本稿は、拾荒戦略 Rags Drum 2021前夜祭の受賞作である。

序――生ける屍に伝説はない
賭博や非合法の取引がひそかに行われ、黒服の男たちの仕切る「闇の世界」は、映像作品がしばしば大きく扱ってきた題材である。この神秘的なヘテロトピアは、現実の「舞台裏」に対する人々の幻想を満たし、スクリーンの上ではスリルに満ちた体験の場所と化す――宙を舞う札束、街頭で勃発する抗争、深夜の路地裏での秘密の取引と、互いに腹に一物を抱えた裏切りの緊張。日常ではおよそ起こりえない「隠密の運営」の一切が、われわれの白昼夢を最大限に満たしてくれるのだ。
こうした主人公たちは、目もくらむような賭けの腕前を持つ賭博の神様か、さもなければ一騎当千、弾雨のなかを駆け抜ける英雄である。彼らは危険の縁で舞う綱渡り芸人であり、死に近づいていくあの危機感を余すところなく「演じて」みせ、死へと絶えず探りを入れていく「スリル」を観る者に味わわせる。だが観る者は同時に、主人公がしくじるはずのないことも知っている。街角の大道芸人なら手元が狂うこともあろうが、スクリーンの上でそれは起こらない。失敗の可能性がどれほど高く見せられていようと、それは決して起こらない。それが上演の要請なのだ――際どい賭局も飛び交う流れ弾も、しょせんは模擬された死の脅威にすぎず、その機能はただ主人公の野心的な行動を引き立てることにある。これがわれわれの「お約束」と呼ぶものだが、チップと銃弾の刺激さえあれば、駄作にも観客はつくのである。
要するに、以上に述べたたぐいの作品は、「闇の世界」を主題としながらも、その運行の中核をなすシニフィアン――死――を去勢する代償の上に成り立っている。死から致命性を摘出し、チップが恣意的に流動しないようにし、銃弾が偶然に主人公へ命中しないようにする。こうした操作によって、この種の作品は死そのものを模擬された死の脅威で置き換え、主人公を普遍的な死の法則の外部に置き、そこにある種の神聖なアウラをまとわせる。ここで肝心なのは、個々の物語のなかで主人公が撃たれるかどうかではなく、主人公がはじめから死の法則を超越した英雄像としてあるということだ。いいかえれば、この種の作品の成立はまさに死の交換法則の廃棄に基づいている――そこに本当の命のやり取りは存在しない。主人公の死は、目もくらむ「上演」のなかですでに商品として包装されてしまっており、交換可能な一般的等価物にはなりえないからである。この種の冒険譚は、その根本にある目的性ゆえに、死の欲動を抑え込むことを要求される。つねに何らかの意味/使命が主人公を導き、目的を欠き、等価交換の鉄則だけが支配する死のゲームへと彼が迷い込まないようにしているのだ。
ところが、本稿の注目する主人公は、まさに死の欲動に駆動される自殺ゲームへ真っ逆さまに転げ込んだ迷える子羊である。福本伸行の描く伊藤開司は、遊び暮らし、こそ泥やあちこちからの借金で小銭をこしらえては、すぐさまサイコロ賭博やパチンコに浪費してしまう、救いようのない博打打ちだ。ただ一度、うっかり別のろくでなしの借金の保証人になったばかりに、そのろくでなしが逃げたあと、取り立て屋が玄関口に現れる。この借金はおまえに返せる額ではないと告げられ、彼のような社会のクズどうしが自由を、さらには命までも張り合う大博打へと突き落とされたのだ。カイジの賭博の物語はこの大博打から始まり、そこに深くはまり込んでいく。死の賭局からやっとの思いで逃げおおせるたびに、カイジはぼんやりと日を送るろくでなしに戻り、またもたやすく騙されては、別の賭局へ堕ちていく。それゆえシリーズの大部分は、カイジがいかに「生還」するかをめぐって展開される。彼はいつも賭局の開始と同時に生命を失っており、その努力のすべては、自分が無造作に投げ捨てた生命を奪い返すことにしか向けられていないのである。
カイジは死を差し出し、それと引き換えに賭け金を得て、自らの死を買い戻す。死を差し出すことはすでに一度の自殺である。この象徴的な死を通じて彼は「ギャンブラー」となり、それによって自殺ゲームへの参加権を手に入れた――「ギャンブラー」という身分はまさに身分の欠如を意味しており、「表の世界」に足場を失った者だけがギャンブラーへと転落する。そうした人間こそ「生ける屍」であり、彼らに残された物語の類型のなかに、もはや冒険も伝説もない。残っているのは、復活を求めるか、完全に死ぬかだけである。
一、範例としての「賭博の経済学」
ギャンブルだけが、国籍、年齢、貧富の差、性別……こうした障壁をやすやすと飛び越えて語り合うことを可能にする……いわば共通の言語……!
