屋頂現視研
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友よ、アニメ評論の合理化問題を整理しよう

言語の比喩性、作画分析は真理探究かという問題、精神分析の科学性、美的判断の社会的構成を手がかりに、アニメ評論における「過度な合理化」批判に応答する。

著者: Austoria翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

――『友よ、あなたたちの手にある過度な合理化評論をやめよう』へのコメント。

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人を突撃させられる者を目指す。

友よ、あなたたちの手にある過度な合理化評論をやめよう

最近、BAKA影(Bilibiliでのハンドルネーム)は、『友よ、あなたたちの手にある過度な合理化評論をやめよう』という記事で、興味深い見解を数多く示した。彼は、多くの(全部ではないにしても)アニメ評論家を批判の対象とし、その理由を、彼らの文章に称賛に値しない「合理化」への欲求があるからだとしている。これは実に興味深い見解だ。そこには、記事中で触れられるハイデガーだけでなく、彼が触れていないフランクフルト学派の批判的伝統など、十分に深い思想的背景も見いだせる。思想史に詳しい読者なら、ほかにも思い当たるものがあるだろう。もちろん、彼の見解が過去の思想体系を踏まえた展開だと、性急に断定することはできない。そうした展開そのものが、一種の「合理化」である可能性もあるからだ。

彼の記事では、屋頂現視研の記事が「知識化された評論」の典型とされ、批判の射程に入れられている。ならば、その集団の一員として、私個人の意見にすぎないものをいくつか示すことも必要だろう。認めなければならないのは、多くの点でこの記事の見解に同意していることだ。たとえば、作画分析は真理探究ではない、という主張である。しかし同時に、議論の中には検討を要する見解も多いと思う。全体として、この記事の最大の問題は、あまりにも大きな問題をいくつも取り上げているのに、その多くへの応答があまりに軽率なことだ、と私は考える。

さらに、私がとりわけ気になったのは、著者のタイトルが「あなたたちの手にある過度な合理化評論をやめよう」となっているのに、本文ではどうやらあらゆる形の合理化を指しているように見える点だ。そこで私は、過度な合理化について、いくらか輪郭を与えてみたい。

漫画の台詞:「私が最も重要だと思うのは真実だ」

1. 言語は「それがそれであること」たりうるのか?

BAKA影のいう「『風刺』比喩」は、最初の大きな問題に関わっている。彼は「『風刺』比喩」を、「……木を指して別のものを罵ること、これを語っているように見えて、実はあれを語っていること。つまり、アニメそのものが語る物語はアニメそのものの物語を語っているのではなく、何らかの覆いを通して、物語の外にある典故や現実を示していること」と説明する。彼の考え方に従えば、似たような評論表現がいたるところにあり、さまざまなジャンルの文芸評論にも広く存在することがわかる。たとえば「オイディプス的悲劇」「プロメテウス的英雄」「ディストピア的未来」などだ。あるアニメの特色を「オイディプス的悲劇」と形容するとき、明らかに私たちは「アニメではないもの」とアニメそのものを比較し、「アニメではないもの」への評価をアニメそのものに無理やり負わせていることになる。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の場面

しかし具体的な議論に入る前に、私は「『風刺』比喩」という名称自体に強い不満がある。というのも、この種の評論がすべて本当に何かを「風刺」しているわけではないからだ。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を英国ドラマとして見るという言い方も、アニメ作品を称賛するためのものだ。もし著者が成語「指桑骂槐」にある「一つのものを用いて別のものを語る」という意味だけを取り出したのなら、それを「風刺」とひとくくりにするのも不適切である。「一つのものを用いて別のものを語る」ことは、風刺や指桑骂槐の核心的特徴ではなく、むしろそれこそが「隠喩」の核心的意味だからだ。したがって少なくとも字面のうえでは、BAKA影の「『風刺』比喩」への批判が実際に言おうとしているのは、隠喩という表現方法によってアニメ作品を評論することへの反対にすぎない。

著者が記事の最後に示した提案どおり、私たちは「それがそれであること」という仕方でアニメを評論すべきだという。「それがそれであること」は、西洋思想史を貫く形而上学的テーマである。私は関連分野の文献にあまり詳しくないので、この表現をどう理解すべきか正確に論じるのは難しい。ただ、著者の記事における「それがそれであること」は理解しやすい。「アニメをアニメとして見る」ということだ。私が著者の意図を誤解していないなら、この主張は、より正確には次のように言い換えられる。アニメ作品を評論するとき、アニメ以外のものをアニメの評論の根拠にすることは避けるべきである。(S1) この意味で「『風刺』比喩」とは、この命題に違反する典型的な評論の仕方を指す。

ここまでの意味を整理すると、彼が意図せず触れてしまった大きな問題が現れる。私たちの言語それ自体が、「それがそれであること」たりうるのか?1 少なくとも1980年代以来、私たちは、日常生活で使う多くの「普通の」表現が、しばしば比喩的であることにますます気づくようになった。例はいくらでも挙げられる。人が怒りを表すとき、「腹が立った」「頭に来た」と言うが、その過程で実際に腹や頭が現れるわけではない。他人の見解が物事の本質に届いていると認めるとき、私たちはその見解が「深い」とか「物事の本質を見抜いている」と言うが、実際には見解に空間的な深さがあるわけでも、洞窟があるわけでもない。BAKA影なら、これらの例を強弁だと見るかもしれない。ここで使われている語にはすでに固定した派生義があり、私たちはそれを容易に理解できるからだ。しかし、これらの例は、私たちの最も普通の表現にも「一つのものを用いて別のものを語る」という特徴があることを確かに示している。

