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『輪るピングドラム』を解剖する一つの試み――そして私たちはいかにして何も成し遂げずに終わるのか

地下鉄サリン事件と日本社会の日常の危機を起点に、村上春樹、アルチュセール、ラカンを手がかりとして、『輪るピングドラム』における愛・家族・秩序の関係と、主体が陥る行き詰まりを解剖する。

著者: 一只非0的O翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

飛んで、飛んで、春、夏、秋、冬、
昼も、夜も、休むことなく、
華やかな羽の楽園鳥よ、
それは幸せな遍歴なのか、
それとも永遠の苦役なのか?
——戴望舒「楽園鳥」

序 終末が二十日の朝になるとき

村上春樹からこの文章を始めよう。1985年の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には、のちにアニメ作品(たとえば『少女終末旅行』)で広く流行する「終末後の日常系」の終末的想像力が、すでに成熟した姿で現れている。やがて『輪るピングドラム』を覆うことになる「地下鉄サリン事件」の影響も、それに先立つ村上作品に、すでに不吉な影を落としていた。1995年3月20日のこの惨事への直接の応答である『アンダーグラウンド』と『1Q84』は、ともに日本の世紀末に特有の陰鬱な気配を漂わせている。

村上の作風はこの惨事を転機として、見過ごせない変化を遂げた。本人も1995年の二つの惨事1を、「『これを境に日本人のイデオロギーは一変した』と言っても過言ではない重大な出来事だ。一対のカタストロフィーとして、私たちの精神史を語るうえで無視できない、大きな道標として残っていく可能性がある」2と考えている。この言葉に応えるかのように、かなり「ポストモダン」な作風を持つ幾原邦彦でさえ、この「近代性」の惨事から逃れてはいない。もちろん、幾原作品を単なるポストモダンな記号の寄せ集めとみなすのは、まったくの誤りだ。『輪るピングドラム』は、紛れもなく幾原がそれを省察した産物なのだ。

赤い空間に繰り返し現れる「95」のイメージ

したがって、「地下鉄サリン事件」とその日本社会への影響を振り返ると、要点は二つに尽きる。①「世界の終末はありえない」という思潮の持続、そして、終末が来ないからこそ突きつけられた②日常生活の脆さの露呈である。①については、宇野常寛の議論のなかに、1970年代以来の、「世界の終末」など訪れないという悲観的な態度をすでに見て取ることができる。ついにこれほど破壊的な事件が起きても、翌日にはいつもどおり太陽が昇った。地下鉄サリン事件も、その首謀者たちも、やはり世界の終末をもたらさなかった。だが同時に、無数の人々の規則正しい暮らしは、これによって砕け散った。こうして日常生活のきわめて脆い一面が、すべての人の前にさらされたのである。生活はいつ崩壊してもおかしくない。それでも世界は、そしてあなたは、存在しつづける。だから日本社会にとって、「地下鉄サリン事件」は二つの危機をなしていた。一つは生命の危機、もう一つは「実存の危機」である。

この惨事をくどいほど語るのは、「地下鉄サリン事件」が日本の近代社会にとって巨大な傷口、すなわち「トラウマ」であり、幾原邦彦が『輪るピングドラム』で向き合おうとするのもまさにこの傷なのだと、読者に見てほしいからである。『ピングドラム』のテクストそのものへ戻る前に、肝に銘じておかなければならない。二十日の朝という「世界の終末」をくぐり抜けた後期近代の国で、まぎれもなく最も「前近代的」な話題である「愛」を語ることは、遠い歴史を語ることでもある。「愛」こそ、「ピングドラム」というシニフィアンに込められた深い意味であり、『輪るピングドラム』が最後には自らの悪循環に陥る理由でもある。

