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関係形式の分析へ02

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文化が伝わる形式

作中人物の三角関係と「白夜行」モデルを出発点に、作者・作品・読者のあいだで文化がどう伝わるのか、エンコーディングとデコーディング、そして間テクスト的な関係へと考察を進める。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

文化が伝わる形式

はじめに

前篇では作中の人物関係を分析し、「三角関係モデル」と「白夜行モデル」という二つの基本的な類型を中心に描き出した。また、男性向け作品と女性向け作品の表現の違いにも触れた。人物どうしがどんな関係を示すにせよ、そこには必ず、観客が理解できる人格的な動機が表れる。ならば、関係に対する私たちの説明が、作品の創作や解釈を左右することも理解できるだろう。一方、三角関係や白夜行モデルの純粋なかたちは、現実にはなかなか実現しない。その「理由」については、新たな考えを示す価値がある。「幻想は現実と違う」なんて、言わずもがなだ。それでは、なおも「二次元のキャラクターと結婚したい」と願う、次元をまたいだ欲望の高まりは説明できない。不可能だと知っていても、私たちは想像し、ときには夢中にさえなるのだから。

こうした問いを重ねると、作品と観客のイデオロギーがどう相互に作用するかが重要になってくる。したがって両者の関係を論じる際には、物語の生き生きとしたテクストや、人物関係の表面をいったん「括弧に入れ」、作者や観客の背後にいる大文字の他者の姿、そしてテクストを読み解く過程の「差異」と「反復」を知る必要がある。本篇とそれに続く篇でも、やはり「関係」のなかに答えを求めたい。問題を二つに分けよう。1.文化はどう伝わり、誰に伝わるのか。2.ジェンダーによる差異を軸に、どんな文化、すなわちどんな「人間の関係」が伝わるのか、その原因と結果は何か。第一の問題を「伝達論」とし、作品と文化が伝わる過程の各地点を構造的に論じ、調べる。第二の問題は「文化論」とし、伝わる内容、その由来と結果を機能の面から論じ、調べ、批判的な考えを示す。本篇で重点を置くのは、第一の問題だ。

一、三項組

作品について語るとき、私たちはよく、作中の人物、作品の主題、そして主筋や脇筋をなすさまざまな出来事を吟味する。これまでの記事では、「人物」と「出来事の展開」とを結びつけているのが、キャラクター間の社会関係であることを、おおまかに見てきた。その関係から、人物関係のさまざまな基本構造――三角関係や白夜行モデルなど――と、出来事の展開のさまざまな基本構造――復讐劇やディズニー的な物語など――が生まれる。これから焦点を当てるのは、意見の「闘争」が最も起こりやすい場所のひとつ、作品の主題だ。まず、その伝達の構造を見よう。

左下の知識の枠組み・生産関係・技術的基盤から意味構造1、上段の番組、意味構造2を経て、右下の知識の枠組み・生産関係・技術的基盤へと四本の矢印が続く図。左右の意味構造には、いずれもエンコーディングと記されている
意味の伝達の図。上段は「意味をもつ言説としての番組」、左中段は「エンコーディング/意味構造1」、右中段は「エンコーディング/意味構造2」。左右の下段にはそれぞれ「知識の枠組み/生産関係/技術的基盤」が置かれている。右中段も図では「エンコーディング」と表記されているが、本文でいう受容(デコーディング)に当たる位置である。

文化研究の視点に立つと、文化が生まれてから消費されるまでの過程から、最も純粋で欠かせない三つの部分を取り出せる。作者、作品、観客(読者)である。この区分によって文化研究の基本的な立場が定まり、作品と読者のあいだにひとつの関係モデルが置かれる。スチュアート・ホールの「テレビ言説におけるエンコーディングとデコーディング」も、この点を強調している。メディア、内容、読者のあいだのやり取りは、生産(エンコーディング=意味のコード化)―テクスト(豊かな意味をもつ言説)―受容(デコーディング=解読)という三項組で表される。関係形式として見れば、各単位はほかの単位と外的なつながりをもつが、決定論的に前の段階を受け継ぐわけではない。つまり、文化の過程をなす各部分には相対的な独立性があり、それぞれに発展し、変化する。したがって、つながりに由来する外的な矛盾だけでなく、相対的に独立した各部分の内部にも交渉や衝突がある。エンコーディングとデコーディングが同一ではないために、誤読や理解の妨げも生じる。こうして、情報が伝わる際に違いが生まれる可能性が開かれる。この三者の関係の動きを簡単に示すため、まずは「生産―テクスト―受容」という関係を、より具体的な「作者―作品―読者」に置き換え、それぞれの相対的な独立性がどこにあり、どう相互につながるのかを考えよう。