『ゼロの使い魔~双月の騎士~』の双生花の場面

ここで、文芸創作に直接関わるさまざまな比喩を見てみよう。アニメは複合的な視聴覚芸術であり、その視覚面にはつねにさまざまな比喩が満ちている。物語の筋を伝えるという最も基本的なことにさえ、比喩が介入する。『ゼロの使い魔~双月の騎士~』最終話では、ルイズの手の中で双生花が枯れることが、才人の戦死を象徴する。これはごく基本的な比喩である。アニメ評論でも同じだ。アニメ作品について論じるとき、かなり基本的な見解の表明でさえ、しばしば比喩に頼らざるをえない。冗長さを避けるためのこともあれば、言葉を美しくするためのこともある(編者注:印象主義的な評論、とりわけ中国古代の文学批評史を思わせる、あの華麗な評論語彙のこと)、より正確にするためのこともあれば、そうするほかない場合さえある。こうした例も多い。私たちは、出来の悪いアニメ作品を「クソアニメ」と呼ぶが、これは人々に馴染み深い排泄物の比喩を用いている。『かぐや様は告らせたい』第3話のエンディングは最近アニメファンから称賛されたが、少なくともその一因は、アニメの登場人物である藤原書記が踊る姿が、あまりにも「生き生き」していたことだ。ここでは、アニメのダンスを現実のダンスと照らし合わせている。さらに複雑な場合もある。1995年版『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の優れた点を論じるとき、私たちは心、意識、サイバースペースなど、アニメの外ですでに行われている議論を引き合いに出し、このアニメが関連するテーマを深く表現していると説明する。それもごく自然なことだ。

さらに言えば、BAKA影が記事で挙げたような反例でさえ、必ずしも不適切な表現とは限らない。たとえば『ストレンヂア-無皇刃譚-』の格闘場面は、無数のアニメファンから称賛されている。よくある褒め言葉は、このアニメの格闘場面が「実写の武術映画」のような水準に達している、というものだ。「『風刺』比喩」の考え方を延長すれば、こうした評論は不適切になる。しかし、実写の武術映画を知るアニメファンの大半は、普通のアニメのアクションと実写の武術アクションとの隔たり、そしてアニメで実写武術のようなアクションを見せることがどれほど貴重かを、はっきり理解できる。もちろん、アニメのアクションの良し悪しに参照軸が一つしかないわけではない。同じように、「『京紫』(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』)が優れているのは英国ドラマに似ているからだ」と言う場合、問題はこの表現形式にあるのではないかもしれない。さらに、「なぜ『京紫』のようなアニメにとって、英国ドラマに似ていることが優秀さの根拠になるのか」と問うべきなのだ。この問いに比較的満足のいく答えが得られるなら、「『京紫』が優れているのは英国ドラマに似ているからだ」という言い方を受け入れられる。逆に、その問いに答えられないなら、そうした類比は退けるべきだ。

もう一つ、見逃せない点がある。著者は記事中で、ハイデガーのものだとされる概念や表現をいくつか使っているようだ。私はハイデガーに詳しくないが、私の知る限り、ハイデガー自身の芸術作品論には、芸術作品以外のものを排除する傾向はない。たとえば、ハイデガーはゴッホの『農夫の靴』について、次の有名な論述をしている。以下は、原文記事が掲げる中国語訳を日本語にしたものである。

靴の履き古された内側の暗い開口部から、労働の歩みの苦しさが凝集している。この硬く重い古びた農夫靴には、身を切る寒風の中、見渡すかぎり果てしなく単調な畝を歩く足取りの粘り強さと鈍重さが積み重なっている。靴の革には湿った肥沃な土がこびりついている。夕暮れが訪れ、この靴底は野道をひとり寂しく歩む。この靴の中には、大地の無言の呼びかけがこだまし、熟した穀物に対する大地の静かな贈与が輝き、大地が冬の休耕地に見せる荒涼とした冬の眠りが現れている。この道具は、パンが確実に得られることへの、恨み言ひとつない不安と、貧困に打ち勝った無言の喜びを染み込ませ、出産の陣痛の震え、死の接近に際しての戦慄を内に含んでいる。

ゴッホ『農夫の靴』

私の見るところ、BAKA影がこの記事で示したアニメ評論への考え方は、ハイデガーの議論というより、クライヴ・ベルの芸術の自律性の原則に近い。著者は、アニメを別のものではなくアニメ作品そのものとして見るべきだと考えている。この点は、芸術と日常世界との境界に関するベルの考えと、微妙に似ている。私はベルの形式主義美学に問題があるとは思わない。しかし、アニメ作品はどの程度まで形式主義的特徴をもつ芸術作品になりうるのだろうか。少なくとも私たちが知る優れたアニメ作品のほとんどは、物語性を排斥していない。

以上をまとめると、アニメ評論における比喩的な(あるいは著者の言い方なら「『風刺』比喩」的な)論述それ自体には、それほど不合理なところはない。 根本的なレベルでは、人間の言語そのものが「それがそれであること」ではなく、比喩に満ちているからだ。アニメ創作のレベルでは、比喩は不可欠な創作手段である。アニメ評論のレベルでは、単純な比喩は避けられない(著者自身が、著者のいう「それがそれであること」の評論を本当に書けるのでないかぎり)。複雑な比喩的表現の妥当性は、さらに説明することから生じる。その説明は明文化されていても、されていなくてもよい(たとえば評論家共同体の内部で、特定の専門概念が暗黙に用いられている場合)。 だからこそ、BAKA影の「『風刺』比喩」のくだりには、明確化と補完を要する欠陥がある。

