
Words are flowing out like endless rain into a paper cup.
仏像たちのための都を、一刻も早く一緒につくろうと、美弥子(斎藤チヤ子)は藤森教授に呼びかける。俗世を離れたかのように仏像を研究し、愛する彼女は、藤森教授や大勢の僧侶たちと共謀して、いまや俗世の喧騒にまみれ、誰も文化を顧みない京都から仏像を盗み出した。そう言って仏像を仰ぎ見る彼女の目尻から、一滴の涙が流れる。だが、その涙が頬から落ちた瞬間、突然、刑事が戸を開け、僧侶たちの読経を遮る。これほど無垢に仏像とともに生きる美弥子を愛しながらも、科学捜査研究所(SRI)の研究員としての大義を貫かねばならない牧(岸田森)が、彼女の行いを告発した結果だった。
仏像の美になどまるで関心のない俗世の人々が、仏像が担う文化を大切にし、研究を重ねる藤森教授を、国宝を盗んだ罪で捕らえなければならない。ここに、この回の脚本を担当した佐々木守の皮肉があるのは明らかだ。このような大義名分への問いは、佐々木と本作の監督・実相寺昭雄が組んだもう一つの作品、『ウルトラマン』第23話「故郷は地球」(一九六六)を思い起こさせる。本来なら容赦なく正義の鉄拳を振るわれるはずの怪獣を、佐々木は、人間社会から意識的に排除される存在として描いた。社会が表面上の秩序と均衡を保つために、状況や規則に応じて排除するのだ。刑事が藤森教授を逮捕するこの短いシークエンスにも、実相寺ならではの演出が満ちている。画面はほとんどがクロースアップで、人物同士の空間的な位置関係を組み立て、描き出すことには、とりたてて関心を払わない。美弥子の顔が正面から横顔へ変わるクロースアップでは、観客の関心を引く目をフレームの端へ移してしまう。実相寺が監督した『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」(一九六七)をよく知る人なら、位置関係を示すエスタブリッシング・ショットをほぼなくし、クロースアップを頻繁に挿入することで、彼がどんな美的効果を生んだかもわかるだろう。必要なものだけを残す、アニメーションにも近いこの情報の制御は、きっと庵野秀明に強い印象を与えたはずだ。そしてこのシークエンスで必要なのも、やはり人間の顔なのだ。空間を隔てながら直接作用し合い、互いに反応する顔である。
言うまでもなく、実相寺が生涯に関わったテレビシリーズのうち、ほかの監督たちに最も大きな影響を与えた三作は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』だ。その演出が、才気をのぞかせる段階から円熟へと至ったのだとすれば、円谷作品の最高峰、さらには特撮史上の最高傑作とまで一部で讃えられる『怪奇大作戦』、その最高の一篇である第25話、実相寺監督の「京都買います」(一九六九)を研究することは、中国語圏ではほとんど顧みられていないとしても、理論と実践の両面で疑いようもなく重要である。自作に厳しい実相寺自身の証言に照らしても、彼は『怪奇大作戦』を、自らの仕事が最も華やかに花開いた頂点と捉えていた。後年の自主製作映画よりも妥協がなく、いや、まったく妥協しなかったテレビ映画だというのだ。また、『怪奇大作戦』では、比較的恵まれた撮影条件も得ている。先ほど述べた短いシークエンスを少し見直すだけでも、その入念な設計に気づく。たとえば、美弥子を中心に向きを変えるカメラが僧侶たちを捉えると、彼らが立ち上がる。教授が縁側へ連れてこられると、引き戸が突然開く。こうした背景の細部を、厳密に組んだ時間軸に沿って出現させることで、リズムに緩急をつけている。背景音も、僧侶たちの読経から、水の流れとししおどしの竹筒が鳴る音へ、さらにサイレンへと三段階で変わる。刑事が戸を開けると水音が聞こえ、僧侶が戸を開けるとサイレンが鳴る。関わりのない動作と効果音が、同時に起きて重なるのだ。牧が美弥子を追い、折よくヘッドライトをつけるパトカーから、画面に入ってきた二人の横顔へピントが移るところには、この回で先に描かれた内容とモチーフの反復もある。
