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けれど、方舟はどこへ向かうのか?

『アークナイツ』の源石と『Command & Conquer』のティベリウム、そして感染者たちを手がかりに、ゴッフマンのスティグマ論をたどる。異質な者はどこに属し、なぜ排除されるのか。社会秩序と「常人化」の困難を考える。

著者: hood中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文校閲: 伦勃朗 · 中国語原稿

スティグマ論とアークナイツについて

HMS Hoodのプロフィール画像
HMS Hood

星々に手が届くはずだったのに、ふと気づけば、ただの夢だった
そして空から落ち、星の光に焼き尽くされたのは
太陽という名の星だった

すべての鉱石病患者、忘れられた者たち、超人、サイボーグ、新人類、ミュータント、コーディネイター、亜人、ナチュラル、そしてあなたと私に捧ぐ。

著者より:スティグマ論は、ゴッフマン氏が社会心理学に残した重要な貢献の一つである。その著作では、スティグマが社会的構築の産物としてどのように生まれるのかが、詳しく考察されている。大量のデータが並ぶわけではなく、用いられるのは主に伝記やインタビューの記録だ。本人の言うとおり、むしろエッセイに近い。私のスティグマ論についての理解は、実際には社会心理学のいくつかの見解に限られている。同じく重要な貢献をしたほかの理論学派については、少し触れた程度にすぎない。また、数千字の文章の中で、説明の曖昧なゲームのテキストを頼りにゴッフマンの思考をたどり、スティグマが「なぜ」構築の産物なのか、スティグマの印に「なぜ」注目すべきなのか、それを負う人が「なぜ」差別されるのか、そしてその差別を「なぜ」なくすべきなのかを整理するだけの力も気力も、私にはない。結論をそのまま示し、定義を山ほど並べることしかできず、以前の記事のように作品と結びつけて詳しく論じることはできない。

その意味では、この文章もエッセイにすぎない。もちろん、これは上品な言い方だ。身内で話していたときの自己評価は「学部論文レベルの、つぎはぎ復唱マシン」だった。だが幸か不幸か、書き始めたのは深夜十二時を過ぎてからだった。『レインボーシックス』の数々のバグに心を折られ、腹いせに筆を執り、書き終えた頃にはもう夜が明けかけていた。その間ずっと、文章を書くことに酔いしれて昂ぶっており、初稿を書き上げた直後には、何を書いたのかさえ覚えていなかった。ただ、そのおかげで、これはただの学術ゴミではなく、それなりに読める学術ゴミにはなった。今回は感情を吐き出したいという欲求をまったく抑えなかった、というより抑えられなかった。もちろん、感情を吐き出すというのも上品な言い方だ。さらに恐ろしいのは、この文章の修正を自分一人で引き受けるしかないことだ。同僚たちの愛情はたいてい精神分析家に注がれていて、彼らにとって一番のスターはゴッフマンではない。詳しくない以上、無責任な助言はできないというわけだ。ゴッフマンの時代の理論にもっと詳しい読者がいたら、ぜひ意見を聞かせてほしい。

『アークナイツ』と『Command & Conquer 3: Tiberium Wars』のタイトルロゴ
本文で主に取り上げる二つのゲーム。

『アークナイツ』は、ゲームそのものの出来で大勢のプレイヤーを引きつけるよりも前から、細部に散りばめられた名作へのオマージュで、かなりの注目を集めていたのではないか。おなじみのてんかん発作への注意表示や、弁当箱を開けて「オペレーター」を引き、白い仮面の敵を倒すといった、わかりやすい部分はいったん脇に置こう。すべての土台である源石と天災に目を向ければ、リアルタイムストラテジーに親しんだ人なら、少なくとも私なら、ほとんど姿を消してしまった『Command & Conquer』のティベリウム・シリーズを連想せずにはいられない。両方を知る人たちと気軽に話しているときなど、あの謎めいた鉱石と、それに侵食された人々を、すっかりティベリウムと「忘れられた者たち」呼ばわりしていたくらいだ。

黒い源石と緑色のティベリウムの比較
源石とティベリウム。

ただ、今日書きたいのは、両者の違いやつながりについてではない。二つの作品の具体的な筋書きにも関心はない。一方はまだ完結しておらず、もう一方は権利が何度も人手に渡ったせいで、物語の前後が食い違い、穴だらけになっている。そこを論じても、実りある結論にはなかなかたどり着けないだろう。