まず、作者だ。テクストの主題に作者が与えるものを重視する考え方には、長い歴史があり、制度上のしがらみもある。中国の大学入試の読解問題などは、しばしばこの考え方に沿って出題される。私たちはふつう、創作は作者のイデオロギーの再現そのものではないにせよ、作者が受け入れたイデオロギーに由来する動機を含むと考える。そして、この動機を想定することは、読者に直接的な「誤認」をもたらすことも多い。ひどい展開があると、すぐ作者の責任にするように。もっとも、たいていの場合、この方法は確かに解釈を簡単にしてくれるし、正確でもある。雌鶏が自分の産んだ卵を食べるという日常の話を踏まえれば、唐辺葉介の作品にあるドストエフスキー的な沈鬱さも、よりよく理解できる。三秋縋が死をどう捉えているのか、その実存主義的な理解を知れば、作品の悲劇性もいっそうよくわかる。小説や漫画には、冒頭や末尾に作者の略歴やあとがきが添えられることが多い。私たちはそこから手がかりを拾うのだ。

一方、創作の経験がある人なら、作者が制作中に伝えたい主題は、つねに明確なわけではないと気づくだろう。それどころか、たいてい作者は、政治的あるいは美的な目的のために頭を悩ませてはいない。自然の成り行きに任せて創作するか、無意識にそうした目的へ近づくかである。後者は精神分析が好む説明だ。作者の身に起きた出来事や文化的な衝突は、しばしば経験から得た素材として使われる。たとえば、ある男の子が単純な吊り橋効果で女の子の好意を得る場面を描いたとしても、それは作者が、女性は頭が単純だとか、女性の気持ちはたやすく手に入ると考えていることを意味しない。もっとありそうなのは、ほぼすべての男性向けハーレム作品に似たような展開があるのを見て、それをなぞったという説明だ。そうすれば市場に受け入れられるし、単に楽しくて面白いだけかもしれない。作品と現実の関係をほどよく切り離すことは、読者と作者の道徳的な不安を和らげる。

雲の広がる空の下、手すりのそばに立つ男女を描いたモノクロの挿絵

第二の項は、作品そのものだ。私がこれまで書いた記事の多くも、主にこの部分を扱ってきた。研究者が作品を見る際には、字句の配置、修辞、人物、関係、筋など、テクストの構造を重視し、作者の立場や目的を安易に推測しない。英国の新批評や現象学的な文学理論では、この点がとりわけ強調される。直感的に見ても、作品そのものには、作者が容易には操れない部分がある。設定、すなわち人物や事物の基本的な関係の構築である。作品の設定はしばしば、作品のロゴスとして働く。理解可能な作品の規則性であり、作品のなかで共通に認められる「現実」だ。ロゴスが確立し、エンコーディングが完了すると、それはかなりの程度、作者を上回る権力を獲得し、多義性の可能性へと開かれていく。そのとき本を書いているのは、しばしば作者ではない。設定なのだ。設定は、作品のイデオロギーが自律的に働くための有効な枠組みを与えると同時に、作者と切っても切れない仲間にも敵にもなる。作品ごとのロゴスは、ファンによる読み解きも支える。たとえば、複雑な設定で知られるライトノベル『とある魔術の禁書目録』で、白い翼をもつ一方通行と、聖母と神の子の二つの属性を備えた聖人、後方のアックアの強さをどう比べるか。原作には両者が対決する場面はない。だが、小説に描かれた力の強弱、さらに重要なこととして、「聖人」や「白い翼」の設定を理解すれば、おおよその力関係は導き出せる。勝ち目は「三対七」だ、「四対六」だと、結論はいくらでも分かれる。それでも議論できるのは、まさしく原作に力の体系について豊富な設定があるからだ。作者が理由もなくその設定を覆せば、「承認」の危機に直面するだろう。

