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吉田喜重『告白的女優論』――人間モデル、まなざし、場

画面の隅へ追いやられる人物、人物を見返す物。人間モデル、まなざし、場を媒介概念に、吉田喜重『告白的女優論』の構図と空間、見る/見られる関係を分析する。

著者: 屋顶现视研翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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学級委員・一条さん

Words are flowing out like endless rain into a paper cup.

芸術哲学者は芸術の本質に関心を寄せるが、ついには、類としての形式という考えをいっさい放棄してしまう。それぞれの作品が唯一無二の独創性を持つ以上、本質的な類として認められるのは、普遍的であると同時に個別的でもある、芸術それ自体というただ一つの類になるからだ。ここでの誤りは――ベンヤミンがかつてドイツ初期ロマン派を批判したときと同じく――現実に存在し、しかも重要な感性的構造や形式を、差異のない(芸術の)統一へと溶かし込み、それらの還元不可能な多様性を否定してしまうことにある。――『スタンフォード哲学百科事典』「ヴァルター・ベンヤミン」の項1

『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序章」で、ベンヤミンはこう書いている。

概念は、その媒介する役割によって、現象を理念の存在に参与させる。……理念を通じて現象を救済することで、経験を手段とした理念の叙述もまた成し遂げられる。理念はそれ自体で自己を叙述するのではなく、概念のなかで事物の諸要素が関係づけられる、その関係においてのみ自己を叙述するからだ。しかも、諸要素の布置としてそうするのである。

私は、ベンヤミンのこの言葉についての、ごく浅い理解を足場にして本稿を組み立てた。媒介となる一組の概念を選び、特定の文脈で分析し、展開していく。人間モデル、まなざし、場――これらは映画研究の一般的な用語ではなく、いささか奇妙な抽象的意味を持つ概念だ。その概念によって事物、すなわち映像の諸要素を分解し、整理し、組み合わせる――「配置し直す」――ことで、映像の諸要素がなす布置を示したい。この全体の布置、この私が表そうとする仮想的な対象を、私はいささか通俗的に、映像の形式・様式の問題と理解し、本稿全体の核に据えている。

本稿で主に取り上げる映像は、吉田喜重監督の『告白的女優論』(1971)からのものだ。作中で撮影される同名の映画がクランクインするまでの二日間に三人の女優に起こった出来事を、この映画は非連続的に語っていく。本作が撮られたのは、喜重が長篇映画を続けて監督していた最後の年、つまり全盛期の末であり、いわゆる「日本近代批判三部作」――『エロス+虐殺』(1969)、『煉獄エロイカ』(1970)、『戒厳令』(1973)――を手がけていた時期でもある。本作は『煉獄エロイカ』と『戒厳令』のあいだに撮られた。四作には、撮影が長谷川元吉、音楽が一柳慧という共通点がある。また、いずれも実験的、前衛的で、孤高かつ難解なことで知られるATG作品だ2。なかでも非商業性を最もよく体現する『煉獄エロイカ』は、ATG作品の観客動員ランキングで下から三番目にあたる。

作品の基本的な背景を紹介したところで、先に述べた枠組みに沿って論を進めよう。

一、人間モデル(The Human Model)

私は「人間モデル」(以下、モデル)という言葉をロベール・ブレッソンから借りている。ただし、使い方は彼とは違う。ブレッソンにとってモデルは俳優に対立するもので、「見せかけること(俳優)ではなく、在ること(モデル)。」3とされる。俳優と比べて、劇的で感情的な演技がそぎ落とされているのだ。ところが『告白的女優論』では、俳優の演技が過剰なまでに誇張されることさえある。非現実性はむしろ強まり、まったくの嘘になる。だが、その嘘が本作のメタ的な性格を強めている。ATG映画はたいてい低予算で、ときには舞台劇を映画にしたような、現実感を欠く人工的なセットが使われる。本作では主要な俳優と必要な脇役以外、背景を埋めるエキストラはほとんど姿を消している。佐藤忠男が述べるとおりだ。

ATG映画は、どの作品も低予算でいかに芸術映画を作るかを丹念に追究し、それまでの常識にはなかった方法を打ち出すことで、独特で新しく、しかも効率のよいスタイルを生み出した。現実そっくりの再現や雰囲気の描写に力を注げば制作費は増す。だからこそ撮影方法を工夫し、思いがけない角度から現実を見直す、論理的な作り方がここでは十分に成熟していた。4

本稿でモデルという言葉を使うのは、ただ「そこに在ること」を強調するためだ。それは空間を占める一つの客体である。ブレッソンの言葉では、「あなたはそのモデルに動作と言葉を指定する。モデルは一つの実体をあなたに返す(それをあなたのカメラが記録する)」5。これはまた、モデルがカメラによって自在に扱われ、演出次第で、ただそこにいるだけの存在へと切り詰められる可能性を示している。『告白的女優論』のモデルは枠から枠へと行き来し、出入りする遊びを続けながら、絶えずその枠に切断され、切り取られる。喜重はまた、モデルを画面の下半分に配置し、さらには四隅へ押しやることで、画面に大きな余白(ネガティブスペース)を残すことが多い。

南川と波多が動き、画面の縁で頭部を切られながら視線を交わす
映像1。

映像1を見てみよう。一森笙子(岡田茉莉子)のマネージャー、南川(三國連太郎)が、医師の波多(菅貫太郎)と初めて会う。南川は波多の催眠療法に不満を示す。女優の内面など探るべきではない。それは一森笙子という商品を壊すだけであり、女優は外見だけが真実なのだ、と南川は考えている。この場面では、カメラの動きが異様なほど正確に、ほとんど偏執的といってよいほどに、フレームでモデルを切断する。独特で、揺るぎなく組み立てられた演出だ。

向き合う南川と波多の頭部を、対角の画面縁で切った二つの構図
図1。

図1の(a)は、向き合って見つめるモデルの頭部を、対角に位置する二か所で意図的に切断している。(b)では、さらに極端なあおりとなり、遠近法の消失点はすでに画面の下辺より下にある。南川の頭がちょうど下辺に載る一方、波多の目は上辺に近い。二人の目の位置と視線の向きの違いを、実に巧みに構図に生かしている。

パスカル・ボニゼールのよく知られた論考「デカドラージュ(Décadrage)」を、本稿が参照する中国語訳に沿って引こう。

デカドラージュは一つの倒錯であり、見る権利を行使する一つの形式だ。映画、絵画、とりわけ写真の機能を皮肉る。ここではドゥルーズの言い方を借りなければならない。デカドラージュ、アングルの移動、視点の根本的な遠心化――この最後のものは、身体を切断し、画面の外へ吐き出し、死者、空虚、装飾に乏しい領域に焦点を合わせる――そうした芸術は、皮肉と性的倒錯なのだ。……原則として観客には剥奪を、モデルには切断をもって臨む。こうして構図を遠心化する皮肉と性的倒錯は、残酷な支配に属し、冷たく挑発的な死の欲動に属する。画面は刃のように使われ、生きた人間を外へ押し出し、光景の陰鬱な、あるいは死んだ領域に焦点を合わせる……。

左は『The Hunters』、右は『気狂いピエロ』の画面。各画像の下に中国語の図注がある
図2。横長の画面における頭部の配置を比較した書籍の図版。

画像内の中国語図注の訳(図10.1・10.2は引用元の番号)。左・図10.1:ある俳優は座り、別の俳優は立っている。そのような状況では、シネマスコープで人物を近くから捉えようとすると、画面への収め方が問題になる。一部の監督は、一人の身体を画面外へ切り落とし、頭だけを画面の下辺に置く方法を選んだ(『The Hunters』、1957)。右・図10.2:ゴダールはこの図式を、『気狂いピエロ』のこのショットの視覚的な前提にしているようだ。一つの頭を左の端へ、もう一つの頭の複製(実際には彫刻の頭部)を右の端へと、遠く離して置いている。

デカドラージュ、言い換えれば中心をずらすフレーミングは、「フレーミング(cadrage)=中心化」という公式を徹底的に壊し、従来の画面構成を解きほぐし、変えてしまう。「リフレーミング」(recadrage)と同じく、デカドラージュ自体は映画に固有のもので、珍しいものではない。だが、映像と視点の一体性を守るために、映画作家が排除することも多い。6たとえば図2のように、ワイドスクリーンの制約から、俳優の身体を画面外に切り落とさざるをえない監督もいる。それに対し、図1(b)の喜重は意識的にあおりを採り、モデルの頭を切断することで、二人の奥行き方向の関係を表す新しい方法を見つけている。この構図が、映像2の核にもなっている。

天井を背景に、南川と波多の頭部を画面縁で切るローアングルのショット
映像2。

映像1と2が、ともにあおりのショットから成っていることも指摘しておきたい。実際、これは本作の多くのショットに共通する特徴だ。とりわけ、天井そのものが人物の背景となる画面に注目したい。アンドレ・バザンは『オーソン・ウェルズ』で、こう書いている。

