屋頂現視研
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ゲームで遊ぶのか、それともゲームに遊ばれるのか――『The Stanley Parable』とビデオゲームをめぐって

メタゲーム、ナレーターとプレイヤーの権力関係、不条理の思想、鏡像への同一化を手がかりに、『The Stanley Parable』が選択、自由、そして遊ぶことを、私たちにどう問い直させるのかを考える。

著者: 辛巴不吃素翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

本稿は、屋顶现视研の企画「拾荒戦略 Rags Drum 2020」前夜祭+後夜祭の受賞稿です。

『The Stanley Parable』のスタンリーの仕事机。電話とモニター、壁の風景画

辛巴不吃素の著者アイコン。ライオンの線画
辛巴不吃素

素直に非を認め、深く反省し、死んでも改めない。

『The Stanley Parable』は一人称視点の探索ゲームです。あなたはスタンリーを演じることになります。スタンリーを演じることにはなりません。物語をたどることになります。物語をたどることにはなりません。選択できます。選択できません。ゲームには結末があります。ゲームには結末がありません。矛盾が次々と現れ、ゲームのお約束は破られ、さらに破られます。ここは、理解されるために作られた世界ではありません。――『The Stanley Parable』公式紹介文より(日本語訳)

はじめに

ゲームで遊ぶことは昔から、多くの人に、時間を浪費するだけの何の役にも立たない娯楽だと見なされてきた1。時には「電子ヘロイン」という汚名まで着せられる。だが、なぜゲームはそう見られるのだろう。暴力や性的な描写があるからか? しかし、文学や映画にも同じような描写はいくらでもある。まだ何も知らない子どもや、暇を持て余す若者のためのものに見えるからか? しかし、児童文学は世間から真剣に扱われているようだ。ゲームで遊ぶのは、退屈しのぎでしかないからか? しかし、ほとんどの人が映画やテレビドラマを見るのも、同じようなものではないか。

一方、プレイヤーの側も昔から、ゲームを、既存の芸術に続く「第九の芸術」だと擁護してきた。けれども、その中には、ただ自分を正当化する口実にしているだけの人もいる。文学や絵画などに比べれば、ビデオゲームの歴史は確かに短く、理論の体系もまだ十分に整っていない2。映画も前世紀に似た過程をたどった。だが、時間がたつだけでゲームの理論がひとりでに整うわけではない。探り、考え続けることが必要なのだ。『The Stanley Parable』はまさに、ビデオゲームという表現形式そのものを探るビデオゲームである。

人気のないオフィスの一室。青暗い照明の下にガラス窓、椅子、壁のボードが見える

一、メタゲーム――ゲームについてのゲーム

一般的なゲームが現実の模倣を重視するのに対し、メタゲームが重視するのは「創作過程の模倣」だ。仮想世界を描くことよりも、仮想世界をどう描くのか、その過程そのものを描くことに関心を向ける。形式こそが内容なのだ。こうして、ほかの作品にも通じる作り方を示し、創作の過程に隠れていたお約束を表舞台に引き出す。同時に、プレイヤーと作品の関係を明かし、ふだんは見慣れすぎて意識しない形式そのものに目を向けさせる3。

ゲームを起動するとメニュー画面が現れるが、そこからすでにメタゲームの要素が満載だ。タイトルの The Stanley Parable の上には、小さく「You are playing(あなたはいまプレイしている)」と書かれている。その脇にあるコンピューターの画面は、実はプレイヤーの画面と同じで、その中にも同じ画面が入れ子になって延々と続いていく。このちょっとした仕掛けが、これから始まるのはゲームについてのゲームなのだと、すでにほのめかしている4。さらに面白いのは、現実世界にあるプレイヤーの画面も、この入れ子の一つと見なせることだ。ここでは、現実世界とゲーム世界の境界が曖昧になる。

『The Stanley Parable』のメインメニュー。画面内のモニターにも同じメニューが入れ子状に映る
メニュー画面。「あなたはいま The Stanley Parable をプレイしている」という表示と、画面の中に繰り返し映る同じ画面。

そして、ほとんどのエンディングでは、到達後にゲームが自動的に再スタートする。ロード画面で繰り返される文字列からは、「The end is never the end.(終わりは決して終わりではない)」と読める。終わりは決して本当の終わりにはならない――この表示は、ゲームの結末が見せかけであることを暗示する5。

黒い横長のロード画面。「… END IS NEVER THE END IS NEVER THE END IS …」という文字列と、LOADINGの表示、進捗バー
エンディング後のロード画面。「終わりは決して終わりではない」という文が切れ目なく続く。

冒頭で背景を説明するナレーションにも、自己言及が潜んでいる。スタンリーという男は、ある会社の社員番号427番の従業員だ。仕事は、画面の指示に従ってキーボードの対応するキーを押すこと。そんな単調で退屈な仕事に、スタンリーは大いに満足している。だが、少し考えれば、ビデオゲームの仕組みもナレーションの説明どおりだと気づく。ゲームの指示に従い、しかるべきときにしかるべきボタンを押し、要求を満たす。それぞれのゲームは、異なる遊びの仕組みや物語でそれを包んでいるにすぎない。本質的には、スタンリーがしていることと同じなのだ5。アパートエンドでは、画面がプレイヤーに特定のボタンを押すよう直接要求し、それに応じてスタンリーが行動して物語が進む。このとき、画面の指示に従うプレイヤーは、まさしく冒頭で語られたスタンリーになっている。

オフィスの扉と時計。「PLEASE PRESS 'Z' TO BE AT WORK IN THE MORNING.」というキー入力の指示
「朝、出勤するにはZキーを押してください」。

爆発エンドでは、爆発までのカウントダウンが示される一方、ゲームは自らの設計について語りだす。爆発を止める仕組みなど用意されていないと明かし、いまプレイヤーがしていることを嘲笑する。ぺしゃんこエンドでは、ゲームの制作過程を展示する博物館に入り、現実世界とゲーム世界の境界が曖昧になる。ゲームエンドでは、プレイヤーはマップの開発中の区域に迷い込む。ナレーターはゲームの改善について意見を求めながら、『Minecraft』や『Portal』といった別のゲームを見せてくる(面白いことに、このエンディングでは赤い扉と青い扉のどちらかを選ばされる。『マトリックス』の錠剤のように)。これらはすべて、『The Stanley Parable』のメタゲームとしての性格を強めるものだ。「没入型」の体験を提供するゲームとは違い、提示された内容だけでなくゲームそのものにも目を向けさせ、遊ぶ体験を通してゲームという表現形式そのものを考えるよう促す。

