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作品考古|身体/義肢――『大砲の街』で自律する技術的対象

『大砲の街』の巨砲システムと身体の関係を軸に、ハイデガー、メルロ=ポンティ、スティグレールを手がかりとして、技術的対象が自律し、人間を対象として扱う側に回るという逆転を論じる。

著者: Gi翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

編者注:Giの顔写真は載せなくてもいいか、と思って。

『大砲の街』より。大砲を備えた建物を下から見上げた風景

主題という点では、この作品は『MEMORIES』の三篇のうち、最もつかみどころがないように見える。十分にまとまった筋があるわけでもなく、パノプティコンのような視点から、架空の都市に暮らす親子三人の日常を映し出すだけだ。しかし実際には、主題を解釈するのがいちばん容易なのは、この作品のはずである。大友克洋自身の考えを踏まえれば、この作品が第二次世界大戦後の反省と関わっていることは間違いない。そう考えれば、全体主義を手がかりに読み解く道筋は、このうえなく明白だ。

全体主義をめぐる数多くの研究が世に出たいま、私たちは、これほど霧に包まれた主題さえ、いともたやすく対象化できる。とりわけアーレント以後、状況を理想化して扱うやり方は、芸術作品の解釈に、きれいに収まる道筋を与えてきた。この道筋に沿えば、人間の伝統に含まれる、善悪とは関わりのない俗っぽい部分を無視できるし、社会システムの組織原理がもつ柔軟さも無視できる。

こうして、理想化された状況のなかで、全体主義は『大砲の街』のような風刺アニメになる。

街の外に広がる荒野と立ち上る砲煙

映画がその日常を追う親子三人は、外部との永遠の戦争状態にある街に暮らしている。戦争の相手については何の情報もなく、街そのものについても、この街が外部とどのような関係を結んでいるのかについても、まったくわからない。数少ない場面で、視点が砲弾の着弾地点を追って街の城壁の外へ移ると、そこに見えるのは一面の荒野だ。もちろん、このような自治的な都市は、アニメの設定として単純化されたものにすぎない。だが、その設定の意図は明白である。

まず、街は城壁によって外の荒野から隔てられ、完全に閉ざされた領域となっている。次に、永遠の戦争状態は動員を意味する。しかも『大砲の街』の戦争は、間違いなく総力戦であり、したがって動員も総動員となる。

この二つの状態は、外部と内部の両面から互いを支え、運動を持続させる空気を生み出している。外部との戦争状態は内部に脅威を与え、内部が閉ざされていることは、外部との戦争に向けた動員の潜在力を与える。

内と外が互いを支えるこの循環には、運動を持続させる力がある。理想化された状態では、その力は尽きることがない。その結果、この映画には歴史性が欠けている。過去も未来も、もはや現在とは異なる可能性を示さず、視点の中心にいる一家も、それ以外の登場人物も、観客には事物的存在としてしか理解できない。彼らは人間ではない。生きるためのあらゆる可能性と選択を失い、現状を打ち破る力を失っている。

これは、真正な(「本来的な」と言うべきだが)生が失われるというだけではない。さらに極端な事態として、人と物との関係が逆転しはじめるのだ。ここで本作は、単に全体主義のある断面を提示する作品ではなくなる。ある理論の分析用の標本を提供するだけでもなくなる。この生活の断面を分析することで、私たちは、存在者と人工物との関係を捉え直す道を探ることができる。ここで使う概念はハイデガーに基づいているが、論じる主題はむしろメルロ=ポンティが扱ったものに近い(彼もハイデガーの概念をいくつか使っている)。最後に論じる技術的対象と人間の関係は、いくらかスティグレールの研究に依拠している(もちろん彼もハイデガーの概念を使っている)。とはいえ私は、本作がこの関係を別の仕方で捉え直す視点を示していると考える。

屋根の上に大砲がひしめく街の遠景

総動員下の社会的分業のなかで、視点の中心となる一家の両親の日々の仕事は、街の営みを見渡していくうえで重要な部分を占める。父親は街の中心部にある巨砲の発射基地で弾薬の装填を担当し、母親は後方の軍需工場で流れ作業による生産に従事している。この切り口から見えてくるのは、きわめて精密に作動する組織の内部で、分業を担う個人と、その仕事との関係が逆転していることだ。個人が使う道具は、もはやその人の志向性が向かう対象という地位を与えられておらず、個人はただ命令に従って、一連の動作をこなすだけである。そのとき、その人はもはや道具を手にしているのではなく、道具を道具として使う空間も存在しない。反対に、人間ではないものの命令に従って一連の動作を行うだけのその人は、別の物体の志向性の対象となっている。この物体は人間ではない。何らかの権力意志の現れでも、神聖な正当性を人格化したものでもない。もっと微細で根本的なもの、それが技術的対象だ。それは生産ラインのベルトコンベアであることも、巨砲の発射基地全体であることもある。人と技術的対象とのこの関係は、個人と社会との関係と変わらない。