目を向けるべきなのは、石と、石に侵食された人々だけだ。それ以外には何もない。


一、源石、ティベリウム、あるいは「スティグマの印」

鉱物が天災を引き起こすのか、それとも天災が鉱物をもたらすのかは、実のところ重要ではない。『Command & Conquer』では、ティベリウムの集積する地域は常に異常気象に見舞われ、居住不可能なレッドゾーンと、かろうじて居住できるイエローゾーンに分けられる。一方、『アークナイツ』では源石は天災の産物だ。天災や猛毒の鉱物は、幸運に恵まれた者を死なせ、生き残った者には結晶と共生する運命を背負わせる。短く、しかし悲惨と呼ぶには十分な残りの人生を、生き抜かせるのだ。

医療記録やレントゲンと、肌に結晶の現れた感染者
感染者。ティベリウムの感染者もだいたい同じ姿だが、体の鉱物は緑色だ。実際には、ティベリウムの感染者は非常に少ない。ティベリウムは猛毒であり、大半の人はごく短時間のうちに全身が結晶化してしまうからだ。

一瞬の天災が殺しきれなかった人間の始末は、果てしない人災に任せるしかない。なるほど、公平なことだ。

鉱石病に感染すれば異質な者と見なされ、それ以降は人間扱いされない。問題はただ一つ、なぜなのか。だが、そこにそう多くの理由はないのかもしれない。人間はずっとそうしてきたのだから。千年前にハンセン病を恐れた人類は、百年前には結核患者を恐れた。その子孫たちは十年前にB型肝炎ウイルスのキャリアを職場から追い出し、今日はエイズ患者に白い目を向ける。同じ悲劇を繰り返す人類には、ガンダムの「人は…同じ過ちを繰り返す」という言葉が、またしても当てはまる。だが、すべては理にかなっている。これらの病気は恐ろしい。架空の鉱石病も恐ろしい。病気になった人間は、汚らわしい。

顔に文字を彫られたり、鼻をそがれたり、両脚を切り落とされたりした罪人や、焼き印を押された奴隷と同じだ。体についた鉱石のかけらは、目を刺すような印となる。その印をつけられた者は、必ずや恥ずべき人間なのだ。おそらく、それだけのことだ。恥ずべき人間。

それは、私たちが普通の人と同じように暮らすこともできなくしてしまいます。普通の人たちの社会は、あなたから何もかも奪ってしまうんです。

——アーミヤ1

だから、源石なのかティベリウムなのかは、もはや重要ではないと言える。これは「Stigma」、つまり「スティグマ(汚名)」であり、それ以外の何ものでもないからだ。

源石自体が病であるように、スティグマもまた、単に恥辱を象徴する記号なのではなく、恥辱そのものである。スティグマを負うことは恥辱だ。それによって、もはや欠けるところのない有用な人間ではなくなり、欠陥と汚点を負う。スティグマに煩わされずに済むなら、少なくとも一種の正当性を得て、「常人」という栄誉にあずかれる。子供のいたずらのように、「恥さらし」の人間に「私は恥さらしです」と書いたラベルを貼る。そういう印だと考えてよい。

ひとまず、彼らを患者と見なしておこう。スティグマを負う人をすべて、あの恐ろしい鉱石に感染した患者と見なすのだ。そもそも、いわゆる「常人」は、「人間性を医学的に扱う」ようになって初めて生まれたのだった。ここは僭越ながら冷ややかな医師になったつもりで、患者を分類してみよう。もっとも、分類したところで、めでたく「症状に合った薬を出す」ことにはならない。薬を飲む必要があるのは、おそらく患者自身ではないのだから。

第一は、本当にただの患者だ。身体に欠けたところがある。それが見えるか見えないかに、どれほどの違いがあるだろう。隠すのが難しいかどうか、それだけだ。第二は、精神が正常ではないと見なされる人、あるいは単に性格を好かれない人だ。臆病だとか、横暴だとか、そんなありふれた例がある。他人はたいてい行動からそうした性格を読み取るのだから、これもまだ隠せる。第三の場合、責任を負うのは、スティグマを負う人の親、さらにその親の親だ。仕方がない。集団全体に及ぶスティグマとはそういうものなのだ。低いカーストや異教徒の子供に生まれたのだから、誰を恨めるというのか。とはいえ、これもうまく隠せるかもしれない。

だが、なぜ隠さなければならないのか。こうした異質な要素を、なぜ隠す必要があるのか。わかりきったことを聞くものではない。隠さず、体の鉱物を覆わず、「常人」のふりもせずに、大多数の人に囲まれてどうやって生きていくつもりだ。ひとたび尻尾を出せば、人間ではないと決めつけられるのだぞ!