『市民ケーン』では、あおりのショットが繰り返し現れる。そのため……私たちはほどなく、その技巧の使用をあまり意識しなくなる。それでも、巧みな技術に左右されていることに変わりはない。したがって、この方法には、ある特定の劇的な幻を人に強いるという、明確な美学的意図があったのだろう。これは地獄の幻と呼べる。見上げるまなざしは地の底から発しているかのようであり、天井はすべてを覆い、セットの外へ逃れることを許さない。逃れようのない結末が、そこに十分に表れている。

岩のような天井の下で腕を広げる人物を、低い位置から見上げた白黒画面
図3。天井を背景に人物を見上げる、極端なローアングル。

フランソワ・トリュフォーは同書の序文で、こう補っている。

オーソン・ウェルズはこの角度をことのほか好んだので、カメラを地面に置いて上向きに撮った。だが、それは私たちが劇場の平土間の前から十列ほどの席で芝居を見るときと、同じように主人公を見ることではないだろうか。……オーソン・ウェルズは、演劇とラジオの世界から突如映画界へ入ってきた。これらの異なる芸術手段の共通点と相違点を、当然考えたはずだ。低い位置からの撮影――まさに劇場の平土間の観客、あるいは客席で稽古をつける演出家の視角である――は、必然的に、視野の広い短焦点レンズの使用へと導く。この角度でほかのレンズを使えば、奥行きが消え、空間感覚が壊れるだけだからだ。

バザンはこのあおりのショットがもたらす感覚を、美しく、表現力豊かに描き出している。トリュフォーは、それと演劇との共通点を端的に言い当てている。『告白的女優論』では女優が女優を演じ、さらに彼女たちが生活のなかで役を演じる姿が描かれる。このメタ的な性格は、まさにその美学と重なる。劇場の舞台の天井が延び広がり、登場人物たちが生きる空を覆い、遮ってしまうのだ。

映像1と2のように頭部を切断しながら進む演出には、もう一つ見逃せない性質がある。頭部は切られるだけでなく、視線のベクトルやパターンを生み出し、その動きを導く側でもある。ブレッソンの記述を借りれば、モデルには「動く身体の上に動く頭があり、そのなかに動く二つの目がある」。視線とは「目から放たれる力」なのだ7。こうして空虚な場が、視線のさまよう場所となる。図1(b)のような、二人の頭部の位置と視線とが作る図式は、映画のなかでさまざまな変奏を生む(図4)。視線の交差の仕方が変わるたび、画面には異なる力の場が区切り出される。

四つの画面に、それぞれ異なる人物の配置と視線の交差が示される
図4。頭部と視線の関係による構図の変奏。

モデルの視線のベクトルは、しばしば場の外を指す。指す相手すら必要としないことも多く、ときには相手の動きを先取りする。互いに目を合わせることはめったにない。映像1と2のように、ときおり目を合わせても、視線はすぐ逃げていく。磁石の同極が反発し、異極が引き合うように、人と人とのあいだに独特のよそよそしい空気を生む。

『煉獄エロイカ』で、画面の下隅に置かれた庄田と、振り返る夏那子
映像3。
『煉獄エロイカ』の暗い集会で、人々の顔とわずかな目の動きを追う
映像4。

映像3と4は『煉獄エロイカ』から抜き出した。映像3では、頭部が画面の隅に置かれ、視線がフレームに塞がれているだけでなく、庄田力弥(鵜田貝造)と妻の夏那子(岡田茉莉子)の、動と静の対照にも注目したい。夏那子が振り返って庄田を見るのに対し、庄田には表情がない。画面で占める面積が切り詰められているのと同じく、動きも最小限に抑えられ、ただゆっくりと首を振るだけだ。映像4は、ドストエフスキーの『悪霊』に描かれる秘密結社の集会を思わせる場面である。横移動のショットに似た動きで、カメラは一人ひとりのモデルの眼球のかすかな動きを捉えようとする。モデルの頭は視線を避け、また視線を受け渡す。暗闇でボールを投げ合うように、捉えどころのない空気が伝わってくる。

映像3と4では大半の人物が自分の場所から動かないのに対し、映像1と2では、人物が絶えず位置を変える。離れ、同じ画面に収まり、また離れる。人物とカメラの動きによってサスペンスを作り、解消することを繰り返す、きわめて古典的な方法だ。カメラによって人物のあいだに隙間が生まれ、それがまた埋まることもある。人物どうしが引き合い、反発する運動だけで、劇的な効果が生じる。そして、画面への出入りは、舞台の仕掛けに助けられることもある。

引き戸の前からリエが去り、入れ替わって波多が姿を現す
映像5。

映像5では、一枚の引き戸によって、二人の俳優の画面への出入りが切り替わる。この場面で女優の一森笙子は、女優見習いのリエ(太地喜和子)が、自分の夫やマネージャーの南川とぐるなのではないかと問いただす。リエはひと言も発せず、何も答えない。構図はリエをいちばん手前に置き、背景をぼかして、その不安げな目を際立たせる。やがてリエがフレームから逃げ去ると、波多医師が現れ、言葉を添える。この演出は物語を語る機能を十分に果たし、人物間のやり取りを滑らかに見せている。

広い余白の下で四人が位置を変え、互いを隠しながら視線を交わす
映像6。

人物やその顔が画面に現れ、消える。こうした情報量の増減は、ショット内の動きによる遮蔽だけでも十分に実現できる。映像6は、同じ画面にいる四人の反応、視線を結ぶ線の成立と消失を、実写のなかでどれほど複雑に織り込めるかを示している。この四人のうち、女優見習いのリエとマネージャーの南川には、笙子に隠している親密な関係がある。一方、笙子と波多医師には、南川に隠している親密な関係がある。南川は、波多が解きほぐそうとしている笙子の心のしこりであり、波多は、マネージャーの南川がまだ気づいていない笙子の恋人だ。映像5と同じシーンの一部であるこの映像でも、限られた、閉鎖的で外が見えない室内空間が舞台らしさをもたらす。その場で、四人と、そこにいない一人――笙子の夫――の関係が演じられる。

まずリエが画面の奥へ歩き、波多がリエを見る。リエに隠れていた南川の背中が画面に現れる(図5(a)~(b))。次にリエが振り返って観客に顔を見せ、波多とともに南川を見る(図5(b))。笙子がしっかりした足取りで南川へ近づくと、リエと波多はそろって笙子を見る(図5(c))。図5(d)では南川が笙子の方へ振り返り、目を合わせ、観客に顔を見せる。リエは南川を、波多は笙子を見る。四人の頭部を視線の発する点として、画面には視線が複雑に交差する力の場が現れる。ショットの冒頭から高まってきた四人の関係の緊張が、画面構成のうえで頂点に達する。図5(e)~(f)では南川が一瞬波多と目を合わせ、ふたたび笙子へ向き直り、ショットが終わる。

(a)から(f)までの六画面で、人物の重なりと視線の移り変わりを示す
図5。映像6における四人の配置と視線の変化。

こうした、いわばショット内部の微細な演出は、作り手の意図と偶然の両方に導かれて、思いがけず、神の一手とでも呼びたい瞬間を生むことがある。映像7では、映像3と同じく、監督の能勢(木村功)が画面左下に置かれ、視線の先をフレームに塞がれている。彼は動きを止めたまま、何の反応も返さない。女優の海堂あき(浅丘ルリ子)と静と動の対照をなし、手前に来たあきに、なされるがままに隠され、切断される。映像3と7を見れば、私が「モデル」という語を選んだ意図は容易に理解してもらえるだろう。人物はこのように、視線を放つ一点に、さらには場所を占めるだけの記号にまで切り詰められる。ミクローシュ・ヤンチョーの『赤と白』(1967)がよい例だ。人物は単純な記号体系のなかの一つの位置へと還元され、その動きも、この静的な構造のなかで位置を交換し、不条理に回り続けるだけになる。

映像7で驚かされるのは、階段を上がるあきの、速度を落とした足取りだ。一歩目では能勢の目がちょうどあきの喉の輪郭にかかり、二歩目ではあきの服の縁が、能勢の顔を目尻に沿って切る。大げさに言えば、能勢は目だけにまで切り詰められる。この、監督と女優、見ることと見られることの関係への驚くべき暗示は、図6でさらに明瞭に表れている。

階段を上がるあきの身体が、画面左下にいる能勢の顔を徐々に隠す
映像7。
前景のぼけた身体の縁に、奥の能勢の顔と目がわずかに見える
図6。手前の身体によって切り取られる能勢の目。

この節の最後に、吉田喜重と長谷川元吉の撮影と、実相寺昭雄の撮影との近さを指摘しておきたい。喜重と長谷川は、通常とは異なるカメラ位置を採り、人や物の隙間越しに撮り、人物を繰り返し枠に収める。前景で遮る手法――「枠の中の枠」、ときには画面上の黒いかたまりとして現れる――によって、人間以外の人工物が占める面積を広げ、人物の面積を縮め、無機質さと不均衡を増す。人物を狭い領域へ押し込めることさえある。こうしたスタイルは、同じく構図の美学を重んじ、一筋縄ではいかない角度を追究する実相寺に近い。図7でその親縁性を示したい。さらに図8では、こうした撮り方が喜重のさまざまな場面に広く使われていることと、その構図の冷たい幾何学的な感触を強調した。