世人(せじん)は本来的な生を生きていない。だがそれは、世界のほかの事物と関わるとき、つねにそれを一つの像として捉えて目の前に置くか、道具として手許に置くかのどちらかだという意味ではない。具体的な人間同士なら、他人と物とをたやすく区別できる。世人が概念として捉えられるということは、少なくとも主体同士は、互いを類的存在として認めているということだ(もっとも、対象化という営みのうちには、「他人の自己」という矛盾が生じる)。この区別は、一つには、彼らが巨大な関係の網の目のなかにいることに基づいている。その網の目は人間社会の内部だけにあるのではなく、人と物との関係にも及ぶ。ハイデガーがその分析で適所全体性と呼んだものだ。つまり、私が他人を物から区別できるのは、私たちがともに同じ仕方で物に出会っているからである。他人と物との関係が、私と物との関係に似ているからこそ、私は他人を、物とは区別される存在者として捉えられる。

蒸気の立ち込めるなか、仕切られた区画に並ぶ作業員たち

明らかに、具体的な人と物との関係が、もはやかつてのような人と道具との関係ではなくなったとき、その人は自分の実存の特性と各自性を失うだけではない。他人との関係においても、それまで保たれていた人と物との区別が失われる。ここで生じているのは、自分固有の生を生きるある一人の人間の困難だけではなく、世人の困難なのだ。

さらに述べておかなければならない。世人が生きるこの関係の網の目、すなわち適所連関では、物との関係だけが人と物との区別を支えているわけではない。他者へと直接に通じること、すなわち他者の実存を了解することによっても、私たちは他者と共に存在できる。だからこそ共存在は、現存在(自分固有の生を生きる人間)の基礎なのである。互いの実存を了解し合うといっても、他者の実存そのものを了解することまで厳密に求められるわけではない(他我の逆説)。明証的な世界のうちにいる私たちは、自分たちがこのような世界にいるという事実を互いに確かめ合っている。それだけで、私たちは他者と了解し合うことができる。この了解が、その後の概念形成の基礎となり、同時に人と人との交流を可能にする。人は互いに理解し合おうとして、同じ言葉を口にすることができる。つまり、道具を扱うのと同じように言葉を戦略として使うのではなく、互いに理解し合おうと言葉を交わしてこそ、個人同士は、互いを確かめ合うその関係を保てるのだ。

ところが、映画のなかにわずかにある、日々の作業の流れからふと離れるような場面、すなわち生活世界の輪郭が浮かび上がる場面に目を向けても、同じように悲観的な結論にたどり着く。両親が仕事の合間に食事をするときも、さらには家で暮らす場面でさえ、言葉は沈黙のうちに閉ざされるか、小言となって空回りするかのどちらかだ。登場人物のあいだには理解が成立せず、相手に届く道も開かれない。わずかにその兆しを見せるのは、自分の空想のなかで語る子どもの言葉だけである。

食卓でカップを持つ父親と、赤い帽子をかぶり鉛筆を持つ子ども。奥には母親がいる
誰と戦っているのか、父に尋ねる子ども。画像出典:All the Anime。

ここで、はっきり言える。この人間ならざる者たちには歴史性が欠けており、実存の可能性がない。彼らの境遇には、アーレントが全体主義を対象として扱ったときの判断が浮かび上がっている。それは、ナチ体制をイデオロギー機械と捉えた戦後のヨーロッパ大陸の認識にも合致する。だが、歴史性が欠けていることと、歴史性がまったくないことは同じではない。歴史性の欠如こそ、歴史性の現れなのだ。映画では架空の設定によって歴史を去勢できるとしても、現実の解釈的な歴史研究では、全体を捉え直すことが求められる。その一部門である実証的な歴史記述には、アーレントの分析と食い違う点が出てくるだろう(たとえば、ナチ体制の腐敗の事実と、アーレントが理想化して捉えたその非功利性)。

ここで言いたいのは、歴史の把握が不十分だと弊害が生じる、ということではない。ナチが何もないところから生まれ、奇跡のように永遠の運動状態に入った全体主義の理念型ではないことは、もちろん誰もが知っている。一つの現象として、それには固有の発生と構成があり、当然、ナチ体制以前から残されたものを伴っている。ここで残されたものと言うのは、人々の歴史感覚に入り込んでそれを独占し、過去を遡る可能性を覆い隠そうとする伝統のことではない(創られた伝統、ヴァイマル憲法)。残されているのは、「自分がすでに存在していたこと」に事実の裏づけを与える刻印なのだ。たとえばハイデガーが恩師フッサールを追放したとき、もし良心に責められたのなら、その呵責は、ナチ体制以前に二人が了解し合っていたことの名残にほかならない。まして、ナチの哲学者であったハイデガーが、すでに『大砲の街』の個人のように、他者を了解する力を失っていたとは言えない。

