1960年代後半になると、カウンターカルチャー(counterculture)の内実にも変化が生じた。たとえば1967年から1970年にかけて、何千もの若者が山や森にコミューンを築き始めた。スチュアート・ブランド(Stewart Brand)が最初の『ホール・アース・カタログ(Whole Earth Catalog)』を刊行したのも、彼らのためだった。こうした大地への回帰を目指す人々(back-to-the-landers)にとっても、結局は新しい共同体を築くことのなかった多くの人々にとっても、社会変革をもたらす従来の政治的な仕組みは、すでに破綻していた。同世代の若者たちが政党を組織し、ベトナム反戦デモを起こす一方で、この若者たち――私は彼らをニュー・コミューナリスト(the New Communalists)と呼ぶことにする――は、社会を変える主な原動力を政治行動ではなく、技術と意識の変革に求めるようになった。アメリカの主流文化が国内の暴動から海外の戦争に至るまで対立の文化だとすれば、この共同体の世界は調和の世界だった。アメリカ政府が大規模な兵器システムを配備し、はるか遠くの罪のない人々の命を奪うのだとすれば、ニュー・コミューナリストたちが用いるのは、斧や鍬から拡声器、ストロボ、映写機、幻覚剤のLSDまで、ごく小規模な技術にすぎない。それによって人々を集め、誰もが分かち合う人間性の輝きを体験させるのだ。そして、企業や政府の官僚組織が男女を問わず人々に、自らの精神をばらばらにすることに長けた専門家になるよう求めるのだとすれば、技術が生み出す一体感の体験は、彼らに自立と全体性を取り戻させてくれるはずだった。
――フレッド・ターナー『From Counterculture to Cyberculture』序論。1
フィリップ・K・ディックが1972年に小説『スキャナー・ダークリー(A Scanner Darkly)』を書いたとき、かつてのヒッピーたちの楽観が大きかったぶんだけ、そこには大きな怒りを読み取ることができる。薬物依存のリハビリ施設を営む企業が、同時に麻薬の栽培と流通を最大規模で担っている。官僚組織は、隅々にまで及ぶ監視、隠蔽、嘘によって市民の神経をすり減らす。その間に挟まれた世代の若者たちは、薬物がもたらす陶酔(euphoria)と、果てしなく続く不条理な仕事という両極の間で引き裂かれるほかない。
まだコンピューターやグローバル資本主義、脳科学の時代ではなかったこの頃、こうした「精神の断片化」を、まず陶酔の側から見てみよう。そこにあるのは、一体感と孤独の間の分裂だ。仏教と精神分析の対立――何よりもまず、死の欲動と「涅槃原則(nirvana principle)」の分裂である。涅槃とは自己破壊への衝動であり、自我(ego)を消し去り、重荷に耐えかねた狂気から身を引こうとする、絶望の末の選択だ(今日でも、仏教に向かう人は増えている)。だが、死の欲動はまったく逆である。ジジェクの言葉を借りれば、「この瞬間、事物の『正常な』働き、物質的現実の愚鈍な惰性に沈んで抜け出せない『正常な』過程は、一時的に停止する。私たちは、魔法に満ちた、生命活動が宙づりになる領域(domain of a suspended animation)へ入る」。2 欲動の主体を文学のなかで究極のかたちで描いたのは、まさに「セイレーンの沈黙」のカフカだった。
実際、オデュッセウスが近づいたとき、この強大なセイレーンたちは歌っていなかった。この敵には沈黙だけで立ち向かえると思ったのかもしれないし、蜜蝋と鎖のことしか頭にないオデュッセウスの顔に浮かんだ喜びを見て、歌うことなどすっかり忘れてしまったのかもしれない。……だが彼女たちは、それまでのいつにもまして美しく、手足を伸ばし、身をひねり、恐ろしい長髪を風になびかせ、岩の上で鉤爪を大きく広げた。もはや人を誘惑するつもりはなかった。ただ、オデュッセウスの大きな両眼に映る輝きを、できるだけ長く捉えていたかったのだ。3
欲動の主体が示すのは、沈黙の始まり、原初的享楽からの離脱である。このとき主体はようやく、自分こそが現実のなかの不可能なもの、現実にとって過剰な存在なのだと気づく。つまり、実際の私は〈物〉なのだ(as the Thing I actually am)、と。ここから、『スキャナー・ダークリー』の結末を書き換えることができる。想像してみよう。ブルースの隠した花が見つかり、彼は拷問され、監禁される。それでも、何度でも青い花を一輪欲しがり続ける。ここの秩序がそれを許さないことはわかっている。それでもやめない。なぜなのか、自分でもわからないまま……。ベンヤミンのいうように資本主義が結局は一つの宗教なのだとすれば、その宗教は、欲動の主体を搾取し、管理し、作り上げることの上に成り立っている。