『The Stanley Parable』の主な、あるいは唯一のゲームメカニクス――遊びを成り立たせる仕組み――は選択である。遊び方は『Firewatch』や『The Painscreek Killings』と同じ、ウォーキングシミュレーターに分類できる。ここではジャンプさえできない。できるのは歩き回ることと、一部のオブジェクトに働きかけることだけだ。しかし、選択という仕組みはゲームの核心をつかんでいる。一人称視点のシューティングであれ格闘ゲームであれ、プレイヤーの操作とは、特定の瞬間に特定の選択をすることだと考えられる。仕組みが単純だからこそ、ゲームがこちらに考えさせようとする問題に意識を集中できる。このゲームにはほかに挑むべき課題がない。だからこそ、本当の課題は、このゲーム自体を理解することなのだ65。また、ゲームらしい「仕組み」は何もなく、ナレーターと「知恵比べ」をするだけという遊び方は、既存のゲームの定義や分析の枠組みにも大きく挑んでいる7。これに対して、ほかのメカニクスにメタゲームの要素を加える作品は、遊びの体験が豊かになる一方で、ゲーム自身のあり方を問い返す力は弱まらざるをえない。

開始から左右の扉を経て多くの経路へ分かれる、『The Stanley Parable』の選択とエンディングの分岐図
選択とエンディングの分岐図。START=開始、DOOR CHOICE=扉の選択、LEFT/RIGHT=左/右。本文のエンディング名と図の英語名は、次のように対応する。
図中の終端(色) 日本語での意味・本文の呼称
RELUCTANT(赤) 拒否
CONFUSION(赤) 混乱/混乱エンド
INSANE(赤) 狂気/狂気エンド
WORK(赤) 仕事/アパートエンド(電話に出る枝)
ESCAPE POD(赤) 脱出ポッド/脱出ポッドエンド
MUSEUM(赤) 博物館/ぺしゃんこエンド
BOMB(赤) 爆弾/爆発エンド
LIFE(赤) 生/欺きエンド
DEATH(赤) 死
CHOICE(赤) 選択/選択エンド(電話線を抜く枝)
SPACE(赤) 宇宙/本文でいう天国エンド(高所から飛び降りる枝)
ART(赤) 芸術/芸術エンド
GAMES(赤) ゲーム/ゲームエンド
HEAVEN(橙) 天国。コンピューターに入力して進む枝で、本文の天国エンドとは別
WHITEBOARD(橙) ホワイトボード
SERIOUS(橙) シリアス
FACEPUNCH / texture change(橙) Facepunch/テクスチャ変更
SONG(橙) 歌
VOICE OVER(橙) ナレーション
BROOM CLOSET(橙) 掃除用具室/掃除用具室エンド
ELEVATOR(橙) エレベーター
SECRET DISCO(橙) 隠しディスコ

図中の主な操作表示:open/close=開ける/閉める、up/down=上へ/下へ、forward=先へ、back out=引き返す、answer/unplug=電話に出る/電話線を抜く、on/off=電源を入れる/切る、red/blue=赤/青、play for 4 hours=4時間プレイする。

もう一つ面白いのは、ナレーターがプレイヤーの選択に「驚く」ことがあっても、それが明らかにあらかじめ設計されたものだと私たちは知っていることだ。メタゲームとしての『The Stanley Parable』は、見せるように設計されていないものを見せ、書かれていないコードを実行し、書かれていない物語を語ろうとする。不可能だということは分かっている。それでも、美学的に見れば、この作品は隠喩によって、その不可能な仕事を果たしている1。

420号室と425号室の扉が見える、明るいオフィス

二、スタンリーとナレーター――物語を動かしているのは誰か

部屋を出ても、ナレーションはついてくる。語りの視点は、すべてを知る神の視点だ。ところが、ナレーターと私たちが操作する主人公のあいだには、巧妙な緊張関係がある。ナレーションは過去形なのに、私たちは主人公スタンリーの行動をいつでも変えられる。

この緊張が最初の山場を迎えるのは、初めての明示的な選択の場、二つの扉があるホールに来たときだ。ナレーターは左の扉へ入るよう導く。そのままずっと指示に従えば、欺きエンドにたどり着く。このルートでは、ナレーターは全知の語り手として物語から距離を保ち続けるが、プレイヤーの行動との緊張関係はなくならない。上司の部屋では、こちらなどいないかのように暗証番号を口にする。プレイヤーが正しい番号を入力すると、スタンリーはでたらめに四つの数字を入れただけなのに、驚くべきことに当ててしまったのだ、と取り繕う。

左右二つの開いた扉。下部に「When Stanley came to a set of two open doors, he entered the door on his left.」という字幕
ゲーム中の一場面。英語字幕の意味は「開いた二つの扉の前に来ると、スタンリーは左の扉を通った」。

似たことは、最初の選択でわざと指示に背き、右の扉へ入ったときにも起きる。ナレーターは、スタンリーは休憩室へ行きたかっただけなのだろうと、何とか先ほどの語りを取り繕おうとする。休憩室に入ると、今度は、ここがわざわざ回り道をしてまで見る価値のある、いかにすばらしい場所かを褒め始める。もちろん、その口調にはプレイヤーへの皮肉が少し混じっている。長く居座りすぎると、スタンリーは腰を落ち着けて次のナレーションを待ち、ゲームが何かを伝えようとしていると思っているのだ、と、語り自体を話題にしてくる。

プレイヤーが指示に背けば背くほど、ナレーターは、全知全能で物語の外に立つという元の位置から遠ざかり、積極的にゲームへ介入する。また、その言葉もますます曖昧になる。話しかけている相手はプレイヤーなのか、スタンリーなのか。語っているのはゲーム世界のことなのか、現実世界のことなのか。たとえば、右の扉を選んだスタンリーが会議室へ戻らずに先へ進むと、ナレーターは彼と直接話し始める。右の扉を選んだあと、会議室へ戻る途中で突然エレベーターに乗って下へ行けば、混乱エンドへ進む。ナレーターはためらいだし、物語の先行きが分からなくなる。資料でも調べているかのように、本のページをめくる音まで聞こえる。

やがて、自分がゲームの中にいると理解していること、そのゲームを操作できることも分かってくる。扉を開閉できるし、ゲームを直接再スタートさせることさえできる。ここまでは、スタンリーと直接話すようになっても、まだ全知全能の地位を保っている。しかし混乱エンドが進むにつれ、そうではないことが分かる。ゲームの全容を完全に理解しているわけでもないらしい。最後に混乱エンドの真相を知ったナレーターは、ひどく驚き、ゲームが用意した筋書きに逆らい、絶対に再スタートさせないと言い張る(それでも結局、ゲームは再スタートする)。

ぺしゃんこエンドでは、男性のナレーターのほかに、女性のナレーターも現れる。彼女はまず男性を皮肉り、それからプレイヤーを、ゲームの制作過程を展示する博物館へ案内する。そう、ここではもう、スタンリーではなく「プレイヤー本人」の立場に置かれているのだ。博物館を出ると、女性ナレーターは、ゲームを終えることだけがこのゲームに勝つ方法だとして、退出するよう頼む。脱出ポッドエンドでは、上司の部屋に入った直後に振り返って扉を閉め、ナレーターを部屋の中へ閉じ込めることさえできる。

