる文が、形式に依存して真となる文と同値であることを証明できる。しかし、古典論理ではこの二つの真が外延を共有していても、両者を区別する必要はある。「孫悟空は章姓であるか、そうでなければ章姓ではない」は、ある虚構世界では当然真である。だが前に述べた通り、論理的真理は、すべての世界でそのすべての世界に相対して真であるべきであり、すべての世界で、それぞれが置かれた世界にだけ相対して真であるべきではない。そうでなければ、ある世界では別の世界に相対して真でないことがありうる――ここでの真も、依然として世界に依存する真である。論理的真理をすべてのモデルで真にしたいなら、それを一つのモデルに限定してはならず、一つの世界に限定してもならない。そうでなければ、すべての世界で真であっても、それはなお相対的で偶然的な真にすぎない。論理的真理は、より本質的なもの、つまり異なる世界に共通する属性である論理形式に依存すべきである。私たちは虚構世界を、その虚構世界を描く文の集合とみなす。異なる世界が同じ論理形式を持ち、同じ構造の論理言語で異なる世界を記述できて初めて、虚構世界を設定することが可能になる。まして、ある世界では別の世界に相対して真でないことは、すべてのモデルで真であることには含まれず、論理の完全性を損なう。

この二つの真の違いをよりよく理解するには、構文論上の排中律「P∨¬PP\lor\neg P」と意味論上の二値原理「T(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)」を区別する必要がある。形式に依存する真のほうがより本質的だと考えるなら、真でも偽でもない真理値ギャップが排中律の成立を危うくしないことを証明しなければならないからだ。これについて、ファン・フラーセン(van Fraasen)は超付値意味論(supervaluation)を提唱し、真理値ギャップにあるPPと非PPはそれぞれ真理値を持たなくても、PPまたは非PPは超付値真になりうると示そうとした。彼はまず、タルスキのTTスキーマに従い、意味論的前提の定義を受け入れるなら、二値原理もまた前提とされていることが分かると指摘した。

  1. PPはT(P)T(P)を導く。
  2. T(P)T(P)はT(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)を導く。
  3. PPはT(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)を導く。
  4. ¬P\neg PはT(P)T(P)を導く。
  5. T(¬P)T(\neg P)はT(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)を導く。
  6. ¬P\neg PはT(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)を導く。
  7. PPはT(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)を導き、かつ¬P\neg PもT(P)∨T(¬P)T(P)\lor T(\neg P)を導く。
  8. PPと¬P\neg Pは、それぞれ二値原理の成立を前提とする。

この結論を受け入れるなら、二値原理は絶対的なものではないという事実を、きわめて自然に受け入れられる。二値原理は前提とされている。真が世界に相対して定義される以上、真でなければ偽であるということも、世界に相対して定義される。そして論理形式としての排中律は、それに先立つべきである。

同時に、この結論に従って、前提としての二値原理と存在前提を比較すると、両者にはきわめて密接な関係があることが分かる。単称項と述語からなる原子文では、単称項が定義されているときにだけ、モデルはそれに付値できる。したがって、単称項を含む文では、二値原理の成立が存在前提の成立を条件とする。他方、文が真か偽かのどちらかであるなら、そこに含まれる単称項は指示対象を持つ。存在前提は二値原理の成立を条件とする。ここから、次の二つの帰結が得られる。

  1. ∃x(x=t)\exists x(x=t)とφ(t/x)\varphi(t/x)は、T(φ)∨T(¬φ)T(\varphi)\lor T(\neg\varphi)を導く。
  2. T(φ)∨T(¬φ)T(\varphi)\lor T(\neg\varphi)とφ(t/x)\varphi(t/x)は、∃x(x=t)\exists x(x=t)を導く。

このことから、存在前提と二値原理は、述語論理の言語にとって同値であることが分かる。虚構文について言えば、現実世界でその存在前提が失効すると、二値原理の前提も現実世界で失効する。したがって、虚構文のいわゆる「真か偽か」の真理値ギャップ状態の本質は、二値原理が失効し、付値を持たない状態なのである。

(三)超付値

二値原理と「世界において真」は世界に相対することが分かった。次にするべきことは、異なる世界のあいだで共通する論理構造の現れとしての排中律が、すべての世界で成立することを示すことである。超付値意味論のもう一人の重要人物であるベンチヴェンガ(Bencivenga)は、超付値意味論の付値方法を思考実験(mental experiment)と呼んだ。単称項に指示対象がないとき、現実世界はそれを含む文の真偽を検証できない。そこで思考実験を用いる。その項が指示対象を持つと想像し、その指示対象が何であれ、そのときの文の真偽を調べるのである。ここで超付値の真とは、その項が何を指示するものと想像されても真である文のことだ。その真は物理的事実から得られるのではなく、「もし」という言葉によって想像された反実仮想的状況に訴えることで得られる。だから反実仮想的真理論と呼ばれる。この思考実験における超付値真は、条件文でまとめられる。単称項が指示対象を持つなら、その文は真である。

付値方法としての超付値は、具体的には二段階に分かれる。まず部分(partial)付値を行う。モデルM=⟨D,f⟩M=\langle D,f\rangleが与えられたとき、MMのもとで真または偽である文には真/偽を割り当て、MMのもとで真理値を持たない文には真理値を割り当てない。次に、MMのもとで真理値を持たない文に任意に(arbitrary)真理値を割り当て、もとの部分付値を全(total)付値へ拡張する。これは、任意の対象を割り当て、その条件のもとで文が真であると想像することで実現される。この方法が思考実験であり、最後に得られる全モデルをMMの古典的拡張(classical extension)またはMMの補完(completion)と呼ぶ。