BAKA影が自説を擁護するには、二つの選択肢があると思う。第一の選択肢は、極端な形式主義へと傾き、論理を一貫させて、たとえば『攻殻機動隊』や『ストレンヂア-無皇刃譚-』は優れた作品ではない、と考えることだ。こうしたアニメは、アニメそのものの優秀さを説明するために、アニメ外のものを必要とすることが多いからであり、真に優れた(あるいは崇高で、詩的な)作品はまだ現れていない、と考えるのである。あるいは、世間一般に優れていると認められた作品は確かに優れている、と認めることもできる。ただしその場合、「それがそれであること」としてアニメを評論するとは何なのかを示さなければならない。第二の選択肢は、彼のいう「アニメをアニメとして見ない」とは、主観的にこじつけ、意味不明で、知ったかぶりをし、曖昧模糊としたアニメ評論だけを指すのだと明確にすることだ。 しかしこの選択肢は、結局のところ常識を言い直しているにすぎない。すべての評論家は自分の評論文に責任をもち、概念や術語などを理解せずに使うことをできるだけ避け、評論の表現の細部をできる限り改善すべきだ、ということだ。私の見るところ、後者の選択のほうが現実的だ。しかしそれでは、BAKA影の「『風刺』比喩」ほど爆発的な効果はない。

2. 鳥類学者としての作画豚

BAKA影の記事は、作画や演出の技術分析にとりわけ不満を示している。これは中国国内のアニメ評論では確かに非常に珍しい。認めるべきなのは、彼の立論の基礎は実際には正しいということだ。たとえば、nbhtが言う作画分析は真理探究だ、という主張への反対である。ただしこれはかなりの程度、BAKA影が引用した表現のなかで、nbht本人が(評論の雰囲気が比較的軽いコメント欄で)作画分析における「真理探究」が目的として何を指すのかを明確にしていなかったためでもある。作画分析は、「アニメ制作者がアニメ制作について抱く現実の見方」を確証可能な仕方で探究することかもしれない。「アニメの表現効果の説明と評価」を検討することかもしれない。あるいは理論化された「アニメ制作の一般原則」を指すことも、「よいアニメをどう作るか」という、より建設的な問いを指すこともある。どの目的を指すかによって、「作画分析は真理探究なのか」という問いへの答えは変わる。たとえば、少なくとも規範的事実に関わる目的を、真理探究だと言うことはできない。

nbhtが知乎コラムで発表した『作画豚の自己修養』のほうが、作画分析、あるいはこの「真理探究」という行為の目的を、よりよく説明していると思う。

一般に作画オタク、作画ファンが口にする作画(sakuga)とは動きのことであり、一枚一枚の絵をつないで動感を作ることが、作画の最も面白いところだ。実際、大多数の人には「見ていて気持ちいい」という概念しかない。もちろん、気持ちよく見えることだけを求めても悪くはない。しかし、なぜ気持ちよく見えるのかを研究するには、しかるべき道筋がある。その道筋を研究するのが、作画ファンのやっていることだ。

ここでは、作画分析が「なぜ見ていて気持ちいいのか」を研究するものだと、より明確に述べられている。これで問題はずっと明瞭になる。しかし、それが「真理探究」なのかについては、なお二つの答えがありうる。2

2.1 作画分析が確かに真理探究である場合

この可能性では、私たちは「見ていて気持ちいい」を第三者的な事実とみなし、作画分析は確かに真理探究だと考える。 大まかに言えば、異なる観客がそれぞれ、あるアニメを見て「見ていて気持ちいい」と言ったとき、私たちはこれらの「気持ちいい」が多少なりとも似た心理状態を表していると認め、「気持ちいい」と言う行為こそが、その種の心理状態の外から観察できる表れだと言う。厳密ではない意味で、そこから方法論上の可能性を導ける。少なくともある程度は、アニメ作品のどの属性が人に「見ていて気持ちいい」と感じさせるのかを帰納できる。 もちろん、アニメ作品全体の表現力をさまざまな構成要素とその関係に還元できないという、BAKA影の還元論反対の立場には、私は大いに賛成する。しかし、還元論への反対から、方法論のレベルで、アニメのある属性が別の属性よりも人に「見ていて気持ちいい」と感じさせる力をもつという結論を導けない、ということにはならない。 たとえば、『ワンパンマン』のサイタマとボロスの戦闘場面は、『とある魔術の禁書目録Ⅲ』の上条当麻と左方之地の戦闘場面よりも、「見ていて気持ちいい」と感じさせる可能性が高い。ならば、前者のどの構成要素とその関係が、人により強く「見ていて気持ちいい」と感じさせるのかを分析する理由がある。これはごく自然なことだ。もちろん、アニメにおけるさまざまな構成要素の配置構造を余すところなく説明したとしても、アニメ作品全体の魅力を説明したことにはならない。それも自然なことだ。アニメ作品がなぜ全体として魅力をもつのかは、作画ファンだけでなく、実際のアニメ制作者にも説明できない。 どれほど腕が立っても同じだ(編者注:それに、作画ファンの集団は、作画だけを通して複合的な視聴覚芸術としてのアニメの全体的な魅力を探究できる、と主張したこともない)。しかし、アニメ作品全体の魅力を説明できないというだけで、アニメの分析的探究が新たな知識を何も与えられないと断言することはできない。