こうして、仏教と精神分析を引き裂くこの亀裂を、ひとまず脇に置くことができる(この深い対立を、1968年ほどよく示すものがあるだろうか。アレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg)がシカゴの騒乱に「オーム」の詠唱で介入することを選んだ一方、ラカンは、新たな主人を望む君たちは、その新たな主人を得るだろうと辛辣に指摘した)。そして、この引き裂かれた主体のもう一方の側へ――同時に、物語のもう一方の側、企業の陰謀とは相容れない「スキャナー」へと向かうのだ。
ベンサムのパノプティコン、すなわち全展望監視施設をひな型にすれば、『スキャナー・ダークリー』の主人公が帯びる三つの名から、三つの物語を描くのは容易だ。第一は囚人ボブ・アークターの物語。彼にとって環状監獄の中心は純粋な虚構であり、そこに誰かがいるのか、永遠にわからない。むしろ、誰かがいると確信できたなら、恐怖はいくらか和らぐだろう。第二は看守フレッドの物語。死んだように硬直したまなざしとなった彼は、際限なく見続けるうちに狂っていく。第三はブルースの物語。ボブ・アークターもフレッドも自分自身だと知る者である。こうして私たちは、このうえなく不気味な経験に出会う。自分を見るとき、私が実体としての対象になるだけではない。私のまなざしまでもが対象になるのだ。
だが、この簡潔な三項の外には、まだ解釈されていない第四の像がある。幸福で満ち足りた生活を送る、中産階級の白人としてのボブ・アークターだ――私たちは彼をキアヌ・リーヴスと呼びたくなる誘惑に抗いがたい。これこそが、スクリーン上のこの像の真理である。結局、私たちはいつも俳優本人へと戻るのだ。同時に彼は、ボブ・アークター/フレッドの真理(Truth)でもある。この幸福な家庭人の像を排除して初めて、主人公は自分自身の分裂を垣間見ることができる(ちょうど、私たちが俳優本人を「排除」して初めて物語を受け入れられるように)。小説で語られる、物語の始まりはこうだ。
ある日、流しの下からポップコーンの入ったバケツを取り出そうとして、アークターは真上にあった食器棚の角に頭をぶつけた。ひどく痛み、頭皮が少し切れた。だが、この思いがけない、取るに足らない傷によって、彼はついに目が覚めた。いくつもの考えが瞬く間に頭をよぎった。憎かったのは食器棚ではない。妻が憎かった。二人の娘が、家全体が、芝刈り機のある裏庭が、車庫が、輻射暖房が、前庭が、塀が、このクソみたいな場所の何もかもと、そこにいる全員が憎かった。離婚してやる。何もかもばらばらになればいい――そしてほどなく、望みはかなった。新たな陰鬱な人生が徐々に始まり、そのなかでは憎んでいたものがことごとく消えていた。4

画面の英語字幕「Fuck!」と中国語字幕「靠!」は、ともに「くそっ!」ほどの意味。
これこそ、「現実界の小さなかけら(a little-bit-of-Real)」が働く論理である。それまでのキアヌ・リーヴスは、「プラスチックの小舟のように、いつまでも穏やかに進んでいき、ついに沈むと、誰もがひそかに少しだけほっとする」存在だった。ところが、まったく偶然のこの物質的な要因に不意に気づくと、それまで均衡を保っていた冷ややかな象徴秩序が、内なる不整合ゆえに一挙に崩壊する。こうして現れるのが、まさにラカンのいう精神病である。「満ち足りた生活を送る白人ブルジョワ」の暮らしを拒んだとき、彼は同時に、事物の「正常な状態」をも拒んだ。主人のシニフィアン(「父性隠喩(paternal metaphor)」)は拒まれ、象徴秩序の外へ排除され、精神病的な幻想というかたちで現実界に回帰する。
同時に、この排除の裏面にも注意しなければならない。精神病は――アークターの場合、この範疇はパラノイアにまで絞るべきだが――原抑圧を取り消し、対象としてのまなざしを再び現実のなかに取り込む。彼には、巨大な監視システムが自分の周囲で作動していることがはっきりとわかっている。これは、幻聴のなかで私たちが経験することではないか。何を言っても、必ずそれに答える声がある。それは大他者の原初の言葉、あらゆる対話の成立を支える基盤、すなわち沈黙である。
私たちは――ここでは皆を代表して語っているのだが――自分たち自身を知らなかった。上からの指令をつぶさに読んで初めて、目が開かれたのだ。そして、この指導部がなければ、私たちの書物も常識も、力を合わせて進める全体計画のなかで、ごく小さな仕事さえ担えないことがわかった。
――カフカ「万里の長城の建設にさいして」5
