
関心:アニメ・漫画・ゲーム(ACG)の文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感しすぎる、周縁の観察者。
はじめに
動物は、人間が排除しようとする他者であり、同時に、人間が人間としての一貫性を保つための症候(symptom)でもある。情報化時代の文化が発展するなかで、互いに絡み合う二つの流れが、人間の動物に対するイメージを形づくってきた。一つは技術革新とメディアの多様化である。動物の表現は、絵巻や文字にとどまらず、写真、映画、アニメーションへと広がった。もう一つは、人間と動物の関係をめぐる変化だ。支配と被支配を前提とするところから、両者の共生を論じるようになった。この変化は、とりわけエコロジー運動と新ダーウィニズム運動の展開とともに強調されてきた。人間は自らの動物としての一面に目を向け、人間とは異なる動物固有の知性に気づきはじめた。人間と動物の境界も、かつて考えられていたほど明確ではなくなった。こうした背景のもと、擬人化された動物とそのメディア上の表現が注目され、特定の時代の人間社会が抱える文化的な問題と結びつくようになった。
最近、日本の各テレビ局で放送され、中国にも紹介された漫画原作のアニメ『BEASTARS』が、アニメファンの支持を集めている。中国の著名な映画・ドラマのレビューサイト「豆瓣」では、9.3という高得点を獲得した。動物を擬人化する点はアメリカのアニメ映画『ズートピア』と同じで、物語の舞台も、肉食動物と草食動物が共存する社会である。この社会では、肉を食べる行為はすべて違法とされる。ただし『BEASTARS』には、日本の学園アニメの枠組みも残されている。主な舞台は公共の場や職場ではなく学校であり、主要な登場人物も社会人ではなく学生だ。物語は冒頭から、動物社会に潜む殺しの危険を露わにする。安全なはずの動物たちの学校で、肉食動物が草食動物の生徒を食べる「食殺」事件が起こるのだ。犯人は逃げ去り、動物たちは何の手がかりもつかめない。食殺事件は、従来の日本の学園物語がまとっていた産着を引き裂き、物語全体の暗い調子を決定づける。主人公レゴシ(北米のハイイロオオカミ)、演劇部副部長のルイ(アカシカ)、レゴシが思いを寄せるハル(ドワーフウサギ)らの関係の変化を通じて、犯人を捜す本筋が段階的に進んでいく。その一方で、さまざまな事件を経ながら、表面上は平和な動物社会の奥にある政治的な問題が探られていく。

ダナ・J・ハラウェイ著。題名は「種が出会うとき」の意。
『BEASTARS』の人気は、安定した作画、優れた編集と演出、起伏に富んだ展開、的確に描き込まれた人物像だけによるものではない。より重要なのは、動物を人間社会の隠喩とし、動物の本能を避けては通れない社会で、公正かつ合理的な秩序をどう築くかを論じている点だ。その問題は種だけでなく、ジェンダーや階級にも及ぶ。一般に、動物の擬人化は、動物に人間の社会的属性や感情を与えるものであり、依然として人間の価値観を軸に人物像をつくりあげる。そこでは本物の動物は画面にはおらず(absent)、代わりに「獣の毛皮をまとった人間」たちが現れる(Lundblad, 2009:496)。このような動物表象の背後には、なおも、ありきたりな人間中心主義(anthropocentrism)の言説が透けて見える。しかし同時に、動物を人間化し、それによって動物を排除する過程は、人間が動物に遭遇する過程でもある。生理的な条件に根ざした避けがたい食物連鎖を用いて人間社会を風刺するとき、作品は、人間が否応なく向き合わねばならない、自らの動物性(animality)をも示しているのだ。
一、動物性――『BEASTARS』の核心にある問題
『BEASTARS』の優れた点は、動物を手段に人間社会の問題を描くことではなく、動物の擬人化を通じて、人間の「動物性」を論じることにある。ここでいう動物性とは、動物が持つ何らかの属性ではない。人間が人間としての存在を歴史的に構築していくなかで、どうしても直面し、処理しなければならない、内なる獣性の要素を指す。この概念が目を向ける先は、具体的な動物福祉の向上ではなく、複雑な人間の歴史である(Lundblad, 2009:497)。そこから、人間と動物の関係を省察する足場が生まれる。