だが、至るところに実相寺が仕掛けた計算を、執拗に追いかけることが本稿の主眼ではない。「京都買います」の尽きることのない魅力を語るには、先ほどの二人の顔のクロースアップから始めなければならない。


庵野秀明は、実相寺が俳優を道具と同じような物質として扱うと述べている。これはそう簡単に理解できることではない。通常のテレビドラマでは、俳優はたいてい知覚と行動と情動の主体とされるからだ。俳優のイメージが特権的な中心を占め、ほかのイメージや物質の運動はそこに従属する。脚本から演出まで、さまざまな水準でその中心に奉仕し、そのために使われるのである。もちろん、俳優を物質として扱うことは、被写体にどれほど近づいても実相寺のカメラが保ち続ける、観察者としての客観性と距離感に表れている、と言うこともできる。人物の傍らから自律的に撮影するカメラは、俳優の主観的な視野をそのままなぞるのではなく、変容させ、反映し、分化させる。それも間違いではないだろう。実際、実相寺のショットで俳優は、道具より優先された特別な場所を必ずしも与えられていない。それどころか、画面の大半を占める無機質な人工物によって、異様なほど狭いところへ押し込められることさえある。また、極端なクロースアップでは、俳優は、カメラが戯れるようにいくらでも切り分けられる肉の塊のようになる。目、鼻、耳と切り出され、アフレコの際に俳優が自分の鼻だと名乗り出なければならないほどだ。ならば、人物の主観とカメラ独自の視点が重なる、この自由間接主観性と自律的な記録性を出発点として、ひとまず牧と美弥子を、互いに作用し合い、動いている二つの物質的な肉体と呼んでもよいのではないか。
サイレンの鳴り響く、開けた夜の闇。折よく灯ったパトカーのヘッドライトの真ん前で、美弥子を愛する牧は、彼女の名を繰り返し呼ぶことしかできない。美弥子は、仏像以外のものを信じようとしたことが自分の間違いだった、ただそれだけなのだと告げる。一瞬にして心を冷えきらせるその言葉を口にしながら、彼女の小鼻は膨らんだり縮んだりし、唇とほうれい線のあたりの筋肉は時折震える。言葉が途切れるのとともにサイレンも声を失う。突然訪れた静けさのなか、頬にとどまる一滴の涙がちょうど見えるだけの、ほんの短い間がある。画面は牧の反応を捉えるクロースアップへ切り替わる。茫然とするその目には、美弥子に劣らず潤んだ光がある。わずかに開いた唇は何かを言おうとしているが、言葉にならない。この場面では、顔の微視的な動きが、互いに連動するさまごと拡大され、可視化される。つねに顔で画面を埋めようとする実相寺の演出の極北だ。必要なものだけを残す情報の引き算によって、顔の複合的な運動のあいだにある、ごく小さな速度の変化が見え始め、純粋な感情の流れが生まれる。この水準では、アニメーションが実写に勝るとはなかなか言えない。そして、先に述べた、このシークエンスにおける無関係な動作と効果音の同時性は、ここではいささか大げさに見える別の言い方もできる。鋭い音が空間のなかで限りなく高まり、増幅し、最後には崩れ落ちて、一滴の涙へ凝縮するのだ。実相寺が仏像の消えるときの効果音を、光線を音響化したものと呼んでいたことを考えれば、これも言い過ぎとは言えないだろう。鋭角的な奇抜さゆえに誰もが一言は語れる実相寺アングルを知ったあとに、さらに目を向けるべきなのは、こうした地に足のついた、的確に核心を捉える演出の力なのだ。

