屋頂現視研
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チップ、身体の切断、死の欲動――伊藤カイジの自殺ゲーム

米岡が『カイジ』初期三部作を、チップと身体の担保化、死の欲動から読み解く。ボードリヤールの象徴交換とドゥルーズの器官なき身体を手がかりに、自殺ゲームの構造を分析する。

著者: 米岡翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

寛容の精神を示す中国語字幕が付いた、アニメ版『カイジ』の画像

はじめに:生ける屍に伝説はない

ひそかに賭博や違法な取引が行われ、黒服の一団が取り仕切る「裏社会」は、映画やドラマが好んで取り上げ、大いに話を膨らませる題材だ。この謎めいた異空間――ヘテロトピアは、現実の「舞台裏」に対する人々の幻想を満たし、スクリーンの上では刺激的な体験に満ちた場所となる。宙を舞う札束、路上で勃発する抗争、深夜の裏路地で交わされる秘密の取引、腹に一物ある者どうしの裏切りをはらんだ緊張。日常では起こりえない、そうした「水面下の動き」のすべてが、私たちが白昼夢に求めるものを、このうえなく満たしてくれる。

その主人公たちは、目もくらむような賭けの技を持つ賭博の神か、百人を相手に弾雨をくぐり抜ける英雄だ。危険の縁で舞う綱渡りの名人であり、死が迫る危機感を余すところなく「演じて」みせ、絶えず死に近づいてはその手前で身をかわす「スリル」を観客に味わわせる。だが観客は同時に、主人公がしくじることなどありえないとも知っている。街角の大道芸人なら手元が狂うこともあるだろうが、スクリーンではそうはいかない。失敗する可能性がどれほど高く描かれても、失敗は絶対に起こらない。それが見世物の要請だからだ。手に汗握る賭けも飛び交う流れ弾も、擬似的な死の脅威にすぎず、その役割は主人公の野心的な行動を引き立てることに尽きる。私たちが「お約束」と呼ぶものだが、チップと銃弾の刺激さえあれば、クソ映画にも観客はつく。

要するに、こうした作品は「裏社会」を主題としながら、その仕組みの中核をなすシニフィアン――死を去勢することによって成り立っている。死からその致命性を取り除き、チップが勝手に流れていかないようにし、銃弾が偶然主人公に当たらないようにする。こうした操作によって、死そのものを擬似的な死の脅威で置き換え、主人公を万人に及ぶ死の法則の外に置き、ある種の神聖な後光をまとわせるのだ。肝心なのは、個々の物語で主人公に弾が当たるかどうかではない。主人公は最初から、死の法則を超えた英雄として造形されている。言い換えれば、こうした作品は、死の交換法則を廃することでこそ成り立つ。そこに本当の命のやり取りはない。主人公の死はすでに、目もくらむような「見世物」のなかで商品に仕立てられており、交換可能な一般的等価物にはなれないからだ。この種の冒険物語を根底で支える目的性は、死の欲動を抑え込むことを求める。つねに何らかの意味/使命が主人公を導き、目的などなく、等価交換の鉄則だけがある死のゲームへ迷い込まないようにしている。

ところが、本稿が取り上げる主人公は、まさに死の欲動に駆り立てられた自殺ゲームへ、頭から突っ込んでしまった迷える子羊だ。福本伸行の描く伊藤カイジは、ぶらぶらと日を送り、けちな盗みやあちこちからの借金で小銭を手に入れては、たちまちサイコロ賭博やパチンコにつぎ込む、救いようのない博打打ちである。一度、うかつにも別のろくでなしの借金の保証人になってしまい、その男が逃げると取り立て人が家にやってきた。お前に返せる額ではないと告げられ、自分と同じ社会のクズたちが自由、さらには命まで賭ける大博打へと追い込まれる。カイジの賭博の物語は、この大博打に始まり、そのなかに深くはまり込んでいく。命懸けの賭けからようやく抜け出しても、カイジはまた、ぼんやりと暮らすろくでなしに戻り、あっさり騙されて次の賭けへと転落する。だからシリーズの大半は、カイジがいかに「生還するか」を軸に展開する。彼はいつも勝負の始まりにすでに命を失っており、その努力のすべては、自分が無造作に投げ捨てた命を奪い返すためでしかない。

カイジは死を差し出して賭博の元手に換え、自分の死を買い戻そうとする。死を差し出すことは、それ自体すでに一度の自殺だ。この象徴的な死を通して彼は「博打打ち」となり、自殺ゲームへの参加資格を得る。「博打打ち」という身分は、まさに身分の欠如を意味する。「表社会」に居場所を失った者だけが、博打打ちへと落ちぶれるのだ。こうした者こそ「生ける屍」である。彼らに残された物語のなかに、冒険も伝説もない。あるのは復活を求めることか、完全に死ぬことだけだ。

一、資本主義の典型としての「賭博経済学」

国籍、年齢、貧富の差、性別……そうした壁をたやすく越えて、互いに語り合えるのは賭博だけ……共通の言語と言える……!

1.1 チップはコードである

賭場に政治経済学はない。一般的な労働を基本的な参照基準とする必要はなく、価値はただルール――チップの交換条件と配当の計算方法――に従って表される。ここで価値は完全にコードへと変わる。固定した参照対象を持たず、構造に応じて値を与えられる情報になるのだ。チップは賭場の経済学の典型的な例である。単なるデータ列を表し、賭場のなかを何の障害もなく流通する。生産されるのではなく、初めから交換のなかにある。そして交換のたびに価値が増えたり減ったりするのだから、一回一回の交換が再生産となる。賭場に生産はないが、再生産は至るところにある。しかもそれは完全な再生産だ。実際の労働を投入する必要も、商品を売るときの「命がけの飛躍」のリスクにさらされることもない。交換しているのは資本だけであり、資本は目的のない流通のなかを循環し、再投資への際限のない要求は、それによって絶えず満たされる。「自由な取引」というスローガンが告げるのは、文字どおりの意味にすぎない。自由なのは取引だけだ。取引は自分で自分を決め、それ以外のものは取引によって決められる。

