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関係形式の分析へ01

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二次元の三角関係と「白夜行」

作中人物の三角関係と「白夜行」モデルを出発点に、作者・作品・読者のあいだで文化がどう伝わるのか、エンコーディングとデコーディング、そして間テクスト的な関係へと考察を進める。

著者: 钟子默翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

二次元の三角関係と「白夜行」

鍾子默の著者アイコン。傘を差す黒髪の少女のイラスト
鍾子默

関心:ACG文化研究/ジェンダー/空間/思想史。共感があふれて止まらない、周縁の観察者。

はじめに

観客である私たちには、こんな経験があるはずだ。作品を見終わって、ふと思い立ち、もう一度再生し、キーボードを叩く。話題の作品について、思いを書きたくなる。こうした衝動は、アニメ・漫画・ゲーム(ACG)でも、映画でも、より伝統的な小説でも変わらない。ところが、ひととおりの紹介を終えて筋の分析に入ると、ひとつの難問が立ちはだかる。作中のそれぞれのキャラクターがもつ個性と役割を、どうすれば説得力があり、論理の通ったかたちで説明できるのか。キャラクターは作品の魂であり、作品全体の行方を大きく左右する。そこを深く読み解かなければ、作品によっては筋に残された数多くの空白を埋められず、最後には解釈の説得力にも響いてくる。

ACG作品のキャラクターをどう分析するかについて、批評家によって力点は異なる。いまよく見かけるのは、人物の生活史を掘り下げ、その経験から読み解く手がかりを探す方法だ。一方、映像作品のなかで人物が果たす機能に注目する立場から、ある物語構造のもとでキャラクターがどんな役割を果たすかを探る人もいる。前者には共感があり、キャラクターに人格的な魅力を与えようとする。論じる途中で、批評家自身の感情を投影した想像が入り込むことも少なくない。後者はキャラクターを作者の意図、あるいは市場が求める物語を実現する装置として理解しようとする。抽象的な人間性から切り離し、物象化された、一般的なデータベース上の存在として位置づけるのだ。ただし、どちらが優れた方法かを論じる際、見落とされやすい重要な点が三つある。第一に、どのみち作品は作者が生み出したものであり、キャラクターが他者による想像である事実は変わらない。その成長は現実の人間の成長にかかわっており、両者は完全に切り離されてはいない。第二に、作品ごとに性質が違う。ひとつの固定的な人物分析の方法を使い続けようとする人は、この違いに試される。第三に、キャラクターをめぐるある存在だけが、作中の人物どうし、そして人物と観客とを密接につないでいる。それは私たちを虚構の状況へと誘い込み、キャラクターを支える豊かな背景にもなる。その存在こそ、この記事の主題である関係だ。

白い髪をなびかせるキャラクターのイラスト

関係を定義するには、個人の生活史や構造と区別する必要がある。個人の生活史の分析でも、当然、筋に触れ、そのなかの入り組んだ人間関係を取り上げる。ただし出発点は、ある一人の成長を歴史として捉えることにある。文章の構成にもそれは表れ、たいていは人物ごとに小見出しを立て、物語の時間順に論じていく。それに対して関係分析は、歴史の時間を空間へと折り畳む視点を取る。通時性をいったん取り払い、関係を、すでにそこにある空間的な配置として捉え、ジンメルのいう「社会的総合」を掘り起こす。そうすることで、視点がキャラクターの経験の記録だけに閉じるのを避けるのだ。たとえば、男女が交際のなかで担う役割の類型を見れば、それぞれの経験を述べるだけでは足りない部分を補える。とはいえ、ACG作品の「社会的総合」は文化産業の構造的な産物でも、血の通わない分析材料でもない。それ自体に豊かな感情と、筋の通った論理が宿っている。関係のなかの「人」という要素を理解しなければ、私たちがキャラクターに感じるリアルさも、物語が私たちに与えた影響も捉えられない。