一方通行を描いたイラスト

ロゴスによる制約は、作者の自己認識、そして読者との関係にも及ぶ。以前の記事で私は、作者が意図して、あるいは無意識に仕込み、のちに物語を動かす鍵となるものを、象徴的な目印――いわゆる伏線――と呼んだ。これが作品のなかに集中しすぎると、まず観客の「ワーキングメモリ」が過負荷になり、デコーディングが難しくなる。さらに、肝心なところで回収されなければ、残った伏線は作品の論理を傷つける。大した影響がないものもあれば、致命的なものもある。作者の側では、自分の作品を拠りどころに、長年にわたって内面化してきた自己像がある。この主体としての自己認識と、結果の見えない「作風を変える」という行動とが矛盾するのだ。たとえば2005年以降の虚淵玄は、心温まる物語が書けないことに苦しんだ。それは本当に書けないというのではなく、自ら課した最低限の基準に届かないということだった。従来のやり方を守るか、革新へ踏み出すか。その葛藤のなかをさまよい、彼は一時、ヒステリーに陥るほど苦しんだ。過去の創作経験から蓄積された「暗い悲劇」の図式が、自由な創作を大きく制限し、経路依存を生んだのである。

『Thunderbolt Fantasy』の人形二体のあいだに座る虚淵玄。「原案・脚本・総監修 虚淵玄(Nitroplus)」の日本語表記がある

読者の問題を考えると、三項組の関係の一般的な形式へと進むことになる。読者は、三項組の最後で意味を解釈する役割を担う構造上の位置だ。歴史の長いあいだ、この位置は受動的で、創造性も生産性もないと考えられてきた。ロラン・バルトの「作者の死」から、フーコーによる語る主体の脱構築へと進むなかで、文化と権力の分析は、ひとつの中心に拠点を置かなくなった。ようやく人々は気づいた。読者は孤立した受信点ではなく、階級として一方的に形づくられるだけの存在でもなく、作者と同等の創造者でもあるのだ。「二次創作が公式を追い詰める」現象さえ珍しくない。読者どうしはもともと異質であり、作品へ入っていく視点も違う。だからこそ、自らの思想に組み込まれた権力の遺伝子を携えて作品を読み解き、誤解や自己愛的な想像を持ち込む。フーコー的な意味で、この権力はつねに系譜の上位にあるものの影響を離れられず、消極的、受動的に広がっていく。主体は言説によって形づくられ、縛られる。それに対しドゥルーズでは、権力は積極的で創造的であり、いつも組織の束縛を離れて遊動する。主体が成立する根拠は、言説の絶対的な差異の水準にこそある。二人のこの違いは、サブカルチャーの解釈に対する二つの異なる見方を示すのに使える。

文化研究では、階級、人種、ジェンダーを、差異を研究する入り口にするのが常だ。だが、それは過度な一般化にもつながりやすい。観察から帰納する質的研究や、代表性だけを捉える量的研究では、とりわけよく起きる問題である。対象をあるアイデンティティの類型で描き出すことはできるが、それで十分になることはない。いつもその類型には収まらないアイデンティティが浮かび上がり、「私たちはそうじゃない」と、研究者に憤りをぶつけるかのように異議を示す。だから、さまざまな読者のアイデンティティの現れを、ある特定の類型として分析すれば、多くの反論が出てくる。ときには、目につきやすい差異をいったん迂回し、ある集団の具体的なあり方に共通する核へ近づかなければならない。ここに気づくことはとても重要だ。私たちの認識の習慣や文化的背景を形づくる生活経験自体が、さらに広く深いイデオロギーの相互作用の結果なのである。この見方を取る人は、しばしば「文化論」の分析に力点を置く。