ここから、カフカの主人公を捉え直すことができる。『万里の長城の建設にさいして』とは裏腹に、『審判』や『城』で彼、あるいは彼らが巨大な官僚機構に向き合うとき、そこにあるのは、ばらばらになった法の大他者である。それは一人ひとりに固有の身分を与えることができず、自らの一貫性さえ保てない。だから、Kが法廷で味わう深い屈辱は、「神が私たちから遠すぎる」というありふれた解釈とは根本的に異なる。むしろ逆に、「私たちの世界は神の不機嫌にすぎない。神の、一つの不機嫌なのだ」。ウィリアム・クーパー(William Cowper)の言葉を借りれば、「神は不可思議な仕方で働く(God moves in a mysterious way)」。この神は俗世に近すぎる。親と同じ屋根の下で、『変身』の次の一節のようなことが起きても、不思議ではない。
ある朝、グレゴール・ザムザが落ち着かない眠りから目を覚ますと、寝床に横たわる自分が巨大な甲虫になっていることに気づいた。
『スキャナー・ダークリー』に戻ろう。指摘しておきたいのは、パラノイアという構造――疎外は経たが、分離は経ていない――は、単なる「病的」なものではないということだ。まさにその逆である。Kが法廷で手を上げて目の上にかざし、何が起きているのか見極めようとするように、原質―享楽が噴き出すのを前にして、パラノイアは絶望のなかでの最後の試みとなる。アークターの独白にあるとおりだ(映画のこの場面は、むしろ一幕の芝居に近いように思える)。
本当のところ、あれには何が見えているんだ? 俺の頭の中を見通すのか? 魂を?……鮮明な像が見えていてほしい。俺には、自分自身がだんだん見えなくなっているから。……スキャナーにさえ、ぼやけたものしか見えないのなら、俺たちは呪われている。永遠に、死ぬまで。知っている事実はほんのわずかで、そのわずかなことさえ間違っているんだ。6
だとすれば、あの大他者が自分自身にすぎないと知ること以上に、彼を傷つけるものがあるだろうか。薬物中毒者、ただの落伍者、自分が何者なのかさえつかめない生き物にすぎないと知ること以上に。現実が現実界に呑み込まれると、残るのは自閉症的主体だけである。

ここまで来て初めて、精神の断片化とスキャナーによる監視という二つの側面を総合できる。ヘーゲルにおいて、自然に浸りきった「動物的な魂」から「正常な」主体性への移行は、つねに「消えゆく媒介」を必要とする。現実から退き、象徴秩序を再構成するための空間を開くのだ。この媒介こそが「世界の夜」である。(このことから、ラカンが、正常など狂気の一つの亜種(subspecies)にすぎないというのも理解できる。それは「私たちは皆、多少なりとも正常ではない」という通俗的な見方とはまるで違う。私たちの「正常」そのものが、精神病の論理の上に成り立っているということなのだ。)他方、「ここには血まみれの頭がそびえ、そこには突然、白く恐ろしい亡霊が現れる」という「世界の夜」の経験は、部分欲動(partial drives)の最良の説明となる。欲望が欲動の循環を断ち切って初めて、まったく新しい欲望のあり方が姿を現す。ジェイムソンによる『チェヴェングール(Chevengur)』の分析を借りるなら、すべての始まりはこうである。
世界の縮減(world-reduction)の第一の契機では、偶像が打ち壊され、古い世界が暴力と苦痛のなかで一掃される。それ自体が、別のものを再び築くための前提となる。まったく新しい、かつて想像されたこともない感覚や感情が現れる前に、絶対的な内在性へと戻る、この最初の契機が欠かせない。それはまったく粗野な内在性であり、何も知らない空白の状態である。7
続く第二段階は、夢見ること、欲望することのあり方を再構成することである。
この過程は、いわゆる再建やユートピア的な建設にすぎないものと、つい取り違えられやすい。だが実際には、まずユートピアを想像する方法を見いだすことも、そこに含まれている。もっと西洋的な精神分析の言葉でいうなら、こうなるだろう。……ユートピア的過程の新たな始まりを、欲望への欲望として、欲望することを学ぶこととして、ユートピアと呼ばれる欲望の発明として、そしてこうした事柄を空想するためのまったく新しい規則として、私たちは考えることができる。かつての文学的な正典には先例のない、一連の物語技法として。
ブルースの悲劇は、巻き込まれるままに第一段階を経ながら、第二段階を始める力がないことにある。農民(peasant)のように働く彼に残っているのは、この「まったく粗野な内在性(absolute peasant immanence)」にすぎない。それはもちろん、人間の零度である。人間ならざる生産機械へと切り詰められたとき、ブルースは象徴秩序のなかでも「死んだ」のだ。生きながら死んでいるこの生き物こそ、「イデオロギーの崇高な対象(sublime object of ideology)」であり、スターリン自身の言葉を借りるなら、一つの「特殊な素材」なのである。