人物を枠や前景の物で遮る複数の画面を並べた比較図。右列中央では自転車の車輪越しに人物が見える
図7。実相寺昭雄との構図上の親縁性。右列中央の中国語字幕は、私たち人間の目では捉えられなくなる、という意味。
八つの画面に、建物や物の直線・曲線、大きな余白と小さく置かれた人物が見える
図8。喜重作品の幾何学的な構図。

実相寺のスタイルはやがて日本のアニメーションの遺伝子となり、庵野秀明や尾石達也らに受け継がれ、展開され、広がっていった。執筆当時最新作だった、庵野秀明の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にも、無機質な構図への志向が見て取れる(図9)。比較対象とした『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」では、型破りなショットの積み重ねが、脚本を超えた不思議な感触を観客にもたらしている。形式は内容を介して観客に作用するのではない。形式が直接、感情への通路を作る。そのなかでもメトロン星人とちゃぶ台の有名な構図(図10)は、非日常のものが日常に入り込む点で、庵野に強い印象を与えたという。だが、もう一つ見落としてはいけない。ショットのフレームは、二人の登場人物の両脇にぴたりと接している。実相寺において、不必要で余分な環境描写は禁じられているのだ。

上下二つの画面。どちらも手前の大きな暗い形が、奥の人物や空間の一部を隠している
図9。前景の遮蔽物を使った構図の比較。上(a)は『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」、下(b)は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。
逆光の室内で、モロボシ・ダンとメトロン星人がちゃぶ台を挟んで向かい合う
図10。「狙われた街」の、メトロン星人とちゃぶ台。

「狙われた街」の重要な特徴の一つは、エスタブリッシング・ショット、つまり場の全体を示すショットをほぼなくしていることだ。それによって、観客は登場人物と空間の関係を把握しにくくなる。このシニフィアン(能記)、すなわち機能を持ったショットを排除することで、シニフィアンどうしが縫い合わされ、協働して意味を生むことも妨げられ、観客を落ち着かない気分にさせる。実際、実相寺は頻繁にクローズアップを挟み、物や顔、身体に画面の半分以上を占めさせて、周囲の環境についての情報量を極端に下げる。さらに、ひねったアングルを選んで、画面の要素を互いに押し合い、圧迫し合うように配置する。観客は周囲の様子を知りたいのに、方角がつかめず、不安になる。逆光は情報量をさらに減らす。この、情報量と感情、感覚をめぐる実相寺の実験こそ、彼の演出のなかで最も日本のアニメーションに通じる部分だ。

ところが、実相寺の「禁止」に対して、喜重作品の環境はむしろ、観客に見えるよう開かれている。カメラが示すとおり――たとえば人物を画面の四隅に置く遊びのように――俳優は広大な世界のなかで演じる。しかし、この開放は根本的に「役に立たず」「意味がない」。開かれた世界は、かえって世界の「無」を示す。サルトルの言い方を借りるなら、おそらく「即自」は人間のために存在するのではなく、人間にとって意味を持たない、ということだろう。これが次の節の主題の一つになる。

二、場(The Field)8

笙子の顔と身体を上方、下方、目の高さ、真上から捉え、余白の量を大きく変えた四画面
図11。催眠療法を受ける笙子を、四つの角度から捉える。

図11は連続する一組のショットで、笙子が催眠療法を受ける場面だ。ただし、これも彼女が女優として芝居をしているにすぎない。(a)~(d)で喜重は、斜め上から、あおり、目の高さから、真上からと、四つの角度を試し、さまざまな角度から笙子の顔を捉える。そして、意識的に、遊ぶように余白を極端に増減させる。人物は近づいてきたかと思えば、また遠ざかるように見える。心理分析、つまり人物の皮膚や肉の下をのぞこうとすることが重視される場面で、これが不思議な視覚的感触を生む。

人物を囲み、覆い、人物によって占められ、演出によって操作できる空間。これは私が「場」と呼ぶ潜在的な対象が、目に見えるかたちで直観的に現れたものだ。「空」、あるいは「無」である。しかし「場」の概念は、それだけではない。当然ながら、私は枠とほかの画面要素との「あいだ」の関係や、そこに生じる視覚的な緊張の分布も「場」と呼ぶ。先に述べた「視線の力の場」はこの範疇に入る。さらに広く言えば、「場」は舞台の空気、雰囲気、あるいは空間の性質をも指す。

喜重は鏡と扉という二つの仕掛けをよく使い、演出のための空間を組み替え、舞台の雰囲気を変える。この節の前半ではそれを論じたい。後半では、この「場」が、実は映画のなかで意味が生まれ、消滅する場所であり、意味を作動させる一つの仕組みを内に含んでいることを示す。「空間」や「空気」といった既存の言葉とは別に、わざわざこの概念を持ち出したのも、そのためだ。

(A)鏡

喜重作品の特徴の一つは、鏡像をめぐる綿密な計算にある。『告白的女優論』では、鏡という仕掛けはとりわけ、女優の伊作万紀子(有馬稲子)の場面で多く使われる。鏡はその表面の向こうに仮想的な空間を延ばし、複製することで、場面に奇妙で面白い空間の性質を与える。したがって、鏡は単なる反射面ではない。空間のあり方を根本から変えることで、その場面の演出全体に直接作用できるのだ。

建築研究のグループに向けた講演「他なる空間」で、ミシェル・フーコーは、鏡の経験を、ユートピアとヘテロトピア(heterotopia)のあいだにある、混成的で、両者をつなぐ経験と表現している。まず、彼はこう述べる。

鏡は結局のところ、場所のない場所であり、その意味でユートピアである。鏡のなかで私は、鏡面の向こうに仮想的に広がる非現実の空間に、そこにはいない自分を見る。私はあちらにいるが、あちらは私のいる場所ではない。ある種の像が私自身を私に見えるものとし、私の不在の場所で自分を見られるようにする。9

鏡の前を動く万紀子とノブ。実像と鏡像が入れ替わり、画面に見える人物の数が変わる
映像8。

映像8は、ある意味で映像1の反復であり、その空間を仮想化し、拡張したものだ。この場面では、女優の万紀子と衣装デザイナーのノブ(久保まづるか)が、万紀子が自殺を繰り返してきた過去をめぐって、回想し、問い、答える。映像1と同じように、二人は「ときおり目を合わせても、視線はすぐ逃げていく」。そして同じ画面に収まり、ふたたび離れる。面白いのは、鏡の前を回り込む動きによって、画面上の人数が何度も増減することだ。もちろん、仮想空間の鏡像も人数に数えるならば、だが。複数になった万紀子は、一度の移動で二度、ノブを隠す。

映画の冒頭で、ノブは万紀子のでっちあげた心中の話を信じ込み、深く同情していた。だが、万紀子が実は自殺未遂を何度も重ねた自殺狂だと知り、ここで過去の真相を聞き出そうとする。ノブは繰り返し、万紀子に視線を向ける。

鏡の枠に区切られた二人、戸棚の木彫りと三冊の本、別の鏡に折り曲げられる視線を示す三画面
図12。

しかし、鏡面の向こうの仮想空間にある視線は、それ自体が虚像であることを露わにする。鏡が見せていた、ノブが万紀子を見つめるユートピア的光景は、万紀子が鏡の枠から出ることで、完全に壊される。図12(a)のように、視線は、カメラによって断片化された仮想空間を抜け出せない。視線の力の場は、狭い鏡の枠に遮られ、局所に閉じ込められる。人物はただ視線を放つだけで、実は何も「見」られない。戸棚と、その上にわざわざ置かれた三冊の本が視線を遮る効果や、図12(b)(c)のように視線を折り曲げ、同じ主題を繰り返す別の鏡の構図を考えれば、なおさらだ。面白いことに、万紀子が心中の真相――心中の相手は実は自分の継父だった――を打ち明けたあと、二人はふたたび一つの鏡の枠に戻る。だが、そこでノブは、万紀子をもう二度と信じない、女優という人種は絶対にもう信じない、と告げる(映像9)。

鏡の枠と画面の枠を行き来する万紀子とノブ。終わりには万紀子の顔が隣のガラスにも映る
映像9。

もちろん、鏡の面白さはそれだけではない。映像9の冒頭では、鏡の枠の上下の縁を直接映さないため、戸口の枠だと見誤りかねない。そこへ大胆にもカメラを鏡像に追随させ、人物を鏡の枠から「出」し、画面の枠へ入れる。どこでもドアのように虚と実のあいだを往来させ、鏡という仕掛けで、像と実物が切り替わる効果を生んでいる。次に、一つ目のショットでは確かに鏡の枠から出たはずの人物が、二つ目のショットの角度では、また鏡の枠に捕らえられる。映画の「リフレーミング」のように、鏡もまた一台のカメラとなり、人物一人のショット、二人のショットを記録するのだ。逆に言えば、カメラも鏡のようにこの世界を映している。最後に注目したいのは、鏡のなかの万紀子が、去っていくノブへ顔を向けたとき、隣のガラス板がその顔を反射し、捉えていることだ。像の像である。では、鏡がこのように記録し、捕らえるとは、いったい何を意味するのだろうか。