制服姿の二人。一人は本を胸に抱え、もう一人がそのそばに身を寄せている

二、文化の伝達

三項組の関係から、文化の伝達の基本的な連鎖が見えてきた。生産―テクスト―受容である。初期のマルクス主義は、階級のイデオロギーがつねに一方向に伝わることを比較的強調した。言い換えれば、読者はつねに、公的なイデオロギーの注入を受動的に受け入れる。作者も、自分が文化の代理人だとは必ずしも自覚していないが、慣習化した文化の空気のなかで、その役目を果たす。先に触れたように、作者が男性向けハーレム作品をお決まりのものと考え、かわいい女の子を描いて「お色気サービス」をすることには、家父長制のイデオロギーとの一定のつながりがある。もっとも、そのなかには丁寧に扱うべき細部が数多くある。構造主義化したマルクス主義はさらに、作者をこうして文化の代理人として利用することについて、明確に権限を与える主体がいるわけではないと指摘する。ヘゲモニーが持続できるのは、集団を抑圧するからではない。むしろ逆に、社会の現実と、その現実を説明する仕方を与えるからであり、人々はそれによって呼びかけられる。こう見ると、作者、作品、読者は、すべてより広大なイデオロギーの産物である。三者は現実についての説明を互いに与え合う関係にあり、それが強化された「市民社会」を形づくり、ヘゲモニーを覆い隠す。コミュニケーション研究の領域では、伯羅とシュラムがフロイトの無意識や意志論の考え方に基づき、大衆は知らず知らずのうちにイデオロギーの「皮下注射」を受け入れると説いた。これも、一方向的な思考の典型的な結論である。

しかし1980年代から、この見方は異議を突きつけられ、補われていく。ホールはグラムシのヘゲモニー論から、アルチュセールが薄めてしまった部分、すなわち具体的な各段階における闘争性を掘り起こした。イデオロギーの伝達は、つねに上からのものを下がそのまま受け入れるとは限らない。ホールのエンコーディングとデコーディングの過程は、伝達のずれを示している。観客が理解した意味が、イデオロギー装置の与えた意味と一致してこそ、その範囲でヘゲモニーが働いたといえるのだ。映画の装置や欲望を喚起するカメラは、その一致を起こそうとする。だが、まれにこの過程が失敗することもある。そこから、テクストをめぐる読者と作者の意味の交渉、さらには衝突が始まる。三項組の各部分は、力の差が大きい闘争が絶えず起きている場所とみなせる。主流のイデオロギーとは異なる、さまざまな創造的な誤読は、ヘゲモニーを突き破る糸口になる。

バーミンガム学派の見解は、その後の文化理論に大きな示唆を与えた。ジャニス・ラドウェイは、アメリカ中西部の地域社会でロマンス小説を読む女性たちに、小説への理解や態度を調査した。ここでいうロマンス小説とは、女性の視点から男女の恋愛を描く作品である。彼女が見いだしたのは、作品が家父長制文化によってあらかじめ定められた女性の価値や目標からは逃れられない一方で、男性性のあり方に対する非難も少なくないということだった。ラドウェイは、この現象を説明するためにラカンの考え方を適宜借りている。男性が情愛を抱く潜在的な力は、象徴秩序によって体系的に抑圧され、女性の位置に立って女性を理解できなくなる。そのため女性の不満や恨みを買うのだ。ロマンス小説には、家父長制から逃れようとするフェミニズム的な側面が見られる。物語の初め、ヒロインは男性キャラクターに何かと反発する。結末ではつねに女性が男性の愛を得て、その男性に頼って利益や成功を手に入れるにせよ、男主人公の性格は変わっている。ロマンス小説の終わりには、男主人公はしばしば「女性化した男」、読者の前に欠如をさらす主体になる。

「いかにも男っぽい男」が優しく、気が利き、家庭を大切にするようになる。「俺様社長」の威圧感も、ヒロインへの一途な愛のために薄れることが多い。なかには、彼女を必要とする「ヒステリー」さえ示す男もいる。精神分析の次元では、これは女性化の症状なのだ。これは1980年代の例である。いまでは、こうした王道の表現形式も、女性の欲望に新たな違いが生じるにつれて次第に変わりつつある。支配的なイデオロギーがすべてを覆い隠しても、「闘争性」はなお存在する。