重要なのは、事実の面でアーレントの見解がどれほど問いただされようとも、その分析が全体主義をめぐる解釈学の一部、それも最も重要な部分でありうることまでは否定できない、という点だ。もちろんアーレント自身も、自分が事実を書いているとは考えていない。彼女が分析しているのは一つの状況であり、対象化する傍観者の態度から出発する科学的説明とは異なるものなのだ。だから、ナチ支配下の住民は、誰もが自分の身を危ぶんで警戒するなかで、互いに切り離され、極限までモナド化したと彼女が述べるとき、それを、歴史上のその時期にドイツ人の大多数が全方位的な監視の圧力にさらされていた、という意味に受け取るべきではない。体験者である彼女は、人々のあいだになお交流が残り、実際に抵抗があったことも当然知っていたし、賄賂がユダヤ人の逃亡に役立ったことも自ら書いている。

したがって重視すべきなのは、アーレントの分析が、解釈学的に全体を捉える際のある断面をなしているということだ。その断面は、ある程度まで全体主義のなかで徹底して現れており、同時に『大砲の街』では、さらに理想化され、一つの全体にまで拡大されている。そうして拡大することで、この断面に現れている事態が、現実の全体にどのような影響を及ぼしうるのかを、私たちはよりはっきりと見て取れる。

汗を流し、口を開けて上を見る父親

これは、ウイルスに感染した個体を観察しようとする場合に似ている。当然、観察すべきなのは、すでに感染しているその個体の全体だ。だが、ウイルスそのものだけを観察することにも(たとえ理想化されたものであっても)、ウイルスが個体に及ぼす影響や、感染した個体で支配的となる症状を研究するうえで、大きな意義がある。最終的には、それによって感染した個体の全体像を、よりよく捉えられるようになる。

ここで先に指摘しておくと、『大砲の街』が切り出している断面は技術システムであり、このシステムは、徐々に侵入することで世界の支配権を得ていく。さらに悲観的に見れば、その侵入はすでに根源から始まっていたことになるだろう。だとすれば、ウイルスよりも、先天的な欠陥にたとえるほうがふさわしい。(起源をめぐるこの難問を考えるとき、その裏側に現れるのが、ルソー的な「歴史をもたない人間」だ。一度もウイルスに出会ったことのない、理想化された個体である。この歴史のなさは、ハイデガーのいうそれとはまったく異なる。)

技術システムのなかでは、技術的対象が自律的に人間やほかの物体を支配する。もはや人間が物を対象として扱うのではない。物のほうが、人間を対象として扱うのだ。巨砲の装填と作動は、とりわけはっきりとした手がかりを与えてくれる。

巨砲を動かす労働者は、その操作する道具との指示連関を、もはや保てない。自分が扱う物とのあいだに、確かな内容をもった関係を維持できなくなっている。指示連関は、世界内部の存在者を周囲世界と結びつける。この連関を媒介するのが身体である。身体は、対象として実際に動かされなくても、仮想的に動作を行うことができる。だから人は、意識して考えなくても、こうした指示の働きを実現できる。たとえば、身体のどこに触れられたのかを特定することだ。

巨砲の砲身を見上げる、赤い帽子の子ども

しかし、巨砲の作動には、そのようなあり方がない。そのなかで人間は、世界内部的な存在としてのあり方を失っている。まず、人々は完全に指令どおりに動く。その指令は、通常の世界から与えられる課題ではない。人と世界からなるシステムの一要素として身体が課題を受け取り、人が世界に働きかける力を実現するのではないからだ。作業で扱う物は、行為の極(pole)となる。身体が現象的身体として、その物と人とのあいだに指示連関を築くときにのみ、世界に働きかける力が実現される。現象的身体は空間のうちに位置を占める。だからこそ、空間的な対象が主体に現れ、世界が主体に開かれる。一方、対象としての身体は、意識のうちだけに現れて想像上の動作を行うこともできる(あなたがコップをつかむところを想像する)。また、実際に抽象的な運動を行うこともできる(あなたが手を伸ばし、存在しないコップをつかむ)。身体を対象として扱う場合でも、実際に運動を行うにせよ、可能性として行うにせよ、現象的身体という基礎を離れることはできない。したがって、人間が想像上の動作と実際の抽象的運動の両方を行えるとしても、その根本にある現象的身体の活動こそが、周囲世界で起こるあらゆる活動の基礎なのである。