そして、まさにここで私たちは、『スキャナー・ダークリー』を通俗的に読む、究極の誘惑に出会う。この官僚機構は、哀れな生き物を利用し、その活力を吸い上げて自らの「事業」に役立てる。「事業」の内実はたいてい曖昧で、しかも多くの場合、失敗するよう運命づけられている。警察が巨大な農園企業と裏取引をし、真相も、真相に近づいた者も消し去ることは、たやすく想像できる。そうなれば、ブルースのすべては無意味に帰する。だから最善の解決は、ヒッピーたちが選んだように、「自然」に帰り、「政治」から遠ざかることだ……。同じ読み方をすれば、『チェヴェングール』も、共産主義ユートピアに対するプラトーノフの告発と解釈される。虐殺の描写が、検閲官たちに、聞き慣れた反対派の語り口を思い出させたのだ。忘れてはならない。プラトーノフが『チェヴェングール』を書き終えたのは1929年だったのに、刊行されたのは1988年になってからだった(このときにはブハーリンでさえ名誉を回復していた。ソ連はすでに死に瀕していたのだ)。
だが、別の解釈もあるとしたら? 『チェヴェングール』と『スキャナー・ダークリー』が描き出すものこそ、最高の熱意の表れなのだとしたら? プラトーノフの不朽の著作の終盤で、モスクワの官僚が町を「評価」しに来るとき、こんな場面がある。
その朝、セルビノフ(Serbinov)は、あるテーブルの上にモミ材でできたフライパンが置かれているのを見た。ある家の屋根では、竿に鉄の旗がかかっていた。それは風になびくことのない旗だった。
この瞬間、私たちは言葉の「重み」をはっきりと感じ取る。生活そのものが凝固し、もはや「日常」とは呼べないものになっている。これはニュー・コミューナリストたちの幻のような田園牧歌ではない(このコミューン主義の影響は、今日のネット文化にさえ見いだせる。だがネットは、明らかに田園牧歌の夢からかけ離れている。ここでもまた、何かが間違ったのではない。ネットこそが田園牧歌の夢の真理なのだ)。逆に、これは生活のありのままの姿だ。政治の範疇に属する生活であり、カフカの描く「愚か者」たちが、疲れを知らずに動き続ける生活である。「モミ材のフライパン」や「風になびかない鉄の旗」は、まさに享楽の身体ではないか。

プラトーノフ著。
ここから、プラトーノフが虐殺を無関心に眺める視点も説明できる。傍観者でいたかったのではない。そもそも彼は気にかけたことがなかったのだ。チェヴェングールの町に現に存在するユートピアでは、こうした暴力や恐怖は、もとより秩序の一部として受け入れられている。ここにこそ、レーニンとスターリンを分かつしるしがある。『チェヴェングール』は、紛れもなくレーニンの側から来ている。一方、虐殺の描写を抑圧しようとする検閲官は、スターリンの側に属している(この抑圧されたものの回帰が、もちろん、スターリン主義の大粛清である)。
これは『スキャナー・ダークリー』の逆説でもある。フィリップ・K・ディックは、この空白の主体とその愚かな享楽を描き出した。だが、その先の解釈は開かれている。キアヌ・リーヴス―ボブ・アークター―フレッド―ブルースという像が、哀れな犠牲者なのか、それとも英雄なのか(たとえ「自分が何をしているのか知らない」としても)。それはひとえに、私たちがどんな視点から彼を見るかにかかっている。それゆえ、『スキャナー・ダークリー』の映画版は、フィリップ・K・ディック作品の唯一の映画化の成功例でもある。実写映画と純粋なアニメーションとの微妙な中間にある、その映像の質感は、限りなく増殖する表象を生み出す。それこそ、フーコーからドゥルーズへと至る身体の比喩なのだ。身体の周囲には、それを抑圧し、拘束し、さらには抹殺しようとする力が張り巡らされている。同時に、身体は生成し、逃走する。言説を借り、叫びや呼びかけとなって、自らを他者へと伝えていく……。
ただ皮肉なのは、流動することが常態となった今日、暴力や戦争に追われる非正規移民と、住む場所も職業も、さらには自らのアイデンティティまでも自由に選べる富裕層を、区別することさえ不可能になったかに見えることだ。ラカンが1975年に哲学への反抗(Je m’insurge contre la philosophie)を宣言したとき、その批判の矛先はまさにドゥルーズと『アンチ・オイディプス』に向かっていた。象徴化以前のリビドーの流れ(libidinal flux)の生産力を肯定しても、既存の権力構造を覆すことにはならない。もう一度、ニュー・コミューナリストとインターネットの例に戻ろう。ドゥルーズの言説を極端にまで押し進めたとき、私たちが求めているのは、多形倒錯の遊戯、すなわち(抵抗の)幻想に身も心も投じることにすぎない。