盆を持つ少女の頭に長髪の男性が手を置く漫画。大きなコマの左側に、少女の横顔と、その肩に触れる手を描いた細いコマがある
画像内の中国語の台詞は、右が「手間をかけたね」、左が「ありがとう」という意味。

三、メディア革命と間テクスト性

いまの状況では、三項組の各項も、ホールが論じたときのような一定の概念の境界には収まらなくなっている。メディア革命が、生産と消費を時間順に分け、隔てていた壁を壊し、この変化を後押しした。まず、イデオロギーの「代弁者」だったマスメディアから、個人が発信するメディアへの移行が進んだ。インターネットやオンラインゲームの発展に伴い、かつての本とテレビのモデルは、文字ベースのオンラインゲームであるMUDやチャットルーム、2chや百度贴吧といった掲示板のモデルへと徐々に置き換わった。互いにコメントする機能が大きな役割を果たし、読者はもはや「受け入れる」「読み解く」だけでは満足せず、「創る」ことを望むようになった。この時期には、小規模に運営される掲示板やチャットルーム、MMOゲームによって、それぞれ独自に動く「仮想コミュニティ」が形づくられ始めた。メンバーはコミュニティの価値観とその境界を共有していた。コミュニティは、コンテンツの制作や管理といった基本的な機能も備えていた。

その後、より高機能な個人発信型のプラットフォームが作られると、異なる仮想コミュニティどうしが、プラットフォームの公共圏を通じてつながり始める。中国のSNS、微博のさまざまな「界隈」がその例だ。同時に、「さまよう個人」が大挙して押し寄せた。その多くは、ある集団におとなしく収まらず、いくつもの文化圏を横切って、密なアクター・ネットワークを形づくる。インターネットの情報伝達上の比類ない利点によって、彼らは空間と時間の制約を乗り越え、ボヘミアンから、あちこちを駆け足で見て回る「観光客」へと姿を変えた。画面上を流れるコメント、いわゆる弾幕の仕組みは、アニメへのコメントを手軽で素早いものにし、アニメを創造的に「翻案」してもいる。オープニング曲への空耳コメントは、生産と消費の両方を兼ね備えたものにほかならない。一方、解説コメントは「構造的空隙」として、「観光客」と筋金入りの作品ファンのあいだに橋を架け、ときにはそれ自体が作品理解に欠かせない一部となる。

これに伴い、現実の空間も広がり、その境界が破られる。私たちがよく知る物理的な空間も、情報化された。だが、それは想像の空間とはまた違う。アニメ・漫画のイベントや同人誌即売会は、イデオロギーの闘争性が入り混じる異質な空間だ。私たちは確かにそこに立ち、方角、標識、音といった情報は、私たちの先天的・総合的な空間概念のなかで伝わる。しかし、会場のしつらえはロマンティックで精神的なものだ。既存の空間の仕組みに絶えず意味を与え、舞台上のパフォーマンスや趣向を凝らしたブースが、そのイベントならではの主題を際立たせる。もともと主題と無関係だったものにも、物理的な空間と想像の空間が重なるところで、新たな意味が与えられる。たとえば会場を巡回する警備員。彼は見知らぬ他者、あるいは第三者でありながら、まさにイベントを構成する一部でもある。

イベントの文化がもたらす想像の空間と、人が身を置く物理的な空間とを、二つに分けて分析する見方は、もう時代遅れだ。衣装を着て、あるいは単なる来場者として会場に入ると、私たちは他者を見ながら、同時に他者からも見られ、感じ取られている。その場に固有の環境が、固有のルールを生み、人々はそれを内面化し、行為を生み出すハビトゥスにしていく。「第三空間」の均衡は、イベントの規則と、二次元の観光客たちがそれを踏み越える行為とによって、慎重に保たれる。そこは現実を拒むが、無法地帯でもない。この空間では、エンコーディング―作品―デコーディングの三者の伝達、交渉、闘争が、絶えず同時に生じている。豊かな意味をもつ「テクスト」と、それを読み解く「人」とが、ほとんど等しくなるのだ。