ここから文学のポリフォニー的な語りや信頼できない語り手を連想する人もいるだろう。だが、どちらも『The Stanley Parable』のナレーターを的確には捉えていない。確かに彼は、ゲーム世界の事実と食い違うことを言う。スタンリーがどちらの扉に入ったかについてもそうだし、混乱エンドで、先の展開にとても重要だとして鉢植えをよく見るよう求める場面もそうだ。物語に介入できるのも確かである。しかし最大の違いは、彼の立場がプレイヤーによって決まることにある。物語の外と内、全能である状態とそうでない状態、信頼できる状態とできない状態のあいだを行き来し、そのすべてがプレイヤーの選んだ道によって決まり、プレイ中にも絶えず変わる。

たとえば天国エンドでは、高所から飛び降りてゲームを終わらせないでくれと、ナレーターはスタンリーに必死に懇願する。それでも私たちは飛び降りられる。しかし、それ以前に彼は、ゲームを変える力も、自分がゲームの中にいるという自覚も示していた。ならば、この懇願は嘘なのか。ここではゲームを制御する力がなくなったのか。それとも別の理由があるのか。いずれにせよ、ここには、ナレーターの立場が絶えず変わること、その複雑さがはっきり表れている。ここで不確かなのは、語りの内容ではなく、ナレーターそのものがどういう存在なのか、ということなのだ5。

『The Stanley Parable』は、カフカの寓話と同じく、一つの解釈だけではその意味を捉えきれず、矛盾にさえ満ちている8。だが、この曖昧さこそが魅力なのだ(もちろん、いちばん簡単な説明は、狂気エンドがほのめかすように、スタンリーには精神疾患があり、すべては彼の空想だというものだろう5)。だから、ここで述べられるのは私なりの一つの見方、可能な解釈にすぎない。ゲーム内の関係をこんな対応関係に置くのは、いくら何でも単純化しすぎなのだが――プレイヤーとナレーターの緊張関係は、プレイヤーとゲームの設計者の緊張関係を映しているのではないか9。

文学や映画などを論じるとき、作者自身が「第一の作者」で、テクストを創作するとよく言われる。しかし、いったん完成したテクストは作者を離れた客体となり、「第二の作者」である読者が解釈できる10。ゲームは、この「第二の作者」たるプレイヤーの役割をいっそう際立たせる。ゲームの語りは、いわば手続き的な語りだ。プレイヤーがゲームに積極的に働きかけて初めて、語りは成り立つ。ゲームも、遊ばれる過程で初めて表現として成り立ち、一回のプレイで現れる物語のテクスト自体も、しばしば操作によって変わる2。

ゲームは、初期の『Pong』や『パックマン』のようにほとんど物語のないものから、『Mass Effect』や『The Last of Us』のように豊かで複雑な物語を持つものへと広がってきた。『The Painscreek Killings』のように、プレイヤーが環境を探索するというゲーム独自のやりとりを生かし、決まった順序によらず物語を語る作品もある。『Dear Esther』のように、環境だけで雰囲気を作り、物語を持たない作品すらある11。『WHITE ALBUM2』や『Detroit: Become Human』のように、プレイヤーの選択によって展開が変わることを主な売りにする作品も、『GTA』シリーズのように自由度を売りにするオープンワールドのサンドボックス型ゲームもある。

ただし、環境を通じて物語るゲームでも、あらゆるオブジェクトに働きかけられるわけではない。『The Painscreek Killings』は、扉に鍵をかけ、その鍵を探させることで、探索の順番をある程度制限している。ギャルゲーでは、ゲームの示す選択肢からしか選べない。オープンワールドのサンドボックス型でも完全に自由なわけではなく、探索できない場所や、働きかけられない物がある。いまの開発者は、より大きな自由をプレイヤーに約束しているように見える。しかし、物語を語り、設計者が意図した表現を実現するには、どうしても制限が必要になる。制限のない完全に自由なゲームがありうると考える人は、プログラム上それが実現できるかどうかは別として、ゲームという表現形式を誤解している1。いや、あらゆる芸術形式1、さらには現実そのもの12を誤解していると言うべきかもしれない。

見てきたように、ナレーターは『The Stanley Parable』に遊びの体験と意味を与える鍵となっている。ナレーターと主人公の緊張関係がなくなれば、ゲームは味気ないものになるだろう13。彼のあらゆる努力は、自分が結末だと見定めた欺きエンドへ、プレイヤーを導くためのものだ。その道筋から外れるほど、彼は激高し、ゲームに介入する。言葉で皮肉を言い、ときには選べる行動を直接変えてまで、プレイヤーに物語を完結させようとする。

混乱エンドで一度目の再スタートが起こり、二つしか扉がないはずのホールへ戻ると、扉が六つになっている。適当な扉に入って好きに探索すると、ナレーターはしばらく黙ったあと、突然、これは自分の経験した中で最悪の冒険で、まるで物語がないと評する。二度目の再スタートでは、ホールから扉が一つもなくなる。今度はプレイヤーをある場所へ直接連れていき、「勝利」を宣言する。もちろん、皮肉を込めてだ。

この二つを設計者とプレイヤーの関係に重ねるなら、前者では、プレイヤーの自由が設計者の制御できる範囲を超え、それに見合う語りも表現も与えられず、遊びが味気なくなる。後者では、プレイヤーの能動性を完全に奪うこと――選べる扉がないこと――で、ゲームを続けること自体が不可能になる14。ナレーターのあとを一本道でついていくだけで与えられる「勝利」が退屈なのは、それを得るのに「本当の挑戦がなかった」からだ。これは、勝つことばかり考え、ゲームの案内どおりに手順を踏んで勝利を得るだけで、ゲーム自体を考えようとしない多くのプレイヤーへの痛烈な皮肉であり、ゲームの勝利の無意味さを暴くものと見なせる15。後のゲームエンドに登場するランキングも、点数でプレイヤーを順位づけし、何度も繰り返し遊ばせるいまのゲームへの皮肉だ。

また、ナレーターにはゲームをある程度制御する力があっても、全知全能ではないことに注目したい。彼にもゲームのよく分からない部分がある。混乱エンドでは、彼のミスでプレイヤーが上司の秘密の監視室へ早く着いてしまう。ゲームの設計者にも間違いや見落としがあるのと同じだ。プレイヤーの操作に驚くこともある。選択エンドで電話線を抜くと、彼はひどく驚く。現実でも、プレイヤーは設計者の思いつかなかった遊び方をいつも編み出す。選択エンドで予想外の行動をすると、テクスチャが乱れるなどの異常が起こり、ナレーターはゲームを台無しにしたと文句を言う。これも、プレイヤーが意図に従ってくれないとき、設計者が抱くかもしれない不満や怒りと同じだ9。