ここで、あのパノプティコンの三項に戻ってみよう。ただし今度は、見る者自身もそこに組み入れる。第一は、スクリーンのなかの主人公。彼はスキャナーのまなざしを問いただすと同時に、スクリーンを直接突き抜けようとする。その言葉は最終的に、大他者の欲望の謎を前にした叫びでもある。「おまえはいったい何を欲しているんだ(Che vuoi)」。第二は、見る者。物語から安全な距離を保ち、解釈する権利を持つ者だ。だが映画の仕掛けによって、自分が十分に見ていないか、さもなければ見すぎていることに気づく。第三は、その二者の総合である。生政治がますます生活の奥深くへ入り込む今日、私たちの一挙一動は数値へと置き換えられる。ユーザー行動監視(UAM)システムの膨大な計算能力の下では、どんな誤差も許されない。
企業によっては、従業員の移動を追跡するだけでなく、職場の人間関係の動きまで分析する装置を開発している。従業員がどのように話すか、どのくらいの時間、どんな口調で話すか、昼食時にどこに座るか、誰とコーヒーを飲むか、といったことまでだ。2015年、ボストンの分析企業ソシオメトリック・ソリューションズは、従業員同士の交流が業績にどう影響するか調べるため、マイクと位置センサー、加速度計を備えた社員証を20社に提供した。その一社であるバンク・オブ・アメリカは、社員食堂で、ほかの三人と同席する人たち(四人掛け)と、十一人と同席する人たち(十二人掛け)がいることに気づいた。大きなテーブルに座った人たちは、一週間で仕事の効率が36%向上した。会社が人員削減を始めたときにも、大きなテーブルに座っていた従業員のストレスは、小さなテーブルに座っていた従業員のそれより30%低かった。最近ではウォルマートが、「店頭の音声を聴取する」システムの特許を取得した。このシステムは音声センサーを使い、従業員や買い物客の会話を録音するだけでなく、商品のスキャナーが発する電子音や袋のかさかさいう音など、特定の物音も監視する。こうした動きから、アメリカでは一つの産業が丸ごと生まれ、そこに属する企業は何万人もの従業員の行動を専門に研究している。たとえばEvolvは、従業員が上司やほかの人と話す頻度など、世界各地の従業員に関する五億件を超えるデータを分析している。
――イヴァン・マノカ「New Means of Workplace Surveillance」8
私たち自身も、フレッドやボブ・アークターと同じ状況に陥っているのではないか。技術の進歩は、そのまま管理の進歩へとつながっているように見える。このとき初めて、幻想の防壁としてのスクリーンの働きも崩れる。これは純粋に精神病的な見方である。スクリーンのなかで起こること、そこで発される言葉が、全面的に現実の効力を持つ。そして、さらに耐えがたいのは、目に見えない支配者などいないことだ。そこにあるのはただ、資本の享楽―増殖に支配された、無秩序で混乱したカオスだけなのである。
だが、この精神病的な見方もまた、急進的なものではない。観客の安全を裏切るこうした仕掛けは、とっくに文化資本主義の論理に組み込まれているからだ。それでもなお、見る者と物語との間に内在する距離を指摘しなければならない。いわゆる「真相」を物語のなかでしか見つけられないのなら、その「真相」も物語を超えることは難しい。私たちがこうした物語に接する仕方は、キェシロフスキが自らのドキュメンタリーに接する仕方に似ている。それ以上は見られないという限界に達したなら、私たちは映画館の闇に閉じ込められている必要などない。そのまま出ていくことを選べるのだ。(ロラン・バルトの説明に従えば、私たちは自分をますます一個の統一された能動的主体として経験するようになる。だが、それは根本から誤認である。)
だからこそ私たちは、何度でも「まったく新しい欲望のあり方」を持ち出さなければならない。そのなかでは、私たちの欲望―享楽が、既存の秩序に媒介されることなく、根底から覆される。それはトロツキーのいう人間の「改良版」であり、『チェヴェングール』の、無関心に、ただ「それ自体のために」存続し続ける町である。そのためなら、犠牲にされた者をさらに犠牲にすることさえ、私たちは恐れない。こうして最後に私たちがなすべきことは、無関心ではなく、異化によって距離をとる読解を提示することにほかならない。それは政治的なものであり、政治的なもの以外ではありえない。1968年、この願いは一つの簡潔なスローガンに凝縮されていた。「想像力に権力を!」

〔以下、非0の論考への応答。〕