『カイジ』の漫画に描かれる、金銭とパチンコ玉の交換、地下施設の通貨
地下施設のなかでしか使えない独自の通貨と、金銭とパチンコ玉の交換。

チップは貨幣の貨幣、貨幣の最終形態である。あらゆる目的性や社会的な参照対象の束縛を離れ、厳密な意味での「実体」となることで、一般的等価物としての最後の使命を果たす。再生産の法則によって自らを自らの原因と定め、同時にそれ以外のあらゆるものの原因となるのだ(他のすべてのものは、チップに依存している)。常識はこう告げる。「チップは貨幣もどきにすぎない」。ならば、私たちの前に現れる結論は逆に、擬似的なものによる現実の全面的な置き換え、あるいは現実そのものの「擬似化」である。「現実」という概念には、すでに「価値」がないからだ。それは流通の領域に入れず、交換のなかで価値に転化できない。そしてこの時代の資本主義が求めるのは、最も交換しやすいものだけである。これがシミュラークルの氾濫する理由だ。

貨幣記号は、あらゆる社会的生産から切り離される。こうして貨幣記号は、投機と際限のないインフレーションへ向かう……賃金と労働力の「合理的な」価値との乖離、貨幣と現実の生産との乖離。これらはいずれも参照対象の喪失である。

貨幣からは生産の目的性も、生産に伴う感情も抜き取られ、貨幣は投機的なものになる。金本位制から流動資本と全面的な変動制へ、参照対象を持つ記号から構造的な形式へと移行する。これが「浮動する」シニフィアンに固有の論理だ……シニフィアンは、その増殖と際限のない遊戯を縛るあらゆるシニフィエから解き放たれる。したがって貨幣は、振替と記帳という単純なゲームによって、自らの抽象的な実体を絶えず分割し反復することで、自己再生産できる。1

ボードリヤールが論じた現代資本主義における貨幣の変化は、私たちが賭場で見ていることと一致する。彼の分析は、「死んだ労働が生きた労働を圧倒する」、すなわち生産過程全体のなかで、人間の労働力の投入がますます周縁へ追いやられている現状に立脚している。この状況では、一般的な労働はもはや価値の基準たりえない。ボードリヤールは、それがかつて一度も基準であったことはなく、生産中心主義の幻想にすぎなかったとさえ考える。資本は生産的労働の下位に甘んじたことなどない。資本主義の誕生当初から「神をつくる」作業を行ってきたのだ。無限に自己へと折り返す運動のなかで、労働者、工場、技術、消費などをすべて自らの体系へ吸収し、資本の文法だけに従う記号、「浮動する」シニフィアンに変えてきたのである。

1.2 生ける屍の生産

さまざまな要素が資本の運動へ組み込まれ、均質化される過程は、資本がそこから生命力を吸い上げる過程にほかならない。「剰余」は、労働の価格を差し引くことで生じるのではない。もっと根源的に、労働に価格がつけられ、労働力が市場で売買される瞬間に生じている。生産の具体的な要素がコードの列、数字の列へと変換された時点で、「剰余」はすでに生まれている。それ以降、流通に参加する要素はつねに、すでに隷属させられている。ボードリヤールは、この根源的な身売りを「自分の死を引き渡すこと」と表現する。社会のなかの人間は、すでに人質なのだ。自らの死を象徴交換の仕組みに引き渡し、それと引き換えに、社会生活の基準となる量化された死を手にするからである。「一般的等価関係とは死である」2。価値と死とのあいだには、等号が置かれたかに見える。そのため、価値を蓄積すれば、直線的に伸びる価値の無限に遠い終点まで死を先送りできる、という幻想が広く行き渡る。資本の無限性と時間の無限性が重なり、富を蓄える行為に偽りの進歩性が与えられる。だが、これは欺瞞にすぎない。交換できる死は、結局、本当の死ではない。本当の死のほうは、この蓄積の過程でひたすら消耗していくばかりであり、資本はまさにその消耗から生命を盗み取ることで、動き続けている。

普通の仕事なら、この消耗はゆっくりと進む。蓄積が完成する前に命が尽きることが多く、それによって先ほどの幻想は守られる。しかし博打打ちは、命を使って借りた元手を、命が尽きる前につねに使い果たしてしまう。つまり象徴的な死が現実の死に大きく先行し、奇妙な状態へと追い込まれるのだ。象徴交換の領域からはすでに退去を命じられたのに、肉体だけがそこに残っている。資本には理解できない状態である。『カイジ』の初期三部作には、こんな人々が至るところにいる。船上の賭けで星を失い、裸に剥かれてガラスの部屋に閉じ込められた者。日の光も届かない地下労働施設で暮らす者。カイジとの勝負ですべてを失い、その場で連れ去られる賭場の店長。ここで繰り返し姿を見せる帝愛グループの黒服は、清掃員の役割を担っている。象徴的な身分を失った「名状しがたいもの」を、都市のごみ処理システムのように、たちまち視界の外へ片づけてしまうのだ。福本伸行は、元手を使い果たすという象徴的な死を、現実の死に似せようとする(黒服に連れ去られる恐ろしい結末)。だが、この奇妙な状態で生きる姿は、実のところ主人公の伊藤カイジ自身に見て取れる。賭けをしていないときの彼は、汚れきった部屋で一日中寝転がるか、賭けたくてうずうずし、場末の賭場やパチンコ台でなけなしの金をすっている。この無為に日を送る怠け者の姿は、「生ける屍」という言葉にまさにぴったりだ。象徴的には死んでいるのに、肉体は死んでいない人間なのである。

しかし、さらに考えれば、「元手は尽き、肉体だけが残る」ことも、まだ本当の象徴的な死とは言えない。肉体もまた、元手の一つではないか。肉体を直接、賭博の元手とみなすこの「飛躍」は、象徴的な死と現実の死との区別さえ、便宜的なものにすぎないと示している。象徴そのものに人を死なせる力がある(そもそも「権力」とは、死の操作と管理なのだ)。ただ、普段はそれが表から見えないようになっているだけである。ある場では、象徴交換のこの残酷な側面がむき出しになる。だから私たちはそこを「裏社会」と呼ぶ。福本伸行が描くのは、まさにこの残酷な裏社会だ。そこでは身体も、チップの一つにすぎない。身体を呑み込む「賭博経済学」が私たちに示すものこそ、現代の資本主義経済の典型なのである。