フーコーは先の講演で、鏡はユートピアだと述べたあと、こう続けている。

しかし鏡は、現実に存在するという点ではヘテロトピアであり、私が占める場所に対して、ある種の折り返しの作用を及ぼす。鏡の側から、私は、自分がいる場所での自分の不在を発見する。自分が向こう側にいるのを見るからだ。私へと向けられるこのまなざし、鏡面の向こうの仮想空間の奥から、私は自分自身へと戻り、ふたたび自分を見つめ、いまいる場所で自分を構成し直す。10

鏡を見るとき、私は、自分が自分を見ているのを見る(seeing oneself see oneself)。これはまさに「我思う」の形式――私は、自分が考えていることを考える――であり、主体に必ず生じる位置のずれ、二分化、あるいは差異化でもある。鏡の前の私は虚と実のあいだを行き来し、自分の演技を見る。ドゥルーズを通じて引かれるベルクソンの言葉では、「二つの異なる私のうち、一方はいわば、自分の自由の度合いを自覚できる自律的な観客となり、もう一方の私が機械的に演じるのを見ている。しかし、この二分化が極限まで進むことはない。人はこの二つの異なる見方のあいだで共振しているにすぎないからだ。つまり、一種の精神的な往還なのである……」11。これは、女優・万紀子の自殺が、本質的には演技であることをよく示している。映画の終盤、万紀子はまた鏡の前で自殺を図るが、やはり成功しない。彼女は自殺に使おうとした鋏を投げ、鏡を割る。俳優と観客という二つの主体が一つになった自殺の演技は、これで終わりを告げる。だとすれば鏡は、やはりよくある象徴、すなわち主体の分化と再構成の象徴である。

しかしジャック・ラカンなら、自分が自分を見ているのを見るという意識は幻だ、と指摘するだろう。ここでいうまなざしは、人物の目から発する視線とは異なり、見る私の方へと向けられるものだ。自分が自分を見ているという見方は、そのまなざしに適応し、まなざしを逃れ、無視するために、私が想像した見ることの様式なのだ。実は私が見ているのではなく、私は見られている。奇妙にも、客体によって見られている。ショーン・ホーマーはこう説明している。

私たちは、もともと世界を見る意識主体なのではない。逆に私たちは、つねにすでに「見られる存在」なのだ。目とまなざしのあいだには根本的な分裂がある。「私」がただ一つの場所から見ているときにも、私は四方八方から見られている。私の主観的な視野(subjective view)に先立つまなざしがある。私がさらされている、すべてを見通すまなざし(all-seeing)である。ジジェクはこの考えを、うまく要約している。

「対象を見る目は主体の側にあるが、まなざしは対象の側にある。私がある対象を見つめるとき、その対象もまた、私にはそれを見ることのできない場所から、つねにすでに私を見つめている。」12

だから、フーコーの言う「私へと向けられるこのまなざし」は、「私」自身からも、「私」の鏡像からも放たれてはいない。それは、カメラのように記録し、いつでも人物を捕らえられる鏡のまなざしなのだ。鏡はつねに、見えない一点から、俳優たちが生活という舞台で演じるのを見ている。ある意味ではこれは、あおりのショットについて先ほど述べた、セットの外へ逃れられないという考えの反復でもある。そして、この見る/見られる関係は、観客と映画の関係にも広げられる。沈志中はこう書いている。

メルロ=ポンティが指摘するように、「世界の光景」においては、人間の方こそが見られる者なのだ。人は自分の目を通して見ていると思っているが、自分がある見方のもとに置かれていることは見えない。映画館に行くのは映画を「見る」ためだと思うのに似ている。しかし実際には、人は「見て」はいない。映画がすでに編集や演出によって、私たちが必ずある見方のもとに置かれるよう決めているからだ。映画は、私たちの目を養う餌のように、私たちが自ら見ようとするのをやめさせる……。13

映画は、武器を手放させるかのように、観客から見ることを奪う。観客の見方を決めてしまえば、映画作家の側も、他者の目に自らをさらさずにすむ。喜重はそうした態度を批判する。これについては、この節の(C)でさらに述べる。

図12(a)の視線の分析で、読者は戸棚の上の木彫りを見落としたかもしれない。それは、画面の「人物はただ視線を放つだけで、実は何も『見』られない」という点と、ちょうど対照をなしている。この偽物の目は、観客への警告なのかもしれない。見られているのは映画の登場人物だけではない。映画を見ているつもりの私たちもまた、見られているのだ。実際、喜重のデカドラージュの一部も、多少とも近い目的から生まれている。観客の、画面のあちこちへ向かう視線を、一点に強制的に集めることへの抵抗。前景の遮蔽によるのぞき見の効果を使い、「まなざしを飼い慣らされる」(dompte-regard)のではなく、自分が見るという行為を観客に意識させること。フレームを強調して、観客自身に想像力を働かせてもらうこと。蓮實重彦もインタビューで述べているように、観客は、映画という文化的制度の中心化のなかから、視線の自由を取り戻さなければならない。

……映画のひとつの画面にこめられた一瞬ごとの情報量はめちゃくちゃに多い。その中である種の中心化がなされていて、映画作家も構図のうえで、あるいは照明の具合によって、さらには被写体との距離によって、「ここを見ろ」という一点を示しているし、確かにそうしたところは見なきゃいけない。しかし、あくまで文化的な制度にすぎないこの中心化にさからい、周縁に追いやられているものだって、われわれの瞳には見えてしまう。ときには、映画作家がまったく意図していないものが、われわれの感性を揺るがすことだってある。14

ここまでで、すでに第三節の内容にかなり踏み込んでしまった。喜重の映画における「まなざし」という概念については、そこで詳しく述べたい。ここでは、ラカンの学説をわずかに、浅く借りることが役に立つ。「物が人を見る」という見ることの様式が、喜重にとってきわめて重要だからだ。もっとも彼が、必ずしも精神分析の文脈でそれを語っているわけではない。

最後にもう一つ、『煉獄エロイカ』の鏡の場面を補足として挙げ、この小節を終えよう。

『煉獄エロイカ』で、人物が画面から鏡へ、さらに鏡のなかの枠へと出入りする
映像10。

この例の演出は映像9に似ている。人物が画面の枠を離れ、鏡の枠に入り、さらに鏡のなかの枠――「枠の中の枠、そのまた中の枠」――から出る。また、角度を選ぶことで、カメラは奥行き方向に見つめ合う二人を同時に画面の対角へ置く。画面の中心は鏡面の向こうの仮想空間となり、空間の関係はずらされ、複雑になり、異化の効果が生まれる。

(B)扉

扉は、二つの空間をつなぐ口として、開くことも閉じることもできる。それ自体が隠喩を担いやすいため、映像分析でもとりわけよく取り上げられる。戸口の枠越しに撮ったり、扉で何かを隠したりする映画も多い。ここでは、喜重が扉を使って空間、すなわち「場」をどう操作するかを簡単に紹介する。

襖の前で待つ万紀子の母と、襖を開けて近づく万紀子。背後の障子には母の影が映る
映像11。
唐沢を捉えたカメラが動き、戸を閉める万紀子の母と、残された影を映す
映像12。

万紀子は、かつて継父と心中を図った雪国へ自分が行ったことを、誰が母(月丘夢路)に告げたのか知りたがっている。だがこの時点では、父が実は生きており、知らせたのも彼だとはまだ知らない。母は父の生存を、万紀子に十二年間隠してきた。同じシーンに属する映像11と12は、扉を開閉することで、つながり、連続していた空間が区切られ、切り裂かれるという、きわめて古典的な過程をたどる。母は娘の問いただす視線から逃れるため、別の部屋へ入り、そこでやり取りを断ち切ろうとする。だが問いを避けられないことは分かっているので、引き戸の前で待つ。引き戸は、映像5と同じく人物を枠へ入れる仕掛けとなり、娘が間近で問いかけ、話し合える小さな空間を作り、開く。しかし母の返答は、嘘としても巧みとは言えず、明らかに娘を納得させない。最後は二人がそれぞれ戸を閉め、万紀子は現在の恋人、唐沢(伊藤豪)を外に締め出す。映像11での、この舞台装置としての扉の使い方は、すでにあからさまだ。わざわざ母を引き戸の前で待たせ、娘に戸を開けさせることで、二人が進み、退く心理を舞台の型のように示す。映像12では、唐沢の視線が画面外のまだ見えない何かを指す。カメラがさらに動き、母が戸を閉めるところを映すと、そのサスペンスが解ける。

扉はまた、不安定な空気をもたらす。ある意味で、喜重の作品にはスリラーの性格がある。一列に並ぶ日本家屋の引き戸は、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』に出てくる、長い廊下の閉ざされた扉に似ている。扉に隔てられた不安定な場は、いつでも具体的な形を取りうる。広がり、さまよっていた恐怖や緊張が突如集まるように。だが、どの扉で何が起こるのかは分からない。つまり、どこでも突然、変化や転換が起こりうるのだ。

あきが室内から廊下へ逃げる。背後には誰もおらず、曲がり角の引き戸が突然開く
映像13。

映像13は、女優の海堂あきが、かつて教師(川津祐介)から性的な被害を受けた事件を回想する場面だ。カメラは戸口の枠を通してあきの反応を撮り、彼女に近づく。観客には見えないが迫ってくる脅威を示すのだ。しかし逃げるあきの背後には誰もいない。曲がり角の引き戸が突然開いたとき、広がっていた場はここで形を取る。