『ワンパンマン』のアニメ場面

この点をより具体的に示すために、仮想的だが十分ありそうな例を挙げよう。これは、BAKA影が記事で触れていた作画スタッフ当ての活動に関わる(ただしnbht本人は、作画スタッフ当てに熱中するのは初級の作画豚だと考えている)。ある裕福な作画ファンが、作画スタッフ当てに人工知能プログラムを導入したとする。アルゴリズムを絶えず改良した結果、このプログラムは、アニメのある部分に対応する作者が誰か(または誰か)を、かなり高い精度で特定できるようになった。それでもさまざまな誤りは生じる。しかし、作画スタッフ当ての正確さにおいて、このプログラムが一般のアニメ制作者を大きく上回るなら、少なくともアニメのある部分と作者を対応させるという点で、このプログラムのほうが信頼性が高く、その点で真理に近いと言える。

以上からすれば、作画分析が真理探究という活動であることは可能だ。作画ファンが「アニメはなぜ人にとても気持ちよく感じられるのか」という問いに作画の観点から答え、その答えが類似した状況で確証できる場合に限って、作画分析は確かに真理探究となる。

2.2 作画分析が真理探究ではない場合

別の答えでは、作画分析は真理探究ではない可能性もある。そのためには、次の二つの条件のいずれかを認めなければならない。(C1)私たちが「見ていて気持ちいい」と感じる心理状態は、第三者が観察できる外的表徴によっては定義できない。(C2)「見ていて気持ちいい」という心理状態は主体ごとの多様性が非常に大きく、適切な帰納的結論を見つけられない。

この二つの状況はいずれも容易に理解できる。(C1)の場合、「見ていて気持ちいい」は私的な感覚体験にすぎない。つまり、あるアニメを見て誰かが「見ていて気持ちいい」と感じているかどうかを、本当に知る者は、その体験をもつ主体以外にいない。これは作画分析が確証を得る可能性を失わせるので、作画分析は真理探究にはなりえない。(C2)の場合は、現実の常識を極端に推し進めたものだ。観客ごとにアニメの好みは違うから、彼らが「見ていて気持ちいい」と感じるアニメにも大きな差がある。その差があまりにも複雑で、そこから法則やパターンを帰納できないなら、作画分析は「アニメはなぜ人にとても気持ちよく感じられるのか」という問いに答えられない。したがって作画分析は真理探究ではない。

2.3 混在した問題と応答

本当の問題は、BAKA影本人も気づいていないかもしれないが、この部分の論述がすべて「作画分析は真理探究なのか」という問いの検討に基づいていることだ。ところが論述には、関係のない話題と論証が数多く混ざっている。たとえば作画分析と実際のアニメ制作との関係、作画分析に基づく評論をどう評価するか、アニメ評論における全体と部分の関係、さらには誤りの源を近代社会の科学崇拝に帰することまで、である。「冷蔵庫論証」への反論を読んだとき、私はいささか呆気にとられた。作画分析という具体例で「冷蔵庫論証」が指している問題は、実際にアニメを制作する能力のない者が、アニメ制作について意味のある評論をできるのか、ということだ。これは「真理探究かどうか」と何の関係があるのだろうか。 ここでいう「意味がある」は多面的であり、実際の制作者にとって意味があることだけに限定すべきではない。第三者の視点から、アニメ制作について意味のある陳述をすることも含まれる。俗悪な実用主義を抱いていないかぎり、真理と意味のあることとの間には明白な違いがある。

アニメの登場人物の台詞の場面

字幕:「そんなことを言われて、誰がわかるんだ?」

ところがBAKA影は、作画分析が真理探究かどうかを検討しただけで、作画分析が提供できるのは「イキる」ための最低限の需要を満たすことにすぎない、という話へ移ってしまう。これも実に不可解だ。仮に作画分析が真理探究でなくても、いわゆる「イキる」以外に、もっと明確で豊かな意味をもつ可能性はある。BAKA影のこの問題の扱いには、さらに内在的な矛盾がある。現実のアニメ制作者も、実際には作画分析に似た活動を行っており、自分の内面だけに従って閉じこもり、独力で作品を作るだけではない。アニメ制作者は、アニメのどの要素が観客に「見ていて気持ちいい」と感じさせるのかを知り、観客に受け入れられる可能性のあるアニメを作る必要がある。純粋に芸術上の考慮から作る場合でさえ、そのアニメが公開を必要としない独り遊びでないかぎり、少なくともアニメのある部分が、理想的な観客にとって何を意味するかを大まかに知る必要がある。作画ファンが、アニメ制作者の見落としや誤解を見つけることだってあるかもしれない。それも十分にありうる。近年のアニメ制作における技術の進歩は、このことの裏づけになる。アルゴリズムによって実現された技術は、アニメ制作の実地経験をもたないが、それでもある程度アニメをよくすることができる。明らかなことだが、アルゴリズムは演繹体系によってアニメのいくつかの部分を評価する。作画ファンがその演繹体系を支える規則を知っていれば、同じ評価を下せる。