二、値札をつけられた身体

2.1 残酷なチップ

チップは自由だ。かえって囚われているのは、その持ち主である。彼の運命のすべては、この数字の列にかかっている。それどころか賭場に足を踏み入れた時点で、生命のすべてが数字の列に変換され、計算へ組み込まれると言ってもよい。ここには、変形した「剰余価値」が見いだせるかもしれない。賭場は賭博の自由と公平をうたって、元手を携えた客を引き寄せる。だが客は知らない。チップは表向きの交換物でしかなく、賭場が本当に狙っているのは客の命なのだ。負けを清算できない客に、喜んで金を貸す賭場があるのも、その「生命の価値」を先食いするためにほかならない(現代の保険業と医療技術に包み込まれた生命は、文字どおりの価値へと完全に変換できる。逆に言えば、生命は現代社会の資源の一つであり、すでに値札をつけられている)。そして、この生命の価値は、貨幣が「残酷になる」過程で生まれる。

今日の貨幣は〈クール〉になった。〈クール〉とは、各項が緊密に、しかも感情を介さずに関係していることをいう。ゲームのルール、項の置き換え、その置き換えのあらゆる可能性を汲み尽くすことだけを糧とするゲームだ……私たちは記号のクールな段階にいる。今日の労働システムはクールであり、貨幣はクールであり、構造的な配置一般がクールなのだ。

クールとは、言説の価値を操り、文字を置き換えるだけの純粋なゲームである。もはや数字、記号、言葉だけを弄ぶ軽やかさと距離であり、操作的なシミュレーションの無限の権力である……メディアがメッセージになるとき、人はクールな時代に入る。貨幣に起きたのは、まさにこのことだ。貨幣がある分離の段階に達すると、もはや媒介でも、商品を流通させる手段でもなくなり、流通そのものとなる。すなわち、貨幣という抽象が旋回するなかで、システムの形式そのものが実現されるのである。3

金の意味は最小限まで切り詰められ、もはや数字の列でしかなくなる。「汗水垂らして稼いだ金」でもなければ、「あくどく儲けた金」でもありえない。残るのは一つの同語反復だけだ。金は金である。金が従うのは交換のルールだけであり、金をめぐるどんな操作も「ゲーム」にすぎない。ボードリヤールが貨幣を〈クール〉と呼ぶのは、貨幣がゲームのルールだけに従い、項(記号)として際限なく、目的もなく置き換えられるからだ。しかし、それではまだ貨幣の「残酷」な側面は指摘されていない。

第一に、貨幣を使う者は誰もが、この「交換ゲーム」への参加を強いられる。これが貨幣の普遍的な強制力である。第二に、貨幣はコード化によってその範囲を広げ、「金銭」という基本的な媒体をはるかに越えて、ある種の「万物の貨幣化」(あるいは万物の情報化)をもたらす。貨幣はあらゆる要素を交換の領域へ取り込み、無限の流通の循環に入れようとするのだ。あらゆるものが「値踏み」される。ただし「値」はもはや「価格」に限られず、「交換できる/流通できる」という性質にまで意味を広げる。どんなものでも交換できるのは、ただ、それらがすべて記号になったからである。ウェブサイト間で売買されるユーザーデータ、WeChatの投稿欄「モーメンツ」で、取りつかれたように自分の情報をさらし、交換する行為などがそうだ。流通が唯一の原則、絶対の命令となり、流通するのが貨幣か情報か記号か、それとも別の何かかは、もはや重要ではなくなる。むしろ流通の過程そのものが、そのなかを流れるあらゆる要素を同じものに作り変える。この過程は、それ自体すでに残酷なのだ。

数量的な等価関係が可能であること自体、すでに死を前提としている。賃金と労働の等価関係は労働者の死を、商品どうしの等価関係は物の象徴的な破壊を前提とする。あらゆる場所で、等価関係の計算と恣意的な調整を可能にしているのは死である。この死は暴力的なものでも、身体的なものでもない。生と死の恣意的な置き換えであり、ただ生き残るという状態のうちに、生も死も中和されること、言い換えれば、延異された死である。4

流通には根源的な象徴的暴力が伴う。この暴力によってこそ、あらゆる要素は一様な死物となる。象徴的暴力が有機的な身体に働くと、その破壊性はたちまち姿を現す。そのことを、以下に引く『千のプラトー』の一節で見てみよう。

2.2 売りに出される身体

コードが作動する平面は、厳密な意味での「存立平面」である。

存立平面は、あらゆる隠喩を取り除く。存在するのは実在するものだけだ。それは電子そのものであり、本物のブラックホールであり、実在する細胞単位であり、本物の記号の系列である。ただしそれらは、自らの地層を離れ、脱地層化され、脱コード化され、脱領土化されている。だからこそ、存立平面の上で互いに近づき、浸透し合える。無言のダンス。存立平面は、段階の差、桁の違い、隔たりを顧みない。人工と自然の違いを顧みない。内容と表現の区別を顧みない。それらすべては、地層を通して、地層との関係においてのみ存在する。5

ドゥルーズのいう「地層」とは、簡単に言えば、物事を規定し、区分する仕組みである。たとえば家族という仕組みは、何が父、母、息子なのかを定める。政治経済学は、何が資本、プロレタリアート、労働なのかを定める。社会的分業は、さまざまな職業を分ける。これらの地層は存立平面のなかに保たれ、物事に形を与え、それをシステムとして組み立てる。一方、脱領土化の過程は地層を貫き、地層による区分を取り払い、境界を壊し、異なる種類のものを、ふたたび未分化な形で存立平面の上に動かす。ドゥルーズはこの運動を、「強度の連続体」という像で描き出す。流通する粒子=記号にあるのは数値(強度/大きさ)の違いだけであり、それゆえ途切れることのない流れができる。存立平面の概念に基づき、ドゥルーズはある種の「器官なき身体」を描く。

CsO(器官なき身体)とは、すべてを取り除いたあとに、なお残るものである。そこで取り除かれるのは、幻想――意味作用と主体化がつくる総体なのだ。6

結局のところ、CsOについての偉大な書物とは、まさに『エチカ』ではないか。属性はCsOの類型、種類であり、実体、力、強度の原点は、生産の母体として働く。様態は、起こるすべてのことである。波と振動、移動、閾と度合い。ある母体から、ある実体の類型のなかで生産される強度である。7

