
誰かのオカズになれる人を目指している。
私がこの記事の題名を書きつけたのは、まだ2018年11月末、ゲーム賞「The Game Awards 2018」(TGA 2018)で年間最優秀賞が発表される前のことだった。当時、プレイヤーの大半は「RDR2、マジで褒めても褒め足りねえ!」という熱狂の余韻に浸っていて、『レッド・デッド・リデンプション2』(以下RDR2)の年間最優秀賞受賞は、もう決まったも同然に思えた――TGAがまたしても自ら三流の賞だと証明したいのでなければ。ところが12月に入り、実際にその栄誉に輝いたのは、この年の春に発売された新生『ゴッド・オブ・ウォー』だった。もちろん、新生『ゴッド・オブ・ウォー』はこの賞にふさわしい作品だ。ただ、TGAの授賞式がRDR2の発売からわずか一か月余りという時期だったせいか、あの完璧の域に達した西部世界が受賞を逃したことを惜しむ人は多かった。
しかし、ネットで言われているように、TGAは従来のシリーズに革新をもたらす作品を歓迎する、という見方に立つなら、認めざるをえないことがある。新生『ゴッド・オブ・ウォー』では、身を切るような覚悟でシリーズが作り直された。それに対してRDR2は、すでにこれ以上ないほど壮麗な宮殿に、さらにこれ以上ないほど華麗な欄干や彫刻を添えたような作品なのだ。前作よりも完成度が高まったことは間違いない。ただ、どの方向に磨き上げるかは、すでに8年前に定まっていた。

だが、この記事では、それより前の論争にさかのぼりたい。11月前後にはすでに、さまざまなゲームの掲示板やオンラインコミュニティで、こんな問いが持ち出されていた。『レッド・デッド・リデンプション2』と『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下BOTW)は、どちらがより優れたゲームなのか。グラフィック重視派や各ゲーム機の信者など、さまざまな人がひとしきり言い争った末に、大多数のあいだで一つの合意ができた。この二つのゲームは比較できない、というのだ。たしかに、今日、芸術作品のファンが集まるコミュニティでは、二つの作品にむやみに優劣をつけることは、秩序を乱す「対立煽り」と見なされがちだ。まして、それぞれに大勢のファンを抱える優れた作品を軽々しく比べるなど、もってのほかである。この規範は理解できる。そうした論争はたいてい結論が出ないうえ、かえって異なる陣営のあいだで個人攻撃を引き起こし、助長してしまうからだ。

しかし、問いそのものが消えたわけではない。「対立煽り」となるような優劣の比較からは、本当に確かな結論を引き出せないのかもしれない。それでも、その問い自体を分析すれば、もっと広い意味で得るものがある。RDR2とBOTWは比較できないと私たちが言い切るとき、それは何を意味しているのか。なぜ比較できないと考えるのか。ゲームの掲示板やコミュニティでよく聞く説明は、異なるジャンルのゲームは比較できない、というものだ。スイカとリンゴのどちらがより優れた果物かを比べるべきではないのと同じだ、と。
ところが、このような答え方には、二つの問題があるように思える。
- a. 何をどう比べたいのかを十分にはっきりさせれば、比較は可能に思える。
- b. ゲームの「ジャンル」の区別そのものが、曖昧さに満ちている。
問題aについて言えば、たしかに二つの作品の特定の側面なら、根拠を挙げて優劣を論じられる。たとえば、BOTWの720pのグラフィックは前世代の水準にとどまっているが、RDR2が1080pで描く西部の風景は途方もなく壮大で美しい。RDR2のオープンワールドは細部を「詰め込んで」作られているが、BOTWのハイラルは隅々まで新鮮で面白い。RDR2のメインストーリーは胸を打つが、BOTWのストーリーは、ないよりはましな程度だ。RDR2の戦闘はいささか平凡だが、BOTWには非常に奥深い戦闘システムがある……。こうして特定の側面を比べていけば、多少なりとも根拠を挙げて支持できる評価は得られる。「RDR2のグラフィックはBOTWより優れている」、さらに厳密に言うなら「RDR2のグラフィックの解像度はBOTWより高い」といった具合だ。他の側面についても同じことが言える。