さらに、作画分析と実際のアニメ制作との関係を考えてみよう。作画分析がアニメ制作そのものに何の意味ももたないとしても、残る意味が「イキる」だけになるわけではない。BAKA影のこの文章には、作画分析と実際のアニメ制作の関係について明確な論述が欠けている。私はこれが多くの論争の源だと思う。作画分析の意味を過大評価するつもりはない。しかし最も慎重な態度をとっても、次のことは認めるべきだと思う。作画分析と実際のアニメ制作との関係は、鳥類学者と鳥との関係に似ている。3 鳥は飛び方を鳥類学者に教えてもらう必要はなく、鳥類学者も鳥についてあらゆることを理解するために自分で飛べる必要はない。同じように、実際のアニメ制作者は作画ファンの評論を気にする必要がなく、作画ファンも実際のアニメ制作に身を投じなければ「なぜあるアニメは見ていて気持ちいいのか」を理解できないわけではない。 この関係に基づけば、作画分析の最大の意味は、作画分析という評論類型が目指すものを満たすことだ、と言える。これは、アニメに関する多くの亜種研究、たとえば売上学や、さらには「党争株式投機学」にも当てはまる。ただし、それらが条件(C2)を満たさない場合に限る。

3. 科学すぎるのか、それとも科学が足りないのか?

BAKA影のいう「無意識の比喩」では、精神分析的方法を用いるアニメ評論に批判の矛先が向けられている。まず精神分析そのものから話を始めよう。著者の第一の問題は歴史的事実に関するものだ。著者は実際、「何も間違えていないふり」をしているにすぎない。「精神分析は、心理学が哲学から分かれて独立した科学となった最初のものだ」という言い方は、歴史的事実について誤っている。 心理学が独立した学問となった通説上の起源はヴィルヘルム・ヴントにあり、ヴントが1879年に心理学実験室を設立したことこそ、心理学が独立した標識だ。著作によっては、その時代を「心理学のヴント時代」と呼ぶほどである。一方、フロイトが「精神分析学」という語を用いた最初期の例でさえ1895年までしか遡れず、精神分析学派の成立はさらに1900年を待たなければならない。同時期にはティチナーの構成主義心理学、デューイの機能主義心理学など、多くの学説があった。精神分析学派が興った時期、心理学はすでにさまざまな学説が競い合う分野だった。

著者のもう一つの問題は、精神分析が科学としての心理学の一部として成立した以上、精神分析には強い科学化傾向、いわゆる「人を排除する傾向」がある、と考えていることだ。実際には、人間を研究対象とする学問である心理学が人を排除することはできない。だから私は、「人を排除する傾向」という表現で著者が言おうとしたのは、科学としての心理学が、人間の心理活動を心の外部にある法則やメカニズムに支配された結果へと帰着させ、そのため人間の主体性を排除する、という意味ではないかと推測する。こうした見解には、人文主義的な内的要求があることが多い。その要求自体は、ある人や集団が重視する基本的価値として、非難すべきものではないと思う。私がより関心をもつのは、次の問題だ。精神分析が「人を排除する傾向」をもつのは、強い科学化傾向があるからだ、という論断は信頼できるのか。

1900年代には、精神分析学派の主要な代表者たちが心理学をさらに科学化する目標をもっていたのかもしれないし、精神分析学が実験と実践の双方に根拠をもつ科学理論として提唱されたのも確かかもしれない。4 しかし少なくとも今日の観点から見ると、精神分析学の最大の問題は、いわゆる科学が足りないことにある。 精神分析学への最も有名な批判の一つはカール・ポパーによるものだ。彼は『推測と反駁――科学的知識の発展』(原文表記では『科学――推測と反駁』)で、次のような訳を掲げている。

フロイト派の分析家は、自分たちの理論がつねに「臨床観察」によって確証されていると強調する。……それはいったい何を確証したのか。理論を使って一つの症例を論証しただけではないか。しかし、それには意味がないと思う。考えうるどんな症例も、アドラーの理論で、あるいは同じようにフロイトの理論で説明できるからだ。この点を、人間行動のまったく異なる二つの例で示そう。一人の男が子どもを溺れさせるために水へ突き落とす。もう一人は、その子を救うために自分の命を犠牲にする。フロイトとアドラーの理論は、この二つの事例を同じように容易に説明できる。……アドラーによれば、最初の男は劣等感をもっている(だから、自分が犯罪を敢行できることを証明したいという欲求が生じうる)。二人目も同じだ(彼の欲求は、この子どものために敢えて行動できることを自分に証明することだ)。

ポパーの精神分析学批判は、彼の有名な反証可能性の基準に基づいている。反証可能性が境界設定の基準として、少なくとも今日の哲学界ではとうに時代遅れになっていることは否定できない。とはいえ、ポパーの精神分析学批判にはなお、いくつか示唆するところがある。この批判は、精神分析学派の多くの理論が、主流科学の研究パラダイムには確かに収まりきらないことを、ある程度示している。それは精神分析学が完全な嘘だということでもない。およそ120年にわたる発展を経た今、精神分析学は臨床治療や社会・人文現象の説明において、独自の、代替しがたい位置を占めている。それは特殊な主体としての個々人により関心を向け、解釈の文脈性をより重視する。だから、もし物理学が公認の科学の典型だとするなら、精神分析学に「強い科学化」傾向があるとは決して言えない。むしろ精神分析学は、心理学のなかで最も濃厚な人文主義の色彩をもつ。