関係分析は、人物の生活史を読む際の経験主義的な欠点と、データベース分析における機能主義の傲慢さを補おうとする試みだ。ACG作品の状況を現実の生活の状況と結びつけることで、キャラクター分析に新たな道筋を示したい。本稿の前篇と後篇では、それぞれ「作中人物の関係」と「作品―観客の関係」について考えていく。

一、作中人物の関係へ――三者関係とその変形

ACG作品が現実の生活を「昇華されたかたちで映し出す」ことを関係分析の足場とするなら、現実の生活を形式から分析する方法も、作品の人物関係へ創造的に転用できるはずだ。ジンメルの形式社会学は、生き生きとした面白い考え方を与えてくれる。彼は具体的な現実社会から、最も純粋な社会の形式を取り出そうとした。唯名論者が唱える個人の行為の分析とも、実在論者が唱えるマクロな機能分析とも異なる方法である。社会を、幾何学的な関係として表すのだ。

この枠組みのなかで、ジンメルは社会分析の最も基本的な単位を鋭く捉えた。三者関係である。三者関係は、あらゆる社会の出発点と考えられる。個人は主体哲学の出発点であり、自己の内面を探究する対象にはなるが、社会のなかで共に存在するために主体性が損なわれるという問題は扱えない。二者関係では主体間の相互作用が生じるものの、互いに相手しかいないため、二人だけに閉じた親密さと特殊性が生まれる。広く一般化できる現実の要素を備えておらず、ロマンティックな幻なのだ。三者関係では、第三者が加わることで、二者関係の閉じた親密さに質的な変化が起きる。それぞれが同時に二人に対して責任を負い、微妙な集団の均衡を保つために、相手に応じてまったく違う行動を取らなければならなくなる。家族の関係がまさにそうだ。父母のどちらか一方が子どもと親密になりすぎれば、夫婦の愛情をめぐる契約が試される。だからこそ、適度な距離や冷淡さを保ち、充足の代わりに欲望(欠如)を残すことが、三者関係の安定を強く支える。そして、この欠如こそが社会の形式の基本的な属性をなす。したがって三者関係は、社会分析の終着点ともいえる。複雑な社会的交わりの形式は、どれも三者関係から変化して生まれたものだからだ。ジンメルはこれをもとに第三者の類型を示し、「仲介者」「裁定者」「利益を得る者」「分割して支配する者」に分けた。ただし、ここでACG作品の三者関係を論じる際には、その分類をそのまま使うのではなく、作品のための新たな枠組みを作ってみたい。

(一)三角関係モデル――三者関係の特殊な形式

ACG作品、とりわけ学園恋愛ものの三角関係は、観客が好んで話題にするものだ。ただし、どの層に向けた作品かによって、三者関係の分析も異なってくる。男性向けの異性愛作品では、物語はたいてい一人の男主人公と二人のヒロインの感情的な結びつきを軸に展開する。なぜ男主人公がもう一人の男主人公と恋を争う話ではないのかって? 男性向け作品でそれが起きれば、観客はむしろNTRと呼びたがるからだ。そこには、ある程度ジェンダー文化の要因がかかわっている。この結びつきは、一方では観客を覗き見る者の位置へと導く。自分の身体を重ねる想像を通じ、男主人公に代わって享楽を得て、欲望の対象へと感情を転移させる。その結果、推しをめぐる激しい派閥争いも生まれる。他方、この結びつきは人物どうしの恋の進展を阻むものでもある。物語は恋の成就を否定しながら足踏みを続け、終盤のクライマックスになってようやく、象徴的な目印――過去の時空と結びつく物や出来事――が再び現れる。それを手がかりに主人公は選択する。つまり、恋愛の三角関係は三者関係のなかでも最も特殊なものなのだ。その結末では、「三人」という関係形式が「二人―社会(世界)」という三角の形式へと書き換えられる。そして、たいてい物語もそこで終わる。「お姫様と王子様は、幸せに暮らしました」という、空虚なシニフィアンを残して。