中国語の看板を掲げたブースと、多くの来場者でにぎわうアニメ・漫画イベントの会場

二次元文化でとりわけ目立つ、こうした相互作用の「革命」は、三項組の過程を一段階進め、「間テクスト性」をもたらした。第一に、この行為の過程の「脱埋め込み」、すなわち従来の時空から離脱し、その制約を裏切ることである。二つのコメントは、投稿された時刻が大きく離れていても、同じ映像の上にとどまれる。コメントは共時性を得て、擬似的なリアルタイム感を作る。第二に、創作の担い手の移動がある。分解と組み合わせによって映像作品の意図を脱構築し、自分の意識を表す装置を作り出すのだ。簡単にいえば、言説が主体を形づくり、主体もまた言説を形づくる。行為者は他者を翻訳すると同時に、別の主体である他者によって翻訳される。こうして豊かな内容をもつアクター・ネットワークが形づくられる。だから次篇で「人と文化」の関係を論じる際には、ときどき「作者」と「読者」を同じものとして扱うことになる。また、ここには、同人創作が作者の語りのヘゲモニーを乗り越える次元も示されている。『Re:CREATORS』が描いたように、「承認力」そのものは、作者の意味の体系と読者の意味の体系との闘争を映し出すと同時に、作品内部のロゴスを土台にしている。最強のキャラクターは、むしろロゴスを欠いた者だ。大衆の創作が、その正当性をじかに与えるのである。同人創作の過程では、さまざまに誇張された美意識も、暗い好奇心も、すべて満たされる。

作品ロゴとキャラクターを配した『Fate/Grand Order Arcade』のキービジュアル

こうしたネットワークの関係が生む衝突を、文化の衝突を理解する入り口にすることにも、ラディカルな立場の人々からは反対がある。イデオロギー全体を構造的に捉える視点を失いやすいからだ。間テクスト的な関係を、動き続ける過程と想定し、そこに参加する主体、つまり身体も、ドゥルーズ的な意味で組織化されていない個体だとする。すると、増殖し続ける文化の枝葉末節で衝突が次々に生まれ、徒労に終わることに力を費やす。闘争は、消極的自由をもつ主体の、ばらばらな闘争になってしまう。たとえば、「二次元」とは何かというアイデンティティの承認や否認にこだわること。おなじみの言い方をすれば、二次元の集団はいくらでも分割できる。そして無限に分割できるからこそ、境界を引くための部族間の戦争は、しばしば概念の意味をめぐる平板な衝突を生む。「二次元とは○○だと思う」「いま二次元と呼ばれているものは○○だ」といった具合だ。言説の政治の究極的な行き詰まりにぶつかれば、自分のなかに閉じこもり、レヴィナスの存在論的な困難に陥るか、そうでなければ、複数の個人が新たな共通の価値を作り出し、もとの大きな氏族から分かれ、対抗的な文化の部族を組織する。こうした局所的で関係的な政治が、全体を見渡し、まとめる政治に取って代わり、本当に解決しなければならないトラウマの核を覆い隠す。

だからこそ、「他者の顔」が隠される情報時代には、全体を捉える政治の真剣さへ戻ろうとする人々もいる。「器官なき身体」の否定的な側面にも目を向けなければならない。イデオロギーの影が覆う場所とは、まさに主体が自分はいないと思っている場所なのだ。逃げ出した身体は、逃走元の領域に二度と戻らないとでもいうのか。この欲望の遊牧は、まさに欲動を成り立たせる行き詰まりのなかにある。主体は「自らが否定する側にこそ、現に存在している」。この事実に向き合わなければ、遊牧する欲望が抽象的な要素に捕らえられるのを目にすることになる。資本化された「二次元」がそれだ。

先ほどの弾幕も、資本化への道を免れない。動画ポータルや、さらには映画制作会社が制作を「オープン化」する過程で、弾幕を技術的に利用するようになれば、それはもはや完全に自由な創造の次元ではない。企業がコメントの反応からユーザーデータを分析し、最も売れそうな部分を見つけ、創作者に創作の方向を無理に指定し、ときには圧力までかける。そんな現象が、ますますよく見られるようになっている。

目を閉じたアニメの少女の顔に、多色の中国語の弾幕コメントが幾重にも重なっている
画面に重なった中国語の視聴者コメント。「日光浴しているだけ」「疲れた、魔力を補給しなきゃ」「こっちに来るな!!!」などのコメントが画面を覆う。