私は……病気だから。

——アーミヤ

社会生活を役割の演技として見る、ドラマトゥルギーの視点に立てば、スティグマを負うのは、演じるべき社会的役割を演じられないからにすぎない。役を演じられず、機能も果たせない。お前は何の役に立つ? 脅威や恐怖の対象にされないだけ、ありがたいと思え。お前が死んだあと、私たちに鉱石病がうつるのを怖がっているとでも思うのか?

お前たちが存在すること自体、秩序への挑戦なのだ。私たち正常な人間は、そもそも社会秩序が作り上げた産物だ。お前たちが汚名を着せられようと、人間扱いされなくなろうと、私に何の関係がある? お前たちの境遇は、一人や二人の差別で生まれたものではない。鉱石の由来は確かに天災だし、お前たちの体の鉱石も、確かにどこか別の場所から来たのだろう。ただ、それはもはや単なる石ではない。社会的に作り上げられた、逸脱のラベルなのだ。体に印があるから人間扱いされなくなるのではない。社会が作り上げた秩序が、その印を恥ずべきものと定め、お前を「常人」の仲間から追い出すのだ。

だから、薬を出そう。処方箋は、たった一言。忘れられることを選べ。

武器と結晶状の樹木を配した画像
『アークナイツ』の「源石」は毒性が低く、安定していて、用途も幅広い。それに対して『Command & Conquer』の「ティベリウム」は高エネルギー、高毒性、不安定で、急速に成長する。使い道は高エネルギー燃料と兵器の弾頭に限られる。

二、いつまでも忘れてもらえない「忘れられた者たち」

忘れられることを選べなどと、口で言うのは簡単だ。物語の中でティベリウムに侵食された人々は、確かに「忘れられた者たち」となり、自らを秩序の外へ追放した。一方、鉱石病患者は、巣のような移動都市の隙間で命をつなぎ、自分たちを排斥する秩序から抜け出せないでいる。

感染者の社会的な立場を考えれば、みんなが街中で堂々と姿を見せることなどできません。

——アーミヤ

それでも、鉱石病患者たちは忘れられることを切望する。あらゆる手を尽くしてスティグマの印を隠し、正常な人間を「装う」。こうした巧妙な印象操作の手法については、ここでは論じない。この枠から抜け出せなければ、スティグマ論の意義など、そこらの成功哲学の「著作」と大差なくなる。

一つ、見落としてはならないことがある。彼らが望んでいるのは、忘れられて大勢の中に紛れることであって、社会から排除され、完全に忘れ去られることではない。そういう人々は、依然として社会秩序の中にいる。これが、ゴッフマンの挙げる第一の道だ。その秩序を支えること。自分にも周囲にも、その秩序の要求を果たせるとは信じられなくても、だ。第二の道は『Command & Conquer』式である。いっそ秩序から遠ざかればいい。その秩序に接点を持つ人すべてからも離れ、多大な代償をいとわずに。かつて作られたハンセン病患者の集住地のように、実例は確かにあるが、あまりに少なく、考察は難しい。ここでは引き続き、『アークナイツ』式の鉱石病患者に目を向けよう。忘れられることを切望しながら、いつまでも覚えられている、「なかなか忘れてもらえない者たち」に。

ううん、ずっと忘れられない。ただ……思い出したくないだけ。

——ミーシャ

忘れられることを切望する人は誰もが、絶えず思い出され、話題にされる。体の印を隠す人もみな、びくびくしながら暮らしている。差別されることを恐れ、同じ境遇の仲間から排除されることを恐れ、隠している印がひょんなことから大事を引き起こすのを恐れる。まるでチェーホフの小役人のように。この問題を理解するには、スティグマを負う人が置かれた「集団」、つまり似た境遇の人たちからなる共同体を考える必要がある。

その前に、考えてみよう。ロドスとは、感染者にとっていったい何なのか?