私はラカンもジジェクもヘーゲルも読んでいない。だから非0の文章には、私が理解できていない部分や、誤解している部分がきっとある。ここではできるだけ、誤解していないと自分で思える部分だけを、私なりのディック理解に基づいて論じたい。そうすれば、ある程度は作家中心の見方になるだろうし、ディックへの偏愛ゆえに、彼を理論より上に置く見方にも私は賛成するだろう。だがそれは、理論による分析を拒むということでは決してない。とりわけ非0は、急進的な理論と精神分析を用い、『スキャナー・ダークリー』を的確に読み解いている(むしろ私は、理論を前にして、大半の作家に特別な敬意を払う理由などないと思っている、とさえ言える。だがディックは稀な例外なのだ)。私のコメントは、ディック自身の作品にもっと即した理解を示そうとするものにすぎない。主に、非0の分析の二つの点について、異なる見方を提示したい。
非0は『スキャナー・ダークリー』を戦後のカウンターカルチャー運動の時代状況に置き、精神の分裂した主人公を、ある種の時代の症候を体現する見事な典型として捉えている。この読み方は、原作小説であれアニメーション映画であれ、この作品の持ち味にも、ディック個人の境遇にも、確かにかなっている。ディックがあとがきで述べるとおり、この作品は、国全体に広がっていた状況を描いているのだ。だが、その後に続く言葉にも注意したい。彼がより気にかけているのは、自分の知っている人々の境遇なのである。
この点から、まず非0の分析にいくつか提案ができる。その分析はすべて主人公の三つの顔に集中していて、ほかの登場人物がもたらしうる意味を、いくらか見落としている。たとえば、精神の断片化とスキャナーという両端の設定は、物語の二つの核心を的確に捉えている。だが、精神の断片化のほうには、もう少し紙幅を割いてもよかったのではないか。スキャナーの側で論じられるボブ・アークターのパラノイアに対して、冒頭のチャールズ(およびジェリー・フェイビン。小説では二人の人物だが、アニメーションでは一人にまとめられている)の身体化症状は、「実際の私は〈物〉なのだ」ということに、もう一歩踏み込んだ説明を与えられそうだ。たとえば、身体の現象学という視点はどうだろうか。自らの身体のなかで増殖するアブラムシをめぐるいくつかの記述には、掘り下げられるところが多い。もちろん、こうした人物像が精神分析でどんな位置を占めうるか、私には断言できない。
ただ、その後に論じられる世界の夜と、正常な主体性への移行をめぐる二段階の間には、チャールズの居場所が見つかるかもしれない。彼もまた、ブルースと同じく、第一段階と第二段階の隙間にいるように見える。だが、チャールズたちの境遇がブルースと同じでないことも明らかだ。この点は、ブルースについて別の説明をしたあとで、改めて論じたい。
ディックがいうように、彼の気にかけた人々に焦点を合わせること。それは『スキャナー・ダークリー』に施す解釈を、いくらか控えることでもある。だが冒頭で述べたように、ディック自身は、どんな理論よりも豊かなのかもしれない。そこで私は、ディックの作品の内的な構成に即して、非0の二つの解釈に異なる見方を示そうと思う。一つは冒頭にある、最後にブルースが青い花を摘む行為の解釈。もう一つは終盤で提示される、『スキャナー・ダークリー』をある種の英雄物語として読む可能性である。私の異論に入る前に、ディックの作品のなかで『スキャナー・ダークリー』が占めるおおよその位置と、その特徴を説明しておく必要がある。
キップル化(がらくたの増殖)や〈形を破壊する者〉が基調をなすディックの作品群のなかで、『スキャナー・ダークリー』は、ディックの最も私的で、最も温かな作品である。9それは、私たち一人ひとりの子ども時代にあった遊園地のような場所だ。そこでは間違いも許される。だが、どんなありきたりな物語でもそうであるように、楽園を出たあとには、命取りになる間違いはもう、子どもが遊びに夢中になっただけでは済まない。もちろん、私たちはすぐに、大人にとって命取りになるこうした間違いを、些細なものと見なすこともできる。偉大な事業さえ徒労であるのと同じように(シーシュポス的なマーサー教が、人類の光たるイジドアにとって、真剣な救済となる)。
こうして『スキャナー・ダークリー』には、ディックのほぼすべての長編小説に共通する特徴が見えてくる。主人公はいつも、何らかの苦境に置かれているのだ。苦境は、おのずと救済への要求を生む。小説の主人公は自らを救わなければならないというペレーヴィンの考えに、私は大いに賛成する。実のところ、これがディック作品の最も理解しがたい部分にもなっている。彼の長編の多くで、この救済は見いだしにくい。それはいつも、あまりに些細なかたちで現れるからだ。だが『スキャナー・ダークリー』が異なるのは、そこに救済がないことである。これを告白録とは呼べないとしても(ディックはあとがきで、あまりに道徳的な評価はしたくないと述べている)、本当に犯された間違いの記録ではあるのだ。