「動物性」は、近現代になって初めて現れた問題ではない。たとえば初期の精神分析はダーウィニズムと深く結びつき、人間の動物的本能を強調していた。文明は自然から生まれ、やがて自然に対立するものへと変わる。それは人間の進歩を意味すると同時に、本能の抑圧をも意味する。抑圧されたものを適切に解放するには、人間を動物から遠ざけすぎてはならないと考えられたのである(Bender, 2004:20)。そして1960年代には、デズモンド・モリスの『裸のサル』を象徴とする新ダーウィニズム(Neo-Darwinism)運動が、世界各地で盛んになった。人間の生物学的基盤が重視されるだけでなく、特定の社会行動や社会制度を構成する要素としても捉えられるようになり、広範な政治的影響を及ぼした。
だからこそ、近年の動物性をめぐる議論は、別の角度から、人間と自然の関係のいたるところに権力が作用していることを指摘する。人間は動物を超越する神の座から引きずり下ろされても、なお動物との差異をつくり続けている。進化論に基づく動物性研究は、人間の存続のために人間性と動物性をどう組織するかという目的論を依然として中心に据えている。しかも、この研究は動物を通じて人間を説明しながら、動物を対象とする科学の過程そのものにある偏見を問おうとはしない。ラトゥールはかつて、いわゆる近代性の問題とは、自然と社会、人間と非人間のあいだに、決して実現できない二項対立を打ち立てようとすることなのだと、憤然として述べた(Latour, 2010:34–37)。デリダは動物を主題とする論考で、さらにこう指摘する。人間の出現と社会化は、動物との差異をつくることだけでなく、野生動物の弱みを暴き、飼い慣らすことの上にも成り立っている。そしてそれが、人間の政治と社会化の基礎をなしているのだ(Derrida, 2008:96)。要するに、人間を構築する過程とは、動物との差異を絶えずつくり、境界を引く過程であり、人間と動物の境界や種の分類に基づいて生き物を振り分け、序列を築く過程でもある。人間の存在に避けがたく含まれる動物性をどう扱い、人間性から切り離すかは、統治の問題となる。動物性の抑圧と排除が、人間中心主義的な差別の基礎をなす。「動物性」に直面するとは、ある権力関係に直面し、その関係がほかの社会問題にまで及ぶさまにも直面することなのだ。
ベネットとロイルがデリダの動物観をまとめているように、動物という問いは、一頭一頭の動物の、代えのきかない単独性を考えるよう私たちを促し、そこから「他者」全体についての思考へと広がっていく。そのなかで、文学作品、とりわけ詩も重要な役割を果たす(Bennett & Royle, 2009:206)。『BEASTARS』は、この点でラディカルな姿勢を示す。まず、もともとは生態系の自然な移り変わりの一部である「食殺」を、未解決の殺人事件として描く。捕食者が獲物を食べるのは自然の法則にかなった行為とされるが、社会的な生の存続を重んじる、人間化された社会においてのみ、それは野蛮な行為となる。そして未解決の社会問題として、動物たちのアイデンティティに影を落とす。他方、人間の法や道徳の観点から「食殺」を理解することは、食物連鎖に基づく序列が働いていることを意味するだけではない。食殺の描写は、本質的には、人間社会の弱肉強食という血なまぐさい事実への風刺でもある。この作品の思考は、後期資本主義の終わりなき日常を前提にして、すでにあまねく広がった政治的問題を無力化するものではない。むしろ、トラウマとなる事件を生み出して、日常の背後にある序列の実態を暴き、草食動物が生きるうえでの地位を問う。公正な社会を信じる幻想は、肉食動物に絶えず低い立場に身を置き、権力を譲り渡すよう求め、差異を前提とする偽りの平等を実現しようとする。作品は、その幻想に覆い隠されていた他者を再び出現させる。それはまさしく、代議制民主主義に基づく現実の多元主義に対する、左翼からの嘲笑である。強靱な動物である主人公レゴシが、自らを律し、欲望を抑え込む姿は、この事態を個人の次元で引き受けたものだ。それは主人公の性格造形を深めると同時に、彼に自らを投影し、同一化する観客を、動物性をめぐる思考へと誘う。