1.1 チップすなわちコード
賭場に政治経済学はない。そこでは一般的労働を基本的な参照物とする必要がなく、価値はもっぱら規則――チップの交換明細と配当の計算方式――に従って表現される。ここで価値は完全にコードと化し、構造に応じて値を与えられる、固定した参照を持たない情報となる。チップは賭場経済学の範例的なサンプルである。それは一連のデータを表すにすぎず、賭場の内部を何の障害もなく流通できる。それは生産されるのではなく、はじめから交換のうちにある。そして交換のたびごとに再生産がある。この過程でそれは増殖し、あるいは減価するからだ。賭場に生産はないが、いたるところに再生産があり、しかも完璧な再生産である――現実の労働を投入する必要もなければ、商品を売るときのあの「命がけの飛躍」のリスクに直面することもない。そこで交換を行っているのは資本だけであり、資本は無目的の流通のなかを循環し、再投資の無限の要求はこうして持続的に満たされる。「自由な取引」というスローガンが告げているのは、その字義どおりのことにすぎない。すなわち、自由なのは取引だけであり、取引は自らを自らで決定し、その他のものは取引によって決定されるのである。

チップは貨幣の貨幣、貨幣の最終形態であり、一般的等価物としての最後の使命を完遂している。すなわち、いかなる目的性の束縛からも社会的参照の束縛からも離脱し、厳密な意味での「実体」となること――再生産の法則によって自己自身を自己の原因として定立し、同時に他のあらゆる事物の原因(他のあらゆる事物はそれに依存する)でもあることだ。常識はわれわれにこう告げる。「チップなど疑似貨幣にすぎない」。だとすれば、われわれの目にする結論はむしろ、疑似による現実の全面的な代替、あるいは現実そのものの「疑似化」である。というのも、「現実」という概念にはもはや「価値」がないからだ――それは流通領域に入ることができず、交換のなかで価値へと転化することができない。そして最も交換しやすいものだけが、この時代の資本主義の必要とするものである。これこそ、シミュラークルが氾濫する理由なのだ。
貨幣記号はあらゆる社会的生産から分離する。かくして貨幣記号は投機と無限のインフレーションへと入り込む……賃金と労働力の「合理的」価値との乖離、貨幣と現実の生産との乖離。これらはいずれも参照の喪失である。
貨幣は生産の目的性と生産の情感を抜き取られ、思弁的なものとなる。それは金本位制から流動資本と全面的な変動相場制へ、参照記号から構造形式へと移行する。これこそ「浮遊する」シニフィアンに固有の論理である……シニフィアンは、その増殖と無限の遊戯を拘束するいかなるシニフィエからも解き放たれる。それゆえ貨幣は、単純な振替と記帳の遊戯に従って、自らの抽象的実体の絶えざる分割と反復に従って、自己を再生産できるのである。1
ボードリヤールは現在の資本主義における貨幣の変化を論じているが、それはわれわれが賭場で目にする事態と一致している。彼の分析は「死んだ労働が生きた労働を圧倒する」こと、すなわち生産過程の全体において人間の労働力の投入が絶えず周縁化されていく現状に基づいており、この状況下で、一般的労働はもはや価値の標準たりえない。ボードリヤールはさらに、それがそもそも一度も標準であったことなどなく、生産本位主義の幻想にすぎなかったとさえ考える。資本は生産的労働の下位に甘んじたことはなく、資本主義の誕生の当初から「神づくり」を行ってきた。すなわち、無限の自己反射的な運動のなかで労働者、工場、技術、消費などを自らの体系へ吸収し、それらを記号に、「浮遊する」シニフィアンに変え、ただ資本の文法にのみ従わせてきたのである。
1.2 生ける屍の生産
諸要素が資本の運動に組み込まれ、同質化されていく過程こそ、資本がそこから生命力を汲み取る過程である――「剰余」は労働の価格からの控除において発生するのではなく、労働が価格化され、労働力が市場で取引される瞬間に、原初的に発生する。生産の具体的な要素が一連のコードに、一連の数字に転化されたとき、「剰余」はすでに産出されており、それ以後、流通に参加する要素は永遠にすでに隷属のうちにある。ボードリヤールはこの原初的な売り渡しを「自らの死を引き渡すこと」と描く。社会のなかの人間はすでに人質である。彼らの死は象徴交換のメカニズムに引き渡されており、彼らはそれによって、社会生活の標準としての量化された死を手に入れた――「一般的な等価関係とは死である」2。価値と死のあいだには等号が引かれたかのようであり、それゆえ、価値の蓄積によって死を線形的な価値の終点である無限遠まで先送りできる、という幻想が広く行き渡る。資本の無限性と時間の無限性が重なり合い、富を蓄積する行為に偽りの進歩性が付与される。だがこれは欺瞞にすぎない。交換可能な死はしょせん真の死ではない。後者はこの蓄積の過程でひたすら損耗していくだけであり、資本はまさにこの損耗から生命を盗み取って、自らの運転を維持しているのである。
通常の仕事にとって、この損耗は緩慢であり、生命はたいてい蓄積の完成する前に尽きる。それが先の幻想を保護している。だがギャンブラーの場合、生命を担保に借りた賭け金はつねに、生命の尽きる前に使い果たされてしまう。つまり、その象徴的な死は現実の死にはるかに先行するのであり、これが彼を逆説的な状態に置く。彼はすでに象徴交換の領域からの退場を命じられているのに、その肉体はなおそこに残されている。これは資本にとって理解不可能な事態である。カイジ三部作のいたるところで、こうした人間を目にすることができる。船上の賭局で「星」を失い、衣服を剥ぎ取られてガラス張りの部屋に監禁される者。光の射さない地下労働施設に生きる者。カイジと対決し、すってんてんに負けた途端に連行されていく賭場の主。ここで頻繁に登場する帝愛グループの黒服たちが清掃人の役を担い――象徴的身分を失ったこれら「名状しがたきもの」を、都市のごみ処理システムさながらに、ただちに視界の外へ片付けてしまう。福本伸行は、賭け金を失うという象徴的な死を現実の死(黒服に連行される恐ろしい結末)に似せようとしているが、実のところ、この逆説的状態のもとでの生活は主人公・伊藤開司自身のうちに見て取れる。賭局のさなかでさえなければ、彼は薄汚れた部屋で一日中ごろごろしているか、「手がうずく」といっては小さな賭場やパチンコ台で手元のなけなしの金を擦っているかだ。このぼんやりと日を過ごす怠け者の姿は、「生ける屍」という言葉の字義――象徴的には死んでいるのに、肉体はまだ死んでいない人間――にまことによく合致している。