水辺の石段にいる三人の女性キャラクター

ここでは、一部の作者が熟知している三角関係の定番を取り上げよう。男性向け作品のなかには、三角関係に面白い特徴が見られるものがある。男主人公の性格はさまざまだが、多かれ少なかれ性的倒錯の構造を伴っていることが多い。しかも、多くの場合、抑うつ症まで伴う。それは人との接し方に表れ、消極的に回避する人であれ、積極的なお人好しであれ、誰か一人をそう簡単には手放さない。前者は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(以下『俺ガイル』)の比企谷八幡のような憂うつ質に対応する。青春などもう死んだかのように振る舞い、自らを去勢することで主体の権力と欲望を放棄する。それによって場全体の調和を保つと同時に、自己愛的な幻想を阻み、お団子ちゃんこと結衣や雪乃への転移を長引かせるのだ。後者は『WHITE ALBUM2』の北原春希の多血質に対応する。相手を区別せず気遣い、一見積極的に振る舞うことで、自分を関係の心地よさのなかへと沈めていく。たとえば学園祭のあと、雪菜の突然の告白というトラウマの核を前に、春希のなかに芽生えていた冬馬への想いは乱れる。プレイヤーには、彼がこの複雑な心理状態のなかで何度も揺れ動くさまが、じかに感じ取れる。

明かりのともる夜の街で向かい合う二人の女性キャラクター

男主人公以上に興味深いのが、鍵を握る二人のヒロインの描き分けだ。男性向け作品では、女性キャラクターは欲望の対象として描かれることが多い。萌え要素のデータベース分析をひとまず脇に置き、関係形式だけを見ると、二人はそれぞれ男主人公から近い位置と遠い位置に置かれ、心理的な距離に差をつけている。この距離の違いが、読者に新鮮な体験をもたらす。ここではひとまず、近い側のヒロインを「身近なタイプ」、遠い側を「神秘的なタイプ」と呼ぼう。身近なタイプには、自然と近づきたい、守りたいと思わせる人柄がある。また、物語の構造上は平凡な「いま、ここ」とつながっており、ふつうは日常を踏み越えない。神秘的なタイプは、距離の遠さゆえに美的な崇高を生む。冷ややかな誇りや落ち着いた気品を感じさせる輝きをまとい、つかみどころがなく、欲望を満たせないという欠如の感覚を呼び起こす。物語に危険をもたらす可能性を秘めているのだ。両タイプの暮らし方や背景の人間関係には、必ず大きな違いがあり、それが三角関係に不安定さを加える。

この分類は、現実の文化でもおなじみだ。脂ぎったノンケ男には、女優をこう品定めしたがる者が多い。清純そうで、小柄でかわいらしければ、近所にいそうな妹のような子として、妻にするのに向いているという。逆に、才能にあふれ、セクシーで謎めいた女優なら、理想の愛人とみなす。范偉主演のテレビドラマ『老大的幸福』でも、この二つのタイプが描き分けられている。家庭の事情から足つぼマッサージの仕事に来た梅好は身近なタイプ、仕事のできるキャリアウーマンの辛雯は神秘的なタイプだ。范偉演じる長男は、自分のまわりにいる二人を、いかにももっともらしく「物扱い」までする。梅好を自分の足にもっと合う靴にたとえるのだ。そこには、結婚した男の支配と妥協がほのめかされている。もちろん青春学園ものでは、この男性優越主義も「純愛」という幻想があるために抑えられる。男主人公、幼なじみ、学園一の美少女というのが、最も典型的な三角関係だ。そしてほぼ例外なく、ボーイ・ミーツ・ガールというかたちで関係が成立すると、幼なじみは駆け引きの犠牲になる。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の雪乃、結衣、八幡