ナレーターは、予定した道筋へ戻ってほしいと強く願い、ゲームを変える権限もある程度持っている。それでも、両者の関係を規定するルールや前提、すなわち大文字の他者〈大他者〉による制限なのか、わざとなのか、プレイヤーには一定の自由が残されている。天国エンドでは、飛び降り自殺をしようとするプレイヤーを必死に引き留めるが、彼なら扉を一つ閉めてそれを防げるはずだ。混乱エンドでも再スタートしないでくれと懇願するのに、結局ゲームは再スタートする。現実のゲーム設計でも、事情は同じである。

ここに現れる女性ナレーターは、ゲーム設計者を表す男性ナレーターと、プレイヤーを表すスタンリーの上に立ち、同時にゲームそのものという客体とも深く結びつく存在と見なせる。先ほどの大他者に当たるものだ。ラカンの理論によれば、個人どうしのコミュニケーションは決して直接的なものではなく、大他者の介入を必要とする16。設計者とプレイヤーのやりとりも、ゲームという客体を介して行われると同時に、当然、大他者の介入を免れない。イデオロギーや社会的な規律・訓練などのかたちで、ゲームの表現に入り込む。大他者は、設計者がもともと表したかった意味を変える。二つの扉しかなかったホールに、なぜ六つも現れたり、一つもなくなったりするのか、物語の中のナレーターには思いもよらなかったように。

たとえば『Command & Conquer: Red Alert 2』にはソ連を悪く描く要素がたくさん盛り込まれているのに、ソ連に好感を持つプレイヤーの多くは、それを遊んでますます好感を強めた。『Frostpunk』の設計者は個人の価値を感じ取ってほしかったのに、規律や信仰の力、集団の重要さを読み取るプレイヤーも多かった。

ぺしゃんこエンドで、女性ナレーターが制作過程を展示する博物館を案内することは、大他者が制作段階からすでに介入していたことを暗示する。彼女は、男性ナレーターがあれほどスタンリーを嘲笑し、懸命にゲームを進めても、プレイヤーが開始を軽くクリックするだけですべて元どおりだと語る。そこには、作り手が自分の仕事を笑う声と、ゲームへの思考も敬意も足りないプレイヤーへの不満が満ちているように思える。

博物館を出ると、彼女は、スタンリーと男性ナレーターを救う唯一の方法だとして、ゲームを終了するよう懇願する。ここでは大他者の介入によって、ゲームは自分自身を取り消すことを、一つの表現にしようとする。矛盾して見えるが、そうではない。中止することで表現が成り立つなら、中止も当然、一つの結末である。Steamには、本作を五年間プレイしなければ取得できる「外へ出よう(Go outside)」という実績がある。まさに同じことだ。

ゲームそのものの表現は、プレイヤーに遊ばれる過程で実現する。だが、その過程には絶えず、設計者とプレイヤーの緊張関係がある。プレイヤーはもっと自由を、もっと強い介入と主導権を求める。設計者は、自分の望む芸術表現のために、障害や制限を設けなければならない17。どちらが欠けても、完全なゲーム体験は成り立たない。そして両者の上では、大他者がそのやりとりに深く影響している。まさに、この緊張関係がプレイヤーのゲーム体験を成り立たせているのだ。

配管と段ボール箱がむき出しになり、左奥から赤い光が差す一角

三、偽りの自由――ゲームの中の権力関係

ゲームで最初に出会う重要な選択は、二つの扉だ。左へ行くか、右へ行くか。その先にも、一連の選択が待ち受ける。すでに述べたように、『The Stanley Parable』、いや、あらゆるゲームの核心は選択にある18。

『The Stanley Parable』では、オフィスの窓から外へ飛び出し、真っ白なマップに入ることができる。このときナレーターは、スタンリーは初め、自分がマップを壊したと思ったが、ナレーションを聞いて、ここもゲームの一部だと気づいたのだと語る。ここで示されるのは、ゲーム内の選択の偽りだ。できる選択はすべてあらかじめ設計されている。私たちにあるのは、提示された選択肢から選ぶ自由だけで、本当の自由ではない。

『GTA』でやりとりできるNPCも、入れる場所も、すべて前もって用意されている。誰にでも今日の天気を話題にしたり、道を尋ねたりできるわけではない。設計者がそんな会話を用意していないからだ。ギャルゲーの会話の選択肢も、あらかじめ決められている。極端な二択のあいだを、プレイヤー自身の巧みな話術で取り持ちたいと思っても、その余地はない。『ストリートファイター』では、どのキャラクターの技も設計済みだ。自分の身体のように、キャラクターの身体を自由に動かすことはできない。細かく調べなくても分かる。ゲームの中の自由はすべて偽物なのだ。どの選択肢も設計者が前もって用意したもので、私たちにあるのは、こちらかあちらかを選ぶ自由だけだ。

『The Stanley Parable』の爆発エンドでは、プレイヤーが爆発を止めようとむなしくあがく一方、ナレーターは、そんな仕組みはそもそも用意されていないと嘲笑する。だから、プレイヤーにはどうすることもできない。オフィスの窓から飛び出したときも、ゲームの不具合を見つけて制限を破ったつもりなのかと笑われる。ゲーム内のさまざまな選択の自由が見せかけであることは、ここですでにあからさまに示されている。

そして、選択エンドを除くエンディングに到達すると、ゲームは自動的に再スタートする。ロード画面に「終わりは決して終わりではない」と表示され、また冒頭へ戻る。一つのエンディングまでの道のりは短く、多くは十数分ほどだ。一つを見たプレイヤーは別の結末を試し、やがてすべてを見ることになる。ギャルゲーでも、一つのルートを終えただけで、ほかの物語を見ずにやめる人はめったにいない。『The Stanley Parable』に至っては、すべての結末を試すよう、プレイヤーを促してさえいる5。何を選んでも、結局はすべてのエンディングを見るのなら、ゲームで選ぶ意味はさらに奪われる。全体の体験は、小説についての小説である『冬の夜ひとりの旅人が』のようだ。作中の小説は突然終わってはまた始まり、同じでありながら違う物語を語る15。こうして、私たちは選んでいるつもりでも、過程――選択肢はすべて設計者が用意したもの――も、結果――結局、可能な展開をすべて試すことになる――も、その選択が見せかけであり、作者によって設計済みだと告げることになる。

何度でも再スタートでき、時間を好きにリセットできるというゲームの性質も、きわめて豊かな意味を持っている。ただ、本稿の主題と紙幅の都合から、ここでは立ち入らない1920。

一方、選択肢があらかじめ限られていることについては、つい問い返したくなる。現実世界なら、私たちにはそんなに多くの選択肢があるのだろうか。考えてみれば、現実の選択にも制限がある。道で出会った見知らぬ人と話せる内容も、きわめて限られている。格闘技の試合でも、あらゆる技がルールで認められるわけではない。中国の大学入試「高考」を終えて志望校や学部を選ぶときも、さまざまな事情を考え合わせれば、書ける志望先はごく限られる。