感染者の「内集団」からすれば、ロドスは「裏切り者」だろう。内集団は、いつも同じ境遇の仲間で構成される。そして一人ひとりに、お前はこの集団の一員であり、それ以外の何者でもない、ほかの集団は本当の居場所ではない、と絶えずほのめかす。悪くはない。この人たちは同じ扱いを受けてきたのだ。自分に恥をかかせるあの特徴こそが、同じ仲間に属する証しなのだと認めさえすればいい。

チェルノボーグの廃墟と人物のシルエット
大領主、鉱石を栽培中(違)。

だが、その一人ひとりは、社会の中で生きている。「内集団」という保育器の中だけで生きてはいられず、社会の規範に従って行動しなければならない。周囲の助言に耳を傾け、自分は何も違わないのだと信じる。これが、仲間の外にいる人々、つまり「外集団」の与えるアイデンティティだ。これまでに身につけた、あるいは人から教わったさまざまな技術を駆使して、体面を保てるだけの生活を送る。すべては順調だ。自分の印が、相変わらず自分に恥をかかせていると気づくまでは。

みんな……感染者。私も……感染者。

——ミーシャ

こうして二つのアイデンティティを与えられ、どちらを取ることもできず、泥沼にはまってしまう。他人が自分をどう思うかを、絶えず考える。異質な者として扱われたくはないが、同じ境遇の仲間を裏切る者にもなりたくない。さらに恐ろしいのは、耳に入る助言のすべてが、これこそ自分のためになるやり方で、ほかの方法は有害だと言い張ることだ。忘れられた者たちは、一日たりとも本当に忘れられることがない。自分で自分を忘れることさえできない。張りつめた息苦しい空気から抜け出せず、透明な嵐にさらされている。


三、透明な嵐

私は幾原邦彦のこの比喩がたまらなく好きだ。かつて『ユリ熊嵐』をスティグマの視点から分析しようかと考えたこともあったが、その後『アークナイツ』がよりはっきりとした記号をいくつか示してくれたので、やめにした。私のいつもの見方では、透明な嵐とは、常人がスティグマを負う人に加える、日常的な抑圧のことだ。

このチェルノボーグという都市は、もう、あらゆる規則の象徴になっています。感染者を追放し、感染者を抹殺し、感染者を蔑み、感染者を恐れる。

——アーミヤ

権利の平等をめぐる理論に詳しい皆さんは、なぜなのかと問わずにはいられないだろう。ここまで論じてきたスティグマは、一度として「人々に危害を及ぼす」ものではなかった。足が不自由だとか、目が見えないとか、時折てんかんの発作が起きるとか、性格が臆病だとか、その程度のことだ。デュルケームに立ち戻ってみよう。原始社会で人類は、分類を通じて秩序を築き、それによって自分自身と世界を知った。人はつねに差異に目を向け、それにラベルを貼ろうとする。主流派の集団――こう呼ぶことを許してほしい――は、自分たちの抱く主流の考え方に沿って、ラベルを貼られた人々を恥ずべき特徴と結びつける。いわゆるステレオタイプだ。その結果、そうした人々は差別され、人間扱いされなくなる。こうなると、もはや特徴によって人を分類しているのではない。人の分類によって、特徴を分類しているのだ。

鉱石の毒性が違うため、ティベリウムの感染者はあまりにも少なく、まともな武装勢力を組織することなど到底できない。物語の中では脇役になるしかないのだ(『Command & Conquer: Tiberian Sun』参照)。もっとも、『Command & Conquer 3: Kane’s Wrath』の対戦では、ミュータントの小屋をいくつか占領して協力を仰ぐことが、勝利の鍵になる可能性は大いにある(ここでSufferを名指し)。

「チェルノボーグで暴動」と報じる新聞、火炎瓶、炎の中の人物
新聞の見出しは「チェルノボーグで暴動」。

この抑圧は、確かに豪雨だ。さまざまな人に降りかかる。それを透明と呼ぶのは、姿が見えないからなのかもしれない。だが私は、むしろ、抑圧に加わる大勢の人がそろって、自分はまったく差別していないと言い張るからではないかと思う。

これは、「牛なら本当に一頭持っている」という、建前と本音のずれを笑う小咄の焼き直しだ。調査対象者は質問紙に答えるとき、わざと本心と違う回答をすることが多い。ところが、よりきめ細かな尺度を使ったり、行動を測定したりすると、本当の態度が現れる。一方、自分はまったく差別していないと言う人が、実際にそう信じていることもあるだろう。それでも、意識にのぼらないところでは、スティグマを負う人から距離を置こうとする態度をなかなか捨てられない。