身近なタイプで重要なのは、男主人公との心理的な距離が近いことだ。彼にとって見慣れた「現象」であるため、意識を向ける対象から外れてしまうこともある。性格が優しいとは限らず、ときには電波系や無口・無表情・無感情といった非日常的な属性さえ備えている。ただし、より大きな社会集団のなかでは、必ず周縁に追いやられた位置、あるいはまなざしを向けられる位置にいる。こうした間接的な配置が、男主人公との関係の特別さを強調する。同時に、家庭の経済的な基盤は男主人公の家庭と似ているか、同程度であることが多い。支え合って生きる家族がいるか、あるいは気遣いのできる母とユーモアのある父に恵まれた円満な家庭があり、その関係のなかで平凡な愛情を受けている。それが彼女と男主人公のあいだに、親しさと似た者どうしの感覚をもたらす。たとえば『俺ガイル』では、由比ヶ浜結衣がこの役割を担う。明るく、人助けを惜しまず、男子にも人気があるが、三浦優美子を中心とするグループでは比較的周縁にいる。人間関係の空気(aura)を読み取ってしまうことにも苦しんでいる。一方、家庭は温かく、仲のよい核家族だ。『true tears』の「鶏飼い娘」こと乃絵も、電波系の属性ゆえに周縁の位置を占める。兄とはとても仲がよく、愛情を注がれている。同じことは『高考恋爱一百天』の木馨にもいえる。こうした家庭環境と、そのなかで人物が占める位置が、キャラクターに「平凡」の印を刻むのだ。

制服姿の二人の少女。右の少女は眼鏡をかけている

それに対して、神秘的なタイプは男主人公から心理的にやや遠い。彼の心を震わせる「工芸品」として、欲望のまなざしを向けられる位置を得る。そしてしばしば、彼にとっての「崇高」となる。このタイプは並外れた才能や優秀な成績をもち、冷ややかで誇り高い態度や、落ち着いた気品を備えていることが多い。より大きな社会集団のなかでは、優秀すぎて近づきがたいという、もうひとつの周縁の位置を占める。もうひとつ重要なのは、たいてい家は裕福なのに、思いもよらない家庭の圧力を受けていることだ。厳格な大文字の他者である母や父がいて、長く家族との冷酷な駆け引きにさらされているか、あるいは家庭が壊れ、早くから自立を迫られ、他人の世話まで担わされている。想像に難くないが、この家庭環境の設定こそ、作者が女神のようなキャラクターにあえて残した心の隙間であり、男主人公が入り込む余地なのだ。『俺ガイル』の雪ノ下雪乃、『true tears』の湯浅比呂美、『高考恋爱一百天』の羅小涵が、ここでの説明に当てはまる。

女性一人に男性二人という女性向けの三角関係ものは、この男性中心の関係モデルからある程度外れる。女主人公は、作者や観客が期待する去勢を必ずしも受け入れなくてよい。そのため、性格の幅も広い。男性の欲望の対象を装い、身近なタイプや神秘的なタイプの女性になることもできる。『ハチミツとクローバー』のはぐがその例だ。逆に、男性を欲望の対象とし、いくつかのタイプに分ける側に回ることもできる。そのとき彼女は、自立して見る者でありながら自ら参加もするという、矛盾した位置を得る。前者は女性作家による男性向け作品に比較的多く、いまでは後者のほうが一般的だ。そこには、ある程度、女性の自立意識と美意識が表れている。このタイプの女主人公には、ちょっとずるい思惑や、現実味のある性格上の弱さがあることが多い。態度は決して優しくないが、たいていは人目を奪うスペクタクルにもならない。とはいえ、多くの女性向け作品で、強い女主人公を中心に据えるスタイルが現実の異性愛関係をなぞり、恋愛では受け身の期待を示していることも否めない。主人公はいつも慌ただしく立ち回り、恋には不器用で、そのことが欲望の対象の気を引くのである。