この点から私は、ブルースが青い花を摘む行為の解釈にも、英雄として読む可能性にも賛成できない。前者は後者の一例となっている。たとえ本人に自覚がなくとも、ここでブルースの行為に秩序への何らかの抵抗を認めて初めて、彼を英雄として読むための足場が得られるのだ。非0は、最終的に行き着くブルースというあり方を分析する際、彼を、世界の縮減と欲望の再構成という二段階の中間に位置づける。それは確かに、ブルースの境遇をある程度的確に捉えている。彼の行動様式には、「生ける屍」のような特徴がいくつもあるからだ。だが、ブルースには生産性が欠けている。それは小説での実際の描かれ方からもわかる(彼はろくに仕事をしていないし、明らかに能率のよい労働者ではない)。もっと重要なのは、彼が、どれほど初歩的なものだとしても、すでに欲望の再構成の段階に入っていることだ。彼は生まれたばかりの赤ん坊のように、友情や共同体の感覚、感謝を身につけ始めている。長年の服役を終えて社会に戻った囚人のように。彼はすでに、欲望が形づくられる過程へ再び入っている。そして心から、青い花を友人たちへの感謝祭の贈り物だと考えている。
対照的なのがチャールズだ。同じく隙間にいる彼には、第二段階を始める力がないだけでなく、その死にさえ理由がない(つまり、決断ではない)。あの奇妙な複眼の死神を前にして、チャールズは自分の罪状すら知らない。ここに強烈な皮肉を添えるのが、彼の死のとき、手元にあった本がほかならぬアイン・ランドの『水源』だったということだ。だがそれは、ディックのいう間違いへの因果応報ではない。むしろ、ディックの友人をモデルとするこの人物の、忘れ去られた理想を認めるものなのかもしれない。たとえその理想が取るに足らず、受け入れがたいものでさえあるとしても(それはまさに中産階級の誘惑であり、ディック作品では最も受け入れがたいものなのだ)。
ブルースが、欲望の段階に入りながらも、これほど幼い新生児なのだとすれば、青い花を摘む行為を、無自覚であれ英雄的な瞬間と見なすことはできない。逆に、彼を新生児と考えるなら、この規則違反は正反対に理解すべきである(しかも、この違反は実際には軽微なものだ。農園もまた、もう一つの楽園にすぎない)。そこにあるのは、新生児としてのごく普通の振る舞いにすぎなくなる。遊びに夢中になることだ。ここで初めて、ディックがどの登場人物でもなく、作品そのものを自分自身と見なした理由が、本当に感じ取れる。これは間違いについての記録であり、道徳的には裁かず、それでもこれほど悲しく、温かさに満ちた回想なのだ。遊びに夢中になったために、必然の成り行きのなかで命取りの結果を招いた友人たちについての記述なのである。だから最後にブルースは、遊びに夢中になって青い花を摘み、友人たちに持っていこうとする。このすべての悪と苦痛の源を。あらゆる間違いの始まりが、結末でもう一度書かれる。これは間違いであり、道徳とは無関係な因果の帰結であって、私たちの求める英雄的な瞬間ではない。
これとは別の極に、バリスという人物が体現する誘惑があると私は思う。むしろ彼のほうが、私たちの探す英雄的な瞬間の特徴をいくらか備えている。たとえば、あるときこの薬物中毒者は、安い材料で消音器を作っている。臆病なボブ・アークターが、薬物であるD物質の服用や自分が何者かという混乱などに巻き込まれるかたちで主体の過剰に気づいていくのだとすれば、バリスはそれよりも、強く、醒めた英雄に見える。拳銃の消音器は、現状に対する唯物論的な皮肉と捉えられるかもしれない。何しろ、物質的な意味での沈黙と死を、わずか数十セントでもたらしてくれるのだから。ここには、バリスの行為を、欲動の主体の沈黙に捧げられた究極の皮肉として読む機会がある。
もちろん、バリスには頑として動かないところがある。主人公のどの顔にも劣らぬ重みを持つこの人物は、十分な分析がなされないままになるだろう。主人公の三つの顔をめぐる分析は、どれもバリスには当てはまらないからだ。彼は理論家の憎む悪魔なのである。しかも、よくある笑劇の主人公と違って、バリスはポストモダン小説にありがちなニヒリストの知識人ではない。彼は理論にも、実践にも、想像力にさえ頼らずに対抗する。それゆえ、物語のなかで隙がないだけではない。プレイヤーと審判を兼ねる主人公をやすやすと陥れ、口元の笑み一つで、つけ入る隙をなくしてしまう。彼には理論上の弱点もないのだ。バリスの来歴や行動から何かを読み解き、この人物の重要な象徴性をつかもうとしても、できない。彼が私たちに示すのは、粗野で浅薄でありながら、絶対的でもある悪意だけだ。この悪意は、「ただ世界が燃えるのを見たい」という、あの種の狂気から来るものでさえない。
ならば、救済の可能性を担うのはバリスなのだろうか。本当に見落とされていた英雄として、彼を見るべきなのだろうか。いや。あいつはクソ野郎だからだ。ここには反省も懲罰もなく、あるのは罪という枠組みそのものを完全に取り払うことだ。バリスは救済される必要のある人間ではない。そもそも、どの段階にも属していない。彼はそうした意味での悪人ではなく、道徳の範疇では評価できない人間なのだ。