実のところ、「賭け金が尽き、肉体だけが残る」というのは、まだ真の象徴的な死とはいえない。肉体もまた賭け金の一種ではないのか。肉体をそのまま賭け金と見なすこの「飛び越え」は、象徴的な死と現実の死との区別もまた一時しのぎの便法にすぎないことをわれわれに示している。象徴はそれ自体、致死の力を備えている(「権力」とはもともと死の操作と管理である)。ただ、表向きにはしばしば隠されているだけだ。ある種の場面では、象徴交換のこの残酷な側面がじかに暴き出される。それゆえわれわれはそれを「闇の世界」と呼ぶのである。福本伸行が描くのはまさにこの残酷な闇の世界であり、そこでは身体もまたチップの一つにすぎない。身体を呑み込む「賭博の経済学」がわれわれに見せているものこそ、現在の資本主義経済の範例なのだ。
二、値札を付けられた肢体
2.1 残酷なチップ
チップは自由であり、それを持つ主人のほうがむしろ監禁されている。彼の全運命はこの数字の列に繋がれており、賭場に足を踏み入れたそのときに、彼の生命全体が一連の数字へと転化され、計算のうちに入れられたとさえいえる。ここでわれわれは、姿を変えた「剰余価値」を見出せるかもしれない。賭場は賭博の自由と公平を謳うことで、賭け金を携えた客たちを引き寄せる。だが思いもよらぬことに、チップは表向きの交換物にすぎず、賭場が本当に狙っているのは客の生命なのだ。賭け金を清算できない客に喜んで金を貸す賭場があるのは、まさに彼らの「生命価値」を前借りするためである(現代の保険業や医療技術に包み込まれて、生命は文字どおりの意味での価値へと転化しうる。逆にいえば、生命は現代社会の資源の一つであり、すでに値札を付けられている)。そしてこの生命価値は、貨幣の「残酷化」の過程で産出される。
現在の貨幣は「クール」になった――「クール」とは、各項どうしの緊密で情感を欠いた相関性のことであり、ゲームの規則、項の置き換え、そしてそれらの置き換えの枯渇からのみ養分を汲み取る遊戯のことである……われわれはいま記号のクールな段階にいる。現在の労働システムはクールであり、貨幣はクールであり、構造的配置一般もクールである。
クール、それは言説的価値と文字の置き換えの純粋な遊戯であり、以後ただ数字、記号、言葉だけを弄ぶ洒脱さと距離であり、操作的シミュレーションの無限の権力である……メディアがメッセージとなるとき、人はクールの時代に入る。まさにそれが貨幣に起こったことだ。貨幣がある分離の段階に達すると、それはもはや一つのメディアではなく、商品流通の手段でもなく、流通そのものとなる。すなわち、その回転する抽象のうちに実現されるシステムの形式となるのである。3
金銭の含意は最低限度まで切り詰められ、以後それはただの数字の列である。「血と汗の金」でもありえなければ、「あこぎな金」でもありえない。われわれに残されるのは同語反復だけだ。金は金である――金銭はただ交換の規則にのみ従い、それをめぐるいかなる操作もしょせんは「ゲーム」にすぎない。ボードリヤールは、貨幣がもっぱらゲームの規則に従い、項(記号)として無限の、無目的な置き換えを行うがゆえに、それを「クール」なものと呼んだ。だがそれはまだ、貨幣の「残酷」な側面を指摘してはいない。
まず、貨幣を使用する誰もが、この「交換ゲーム」への参加を強制されている。これが貨幣の普遍的な強制力である。次に、貨幣のコード化はその範囲を押し広げ、「金銭」という基本的な担い手をはるかに超え出させ、ある種の「汎貨幣化」(あるいは汎情報化)をもたらした――貨幣はあらゆる要素を交換の領域に取り込み、無限の流通の循環へ投げ入れようとする。すべてが「値踏み」され、しかも「値」の含意はもはや「価格」にとどまらず、「交換可能/流通可能」という性質へと拡張される。どんなものでも交換できるのは、ひとえにそれらがみな記号と化したからだ。ウェブサイト間でのユーザーデータの取引、WeChatの「モーメンツ」における強迫症的な個人情報の暴露と交換、等々。流通は唯一の原理にして至上命令となり、そこを流れているのが貨幣か、情報か、記号か、それとも別の何かであるかは、もはやどうでもよくなった。あるいはこう言ってもいい。流通過程は、そのなかにあるすべての流通要素を同じものへと鋳直すのだ、と。この過程それ自体が残酷な性格を帯びている。
数量的な等価関係の可能性そのものが、すでに死を前提としている。賃金と労働との等価関係は労働者の死を前提とし、さまざまな商品のあいだの等価関係は物の象徴的破壊を前提とする。いたるところで等価関係の計算と恣意性の調整を可能にしているのは、まさに死なのである。この死は暴力的なものでも、身体的なものでもない。それは生と死の恣意的な置き換えであり、残存のうちでの生と死それぞれの中和、いいかえれば差延された死である。4
流通は原初的な象徴的暴力を帯びており、まさにこの暴力のもとで、あらゆる要素は同一の死物と化す。この象徴的暴力が有機的な身体に作用するとき、その破壊性はたちどころに姿を現す。この点は、後述する『千のプラトー』からの引用に見ることになるだろう。
2.2 売りに出された身体
コードがその上を走る平面こそ、厳密な意味での「存立平面」である。
存立平面はあらゆる隠喩を消し去る。存在するのは実在だけである。それらは電子そのものであり、真のブラックホールであり、実在の細胞単位であり、真の記号系列である。ただし、それらはすでに自らの地層を離れ、脱地層化され、脱コード化され、脱領土化されている。まさにそのことによって、存立平面の上で互いに近接し、浸透し合うことが可能になるのだ。一つの無音の舞踏。存立平面は位階の差異も、数量級も、隔たりも無視する。人工と自然とのあいだの差異を無視する。内容と表現とのあいだの区別を無視する――これらすべては地層を通じて、地層との関連においてのみ存在するのだから。5