私は「メタ・アニメ批評I――問題としての批評言明」という記事で、構成性に基づくアニメ批評の自然主義的な考え方を提示してみた。実はこの考え方は、より広く芸術作品の批評にも使える。これに従えば、一つのゲームを、グラフィック、ストーリー、音楽、ゲームプレイなどの構成要素に分けて考えられるだろう。それぞれをさらに細かな要素へと分けることもできる。たとえばグラフィックなら、フレームレート、解像度、テクスチャ、ライティングなどだ。可能なら、それらをさらに繰り返し細分化してもよい。この細分化は文脈に依存しており、評価を述べる言葉の曖昧さを、できるだけ避けるために行うものだ。ただし、解像度やフレームレートが、ほかの要素から切り離して評価できる独立した部分だということではない。この視点に立つなら、構成要素をどう細分化するかは、ゲームそのものにあらかじめ備わる構造ではなく、議論の場での合意に基づくべきだ。
そうなると、問題はただ一つ、議論のなかでそのような合意を築けるかどうかである。現在のオンラインコミュニティの実情を見れば、それがかなり難しいことは言うまでもない。理想的な議論の環境があったとしても、細分化した要素の評価基準については、なお意見が分かれるだろう。引き続きグラフィックを例にすると、RDR2は、グラフィックを構成する細かな要素の多くで『オクトパストラベラー』を上回っていると言える。けれども、大半の人は「RDR2のグラフィックは『オクトパストラベラー』より優れている」という判断には賛同しないはずだ。いずれにせよ、この困難をただ「異なるジャンルのゲームは比較できない」とまとめてしまうのは、大ざっぱすぎるだけでなく、一つの誤解を生む。ジャンルの異なるゲームには、それぞれ固有の評価の観点がもともと備わっており、それらは互いに通約不可能、つまり共通の尺度では測れない、という誤解だ。だが、この見方が本当に正しいなら、1990年代からゲーム産業が3Dへと移行したことを説明するのは、かなり難しくなる。

全体として見れば、評価基準の一致も食い違いも、それぞれの文脈で成り立つ合意に基づいているのであって、あらかじめ定められた内在的な基準によるのではない。3Dへの移行のような歴史上の出来事には、たしかに、ある種の「客観性」を持つかに見える傾向を読み取れる。しかし、その傾向があるからといって、ゲームの内部に文脈から切り離せる評価基準が存在することにはならない。むしろ、ここから間接的に示唆されるのは、認知科学の観点から見て、人間の美的感覚には共通するところがあるということだけだ。ただし、これはあくまで人間がどう美を感じるかについての記述であって、どう評価すべきかという規範的な意味は何も持たない。
したがって、問題aについての議論を踏まえるなら、「異なるジャンルのゲームは比較できない」という言い方は、もう少し明確にすべきかもしれない。異なるジャンルのゲームであっても、特定の側面を比較することは可能だ。あるいは、こうも言えるだろう。私たちのあいだには最低限の合意が欠けているため、異なるジャンルのゲームは今のところ比較できない。
問題bは、さらに形而上学的な主題へと踏み込む。「異なるジャンルのゲームは比較できない」という判断が成り立つとすれば、その支えとなるのは、ある意味で、日常の直感に根ざした形而上学的な思考である。
多くの文献で、「種類」という概念を論じる際には、一般と特殊の関係が問題になる。この関係をめぐる議論は、ほとんど形而上学の歴史全体を貫いている。当然ながら、この短い文章でその主題を掘り下げて論じることはできない。ただ、ゲームの「ジャンル」と評価という話題には、本質をめぐる議論をいくらか持ち込めると思う。現代の形而上学では、本質主義のさまざまな立場は、それぞれに困難を抱えている。それでも日常の場面では、私たちは意識するしないにかかわらず、いつも本質を語っている。種類と本質の結びつきは、その典型だ。私たちはよく「ある種類のものの本質的特徴はXXだ」と言い、ものを分類できるのは、その「本質的特徴」を知っているからだと、無意識に考えさえする。分類に先立つ本質に基づかなければ種類を定められない、とまでは思わなくても、同じ種類に属するものから本質的な特徴を取り出せるとは認めることがある。

この考えは理解できる。日常生活には確かな見通しが必要であり、ゲームのジャンルや評価についても同じことが言えるからだ。たとえばプレイヤーは、FPSというジャンルのゲームに、一人称視点での射撃を期待する。開発者は、これまでのFPSの開発経験が、今後の同ジャンルの開発にも役立つと見込む。批評家は、FPSに従来使われてきた評価基準を、同じジャンルの別の作品にも適用できることを望む。どの場合も、同じジャンルのラベルを持つゲームから、ある程度の共通性を取り出す必要がある。同じジャンルのゲームが、表面上はどれほど多彩でも、比較的確かな共通性を備えているなら、その共通性を本質と呼んでもよい。日常の言説には本質が必要であり、ゲームの評価も例外ではない。あるゲームジャンルの本質は、そのジャンルにおける「よい作品」の基準に直接関わるとは限らない。だが、ある種の不適切な評価を退ける役割を果たすことは明らかだ。たとえば『シヴィライゼーション』シリーズを評価するとき、「『シヴィライゼーション VI』には一人称視点の戦闘システムがない」といった批判を、ほとんどのプレイヤーは受け入れないだろう。