赤と白の背景に並ぶ三人のキャラクター

三角関係が生じるとき、男性キャラクターの性格も「近い」「遠い」という「距離感」で分けられる。近い側の男性も、身近なタイプと呼べるだろう。ただし男性向け作品の「近所の妹のような子」と違い、女性向け作品の「近所のお兄さん」には、主体性や積極性があることが多い。よくしゃべり、軽い態度で人に接し、女主人公との日常のやり取りも余裕たっぷりにこなす。だが実際には、日常の言葉のゲームのルールを守っているだけで、彼女への欲望は心の奥に埋め、読者にだけそれとなく見せている。この人物が胸を打つのは、冗談が苦しみの仮面にすぎないからだ。それに対して「神秘的な男の子」は、先ほどの「神秘的な女の子」より、さらに完璧である。大きなトラウマとなる出来事すらなく、ただ神秘的であるために神秘的な男性もいる。文学少年でも、教師でも、理性的なギークでも、俺様社長でもよい。専門分野では我が物顔に振る舞いながら、優雅さを失わない。身近なお兄さんがときどき弱さを見せるのに比べ、神秘的な男性は能力が高く、態度も積極的だが、肝心なときに限って性的には冷淡だ。『ひるなかの流星』では、主人公すずめの隣の席の大輝と、初恋の相手が、それぞれこの役割を担う。『ショートケーキケーキ』も同様だ。理久は見た目こそ軽いが、実際は一途な忠犬であり、文学少年の千秋は、物語の序盤ではその優雅さによって神秘性を示している。ただ残念なことに、女主人公の芹沢天は、当初の機転と警戒心のある姿から、恋に溺れる姿へと変わっていく。その変化には、かすかな不安を覚える。とりわけ、ちゃんと身なりを整え、理久にふさわしい彼女になろうと決めたあたりから。

日本語の題名とマーガレットのロゴが入った『ショートケーキケーキ』の縦長カラーイラスト

こうして見ると、異性愛作品の三角関係は、中心となる男主人公あるいは女主人公によって固定されると同時に、その中心によって抑え込まれてもいることがわかる。私有制の文化に影響された恋愛関係は排他的だ。中心人物の欲望の対象となる二人は、同じ人を愛したことで、その関係に亀裂の危険を抱え込む。しかし中心人物がいるために、あるいはもともとの交友関係があるために、嫉妬は禁じられる。恋敵を引き裂いてやりたいと思っても、「そんな私を、好きな人はどう見るだろう」と、つねに考えなければならない。あるいは、かつて友だちだった相手を蹴落としてよいのか、不安に陥る。腹を割って話せば、どんな結果になろうと「関係の解体」は避けられない。恋に敗れた側は、二人の親密な関係の外にいる「他者」へと戻る。このトラウマ的な出来事をできるだけ先延ばしにするために、主体は、自分と同じく中心人物の欲望の対象である恋敵と、互いに埋め合わせをし、満たし合う微妙な関係を保つことを選ぶ。偽装である。それに「素敵な関係を守る」という名前をつけようとするのだ。具体的には、恋を争う二人が長期にわたる心理的な駆け引きに入り、身を引くこと、憎しみ、和解、感謝といった複雑な感情を積み重ねていく。ときには自分の欲望に背き、自分が退くことで中心人物の幸せを守り、「あの人が幸せなら、それでいい」と考える。これは抑うつ症的な倒錯をきわめて招きやすい。またときには、愛する人から受けた好意によって、自分はかけがえのない存在だと感じる。中心人物に自分を重ねる観客の多くは気づかないが、この状況は、同性どうしが欲望を向け合う伏線にもなっている。実際、三角関係で最も衝撃的なのは、主人公が欲望の対象の一人と安定した恋愛関係を築くことではない。主人公が退場し、欲望の対象だった二人の同性愛が成就することなのだ。

この節の冒頭で述べたように、三角関係ものの主な矛盾は、三角関係の動的な駆け引きの過程にある。そして、この関係は結末で崩れていく。主人公はいずれ現実へと向かい、心のなかの本当の感情を受け入れる。欲望の対象のどちらかは必ず退場を迫られ、無数の人々からなる「他者」のなかへ戻る。三角関係は、「二人の世界」と「現実の世界」が分かれた状態へと帰っていく。だが、別の一群の作品では、その状態こそが物語の始まりなのだ。