CsOとは、欲望の内在の場であり、欲望に固有の存立平面である。8

器官なき身体――ドゥルーズにとっては、薬物中毒者の身体やマゾヒストの身体など――とは、「器官」という近代医学の区分を失った身体だ。より正確には、「有機体」としての機能の区分を失った身体である。有機体とは、階層化、機能化、集中管理を意味する。ドゥルーズから見れば、まさにそのような「地層」が身体を縛っている。器官を忘れて初めて、薬物中毒者は「冷たい強度」を、マゾヒストは「苦痛の強度」を手にする。身体が存立平面となり、その上を欲望が自由に流れるようになるからだ。ドゥルーズは器官なき身体を、ある種の実践の目標とみなしている。私たちはそうした身体を作ろうと試みるべきであり、地層の境界に縛られてはならないが、あまりにも激しい脱地層化によって身体を壊してもならない。しかし、ここで関心があるのは個人の欲望ではない。本稿の主題のために、ドゥルーズの議論のなかの欲望を「貨幣」に置き換えてみよう。

ドゥルーズによれば、身体はたいてい、外部の地層に縛られた状態にある。資本の運動は階層化されたシステムに依存しているものの、流通そのものである貨幣は、それ自体に脱地層化の力を持つ。器官なき身体を作り出すのは、ほかでもない、貨幣の流れだ。身体はそこへ投げ込まれ、値踏みされ、売買される。さらにドゥルーズの議論には、いっそう示唆に富んだ表現がある。彼がスピノザの『エチカ』を器官なき身体についての偉大な書物とみなすのは、器官なき身体と「強度」(あるいは「強度を生産する母体」)との関係が、スピノザの形而上学の体系における属性と実体との関係に等しいからである。属性は実体から独立した存在ではなく、実体の一つの「表現」にすぎない。属性は多様だが、実体は唯一である。属性が多様であっても相互の衝突が生じないのは、実体のうちで統一されているからだ。厳密には、存在するのは実体だけであり、属性は実体を表す、互いに異なる「実例」にすぎない。つまり器官なき身体は、あくまで二次的なもの、強度を流通させる通路でしかなく、いつでも取り替えたり、消し去ったりできる。有機的な身体はシステム(地層)のなかに保たれており、強度を通す必要が生じると、壊されて器官なき身体となり、通路の役割を果たすのである。

先ほど貨幣の「残酷」さを分析して見えてきたのは、まさにこの過程だった。貨幣の流れはいつでも、ある身体を自分の通路にできる。ただしスピノザの構想と異なるのは、貨幣が本当の神ではないことだ。貨幣は万物を包み込まない。むしろ万物を呑み込むことで、自らを神に仕立てる。だからスピノザの考えた一義性(両立可能性)は、ここにはまったく存在しない。すべてが価値へと疎外されるため、価値の流通がもたらすのは、人体と商品の耐えがたい「混合物」であり、そこには人体のある種の破壊が伴う。たとえば薬物を肛門や胃袋に隠す密輸、臓器の窃盗、さらには人の命や身体にかける保険。こうした操作が見せる、人体と商品が一つながりになった「器官なき身体」は、ドゥルーズが描いたものと何ら変わらない。結局、価値の流通が求める存立平面で実現するのは、象徴的なつながりだけである。肉体的で具体的なものは、必ず抑え込まれ、排除される。この過程が生産するのは、いびつな、継ぎ接ぎの、売りに出される身体だ。

売りに出される身体。このイメージは『カイジ』シリーズに繰り返し現れる。最初の船上の賭けでは、敗者たちは裸に剥かれ、ガラスの部屋に閉じ込められる。カイジを嘲笑したあの中年男が仲間に買い戻してもらえたのは、友情からではない。背中に貼った湿布のなかに、高価な宝石を隠していたからだ。ここに、売りに出される身体ができあがる。脱落した博打打ちは裸にされ、まだゲームに残っている者たちから隔離される。この操作が生み出す裸体/肉体こそ、博打打ちの「残余/残りかす」なのだ。この残りかすをごみとして処理させない唯一の方法は、肉体に救済用の「湿布」を貼り、肉体と商品を接ぎ合わせ、象徴的な価値が完全に尽きないようにすることである。その意味では、身につけて飾る宝石も、身体に隠した(「密輸する」)宝石も、大した違いはない。どちらも、肉体が廃品であることを覆い隠すものにすぎない。

『賭博黙示録カイジ』の漫画に描かれる失う身体部位を決めるルーレットと部位ごとの値段表
失う身体部位を決めるルーレットと、その値段表。指一本に120万円という値がつく。中国語原図ではさらに、胸が締めつけられるような緊張と刺激をうたう「損傷部位ルーレット」と、身体の各部位の値段であることが述べられている。

これらの例で私たちが見たのは、量化され、計算される死である。その量化は、人体に埋め込まれた貴重品の価格、身体の各部についた値札、人の命や身体にかけられた保険の金額に具体的に表れている。重要なのは、身体に施されるこの量化が、直接、生命への脅威になることだ。コードによる身体の脱領土化こそ、死の判決なのである。ただ、判決が執行されるまでには、いくらかの時間を与えられる。博打打ちにとって、それは賭けの卓についている時間だ。そう考えると、伊藤カイジの努力はすべて、刑の執行までの「猶予」を勝ち取るためにすぎない。

三、伊藤カイジの生還ゲーム

3.1 最低限の公平

賭けに入った瞬間、命はすでに他人の手に貸し渡されている。しかし、この死の脅威はすぐには姿を現さず、表向きのゲームの形に覆い隠される。象徴交換は、一定のルールと役割の配分を備えたシステムのもとで動く。前に象徴交換が持つ死の性格を分析したが、それはメタレベルの分析だった。ゲームのなかで交換する者に見えるのは、システムの内部から与えられるものだけである。わかるのは交換の「仕方」と「効果」だけ、具体的にはゲームをどう進めるか、そのルールは誰に有利かということだけだ。ゲームそのものの性格など気にしている暇はない。すべての力をゲームで「遊ぶ」ことに注いでいるからだ。まして、そのゲームに自分の利害がかかっているならなおさらである。こうした心構えのもとでは、腕のいい博打打ちは当然、最も細工しやすいルールと、自分に最も有利な役割の配分を選ぶ。あとはカモが食いつくのを待つだけだ。