ドゥルーズのいう「地層」とは、ごく簡単にいえば、事物を定性し区分するメカニズムのことである。たとえば家族というメカニズムは何が父であり、母であり、息子であるかを定め、政治経済学は何が資本であり、プロレタリアートであり、労働であるかを定め、社会的分業はさまざまな職業を区分する。これらの地層は存立平面のうちに保存され、事物に形式を与え、それを体系として打ち立てる。他方、脱領土化の過程はこれらの地層を貫き、地層による事物の分割を取り消し、境界を打ち破って、異なる種類の事物を未分化の形式で再び存立平面の上に走らせる。ドゥルーズはこの運行を「強度の連続体」と形象的に描いている――流通する粒子=記号には数値(強度/大きさ)上の区別しかなく、それゆえ途切れることのない流れを形成するのだ。存立平面の概念に基づいて、ドゥルーズは一つの「器官なき身体」を描き出す。
CsO(器官なき身体)とは、まさに一切を取り除いたあとになお残っているものである。そして取り除かれるものこそ幻想――意味作用と主体化とが構成する総体なのだ。6
結局のところ、CsOについての偉大な書物とは、まさに『エチカ』なのではないだろうか。属性とはCsOのタイプないし種類であり、実体、力、強度の原点は生産の母体としてある。様態とは生起するすべてのもの、すなわち波と振動、移動、閾と勾配であり、ある母体から、あるタイプの実体のうちで生産される強度である。7
CsOとは欲望の内在性の場であり、欲望に固有の存立平面である。8
一つの器官なき身体――ドゥルーズにとってそれは麻薬中毒者の身体、マゾヒストの身体などである――とは、「器官」という近代医学的な区分けを失った身体、より正確にいえば、「有機体」としての機能区分を失った身体である。有機体は階層化、機能化、集中管理を意味しており、ドゥルーズから見れば、まさにこうした「地層」が身体を縛っている。器官を忘れ去ることではじめて、麻薬中毒者は「冷たい強度」を、マゾヒストは「苦痛の強度」を手に入れる。身体が存立平面と化し、欲望がその上を自由に流れられるようになるからだ。ドゥルーズは器官なき身体をある種の実践の目標と見なす。われわれはそのような身体を形成することを試みるべきであり、地層の境界に縛られてはならないが、あまりに激烈な脱地層化によって身体を壊してしまってもならない。だが、ここでわれわれが関心を寄せるのは個人の欲望ではない。本稿の主題のために、ドゥルーズの論述における欲望を「貨幣」に置き換えてよいだろう。
ドゥルーズから見れば、身体はたいていの場合、外部の地層に縛られた状態にある。資本の運動は階層化されたシステムに依存してはいるが、流通そのものである貨幣は、それ自体が脱地層化の力を備えている。器官なき身体を作り出すのはほかでもない、貨幣の流れである。身体はそこへ投げ込まれ、値踏みされ、売買される。ドゥルーズの論述のうちには、さらに示唆に富む表現さえ見つかる。彼はスピノザの『エチカ』を器官なき身体についての偉大な書物と見なしたが、それは、器官なき身体と「強度」(あるいは「強度を生産する母体」)との関係が、スピノザの形而上学体系における属性と実体との関係に似ているからである――前者は後者から独立した存在ではなく、後者のある種の「表現」にすぎず、前者は多様であり後者は唯一である。属性の多様性は相互の衝突をもたらさない。それらは実体のうちに統一されているからだ。厳密にいえば、存在するのは実体だけであり、属性は実体を表現するさまざまな「実例」にすぎない。これが意味するのは、器官なき身体が二次的なものにすぎず、強度を流通させる一つの通路であって、いつでも置き換えられ、取り消されうるということである。有機的な身体はシステム(地層)のうちに保存されており、強度を通過させる必要が生じると、これらの身体は破壊されて器官なき身体となり、通路の役を務めさせられる、といってよい。
先に貨幣の「残酷」性を分析したときに見たのは、まさにこうした過程である。貨幣の流れはいつでも、どれかの身体を自らの通路にすることができる。ただしスピノザの想像と異なるのは、貨幣が真の神ではないという点だ。それは万物を包容するのではなく、むしろ万物を呑み込むことによって自らを神に仕立て上げている。それゆえ、スピノザの想像したあの一義性(両立可能性)はここには存在しようがない。すべてのものが価値へと疎外されている以上、価値の流通がもたらすのは、耐えがたい、人体と商品との「混合物」であり、そこには人体のある種の破壊が伴う。たとえば、麻薬を肛門や胃袋に隠す密輸行為、臓器窃盗、さらには生命保険。これらの操作が見せる、人体と商品とを一続きにした「器官なき身体」は、ドゥルーズの描いたそれらと何ら変わるところがない。結局のところ、価値の流通が要求する存立平面は象徴上の存立しか実現できず、肉体的なもの、具体的なものは必然的に抑圧され、排斥される。この過程が産出するのは、奇形の、寄せ集めの、売りに出された身体なのである。
売りに出された身体。このイメージは「カイジ」シリーズに繰り返し現れる。最初の船上賭博では、敗者たちは衣服を剥ぎ取られ、ガラス張りの部屋に閉じ込められた。カイジをあざ笑ったあの中年男が仲間に身請けしてもらえたのは、情誼などのためではなく、背中に貼った湿布のなかに高価な宝石を隠していたからだ。これが一つの、売りに出された身体を形づくっている。淘汰されたギャンブラーは丸裸に剥かれ、まだゲームのなかにいる者たちから隔離される。この操作の産出する裸体/肉体こそギャンブラーの「残余物/残りかす」であり、その残りかすがごみとして処理されるのを防ぐ唯一の方法は、肉体に応急の「湿布」を貼りつけ、肉体を商品と接合させて、その象徴的価値を完全には涸らさないことである。この意味で、身に飾られた宝石と、身体のなかに隠された(「密輸」される)宝石とのあいだに大した違いはない。どちらも肉体の廃品的性質を糊塗する覆いにすぎないのだ。