アニメの文字と人物の場面

ここまでの問題提起は、歴史的事実を論じるためだけのものではない。さらに次の問題を論じるためでもある。科学すぎることが、よりよいアニメ評論を害するのか。 少なくともBAKA影の記事の論拠は無力だ。精神分析学が文芸評論に入り込む際、それは科学の代弁者と見なされたことなどなく、むしろ心から生じる人文主義的価値の介入と見なされることが多かったからだ。私の見るところ、アニメ評論の執筆に本当に悪影響を及ぼすのは、アニメへの接し方が科学的すぎることでは絶対にない。まさに、理論枠組みへの接し方が科学に足りないことなのだ。 真面目で誠実な科学研究は、ある理論を特定の研究領域の外にあるテーマへ無理に拡張しようとはほとんどしない。自然科学の理論のなかには、人文領域のテーマに示唆を与えるため拡張されるべきものも確かにあるが、少なくとも大半の科学者から見れば、人文領域で科学理論を用いることの信頼性は科学そのものから来るのではない。その応用の妥当性が十分に厳密に論証されないかぎり、なおさらだ。だから、もし何らかの科学理論がアニメ評論でほとんど不条理な仕方で用いられることがあるなら、それは科学理論の適用範囲を見極めるのに十分科学的な態度をもっていないからにすぎない。科学から出た理論枠組みが濫用されないようにするには、十分に科学的な概念をもたなければならない。5 皮肉なことに、昨年起きたあの学術的いたずら事件にも、精神分析学を用いた偽論文の例があった。6

4. 避けられない感受性と構成論

次に、BAKA影が提起した「ドーパミン比喩」と結びつけて考えたい。これは実際、最も重要な話題だと思う。アニメ評論の多くの基礎問題に関わるからだ。たとえば、アニメ評論の基礎とは何か、アニメ評論の評価方法、アニメ評論とアニメそのものとの関係などである。まず明らかにしておくと、私は「ドーパミン比喩」の主要な見解、特に「アクセス数志向(流量志向)の合理化」への批判に、基本的に同意している。アクセス数が大きく、人に快楽を与えるアニメ評論そのものに反対しているわけではない。ただ、そうした評論そのものは真剣に扱うに値しないと思っているし、もっと多様なアニメ評論にも目を向けるべきだと思う。筋道立てて考えることも、人に快楽を与えられる。

ただし、「ドーパミン比喩」の論述は、主として流行するさまざまな「アニメ評論」を批判しており、本当に重要な問題は十分に論じられていない。BAKA影の表現に沿って言えば、ここで関わっている核心的な問題は、アニメを見て得るあの「楽しい」という感情と、アニメ評論との間にどんな関係があるのか、だと私は考える。これをより一般的な問いに言い換えるなら、アニメを見るときの心理的な感覚とアニメ評論との間にはどんな関係があるのか、ということだ。

この問題は、簡単な思考実験で考えてみよう。著者がハイデガー的な見解を称揚するのを見て、私は、いまではほとんど過去のものとなった、大陸哲学と分析哲学の隔たりを思い出した。今日の研究者が、どの問題についても、どちらの理論的スタイルのほうが価値があるかを公に表明することはほとんどない。しかし著者は、「よいアニメを見たいと思い続ける人なら、誰でも詩的なものと崇高なものの重要性を理解できるはずだと思う」と、はっきり態度を示している。個人的には、これは誤りとは言えないと思う。結局、「詩的」と「崇高」は、ほとんどすべてのテキストで避けがたい曖昧さをもつ(私自身の記事も同じだ)。本当に「詩的」で「崇高」なアニメ作品を見たとき、それがどのような心理的感覚を指すのか、私たちはよくわかっていない。しかし、極端に自然主義的な思考実験なら可能だと思う。

こんな未来を想像してみよう。1995年、世界に秘密裏に宇宙人がやってきて、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で一人ひとりの脳を監視した。宇宙人は、EVA(『新世紀エヴァンゲリオン』)が放送されているとき、日本の視聴者10万人の脳活動が似たパターンAを示すことを発見した。一方、ほかの多くのアニメ作品の放送時には、脳活動がパターンAになる視聴者は数百人から数千人しかいないかもしれない。数十年にわたる監視の結果、宇宙人は、EVA、『化物語』、『魔法少女まどか☆マギカ』などの作品が放送されると、多数の観客の脳活動がパターンAになる一方、そうならないアニメ作品も多いことを発見した。そこで宇宙人は地球人の言葉に従い、放送中に脳活動がパターンAとなる人数が1万人を超えるアニメを「詩的な」アニメ、1000人から1万人のものを普通のアニメ、1000人未満のものをクソアニメと呼ぶことにした。

私たちの認知神経科学は、まだこの程度には発達していない。しかし、神経科学的な表象によって「詩的」とは何かを定義する可能性は、考えられないわけではない。だがBAKA影は、こうした神経科学的表象をアニメ評論と呼べるとは、あまり認めないだろう(実は私もあまり認めない)。どこに問題があるのか。本当に避けられない問題は、感受性にある。