福本伸行の描く小悪党たちが鼻にかけるのは、権力とルールの面で優位に立っていることだ。自分の力を笠に着て部下に賭けを強い、細工をして金を搾り取る小人物。あるいは、運さえよければ手に入りそうな高額の賞金を餌に、罠を仕掛けて「カモを釣る」賭場の店長。前者の代表が『賭博破戒録カイジ』の地下労働施設の班長、後者の代表が同作で「沼」を仕掛ける店長と、『賭博堕天録カイジ』で「地雷」麻雀をする店長である。持ち場に君臨するこの強欲な連中は、表向きのルール、秘密のイカサマ、そしてこの秩序を守る暴力を掌握しており、まるでリスクのない商売をしている。イカサマは露見しなければ問題ないし、見破られたところで、たった一人から儲け損なうだけだ。彼らは、自分の手に優位があるかぎり、確実に儲かって損はせず、この不平等な取引を永遠に続けられると思っている。

ルールが不平等であるため、カイジはいつも圧倒的に不利な立場に置かれる。途中で相手の仕掛けを見破っても、告発によって負けた分を取り戻すことはできない。卓上の掟では、悪いのはイカサマをする者ではなく、それを見抜けない者だからだ。とはいえ、どんなルールにも細工できるとしても、いったん賭けが始まればルールは変えられない。ルールはひどく不公平だが、そのひどく不公平なルールでさえ、最後に清算する瞬間まで必ず有効である。途中でルールを変えられないことは、ゲームが進むための必要条件であり、象徴的暴力が効力を持つための土台でもある。権力を持つ者が、相手を押さえつけようと好き勝手にルールを変えたら、それは象徴的暴力ではなく、直接の暴力になる。しかも、このルール破りは「醜聞」となり、権威を傷つける。そうなれば、自らの象徴的な身分を維持できず、失脚するか、必死に醜聞を隠すしかない。要するに、ルールの不変性こそが最低限の「公平」であり(象徴交換が作動するための最低条件だからだ)、カイジがルールを利用する唯一の道でもある。カイジにとっては、こういうことだ。

正規のところはどこも駄目だ! 地下でないと……つまり……必勝法のあるところ、相手が絶対に勝てる秘訣を持っているところ……つまり、いちばん期待できるのは、イカサマの可能性があるところだ! イカサマがありうるなら、裏を返せば、その必勝の仕掛けさえ突破すれば、こっちが必ず勝てるってことだ!

カイジが見抜いているのは、「賭博」という論理システムのメタ定理だ。具体的なルールが何であろうと、そこには必ずある種の可逆性がある。そのルールによって胴元が必勝となるなら、裏を返せば、自分も必勝にできる。この水準においてのみ、一文無しのカイジは相手と「平等」になる。カイジと賭ける者はみな、彼を救いようも価値もないろくでなし、自分たちの手のひらで弄ばれるしかない男とみなしている。ところが、この最低限の公平が顔を出した瞬間、耐えがたい恐怖に襲われる。それまで頼ってきたゲームのルールが、突然寝返り、自分を縛るものになったかのように見えるのだ。だが実際には、ルールは誰の命令にも従わない。ルールへの細工に頼る博打打ちなど、小物にすぎない(もっとも『カイジ』シリーズで、そうした小物でない人物は、おそらく兵藤会長くらいだろう)。

カイジと班長の賭けを描いた漫画の場面

地下労働施設の班長との賭けは、この「最低限の公平」の最も典型的な例である。カイジは、班長が大事な局面で四・五・六の目しかない特殊なサイコロを使うと、あらかじめ知っていた。そこで勝負の最中、その隙を突いてサイコロを奪い、イカサマを告発する(班長も初めは怪しんでいたが、50万ペリカの賭け金がかかった勝負で負けたくないあまり、結局イカサマに手を出した)。ただしカイジが告発したのは「ルール違反」ではなく、「ルールを隠していた」ことだ。班長の手口を暴いたあともゲームを続けるために、カイジはこの勝負の「特殊なサイコロ」を隠されたルールだと宣言し、そのルールを加えれば賭けを続行できるとする。

もちろん……続けるなら、さっき言ったとおり特殊なサイコロを使う。見破られる心配はない、安心して使えばいい! こっちも、そういう……似たものを使うんだから……!

続いてカイジは、自分で作ったサイコロを取り出す。班長が食べ残したステーキの骨と自分の血で作った、六面すべてが「一」のサイコロだ(三つとも一なら配当が最も高いからである)。こうして班長に、「仲間うちで特殊なサイコロを使う」というルールの有効性を認めさせる。さらに班長は、自分のイカサマが目立たないよう、親が勝てばずっと親を続けられるルールをわざわざ変え、「親は勝敗にかかわらず二回続ける」ことにしていた。この二つのルールによって、もとは50万ペリカの賭けだったのに、班長の損失は1000万ペリカを超えた。長年の蓄えは、金庫からすべて持ち去られた。

しかし、こう見ると賭博は、コツさえつかめばできるゲームとなり、勝ち負けはどちらが一枚上手かで決まるだけに思える。だがカイジは、気軽に遊ぼうとか、ひと儲けしようとかいうつもりで賭けに加わるのではない。賭けているのは命のすべて、さらにはそれ以上のものだと、はっきり認識している。たとえば班長との賭けの「参加費」は、自分と五人の仲間が三か月働いて貯めた金だった。負ければ班長に押さえつけられたまま、少なくともあと十五年の苦役が待っている。しかも地下施設の環境では、十五年も生き延びることなどほとんど不可能だ。カイジは「自殺行為」を繰り返すことで賭博に参加しており、残された資本は身体だけである。しかし、象徴的な生命を失った状態(借金を返せず、身の自由もない状態)では、肉体の死も時間の問題だ。だからカイジは、自分の命だけでなく、それ以上を賭ける。そうしなければ、生ける屍である彼は「復活」できない。命、さらにはそれ以上を賭けること。これこそ、カイジが極限の賭けで勝てる最も根本的な理由である。福本伸行は、兵藤和也の口を借りて、それを「博打打ちの資質」と呼ぶ。それが、ルールを弄ぶことしか知らない小人物とカイジを分ける。彼はつねに「全身全霊」でそこへ身を投じる。一回一回の賭けは、ただのゲームではなく、直接、死にかかわる自殺ゲームなのだ。