壱 幾原邦彦と押井守の日常

『輪るピングドラム』に本格的に踏み込む前に、一見、物語とは関係のない角度から眺めてみたい。幾原邦彦と押井守を並べてみれば、そこには疑いなく奇妙な呼応が生まれる。

『少女革命ウテナ』の結末では、ウテナが鳳暁生に挑むものの敗れ、学園は平穏を取り戻す。だがアンシーは鳳暁生のもとを去り、ひとり世界の果てへと歩み出す。
『ユリ熊嵐』の結末では、紅羽と銀子が断絶の壁を破り、約束のキスを交わして、クマリアに現世の外へ連れ出される。名もない女子生徒が、捨てられたこのみを見つける。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』の結末では、優一が勝てないと知りながら「ティーチャ」に挑み、命を落とす。残された水素は、優一の新しいクローンに微笑みを向ける。
——魚板「魔法昔話の形態とACGサブカルチャーの創作への応用――『昔話の形態学』と『魔法昔話の歴史的根源』の読書ノート」

顔の前に剣を掲げるウテナと、世界を革命する力を求める字幕

哲学について少しでも常識があれば、この水準で幾原と押井が描いているのは、いずれもカミュの『シーシュポスの神話』に登場するシーシュポスにほかならないとわかるはずだ。シーシュポスの存在は本質に先立ち、その本質はまた存在を超える(事実、実存主義の思潮は日本のある世代の知識人たちに甚大な影響を与えた)。こうした実存の問題を通じて、幾原と押井は、自分たちの生きる日常生活が耐えがたいものだと気づいたのである。

日常というのは、重く湿っていて、息がしづらく、優しくゆっくりと首を絞められるような苦しみのことだ。どの時代でも、たぶん若者には日常生活が耐えられない。こんな日常が一生続くのかと思うと、気が狂いそうになる。
——押井守3

だが、ここで『輪るピングドラム』に戻れば、明らかな違いが見えてくる。冠葉、晶馬、そして妹の陽毬は、日常生活の喜びを味わっているのではないか? それどころか、これほど命を賭して運命に抗うのも4、日常生活を守るためではないか?

台所に置かれた花柄の鍋

中国語字幕:つまり、リンゴは愛のために身を捧げる者への褒美なのだ。

もちろん、これは語りの仕掛けであり、その要は「日常生活」そのものにある。三兄妹が守りたい「日常生活」は、家、愛、温かな暮らしを指し示すシニフィアンだ。だが全体を見渡せば、『輪るピングドラム』の本当の日常とは、こどもブロイラー、平面的な姿で繰り返し現れる通行人たち、そして決して公正ではない「作者」によって構成された、反復と苦悶にほかならない。この意味で、物語が徐々に展開していく過程は、私たちが日常生活のトラウマ的な核へと近づいていく過程でもある。物語全体の鍵である「愛」は、ここでもまた「縫合」の役割を果たす。冠葉は「愛」によって、暗く抑圧的な生活の本来の姿を覆い隠そうとするが、最後には失敗する。そこで私たちは「日常」の完全な解体を目にする。ちょうど『ブルーベルベット(Blue Velvet)』で見たように、カメラが芝生をくぐり抜けると、地中で蠢く汚らしい生命があらわになる。押井守が語ったのもこのことだ。中産階級とプロレタリアートの日常生活は、決して美しいものではない。

弐 秩序の暴力的な次元

前節を受けて、ここで一つ、皮肉な事実を挙げよう。『輪るピングドラム』の物語で、三兄妹しかいないこの家族が築かれる端緒となったのは、「リンゴ」の交換だった。注意してほしい。それは無私の献身ではなく、そこにはこういう含みがある。私の「リンゴ」をあなたに捧げる。あなたは生き延びて、私を愛さなければならない。私たちは取引を通じて「愛」を手に入れる。「ブルジョアジーは、家族関係を覆っていた情愛に満ちたヴェールを剥ぎ取り、この関係を純粋な金銭関係に変えてしまった」5。ならば、先ほど述べた「愛の失敗」も、この論理によってこそ必然になるのではないか。裂け目を縫い合わせるのが、ほかならぬ裂け目そのものなのだ。後期近代にあっては、資本の外にあるものなど、もはや何一つ成立しえない。