透明な嵐は、吹き荒れる自分自身にさえ気づかないほど、目に見えない。手足に欠損のある人への態度を調べた研究では、スティグマに接すると、常人の多くは、まず距離を置き、その直後に親切になるという過程をたどることがわかった。最初のよそよそしさは無意識で、制御できない。そのあとすぐ失礼だったと感じ、過剰な親切で埋め合わせる。ただ、その親切もまた、まったく別の特別扱いにほかならない。意地悪な見方をすれば、上から目線の施しですらある。

クルツバンらはこれを生物進化の観点から考え、集団に害を及ぼしかねない特質を避けるために進化した、自浄の仕組みだと説明する。もし本当にそうなら、今日の議論にはもう意味がない。スティグマこそ、私たちが今日まで生き延びる鍵だったことになるし、人にスティグマを負わせて共同体から締め出すのは、パンを食べるのと同じくらい当たり前のことになるからだ。だが、今日まで発展してきた社会は、異質なものを受け入れられる精緻なシステムであるべきで、高度に同質化しなければ生きられない蟻のようなものではないはずだ。こう考える人は少なくない。だから彼らは、同じ偉大な課題に取り組む。スティグマを負う人の「常人化」である。


四、レユニオン、ロドス、Nod兄弟団、それとも世界防衛機構?

彼らは一隻の方舟を造り、スティグマを負う人を全員乗せて、この方舟は差別のない明日へ向かうのだと宣言する。

鉄の部屋に穴を一つ開ければ、たとえ外が一面の火の海でも、中の人間は押し合いへし合い、体を外へ押し出そうとする。

——ドーベルマン

目の前には四つの進路がある。レユニオン、ロドス、Nod兄弟団(以下Nod)、そして世界防衛機構(以下GDI)へ向かう道だ。物語の中でこの四組織にもっと隠された陰謀があるかどうかは、考えないことにしよう。彼らが何をしようと公言しているかだけを検討する。

レユニオン、ロドス、Nod兄弟団、世界防衛機構の四つの紋章
左から、レユニオン、ロドス、Nod兄弟団、世界防衛機構。

レユニオンの道は、先ほど触れた内集団のあり方に似ている。すべての患者に、自分たち、つまり内集団そのものに目を向けることを求め、ほかの集団に向かう者はみな裏切り者と見なす。この道は、血気にはやる排他的なショーヴィニズムに満ちている。彼らはあの鉱石を見せびらかし、平等を実践しているつもりの人々を問い詰めるかもしれない。わずかなほころびを見つけ出し、その受容はうわべだけだと誇らしげに宣言できるまで。この道の行き着く先は、異質さが正当なものとして認められることか、さもなければ自己隔離だ。確かに、そうした道を選んだ恩恵を次の世代が受けることは多い。事実がそれを示している。だが、それでもこの道は、異質さを神聖なものとし、新しいステレオタイプを作っているにすぎない。

それに比べると、ロドスは考えが甘いように見える。鉱石病を治すという行為は、素晴らしく聞こえるかもしれない。だがそこには、異質な特徴は有害であり、治療しなければならないという価値判断が潜んでいる。歴史には、こうした例がいくらでも見つかる。前頭葉切除手術は、その典型と言えるだろう。もちろん、それ以前からあった性的少数者への迫害も、しばしば治療の旗印を掲げていた。超人を描くフィクションで、超人的な力を抑える薬を開発する人物も、おおむねこんなふうに考えているのかもしれない。この考え方がスティグマを負う人々の集団にとって有益だとは、言いがたい。少なくとも、そうしたすべての集団に最終的な利益をもたらすとは言えないだろう。異質さを取り除いて集団を同質化することは、本当に有益なのか。この問いには慎重でなければならない。むしろ、よくある主人公の中二病めいた台詞と受け取られる「茨の鎖に燃える憎しみを消す」1のほうが、実行可能な解決策に触れている。社会構造の欠陥を改める、という解決策に。