実際、現実生活を手がかりにフーコーの視点を採れば、ゲームは一つの権力構造、ゲームとプレイヤーの関係は権力関係として捉えられる21。フーコーにとって、権力関係とは個人と個人のあいだに成り立つ関係であり、よしあしの評価を含むものではない。そして主体は、まさにこの権力関係の中で形成される22(後では、ゲーム内の主人公も一つの主体と見なす23)。

ゲームを起動するとき、プレイヤーはその権力関係を受け入れる。何をしてよく、何が奨励されているかを知り、決められたルールに従って行動する。現実世界での私たちと同じだ。遊ぶという行為が、私たちをゲームという客体に結びつけ、そこから主体化を通じて、プレイヤーという主体が生まれる。ゲーム内の選択の自由を考えることは、まさに現実の選択の自由を考えることなのだ。

実際、ゲームでも現実でも、今日、私たちが注目する自由の多くは、形式的な選択の自由である。しかし、実質的な自由は選ぶ自由だけではない。選択を制限する条件そのものを打ち破る自由も含むべきだ24。ゲーム内で制限を課す権力関係は、芸術表現に必要なものだ1。では、現実生活ではどうなのか。

ここで付け加えておくと、いくつかのエンディングに現れる、上司の部屋にある円形の監視室には、フーコーのパノプティコン(一望監視施設)を思わせるところがある(ただし、ここでは一方向の監視だ)25。ゲーム全体を通して遊ぶと、ディストピア作品のようにさえ感じられる126。どこにでもついてくるナレーションとゲームの仕組み全体を外からの権力と捉え、スタンリーの探索を、自分の主体としての地位を取り戻す冒険と見なすならば、である(こう読むと、ナレーターの一見無力に見える振る舞いも、いっそう意味深くなる27)。

紙や箱が散らばる薄暗い事務室。引き出し、机、壁時計が見える

四、無意味な探索――不条理の思想

『The Stanley Parable』が語りの舞台にオフィスを選んだのは、実に巧みだと言わざるをえない。初めてこのゲームを遊んだとき、夏の午後だったのに、私は少し寒気がした。ゲーム自体にこれといった恐怖演出はない。それでも不安と緊張が伝わってくる。だが、この不安は、広々とした野外にいる『Firewatch』とも、荒廃した町を歩く『The Painscreek Killings』とも、恐怖そのものを売りにした『Five Nights at Freddy’s』とも違う。日常生活で見慣れた場所にいるのに、なぜこんなにも不安になるのだろう。

その微妙な不安は、冒頭から伝わってくる。スタンリーの同僚が全員いなくなっている。それだけで、私たちは見慣れた環境の、見慣れない状況へ投げ込まれる。大きなオフィスに残されたのはスタンリー一人。彼は理由を探して歩き回るが、ゲームは最後までその理由を明かさない。カフカの小説の主人公が、わけも分からず逮捕されたり、甲虫に変わったりするのと同じで、なぜそうなったかは分からない。これは典型的な不条理の手法だ。人物が突然、周囲の世界を理解できなくなる。

また、オフィスは、近代社会の特徴が色濃く表れた場であり、そこで人間が疎外されるあり方を最もよく示す場所でもある26。『審判』の裁判所や、『城』の城のように。ゲームはそれを隠そうともしない。上司の部屋にあるトイレの壁の落書き、会議室のホワイトボードやスライドの文字を見れば、近代資本主義による人間の抑圧と搾取への不満が読み取れる。スタンリーという人物について、私たちが知っているのは仕事だけだ。家族も、趣味も、性格も分からない。それが、彼の疎外されたあり方をいっそう際立たせる。

スタンリーの物語は、人が自分の存在を問い始める瞬間を描いたカミュの記述28と重なる。その記述を言い換えれば、こうなる。「突然、すべてが崩れ落ちる。起床、通勤、四時間の仕事、食事、通勤、さらに四時間の仕事、食事、睡眠。月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜。いつも決まったリズムに沿って――たいてい、私たちはそうやって暮らしてきた。だが、ある日、『なぜ』と考え始める。すべては、驚きを帯びたこの倦怠から始まる。」

初めのスタンリーは、画面の指示に盲目的に従ってキーをたたいていた。それは、来る日も来る日もコンピューターに向かって仕事をこなす、現代のオフィスワーカーの日常でもある。ところが、ある瞬間、彼はいわば砂漠に投げ出され、意味のない場所で意味を探すことになる。この不安は、私たちの心の奥にある、現実生活の不条理で虚無的な本質への恐れから生まれるのだ。

不条理の作品は、このような手法で「いま、何が起きているのか?」と問いかけ、存在の意味や本質を考えさせる。『The Stanley Parable』も同じように、「いま、何をすべきか」と問いかけ、ゲームで選ぶことの意味や本質へ思考を導く。実際、分岐の設計にもそれは表れている。分岐は多いが、そのほとんどで、選択との因果関係ははっきりしない。なぜこの選択の先にこの結末があるのか、理解しにくい。現実生活にある多くの選択と同じだ。さらに面白いのは掃除用具室エンドで、スタンリーは途中にある掃除用具室へ隠れられる。このゲームでは、オフィスの扉のほとんどは開かない。それなのに、掃除用具室の扉だけは開く。しかも、開けられることを知らせる特別な目印は何もない。多くの選択は、意味を見いだせなかったり、結果と何の関係もなかったりするように設計されている。しかし、この設計こそが、ゲームの不条理さとナレーターのブラックユーモアをいっそう強めている。

ほとんどのエンディングでは、到達すると自動的に読み込みが入り、ゲームの始まりへ戻る。ロード画面には「終わりは決して終わりではない」。終わったと思っても、本当には終わらない。ベケットの不条理劇『エンドゲーム(勝負の終わり)』で、終われない展開が繰り返されるのと同じだ29。スタンリーとナレーターの関係――互いが互いの存在を成り立たせていることも、多くの不条理劇に登場する、依存し合う人物たちに通じている29。

ソファと書棚のある部屋。暖炉、肖像画、テーブルの上のグラスが見える

五、スタンリーとは誰か――プレイヤーはいかにゲームへ「入る」のか

設計者とプレイヤーの緊張関係について述べてきたが、プレイヤーがゲームへ「入る」方法は一つではない。『ストリートファイター』や『The Last of Us』のように人物を操作するゲームもあれば、『Civilization』や『Cities: Skylines』のように人物の操作を必要としないゲームもある。どちらであれ、ゲーム世界にはプレイヤーがそこに「いる」ことが必要だ。何らかの方法で、ゲーム世界の環境や出来事を知覚しなければならない30。