(二)「白夜行」(逃亡する恋人たち)モデル――三者関係の一般的な形式

ここで、より一般的な関係形式が分析の対象に入ってくる。物語の比較的早い段階で二人が親密な関係を築くと、今度は二人の絆と過酷な現実との不釣り合いに対処しなければならなくなる。二人にとって最も重要なのは、この社会とどう付き合っていくかだ。これは、もともとの議論にいっそう近い状態でもある。三者関係とは、具体的な三人の人間の関係ではなく、三つの位置がなす形式の関係なのだ。その位置を占めるのは、生物学的な意味での個人ではない。人間にかかわる、ある象徴である。

中心人物が二人しかおらず、恋人や固い友情で結ばれた仲間など、並外れて親密な関係にある作品がある。そこに現れる第三者は、具体的な誰かではない。政治であり、社会であり、空気であり、世界全体であり、九十九機関である(引っ込んでろ!)。第三者が親密な二人に試練を与え、物語を動かしていく。この関係モデルをもつ物語では、心をえぐる展開が比較的生まれやすい。そのぶん、主人公の魅力も存分に示される。主人公はたいてい「日常の人」ではない。日常の人とは、現実の生活でよく出会う、言動に特徴はあっても常軌を逸することのない人のことだ。多少なりとも歪んだ心、平凡とはいえず、ときには抑圧的で壊れてさえいる家族関係、誘拐や殺人といった凄惨な経験。そうしたものが、この種の人物を構成する重要な属性になる。「逃亡する恋人たち型」「ロミオとジュリエット型」といった呼び方のほうが一般的だが、私はここでは「白夜行モデル」と呼びたい。ひとつには、多くの人がこの作品を知っていて、三文字で作中の人物関係を思い浮かべられるからだ。もうひとつには、亮司の周到さと雪穂の残酷さが、多くの人に深い印象を残したからである。この類型の物語は、「二人―社会」の関係にある矛盾を極端に際立たせる。同時に、個人の英雄主義という精神的な核を悲劇の外殻で包み、平凡な日常の代わりになる満足と、新鮮な体験を与えてくれる。逃亡する恋人たちを描く残酷な物語の典型は、とりわけ『白夜行』や『暗い部屋』に見られる。

手をつなぐ二人の黒いシルエット

なぜこうした作品は胸を打つのか。社会の周縁にいる人々がなお保っている崇高な美の意味に、ボードレールは早くから気づいていた。一方で彼らは、貴族的な気質と政治的美学への期待を保っている。純粋に形式的な、救済と抵抗への希求である。他方、彼らはすでに社会から排除される集団となっている。俗悪の極みであり、社会の慣習からさえ容認されない側に回っているのだ。このとき排除は、アブジェクシオンへと変わる。排除されるのは、否定的な要素の残余、社会に属しているのに社会が絶対に受け入れられないトラウマなのだ。狂人は愚者の船に乗せられ、罪人は投獄され、「主体」は他者となり、法的人格をもつ者はホモ・サケルになる。こうして周縁の集団が担う歴史的な否定の働きは、期待を託せる現実のものとなる。

夜の窓辺で寄り添う二人のキャラクター

もちろん、その意味が映画のスクリーンに映され、大衆小説に書き込まれるとき、抵抗の要素がついには幻想のなかへ縫い込まれることは否定できない。それでも私がここで示したいのは、彼らの関係形式もまた、これらの作品のなかに残されているということだ。ボードレールが周縁の人々の暮らしを共感とともに描いたように、私も「白夜行モデル」の二人のやり取りが、大文字の他者による脅しや誘惑のもとで、どう観客の心を動かすのかを考えたい。日常を語る物語が世を覆う今日、商品の記号的な関係が、かつて人と人とのあいだにあった象徴や感情の交換に取って代わった。まなざしを交わすことの意義も、遠隔コミュニケーション技術の登場とともに歴史的な敗北を喫した。「苦難を共にする」ことはずいぶん贅沢になった。だが、過去の英雄主義的な精神は、いまも人々の心のなかに美的な意味を保っている。日常生活を踏み越える、ある種の震えとして。物語がこうした周縁からの抵抗を示すやいなや、主人公どうしの親密な関係は憧れの対象になる。二人の個性や育った環境はあまりに特別で、第三者が与える苦難は普通の人にはあまりに重い。これこそ本当の愛なのだと、私たちは信じなければならない。それが幻想のキッチュであろうとなかろうと、読者や観客がなぜ作中の人物を好きになるのかは、十分に説明できる。