Nodはティベリウムが人類に進化をもたらすと信じ、それを地球全土に広めようとする。こう理解してみよう。誰もが同じスティグマの印を持つようになれば、その印は当然、もはやスティグマの印ではなくなる。だが、異質な要素が広まって同質な要素になったら、新たな異質な要素への排斥は止まるのだろうか。それに、スティグマを広めるなど、実行のしようがない。あるいは、これはこういう発想を表しているのかもしれない。スティグマ化によってスティグマ化に対抗するのだ。たとえば、スティグマを負う人を排斥する者は狭量で利己的だと見なし、日常の中で当事者に奇異の目を向ける人々に、そうしたスティグマのラベルを貼る。スティグマを負わされる恐怖を武器にして、スティグマを負う人の利益を守る。そのたびに、スティグマそのものが持つ重みを増していく。

では、GDIなら頼りになるのか。GDIがすることは、二つしかない。Nodを掃討することと、ティベリウムを除去することだ。第一の点は気にせず、第二の点だけを見よう。スティグマの印そのものを、完全に消し去ることはできないだろうか。印がなければ、印をつけられる人もいなくなる。ロドスとは違う。ロドスはスティグマを負う人を「救う」ことを望み、GDIはスティグマの印が広まるのを根本から断とうとする。だが、これも「異質さは有害だ」という前提に立っていることは、認めなければならない。まして、スティグマの印は秩序が作り上げた産物なのだから、そもそも根絶できるかどうかを問うこと自体、無理なのだろう。

こうして私たちは船を操り、行き止まり、行き止まり、行き止まり、そして行き止まりに向き合う。

ロドスのように分け隔てをしない感染者組織も、レユニオンのように熱狂的に外部を排斥して身内を守る感染者組織も、めったにない。

——ドーベルマン

付記:実際には、どちらもよくある。

人物と巨大な結晶のある「天災」の風景と、吊橋と緑色の結晶が見える「レッドゾーン」
「天災」と「レッドゾーン」のビジュアルデザイン。

五、方舟はどこへ向かうのか?

活路? 私たちに何ができる? あなたたちには、何ができる?

——スカルシュレッダー

船に乗っているのは、鉱石病患者だ。鉱石病患者、忘れられた者たち、超人、サイボーグ、新人類、ミュータント、コーディネイター、亜人、ナチュラル、そしておそらく、ほかにもいろいろな人々。総勢、およそ七十億人。

ゴッフマンは、スティグマを負う人の数を統計で調べることに意味があるとは考えない。そんな人は「いくらでもいる」からだ。まだスティグマを負ってはいないが、その可能性がある人まで数に入れるなら、あえて暴言を吐こう。この世界には、もう「常人」などいない。

もちろん、これは正確ではない。「常人」と「スティグマを負う人」は、互いがあってこそ成り立つ。先に述べたとおり、どちらも構築された概念なのだ。ある意味では、誰もが常人であると同時に、ある程度はスティグマを負っている。だから私たちは、スティグマを負う人々が被る数々の不公正をなくすために、道を選ばなければならない。たとえ、自分自身のためだけであっても。

だが、スティグマを負う人々を素晴らしい明日へ連れていくと称する方舟は、いったいどこへ向かえばいいのか?

私たちはレユニオンのショーヴィニズムを信じない。ロドスの偽善を信じない。Nodの歯には歯をというやり方を信じない。GDIの独りよがりな願望を信じない。では私たちは、いったい、どこへ向かうのか?

いわゆる「常人化」を、もう一度考えてみよう。

ただ普通に接すればいいのか? だが、普通に接することは、差別をなくすことではない。見慣れて気にしなくなるだけかもしれない。もちろん、すべての人をそんなふうに悪意をもって見るわけにはいかない。では、個人として親切にし、スティグマを負う人の理解者、いわゆる「事情通」になればいいのか? 私たちは相手のスティグマの印に触れないよう、細心の注意を払い、相手は相手で、びくびくしながらそれを隠す。これでは到底「常人化」とは呼べない。ある特徴を避けて話したり、その特徴には何も恥ずべきところなどないと声を大にして言ったりするのは、そもそもそれが恥ずべき特徴だという判断を前提にしているからではないか? だが避けなければ、実際に相手を傷つけてしまう。

かといって、特別扱いして優遇するわけにもいかない。それでは、さらに恐ろしい結論を導くことになる。スティグマを負う人は能力の欠けた人間であり、他人の善意と施しに頼って生きなければならない、と。