他者は、肉食動物が草食動物にとって潜在的な脅威となるという構造に現れるだけではない。雌のドワーフウサギであるハルが卑賤なものとして排除されること、すなわちアブジェクシオン(abjection)にも、具体的に表れている。ドワーフウサギは草食動物のなかでもとりわけ弱小な動物だ。ハルは幼い頃から、自分では変えられない生物学的な条件のために、ほかの動物から過剰にいたわられてきた。大切に扱うべき存在と見なされながら、彼らが真摯に自分を見てくれていると感じたことはなかった。この疎外から抜け出すため、ハルは性を自分の手札とすることを覚え、雄の動物と次々に性的関係を持つことで、他者に真剣に向き合ってもらう感覚を得ようとした。だが、まさにそのために、ついには「ふしだらな女」と見なされ、誰からも避けられ、侮蔑と暴力にさらされる。「性」は思いがけず、動物社会の道徳的幻想を突き破る道具となり、同時に、アイデンティティを築くための道徳的侵犯であり、自らを貶める行為ともなった。肉食動物と草食動物の捕食関係が粗雑な道徳的規律によって覆い隠されるとき、性をめぐる権力関係のなかに、かえって欲望の淫らなはけ口が開かれる。他者をめぐる問題意識は、こうして動物の本能から、男女関係の権力構造へと向かう。ただし、この転回によってジェンダー抑圧が独立した問題として現れるわけではない。むしろ、動物性を通じて開かれた他者へのまなざしが、ジェンダーの問題にまで及ぶのである。
ポスト構造主義フェミニズムが注目するように、自然とジェンダーをめぐる思考は結びついている。自然は文明の構築過程で名づけられ、利用され、征服されるが、その過程は、自然界の原始的で混沌とした、非理性的な要素を排除することに基づいている。自然を文化の次元から捉えるなら、精神分析のエディプス神話は、文明と男性的論理の共謀を基礎づけるだけでなく、人間の原初的な女性性と動物性を忌まわしいものとして排除し、人間という存在を構築する。こうして排除されるアブジェクトとは、清潔さと自然の区別を曖昧にし、混じり合って判然としないものの一群である(Kristeva, 2018:5)。家父長的な儀礼は、アブジェクトを排除する進化の儀礼を通じて男女を分離し、男性による女性の支配を確かなものにする(罗婷, 2003:5)。動物性の問題に性的関係が関わることで、ハルは二重の序列に直面する。動物の序列関係の真相を知るだけでなく、自分がジェンダー構造のもとでも卑賤なものとされた主体としてつくられている事実を、受け入れざるをえなくなるのだ。ハルという人物は、その卑賤な位置に自らを重ねることで、動物性に直面するフェミニズムの実践への道を開く可能性を持っている。
『BEASTARS』が扱うのは、動物ではなく、人間の「他者」である。だからこそ、この物語には文化研究上の緊張が満ちている。ただし、同時に注意しなければならない。『BEASTARS』は、動物性が社会に与える脅威を観客にさらしたあと、その動物性をどう扱うかという問題にも向き合わざるをえない。そして、その扱い方はしばしば、テクストの背後に潜む無意識を露わにし、テクストが伝えようとする政治的批判に逆行するのである。
二、『BEASTARS』の人類学機械
「他者」の真実に直面すると同時に、外部の対象を解釈し直し、合理化する戦略も生まれる。人間と動物を区分する営みには、広く「人類学機械」が働いている。それは動物を識別し、排除することで、人間が自らの種について抱くアイデンティティを歴史的に構築していく。アガンベンによれば、「人類学機械」の作動は、まず内と外を分ける判断に基づく。人間は動物を構築することによって自らの境界を定めるため、動物性は人間という存在を支える構成要素となる。しかし同時に、人間としてのアイデンティティを確立するには、動物とのつながりを断ち切らなければならない。ここに政治的な例外状態、動物性に対する包摂的排除が生まれる(Agamben, 2019:45)。したがって人類学機械は、人間の動物性に対立するものではない。動物性をめぐる問題の内部でつねに作動し、禁止によって人間と動物の区分を定める機械なのだ。近現代の生物学の発展は、この人類学機械の作動を支えてきた。一方では「人間の動物化」を生み出し、動物と見なした人間を識別して外へ排除することで、敵や崇高な対象をつくろうとする。他方では、「動物の人間化」に人間の内的な支えを見いだし、人間中心の文化的地位を維持する(2019:46)。後者の過程は、動物を擬人化する文化作品に、重要な問いを突きつける。避けがたい動物性のなかに人間を識別するとき、動物性が社会問題と結びつき、乗り越えがたい障壁となるとき、「人類学機械」は動物を人間化する過程で、擬人化された動物に残る動物性を、いかに巧みに構築し、排除するのか。
だからこそ、私たちは「人類学機械」の枠組みに戻り、もう一度『BEASTARS』を考えなければならない。動物性にかかわる欲望を、もっぱら逸脱と規範化をめぐる社会統治の問題へと変えることで、作品は人々に気づきを与えたはずの設定を裏返してしまう。トラウマの傷を繕う政治的人道主義へと戻り、学園アニメの喜劇的幻想を再び築いてしまうのである。