しかし、これだけで話が尽きるわけではない。ゲームを含むさまざまな芸術作品では、ジャンルも本質も、たいていはっきりしていない。ゲームに盛り込まれる要素がますます豊かになれば、なおさらだ。中国と日本のプレイヤーにとって、ACT(アクションゲーム)の典型としては、『デビル メイ クライ』『NINJA GAIDEN』『ベヨネッタ』などのシリーズが挙がる。一方、欧米のプレイヤーにとっては、『コール オブ デューティ』や『バトルフィールド』のシリーズが、TGAのベストアクションゲーム賞を争ってもまったくおかしくない。ただし、これはまだ語の使われ方の食い違いにすぎない。より重要なのは、ジャンルをどう定めるかということ自体が、根本的に曖昧になりうるという問題だ。そのため、ゲームのコミュニティでは、ある作品のジャンルをはっきりさせようとする説明と議論が、いつまでも繰り返されることになる。
引き続きACTを例にしよう。「アクションゲーム」の定義に、「プレイ中、遠距離射撃は主要な戦闘手段にはならず、ボタンの組み合わせによって戦闘で異なる効果が得られる」という基準を無理に加えたとしても、問題は残る。仮に、『ベヨネッタ』シリーズの新作『ベヨネッタ3』が、ステージとステージのあいだに1時間を超える超高品質のムービーを挟むほど、極端にストーリーを重視していたとしよう。他方、『デビル メイ クライ』シリーズの新作『デビル メイ クライ 6』は、これまでの作り方を捨て、ステルスが最も有効なクリア方法となるように作られているとする。この場合、どちらもACTに分類できるが、私たちは明らかに、それぞれをまったく異なる基準で評価するだろう。「ゲーム開始からx分x秒の時点では、xxという内容が提示されるべきだ」という極端なところまでジャンルを厳密に定義しないかぎり、開発者に何か一つでも新しいことをしようという発想があれば、ジャンルの境界はどうしても曖昧になっていく。だが、そこまで極端に厳密な定義は現実的ではないし、必要でもない。さらに、ゲームに盛り込まれる要素がますます豊かになることも、ジャンルの境界を曖昧にする。

ここで、ジャンルと本質をめぐる問題がはっきりする。理想的には、あるゲームジャンルに本質的な特徴があると認めるなら、その特徴はゲーム批評に対して、ある程度の規範的な役割を果たせる。だが、ジャンルそのものが曖昧になっていくとき、規範的な役割を果たす本質など、本当にあるのだろうか。ビデオゲームを含む芸術作品は、つねに新しさを求めている。開発者が、あるジャンルではあまり典型的でない要素をゲームに持ち込む可能性は、いつでもある。『シヴィライゼーション』の新作が、従来のすべての要素を保ったまま、一人称視点の戦闘システムを加えることだって、まったくありえないわけではない。だとすれば、「異なるジャンルのゲームは互いに比較できない」と言うとき、私たちは実際には、それほど適切とはいえない本質主義の立場を前提としている。共通性に基づいて本質を語っても、多くの場合、それは記述的な言説にとどまる。より正確に言えば、ゲームジャンルの本質とは、過去についての記述である。未来の革新や変化は、過去の影を完全には振り払えないにしても、従来の評価基準だけでは捉えきれない。裏を返せば、RDR2とBOTWを異なるジャンルのゲームだと考えるとしても、ゲーム批評の観点からは、両作品を互いに隔てるような規範的本質が、それぞれのジャンルに備わっているわけではない。
ジャンルの境界がつねに曖昧になっていくとしても、まったく異なる二つのゲームを同列に扱うことには、直感的な抵抗がある。二つは違う作品であり、同じ評価基準は当てはまらない、と私たちは考える。RDR2のグラフィックの水準をBOTWに要求すべきではないし、BOTWの豊かで面白いオープンワールドをRDR2に求める必要もない。現代のビデオゲームはシステム工学の結晶だ。そうした要求の最大の問題は、仮にBOTWがRDR2と同水準のグラフィックを採用したとして、今と同じ高みに到達できるかどうか、私たちには見通せないことにある。確かに言えるのは、ロックスターにとっても任天堂にとっても、いまプレイヤーの前にある完成品は、それぞれが置かれた時代と環境のもとでの最適な選択だということだ。
だが、それは「異なるジャンルのゲームは比較できない」と認めなければならない、ということなのか。言い換えれば、異なるジャンルのゲームを比較できると考えるなら、どう比べればよいのか。「対立煽り」の最大の意義は、ジャンルの曖昧な境界の向こう側にある。RDR2が深い没入感をもたらす物語表現で新たな高みに達し、BOTWがオープンワールドの新たな道標となったのなら、比較の意義はもはやゲームそのもののなかだけには収まらない。ならば、そろそろ大きな問いに目を向けてもよいのかもしれない。仮想世界の魅力とは、登場人物の身になって人生の喜びや悲しみ、出会いと別れを味わうことにあるのか。それとも、果てしなく広がる大地で、山々とともに呼吸することにあるのか。未来の答えは、一つとは限らないだろう。

編集者より:まだ遊んだことはないが、この記事を校正して、遊んでみたくなった。