では、遊ぶときには完全に没入し、ゲーム内の出来事をすべて自分の身に起きたこととして感じているのか。それとも距離を置き、感情移入せず、傍観者として遊んでいるのか30。完全に没入しているのなら、『Spec Ops: The Line』で白リン弾による民間人の虐殺をプレイした人は、全員、相当長い心理カウンセリングが必要になってしまうだろう。『レインボーシックス』を遊ぶのに、自分は兵士だという自己認識を持つ必要はない。ギャルゲーも、CGを見るためだけ、複数ルートを埋めるためだけに遊び、主人公の身になって考えないことがある。それは理解しやすい。だが、『The Last of Us』の最後でジョエルがする選択を理解し、受け入れるには、明らかにかなりの感情移入と共感が必要だ。『Five Nights at Freddy’s』で怖がれるのも、ある程度、ゲームが作った状況に自分を置いているからである。つまり、プレイヤーごとに、ゲームごとに、さらにはその段階ごとに、この二つの状態のあいだの異なる位置にいる。読者や観客が、小説や映画などの作品へ「入る」のと同じだ。しかし、ゲームに独特のインタラクティブ性は、作品の受け止め方にどう影響するのだろう。

電話線を抜いて進む選択エンドでは、ナレーターは、スタンリーが画面の外のプレイヤーに操作されていることに突然気づく。やがて視点が一人称から三人称へ移り、私たちはスタンリーを操作できなくなる。そして、最初に選択をした二つの扉の前に、スタンリーが立っているのを見る。ナレーターは自分で選ぶよう急かすが、スタンリーには当然、何も選べない。ここでゲームは終わり、スタッフロールが流れ始める。これが本作の「真の結末(true ending)」だとも考えられている(だが、スタッフロールが終わると、いつものロード画面を挟んでまた再スタートする。やはり引用符をつけずにはいられない)。

ここでゲームが明確に示すのは、プレイヤーと主人公は一つの主体ではなく、何らかの方法で結ばれた二つの独立した主体であり、その結びつきはいつでも取り消せるということだ。同時に、二つの主体は互いを成り立たせてもいる。プレイヤーの操作を失った主人公には、何もできない。そして、私たちがゲームへ入るための器である主人公とのつながりを失えば、プレイヤーという私たちの立場も消えてしまう。

『CS:GO』のような一人称視点のゲームや、オンラインで文字を使ってなりきるロールプレイ――中国でいう「語c」など――なら、どう自分をゲームに重ねるかは理解しやすい。現実の人間が目で見て反応するように、人物の立場で状況を捉え、それに応じた行動を取れるからだ。だが、操作する人物を三人称の視点から捉えたり、その人物が完全に独立したキャラクターだったりする場合はどうか。『逆転裁判』や『GTA』の人物を、私たちは操作できる。しかし、彼らにはそれぞれ、自分では決められない来歴や性格などがある。どうやってつながりを築くのだろう。ここでは、ラカンの鏡像段階論を手がかりに、この過程を理解してみたい31。

ラカンの鏡像段階論は、次のように説明できる。私たちはしばしば、外の世界を通じて自分を知る。とりわけ乳児期、初めて鏡の中の自分を見たとき、その像が自分の動きに合わせて反応することで、これは自分を映した像なのだと気づく。だが、そこにあるのは本当の自分ではなく、理想的な自分の像だ。自分自身が感じる、ばらばらでうまく連動しない身体とは違い、鏡の中では、一つにまとまった調和の取れた姿が見える。この鏡像への同一化という誤認によって、私たちは鏡の中の自分に近づきたいと願う。もっと「成熟した」、もっと「強い」自分へ近づき、自分の内面も、鏡の中の像がいる世界になじませようとする。それは決してかなわない。それでも、この鏡像を通した認識によってこそ、私たちは一人の個人として現実世界とつながれるのだ32。

鏡像段階論は映画批評にも用いられてきた。スクリーンが鏡のようなものなら、コンピューターの画面もそうではないか。私たちはゲーム内のキャラクターを操作できるが、キャラクターそのものにはなれない。彼らを通じてゲーム世界とつながる必要があり、彼らには、私たちにはない、その世界での能力が備わっている。だから、操作できない来歴や性格などがあるように見えても、キャラクターとの同一化が妨げられるわけではない。遊ぶときには、彼らを第二の身体としてゲームに「入る」。遊んでいないときには、同人作品や派生した映像作品などで、彼らを独自の考えや性格を持つ人物として見ることができる。

こうした同一化は、商業上の理由からであれ、芸術上の理由からであれ、多くのゲームが目指すものだ。だが、すべてのゲームがプレイヤーと主人公を同一化させようとするわけではない。むしろ、両者に距離を生じさせることで、独自の表現を生み出すゲームもある。『Spec Ops: The Line』がそうだ。主人公が見るゲーム世界には、しばしば幻覚や妄想が入り込む。主人公の知覚に生じるこうしたずれによって、プレイヤーとしての自分とゲームの主人公という二つの主体の隔たり、そして主人公と彼のいるゲーム世界の隔たりを意識せざるをえなくなる23。プレイヤーが直接働きかけ、関係を築いている相手は主人公ではなく、ゲームという客体そのものなのだ。主人公とのつながりは、その客体を介して実現する(ある視点からは、ゲームを一つの主体と捉えることさえできる23)。ただ、ゲームという客体の中には、まさに「鏡」として働くものも、そうでないものもある。そこに生まれるのは、プレイヤー自身ともゲームのキャラクターとも完全には一致せず、両者が混じり合った同一化のあり方だ6。

もう一つ巧妙なのは、白リン弾で民間人を攻撃する場面だ。主人公が無人機を操作して白リン弾を発射するとき、ゲーム画面には無人機の操作画面が映り、そこに主人公の姿が反射する。だが、コンピューターの画面には、同時にプレイヤーの姿も反射する。この意味で、ゲームはプレイヤーと主人公のつながりを暴き出している23。

ジジェクのビデオゲーム評33を、本稿の言葉で言い換えておこう。人々はよく、ゲームはいい加減な態度で扱われていると言う。だが、実際には、むしろ真剣に扱いすぎている。たとえばゲームでは、サディストや強姦犯などを演じられる。その考え方はこうだ。現実の私は弱者だが、ゲームの中のこの偽りの姿は、強く、欲望のままに振る舞う人間である。社会の制約などのため現実にはできないことをできる、ゲーム内のこの人物こそ、本当の自分なのだ。これは仮想のもの、偽りの姿にすぎないからこそ、ゲームの中では、より本当の自分になれる、というのである。

ここで、このジジェクの断言そのものを評価するつもりはない。だが、すでに見たプレイヤーとキャラクターの複雑な関係を踏まえれば、その分析に隠れた前提――「プレイヤーはゲームの主人公と完全に同一化する」――は、彼が考えるほど「自明」ではない。もっと丁寧な分析と議論が必要だ312134。たとえば、一見すると、私たちがキャラクターを操り、彼らを通じて仮想世界や現実世界での欲望を実現しているように見える。だが、「育成」や「レベル上げ」に時間も労力もお金も注ぎ込んでいるとき、私たちが彼らを使って欲望をかなえているのではなく、逆にキャラクターのほうが私たちを動かして、ゲーム内で自分たちの欲望をかなえているかのようにも見える35。