(一)食欲から愛欲へ
食べることは生の欲動と結びつき、動物の生存と繁殖に欠かせない本能とされる。『BEASTARS』では、それが矛盾を生み出す鍵となる。本来自然界では草食動物を捕らえて生きている肉食動物が、社会の法に従う従順な身体となり、自らの本性を抑圧しているのだ。この環境を所与のものとする作品において、社会契約の起源を問い直すことはさほど重要ではない。重要なのは、その契約がすでに歴史を超えた構造となり、家父長的な文明社会の効果をもたらしていることだ。そこにあるのは、動物性の欲動(drive)を文明社会の欲望(desire)へと変える、去勢の逆説である。
この超歴史的な変換は、動物たちの食事が美的に整えられていることにも表れる。人工物という文化の痕跡が動物社会の食習慣を支配しており、現実界(the Truth)につながる前ファルス的対象――ばらばらになった動物の死体――は、そこにはない。代わりにあるのは、人間社会にしか現れない、加熱調理したものを食べるという食文化だ。ジジェクによるコカ・コーラの分析にも、似た構図が見られる(Zizek, 2012:118–119)。コカ・コーラは、その背後にあるアメリカ精神を部分的に体現するものとして、適度な美的距離のもとで崇高なものになる。ひとたびその距離が失われれば、コカ・コーラは恐ろしいアブジェクトと化す。現実の肉は、肉そのものを超えた、肉食動物にまつわる恐ろしい残余とともに宙づりにされ、適度な美的距離を置かれることで、崇高な対象(Sublime Object)となる。つまり、象徴秩序(Symbolic Order)に登録された欲望の対象になるのだ。
したがって「食殺」事件の衝撃は、社会の倫理に背いて動物を殺すことそのものにとどまらない。動物性につながる原初的な行為としての「捕食」への恐怖も含まれている。前者の理解がなお合法と非合法を軸にし、欲望の実現と抑圧の悪循環を問題にするのに対し、後者は、前者のいう「残忍さ」が本当に指し示すものである。それはシニフィアンの内側に生じる、象徴化できない残余であり、前エディプス期につながるトラウマなのだ。
動物性の欲動と、人間社会で象徴化された欲望とをここで区別しておけば、主人公レゴシの感情の変化が、よりよく見えてくる。アニメ第1話、満月の夜。いつもおどおどして本能を抑えている大きなハイイロオオカミのレゴシは、ドワーフウサギのハルの匂いを嗅いだことで肉食動物の衝動に目覚め、狂ったように彼女を襲い、食べようとする。だがハルを押さえ込み、その腕に傷をつけたところで、不意に我に返る。彼はハルを逃がし、深い罪悪感に沈む。これが二人の、あまり愉快とはいえない最初の出会いだった。しかしそれ以来、レゴシはハルの姿と匂いを忘れられなくなり、種を越えた自らの情欲に気づくきっかけを得る。物語が進むにつれ、レゴシはハルへの愛欲と食欲を見分けられず、迷いに陥る。その混乱した欲望が初めて集中的に噴き出すのが、裏市のエピソードだ。レゴシと同級生たちは、肉食動物に肉を売る唯一の場所、裏市に迷い込む。内面化された道徳的命令に従い、レゴシは食欲に屈した仲間を非難する。そして肉の誘惑に抗おうと、命がけで逃げるかのように駆け出し、やがて裏市の門番、ゴウヒン(パンダ)に出会う。二人で食欲と愛欲について深く話し合うなかで、レゴシは動物の本能から自らの異性愛的な情欲を見分けようとしはじめる。

レゴシの独白。「俺の一部になってしまいそうなくらいだ…こんなに」。板垣巴留『BEASTARS』、ダ・ヴィンチWeb掲載の漫画画像より。
この流れには、レゴシの感情の構造的な転換が表れている。彼が真理へと向かう道は、二つの欲望の仕組みが衝突して生み出す裂け目に直面することにある。第一は、食欲の誘惑である。あらかじめ存在する言語が動物性を食欲へと変え、それを語り、捉えられるものにする。この仕組みを鮮やかに示すのが、アニメ第4話で欲望の行き詰まりが表れる舞台劇だ。ウサギの血を隠し持っていたビルと激しく殴り合うことで、演技が本物の争いになる。ここでレゴシが受け入れるのは、食欲の記号へと昇華(sublimation)された動物性である。言い表せないトラウマは、議論できる政治的問題へと変わる。裏市の存在は、この象徴化をさらに進める。裏市は、動物の死体とつながりながらも距離を保つ、魅惑的な肉をつくり出し、レゴシを、欲望と道徳的戒律との弁証法に引き込む。