再び美弥子が映ると、その両頬にはもう涙の跡がある。この回で繰り返し流れる、抒情的で優雅な「モーツァルトの『魔笛』の主題による変奏曲」が聞こえ始める。それまで美弥子と牧がともにいるとき、この曲はいつも、ほかの効果音や台詞や動作に遮られ、中断されていた。だが、終盤のいま、別れから始まる一連のショットでは、一つの楽節を最後まで奏でることになる。牧の目の前で、彼女は顔を背けて立ち去ろうとする。牧はもう追わない。角を曲がるところで、美弥子は絶望を感じさせるほどかすかに首を振り、寒い夜に溶けてゆく白い息を吐く。季節は冬だ。あとは階段を下りてゆく後ろ姿だけが残る。車がカメラの前を横切る。一瞬の停滞を経て、二人の外にある世界の時間が再び流れ始めた、と告げるかのようだ。だが、私たちに聞こえるのは、遠ざかる彼女の足音だけである。彼女を見つめる牧が、ゆっくりと画面に入ってくる。表情は見えないが、ピントはゆっくりと彼へ移り、画面はゆっくりとフェードアウトする……。
抒情的な旋律が流れ続けるなか、突然、カメラが捉えるのは、昼の光のもと、地面で餌をついばむ鳩の群れだ。そして餌をやる牧の横顔へ移るが、彼は静かに、フレームの右側をまっすぐ見つめている。右側には何があるのか? 私たちにはわからない。画面はすぐに、コートを肩に掛けた彼が、両側を濃い木陰に覆われた石段を、こちらからは見えない寺に向かって上ってゆく、俯瞰のロングショットに切り替わるからだ。ところが、意外にも次につながるのは、足を止め、また別の茫然とした表情で少しうつむき、フレームの左側へ目をやる彼の横顔のクロースアップなのである。指をそろえて軽く唇に触れる癖は、親指で唇をぬぐうジャン=ポール・ベルモンドの仕草を思わせる。背景を見るかぎり、場所はすでに変わっている。すぐあとに続く薄暗い、短いロングショットでは、枯山水の石庭の向こう、白い低い塀の下にいる小さな彼の姿が、左へゆっくり歩いてゆく。その先には、青々とした木々に囲まれた二階建ての古寺がある。
京都をあてどなくさまよう牧。その動と静の関係を繰り返し捉える、この一連のショットこそ、実相寺が示す見事なモンタージュの配置なのだろう。牧が動く時間と静止する時間は厳密に設計され、速度の純粋な対比と変化を浮かび上がらせる。このようにモンタージュの配置は、微視的―巨視的―微視的―巨視的な運動を取り出そうとする。運動を、それを支える肉体から切り離し、ほかの運動も伴う、集合的で相互に関連した配置のなかへ組み入れるのである。つまり、運動を運動そのものに従わせ、自律させようとする試みだ。一方、このシークエンスに描かれるのは、ただ歩き回ることだけである。とりわけ、この回がわずか二十数分のテレビ番組であることを考えれば、この配置は物語の機能と形式を大胆に解体していると言える。テレビシリーズで人物に課される役柄の型や機能、物語全体の目標から思いもよらず離れることで、運動そのものを解き放ったのだ。一つのショットで彼が何を知覚したのか、その動きがどんな結果へつながるのかさえ、私たちにはまったくわからない。この点こそ、押井守が「京都買います」を神がかった一篇とし、すでに相当にむちゃをしているほかの回ともまるで違うと評する、その核心なのだと思う。実際、このシークエンスは、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(一九九五)で押井が「ダレ場」と呼ぶ、有名な三分間のショット群に少し似ている。表面的に見ても、ダレ場は素子とバトーが幻聴を聞くという重要な転換点のあとに置かれ、ある時刻、ある天候の都市風景を映し出す。そして素子は、そのなかで、どこにもいない不在者を探しているかのようだ。