少し脇道にそれよう。ゲームに人と交流する要素がますます取り入れられる一方、人づきあいもまた、ある程度ゲーム化していることに目を向けたい。収益を目的に利用する人は別としても、ソーシャルメディアでの自己像を作り上げるさまざまな行動に、それは見て取れる。WeChatのモーメンツや微博に投稿するとき、私たちはしばしば、現実生活の自分とは少し違う自分、なりたいと思うもう一人の自分を作っている。フォロー、いいね、シェアは、ゲームのフィードバックの仕組みのように、ソーシャルメディアのプレイヤーを絶えず刺激する。デジタル資本主義がますます広がる今日、サイバー空間における第二の身体を表す、いわゆる「虚体」という概念も生まれている3637。

人々はよく「仮想と現実を分けるべきだ」と訴える。だが、私たちの現実には、まさにこうした仮想が含まれている。仮想のものが、逆に私たちの現実を形作る。仮想のものを失えば、同時に現実も失ってしまうのだ33。

赤い光が差し込み、太い配管に挟まれた金属階段

六、本当の人間――よいプレイヤーになるには

『The Stanley Parable』のSteam実績一覧。10項目の名前、取得条件、アイコン、取得率の棒グラフ
Steamの実績一覧。以下の表では名前と説明を日本語に訳した。5年間プレイしないことや、火曜日を丸一日ゲームに費やすことまで実績に数えられる。数値は掲載画像での取得率。
実績名(日本語訳/原名) 説明の日本語訳 取得率
ゲームをクリアする(Beat the game) 『The Stanley Parable』をクリアする。 78.1%
おかえり!(Welcome back!) ゲームを終了して、もう一度起動する。 72.5%
ジャンプはできない(You can’t jump) 本当だ。できないようにしてある。 67.1%
実績(Achievement) これは実績です。 42.8%
430号室の扉を5回クリックする(Click on door 430 five times.) 430号室の扉を5回クリックする。 42.2%
888888…(数字の8が続く) 888888888888…(こちらも8の反復。表では省略) 21.5%
外へ出よう(Go outside) 『The Stanley Parable』を5年間プレイしない。 6.7%
スピードラン(Speed run) ロード時間を除き、4分22秒未満で『The Stanley Parable』をクリアする。 4.1%
達成不可能(Unachievable) この実績は取得できない。 2.2%
献身(Commitment) 火曜日を丸一日、『The Stanley Parable』のプレイに費やす。 0.7%

最初から最後までナレーターの指示に従って進めば、最後に上司の部屋の制御装置を止め、オフィスビルを出て自由を得ることになる。だが、その「自由」は、まさに自由ではない選択の結果だと気づく。ナレーターの導きに完全に従って得た自由は、偽物でしかない。最初から最後まで、本当に自由な選択を一度もしていないからだ。したことは、オフィスのスタンリーと何も変わらない。画面の指示に従い、なぜか幸せを感じている。だから、これはゲームの本当の結末ではなく、ふつうの意味での「勝利」とも呼べない。「真の結末」として比較的広く認められているほうは、むしろナレーターに背かなければ到達できない。しかし混乱エンドでは、そのゲームでの勝利の無意味さまで皮肉られる。

Steamの実績にも、五年間プレイしないことで取れるもの、指定された一日を丸ごとプレイに費やして取れるもの、ある扉を五回たたいて取れるもの(実際にそうすると、ナレーターにも嘲笑される)、再起動で取れるものがある。そんなことをする唯一の理由は、実績システムがそうしろと要求するからだ。これも、ゲームの実績が持つ無意味でばかばかしい本質への皮肉である38。

先に述べたように、ぺしゃんこエンドでは、ゲームを閉じることもゲームの一部になる。ゲームを芸術表現の手段と捉えるなら、本当に勝つ方法は一つしかない。ゲームが表そうとしているものを、そこからつかみ取ることだ。中国のレビューサイト・豆瓣の『The Stanley Parable』短評から、本稿ではこんな言葉を挙げておこう。「このゲームを遊んでいたら、パソコンの電池が切れて自動で電源が落ちた。それもゲームの一つの結末だと思うことにした。」

勝ち負けは、ゲームが自らを表現するための手段にすぎない。たとえば『September 12th: A Toy World』は、決して勝てないゲームだ。プレイヤーはテロリストを攻撃しなければならないが、誤って民間人を殺すと、新たなテロリストが生まれる。しかも設計上、テロリストを攻撃すると、どうしても民間人を巻き込んでしまう。だから最後には、戦場が廃墟となり、全員がテロリストになるしかない。必ず負けるよう作られたこのゲームは、負けという形式で自らの主張を伝えている。ここで批判されているのは、明らかに現実の政治――米国の対テロ戦争だ2。

対戦ゲームでも、ほかより性能が劣っていても、好きだからそのキャラクターを使うプレイヤーがいる。たとえば執筆時点(2020年)のバージョンの『ストリートファイターV』の主人公リュウがそうだ。ここで考えられているのは、もはや勝ち負けだけではない。

『Spec Ops: The Line』の物語は、ある意味で『地獄の黙示録』のゲーム版と呼べる。最後に主人公は戦友をすべて失い、当初の目的地へ突入する。そこで別の人物に問われる。これほどの兵士を殺し、戦友を犠牲にし、民間人を虐殺したのは、結局、英雄気取りのためだったのではないか。最初に進むのをやめていれば、何も起きなかったのではないか。その言葉は、主人公だけでなく、第四の壁の外にいるプレイヤーにも向けられている。『地獄の黙示録』で語られることが、登場人物だけでなく観客にも向けられているのと同じだ。ここでゲームは、『The Stanley Parable』と同様、プレイしないという方法で、その表現を完成させてほしいとプレイヤーに求めている。

似た緊張関係は『GTA IV』にもある21。主人公ニコは、アメリカで新しい人生を始めたいという希望を、何度も語る。だが、物語を進めるには、プレイヤーはニコに違法行為を続けさせなければならない。ここで直面する選択肢はこうだ。ニコに犯罪をさせて物語を進めるか。メインストーリーを進めず、リバティーシティを歩き回り、過去をすべて忘れて、法律を守る善良な市民としてやり直すか。それとも、ゲームを閉じて、主人公との関係を終わらせるか。

しかし、この緊張関係に気づいたからといって、後の二つを選ばなければならないわけではない。むしろ、気づいたあとでは、最初の選択が『GTA IV』にいっそう深い意味を与える。主人公は人生をやり直したいと願っている。だが、自分では制御できない力に動かされ、その道を進まざるをえないのだ。私たちの生活なら、それは外の世界かもしれない。信仰を持つ人には、信じる神かもしれない。ニコにとっては、画面の外のプレイヤーだ。同じように、『The Stanley Parable』でスタンリーの思考を制御する「思考制御センター」も、ゲーム内の施設であると同時に、ゲーム全体を指しているのかもしれない。ゲームそのものが、彼の思考を制御する「装置」なのだ。