これらの例に見て取れるのは、量化され計算される死である。この量化は具体的には、人体に埋め込まれた貴重品の価格、肢体に付けられた値札、生命保険の保険金の額に現れている。重要なのは、身体に加えられるこの量化が、生命への直接の脅威を構成しているということだ。コードによる身体の脱領土化は、そのまま死の判決である。ただ、この判決の執行までのあいだ、人々にはなお一定の時間が恵まれている。ギャンブラーにとって、それは賭卓のかたわらに立っていられる時間だ。こうしてみると、伊藤開司のあらゆる努力は、「処刑の猶予」を勝ち取ることにすぎなかったのである。
三、伊藤開司の生還ゲーム
3.1 最低限度の公平
ひとたび賭局に入れば、生命はすでに貸し出されている。だがこの死の脅威はただちに露呈するわけではなく、表面上のゲームの形式に覆い隠されている。象徴交換は、一定の規則と役割配分を備えたシステムのもとで運行される。前文ですでに象徴交換の死の性格を分析したとはいえ、それはメタレベルの分析であって、ゲームのなかにいる交換者に見えるのはシステムの内部で与えられるものだけである。彼らが知っているのは「いかに」交換するかと交換の「効果」、具体的にいえば、ゲームの進め方と、規則が誰に有利かということだけだ。ゲームそのものの性格など、彼らにはかまっている暇がない。すでに全精力をゲームを「遊ぶ」ことに注ぎ込んでいるからであり、そのゲームが切実な利害に関わるときはなおさらである。こうした心理のもとで、老練なギャンブラーが選ぶのは当然、最も細工のしやすい規則と最も有利な役割配分であり、あとはカモが罠にかかるのを待つだけとなる。
権力と規則の上での優位こそ、福本伸行の描く小悪党たちが誇りとする資本である。彼らは、権勢を笠に着て手下に賭博を強い、イカサマで上前をはねる小物か、さもなければ罠を仕掛け、運試しだけで手に入りそうに見える高額の賞金で「カモを釣る」賭場の主である。前者の代表は『賭博破戒録』の地下労働施設の班長であり、後者の代表は『賭博破戒録』で「沼」を据えた賭場の主と、『賭博堕天録』で「地雷」麻雀を打たせる賭場の主だ。飽くことを知らないこれらの地回りたちは、表向きのゲームの規則と、隠されたイカサマの手口と、その秩序を維持する暴力とを握っており、やっているのはまさにリスクなしの商売である。イカサマはバレさえしなければ問題なく、バレたところで一人分の儲けを取り損なうだけのこと。彼らは、この不平等な取引を永遠に続けられると思い込んでいる。優位が自分の手にあるかぎり、損はしない、と。
規則の不平等ゆえに、カイジはつねに極端な劣位に置かれる。途中で相手の欺瞞を見破っても、告発によって、すでに負けた分を取り戻すことはできない。賭卓の掟は、罪はイカサマ師にではなく、イカサマを見抜けなかった者にある、というものだからだ。しかし、あらゆる規則に細工ができるとしても、賭博はいったん始まればもはや変更がきかない――規則は極端に不公平だが、その極端に不公平な規則でさえ、最終清算のその瞬間まで必ず効力を持ち続ける。規則の途中変更の不可能性は、ゲームが進行するための必要条件であり、象徴的暴力が効力を発揮する基盤でもある。かりに権力者が規則を恣意的に変更して相手を圧迫すれば、それはもはや象徴的暴力ではなく、直接的な暴力になってしまう。そして規則へのこの破壊は「スキャンダル」となって自らの権威を辱め、そうなれば彼はもはや自分の象徴的身分を維持できず、退場するか、必死にそのスキャンダルを揉み消すかしかない。要するに、規則の不可変性は最低限度の「公平」であり(それは象徴交換が運行するための最低限の要件だからだ)、カイジが規則を利用しうる唯一の途でもある。カイジにとっては、こうだ。
正規の店は全部ダメだ!裏だ…つまり…必勝法のある場所、向こうに必ず勝てる秘訣がある場所……つまりだ、俺が一番期待してるのは、イカサマの可能性がある場所なんだ!向こうがイカサマをやるかもしれないってことは、逆から見りゃ、その必勝の秘訣の裏側で、その関門さえ突破できれば、必ず勝てるってことなんだからな!
カイジが見て取ったのは、「賭博」という論理体系の一つのメタ定理である。具体的な規則が何であれ、その規則は必ずある種の可逆性を備えている。その規則が胴元を必勝にできるのなら、裏を返せば自分をも必勝にできるはずだ。まさにこの水準においてのみ、無一文のカイジは相手と「平等」なのである。それゆえ、カイジと賭博する者は皆、彼を救いようのない、なんの価値もないクズと見なし、自分の手のひらの上で弄ばれるのがお似合いだと思っている。そして、この最低限度の公平が姿を現す瞬間、耐えがたい恐怖が湧き起こる。彼らがずっと頼みにしてきたゲームの規則が、突然寝返って、自分を縛るものになったかのようだからだ。だが実のところ、規則は誰の命令も聞かない。規則への細工に頼るギャンブラーなど小物にすぎないのである(もっとも、「カイジ」シリーズでこうした小物でない人物といえば、おそらく兵藤会長ぐらいだろう)。

地下労働施設の班長との賭博は、この「最低限度の公平」の最も典型的な例を提供している。カイジは、班長が勝負どころで、サイの目が四・五・六しかない特殊なサイコロを使ってイカサマをすることを事前に知り、賭博のさなか、相手の不注意に乗じてサイコロを奪い取り(班長は最初こそ疑いを起こしたが、五十万の賭け金がかかった勝負で負けたくない一心で、結局イカサマに手を出した)、そのイカサマ行為を告発した。だがカイジが突きつけたのは「規則違反」の告発ではなく、「規則の隠匿」の告発である。班長の化けの皮を剥いだのち、カイジはゲームを続けるために、この賭局の「特殊なサイコロ」は隠された規則であり、その規則を加えたうえでこの賭博を続行できると宣言する。
もちろん……この続きも、さっき言ったとおり、特殊なサイコロを使う。バラされる心配はいらない、安心して使えよ!こっちも使うんだからな、こういう…似たようなやつを……!