赤い背景の前で抱き合う二人のキャラクター

ACGの領域では、「白夜行モデル」は、学園ものと、よりハードな凌辱ものやサスペンスとで、二人を襲う苦難の「量」は違っても本質は同じだ。前者が直面する「思春期症候群」も、後者の「殺人・誘拐事件」も、同じ第三者の二つの側面にすぎない。それどころか、日本の物語には、学園ものとサスペンスの境がない作品も少なくない。『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』や『CARNIVAL』がそうだ。同じように、白夜行モデルをとる作品は、どちらのジャンルでも、あまりに複雑な象徴秩序の背景には踏み込まない。二人と政治との駆け引きをはっきり取り上げる作品は、実際には非常に少ない。多くは、学校でのいじめ、誘拐犯罪、壮大だが空虚な機関――セカイ系的なもの――によって、この三角の関係を成立させている。もしかすると、この政治的想像力の欠如があるからこそ、複雑な人間性や偏執的な心理に焦点を絞った日本の物語は、これほど人を引き込めるのかもしれない。

『青春ブタ野郎』の桜島麻衣と梓川咲太を描いた、日本語の台詞と人物紹介入りカラー挿絵

しかし同時に、このモデルでは、心をえぐる凌辱の物語でも、存在の意味を探るシリアスな物語でも、二人の関係が狭い時空に閉じ込められがちなことに気づく。屋上、倉庫、地下室といった閉ざされた空間。あなたと私だけが知り、世間の誰も知らない秘密。家族関係は、作中で触れられる象徴秩序のなかでも、すでに最も明確なもののひとつなのだ。ここには、社会分析に抵抗する動機が隠れている。魅力的な二人を本気で描くには、第三者を捉えどころのないものにしなければならない、と作品が考えているかのようだ。そうなると、どうしても問いたくなる。白夜行モデルに魅力があるからといって、政治的想像力の欠如を埋め合わせられるのか。答えを見つけるのは難しい。ただ、第三者を描くときに一部の作家が見せる綻びから、この現象に気づくことはできる。

厳密にいえば、田中ロミオの物語には社会学的な緊張がある。「中二病が恋をする」という野放図な幻想に浸っているとき、『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~』や『ユメミルクスリ』の物語は、まさに頭を殴られるような一撃になる。もちろんロミオの、学校でのいじめや中二病を題材にした作品も、より広い象徴秩序の問題を扱ってはいない。だが、具体的ないじめの加害者という媒介者を導入することで、社会関係の矛盾まで持ち込み、不調和を生んでいる。

『AURA』の「白夜行モデル」は、中二的な趣味への共鳴を土台にしながら、次の事実のなかへ引き込まれていく。佐藤一郎は、かつて中二病ゆえにいじめられ、笑いものにされた経験があり、ヒロインの佐藤良子も、現にいじめを受けているのだ。これは間違いなく、象徴秩序と中二病の自己愛的な幻想との激突である。物語の矛盾が和解へ向かう場所もやはり屋上であり、和解のかたちはきわめてロマンティックだ。しかし、その結果として良子は、普通の女の子になることを望む。観客は、安心できない空気のなかに置かれる。