『エロス+虐殺』で、並ぶ襖の一つから大杉が不意に現れ、正岡に抱きつく
映像14。
『エロス+虐殺』で襖が次々と倒れ、区切られていた室内空間が崩れる
映像15。

『エロス+虐殺』にも同じような例がある。この映画では、襖が入り組んだ迷路を作る。正岡逸子(楠侑子)が大杉栄(細川俊之)を刺すと、大杉は床に倒れ、動けなくなる。正岡がよろめきながら立ち去ろうとすると、意外にも大杉が一枚の襖から不意に現れ、彼女を抱きすくめる。二人はもみ合い、正岡はまた彼を振りほどく。もちろん、喜重のこうした扉の使い方は、ここに挙げた非日常の場面に限らない。日常のなかでも意外性を作り出す。

このシーンの最後にあたる映像15は、大杉の死を舞台化している。襖が一枚ずつ倒れ、扉によって作られ、分けられていた空間が、こうして崩れ、融合する。それまで不安定だった場の緊張が臨界点に達し、空間の崩壊を経て、場はついに安定へと向かう。

『煉獄エロイカ』の電動シャッターが閉じていき、画面が黒く覆われる
映像16。

『煉獄エロイカ』にも、映像15に近い舞台装置がある。電動シャッターだ。この映画では扉が、時間の交錯する接点として繰り返し使われ、1952年、1970年、1980年という過去・現在・未来の三つの時間に起きる出来事を絡み合わせる。『告白的女優論』は、『エロス+虐殺』『煉獄エロイカ』のこうした超現実的な性質を受け継ぎ、現実と夢の交わりを描く。映像5、6と同じシーンで、波多医師は女優・笙子の夢を現実に投影することを提案する。女優見習いのリエが笙子の夢のなかのリエを演じ、波多が笙子の夫を演じ、そうして夢を分析しようというのだ。ところが、リエと笙子の夫の関係を問いただすあたりから、シーンはしだいに脱線する。リエの筋の通らない話と大げさな演技が、場面をますます混乱させていく。

リエが部屋へ去り、広い吹き抜けと階段のある室内で、夢の再現が続く
映像17。
寝室の手前に見えるリエの後頭部と、鏡の奥に映る笙子らの姿
図13。

映像17で、リエは嘘の弁明をひとしきりしたあと、部屋へ逃げ込む。一人が去っても夢の再現は進む……。笙子は夢の筋をたどって部屋へ近づき、戸を開ける。するとリエは、笙子の夢のとおり、裸でベッドに横たわっている(図13)。それまで意図的に役を演じていたのとは違う。戸の向こうでは、夢と現実がその場所で確かに重なっている。超現実の状況が現れ、空気が一変する。この閉ざされた室内で、人物たちは非理性的な状態のまま、思いもよらない行動を取り始める。それまで冷淡だった南川まで加わり、笙子の夢が与えた位置と関係のなかで、ほとんど錯乱したように自分の欲望を演じるのだ。

(C)遠心的な場

先に紹介したように、喜重の撮影は一見、型破りだ。ある種の映画の伝統、すなわち「フレーミング=中心化」から逸脱し、それを解体する。思いがけない視覚的な刺激を生み、「皮肉と性的倒錯」となる。しかし実際には、デカドラージュによってフレームや縁の存在を繰り返し観客に知らせ、視線を解放し、見ることを呼び戻すことで、喜重は映画そのものへと立ち返っている。バザンは映画と演劇の比較で、こう述べている。

……映画の原則は、動きを制限するあらゆる境界を否定することにある。スクリーンは額縁ではなく、出来事の一部だけを観客に見せる遮蔽枠にすぎない。……舞台空間とは逆に、スクリーンの空間は遠心的である。……ボードレールは、「演劇は水晶のシャンデリアである」とたとえた。きらびやかで繊細かつ複雑な、この輪をなす人工の水晶体は、周囲の光を中心へと屈折させ、私たちをその魔法の光の輪に浸す。映画について、それと対立する象徴を探すなら、案内係の女性が持つ小さな懐中電灯だと言えるだろう。その揺れる光は、明滅する彗星のように、目覚めたまま夢を見る私たちの夜を横切る。そこはスクリーンの周囲に、果てしなく四方へ広がる空間なのだ。15

スクリーンの空間は遠心的だが、スクリーンの中心は、逆に、観客の視線が中央へ向かう傾向にぴたりと合ってしまう。多くのコマーシャルのように、画面の中心に要素を配置することで、映像は目を満腹にし、飼い慣らし、「見」なくてよいようにする。喜重はこう指摘する。「そのスクリーンの中心は、権力の中心でもある……それは映画の全体主義じゃないかと……いつのまにか作り手が語るままにストーリーを追い、映画を一方的に見せられてしまう結果となります」16。徹底した遠心性、「動きを制限するあらゆる境界を否定する」自由、あるいはドゥルーズの言う、「係留点となる中心と地平をなす中心が失われることで……ふたたび中心のない事物の状態へ向かうこと……」17。映画は本来そうであるはずなのに、いわゆる文化的制度に拘束され、縛られてしまっている。喜重の「場」は、舞台のような性質を持つようにも見える。だが、求心的で、秩序化・中心化された構造を持つ磁場に抵抗することが、かえって映画の本性へとそれを立ち返らせる。私はここで、それを「遠心的な場」と呼ぶ。この「遠心」は、物語中心主義の拒否でもある。

物語に偏った映画について、喜重は、それが「つくる側=作家が自己を外に向って解放し,自分を他者の眼でとらえることを拒否し,つねにそれ自体完結したものとして温存し,状況のなかで傷つき血を流すことを恐れ,自己の穴のなかで強く閉じこもることによって,生きのびようとしたから」だと批判する18。この意味で喜重のデカドラージュは、観客の視線に開かれ、監督自身も観客も物語の世界に閉じ込められないために選んだ表現形式だ。また、映像15、16や図13のように、映画に超現実的な状況が現れることで、映画を支えていた合理的な空間の秩序が追い払われ、観客は物語と距離を保つ。非連続的な語りもまた、物語の磁場に抗おうとする。『告白的女優論』で三人の女優の物語が交錯し、コラージュされるのがその例だ。

実写の本性とは反対に、日本の商業アニメーションは、しばしば求心性を示す。ここでは、画面の中心からずらすことと、意味を一つの中心へ集めることを分けて考えたい。デカドラージュ、つまり中心をずらすフレーミングが多用され、画面上は遠心的に見えても、意味の働きは別だ。ここで言う求心性とは、文化的制度による中心化であり、「見せ与えること」(donne-à-voir)である。アニメーションは意図に基づく構築、意図を中心に、無から有を作る「足し算」だからだ。これは実写の求心運動の原理とも近い。「中心化」と呼ばれるものは、最初からフレーミングの選択と意図のうちにある。カメラと物のあいだには人間の要因があり、人間は中心から離れることを恐れる動物なのだ。「絵コンテとは、脚本を文字から画面へ変換するものである」というありふれた定義を考えれば、アニメーションの遠心運動がなぜ抑えられるのか、読者にもより理解してもらえるだろう。

『機動戦士Ζガンダム』第19話の三画面。(a)の街頭の構図、(b)のフォウの顔と二言語字幕、(c)の赤枠と青線による構図分析
図14。『機動戦士Ζガンダム』第19話。(b)の中国語字幕「我在想什麼啊」は、自分が何を考えているのかという自問。その下には日本語字幕「あたしは何を考えている」がある。

『機動戦士Ζガンダム』(1985)第19話、佐藤順一が絵コンテを担当した回を例にしよう。撮影技術(ピントなど)、人物の位置と動き(動と静の関係など)、枠、方向を示す線(視線や遠近法の線など)、照明と色彩によって、一つのまとまりとしての空間は「構造化」19され、階層化される。それによって、観客がどこを見るかが目に見えないかたちで導かれる。図14(a)と(b)は隣り合う二つのショットだ。(a)には視線、枠、色彩の三要素があることが、すぐに分かる。よりはっきりさせるため、(c)に印を付けた。この三要素が空間の一部を強調する。それこそ、演出が私たちに見せ、読み取らせたいものなのだ。

この恋人たちのいる空間は、まさにフォウが見て、意識したものだ。次のショット(b)の彼女の言葉がそれを裏づける。逆に言えば、フォウが自分は何を考えているのかと自問することで、一つ前のショットの空間が心理化される。恋人たちが空間のなかで占める位置は、普通の人のように恋をしたいという欲望を表している。強化人間となり、精神を改造されたフォウは、その欲望を絶えず心の奥へ押しやる。だが欲望は、この空間ではなお、これほどはっきりと裂け目から現れ、露わになる。これが、のちのフォウとカミーユの出会いへの伏線となる。演出はこのように、二秒ほどの短いショット(a)によって、テクストのなかに巧みに主体の位置を作り出す。観客はそこからフォウに同一化し、私たちはフォウの感情と苦境のなかへ入っていく。