そして、すでにイデオロギーの次元に触れたのだから、もう一つの、さらに猥褻な装置へと目を向けよう。こどもブロイラーである。この機械を別の仕方で描写することもできるだろう。あの真っ暗な穴の奥にどんな装置があるのか、私たちにはまったく見えない。わかるのは、父親6が「まだ形をなしていない人間」を、この底なしの穴へ送り込むことだけだ。そこからほとんど滴り落ちるように(あるいは噴き出すように)出てきた残骸は、画面の中では「美しい肢体をさらすように横たわり」、幾原のカメラのもとで、不安をかき立てる美しさを帯びている。

こどもブロイラーのベルトコンベアを流れる子どもたち

この機械は、その破壊性と、かつての「脱出者」全員に一生つきまとう影響からして、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の生産ラインと同じ仕組みではないか。アルチュセールのいう(強制的な性格を隠す必要さえない)「国家のイデオロギー諸装置(Ideological State Apparatuses)」の一つではないか。一方では、粉砕された子どもたちが「透明」になり、「自発的に」自分を社会という生存の機械に組み込んでいく。他方では、この機械から逃れた子どもたちが、「愛」への渇望と、「愛」を失うことへの恐怖のなかで一生を送る。多蕗と陽毬が、奇妙な呼応関係をなしているのも偶然ではない。二人が生きつづけられるのは、「愛」を通じてだけなのだ7。

抱き合う二人の周囲に飛び散る破片

ありきたりな読み方を当てはめれば、ここでの「愛」は、主体性を脅かすイデオロギーに対抗する手段だということになる。『ユリ熊嵐』にもよく合う読みだ。しかし、私たちは指摘せずにはいられない。ここでも「愛」は、強制される前提条件に変わっているのではないか? 「愛」への絶対的な要求、つまり、愛さなければならず、愛されなければならないという要求もまた、イデオロギー装置が作動した結果ではないのか。もちろん、このイデオロギー装置の名は、もうはっきりしている。「日本」だ。

参 メビウスの帯の両面

言うまでもなく、メビウスの帯に両面はない。『ブルーベルベット』のあの芝生の生態系を、地表と地中に切り分けることはできない。同じように、日本社会にもいわゆる「表/裏」の区別はない。ここでもう一度、村上春樹に頼ろう。『アンダーグラウンド』と『1Q84』に向き合うなかで、村上は繰り返し、「開かれた物語」という理念を強調している。すなわち、「普通の人々=善/地下鉄サリン事件の首謀者=悪」という二項対立的な語りに反対し、双方の善悪は一つにつながっていると指摘するのである。それは『アンダーグラウンド』の「はじめに」8に、とりわけはっきりと現れている。

きわめて不幸なことに、地下鉄サリン事件に遭った純然たる「被害者」は、事件そのものによる傷や痛みに耐えるだけでなく、あの冷酷な「二次災害」(言い換えれば、私たちの周りのいたるところにある、普通の社会が生み出す暴力)まで受けなければならない。なぜなのか。周囲の誰もそれを止められないのは、なぜなのか。
やがて私は、こう考えるようになった。あの気の毒な若い会社員が受けた、二重の激しい暴力について……彼には、二つの暴力をこちら側とあちら側に分けることはできない。私自身、考えれば考えるほど、両者は同じ性質のものだと思えた。目に見える姿は確かに違うが、どちらも地下の同じ根から生えてきたのだ。
——村上春樹『アンダーグラウンド』

同じように、村上が林泰男9に同情を寄せるとき、彼はある水準で、この迷える子どもをもう一度受け入れてもいる。『1Q84』では、それがひときわ明瞭に示される。誰も本当には憎まれていない。こうして、暴力の面から見ても「優しさ」の面から見ても、日本全体に一種の調和が成り立つ。殺人者でさえ、道に迷った善人にすぎず、すべての人は愛されている。ただし、「すべての人は愛されている」という命題は、同時にこういうことでもある10。「愛されていないものは人間ではない」。