押井はまた、実相寺を、円谷の体制のもとで対抗する姿勢を保ち、己の主張を貫いて過激に暴れ回るアナーキストとして描いている。枠組みの内側にいる破壊者、慣例を打ち破る者というわけで、もちろんこれは褒め言葉だ。「京都買います」以前から、実相寺昭雄と佐々木守のコンビは前科だらけだった。形式を崩し、解体することを愛する、最も転覆的なテロリストだったのである。特撮の巨匠とも呼ばれる実相寺が、最も反特撮的な牙をむいたのは、ひょっとすると『ウルトラマン』でのことかもしれない。第22話「地上破壊工作」(一九六六)では、ゴダールの『アルファヴィル』(一九六五)にならい、特撮の要素をできるだけ削り、地底世界をそのまま体育館でロケ撮影している。また、スペシウム光線を使わず、いつも投げ技で怪獣を倒す。第15話「恐怖の宇宙線」(一九六六)と第23話「故郷は地球」は、ウルトラマンが正義であるという立場を逆転させ、子供たちにウルトラマンを大ばか者呼ばわりさせる。第35話「怪獣墓場」(一九六七)ではさらに直接的に、怪獣は自分たちと姿形が違い、力が強いというだけで宇宙へ追放されたのだとフジ隊員に語らせ、ハヤタ隊員には悔い改め、謝罪させる。シリーズ唯一の喜劇回、第34話「空の贈り物」(一九六七)では、特撮のばかばかしさを利用しようとして、怪獣の肛門に水素を注入し、ハヤタ隊員にはスプーンを掲げて変身させようとする。
これに対し、「京都買います」の転覆はもっとかすかで、奥深い。むしろ本稿の狙いは、このかすかな転覆を描き出し、テレビドラマの映像、さらには実相寺の演出に対する先入観を覆すことにある。このモンタージュでは、私たちはカメラとともに京都の古寺を巡り歩く。それぞれの場所は、ほかのショットから見れば直接にはつながらない画面外にありながら、一つの古都の風景へと組み合わされる。私たちはそこに、仮構された連続性を感じ取る。空間内の任意の点に視点を置き、それらを相互に作用させることで、各ショットのカメラと人物の距離関係などが、ショット同士のあいだでも関係を結び始める。フレームの左を向く横顔に突然近づき、人物の茫然とした表情を捉えるあのクロースアップが、胸を揺さぶるのはそのためかもしれない。一方、牧を基準点とすれば、彼は移り変わる京都の風景に、一続きの、同質に見える時空に囚われているように見える。こうして座標系を逆転させると、ある意味では、岸田森という肉体的な主体が特権的なイメージとして錨の役割を果たし、その背後で絶えず変わりながらも連続している背景のイメージのほうが、むしろ特異なのだとも言える。
だが、彼の視線はつねに、絶対的な画面外へ向けられている。彼が何を見て、何を知覚したのか、私たちには知りようのない、あの「何か」へと。すると、このまったく異質な存在としての絶対的な画面外が、フレームの閉鎖性を破り、時空の連続性を断ち切る。同質化された時空から逃れ、精神化され、聖なるものとなった「何か」になるのだ。ショットに映る場所同士は直接にはつながらず、仮の連続性を結んでいた。その断裂の上に、今度は視線の先にある不可知のものが、さらなる断裂をもたらす。内部のほころびを起点として、フレーム内のイメージの完全性、集合性、統合性は絶えず爆破される。画面内のイメージが無限の関係を結び、変容し続けながら開かれてゆく、その先でなおもつながる、見ることのできない「何か」。それは私たちに、知覚できないものを知覚するよう求める。そこに初めて、最も純粋な戸惑いが生まれる。至るところで存在を示唆される、この精神化された不可知のものは、『攻殻機動隊』で素子が探そうとする「何か」と同じく、すでに私たちに名状しがたい戸惑いと不安をもたらしている。少し嫌な言い方かもしれないが、実はどこにも存在せず、限りなく無意味なこの不在者は、もう画面の隅々にまで満ち、その色を染み込ませているのではないか。