また、ここの暖色がもたらす温かな雰囲気は、この回の後半、サイコ・ガンダムが香港を火の海にする展開とも対照をなす。よいアニメーションの演出家は、このようにドラマの論理を中心として映像を組み立て、作り上げるのだと言える。押井守がドラマの要素を最小限に抑えたアニメ映画『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993)でさえ、映像は状況描写という中心の周りにある。今敏も講座で、アニメーションは描かなければ何もないが、実写映画では偶然何かが映り込むことがある、と説明している。撮るときにはもちろん意図がある。だが意図して撮っていても、たとえば空に浮かぶ雲の形まで意図的とは言えない。それに対して、アニメーションはすべてが意図によるもので、意図のないものは現れない。そもそも意図なしに描くことはできないのだ、と。20

アニメーションと実写のこの決定的な違いを根拠に、東浩紀は、蓮實重彦とその弟子たちの批評の論理はアニメーションに適用できないと考える。

私たちは監督のショットを通して、意図の外にある「出来事」や「名指すことのできないもの」に出会う。批評とは、まさにその瞬間を捉え、伝えることなのだ。……批評家の使命は、作り手が自分の計画を超える何かに出会う瞬間を捉え、それを読者に伝えることにある。……アニメーションでは、作家が意図の外にある何かに出会う瞬間を捉えることはできない。(実写の)映画には「現実」という外部があり、そこから映像を切り取る。アニメーションには、そのような外部がない。21

以上を理解して初めて、押井守が一つのショットに過剰な意味を与え、演出家としての過剰な意図を盛り込みながら、同時に『パトレイバー2』に何の象徴的意味も持たない鳥を置くのはなぜか、理解できる。鳥については、こう説明されている。「この作品が描く『世界』と『物語』に混じり込むノイズであり、記号体系をかき乱すために入れられた異質な記号としか言いようがない」22。それはまさしく、アニメーションの求心的な秩序を乱し、映画の合理的な空間の秩序に侵入するものだ。遠心運動としての解体の力であり、映像の死の欲動なのである。

上は鳥のポスターの下で頭を切られた人物、下は広い白い壁の右下に頭部が置かれた人物
図15。(a)『機動警察パトレイバー2 the Movie』、(b)『告白的女優論』。

図15(a)で押井守は、わざわざ首を切るような構図を採り、しかもショットをかなり長く持続させる。壁のポスターを印象に残すためだ。しかし、それは物語と何の関係もないノイズなのである。23これは、次のような押井の方法論の実践だ。

一本の映画を構成するショットには、物語の展開にまったく寄与しないものも必要だ。それどころか、あえて言えば、「物語そのものを遠ざけ、異化するために使われる、意味不明のショットやシークエンス、設定」も必要になる。すべてのショットが〈物語〉を構成する部品として過不足なく機能し、厳密な計算のもとに並べられていれば、演出家にとっては理想の映画かもしれない。しかし、映画を構成するあらゆる要素が、ただ物語の実現のためだけに働くなら、映画は結局「物語の容器」でしかない。24

押井の映画『トーキング・ヘッド』(1992)にも、この論点が現れる。映画監督が問うのは、物語の容器としての映画ではなく、映画という名の物語をいかに忠実に語れるか、ということだ。『パトレイバー2』の鳥は、空虚な客体として、記号の網の目に埋め込まれた裂け目である。ほかの異化的なショット、シークエンス、設定とともに、観客に、見ることを呼びかける。芸術体験には、超越的なシニフィエ(所記)がない。つまり、視覚の対象物の「表面」に対置される、根源的な「背面」がない。だから観客は、見る欲望を解放するために、意味のない光学的表面の上で視線を滑らせることができる。「見る」という行為は、そこで初めて成立する。ところが、この無意味、「無為の快楽」=死という危機への不安から、私たちは目の前の対象物の根拠を、あの手この手で探そうとしてしまう。それは見えているそのものではないはずだと考え、飼い慣らし、物語の記号体系へ統合し、組み込む。こうして「誤読」が生まれる。存在しない「背面」を自分で作り出すのだ。25

一方、図15(b)のデカドラージュは、理屈のうえでは人物の背後にある何かを示すはずなのに、そこには何もない。鳥のような空無の客体さえ取り去られ、むしろ冷淡な白と、硬直した直線だけがある。それは、埋められるのを待つ「無」の遠心的な場にすぎない。あるいは、解釈できる奥行きを一切禁じ、見ることを捕らえようとする表面になっている。仮想の、見破ることのできない一枚の幕。それはそれであり、同時に何ものでもない。「表面」という言い方にはすでに、その客体を私の側に統合することはできない、という両者の関係が含まれている。フレームによるモデルの切断が、見ることを呼び起こす。だが視線の自由は、そのまま無意味、無用と結びついている。喜重が「見ることのアナーキズム」と呼ぶものだ。デカドラージュを「皮肉と性的倒錯」と呼ぶ理由もここにある。意図に抗う意図性によって、「フレーミング=中心化」が覆い隠そうとする根本的な欠如を、むき出しにするのだ。意味の究極の保証など存在しない。

映画監督が初めてカメラのレンズを通して見る、いわゆる「ゼロの時刻」の体験を、喜重はこう描写する。

おそらく映画のカメラをとおしてはじめて見るこの現実,この世界は,観客としてみた折りの想像力を誘発するような映像とはほど遠い,即物的で限りなく無意味なものでしかなかっただろう。カメラが捉える映像とはありのままの現実,ありのままの事物や人間,あるいは出来事をただ映し出しているにすぎず,そこに新たなイメージが生成されているわけではなかった。こうした映画のカメラの即物性,現実をありのままに映し出すというメカニズムを,はたして創造といえるのだろうか。26

喜重が初めてカメラを通して見たのは、このような絶望的な無秩序の世界だった。あるいは、存在する現実と、その純粋な偶然性だった。だから彼が、文脈から半ば離れ、機能を失った、無秩序に浮遊するシニフィアンの断片を観客に示しても、まったく不思議ではない。遠心的な場の特徴は、形を取った象徴や意味を、絶えず外へ「放射」することにある。事物を中心の周りにつなぎとめ、構造化するのではない。まずは、図15(b)の主題の反復を見よう。

左右二つの画面で、鏡に映る人物が隅に置かれ、その周囲を広い壁面が占める
図16。

ここでは鏡が人物を枠に収め、周囲から切り離す。しかしその断片は、さらに画面の隅へ置かれる。人物を中央に置く構図と比べ、意味が宙づりになり、どこにも定着できない感覚を、観客にはっきり意識させる。もちろん、これは図12(a)のデカドラージュの効果でもある。人物が中央にいたなら、私たちは木彫りのまなざしを感じ取れないだろう。

扉の向こうへ人物が消え、暗い無人の空間を経て、ふたたび人物が現れる
映像18。
『煉獄エロイカ』で、扉と暗闇が人物を隠しては現し、途中には黒い空間が続く
映像19。

映像18と19には、もう一つの「放射」の方法が見える。扉の脱機能化だ。扉は、人を吸い込んでは吐き出す穴となり、この形式化の過程そのものが、漂い、定まらないシニフィアンになる。セットの背後、ドゥルーズの言う「絶対的な画面外」を利用して、この穴は暗闇の持続する時間へとつながり、映像に呼吸のような短い休止を与える。

さらに、私が「投射」と呼ぶ場合もある。見ている時点では意味が宙づりになり、観客は、しばしば長い時間を経てから遡ることでしか、それを掴めない。しかも、その効果は明瞭ではない。喜重は、こうした曖昧な映像を小津安二郎の作品に見いだした。たとえば『東京物語』で東京が初めて現れるとき、電柱にはさりげなく「平山医院」という看板が出ている。だが、老夫婦の姓がまだ明かされていないうちは、看板は何の意味もない標識にすぎない。27

映像18のシーンで、女優の万紀子は、母が隠していた父の生存という真相を知る。怒った万紀子は、いまはっきり分かった、人生のすべてを母に縛られていたのだ、と母に叫ぶ。ここに至って初めて、観客はそれ以前の場面、映像11と12における母の影の意味を遡って理解できる。さらに映画の後半、音楽家の亘理隼人が女優の笙子に打ち明ける話でも、万紀子の背後にはいつも母親の影があると、いっそう率直に語られる。

(a)万紀子の背後で母の影が現れ、(b)二人の接近する背後に影が映り、(c)戸を閉めた母の影だけが残る
図17。万紀子の母の影。

図17(b)と(c)はそれぞれ映像11と12に対応する。(a)も同じシーンだ。万紀子が帰宅して入ってきたとき、迎える母は、なぜか娘の背後に立っている。そこには(b)と同じように、万紀子には見えないのに、すでに彼女を見つめている影がある。これは母の、映画での最初の登場でもある。(c)はこのシーンの最後の画面だ。母が自分を隠し、影を戸の外に閉め出すことで、最初と最後が呼応する設計になっている。だが映画を見ている最中に、戻って見直すことはめったにない。まして、さほど強い印象を残さず、気づかれもしないかもしれない画面の要素なら、なおさらだ。そして観客は、もう一度見たとき、自分が最初に見ていたときから、母の影にひそかに見つめられていたことに気づく。鏡についても一つ例を挙げよう。