だからこそ、こどもブロイラーは「すべての人は愛されている」という掟の執行者となる。この機械が、愛されていない「人間」を殺す役目を担うことで、残った者はおのずと、みな愛によって生きていることになる。私たちは「人間である」資格を失わないために、「優しく」ならなければならず、命を惜しまずに「愛し」、「愛され」なければならない。これは、運命への抵抗について注で触れた「金か命か」の選択4へ戻ってきたということではないか。ラカンはこの選択によって、私たちが〈父の名〉に同一化する過程を説明した。その説明では、私たちは想像的ファルスになることを断念し、象徴的ファルスを受け入れなければならない。それが「主体」になるための必要条件であり、ここで私たちが出会うのも、まったく同じ状況ではないか。冠葉は想像的な日常を選び、秩序に抗う者として象徴秩序を拒んだ(愛されながら人間にはならずにいようとすることは、象徴的権威に対する最大の挑戦にほかならない)。その果てには、消滅しかありえない。逆に陽毬は、想像的な家族関係を手放し(最後には記憶を失った)、象徴秩序のもとで生き残る許可を得た。

手紙を読み、涙を流す陽毬

物語の結末で、誰もが再び互いを愛するようになっても、画面の外にはあのこどもブロイラーが存在しつづけ、秩序に抗う力もまた秩序の内部で醸成されつづけている。実際には何も変わっていない。変わったのはただ一つ、冠葉と晶馬の犠牲によって、「愛」による縫合の失敗がもう一度覆い隠されたことだけだ。もちろん、この傷はまだ存在している。最後のあの紙片は、象徴秩序を嘲笑っているのではないか。イデオロギーの幻想全体を突き破らないかぎり、この傷は幽霊のように、いつまでも陽毬と、その背後にある秩序につきまとうだろう。

肆 はじめから失敗は決まっていた

認めるべきだろう。『輪るピングドラム』という物語の最大の難点は、「あまりに細切れで、意味に触れようとして失敗した」ことではない。イデオロギーに近づきすぎていることなのだ。そのため、日本のイデオロギー全体の狂った構造も、物語がその幻想に向ける態度も、物語そのものに、余すところなく露呈している。ここで、アルチュセールが「『ピッコロ』、ベルトラッチーとブレヒト」で読み解いた『われらのミラノ』は、まさに『輪るピングドラム』と対照をなす。

やがて舞台から人がいなくなり、悲劇が再び現れる。ニーナは宿泊所で眠っている。父は投獄される前に、最後の面会にやって来る。ニーナのために、その貞操のために、父は人を殺した。少なくともニーナには、それはわかっている……突然、すべてが逆転する。彼女は胸いっぱいの恨みを父にぶつける。さまざまな嘘と幻想を吹き込んだ父を憎み、その作り話の神話のために死のうとする父を憎む。自分は、いざとなれば一人ででも逃げるのだから。この暗く貧しい世界を去り、享楽と金にまみれた別の世界へ身を投じるのだから。トガッソは正しかった。彼女は必要な代価を払うだろう。身を売ってもかまわない。だが彼女は、別の世界、自由と真実の世界で生きるだろう。汽笛が鳴る。父は娘を抱きしめ、疲れた体を引きずって、静かに去っていく。汽笛が長く鳴り響くなか、ニーナは胸を張り、朝日を迎えて歩み去った。
——アルチュセール「『ピッコロ』、ベルトラッチーとブレヒト」11