続いてカイジは、自ら特製したサイコロ――班長の食べ残したステーキの骨と自分の血で作った、六面すべてが「一」のサイコロ――を取り出し(三つの一を出したときの配当が最も高いからだ)、「仲間内で特殊なサイコロを使う」という規則が有効であることを班長に認めさせた。しかも班長は、自分のイカサマを目立たなくするために、胴元が勝てばそのまま親を続けられるという規則をわざわざ改め、「親は勝敗にかかわらず二回連続で務める」としていた。この二つの規則によって、もともと五十万だった賭け金は班長に一千万ペリカを超える損失をもたらし、彼が長年ため込んだ金庫を根こそぎ空にしたのである。
だがこう見てくると、賭博はコツさえつかめば御せるゲームになってしまい、勝負は腕の差の問題にすぎなくなるようだ。しかしカイジは、遊び半分や金儲けの心構えで賭局に加わったのではない。自分が賭けているのが全生命であり、いや、それ以上でさえあることを、彼ははっきり認識している。たとえば班長との賭博で、彼の「入場料」は、自分と五人の仲間が三か月働いてためた金だった。敗北は、班長の圧制のもとで少なくともあと十五年、苦役に服さねばならないことを意味する。だが、地下施設の環境が彼らを十五年もたせてくれることは、まずありえない。カイジは「自殺行為」を反復することによって賭博に参加しているのであり、彼に残された資本は身体だけだ。しかも象徴的生命を失った(返済の力もなく、人身の自由もない)状況では、肉体の死も時間の問題にすぎない。だからカイジは自分の生命を賭けるだけでなく、それ以上のものを賭ける。そうしなければ、この生ける屍が「復活」することはありえないからだ。命を、さらにはそれ以上のものを張ること。これこそカイジが極限の賭博で勝利しうる最も根本的な理由であり、福本伸行は兵藤和也の口を借りて、それを「ギャンブラーの資質」と呼んでいる。これが、規則を弄ぶことしか知らない小物たちからカイジを区別する――彼はつねに「全身全霊」でそこに身を投じており、彼にとって一つひとつの賭博はゲームである以上に、死に直結する自殺ゲームなのである。
3.2 唯一可能な挑戦の仕方
生命を買い戻そうとするなら、カイジは賭け金を際限なく膨張させ、「金を賭ける」ことを「命を賭ける」ことへと拡大せざるをえない。あるいは、金を賭けることが命を賭けることにほかならないというその正体を、露わにさせざるをえない。「カイジ」シリーズの主題はまさにここにある。伊藤開司には個人資産などまるでなく、「信用」など言うに及ばない。だから借金の際に唯一の担保となるのは身体、すなわち人身の自由と臓器だけであり、賭局に足を踏み入れたが最後、彼は死の脅威に直面する。
だが逆にいえば、金持ちにとっては、自分の資産の範囲内で賭博をしてさえいれば、死の交換から逃れられるということになるのだろうか。そうではない。チップ交換の要求はつねに、保有資産の限界をはるかに超え出る。この言い方はむしろ逆にすべきかもしれない。身体は「保有資産」の一部なのではなく、その全部なのだ。賭卓の上では、肉体と紙幣とのあいだに境界はない。ギャンブラーはつねに命を賭けている――チップたりうるのは死だけであり、死は万人に対して平等である。命を張らねばならないのはカイジだけのように見えるが、賭博という取引行為の特徴はまさに、賭け金を魔術のように膨張させることにある。それは資本の底なしの欲望の具現化にほかならないからだ。それゆえ、賭博が金銭に突きつける要求は、いかなる個人の差し出しうるものをもつねに圧倒し、あらゆる参加者の命を虎視眈々と狙っている。
死を張ることは、それ自体ある種の「ゲーム」である賭博に質的変化を生じさせる。ちょうどロシアン・ルーレットと、サメが指に噛みつくおもちゃとが、まったく異なる性質を持つように。死という代価はつねに過激である。というのも、象徴秩序は死の排除の上に打ち立てられているからだ――死は意味の終わる場所であり、交換と循環の過程を破壊する(だからこの断裂を縫合するために、社会は死を征服しなければならない。「自然死」という近代的な死のあり方は、清潔で、承認された「良い」死である。それは生命が自らの「生物学的」資本の終点まで歩みきったことを告げ知らせるからであり、事故による死は、社会的義務を果たし終えなかったものと見なされる9)。それに取って代わるのが、遍在する象徴的な死あるいは「疑似死」、すなわち前文ですでに論じた、量化して計算でき、流通に参加できる死である。この「無害化」された死は、交換不可能な現実の死を身体のなかに監禁し、その露出を阻止する。ところが賭博は、交換のなかに現実の死を呼び戻す。「売りに出された身体」の節で論じたように、賭博における身体は最も容易に脱領土化の流れに貫かれる。いいかえれば、賭博という「場」においてこそ、もともと覆い隠されていた現実の死は最も容易に再び姿を現し、その非理性的で、耐えがたい本来の顔をのぞかせるのである。
賭博における身体は、上場された債券や株式のようなものだ。値さえ付ければ、その「所有権」を手に入れられる。利根川との賭博では、悪趣味な兵藤会長が、カイジに自分の聴力を賭け金として利根川と対決させてはどうかと提案する。
何かを失うかもしれないというリスクさえ引き受ければ、おまえは一億円を手にできるかもしれん……さっき命を賭けたばかりのカイジくんには、ほんの小さなリスクだろう…目か、耳……!
こちらにとって、おまえの耳はいわば人質。権利の半分はすでにこちらのものだ、勝手な真似はさせん!今はただ貸してあるだけのこと。勝負がついたそのとき、おまえの聴力は……わしが没収する!
だが、この抵当に入れられた耳こそがカイジの突破口となった。彼は、耳に装着された、鼓膜を突き破るための装置こそ利根川のイカサマの道具だと気づく。そこで手洗いに立つ口実を作り、洗面所で無力な怒りにわれを忘れたふりをして鏡を殴りつけ、割れた鏡の破片でその耳をむりやり削ぎ落とし、片手でタオルを傷口に押し当てて、装置がすでに外されている事実を覆い隠した。そのうえで仲間の一人を洗面所に潜ませ、両手でその装置を包み込ませて、装置が安定した心拍のモニタリングを出力し続けるようにし、利根川を欺いたのである。ここでカイジのやったことも「規則の逆用」にすぎない。だが、彼が死を、いやそれ以上のものを賭けたことは、はっきり見て取れる。彼はこの装置が耳に刺さりうる最深の距離を、すなわち自分の出しうる最高額の賭け金を張ったのだ。負ければ、聴力を失うどころの話ではまるでない。針は三半規管を突き破り、死に至る公算がきわめて高い。だがこの「Eカード」の賭局、あからさまな暗示を帯びたこのゲームのなかで、カイジはこれをもって「皇帝」に挑むことを選ぶ。
言ったことを覚えてるよな。奴隷は何も持たない人間、間違いなく…いたぶられる側の人間だと……。だが、その何も持たない人間が……すべてを投げ出した奴隷が、皇帝を討てるんだ……!受けてみろ、これが…死の縁で俺と仲間たちが上げる…最後の声……最後の意地だ……!