3.2 唯一可能な挑戦の仕方

命を買い戻すには、カイジは賭けるものを際限なく膨らませ、「金を賭ける」ことを「命を賭ける」ことへ広げなければならない。あるいは、金を賭けることが実は命を賭けることなのだという、真の姿を露わにしなければならない。『カイジ』シリーズの主題は、まさにここにある。伊藤カイジには個人資産など一切なく、「信用」など論外だ。だから金を借りる際の担保は、身体、つまり身の自由と身体の各器官しかない。賭けへ足を踏み入れれば、その瞬間から死に脅かされる。

では裏を返せば、金持ちは自分の資産の範囲で賭けているかぎり、死の交換から逃れられるのだろうか。そうではない。チップの交換が要求するものは、つねに所有資産の限界をはるかに越える。いや、むしろ逆に言うべきかもしれない。身体は「所有資産」の一部ではなく、そのすべてなのだ。賭けの卓上では、肉体と紙幣のあいだに境界はない。博打打ちはつねに命を賭ける。チップたりうるのは死だけであり、死は誰をも区別しない。命を差し出す必要があるのはカイジだけのように見えても、賭博という取引の特徴は、賭けるものを魔法のように膨らませることにこそある。賭博は資本の底なしの欲望が具体的な姿を取ったものだからだ。ゆえに、賭博が要求する金額は、どんな個人が出せる額をも、つねに上回る。賭博は、あらゆる参加者の命を狙っている。

死を賭けることで、もともとある種の「ゲーム」である賭博は、質を変える。ロシアンルーレットと、指を噛むサメのおもちゃとでは、まったく性質が違うのと同じだ。死という代償はつねに過激である。象徴秩序は、死を排除することで成り立っているからだ。死は意味の終わる場所であり、交換と循環の過程を壊してしまう(だからこの断絶を埋めるために、社会は死を征服しなければならない。「自然死」という近代の死に方は、清潔で、承認された「よい」死である。生命が自らの「生物学的」資本の終点に達したと示すからだ。一方、不慮の死は社会的義務を果たしていないとみなされる9)。この排除された死に取って代わるのが、至るところにある象徴的な死、あるいは「擬似的な死」だ。すでに論じた、量化して計算でき、流通に加われる死である。この「無害化」された死は、交換できない現実の死を身体のなかに閉じ込め、露呈するのを防ぐ。しかし賭博は、交換のなかに現実の死を呼び戻す。「売りに出される身体」の節で論じたとおり、賭博における身体は、脱領土化の流れに最も貫かれやすい。言い換えれば、賭博という「場」では、それまで覆い隠されていた現実の死が、最も容易にふたたび姿を現し、非合理で、耐えがたい本来の姿をさらすのである。

賭博における身体は、上場された債券や株式に似ている。金を出せば、その「所有権」が手に入る。利根川との賭けで、悪趣味な兵藤会長は、カイジが自分の聴力を元手に利根川と勝負することを提案する。

自分が何かを失うかもしれない危険さえ引き受ければ、一億円を手にする可能性がある……さっき命を賭けたカイジにとっては、ほんの小さな危険だ……目か、耳……!

耳の所有権については、こうも語られる。

こちらにとって、お前の耳は人質も同然だ。権利の半分はすでにこちらのもの、勝手なことはさせられない! 今は一時的に貸しているだけだ。勝負がつけば、お前の聴力は……こちらが没収する!

しかし、担保に入れたその耳が、カイジの突破口になった。鼓膜を破るために耳へ取りつけられた装置こそ、利根川のイカサマの道具だと気づいたのだ。そこで便所に行く口実を作り、洗面所で、何もできずに怒りを爆発させたふりをして鏡を殴る。その破片で耳を無理やり切り落とし、片手でタオルを傷口に押し当てて、装置を外したことを隠す。さらに仲間の一人を便所に隠れさせ、装置を両手で包ませることで、心拍の監視データが安定して送られるようにし、利根川を欺く。ここでカイジがしたことも、「ルールの逆用」にすぎない。だが彼が死を、さらにはそれ以上のものを賭けたことは、はっきり見て取れる。装置が耳の最も奥まで刺さる距離、すなわち自分に出せる最大の元手を賭けたのだ。負ければ、聴力を失うどころではない。針は三半規管を突き破り、死に至る可能性がきわめて高い。しかしカイジは、この「Eカード」という、皇帝と奴隷の関係をあからさまに暗示するゲームで、自らの死を賭けて「皇帝」に挑むことを選んだ。

自分の言ったことを覚えているだろう。奴隷は何も持たない人間、間違いなく……虐げられる人間だと言った……だが、その何も持たない人間……すべてを投げ出した奴隷なら、皇帝を倒せる……! 受けてみろ。これが……俺と仲間たちが死の淵で上げた……最後の声……最後の抵抗だ……!

初期三部作の第一部『賭博黙示録カイジ』の後半では、カイジと同じ境遇の者たちが、金持ちの見世物として命懸けで「関門」を突破するゲームに参加させられる。この勝負にたどり着くまで、カイジは屈辱と欺瞞にまみれ、数多くの仲間の恐怖、絶望、死を目にしてきた。物語に積もり積もった感情はすでに限界に達しており、Eカードでの逆転勝利は、間違いなく物語全体の頂点をなす。カイジは勝ち、借金をすべて返せる金を得て、無事に身を引ける。高みにいた利根川も、焼けた鉄板の上での土下座を強いられ、代償を払った。これで物語は一区切りつきそうだ。しかしカイジは、なお挑み続けると決める。正義のための「復讐」を続けるのだ。何も持たない奴隷は、自らの死によって皇帝へ挑める。それが唯一の挑戦の仕方でもあると悟った彼は、兵藤会長に賭けを持ちかける。

多くの読者は、カイジが兵藤会長への挑戦を選んだのは、福本伸行が続編を書くために無理やり作った展開だと考える。しかし、そこには必然性もある。『カイジ』シリーズの世界では、兵藤会長はある種の至高の秩序と権威を代表しており、反逆するカイジは、その権威と決着をつけずにはいられない。前に述べたように、賭博の「最低限の平等」があるからこそ、カイジはルールを逆用して勝てる。だが、その逆用を可能にするのはルール自体の力ではなく、外部にある上位の権威による裁定である。たとえば班長との賭けでは、帝愛グループの幹部・黒崎義裕10が裁定に入らなければ、班長はあらゆる手段でごねただろう。この「上位の権威」が秩序を保障している。抑圧の秩序、カイジのような者に苦痛と屈辱をなめ尽くさせる秩序を。ゆえにカイジが求める究極の目標は、秩序の否定なのである。福本伸行は、秩序に「代弁者」を立て、カイジが挑む「標的」とした。兵藤和尊会長だ。そして、『賭博黙示録カイジ』の冒頭から築き上げてきた、不屈で正義感にあふれた「英雄」的な博打打ちというカイジの像が、まさにここで問い直される。