画面上部を占める大きな深紅の傘の下、清酒を主に売っているらしい道端の店から、牧が、前のショットとは反対の右方向へ出てくる。カメラは比較的近い距離から彼を捉える。標準的な4:3の画面にこれほどよく似合う構図もないと言いたくなる、そのなかで、彼は小さく数歩進んでしばし立ち止まる。その瞬間、彼のそばにあった妖怪の絵が、風にあおられてこちら側へめくれる。信じがたい、映画に固有としか言いようのない「偶然」が、純粋な出来事を生み、この構図を成す要素を完成させる。この意味で、イメージは自ら、イメージとそのモンタージュを調整していると言える。画面右側の奥へ延びる小道を進んだ彼は、突然こちらを振り返る。カメラの後ろで誰かが呼んだのか、あるいは不意に何かに気づき、何かを発見したのか。だが、私たちには相変わらず何一つわからない。原因にも結果にも結びつかない、何かを失ったような茫然とした状態のなかで、彼の反応は、ただ自律した反応そのものとなるほかない。これまでとは違う角度から背後に回り、顔の筋肉がかすかに震えるのを捉える短いクロースアップが続く。そのあと、カメラは端正に横移動しながら、密集する石塔のあいだを縫う彼を追う。鳩に餌をやって以来、比較的抑制された固定ショットを主としてきた一連の場面で、唯一の移動撮影だ。
このショットを可能にしたのは、おそらく東映京都映画の製作協力だろう。黒澤明が降板し、東映京都での撮影が中止された映画『トラ・トラ・トラ!』(一九七〇)の豪華な機材を、撮影スタッフが転用できたのである。東映京都のベテランたちから撮影技術を学び、クレーンや、長距離を高速で走る移動車を導入したことは、この回の実相寺の演出に見られる明らかな変化であり、先にも触れた撮影条件のよさの一因でもある。


乱れ舞う雪が織りなす、純白の、絶えず形を変える網のなかで、彼は山門をくぐる。頭上には葉をすっかり落とした枝があり、道はすでに細かな雪でいくらか湿っている。それから、青々とした庭の一隅、苔のびっしり生えた石灯籠のそばに立ち、黙って煙草を吸う。フレームは肩のところで身体を切り、人物を構図の左下に置く。右側の空間は、巨大で重々しく、黒く冷たい岩に塞がれている。この奇妙な取り合わせこそが実相寺昭雄の呼吸なのだろうと、ただ感嘆するしかない。黒髪には、落ちてきた雪が数粒とどまっている。吐いた煙が垂直に立ち上り、彼は思わず瞬きを重ねる。煙は髪にわずかにまとわりついてから、冷たい空気のなかへ次第に溶けてゆく。さまざまな状態が作用し、接触し、混ざり合う、その絶妙な現れだ。コートを肩に掛けた彼が、小走りで階段を上ってゆく後ろ姿をローアングルで捉えたあと、私たちは少し離れたところから、門前で彼が軒から滴る雪解け水を手で受けるのを見る。水滴を振り払いながら見上げ、振り返って髪を整え、もう片方の腕を袖に通し、こちらからは見えない段を下りる。そのため、それまで彼の頭と同じ高さにあったカメラの視線に対して、彼の姿が下がってゆく。そして石渡りの遊びでもするように、フレームの中のフレームを、ジグザグに跳びながら風景の奥へ入ってゆく。