三部作の第一部『賭博黙示録カイジ』の後半で、カイジは同じ境遇の者たちとともに、金持ちたちの観戦の慰みに供される死の「鉄骨渡り」への参加を強いられる。この賭局にたどり着くまでに、カイジは屈辱と欺瞞を嘗め尽くし、数え切れない仲間の恐怖と絶望と死を目撃してきた。物語の情動はすでに極点まで鬱積しており、このEカードの賭局での逆転勝利が、筋立て全体のクライマックスであることは疑いない。カイジは勝利し、借金を完済するに足る金を手にして、すべてから身を引くこともできた。高みに立っていた利根川も、焼けた鉄板の上での土下座を強いられ、代価を払った。物語はここで一区切りついてもよさそうなものだ。だがカイジは挑戦の続行を、彼の正義の「復讐」の続行を決意する。無一物の奴隷は自らの死をもって皇帝に挑戦できるのであり、しかもそれが唯一の挑戦の仕方でもある。それを悟った彼は、かくして兵藤会長に一つの賭博を持ちかけた。
多くの読者は、カイジの兵藤会長への挑戦を、福本伸行が続篇のために無理に書いた筋立てだと考えている。だがそこには必然性もある。「カイジ」シリーズの世界観において、兵藤会長はある種の最高の秩序と権威を代表しており、反逆者たるカイジは、そのような権威と必ず決着をつけねばならないのだ。前述のとおり、賭博の「最低限度の平等」があればこそ、カイジは規則を逆用して勝つことができた。しかし、この逆用が可能であるのは規則それ自体の力によるのではなく、外部にあるより高い権威が審判を提供しているからである。たとえば班長との賭局で、帝愛グループの上層部である黒崎義裕が出てきて仕切らなければ、班長は必ずあの手この手で言い逃れようとしただろう。この「より高い権威」が秩序を――圧制の秩序を、カイジのような人間に苦痛と屈辱を嘗め尽くさせる秩序を――保障している。それゆえ、カイジの追い求める究極の目標はまさに秩序の否定である。福本伸行は秩序のために一人の「代弁者」を、カイジの挑戦の対象となる一つの「標的」を立てた。兵藤和尊会長である。そして『賭博黙示録カイジ』の冒頭から築き上げられてきた、不屈で正義感にあふれる「英雄」ギャンブラーとしてのカイジ像は、まさにここで疑問に付されることになる。
3.3 英雄像の終点――「自殺ゲーム」
漫画のお決まりの段取りに従うなら、兵藤は疑いなく、打ち倒すべき「ラスボス」であり、カイジの辛苦の道のりは兵藤を倒すその瞬間に昇華され、人々に仰がれる不朽の伝説となるはずだった。だが序ですでに述べたように、カイジの物語は冒険でも伝説でもない。強いていえば、一人のギャンブラーが死の縁でもがきながら生き延びようとする物語にすぎない。この事実を暴き出すものこそ、兵藤とのこの賭博である。
カイジは、賭局における自分のあらゆる努力に一つの目的を立てた。自分の生命を取り戻したそのあとで、兵藤を倒すこと。さらにいえば、カイジの「生還の追求」とは、象徴的次元で自らの地位を奪い返すこと(賭博の借金を清算して社会に復帰すること)であり、兵藤への挑戦もまた、象徴的水準で秩序と権威を辱めるためのものである。この思考の道筋は、実のところ、冒頭の船上での利根川の演説の主題の延長にほかならない。
おまえらはせいぜい「勝ったらいいな」と考えるだけ。だからこうしてここに立つクズになったんだ。「勝ったらいいな」じゃない…!勝たなきゃダメなんだ…!おまえたちは、負け続けてきたから…今、誰からも愛されない!貧窮し、ウジウジと、人生の底辺を……這って、這って、這って…這い続けている……なぜか…?それはおまえらが…昔からずっと負け続けてきたからだ…!ただ一つ、勝つこと……勝たなきゃ、クズだ…勝たなきゃダメだ、勝たなきゃダメだ…勝たなきゃダメなんだ…!
利根川は絵に描いたような努力家であり、試験や人付き合いといった手段で一歩一歩、帝愛という会社の上層へ這い上がった男だ。彼の信条は勝利の追求である。勝利だけが象徴的地位の上昇をもたらすからだ。底辺に身を置くカイジも、実は似たような論理に従っている。彼が反対しているのは、利根川の論理の「非人情」な側面、すなわち敗者が人間地獄へ堕とされるあの残酷さだけであり、それゆえ彼は死を代価として象徴秩序に挑戦する。象徴交換において、死より「大きい」交換物はない。死は象徴交換の耐えうる範囲を超え出ているからだ。そしてまさにそれゆえに、死の賭博は、「快感」の生成の場としての象徴交換の一面を暴き出すのである。
兵藤は、秩序と権威の人格化というよりも、純度の高いギャンブラーの形象、賭博を心底楽しむ人間の形象である。彼は威厳ある「ビッグ・ブラザー」ではなく、反転した父の名、すなわち快感に溺れる肛門的な父だ。前文がカイジの賭博を「死を賭けた挑戦」と解釈することで、そこにある程度の革命性を付与したのだとすれば、兵藤という形象の介入は、賭博のうちに欲望の次元を改めて導き入れる。彼はカイジの大義をすべて快感へ、すなわち「ゲームを遊ぶ」快感へと書き換えてしまうのだ。
カイジくんも、もう身に染みているだろう……鉄骨を渡って生き延びたこと、それにさっきのEカードの勝利…あの刹那の歓喜、安堵、快楽は、さぞ強烈だったはずだ!死の縁でもがくのは苦しいが、充実している……そして九死に一生を得ることこそ、この世で最も甘美なこと、至高の福分といえる…!あの快感はもう、おまえの脳裏に焼き付いているはずだ!おそらくカイジくんのこれからの人生は…絶えず快感を追い求める旅になる……!