第二は、同じく語ることができ、イメージとして捉えられる愛欲である。これは物語の学園ドラマとしての筋を組み立て、レゴシの異性愛の基本幻想をなす。ところが、食欲と愛欲は物語のなかで衝突し、幻想を横断する裂け目を生む1。捕食関係が最終的に行き着くのは、捕食者が獲物の固有性を消し去りながら消費すること、すなわち対象そのものを抹消する動物的衝動である。捕食関係において対象の死を突きつけられるとき、相手との距離を前提とする性的関係の幻想はついに崩れ去り、「性関係は存在しない」という命題の核心が指し示される。
だが、この転換のなかには、人類学機械が動物性のトラウマを「縫合」するさまも見える。レゴシがハルへの愛欲を率直に認めはじめると、食欲と愛欲という、絡み合い、衝突していた二つの欲望は、きれいに分けられる。アニメ第10話、ハルがシシ組にさらわれると、レゴシは再び彼女の匂いを捉えて戦闘本能を呼び覚ます。ただし今度の本能は、もはや動物の衝動にかかわるものではなく、恋愛幻想というフィルターを通して、間接的に現れる。その実現に、パンダのゴウヒンが果たした役割は大きい。裏市のエピソードでは、ゴウヒンは欲望の案内役として、窮地を抜け出すために自らの欲望を分けるようレゴシを促した。そして第10話でハルを救うべく乗り込む際には、レゴシの欲望の変換を見届ける証人となる。症候的読解に立つなら、この場面を一つの婚礼と見立ててみてはどうだろうか。息子であるレゴシは、「父」ゴウヒンに助けられ、見守られながら幾多の困難をくぐり抜け、ついに自らの欲望の代替物を見つける。ハルという名の妻を。一つの対象a(object a)を。動物性に直面する物語は、こうして恋愛シットコムへの転身を遂げた。要するに、食欲と愛欲をきれいに切り分け、食欲を和らげる出口として愛欲を置くことで、物語は両者の衝突が生み出す裂け目を避ける。動物性の問題は、処理可能な人間の欲望の問題へと縫い込まれ、社会秩序に従うか、背くかという、見かけの対立に変わってしまう。
画面上の異性愛幻想に、進歩的な意義がまったくないわけではない。それが予告する、種を越えた交わりの深さという点では、オオカミとウサギの交雑性が意味するのは、まさしく二人がそれぞれの生態圏を離れ、主体の脱領土化(deterritorialization)と再領土化(reterritorialization)を経ながら、新たな余剰の経験を生み続けるということだ。ドゥルーズとガタリは、蘭と蜂の関係をモデルにした。科学的な分類では、蘭と蜂は遠く隔たっている。しかし受粉という出来事のなかで、蘭は脱領土化によって花のしべに蜂を模倣させ、蜂の世界の一部に溶け込み、受粉後には受粉した蘭として再領土化する。蜂は脱領土化によって蘭の生殖器官の延長となり、蘭がつくる模像のなかで、蜂そのものへと再領土化する。両者それぞれの生は、等しい強度を持つこの循環のなかで絶えず生成し、循環をさらに先へと進める(Deleuze & Guattari, 2010)。オオカミとウサギの交雑は、動物社会の隔離に反抗するだけではない。それ自体が絶えず何かを生み出す脱領土化と再領土化の運動である。ある水準での相互模倣にとどまらず、そこには本当の成長もある。オオカミ(肉食動物)ともウサギ(草食動物)とも異なる、新たな種と社会秩序への生成変化(becoming)が生じるのだ。

ハラウェイは、こうした考え方を批判的に読んでいる。この生成はなおテクスト化され、具体的な場所に根ざしていない。彼らはテクストのなかで実際の動物を気にかけておらず、その記述は世俗を超越し、世俗への侮蔑さえ帯びているというのだ(Lundblad, 2009:497)。具体的な場所を離れて生成を語ることは、その直接の帰結として、人類学機械が社会のなかで働くことを見落とさせる。アニメ第10話と第11話では、ライオンに食べられそうになったハルが、卑賤なものとされた者としての主体意識に目覚め、パラノイア的な怒りによってライオンがまとう文明の衣を引き裂く。それでも結局、救いはレゴシに依存している。そこには英雄が美女を救うという伝統的な物語の核が残っており、しかも、その核は揺るぎない生物学的基盤によって裏づけられている。そもそも一羽のウサギに、屈強で老獪なライオンの相手はできない。たくましいオオカミの助けがあるのは、理にかなって見える。だが、その疑いようのなさにこそ、中立ではない男性性の幻想が表れる。