桐子の手にあるガラス瓶と、その鏡像が、分割された画面の両側に見える
図18。鏡によって二つになる薬瓶。

ひねった角度によって、監督・能勢の妻、桐子(稲野和子)が手にするうがい薬のガラス瓶は、鏡を介して画面のなかで二つに分かれる。その意味が現れるのは、はるか後、映画の終わりになってからだ。能勢と女優のあきの関係を疑う桐子が、濃硫酸の入ったガラス瓶をあきに投げつけるときである。うがい薬は、桐子にとってあきへの警告と威嚇だ。その分裂は観客にとって、まだ気づかれていない、曖昧な暗示/予兆にほかならない。

そして、意味が失われ尽くすと、遠心的な場はさらに、不活性な場へと変わる。活性化できない場、すなわち絶対的な「無」だ。どんな意味も、この虚ろな空間で、何にはね返されることもなく散逸する。これが、いわゆる「消滅」の場合である。

二つの白黒画面。上方の大半が白く飛び、人物たちは下辺に小さく置かれている
図19。露出過多によって広がる白い場。

実相寺昭雄が逆光の角度を採って画面の情報量を減らしたように、喜重は露出過多によって同じ効果を達成する。その白飛びは、『エロス+虐殺』『煉獄エロイカ』の映像美の一部となった。ただし、全体として喜重のカメラは実相寺よりも人物から遠い。人物の占める面積は小さく、巨大な場に囲まれている。図19のこの場に、宗教的、超越的な神聖さはない。徹底して凡庸であり、そこで演じられる革命の虚無と愚かさを白日の下にさらす。こうして意味を生まないまま空間が広がること、あるいは絶対的な「無」が広がることは、人間の要因によって避けられない映画の求心運動と、映画の本性である遠心運動との矛盾のなかで、喜重が選んだ道でもある。物語が排除していた、とめどなく広がる世界の無秩序な空間を撮り込むことは、意図に抗う意図性の結果だ。彼はこう書いている。

それは映画をつくりながら,つくっていないと主張する愚かな惑いではあったが,この矛盾に身を置くことによって,私を取りまく存在の重みをそのまま観客の前に放出しうるのではないかという,いわば不可能な愛に私は賭けようとしたのだろう。そしてその愛に応じて,私の空間は無性に広がり,拡散し,空洞化していった。28

この「私を取りまく存在」こそ、この節で繰り返し取り上げてきた主題、場である。映画のなかで、場は鏡や扉によって操作できる。この節の最初の二つの小節では、そのさまざまな方法を示した。そして、意味の放射と投射を通じて、場は遠心化し、さらには意味が消滅する不活性な場へと向かう。それがこの小節の内容だった。次の節では、場が無数のまなざしの交錯によってできていることを説明したい。

三、まなざし(The Gaze)

まなざしとは何か。まなざしとは、シニフィアンの網の目へ侵入する穴、欠如であり、その網の目を乱す障害となる客体だ。29場とは何か。場とは、まだ形を取らず、漂い、逃れ、捉えることのできない存在だ。そのなかには無数のまなざしがある。喜重の言葉で言い直せば、「無秩序の世界」である。

女優の海堂あきは、劇中劇で不倫をする人妻を演じ、現実でも監督の能勢と関係があるように見える。だが実際には、教師から性的な被害を受けた事件のために、男と性を恐れている。本作での彼女の物語も、このトラウマとなった過去、性被害の事件を中心に展開する。その事件は亡霊のように去らず、ふたたび彼女の生活へ侵入する。

(a)広い屋外で撮影中のあき、(b)入れ子の枠の奥に小さく見えるあき、(c)鏡に映り込んだカメラマン
図20。

図20(a)のあきは映画の撮影中で、心のなかで、いまカメラが回り、皆が自分を見ている、目が、無数の目が自分を見ている、と独白する。だがこのとき、画面にはカメラも目も映っていない。ここは本来、他者の視線が集中する空間のはずだ。しかし視線は広々とした空間に散逸し、捉えようがなくなる。こうしてそこは、あき自身が気づいていない、物のまなざしで満ちた場となっている。

(b)は自宅にいるときのあきだ。「枠の中の枠、そのまた中の枠」によって、人物は無機質な環境に囲まれる。このように「家」を見慣れないものにすることも、「見られる」ことを示す手段である。もう一つ指摘したいのは、このショットが、ちょうど呼び鈴の直後につながれていることだ。呼び鈴のあと、あきの家という安全な空間に入り込み、彼女のトラウマとなった過去を追うフリーのカメラマン(原田芳雄)は、あきにとって、まなざしが人の形を取ったものだ。

(c)はそのカメラマンの初登場である。つねに撮影し、記録していることが、この人物の特徴だ。隠し撮りをする姿が鏡を介して露わになることで、かえって撮影という行為の不気味さが際立つ。あきの悪夢では、このカメラマンは別の姿で現れ、すべてを見る者になる。見知らぬ人間なのに彼女の秘密をすべて知り、家じゅうを歩き回って、隠している生活のあれこれを指摘する。映画の終わりにあきがこのカメラマンと結ばれるのは、自分の現実の安定を保ち、裂け目を縫い合わせる方法なのだ。それによって、男性への不信はかえって癒える。

人影のほとんどない町の通路や建物に囲まれた二人を、四つの角度から捉えた連続画面
図21。雪国の町での万紀子とノブ。

女優の伊作万紀子は、友人で衣装デザイナーのノブを故郷の雪国へ連れていき、自分の過去をでっちあげ、芝居をする。自分には人を愛する資格がないとノブに思わせ、自分の恋人である唐沢とノブを結びつけるためだ。図21(a)~(d)は四つの連続したショットである。図20(a)と同じように、町には超現実的なまでにほかの人がいない。そのためにこそ、主体を持たない物のまなざしが現れる。不気味さは、カメラがさまざまな角度からのぞいているために生じるのではない。そう見えるとしても、そうではない。どこにでもあり、人物を取り囲む世界の方が、彼女たちをうかがっているからだ。人物は四方八方の物に見られている。

批評家の肥内は「小津に聞けないことは、吉田喜重には決して聞くな」30という文章で、喜重の『小津安二郎の反映画』を激しく批判する。彼はこう書く。「この本での吉田の書きぶりは、彼が実は映画を分かっていないという、重大な致命傷を間違いなく露呈している」。これほど厳しく、断定的な批判を前にしては、私はここで喜重を擁護せざるをえない。同書の最初の二つの小節は、『東京物語』で、空気枕や東京が話題になっても、それを示す映像が現れないことを取り上げている。この不在について、肥内はこう書く。「吉田は、小津が映画の、被写体をありのままに再現する能力を信じていなかったからだと思っている。だから当然『反映画』というわけだ!」。

これは間違いなく誤読だ。第一に、喜重は決してそう言ってはいない。第二に、小津の「反映画」とは、そこにあるのではない。同書の第一節で喜重が見いだすのは、『東京物語』の冒頭の空気枕が、隠しながら露わにするまなざしだ。まなざしは人物の側にはなく、人物を取り囲む側――物、不在、彼岸――に、数え切れないほどある。実は喜重は、物の側に立って人間を見るという、通常の映画の、人間の側に立って物を見るやり方とは逆の方法を、「反映画」と呼んでいるのである。31

上段(a)(b)の老夫婦と空気枕をめぐる場面に、下段(c)(d)の妻を失った老人と背後の空間を対応させた比較図
図22。『東京物語』の冒頭と結末。

図22の『東京物語』の結末(c)(d)は、冒頭の空気枕の構図(a)(b)をほとんど繰り返している。(c)で老人が画面のなかに占める位置は不自然で、私たちに違和感と不安を与える。この構図によって、「老人が背を向ける不在の空間には、亡き妻があの世から投げかけるまなざしが、間違いなく満ちている」。こうして冒頭で「黙って老夫婦の会話に耳を傾け、私たちよりもよく事態の成り行きを知っている」空気枕のまなざしは、結末における亡妻の彼岸からのまなざし、つまり不在のまなざしへと変わる。これが喜重の考えだ。

実際、肥内は著書『バロックと禅のあいだに映画の空隙を探す』で、喜重の空気枕のまなざしに何度も触れている。ただし、こう述べている。「これはせいぜい面白い見方にすぎない。実際に検討すると、この説は成り立たない。空気枕の『まなざし』は、かなり詩的な、しかも純粋に作り手だけに属する解釈としか言えず、真に受けるわけにはいかない。そもそも空気枕は不在であり、変形した、圧縮され、折り畳まれた姿で一瞬顔を出すにすぎない。それがどうして、見ることを導く物の視点になれるのか」。ところが、この「詩的な解釈」の強さと便利さに気づいているかのように、マックス・オフュルスの『たそがれの女心』のある場面を説明するときには、彼はこう述べる。「ここで一時的に不在となる耳飾りは、基本的には『東京物語』の空気枕に似た機能を担う。物に属するまなざし、しかし『不在』のまなざしが、運命の移り変わりを静観しているのだ」。肥内の議論の不一致が、ここに表れている。