(ff;DD)モデルMMを与えると、MM上の超付値モデルSMS_MはMMのすべての補完の集合である。すべてのモデルの超付値で真となる文が、超付値における論理的真理(SL\mathrm{SL}-truths)を構成する。

定義:

AAがSMS_Mにおいて真であるのは、かつその場合に限り、MMのすべての古典的拡張でAAが真であるときである。

AAがSMS_Mにおいて偽であるのは、かつその場合に限り、MMのすべての古典的拡張でAAが偽であるときである。

AAがSMS_Mにおいて真でも偽でもないのは、かつその場合に限り、MMの一部の古典的拡張ではAAが真であり、MMの別の古典的拡張ではAAが偽であるときである。

ここで三番目の場合が、前節で述べた付値のない状態である。そして論理的真理は、超付値によってすべてのモデルで超付値真となる。ベンチヴェンガは、古典論理の論理的真理が超付値における論理的真理と同じであることを証明し、それによって自由論理の弱完全性(トートロジー=恒真式)を証明した。後の論理学者たちは、超付値では強完全性(構文論的帰結=意味論的帰結)を得られないことを証明した。しかし、この完全性は、ある世界に相対して証明できればよい。弱完全性で虚構主義の目的には十分なのである。

(四)可想像性

超付値意味論は、虚構文のなかで論理的真理が成立することを思考実験の結果とみなす。思考実験において虚構対象の存在を想定することも、虚構世界を想定することとみなせる。このように想定に依存して存在する性質を、可想像性(conceivability)と呼べる。虚構世界が可能なのは、私たちがそれを想定できるからであり、その想定も論理法則に従って初めて可能になる。したがって、論理法則は現実世界に相対して成立するだけでなく、想定するという活動によってすべての世界でも成立する。

超付値意味論では、虚構世界の可想像性は部分モデルの補完として現れる。虚構対象が存在すると想定するとは、もともと外個体領域にあった虚構個体が内個体領域に加わると想定し、部分モデルが補完されて全モデルとなるようにすることだ。これによって、その個体領域では存在前提と二値原理の前提が成立する。部分モデルのある補完を考えると、それを一つの虚構世界とみなせる。虚構世界は虚構対象だけからなるとは限らず、現実世界のある拡張であってもよい。実在する個体のある部分集合と、いくつかの虚構対象とが共に構成する世界である(虚構対象と共存すると矛盾を導く可能性のある個体は取り除くべきである)。虚構世界は何もないところから形成されるのではなく、依然として現実世界を原型とする。

注意しなければならないのは、虚構世界が現実に存在する対象(たとえばコナン・ドイルが描くベイカー街)を含むことがあっても、それらはなお虚構世界にあり、現実世界とは異なる階層にあるということだ。それを厳密に記述すれば、虚構世界にありながら現実世界の個体と対応できる個体である。したがって、虚構対象を虚構世界のなかの対象と直接定義することはできない。虚構対象とは、虚構世界に現れるが、それに対応する現実の個体がない対象である。想定の過程で、虚構対象にいくつかの原型があることもある。しかしこの関係は、ここでいう対応関係とは容易に区別できる。虚構対象の原型は複数あるかもしれず、一人だけかもしれないが、その人物が物語のなかの役柄と同じ属性を持ち、同じ物語を経験することはない。たとえ原型が本当に物語の通りの出来事を経験していたとしても、あるいは現実の宇治に中学校の吹奏楽部があって全国大会に進んだとしても、私たちは小説でおなじみのあの一文――「似た点があっても、すべて偶然である」――を持ち出せる。

ここまでで、虚構世界をかなりよく描き出せる。筆者が先に述べたように、虚構世界は虚構世界を記述する文の集合であり、その文の集合を満たすすべてのモデルの集合でもある。虚構世界を満たすモデルの個体領域は、当然、現実世界を土台に虚構対象を加え、矛盾を導く可能性のある個体を取り除いて構成される。虚構個体とは、虚構世界に現れるが、それに対応する現実の個体がない対象を指す。ここで「虚構」は対象を記述するために使われているが、文の述語としての虚構とはまったく異なる。このように使うのは、理解しやすくするためにすぎない。虚構はまず文の属性であり、その次に対象の属性なのである。

筆者が思いつくのはこれくらいである。この文章は論文のように見えるかもしれないが、あまりに粗雑なので、筆者はその一文一文に責任を負うことができない。本稿は草稿にすぎない。読者がその気になれば、ここに多くの不整合を見つけられるだろう。筆者は本文で、異なる種類の理論や概念を乱暴につなぎ合わせており、分量の制約から、こうした細かな不整合を分析し修正することもできなかった。また、さまざまな理論や概念についての本稿の紹介が正確だとも保証できない。すべて筆者による主観的な、ひょっとすると誤っている理解に基づいているからだ。筆者にできるのは、論理学という学問に感謝することだけである。少なくとも、理論や概念が正しそうに見えるようにはしてくれたのだから。とはいえ、この文章に価値がないとは思わない。ここで筆者は、虚構主義について自分が考えたことを紹介し、いくつかの論理学理論を用いてその考えを整え、その過程で論理学の知識もいくつか紹介した。読者には、本稿の価値ある部分に目を向け、そこから刺激を得て、筆者に有益なコメントを寄せてもらえればと思う。

編集部注

編集部注の画像:完全敗北
完全敗北
本文終わり

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。