巨砲を動かすとき、労働者が受け取るのは、通常の世界からの課題ではない。一つひとつの動作まで、技術的対象によって精密に指令されているのだ。砲弾の荷下ろしと装填、火薬の荷下ろしと装填、砲架の加圧といった一連の工程を見れば、どの段階でも、労働者の身体の動きが厳密に指定されていることがわかる。そのため、あらゆる運動において身体が対象として扱われる。このとき労働者は、作業に用いる物を使って、通常の世界から与えられた何らかの課題を果たしているのではない。目的に向けて一連の動作をこなすだけでなく、身体の動きの正確さにも、つねに注意を払わなければならないのだ。だが、作業指令を果たすために、そこまでの正確さが必要なわけではない。それでも労働者は、対象化された外部空間のなかで、自分の身体の各部位がどこにあるかに注意し、それぞれを正確な軌道に沿って動かしたり、静止させたりしようと努めなければならない。

こうして失われるのは、人と、作業で扱う物とのあいだの指示連関である。その人は、技術的対象の指令に従って、自分の身体を対象と見なすことしかできなくなる。このとき技術的対象は自律を果たす。それはもはや、手許的なあり方で作業に用いられる物でも、事物的に存在する対象でもない。指示連関によって周囲世界と結びつき、世界に働きかける力を実現する――もともと人間が占めていたこの位置に、技術的対象そのものが立つのである。ここで世界内部的な存在の地位を得るのは技術的対象であり、人間はその義肢にすぎない(あるいは仮足と言ってもいい。「人間の発明」という言葉にある、発明する側とされる側という二つの意味が理解できないのなら)。

赤い操作装置の前に立つ、金色の装束の人物

ひょっとすると私たちは、集立(ゲシュテル)、すなわち存在を集める技術について、このようないっそう悲観的な意味で語っているのかもしれない。実存と世界内存在の水準にとどまらず、社会制度の水準へと目を移せば、この状況は、あの架空の街をシステム論の視点から見る道を開く。この角度から見てはじめて、全体主義がなぜ、運動という性質だけでその体制を機械のように動かしつづけられるのかが理解できる。言い換えれば、社会システムを動かす力にも、その境界にも、このような高度の自律性がある。それは経験的な水準だけのものではなく、現象という意味でも全体的な自律なのである(局所的であることに対して全体的と言っているのであって、内外の隔てがなくなるという意味ではない。ルーマンも「世界社会」と「環境」の共存を、このように論じている)。ただ、ルーマンの視野では、個人はなお世界システムの構成要因である。それに対して、『大砲の街』という誇張された架空の状況では、個人は技術的対象の義肢にすぎない。

時計の付いたベッドで上体を起こす子ども

巨砲の基部が作動する様子には、『大砲の街』の住民の生を包む空気が現れている。この視点から見ると、社会全体が、システム論でいう規範の失調した状態にすっかり陥っている。現実の全体主義になお功利性や指導者の意志といった要素が残っているなら、生活世界という背景も、日常的な存在のあり方を支えることができる。だが『大砲の街』では、生活世界が隠れたまま姿を現さないために、社会全体の営みから社会統合の可能性がことごとく失われている。残されているのはシステム統合だけだ。それは、極端化した全体主義によって、個人を、手許性を失った盲目的な仕事へと投げ込む。こうして、外見上は維持できている社会も、実際には、ただ何か巨大なものの部品でしかなくなっている。

とりわけ注意したい細部が一つある。『大砲の街』では、子どもを描く場面に限って、例外的に生活世界という背景が浮かび上がる。明らかに、社会統合は、外在化された記憶などの痕跡が刻み込まれることによって達成される。そのため、通常であれば、個人が社会のなかで生きはじめたときから、社会統合は避けようもなく働きはじめる。だから、社会統合の可能性を完全に失った自律システムのなかでさえ、個人は子どもの時期には、なお社会統合の可能性を保っている。この子どもも、アイデンティティを形成していく過程で、手本となる人物への憧れをまだ抱いている。たとえ憧れの相手(あの正体のはっきりしない全体主義的指導者)が、このシステムのなかでいつでも取り替えられる、仮想の意志を演じる操り人形にすぎないとしても。

軍人の肖像の前で両腕を広げる子ども

しかし、現実の全体主義からは、歴史と日常の側面が決して失われない。生活世界が姿を隠しているからといって、生活世界が変質したことにはならない。まして、生活世界が退場したことにはならない。だからこそ、生活世界はつねに最後の救いの可能性でありつづけ、それによって実存のあり方を十全に保てるかもしれない。

この楽観は、『最臭兵器』で打ち砕かれるだろう。

軍人の肖像を見上げる子ども

編者注:

スティグレール、ハイデガー、アーレント。実はアーレントはあまり好きじゃない。Giは続きを書くって言ってたけど、もう何か月放置してる? 二桁?

本文終わり

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