読める中国語コメントの意味:左上から「お前たち、俺に近寄るな!」「おい、俺に近寄るな」「疲れた、魔力を補給しなきゃ」「大丈夫。疲れた?」「美人を見ている邪魔をするな」「日光浴しているだけ」「弟よ……」「いやいや」「こっちに来るな!!!」「疲れてない、失せろ」。右側には「海が見たい」「うん、疲れた」「すごく疲れた」「ごめん、ブサイクはお断り」「姜凱」「失せろ! 二次元の恋人とのデートの邪魔だ」「ああ! 心筋梗塞みたいな感じ」「犯罪に誘っているだろ」。

エンコーディング―作品―デコーディングにおける闘争性を扱うには、系譜学的な過程を見過ごせない。文化をひとつの言説として捉え、その伝達が権力の伝達でもあるのなら、権力という視点から作品の問題に切り込める。そして作品自体を越えて、ある類型に共通して映し出されるイデオロギーを調べることができる。そうすれば、作品と人との関係は明確になっていく。狭義の二次元の文化商品も、広義の規則や制度も、共通する核をもっている。こうした文化は、つねに人から誤読され、人と対立しながらも、それ自体で存在するに至っている。発達した資本主義の産業のもとでは、作者はもはや自分の経験を型にする必要がなく、大量の読書や映像鑑賞を通じて作品を作れる。したがって文化の更新は、人を媒介にするだけで、人ではない領域、たとえば資本主義の構造のなかで起きる可能性がある。

狭い意味では、先に述べたように、作品の設定が作品の「現実」を書いている。広い意味では、文化の「設定」もまた、人類の「現実」を書いているのだ。二次元には、とりわけそれがはっきり表れている。現実の人間とは明らかに違うのに、なぜ私たちは自ら次元を下げてそれを楽しむのか。しかも逆説的に、それを現実と区別し、まるで両者に何のつながりもないかのように考えるのか。矛先を向けるべきなのは、創造のもとにある観念の内容、つまり、私たちが虚構の人物や関係をどう捉えているかだ。そこに目を向ければ、そうした捉え方がどこから来たのかを考える手がかりになる。

まとめ

以上、本篇では、作品論としての関係分析からいったん離れ、大衆文化が伝わる経路と過程を説明しようと試みた。まず、三項組の伝達を理解してもらうために、「作者―作品―読者」という比較的具体的な連鎖を挙げ、その三つの部分とつながりを論じた。次に、文化が伝わる経路、つまり連鎖そのものを取り上げ、伝統的マルクス主義の「全体的な一方向性」と、新マルクス主義の「局所的な闘争性」という見方を紹介した。最後に、メディア革命を手がかりとして、間テクスト性とそこに残る問題を考え、ラディカルな視点へと戻った。

次篇では、人物の関係形式の分析に残された、皆さんの関心も高いであろう話題に取り組む。私たちは現実のなかで、作中の人物関係をどのように学び、捉え直すのか。つまり、伝達される内容、その背後にある文化の大文字の他者とは、いったい何なのか。

(読んでくれてありがとう。)

参考資料(略記)

括弧内の日本語は、原題の意味を示すための説明訳。

  • スー・ソーンハム『激情的疏离:女性主义电影理论导论』(情熱的な距離――フェミニズム映画理論入門。主に第4章)
  • 陸揚・王毅『文化研究导论』(文化研究入門)
  • スチュアート・ホール「电视话语中的编码与解码」(テレビ言説におけるエンコーディングとデコーディング)
  • 文軍『西方社会学理论:经典传统与当代转向』(西洋社会学理論――古典的伝統と現代的転回。アルチュセール、グラムシに関する部分、およびブルデューに関する部分)
  • エドワード・W・ソジャ『第三空间』(第三空間)
  • 楊駿驍「弹幕论——软件结构的权力与模块化的文化」(弾幕論――ソフトウェアの構造がもつ権力とモジュール化する文化)
  • 汪民安編『身体的文化政治学』(身体の文化政治学)
本文終わり

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