3.3 英雄像の終点――「自殺ゲーム」

漫画のお決まりの展開に従うなら、兵藤はまぎれもなく、倒すべき「ラスボス」である。カイジの苦難の道のりは、兵藤を倒す瞬間に昇華され、人々が仰ぎ見る不朽の伝説となるだろう。だが、はじめに述べたとおり、カイジの物語は冒険でも伝説でもない。あえて言うなら、死の淵で生きようともがく、一人の博打打ちの物語にすぎない。その事実を明かすのが、兵藤とのこの賭けである。

カイジは、賭けのなかで重ねてきたあらゆる努力を、一つの目的へと向けた。命を取り戻したら、兵藤を倒す。さらに言えば、カイジが「生き延びる」とは、象徴的な次元で自分の地位を奪い返すこと(賭けの借金を清算し、社会へ戻ること)を指す。兵藤への挑戦も、象徴的な水準で秩序と権威に屈辱を与えるためだ。この思考の道筋は、実のところ、最初の船上で利根川が行った演説の主題を引き継いでいる。

お前たちは、せいぜい「勝てたらいいな」と思っているだけだ。だから、ここに立つ人間のクズになった。勝てたらいいな、では駄目だ……「何が何でも勝つ」と思わなければ駄目だ! お前たちはずっと負けてきた……だから今、誰からも好かれない! 貧しく、決断もできず、人生の底を……這い、這い、這い……ずっと這っている……なぜか? お前たちが……昔から今まで、ずっと負けてきたからだ! ただ一つ、勝つこと……勝たなければクズだ……勝たなければならない、勝たなければならない……勝たなければならない!

利根川は典型的な努力家であり、試験や人付き合いなどを通じて、一歩ずつ帝愛の幹部へ登りつめた。信条は勝利を求めること。勝利だけが象徴的な地位を上げてくれる。底辺にいるカイジも、実は似た論理に従っている。彼が反発するのは、利根川の論理の「人情に反する」側面、すなわち敗者をこの世の地獄に叩き落とす残酷さだけだ。だから死を代償に、象徴秩序へ挑むのである。象徴交換に、死より「大きな」交換物はない。象徴交換が受け止められる範囲を超えてしまうからだ。そして、まさにそれゆえ、死を賭ける博打は、象徴交換が「快感」を生み出す場でもあることを露わにする。

兵藤は秩序や権威の人格化というより、生粋の博打打ち、賭博を心から楽しむ者の姿である。威厳ある「ビッグ・ブラザー」ではなく、法と権威を担う「父の名」の裏返し、快感に耽る「肛門的な父」なのだ。それまでカイジの賭けを「死を賭けた挑戦」として解釈し、ある程度の革命性を付与してきたとすれば、兵藤という人物の介入は、賭博へふたたび欲望の次元を持ち込む。彼はカイジの大義をすべて、快感へと書き換える。「ゲームで遊ぶ」快感へと。

カイジ、お前ももう感じたはずだ……鉄骨を渡って生き残ったときも、さっきEカードで勝ったときも……あの瞬間、うれしかっただろう、ほっとしただろう、楽しかっただろう……たまらなく! 死の淵でもがくのは苦しいが、充実している……そして、そこから生還することは、この世で最も甘美なことだ。至上の幸せと言っていい……! あの快感は、とっくにお前の頭に焼きついているだろう! おそらくカイジ、お前のこれからの人生は……快感を追い続ける旅になる……!

ここで注目したいのは、カイジの立てた目的が、「命を取り戻したら、兵藤を倒す」という条件付きの命令、すなわち仮言命法になっていることだ。この条件によって「最終目的」は際限なく先送りでき、カイジは使命という自己暗示のもとで、「生還」を繰り返せる。兵藤の言葉はカイジの自己欺瞞を突き破り、自分の欲望を認めるよう迫る。死の淵を歩く極限の刺激に耽っているだけなのだと。カイジ自身がそのことを理解していないだけだ。自分の「生きたい」という強烈な欲望が、ただ「死を求める」狂気じみた欲動から来ているとは、気づいていない。まさにこの欲動が、カイジを何度も自ら死の賭けに参加させる。この意味でこそ、賭博はカイジを引きつける「自殺ゲーム」となる。また、いわゆる「博打打ちの天分」がカイジに現れるのも、死の刺激のもとでだけだ。彼は、この快感を求めて賭けに身を投じるときにしか勝てない。普通に記号だけを賭けるとき(金銭だけにかかわる賭博)には、その辺の凡庸な博打打ちと同じく、勝てないのである。兵藤との勝負も、『賭博堕天録カイジ』の地雷麻雀の勝負も、そのことを証明している。

騙されて賭けに引き込まれたカイジを描く漫画の場面
中国語原図の意味:賭け金を一千万円に上げてから連敗が続き、失敗と不運が重なる。カイジは、あの三人に騙されたのだと気づく。

カイジがパチンコ「沼」を攻略し、地下労働施設から生還すると、かつての仲間、三好と前田が訪ねてくる。二人の働く賭場の店長は、いつも従業員の協力で客の牌を盗み見ている。だから従業員である二人がその手を逆用し、今度はカイジのために店長の牌を盗み見れば、大儲けできるというのだ。だが実際には、二人はとうに店長と結託していた。どの客にも「うちの店長はイカサマをする」と吹き込み、客のイカサマを手伝うという魅力的な条件で「カモを釣って」いたのである。カイジも、儲けられそうで、しかも何のリスクもなさそうだからこそ承諾し、三人の罠にまんまとはまった。兵藤との勝負も同じだ。カイジは小賢しさゆえに道を誤る。ルールを利用して、必ず勝てる賭けを設計しようとしたのだ。便所のティッシュ箱の側面に、当たりを示す紙切れをあらかじめ挟んでおく。そのうえで、公平な賭け方を自分に決めさせてほしいと持ちかけ、ティッシュ箱からくじを引いて勝敗を決める案に、兵藤が同意するよう誘導する。しかしカイジの仕掛けは完全に見抜かれ、勝負は彼の惨敗、四本の指を失う結末に終わった。