動物性が弱肉強食の関係を露わにしたとき、男性の獰猛な狩猟者としての気質は、生物学的な拠り所を得ると同時に、原則に沿った自制も保つ。それが、ハラウェイの分析する「テディベア家父長制」の魅力をなす(Haraway, 2017:50–134)。有名な映画『ターザン』にも、この構図は現れている。一方でターザンは、動物化された人間、すなわち野蛮人であり、人間と動物の関係の曖昧さをその身に体現することで、人間社会に恐怖をもたらす。他方で彼は、男性に対する文明社会の抑圧や去勢から部分的に逃れた理想の男性でもある。強く、勇敢で、積極的で、ヒロインのジェーンにどこまでも忠実な彼は、人間の文明に再び認められる。恐ろしい動物性は、男性性神話の人類学機械によって収容され、社会に登録され、その内部で許容される野蛮の汚点へと変わる。
漫画版『BEASTARS』には、異なる種のあいだに生まれた者たちが直面する、心理的・社会的な問題も描かれている。たとえば、自殺したレゴシの母はハイイロオオカミとコモドオオトカゲの混血であり、殺人鬼メロンはチーターとガゼルの混血だ。メロンもまた捕食者と被捕食者の交雑によって生まれた子どもであり、オオカミとウサギの未来を映し出す鏡像となる。だが残念ながら、彼らは主人公が経験するトラウマや厄介事として、結局はオオカミとウサギの関係に新しい可能性を開くための踏み台となってしまう。
(二)内在的侵犯の政治
切り分けられた愛欲を社会問題の解決への道とすることで、オオカミとウサギの恋は、動物性のトラウマ的な要素をひそかに消し去る。そして私たちの思考を、人間の政治的闘争へと引き戻す。同時に、問題の重心も、動物性に向かって開かれることから、人類学機械の内部にある方策同士の対立へと移る。レゴシが動物性の出口を愛欲に求めるのに対し、ルイが目指すのは、動物社会の権力の頂点――ビースター――になることだ。彼は公的権力の内側で人道主義的な統治を実現し、人間の政治の発想によって、動物社会の問題の出口を探ろうとする。
ルイ(アカシカ)は、優れた能力と高い自尊心を持つ草食動物で、多くの生徒から敬愛されている。しかしその一方で、裏市で売られていたという、人知れぬ過去を抱えている。この経験によって彼は、表面上は平和な動物社会の底に不穏な流れがあることを、痛いほど知っている。幼少期の傷を慎重に隠す一方で、ビースターになれば社会を変えられるという、養父を通じて示された社会の約束を受け入れた。政治的な理想を成し遂げるため、孤高を保ちながら勤勉に働き、生徒たちのあいだで威信を築き、それを守ろうとする。愛するハルがシシ組にさらわれたあとでさえ、苦痛をこらえて彼女を手放し、私情を犠牲にして大義を成し遂げようとした。そもそもルイが今の地位を得る道が開かれたのは、既存の動物社会が草食動物を優遇し、権力を再配分しているからである。社会の暗部を経験したルイは、そのことをよく理解している。だから大勢から注目され、賞賛されても自制を失わず、社会を変える理想を貫く。その一方で、レゴシのうわべだけの友好的な態度をひどく嫌悪する。レゴシのその振る舞いこそが、動物社会の真相を覆い隠そうとしているからだ。
人物の当初の設定を見ると、レゴシは庶民の精神を代表し、抑圧された欲望の問題に取り組み、その延長で政治にも足を踏み入れる。これに対してルイは、法を人格化した存在として、最初から政治のただなかで活躍する人物だ。二人は生き方がまるで異なり、人格の面でも対立しているが、欲望の構造はほぼ同じである。前者は、カント的な身体だ。ハルへの欲望に直面するまでは、つねに「弱さを見せる」ことを道徳的義務であり、無条件の命令と見なす。肉食動物が自らを厳しく抑え込む「弱さを見せる」という振る舞いから、自己を安定させる「享楽」を得るのだ。そこには超自我(super-ego)の猥褻な側面が露呈している(Zizek, 2012:95–96)。後者は、幼少期のトラウマへの反応として、父が示した成功への道を信じることを選ぶ。ビースターという地位を、宗教のように無条件で信仰することによって、彼もまた強迫神経症的な構造へと向かう。勤勉と倹約に励み、他者を抑え込むのは、自らが享楽を味わうことを避けるためだ(Zizek, 2006:107注)。養父が体現する社会と法を信仰することで、ルイは偽りの能動性へと入り込み、絶え間ない自己肯定の行動によって、沈黙の恐ろしい瞬間を避け続ける(2006:143)。