『われらのミラノ』の最後で、イデオロギーの幻想から出ていくニーナは、もう一人の天上ウテナ、もう一人の紅羽(あるいは銀子)ではないか。ジジェクによるアルチュセールの再解釈で現れるのは、「人間」ではなく「主体」だ。それは呼びかけの結果としてではなく、イデオロギーが機能しなくなるところに現れる。逆に、『輪るピングドラム』の冠葉は、ニーナの父の役を演じているのではないか。だが物語が終わりに近づき、幾原邦彦がベルトラッチーの第二幕から第三幕へ進む分岐点、つまり娘が父の幻想と決裂するかどうかの分かれ目に立ったとき、幾原は最後の一歩を踏み出さなかった。ニーナの役を担うはずだった陽毬は、退くことを選んだ。それどころか、冠葉を再び秩序のなかへ連れ戻そうとさえした。彼女は「主体」になるのを断念することで、「人間」になろうとしたのだ。

ここではっきりと感じられるのは、幾原が向き合う主題が、より閉じた「学園」ではなく「日本」になったとき、その態度から揺るぎなさが失われたということだ。なぜなら、冠葉がもう一人のウテナになれば、打ち砕かれるのは「日本」ではないか? 太宰治が描いた、「人間である」資格を捨てた葉蔵とは違い、家族全体を支える「男」である冠葉12は、幻想と秩序を与える者として、「人間」にならずにいることを許されない。こうして『輪るピングドラム』最大の亀裂は、「表/裏」をつなぐ者、冠葉の身に現れる。

冠葉はこの家族を守り、「愛」の秩序を守ろうとする。同時に、社会という機械全体の暴力的な面を憎み、破壊によって社会を作り直そうとする。だが【弐】と【参】で述べたとおり、「愛」と「憎しみ」は同じものにすぎず、この家族の働きも社会全体の働きと同じ構造を持っている。彼が守るものと、壊したいものは、まぎれもなく同じものなのだ。彼は「辱められた父」にならざるをえない。陽毬の目に映る美しい幻想を保つために、彼も、この家族も、消えなければならない。

『少女革命ウテナ』の天空の決闘場へ延びる黒い螺旋階段

幾原邦彦の行き詰まりも、ここで明らかになる。一つの物語を成立させるために、そのなかで日本の秩序を打ち破り、日本の秩序を称揚しなければならない。これは疑いなく逆説だ。だから、物語全体を崩壊させずに済む唯一の方法は、主人公が「運命」に阻まれ、何も成し遂げずに終わるようにすることだ。物語はひと巡りし、始まりと終わりの日常をつなぎ合わせる。まさにメビウスの帯ではないか。あの紙片と、Penguin Forceの結末をめぐる歯切れの悪さも、【壱】で述べた、亀裂はそっくり残っているという判断の証拠ではないか。

物語の最後に冠葉と晶馬の再生を見るとき、私たちは『輪るピングドラム』における幾原最大の失敗も見ている。『少女革命ウテナ』と『ユリ熊嵐』の結末にはあった唯物論的な空間が、ここにはない。それは、物語には、この幻想の外に何もないと、幾原が認めたことにほかならない。抵抗の失敗が、逆に美しい結末として描かれるのだ。だから、ベルトラッチーが弁証法のない時間を通じて、悲劇の構造のなかに「遅れてやって来る」弁証法を成立させたのだとすれば、『輪るピングドラム』の幾原邦彦は、弁証法を不器用に模倣することで、結局そこから弁証法を抜き取ることしかできなかったのである。

三兄妹がかつて暮らした家の前を歩く二人の少年

中国語字幕:でも、死んだらすべて終わりではないか。

伍 一つ、あるいは二つのメロドラマ

「『ピッコロ』、ベルトラッチーとブレヒト」でアルチュセールが指摘したもう一つの点は、『われらのミラノ』が示す、ブレヒト的な意味での「異化効果」である。父との決裂によってニーナは舞台を去り、観客も、生涯をかけて幻想を築いてきた父に、もはや全面的には同一化できなくなる。そして、悲劇と並行して流れる「緩慢な」時間が、観客の筋への没入を根底から妨げ、演劇そのものの形式について考えざるをえなくする。『輪るピングドラム』にも、これと似た構造が見られる。ベルトラッチーが提示した「二つの舞台」が、ここでは巧妙にも同時に進行するのである。そこで、主要人物のほとんどをひとまず脇へ置き、もう一つの水準にいる主役、「ペンギン」そのものに目を向けなければならない。