このモンタージュの前半と後半で、彼の動きは速くなったり遅くなったりする。その変化を見ていると、彼を動かしているのは、そのつどの出会いや純粋な楽しみという偶然なのだと思えてくる。閉じこもるような悲しみであれ、せめてもの慰めとなる楽しみであれ、私たちが見るのは、一つの身体が外に示す活動の力が、増大―減少―増大―減少を繰り返し、絶えず変化するさまだ。こうして、微視的―巨視的な運動を取り出すモンタージュは、振動する運動の粒子を解き放つ。粒子同士を結ぶのは、動と静、速さと遅さの差異だけだ。それらは互いに溶け合い、岸田森という主体を通り抜けて通じ合う。この配置では、運動同士が精密に結びつき、互いに作用する。粒子同士の純粋な速さと遅さの関係そのものが、機能と形式を解体し、主体を中心とするあり方を解く――脱主体化する――運動なのだ。それによって、岸田森は、脱主体化された、生きた物質的な肉体となる。
物質的な肉体そのものが、局所的な動と静の関係から成り立っている。さまざまな状態が作用し、触れ合い、混ざり合うとき、肉体を構成する無限に多様な部分は変化し、その変化を速度の差異が貫いている。実相寺の配置の秩序のもとでは、美弥子が角を曲がり、かすかに首を振ったとき、不意に吐き出した白い息と同じように、石灯籠のそばで煙を吸い、吐くことで目に見えるものとなった人の呼吸が、寒い冬、白い空気、雪の落ちる速さ、流れる風、青々とした苔、黒く冷たい岩、澄みきって冷たい庭と合成される。それらはいずれも、異なる強度をもつ状態の要素なのだ。これは、身体と風景が生理的なリズムに沿って同調することではない。身体が雲や霧のように広がってゆく、非拍節的な、物質としての拡張なのである。その広がりの変化は、百分の一秒の違いまで見分けられるほど微細だ。身体も冬も、それぞれが動と静の関係から成る個体として、同じ平面上にある。風景と身体は、動と静の状態を共有するのだ。それぞれを特徴づける関係が互いを形づくり、内側から結びつく。そこでは、速度や力の度合いのどんな微細な差異も組み合わさり、単一の身体としての世界、あるいは世界としての単一の身体が現れるのだ。

続いて彼は平野屋の前に座り、自分で茶を注いで飲む。その土地の建築の意匠と構成を真正面から取り込み、巧みに組み替えて活かすこの構図には、京都そのものが本当にこんなにも美しいのか、と声を上げたくなる。店先の腰掛けに敷かれた布の、絶妙な暗紅色が、先ほどの傘の深紅と、冷たく澄んだ視界の表面で目を引きながら戯れ合う。鮮やかに飛び出す赤と、画面右側に入る提灯のくすんだ黄色が、画面のなかに見事にはめ込まれている。抒情的な旋律の流れは、初めから終わりまで、風景にも人物の身振りや動きにも、これほどよく似合っている。
そして、このシークエンスの最後のショットで背景の雑音が再び入ると、それまで一時休止していた物語がまた動き出し、牧は美弥子と再会するのだと、誰にもわかる。果たして庭園を歩く彼は、小道でうつむいて掃き掃除をしている、白い頭巾に黒衣の尼僧を見つける。二人を収めた構図の上端、いちばん手前には、意図的に置かれたかに見える赤い花が一輪、沈んだ背景から際立っている。思わず、パゾリーニがアントニオーニの詩的な映画を讃えたときに挙げた、『赤い砂漠』(一九六四)の二、三株のスミレを思い出す。ピントが外れ、また合わされるその花には、徹底して自由で、詩的な形式主義が現れていた。美弥子は、これからは仏像と生涯をともにする自分のことを忘れてほしいと、きっぱり告げる。牧はただ言葉を詰まらせるしかない。目には寂しい光が宿り、指がゆっくりと唇に触れ、そこをぬぐう。身を縮めて立ち去ろうとし、たまらずもう一度振り返る。だが、彼の前に立っているのは、一体の仏像なのだ。