物語の進展は、強すぎる超自我から適度な距離を取る道を、二人に与える。その変化の鍵となるのは、シシ組がハルをさらう一連の出来事のなかで起こる、二つの「違反」だ。レゴシは種を越えた恋を禁じる掟に背き、異性愛を通じて、動物の衝動と結びついた自己抑圧的な超自我の幻想に出口を与える。その後は、肉食動物としてではなく、一人の男としてハルをよりよく守るために、また食殺事件の真犯人と対決する準備のために、パンダのゴウヒンに弟子入りして武術を学ぶ。自らの攻撃性を、人間社会が認める格闘技術へと適切に変換し、食殺事件の終結後には、いわゆる「本当の強さの意味」に目覚め、「人間」になる道を歩みはじめる。一方のルイは、ついには法の化身である市長の忠告に背く。シシ組の行いを見過ごすのではなく、自らの欲望に従ってハルを救いに行くのだ。この行動は、彼に大きな期待を寄せる養父への反抗でもある。シシ組の一件のあと、ライオンのイブキと寝食をともにするなかで、彼は自分自身の弱さを受け入れる。レゴシが食殺事件の真犯人と決戦する際には、自らの奴隷としての身分を象徴する右足を、レゴシに差し出して食べさせさえする。それは過去のトラウマを解消する象徴的な儀式であると同時に、魂の奥底からの信頼によって「弱さを見せる」行為でもある。レゴシは愛によって道徳の命令に打ち勝ち、ルイは自らの欠けたところを許せるようになる。
したがって、人物の成長の方向と、矛盾が実際に解決される道筋に目を向けるなら、法への違反は、法そのものに取り込まれている。強すぎる道徳律から距離を取り、少しばかりの逸脱を「小確幸」――小さくても確かな幸せ――として認め、自らの卑劣な欲望を適度に表すことも許す。こうして人物たちは、欲望の「内在的侵犯」を遂げる。「内在的侵犯」とは、その機能からいえば、権力が作動するなかで自らの対立物――権力に背き、権力の欠陥を暴くもの――を生み出す効果のことだ。権力とは、こうして自ら分裂することそのものなのである(Zizek, 2006:33)。この分裂を通じて、他者はあらかじめ定められた象徴的な位置に捕らえられる。それによって他者の不在が可能になり、支配による包摂的排除が実現する。
アガンベンのいう「人類学機械」は、ここで内在的侵犯の仕組みと驚くほど一致する。「人類学機械」は、人間と動物の区別を強調すると同時に、両者の「無区別」をも包摂する。例外を包摂することで例外を排除し、「剥き出しの生」にする。そこには分裂した主権権力の作動が表れている(王钦, 2016:17)。したがって人類学機械は、動物性を外に置き、一枚岩となってそれに対抗することで成立するのではない。動物性を内部に包摂することによって、それを忌まわしいものとして排除するのである。『BEASTARS』では、問い直されない生物学的な視線(vision)のもと、食物連鎖が飽きるほど強調され、種同士の関係は、問題として問われる場から切り離され、背景として宙づりにされる。他方、レゴシとハルの異性愛は、人間社会が受け入れる典型的な動物性、すなわち繁殖本能をなす。捕食欲は、愛欲の近くにまとわりつき、ときおり姿を見せるだけの問題になる。

原記事掲載の中国語訳では、ハルは一度、校内で肉食動物に食べられかけたことがあり、そのときは暗くて相手の姿がまったくわからなかったと語っている。
「内在的侵犯」は、法を絶えず踏み越え、打ち立てることで、人間の道徳律そのものの分裂と運動をなす。その目的は、決して振り払うことのできない動物性を、よりうまく処理することだ。ラディカルな理想は、このありきたりな無限運動を繰り返すのではなく、欲望の運動の行き詰まりを打ち破ることにある。レゴシとルイの政治的な立場の対立は、欲望の非同一性を示している。しかし同じく明らかなのは、この運動のなかで動物性が不在になっていることだ。動物性は、情欲や個人主義といった社会規範の否定面として象徴化され、何が問題なのかを見分け、不足を補うことで対処できるものになる。こうして動物性の問題は、人間の自己実現を促すポジティブ心理学の話へと変わってしまう。いま物語に求められるラディカルな課題は、自ら差し出した謎に応じることである。青春恋愛ドラマの楽しげなヴェールを取り去り、動物の欲動の行き詰まりに直面すること。たとえば、レゴシがなお隠し持つ、ハルを捕らえて食べたいという欲望に。ジジェクが述べるように、欲望は法に支えられると同時に法への違反にも巻き込まれるが、欲動はその欲望の悪循環を断ち切るのである(Zizek, 2006:50)。
三、結び――動物をめぐる神話を打ち破る