それでも彼は、主人公のあの三項に究極の誘惑を差し出す。罪を無効にしてしまえば、あの間違いは本当に些細なもの、本当にどうでもよいものになる、という誘惑だ。私たちはもう、登場人物たちに下された厳しい罰に、ディックのように心を痛めることはなくなる。罰はもはや罰ではないからだ。バリスなら、農園を含め、どんな場所でも水を得た魚のように振る舞うだろう。最後に青い花を摘む行為も、もう一つのおかしな陰謀にすぎなくなる。だが、ディックはそのような余地を残さなかった。バリスの誘惑とブルースとの間には隔たりがあると、私たちは感じる(ブルースには彼のようになれないと思うだけではない。私たちはそもそも、ブルースに彼のようになってほしくないのだ)。これとは違うのが、ブルースがチャールズに対してもたらす誘惑である。この誘惑は、あの時代のアメリカ人に共通していたものではないか。(アイン・ランドが時代精神となった時期と、カウンターカルチャー運動の重なりを考えてみればいい。)
結局、この問題は宙ぶらりんのままだ。チャールズ―ブルース―バリスの三者のうち、ブルースとバリスの間のどこにも、英雄的な瞬間の可能性は見つからなかった。つまり、作品のなかには掘り出せる英雄的な瞬間がないのだ。ブルースの犠牲のうちに、称賛できる何かを見いだすことはできない。ここに、『チェヴェングール』の鉄の旗と比べられるものが、いったいあるだろうか。ブルースが戻るのは大人の楽園であり、彼の摘む青い花は間違いの始まりである。青い花を鉄の旗に匹敵するものと捉えるなら、鉄の旗に見いだしたような熱意は、どこへ向かうのだろう。そこにいるのは、火遊びで自らを焼いてしまう人々ではないか。
だが、言っておきたい。非0が青い花のなかに熱意に似た何かを見たことは、まったくの錯覚でも、理論の生み出した幻でもない。青い花には確かに、懲罰と反省の外にある意味もある。まず感じられるのは、少なくともそこに、あの厳しさや胸を刺すような感触がないことだ。それは裁きの後の刑の執行ではない。むしろ、温かさと真摯な追憶に満ちている。最後の名簿を思い出してほしい。ディックの人生で親しかった友人たちの死は、それだけで、これ以上なく厳しい罰だった。だがディックがいうように、その罰はあまりにも重すぎた。ディックの言葉をこの文脈で言い換えれば、もしこの世に罪悪があるのなら、それは人々が永遠に楽しく過ごしたいと願い、その願いのために罰せられることなのだ。そう、ディックには、亡くなった友人たちをもう一度厳しく扱うことなどできない。すでに受けた罰は十分すぎるほど重く、彼らの間違いはあまりにも自然なものだったからだ。
それでも彼は、あの間違いが本当の間違いであることを、あくまで認めなければならない。そうして初めて、あの苦痛や罰がすべて帳消しになるのを避けられるのだ。チャールズの結末のように、単純に何らかの他者のせいにするにせよ、バリスのような偽の英雄の態度で、間違いを取るに足らないものにするにせよ、間違いは、やはり間違いなのである。だから青い花を摘むことは、真摯な反省であり、同時に追悼でもある。それが悼むのは、もっと前に同じ間違いを犯した友人たちだ。永遠に楽しく過ごしたいという願い自体は、貶められるものではない。それを望んだからといって、誰も非難されることはないのだから。
反省と追悼という、この二重の行為のなかで初めて、自分は登場人物ではなく作品そのものなのだ、というディックの言葉は意味を持つ。そして英雄的な瞬間も、ようやくその居場所を得る。『スキャナー・ダークリー』のどの登場人物にも属さず、ディック本人に属するものとして。これは作家自身の告解である。彼はあの間違いに勇敢に向き合い、すべての根にある始まりを結末に置き、主人公にその重荷を背負わせた。これは道徳的な非難ではない。主人公を、あの決断、火遊びをするというあの決断に、もう一度向き合わせることなのだ。
だが同時に、そこには別の願いも託されている。永遠に楽しく過ごしたいという思いのために、こんな罰を受けてよい人などいない。敵は、遊んでいるときに下した誤った決断だ。だが、遊ぶこと自体が間違いなのではない。だから彼らは、もう一度あの楽園に戻るだろう。「別のかたちでもう一度、みんなが遊べますように。幸せでありますように」。

画面の英語の献辞(訳):「追悼。彼らは私の仲間だった。これ以上の仲間はいない。彼らは私の心に残り、敵は決して許されない。その『敵』とは、彼らが遊びのなかで犯した間違いだった。別のかたちでもう一度、彼らが遊べますように。そして、幸せでありますように。――フィリップ・K・ディック」