アニメにおける自律性と理性をめぐる文字の場面

読者は、感受性の意味を大まかにこう理解すればよい。私たちが痛みを感じるとき、実際には「痛い」と表現できる主観的な感覚がある。この感覚は私たちだけの私的なものだ。他の誰かも、どんな科学的手段も、痛みそのものを感じることはできない。痛みを感じているとき、脳がつねに特定のパターンにあるとしても、そのパターンは神経活動そのものであって、本当の痛みの感覚ではない。この概念の意味が明確になれば、先の思考実験で脳活動パターンを統計的に数えることがなぜアニメ評論にならないのか、容易に理解できる。「詩的」も「崇高」も、アニメ評論に使われるその他の似た語も、7 直接指し示すのは、観客である私たちがアニメを鑑賞するときに抱く心理的な感覚だ。これらの語がアニメそのものの特徴や属性を形容するのは、間接的な意味においてのみである。 そして後者の間接的な意味も、心理的な感覚をアニメそのものへ暗黙に帰属させることから生まれる。私たちがアニメ作品「xxx」を見て、「詩的」が指すあの心理的感覚を抱くなら、アニメ作品「xxx」は詩的だと言う。 さらに二つ注意すべきことがある。(1)異なる二つのアニメ作品に同じ評論語「詩的」を使うとき、二作品を見て抱く心理的感覚が同じだという意味ではない。実際、同じ語で表現するどの心理状態の間にも微妙な差異がある。(2)異なる人々が同じ評論語「詩的」を使うとき、彼らの表現する心理的感覚も異なり、ときには大きく異なる。このため私たちは、ときどき先の暗黙の帰属の過程に特別な注意を向け、「私個人の意見では、アニメ作品「xxx」は詩的だ」と言う。

心理的な感覚とアニメ評論との関係をひとまず明確にすると、個別の問題をよりよく検討できる。私がひどく不可解に思うのは、BAKA影が一方ではアニメ評論の多様化を支持しながら、他方ではアニメ評論における「個人主義」に反対していることだ。ここでいう「個人主義」とは、「一人ひとりの思考や行動、言葉や振る舞いが本人の本心から出ているなら、それには価値がある」という意味である。この評論の個人主義に反対するなら、アニメ評論の優劣を測る普遍的な真理の基準があるとして、アニメ評論にどんな多様性があるのだろう。おそらくこの深い矛盾を認識したからこそ、BAKA影は「評論を減らし、創作をもっとやろう」と提案したのだ。

しかし、アニメ評論の多くの表現が私的な心理的感覚に由来することをはっきり意識すれば、この矛盾は生じない。確かに、一人ひとりの心理的感覚それ自体に、より重要とか、より重要でないということはない。だが、心理的感覚によって定義される表現方法を使って行う具体的なアニメ評論には、社会的構成の過程で、重要か重要でないか、よいか悪いか、合理的か不合理かという区別が生じる。アニメ評論そのものについて、私たちは次のように認識すべきだ。アニメ評論の良し悪しは、共同体の他の成員による集団的承認によって成立する。共同体成員の承認態度は、さまざまな社会的または非社会的理由に基づくし、この集団的承認は単純な多数決の承認だけを意味しない。8 ここで核心となるのは、一人ひとりが行うアニメ評論は個人の心理的感覚に基づくので、評論それ自体に優劣はない。しかし評論は、社会的構成の過程では優劣をもつ。

より明確に言えば、この社会的構成の過程は、アニメそのものへの評論にも直接向かっている。私たちが私的な感覚のレベルだけでアニメを評論するなら、たとえば「『xxx』は神作だ」と思っても、その考えを誰とも共有しない場合(これが本当の意味での個人主義)を除こう。いったん公共的な状況でアニメ作品を語れば、あるアニメ作品が「神作」なのか「クソアニメ」なのかという個人の評論は、必ずある共同体内部の複雑な相互作用に参加する。その複雑な相互作用のなかで、ある作品が「神作」なのか「クソアニメ」なのかという見解は、文脈とともに固まったり流動したりする。この相互作用が具体的に何を含むかを詳しく語る必要はない。そうすれば、「本当に優れた作品には永遠性がある」というような信念のための余地も残せる。

私の述べた見解は相対主義に見える。しかし、この相対主義的態度には建設的なところがあると思う。建設性は二つの面にある。一方では、すべてのアニメ評論と、それが従うパラダイムがもつ説得力(あるいはその他の肯定的な特徴)は社会的構成から来るのだと明確に認識できる。だから私たちは、さまざまな多元的試みを十分な自信をもって行える。他方では、現在の文脈で社会的構成がアニメ評論に与える説得力を、どのような規範が支えているのかを議論できる。そうすれば、私たちの評論表現も共同体に認められ、優越性をもつようになる。

展示パネルに向かう人物のアニメ場面

もちろん、そのためには、もう一つの避けられないテーマ――美学的実在論――を放棄しなければならない。BAKA影は記事でこの点に触れていない。しかし、細部についてのいくつかの見解には、実在論的な前提がぼんやりと表れている。たとえば、彼はEVAがよい作品なのは、この作品が「その時点でアニメにできることをすべて尽くし、それまで表現されていなかった心の状態を表現した」からだと考える。また、「よいアニメを見たいと思い続ける人なら、誰でも詩的なものと崇高なものの重要性を理解できるはずだ」とも考える。こうした表現からは、BAKA影が、優れたアニメ作品それ自体には普遍的な特質があり、その特質は誰もが鑑賞できると考えているように見える。なかには、たとえ「本当に優れたアニメ」に無関心な人がいても、それは「鑑賞能力がない」だけだと考える人もいる。私の見るところ、この種の発言はかなり独断的で教条的だ。いわゆる鑑賞能力が社会的構成を超越することを証明する唯一の可能性は、その鑑賞能力の生物学的基盤を探すことだ。しかし、どのような生物学的基盤も、ある鑑賞能力が時間の変化を超えて持続するかどうかを示せるだけで、鑑賞能力の高低を示すことはできない。したがって、鑑賞能力は本当に能力だというより、実質的には共同体規範をどの程度守っているかだと言うほうがよい。