もちろん、三つの選択を見渡せば、どれも『GTA IV』が許すもので、どれによってもゲームの表現は成り立つ。必ずしも優劣はない。ただ、そこに現実の道徳という別の次元が加わるため、さらに異なる読みが可能になる。トロッコ問題と同じだ。五人をひき殺すか、線路を切り替えて一人をひき殺すか。それぞれに合理性を示す議論がある。だが望ましいのは、どんな選択をしても、それを絶対に正しいと決め込まず、その選択のために犠牲にしたすべてを、絶えず思い起こすことだ。ゲームの中でも同じだ。何を選ぶにせよ、その選択を通してゲームが何を表すのかを見届けなければならない。

ここまで来ると、つい想像してしまう。『The Stanley Parable』に、ナレーターの声だけでなく、スタンリーの台詞と、それに応じた、目に見える主体性を与えたらどうなるだろう。主体どうしの関係は、いまよりどれほど面白くなるだろうか(そして、プレイヤーはどれほど途方に暮れるだろうか)。

ゲームを閉じることも表現の一部だと述べた。では、閉じたあと、ゲームの表現は止まるのだろうか。先ほどの「外へ出よう」という実績は、五年間遊ばないことを求める。それは、遊んでいないあいだも、ゲームは表現し続けていることをほのめかしている。

分かりやすい例が、プレイヤーのコミュニティだ21。ほとんどのゲームには、大小さまざまなプレイヤー集団ができる。プレイヤーの集団は、一方でゲームの側にも影響を与える。MODを作ったり、対戦時にバランスに影響する要素について話し合ったりする。他方では、さまざまなミームや言葉のように、ゲームから離れて広まるサブカルチャーを生み出す。この視点から言えば、少しでもあるゲームを遊んだことがあれば、一生そのゲームのプレイヤーだ。ゲームを閉じても、ゲームとの関係が消えるわけではないからだ。さらに、動画視聴による「クリア」や、自分では遊ばず動画などでゲームに接する、中国でいう「雲プレイヤー」が増えていることも、プレイヤーという立場の複雑さを示している。

では、プレイヤーとしてどうあるべきなのか。『The Stanley Parable』の答えは、おそらく、考えることをやめないということだ18。ゲームの設計に、いつまでも引きずられてはいけない(欺きエンド)。目指すのは、ゲームに勝つことではない(混乱エンド)。自己陶酔的な語りの中で、現実からひととき逃れることでもない3834(アパートエンド)。ゲームから設計者が表そうとするものを読み取り、さらにはプログラムの制限そのものを超え、設計者の意図を超えるものまで読み取るのだ39。設計者が特に何も表そうとしていなくても、大他者、つまり作品に入り込む社会的な規則や前提に目を向ければ、何かを読み取ることはできる。トースターの懐かしさを誘う外観と効率を求める機能から、郷愁と近代性の緊張関係を読み取れるように40。ジジェクが、量産されるハリウッドの駄作の一本一本から、日常生活の哲学を読み取れるように。洞察力のあるプレイヤーも、ゲームそのものを超える意味を読み取るべきだ。ゲームを遊ぶのは、その中の実体のない数字や偽りの勝利を追い求めるためではない。ゲームを通して、設計者、ゲームそのもの、プレイヤーという三者それぞれの自己表現を実現するためなのだ。

『The Stanley Parable』の芸術エンドでは、明らかにひどく退屈なゲームをさせられる。赤ちゃんが炎にのみ込まれず、子犬がピラニアに食べられないよう、四時間ものあいだ、ボタンを押し続けなければならない。ごくわずかな人を除けば、このエンディングを試そうとはしないだろう。それでもナレーターの言うとおり、本当に四時間遊び切ると、画面は真っ白になり、『2001年宇宙の旅』のモノリスに似た黒い石碑が現れる。その脇には、設計者からプレイヤーへの称賛の言葉がある。

一見すると、粘り強さをねぎらい、認めているようだ。だが、考えてみると、これは皮肉ではないか。プレイヤーを、考えることなく指示に盲従する存在として扱いながら、いわゆる「芸術」的な要素を無理に付け足した、「芸術作品」を称するゲーム。その設計者とプレイヤーが、自分たちで感動していることへの皮肉だ。

しかし、別の角度から考えてみよう。四時間の単調なボタン押しから、本当にその人自身の読みを得るプレイヤーがいたとしたら。日々の生活や仕事の単調な繰り返しと、その虚無的な本質を読むかもしれない。ゲームと労働の境界の曖昧さを読むかもしれない1(コンピューターが、現代で最もありふれた生産の道具であると同時に、最も普及したゲームのプラットフォームでもあるのは面白い。アパートエンドでも、現実生活のさまざまな行為をこなすためにキーを押すよう求められる)。

あるいは、ゲームそのものを新しく考え直すかもしれない。何も考えずにボタンを押し続けることに何の意味があるのか。ほかのゲームと、このゲームは何が違うのか。四時間自動で押すプログラムを作ったら、その表現は変わるのか61。ゲームで勝つために膨大な時間と労力を費やす意味を考えるかもしれない。ゲームとプレイヤー自身への皮肉さえ読み取れるかもしれない。こんなに退屈なボタン押しから、これほど多くを(過剰に)読み取っている私たちと同じく、『The Stanley Parable』の作者もプレイヤーも、勝手に意味を見いだしているだけではないか、と41。

だが、そこからこうして考えを得たあとでも、なお無意味なゲームだと決めつけられるだろうか。いまでも多くのプレイヤーは、ゲームが芸術として認められることを望みながら、小説や映画のように批評することには反対し、無意味な深読みだと言う。これは矛盾ではないのか40。

最後に現れるこのボタン押しのゲームは、延々とバスを運転する『Desert Bus』や、ビルを長時間映し続ける映画『エンパイア』に通じる。単調な作品に長時間付き合うこと自体が、意味を問う対象になるのだ。遊ぶ行為自体の意味がゲームそのものの意味を超え、その解釈の意味が、さらに遊ぶ行為の意味を超える。そして、そのすべてが私たちに問いかけている――プレイヤーとしてどうあるべきなのか、と。

参考文献

資料種別:[M]書籍、[J]論文、[C]会議論文、[D]学位論文、[G/OL]オンライン資料。

25. 藍江「ビデオゲーム世代の存在哲学」(原題:电子游戏世代的存在哲学)[G/OL]. 『信睿周報』2019(20190912)[2019-09-12] thepaper.cn

本文終わり
注41

注釈

  1. Fest B J. Metaproceduralism: the Stanley Parable and the legacies of postmodern metafiction[J]. Wide Screen, 2016, 6(1). ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑

  2. Bogost I. Persuasive games: The expressive power of videogames[M]. MIT Press, 2010. 『September 12th』の政治的背景については、NewsGaming.comの発表文(The NEXT収録)も参照。 ↑ ↑ ↑

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