中二病の想いは、本来「完璧」であるはずだ。善も悪もすべてを含み込めることが、その完璧さなのだから。ただひとつ、現実(real)だけは含んではならない。ロミオは社会関係の現実を、堂々と目の前に差し出す。これは「ライトノベル作家」が推奨するような戦略ではない。『聲の形』のように「白夜行」的な関係をそのまま「学校でのいじめ」という社会秩序のなかにとどめるわけでもなく、『中二病でも恋がしたい!』のように恋愛の幻想のなかへとどめるわけでもない。観客や読者がそこに見る三者関係は、人物どうしの現実的な衝突から来るのでも、男女の恋愛の衝突から来るのでもない。現実と想像の衝突から来るのだ。中二的な幻想を描く作品としては、真面目すぎる。現実を批判する作品としては、大げさすぎる。ロミオのほかの作品をよく見ても、多かれ少なかれ、この緊張が見つかる。業界という荒野を真剣に描こうとしているはずなのに、どうにも場違いな「萌え」が混じる、といった具合に。白夜行モデルが、第三のものを無視し、薄めることで三者関係から抜け出そうとするのはなぜか。その原因については、別の考察と調査が必要だろう。

個人的には、純愛の幻想を突き破る「白夜行」がもっと見たい。私が百合作品を本格的だと見るかどうかも、そこにかかっている。残念ながら、よく知られた作品のなかでそうしたものを見かけることは、めったにない……。

杖を手にした人物と、その背後で寄り添う人物を描いた幻想的なイラスト

まとめ

以上、本稿ではACGの人物関係と社会関係を分析する基本的な枠組みを探ってきた。個人の生活史の考察とも、物語の構造の考察とも異なる、人物関係の基本的な形式に焦点を絞る方法である。そのうえでジンメルの三者関係という概念を借り、ACGに典型的な三角の関係として、三角関係モデルと白夜行モデルを具体的に論じた。恋愛の三角関係は、実は三者関係の特殊な形式だ。関係をなす主体の一人は結末で必ず退場し、もとの三角関係の場は「二人―社会」という関係の場へと変わる。その関係の場を、新たな物語の前提に置けば、ここでいう白夜行モデルになる。白夜行モデルには、日本の作品の書き方の特徴が表れている。政治的な媒介を取り除くか薄めることで、「三者関係」を「二者関係」のように見せるのだ。こうしたテクストの特徴が生まれる理由は、別の次元から分析する必要がある。

図1。私・対象1・対象2の三点を置き、両対象から私への好意をプラスの符号で示す。私の欲望の先には赤い疑問符があり、対象どうしの関係には赤い斜線が入る
図1 単純な三角関係(変化前)。物語のなかでは、主人公の欲望を知るすべがない。しかし、対象1と対象2はともに主人公と肯定的な関係にあるため、両者の関係に対立のもつれが生じる。関係が破綻したあとには、肯定的な関係(友好)へ移ることも、否定的な関係(憎悪)へ移ることもある。
図2。私と対象1は好意で結ばれ、対象2の位置は他者になる。私と他者の双方向の線には赤い切断線があり、対象1と他者を結ぶ双方向の線にも赤い斜線が入る
図2 単純な三角関係(変化後)。物語の後半では、主人公はふつう欲望の対象を定め、恋に敗れた側は第三者になる。同時に、恋に敗れた側と主人公との関係にも、もつれが生じる。主人公が問題に気づけば、双方がこのもつれを抱えることになる。『School Days』では、双方が憎しみを抱く悲劇が生じた。矛盾が解消されれば、甘い展開を楽しむこともできる。
図3。二つの主体が赤い双方向の愛の矢印と二つのプラスで結ばれ、大文字の他者とのあいだには憎悪・抵抗の線とマイナスが置かれる
図3 白夜行型の関係。二つの「主体」を「愛」が結び、「大他者」は「大文字の他者」を表す。一方には主体どうしのあいだに保たれる感情があり、他方では二人が、大文字の他者から似たような圧迫を受けている。それによって主体は互いを求め、いっそう親密になる。大文字の他者の描かれ方はすでに曖昧になりつつあり、抵抗はしばしば、世界を救い、日常生活を救うかたちで行われる。

作中の関係を論じるなかで、作品と、その外にいる観客とのつながりにもすでに触れた。後篇では、この「作品―観客」の問題に重点を置いて考えていく。

雪乃、結衣、八幡を描いた『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の、淡い光に包まれた結びのイラスト

本文終わり

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