店の前に立つ晶馬とペンギン

ベルトラッチーの戯曲では、「困窮のなかでどうにか命をつなぐ貧民たち、極貧と不運にあえぐ哀れな連中」(要するに、ルンペンプロレタリアートの群れ)が、何を目指すでもなく緩慢な時を過ごす。その姿が、霧に覆われた13イタリアの腐敗をあらわにする。これに対し、幾原邦彦のペンギンたち、主人の言いつけに従うこの道化の群れは、逆に主人たちの滑稽さをあらわにする。ペンギンたちは、まぎれもなく主人たちの下手な物真似をし、その欲望を増幅して見せている。初めて登場したときから、ペンギンは(ランプの魔人のように)晶馬の望みを次々とかなえていた。二羽のペンギンが荻野目苹果を覗き見る場面にも、同じ論理が働いている。だが、こうした一貫した対応関係は、逆に、主たる舞台の登場人物たちを動かす論理も示している。「写真」に惹かれる1号と、その好みに合わせようとするエスメラルダは、夏芽兄妹の関係の行き詰まりそのものではないか。あるいは、無意味な動作を繰り返す2号は、どうすることもできない晶馬の姿そのものではないか。

雑誌を抱えるペンギン

こうして、この動物たちと唯一言葉を交わせる眞悧にも、新たな解釈の次元が開かれる。幽霊として陽毬の夢に現れる眞悧は、動物化した無意識の語りを代表し14、ひたすら破壊を求める。まさに、夢のなかでの抑圧されたものの回帰である。だから眞悧が日常生活の外で主人公たちを結びつけるとき、人物たちとペンギンたちの二つの舞台は重なり、私たちも劇中の人物も、この幻想の滑稽さに向き合わざるをえなくなる。

陸 私たちはいかにして何も成し遂げずに終わるのか

「徴候的読解」という視点を選ぶなら、『輪るピングドラム』は間違いなく、さらに多くの問題を露呈するだろう。あの凡庸な物語「そのもの」にも問題はある。だが、本当の難点は物語の外にあるイデオロギー、すなわち「人間である」という嘘で、物語のなかの全員を縛りつけるイデオロギーにある。幾原邦彦が私たちに与える最大の示唆は(もちろん、本人の意図とはかぎらない)、まさに『輪るピングドラム』を裏返したところにある。「愛」にしがみつくなら、私たちも結局、何も成し遂げずに終わるしかない。

ペンギン型の台に立つプリンセス・オブ・ザ・クリスタル

中国語字幕:告げよう、必ずや何も成し遂げずに終わるおまえたちに。

忘れてはならない。『マトリックス』が本当に始まるのは、「赤い薬」を飲んだあとだ。ネオは機械のなかで目覚め、あの「現実」を目にする。そして、それから一生、体に機械の接続口を残したまま生きることになる。私たちは美しい夢から目覚め、夢が残した裂け目と傷に向き合わなければならない。そこから初めて「主体」が生まれ、物語が本当に始まるのだ。

楽園から来たのか、
それとも楽園へ行くのか?
華やかな羽の楽園鳥よ、
果てしない青空のなかで
おまえも旅路を寂しく思うのか?