ただし、ここまでの説明は美学的実在論への反駁にはならない。美学的実在論という信念に反対する十分な理由を、私も想像できない。結局、それは基本的な信念であり、その根拠を攻撃することによって反駁することはできないからだ。それでも、美についての実在論を、自然主義的枠組みのもとでの何らかの生物学的属性の持続性と普遍性として説明しないかぎり、この見解はほとんど神秘主義に近いと思う。

5. 結語:過度な合理化とその他の論点

公共のプラットフォームに発表する記事として、本文は明らかに長すぎる。そこで「過度な合理化」についての私の見解を本文の結語とし、BAKA影の記事で多少触れられてはいたものの、まだ論じていない話題については、私の『メタ・アニメ評論』計画で詳しく扱うことになるかもしれない。

ガトーの帰還の台詞の場面

字幕:「ソロモンよ、私は帰ってきた!」

この記事の最後の部分が述べているとおり、最大の困難は、私たちがどうすれば合理化を放棄できるのか、ということだ。実際、言語を用いて何かを語ろうとすれば、合理化という陥穽に落ちてしまうようだ。著者が勧める「評論を減らし、創作をもっとやろう」でさえ同じである。この記事を見て著者が一切の評論をやめ、創作に専念するなら、その創作行為自体の妥当性も著者のこの提案によって保証されるように見える。しかし、こうした過度な合理化の風潮によってアニメやアニメ評論そのものが退屈になるのではないかと心配するなら、それはまったくの取り越し苦労だ。私の知るかぎり、人間は退屈しやすく、新奇さを追い求める種である。アニメに対しても、アニメ評論に対しても同じだ。ほとんどすべてのアニメは消費者を対象としており、退屈なアニメは、消費者に飽きられて徐々に淘汰される。かなりの数のアニメ評論も読者に向けて書かれており、退屈なアニメ評論が、少なくとも大多数の読者に選ばれることはない。――もちろん、私たち「屋頂現視研」の評論の大半は、これからもずっと退屈だろう(笑)。

私の見るところ、唯一の過度な合理化は、評論執筆者によるこじつけ、あるいはもっと直接に言えば、自分自身への不誠実から生じる。新奇な理論や概念を考えもせずに引用し、具体的な論述に妥当性があるかどうかを問わないアニメ評論の書き手もいるだろう。また、さまざまな目的から、あらゆる術語で文章を飾り立てる書き手もいる。これらはすべて避けるべき過度な合理化である。もちろん、私たちの集団を含め、多くの書き手は、実際にこの種の問題を抱えている。だからこそ、私たちは反省し、謙虚に対話する必要がある。

編者按

本文はすでに長いので、最後に、BAKA影の「誰の影響も排除できる」という真理に反論しておこう。この言い方はあまりにも実体論的/実証主義的だ。人間の歴史的な対象化の実践を考慮に入れるべきだと思う(真理という範疇について考える際にも)。それから「誠実か真理か、しかし必ず困難に陥る」という二者択一についても、私は、このように設定された選択肢を拒めないのかと考えるのではなく、そもそもこの選択肢の設定自体が適切なのかを考えるべきだと思う。AUS君の相対主義は、私の考えでは、人間の歴史的な対象化の実践を考慮した積極的な態度である。最後に、最近知乎で用いられている精神分析的な文芸評論について、論者たちはおおむね一致して、精神分析文芸理論に対する「強い科学化傾向、人を排除する」という評価に反対している。

本文終わり
注08

注釈

  1. ここでいう「言語」は自然言語だけを指すことを明記しておく。数学記号やプログラミング言語などの人工言語が比喩性をもつかどうかについては、なお議論があるようだ。 ↑

  2. 厳密に言えば、「真理探究」という表現自体に多くの曖昧さがある。真理とは何かについては、つねに多くの意見の相違があるからだ。ここでは常識的な意味で真理と真理探究を用いる。つまり、物理学、化学、経済学、社会学などの科学は真理探究を行っている、という意味でこの表現を使う。 ↑

  3. この類比は、著者によれば、物理学者ファインマンが科学哲学と科学の関係について述べた表現に由来する。 ↑

  4. 一点、疑問が残る。いくつかの資料は、フロイト本人が精神分析学を科学とは見なしていなかったと指摘している。 ↑

  5. ここで断っておくが、私は現在のアニメ評論における精神分析学の利用を濫用だとは考えていない。アニメ評論そのものが文芸創作の一種であり、本当の意味での合理性の基準をもたず、また必要ともしていないと思うからだ。 ↑

  6. この学術的いたずらとは、James Lindsay、Helen Pluckrose、Peter Boghossianが行った一連の偽論文事件を指す。 ↑

  7. 私のこの見解には一つ問題がある。アニメ評論において、どの語が私たちの心理的感覚だけによって定義されているのか、という問題だ。あまりに極端な存在論的経験主義に陥らないために、たとえば「赤い」「黄色い」「ハーレムアニメ」「3Dアニメ」など、大多数の人に意見の相違を生じさせない語は、感覚だけによって定義されるのではない、とひとまず考える。一方、「とても熱い」「クソを食わせる」「神作」などの語は、感覚だけによって定義される。 ↑

  8. 私のこの見解は、ほとんどJ・R・サールの社会的構成論をアニメ評論に当てはめたものだ。したがって実際には、集団的承認とは何を指すのか、集団的承認はいかに形成されるのかなど、明確にすべき問題がまだ多く残っている。 ↑

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