カイジが居場所を失い、人々に蔑まれる「生ける屍」だからこそ、その窮地からの反撃は大きな力を見せる。彼が「絶体絶命から生還する」たびに、観客はきわめて大きな快感を覚える。それは正義が実現し、抑圧された者が「復讐」を果たしたからではない。自殺者が「生まれ直した」から、あるいは、自殺がもたらした死(賭博で命を賭けること)によって、最後にはカイジ自身が買い戻されたからにすぎない。この生還の過程は、単なる反復に見えるかもしれない。そこでは誰も本当に命を失わず、交換の前後で象徴的な価値も変わっていない。しかし、その過程では死の持つ「情熱」が余すところなく演じられる。価値の増殖が起きるのは、象徴交換においてではなく、リビドーの交換においてなのだ。人為的な死(とりわけ「自殺」)には美的な価値がある。冷たく退屈なシニフィアンの交換ゲームを超え、ある種の象徴化しがたい体験をもたらすからだ。それこそが、「美的なもの」の対象の特徴である11。

おわりに:見世物の一類型としての自殺ゲーム

『賭博黙示録カイジ』の物語も、ある意味では、冒頭で述べた「死の見世物」にすぎない。ただ、お決まりの映画が冒険や伝説という類型に属し、英雄の物語を語るのに対し、『カイジ』初期三部作の類型は異なる。社会的な身分を失った「生ける屍」を主人公に、死の罠へ繰り返し身を投じては生還を求める物語を語る。より正確には、「自殺ゲーム」を見せるのである。価値が最終的に実現することはもはやなく、死と生還の循環のなかで快感が再生産されるだけだ。

私たちは貨幣が残酷になる過程を見てきた。しかし人々は、その残酷さのなかに、残酷に身体が破壊され、死が訪れる光景のなかに(あるいはその光景を逃れる過程、すなわち「生還」のなかに)、かえって極限の快感を見いだす。さまざまな死のなかでも、自殺が引き起こす魅惑的な眩暈は、さらに見世物に向いている。「権威の手から、自らの命を処分する権利を奪い返す」という、想像のうえでの転覆をはらんでいるからだ。しかし、この転覆は、結局のところ政治の次元には入りがたい。つまり、自殺の意味を個人と社会の政治的な水準で説明し尽くすことはできず、この自発的な死は、美的なもののなかへ消えていくしかないのである。実際、「自己犠牲による転覆行動」に対して人々が共感し、称賛するのは、その正義感に満ちた倫理的な部分(転覆性)ゆえというより、ただ「自己犠牲」の部分に心を奪われるからではないか。主体が、自らの死を早める行為に全身全霊を傾けるとき、その一挙手一投足には、言い表しがたい魅力が宿る。

実現した自殺には、決裂と否定の性格がある。だが伊藤カイジは、自殺の実現を阻もうと懸命になっている。むしろ彼は、自殺という魅力を自分にまとわせているだけなのだ。いつまでも実現しない自殺。それが、自殺を一つのゲーム、一つの見世物として永遠に続けることを可能にし、快感の再生産を永遠に続けることを可能にする。まさにここに、コード化された死が見える。死は自己増殖する記号となり、無限の再生産へと入っていく。英雄伝説を語るお決まりの映画が、死を排除することで見世物として成立するとすれば、カイジの賭博は、死をコード化することで見世物として成立する。この二つの関係は、政治経済学と象徴交換の経済学との関係に似ているのかもしれない。

実際、『カイジ』シリーズは本稿執筆時にも連載が続き、第一部から数えてすでに二十五年になる12。それだけでなく、『中間管理録トネガワ』のような外伝的な作品まで生み出している13。もちろん福本伸行の多作ぶりと直接かかわっているが、カイジの賭博の物語そのものに、すでに述べた再生産の性格が備わっているのだから、どれほど長い物語が派生しても不思議はない。カイジの自殺ゲームも、実のところ『中間管理録トネガワ』の日常の小さな笑い話と同じく、見世物として、見物人の暇つぶしとして、際限なく増殖していけるのだ。

本文終わり
注13

注釈

  1. ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』、中国語版『象征交换与死亡』、車槿山訳、南京:訳林出版社、2009年、25–26頁。以下の頁数も原記事が参照する中国語版による。邦訳は今村仁司・塚原史訳、筑摩書房刊(出版社書誌)。 ↑

  2. 同上、203頁。 ↑

  3. 同上、26–27頁。訳注:原記事の引用語は「冷酷」。対応するフランス語の cool を踏まえ、ここでは〈クール〉とした。続く著者の「残酷」とは区別している。 ↑

  4. 同上、52頁。訳注:中国語引用の「延异」は「延異」と訳した。「差延」とも訳される語で、差異を生むことと先送りすることを重ねる。ここでは、とくに死の先送りが問題となっている。 ↑

  5. ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー』、中国語版『资本主义与精神分裂(卷2):千高原』、姜宇輝訳、上海:上海書店出版社、2010年、94頁。邦訳は宇野邦一ほか訳『千のプラトー――資本主義と分裂症』、河出書房新社刊(出版社書誌)。引用は邦訳からではなく、原記事の中国語から訳したもの。 ↑

  6. 同上、210頁。 ↑

  7. 同上、213頁。 ↑

  8. 同上、214頁。 ↑

  9. 『象徴交換と死』、前掲中国語版、226頁。 ↑

  10. 訳注:原文は「黑崎一护」。ここでは人物名を「黒崎義裕」とした。アニメ『中間管理録トネガワ』公式第16話あらすじ参照。 ↑

  11. 同上、230頁。 ↑

  12. 訳注:原文はここで「最新作は『賭博堕天録カイジ 和也編』」とするが、記事の日付である2021年11月20日より前に、すでに24億円を得たあとの逃走劇が連載されている。『ヤングマガジン』2021年20号の公式紹介参照。 ↑

  13. 訳注:『中間管理録トネガワ』は、原作・萩原天晴、漫画・橋本智広、三好智樹、協力・福本伸行。講談社の作品情報参照。 ↑

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