もしも楽園から来たのなら
私たちに話してくれないか、
華やかな羽の楽園鳥よ、
アダムとイヴが追われてから、
あの天上の庭は、どれほど荒れ果ててしまったのか?
——戴望舒「楽園鳥」

参考文献

  1. 「震災後の想像力――2010年代の日本のオタク文化」、宇野常寛〔日本〕。〔題名は中国語題からの訳〕
  2. 『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』、スラヴォイ・ジジェク〔スロヴェニア〕。15
  3. 『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』、スラヴォイ・ジジェク〔スロヴェニア〕。
  4. 「『ピッコロ』、ベルトラッチーとブレヒト」、アルチュセール〔フランス〕。
本文終わり
注15

注釈

  1. もう一つの惨事は、同年1月17日の阪神・淡路大震災である。 ↑

  2. 村上春樹『アンダーグラウンド』の後記「目じるしのない悪夢」より。注目すべきことに、精神分析の意味では、「悪夢(nightmare)」とは、まさに幻想が現実になった状態を指す。1980年代の日本の若者たちは、世界の終末への幻想を抱いていなかっただろうか? ↑

  3. NHKのドキュメンタリー番組「映画監督 押井守 妄想を形にする~新作密着ドキュメント~」での、押井守の発言の一節。 ↑

  4. 私はこれを、ラカンの「金か命か」という問題の変形と考えたい。金を選べば、命も金も失う。同じように、運命に抗えば、命を失うだけでなく、最後の運命、つまり「死」からも逃れられない。 ↑ ↑

  5. マルクス/エンゲルス『共産党宣言』第一章。 ↑

  6. もちろん、ここでの「父親」は必ずしも生物学的な父親ではなく、〈父の名〉である。ある意味では、あの残酷な秩序の別名なのだ。 ↑

  7. 陽毬については言うまでもないが、多蕗の愛への渇望は典型的な否認である。彼において、「わかっている……、それでも……」という公式は、「わかっている(桃果は死んだ/三兄妹はもう許した/復讐は意味を失った)、それでも(私は復讐する)」となる。 ↑

  8. 村上春樹は同書で、『アンダーグラウンド』を執筆するきっかけの一つとして、一通の手紙を挙げている。

    手紙を書いたのは、地下鉄サリン事件のために夫が職を失った女性だった。夫は会社への通勤途中、不幸にも地下鉄サリン事件に遭い、倒れて病院に運ばれた。数日後には退院できたものの、後遺症が残り、それまでどおりに働けなくなった。はじめのうちはよかったが、しばらくすると上司や同僚があれこれ言い始めた。夫はその冷たい職場に耐えきれず、辞めて家に戻った。実際には、ほとんど追い出されたのだった。
    ——村上春樹『アンダーグラウンド』

    ↑
  9. 地下鉄サリン事件の主犯の一人。 ↑

  10. これは単純な論理判断であり、二つの命題は互いに対偶の関係にある。 ↑

  11. 訳注:引用は原記事の中国語に従った。フランス語本文の該当箇所では、ニーナは「昼の光の中へ」出ていき、鳴っているのはサイレンである。第三幕の冒頭は夜明けとされているが、退場の一文自体には「朝日」とはない。霧と朝日を結びつける本稿の読みは、この中国語の表現を踏まえている。 ↑

  12. 『われらのミラノ』と『輪るピングドラム』を比べれば、この三人家族では、冠葉が父を、陽毬が娘を、晶馬が母を表していると容易にわかる。晶馬が陽毬にリンゴを分け与えたことも、まさに「彼女に命を与えた」ことなのだ。これで、晶馬がいつも何もできずにいる状況も十分に説明できる。少女は、自分が同一化した母親が「自己」をめぐる疑問に答えられないことに気づく。母自身も答えを持っていないからだ。晶馬がこの家族全体を支える土台について何も知らないのも、それと同じである。そこで少女は、父に同一化するようになる。 ↑

  13. この霧がイデオロギーの「幻想」を映しているのは明らかだ。同じく注目すべきことに、ニーナが去るときには、霧も朝日に取って代わられている。 ↑

  14. ここでもう一度、村上と呼応する。『アンダーグラウンド』と『1Q84』では、麻原だけが赦されていない。彼はもはや「人間」ではなく、ただの「動物」なのだ。 ↑

  15. 訳注:原記事はジジェクのみを挙げるが、本書はジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェクの共著。 ↑

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