気づかされるのは、カイジが自らに立てた目的が一つの仮言命法だということである。それは「最終目的」の無限の先送りを許し、それによってカイジは、この使命の自己催眠のもとで「生還」を反復できる。兵藤のこの言葉はカイジの自己欺瞞を突き破り、自らの欲望を認めること、死の縁を渡り歩くあの極限の刺激に耽っているだけだと認めることを、彼に迫る。ただカイジ自身がそれを認識していないだけだ。「生きよう」とする強烈な欲望が、ひとえに「死のう」とする狂気じみた欲動から来ていることに、彼は気づいていない――まさにこの欲動こそが、カイジを何度も何度も、自ら進んで死の賭局へと参加させるのであり、まさにこの意味において、賭博はカイジを引き寄せる「自殺ゲーム」となる。そして、死の刺激のもとでのみ、カイジにはいわゆる「ギャンブラーの天分」がある。彼はこの快感を張る勝負においてのみ勝つことができ、通常の記号を張る勝負(金銭だけに関わる賭博)では勝てない。どこにでもいる平凡な博打打ちと同じように。兵藤との賭局は、『賭博堕天録』の地雷麻雀の賭局も含めて、この点を証明している。

カイジがパチンコ「沼」を攻略し、地下労働施設から生きて脱出したのち、かつての仲間の三好と前田がカイジを訪ねてくる。二人の働く賭場の主はいつも従業員の協力で客の牌を盗み見ている、だから従業員である自分たちはその裏をかき、逆にカイジのために主の牌を盗み見て、大儲けさせてやれる、というのだ。だが実際には、二人はとうに主とぐるになっており、どの客にも「うちの主はイカサマをやる」と告げ、客のイカサマを手伝うという甘い条件で「カモを釣って」いた。カイジがこの話を引き受けたのも、この賭局が儲かりそうなうえ、リスクがまるでないように見えたからこそであり、まんまと三人の罠にはまった。兵藤との賭局も同様で、カイジは自分の小賢しさゆえに道を誤る。彼は規則を利用して、必勝の賭博を設計しようとした。あらかじめ手洗いのティッシュ箱の側面に当たりを示す紙片を挟んでおき、公平な賭け方を自分に決めさせてほしいと申し出るふりをして、ティッシュ箱からのくじ引きで勝負を決めるよう兵藤を誘導したのである。カイジの仕掛けは兵藤に完全に見抜かれ、賭局はカイジの完敗、四本の指の喪失で幕を閉じた。
カイジが足場を失い、人に蔑まれる「生ける屍」であればこそ、その絶体絶命からの反撃は巨大な力を帯びて現れる。彼の「九死に一生」の一つひとつが観客に絶大な快感を生むのは、正義が貫かれたからでも、抑圧された者が「復讐」を遂げたからでもなく、ただ自殺者が「蘇生」したから、いいかえれば、自殺のもたらす死(賭博で命を張ること)が最終的に自分自身を買い戻したからにすぎない。これは一見、反復の過程である――誰も本当に生命を失ってはいないし、交換の前後で象徴的価値に変化はない。だがこの過程において、死の持つ「激情」は余すところなく演じ出される――増殖は象徴交換のうちにではなく、リビドーの交換のうちに生じているのだ。人為の死(とりわけ「自殺」)は美学的な価値を持つ。それは冷たく無味乾燥なシニフィアン交換のゲームを超え出て、象徴化しがたいある種の体験をもたらす――これこそ「美的なもの」の特徴である10。
結び――上演の一類型としての自殺ゲーム
『賭博黙示録カイジ』の物語も、ある意味では、序論で描いたあの種の「死の上演」にすぎない。ただ、お約束の映画の類型が冒険と伝説であり、英雄の物語を語るのに対して、「カイジ」三部作の類型は異なる。社会的身分を失った「生ける屍」を主人公に据え、死の罠へ繰り返し身を投じては生還を求める物語を語るのだ。より正確にいえば、そこに示されているのは「自殺ゲーム」である――そこにはもはや価値の最終的な実現はなく、あるのは、死と生還との循環のなかで行われる快感の再生産だけなのだ。
われわれはすでに貨幣の残酷化の過程を見てきた。だが人々は、まさにこの残酷さから、残酷な肢体の破壊と死の場面から(あるいは、その場面から逃れ出る過程、すなわち「生還」から)、極上の快感を見出すことができてしまう。そして死の類型のなかでも、自殺の引き起こすあの魅惑的な眩暈はいっそう観賞に堪える。そこには「権威の手から自分の生命の処分権を奪い返す」という想像上の転覆的性質が含まれているからだ。しかしこの転覆的性質は、結局のところ政治の次元に入ることが難しい。つまり、自殺の意味は個人―社会という政治の水準では完全には説明され尽くさない以上、この自発的な死は美的なものの領域へ解消されるほかない。実際、「自己犠牲の転覆的行動」については、その正義感に富む倫理的部分(転覆性)が人々の同情と賞賛を呼ぶというより、人々はただ「自己犠牲」の部分に耽溺しているだけである。主体が全身全霊で、自らの死を前倒しにする活動へと身を投じるとき、その一挙一動には、言葉にしがたい魅力が付与されるのだ。
遂行された自殺は、決裂と否定の性質を持つ。だが伊藤開司はむしろ、自殺の遂行を懸命に阻止している。というより、彼はただ、自殺を一つの魅力として自分の身にまとわりつかせているだけだ。永遠に遂行されない自殺。これが、自殺が一つのゲームとして、一つの上演として永遠に続きうることを保証し、快感の再生産が永遠に続きうることを保証する――まさにここに、われわれはコード化された死を見る。死は自己増殖する記号となり、無限の再生産のうちへと入り込んだのだ。英雄の伝説を語るあのお約束の映画の上演的性質が死の排除の上に成立しているとすれば、カイジの賭博の上演的性質は死のコード化の上に成立している。この両者の関係は、ちょうど政治経済学と象徴交換の経済学との関係のようなものかもしれない。
実際、「カイジ」シリーズはいまなお連載が続いているばかりか(最新作は『賭博堕天録カイジ 和也編』であり、第一部から数えれば連載はすでに二十五年に及ぶ)、『中間管理録トネガワ』のような外伝的性質の作品まで生み出している。これはむろん福本伸行の多作と直接の関係があるが、カイジの賭博の物語そのものが上述の再生産の性質を備えている以上、どれほど長い物語が派生しても不思議はない。カイジの自殺ゲームは、実のところ『中間管理録トネガワ』の日常ギャグ小噺と同じように、上演として、見物人の憩いとして、無限に増殖し続けられるのである。