それまで、人の身体が非拍節的に拡張する一方で、風景は逆に収縮していたのだとしよう。風景が、いまこの時、この天候と調和する顔を帯びる――いわば顔貌化である。ならば、身体と風景が互いを捉え合う進化は、まさに彼女において現れたのである。彼女は仏像になり、仏像として彼の目の前に現れる。生そのものを超え、最後の一線を越えたからこそ、真に炸裂して静寂となる。京都の風景のモンタージュで複数の視点が増殖し、最後には一点に集まって炸裂する、その静寂だ。仏像になることは、最大限の純粋な静止であると同時に、絶対的な運動の状態とも見なせる。そしてこのとき、行脚する僧が鳴らす鈴の音は、最大限の有声の沈黙となる。純粋に静止した仏像の目から、一滴の涙が流れ落ちる。涙は浄化であり、純粋さであり、沐浴だ。二人を隔てる溝を前に、彼女が彼に残す小さな動きは、この涙だけだ。涙は有声の沈黙と共振し、絡み合い、さらなる昇華を、さらに深い静けさをもたらす。絶えず絡まり合い、互いに作用を返し合う、この絶対的な運動、あるいは絶対的な静止を前にしては、誰もがただ恐怖を感じるほかないだろう。そして、車や人の行き交う俗世の喧騒を引き連れ、逃げ出すのだ。

ほとんど完璧なこの回は、これで終わるのだと思っていた。ところが、エンディングの映像の卓越した撮影と編集が、いっそう長く、衝撃の余韻を残す。街のざわめきが途切れることなく流れるなか、空に蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線、都市の煙、荒れた家々を映し、風にはためく一枚の薄いビニールに、じっくりと辛抱強く目を凝らす。灰色にくすんだ低い家並みと遠くの古寺のあいだには、整った四角い高層建築が、気管のなかの異物のように立ちはだかる。夕日を受けてきらめく川面の向こうには、工場の煙突が高くそびえている。サビに合わせて突然、雪が乱れ舞い、高さのまちまちな古い屋根の向こうを列車が通り過ぎる。混沌とした風景の記録に執着するこの映像に、私は、京都をさまよう牧のような、途方に暮れた、不安な心持ちを感じた。煙、薄いビニール、舞い散る冬の雪。これらの細部を記録するのは、それぞれの意味を分け、対比するためではない。逆に、それらは一つに溶け合い、ただそれ自体を語り、それ以上のことを語ろうとはしない。もちろん、実相寺は都市の新たな風景が広がり、古い風景が消えようとすることに、つねに特別な関心を寄せていた。ウルトラマンの姿は、高度経済成長のなかで正義の名分を背負った土地開発の事業者や土木建築業者と重なり、怪獣への鎮魂は、滅びの運命を背負って消えてゆこうとする風景、いわゆる地霊への哀歌となる。実相寺が監督した『ウルトラマン』にも、当時の工事や建設に関わる、丸太置き場や採石場などの記録がよく見られる。だが、このエンディングのよさは、『ウルトラマンマックス』第24話「狙われない街」(二〇〇五)のように、あまりにあからさまに自らの立場を表明してはいないことだ。それゆえ、過剰な意味づけの専制に陥らずに済んでいる。
実のところ、本稿で述べてきた、エンディングの映像までを含む一連のくだりは、すべて質感から始まる美学なのだと思う。質感とは何か? 光が拡散し、流動する、そのありさまだ。「狙われた街」の終盤を思えばいい。手前の水面の気泡、遠くの煙突の煙、赤い夕日、街の光、飛行体の、美しくも一瞬で消える緋色の光の流れ、ウルトラマンの目やメトロン星人の身体で明滅する光、爆発の閃光と、渦を巻きながら四散する煙……。それらは事物としてほかの事物と溶け合い、あらゆる方向へ散乱し、増殖する。こうして色彩が広がり、延びてゆき、すべてのショットに美的な一貫性を与える。光そのものの流れ、光そのものの現れが、「狙われた街」の一つの場面から、「京都買います」ではシークエンス全体へと広がったのだ。私は先ほど、実相寺は反特撮的だと言った。だが、それは正しくない。これこそ特撮なのだ。ドゥルーズの神秘的で短い箴言で締めくくるのが、ふさわしいかもしれない。イメージ=運動=物質=光。