メディアに頼るのは、もっと恐ろしい。ジェンダーをめぐるよくある論争の数々を、ここで列挙したくはない。皆さんにもそれぞれ判断があるだろう。こうした問題が積み重なって大きくなり、ついに噴き出すまでに、万能のメディアはさぞ大きく貢献していることだろう。本当に弱い立場にある集団が、ポリティカル・コレクトネスの強い圧力のもとで、かえって一斉攻撃の的になる。何度も何度もスティグマの印を取り上げ、忘れられかけていた差異を再び人目にさらす。最後には社会全体がその差異に神経をとがらせ、双方が負け、双方が傷つくだけだ。

宣伝で民衆に感染者を恐れさせておけば、感染者を捕らえるときには、民衆は当然のこととして受け止める。それどころか、拍手して喜びさえする。

——ドーベルマン

結局のところ、スティグマは社会秩序の産物であって、誰か一人の過ちではない。スティグマを負った人が何か悪いことをしたとは限らないだけでなく、スティグマを負う人への差別を行う個人や、その行為さえも、元凶とは言いがたいのだ。秩序そのものを検討し、改めようとせず、ただ「何も違わない」という覆いをかぶせるだけでは、こんな問題は決して解決しない。スティグマそのものが異質な要素であり、安易に同質化などできず、既存の体系に取り込むことさえ難しいのだと、認めなければならない。だが、問題はそこにある。異質な要素は、なぜ有害だと見なされるのか。私は、異質なものは有害だという考えを、あれほど「弁護」してきた。それでも結局、それが正当だとは認められない。

スティグマとなるのは、そもそも「常人」とは違うということだ。「常人」と異なるからこそ、スティグマを負わされる。鉱石病患者は、確かに大多数の人とは違う。ほかのさまざまな少数者の集団も同じだ。ただ、なぜ、その違いを有害だと見なさなければならないのか?

みんな、守られるべき人たちなんだ。

——ミーシャ

ゴッフマンは皮肉を込めて、こう述べる。ある重要な意味で、アメリカにはまったく恥じる必要のない男が一種類しかいない。若く、既婚で、白人で、都会に住み、北部の出身で、異性愛者で、プロテスタントで、子供がいて、大学教育を受け、フルタイムで働き、血色がよく、体重も身長も申し分なく、近ごろもスポーツをしている男だ。

高度に構造化された秩序は、私たち全員を危険にさらしている。誰もがスティグマを負わされうるのだ。現にスティグマを作り出す権威が存在しているときは、なおさらである。ティベリウムのような感染力の強い鉱物でスティグマを表すのは適切なのかと、私は考えたことがある。今となっては、何も不都合はないように思える。確かにスティグマは感染症ではない。ただ、スティグマとされるものの範囲は、確実に広がり続けている。

この方舟は、「忘却」という岸へ向かうしかない。ただし、忘れられるのはスティグマを負う人ではない。体の印でもない。常人とスティグマを負う人を隔てる、あの境界線なのだ。

夕景の中のアーミヤ


参考文献

  1. 戈夫曼(米)『污名』商务印书馆、2009年。

  2. 欧文·戈夫曼(米)『日常生活中的自我呈现』北京大学出版社、2008年。

  3. 王晴锋「正常的越轨者:戈夫曼论污名」『河北学刊』第38巻第2号、2018年、188–194頁。

  4. 郭金华「污名研究:概念、理论和模型的演进」『学海』2015年第2号、99–109頁。

  5. 张宝山・俞国良「污名现象及其心理效应」『心理科学进展』2007年第6号、993–1001頁。


編集者注:正直に言えば、私は著者の見解に、ある程度の不満を抱いている。社会に「忘却」や「寛容」を呼びかけるだけで十分なのだろうか? 反ユダヤ主義者とユダヤ人を、本当に握手して和解させられるのか? あるいは、これは新自由主義的な寛容へと向かうのではないか? そうした寛容が、その反対物である不寛容と同じ論理を色濃く共有していることは、私たちも知っている。「隣人を愛する。ただし、私の邪魔をしないかぎりで!」これが最後に行き着くのは、他者への恐怖に全面的に依存する「ポスト政治的な生政治(post-political bio-politics)」だ。「寛容」も「忘却」も、よい解決ではない。差異を承認し、記憶することだけが、解決なのかもしれない。

本文終わり
注01

注釈

  1. 訳注:『アークナイツ』の台詞は、本文中の短い引用も含め、中国語記事に引用された形から訳した。日本語版ゲームの台詞ではない。 ↑ ↑

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