姜宇辉は、ラディカルな動物哲学の三つの道筋を示している(姜宇辉, 2017:97–109)。第一は、アガンベンが論じる「開かれ」だ。ハイデガーは人間中心主義的な視点から、人間と動物がそれぞれ世界に向き合う仕方を区別したが、アガンベンはこれを逆向きに読み取る。動物に世界が欠けているからこそ、人間は動物性のなかに、しないことを選ぶ潜勢力(potential-not-to)を見いだせる。人間である可能性の喪失に気づき、原初的な可能性に直面することで、深い退屈が生まれるのだ(102)。
第二は、内在的な相互作用に満ちたドゥルーズ=ガタリの動物への生成変化と、ハラウェイの共生の理念だ。これは、人間性と動物性の曖昧さを人間の内部の空間と見なし、そこから人間が動物へ変わるという考え方ではない。強調されるのは、生成のネットワークの複雑な相互作用と、リゾームの構造である。この交雑性が、何もかも入り混じった混沌をもたらすわけではないのは、つねに例外的な個体が現れ、共生を多様な方向へと導くからだ(103, 105–106)。
第三は、思弁的実在論に由来する。動物を、還元することのできない「異質な存在」として捉え、人間にはそれを直接の経験によって把握することはできないとする(103–104)。「異質な存在」という捉え方が示すのは、関係の生成ではなく、人間と動物の近接性の断裂、恐ろしい深淵なのだ。
どの道筋も、人間の境界を維持する力への批判と省察を共有している。人間中心主義を離れることが不可能であるなら、人間と動物の関係の形而上学的な転換は、人新世の終わりが訪れることを前提にしなければならない。言い換えれば、人間の死を迎えるということだ。だが、この死は人類の絶滅や歴史の終焉を意味しない。人類学機械を廃し、「人間」という固有名を葬り去ることで、オートポイエーシス―ガイアの一部としての存在を実現するのである2。アガンベンにとっては、潜勢力が現前する退屈。ジジェクにとっては、現実界の広大な砂漠である。
『BEASTARS』の問題は、人間性という枠組みに対する感度がなお十分ではなく、その境界を守り、動物性から人間性へと戻ってしまうことにある。作者の板垣巴留は、著名なインディペンデント・ミュージシャン、米津玄師との対談で、動物よりも人間を描くことが先にあり、『BEASTARS』は一貫して「ヒューマンドラマ」を描く作品だと語っている。関心の中心にあるのは、動物性ではなく人間性なのだ。それに対し米津は、動物を通じてこそ描ける人間らしさがあると鋭く指摘する(板垣巴留×米津玄師 対談)。ここにはすでに、外にあるはずの動物が人間の内奥を支えるという外密的な関係と、動物性批評の核心が言い当てられている。残念なのは、それでも『BEASTARS』が人類学機械から抜け出していないことだ。動物を無視しているからではない。人間という存在を支える他者を、物語のなかで依然として回避しているからである。
姜礼福による、アラヴィンド・アディガの受賞小説『白虎』(邦訳『グローバリズム出づる処の殺人者より』)へのポストコロニアル批評は、『BEASTARS』にも当てはまるかもしれない(姜礼福, 2010:89–95)。インド社会の最底辺出身のバルラムは、動物園に閉じ込められた白い虎と目を合わせ、精神を通わせる。そして、自分と同胞が抑圧されていることに気づく。彼らはまるで、動物園に囚われた白い虎なのだ。そこでバルラムは、動物と自らを重ね、不平等な社会を変えようと決意する。しかしその一方で、最後に学校を建てることに成功した彼は、学校の生徒全員を「白い虎」に育てたいと願う。それは白い虎をエリート化し、動物性の卑賤な地位から救い出すことであり、こうして再び、人間性と動物性の二項対立へと戻ってしまう……。
だからこそ、人物同士の関係が生み出す新たな執着を見抜かなければならない。私たちはそこでオオカミとウサギのカップリングを語り、文明の逆説としての獣性を愛で埋め合わせることを、繰り返し想像している。そうではなく、物語の展開にヒステリックな問いを突きつける必要がある。現実のなかで、文明を絶えず存続させる享楽と生政治に向き合う私たちは、実は、何一つ持たないところに立たされているのだ。
参考文献
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「BEASTARS」特集 板垣巴留×米津玄師対談(2018年11月8日)。2019年12月18日閲覧。コミックナタリー
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