しかも彼の反論は、まなざしがさらに含意するものに気づいていない。まなざしは私たちの現実空間へ侵入する非理性的な要素であり、日常の秩序だった構造を乱す。32喜重においては、空気枕のまなざしに気づいて初めて、私たちは老夫婦の日常会話や、ごく普通の無意識の反応の下にある、おかしなところを発見できる。そこで初めて、この出来事が、私たちの捉え損ねた徴候になっていたと気づくのだ。

『斜めから見る』で、スラヴォイ・ジジェクは『サイコ』を論じ、ヒッチコックが、丘を上るライラの客観的なショットと、彼女が家を見る主観的な視野を繰り返し切り替えることについて、こう述べる。

なぜ、この形式的な手法それ自体が不安を引き起こすのか。なぜ、主体が近づいていく客体、つまり家が、これほど「不気味」になるのか。ここに見られるのは、まさに先ほど述べた目とまなざしの弁証法だ。主体は家を見つめている。だが不安なのは、言葉にしがたいこの感覚なのである。なぜか家は、すでにある一点から彼女を見つめている。しかも彼女にはその点がまったく見えず、徹底した孤独と無力さを感じるのだ。

この段落に付けた注で、ジジェクは補足する。

まなざしは客体の側にあり、主体化することはできない。それを主体化しようとした途端、家の中から撮った主観ショットを加えようとした途端――たとえばカーテンの後ろから、家に近づくライラを捉える、揺れるショットを挿入したなら――私たちは普通のスリラーの水準に落ちてしまう。つまり、別の主体の視点に関心を寄せ、客体としてのまなざしには無関心になるのだ。

この、まなざしの主体化を禁じる考えは、図21(a)(b)や図22で挙げた例と同じ理屈だ。主体化すれば、客体のまなざしの不気味さは消える。喜重はまた別の方法も使う。人間と、主体化できない物との切り返しや、物越しに人を撮ることだ。これもある意味では、スリラーの性格を示している。

録音機を前景に、撮影を終えたあきが能勢と話す場面
映像20。

海堂あきはベッドシーンを演じるとき、自分は見られている、誰かが見ている、彼らの目が自分を侵している、と訴える。その台詞の劇中での大げささは、劇の外での真実にぴたりと重なる。そもそも内と外の区別などないのかもしれない。だが、面白いのはそれだけではない。演技を終えたあきが監督と雑談していると、この録音された台詞が、勝手に再生され始めるのだ(映像20)。女優の生活を軸とした映画に見えるのに、その内部の合理性は、この奇妙な自動再生によって崩れ、解体する。しかも声の意味は、同時に画面上であきが他者に見られていることと一致する。しかし、核心はそこでもない。重要なのは、まなざしも声も、実は主体ではなく客体の側にあるということだ。

自分の声を聞く者の側から言えば、こうなる。声を発したのは私だ。その声を載せているのは、誰が動かしたとも知れないこの機械だ。だが、どう考えても、この声は私から隔たっている。私の口から出たのに、もはや私のものではない。ひどくよそよそしく聞こえ、私にはうまく理解できない。それどころか、その声の方が、私が何者なのかを問い始める。声と私の奇妙な分離は、まさに私と私自身との分裂、不一致を示しているのだ。

(a)プールの隅に小さく浮かぶ球と、(b)画面手前を大きく占めるぼけた球の対比
図23。

自分が女優としてデビューしたプールで、一森笙子はプラスチックのボールを見つける。彼女はそれを、次の映画に出たくない理由にする。夢のなかでこのボールが喉に詰まり、どうしても声が出なかった、そのボールがやはり現実に、しかもこのプールにある、と言うのだ。続くのが図23(a)である。この画面では、笙子が見るという視点が消され、したがってカメラの視線の根拠も失われている。喜重の言う、匿名の、非人称的な映像だ。宙づりであり、ひどく均衡を欠いている。プラスチックのボールは極端に狭い場所へ追い込まれながら、強い存在感を持ち、不調和に、目障りなまま、この世界に浮いている。実はそれこそが眼球の隠喩なのだ。笙子の喉につかえているのは、このような、視線を放つ機能を持たない死んだ目である。(b)では、この「眼球」が誇張された大きさで、画面の秩序を直接かき乱す。笙子を見つめ、観客をも見返す。

小説『眼球譚』で、ジョルジュ・バタイユは一組の隠喩を提示した。目、卵、闘牛で殺された雄牛の睾丸、そして死体からえぐり出された眼球。これら、シニフィエを持たないシニフィアンは物語のなかを進み、別の一組の隠喩と交わり、互いに転用される33。そうして、第二節(C)で述べた、背面のない表面を作る。

(a)から(e)の五画面に、人物の前や背後の赤い球、灰色の球、球状の照明が繰り返し現れる
図24。繰り返し現れる球形。

図17の母の影の例が教えてくれたことを踏まえれば、笙子の登場直後から、画面に球形の暗示的な物が繰り返し現れていると、すぐに気づける。図24(a)(b)がそれだ。映画の終わり、波多医師と別れる場面(c)(d)や、マネージャーの南川と別れる場面(e)にも、球形の物が現れる。別の言い方をすれば、無秩序な場から、こうした球形が形を取って現れるのだ。この球形の反復もまた、宙づりのまま広げられた、一枚の隠喩の網を作っている。

(全文終)

本文終わり
注33

注釈

  1. 『スタンフォード哲学百科事典』ベンヤミン項の中国語掲載ページ。冒頭の引用は同項の英語本文による。続くベンヤミンの引用はドイツ語本文による訳。 ↑

  2. 日本アート・シアター・ギルド(略称ATG)は、芸術映画専門の小映画館に作品を配給する組織として、1962年に設立された。中国で最もよく知られるATG作品は、おそらく寺山修司監督の『田園に死す』(1974)だろう。 ↑

  3. ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書――映画監督のノート』。本文の一句は松浦寿輝訳。東京藝術大学の公開資料、3頁に再録。 ↑

  4. 佐藤忠男『日本映画史』下巻。 ↑

  5. 注3と同書。 ↑

  6. Ayda Sevin, MARGINS OF THE IMAGE: FRAMING AND DEFRAMING IN THE GRAPHIC NOVEL AND THE FILM V FOR VENDETTA。 ↑

  7. 注3と同書。 ↑

  8. 「一場面一ショット」の「場面」とは異なり、本稿の「遠心的な場」の「場」は、英語のsceneではなくfieldにあたる。 ↑

  9. 中国語訳は、「傅柯Heterotopia翻譯考」を参照している。 ↑

  10. 注9と同じ。 ↑

  11. アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』。ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』からの孫引き。 ↑

  12. ショーン・ホーマー『ラカン入門』(中国語版『导读拉康』)。 ↑

  13. 沈志中『永夜微光 拉岡與未竟之精神分析革命』。 ↑

  14. 「蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1」。 ↑

  15. アンドレ・バザン『映画とは何か』。 ↑

  16. 「吉田喜重、みずからを語る」、217頁。 ↑

  17. ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』。ドゥルーズによれば、フッサールにとって映画は主体の係留点を覆い隠す。カメラの位置が身体的主体の係留点を隠し、ある暗黙の知と下位の志向性によって、自然な知覚の条件を置き換えるのだ。それに対し、ベルクソンにとって、映画は自然な知覚よりも内在平面に近く、原型に近い。すなわち、際限なく変化する事物の状態、いかなる係留点や参照の中心も指定できない物質の流れである。 ↑

  18. 吉田喜重「映画の壁・ストーリー主義批判」。朱依拉「吉田喜重映画における不穏な空気」、326頁からの孫引き。 ↑

  19. Marc VERENT「空間の構造化」(原記載『空间的结构化』)。 ↑

  20. 今敏の講座の掲載動画。 ↑

  21. 東浩紀の発言を、知乎掲載記事より。 ↑

  22. 『パトレイバー2』の鳥についての参照記事。 ↑

  23. 『パトレイバー2』の演出についての参照記事。 ↑

  24. 押井守の発言として、注21と同じ記事より。 ↑

  25. 「表面」と「背面」をめぐる参照記事。 ↑

  26. 吉田喜重『小津安二郎の反映画』。引用の日本語は、注18の朱依拉論文、325〜326頁に再録された本文による。 ↑

  27. 注26と同じ。 ↑

  28. 吉田喜重「見ることのアナーキズム」。注18と同じ論文、328〜329頁からの孫引き。 ↑

  29. 繰り返し強調しておくが、私は精神分析を「適用」する立場でこう述べているのではなく、ただ「借用」している。 ↑

  30. 肥内「不敢问小津的,千万别问吉田喜重」。もちろん、この文章が指摘するように、『小津安二郎の反映画』の中国語版には翻訳上の問題がある。 ↑

  31. 『小津安二郎の反映画』についての参照記事。 ↑

  32. まなざしについて、精神分析の言葉では、「それは表象の領域にある穴だが、表象を完全に破壊するわけではない。表象を破壊しながら、同時に修復する。穴を生み出すとともに、その穴を覆い隠すために、欠けた場所へやって来る」。注12と同じ文献からの引用。 ↑

  33. 『眼球譚』についての参照記事。 ↑

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