屋頂現視研
← 中国語原文5 分で読了編集プレビュー

ストライクウィッチーズ――愚者の船に乗る少女たち

『阿呆船』の漂泊、罪の自覚と贖いのイメージを手がかりに、『ストライクウィッチーズ』の宮藤芳佳、エーリカ・ハルトマン、ゲルトルート・バルクホルンが、戦争のなかでの依存と救いの関係を通じて、どのように自分自身を知るのかを論じる。

著者: Ophelia中国語版校閲: 作者君的后援会会长中国語版編集: 作者君的后援会委员翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

Opheliaのアバター
Ophelia

怠惰で、卑小。

編集者より: 敬愛すべき、かわいくて、博識な作者君。

私たちはあらゆる港と岸を探し、
旅の途上でさんざん傷ついてきた。
それでも、悲しいかな、湾には近づけない、
人が船を降り、陸へと上がるその場所には。
私たちはあてどなく、世界の果てまで船でさまよう、
どこに船を着ければよいのか、誰も知らないから。
私たちには昼も夜も、安らぐときなどない、
それなのに、知恵に心を向け、重んじる者は誰もいない。

——セバスティアン・ブラント(ドイツ)『阿呆船』1


(一)

今年四月、『ストライクウィッチーズ』の四コマ漫画を原作とするアニメが放送を開始した。十周年を迎えて展開される数々の企画は、この息の長いシリーズをもう一歩先へと進めるのかもしれない。「ストライクウィッチーズ」から「ワールドウィッチーズ」へ。第501統合戦闘航空団を主役とする物語も、アニメではひとまず区切りを迎えるのかもしれない。

ストライクウィッチーズ501部隊
ストライクウィッチーズ501部隊。

第1期で魔女たちがヨーロッパ大陸をはるかに望む姿から、劇場版でバルクホルンとハルトマンがライン川を隔てて祖国を眺め、帰れないと語る場面まで。『ストライクウィッチーズ』の主役たち、第501統合戦闘航空団というこの特殊な部隊は、硝煙のなかでいつも、遠くを見つめ、待ち続ける者たちとして描かれているように見える。海辺の岩の上にいるオデュッセウスのように。そして各地への支援と幾度もの解散は、船に乗って漂泊する者をいっそう思わせる。戦争に追われて流浪し、どこにも本当には船を着けられずにいる者たちを。

戦争は、自ずと生命を生み出しては打ち砕く、黒い潮のようだ。機械の展示物と化した盲目の人々にさえ、野蛮な本性のよみがえりがもたらす危険や苦痛があり、恐怖や憤りがある。それらすべてが『阿呆船』のこの一節をいっそう鮮明にし、生きる者はどこか旅人でもあることを浮かび上がらせる。安楽の国へ帰るこの航海で、人は閉じ込められることの誘惑にとらわれる。たなびく霧のなかから歌声が聞こえてくるかのように。だから、どこかに本当に船を着けることはできず、浜辺のぬかるみに深くはまり込むしかない。自死者の森に根を下ろすかのように。そのなかで、人は石にはなりきれない。両耳を塞いでもむなしく、ほかの感覚が受け取る音楽がいっそう鮮やかになるだけだ。まさにこの感じ取る力ゆえに、人は愚者と呼ばれる。機械もまた、こうした感受性ゆえに断面図となる。

ゲルトルート・バルクホルンのキャラクター設定画

だから、若く感受性に富んだ魔女たちには、苦痛がひときわ強く現れるように思える。彼女たちは、まだそれに麻痺することもできない。恋人の死に対するミーナの恐れ、祖国と妹を守れなかったバルクホルンの悔恨、ガリア復興をめぐってペリーヌにのしかかる重圧。そうした苦痛から、彼女たちはそれぞれに、どこか盲目的な執着を見せる。アニメに描かれる温もりも喜びも、すべては苦海に浮かぶ、見る者を戸惑わせる静かな風景のようだ——引き裂かれながらも、陶酔する喜び。その陶酔も、のちにはネウロイの巣のように打ち破られる。

(二)

荒れ狂う生命の奔流の上で、道徳の掟を踏み越えた愚者たちは追放され、囚われ、黒い帆を張った一隻の船に閉じ込められる。神々がオデュッセウスに与えた罰のように。船はまた、デウカリオンやノアをも思い起こさせる。集団の盲目が狂える愚者たちを船へと追いやり、彼らはすべてを罰する奔流のなかで、岸に着ける港を見いだせない。愚者の船の旅は悲劇の英雄の哀歌となる。英雄が、自分を圧迫する気まぐれな力と和解して、ようやく精神の故郷へと帰り着くまで、その旅は終わらない。

こうして愚者の船の航海は、自らの罪を知り、それを贖う旅となる。あのスフィンクスの謎を思い出そう。それは人の帰還の道を塞いでいる。だが、両目を覆われた者は、その古い詩が人間自身を意味することをまだ知らず、謎を解いた先に何が起きるかも考えられない。人がこれから贖うことになる罪は、すべてそのなかに予示されている。罪とは、実際に犯した罪だけではない。それは、見きわめるべきところで目が見えないという、どうしても向き合わねばならない困難でもある。

だから、アニメのなかの盲目的な執着、自分を抑えられないあのあり方にも、ひときわ哀れを誘うところがある。それは、生きる意味を求めて認識を深めてゆく過程での、おののきのように思える。この点をきわめてよく表しているのが、バルクホルンと坂本にとっての飛ぶ意味だ。その飛ぶ意味は、自分自身を確かには捉えきれない不安を含み、彼女たち自身を押し潰しかねないようにも見える。第1期から劇場版までに描かれるのは、彼女たちが自分自身を知り、それを足場に自らを超えてゆく過程だ。

風に乗り、目指す先へと進む宮藤芳佳

主人公として宮藤芳佳が果たす役割は、とても興味深い。固有魔法である治癒魔法は、それ自体が強い生命力の現れともいえる。その生命力は、周囲の人々にまで伝わってゆく。音声ドラマでも触れられていたように、501の魔女たちは、彼女が来てから変わった。空を飛ぶ魔女たちもまた愚者の船の上で遠くを見つめ、待ち続ける者なのだとすれば、芳佳は彼女たちと関わり合うなかで、果てしなく見えるこの航海をいくらか先へと進ませる。この互いを気にかける関係のなかでは、人が生きていることそのものが肯定されるように思える。人が感覚を失い、機械と化してゆくことへの芳佳の抵抗も、関係の一つの証しのようだ。リネットと芳佳のあいだにある感情が、リネットを、自分を否定する重圧から解き放つように。また、芳佳を妹と見ることで、バルクホルンも彼女との関わりのなかで変わってゆく。

飛行する宮藤芳佳

だからこそ、盾のような芳佳の姿には、しなやかで強い同情心をいっそう感じる。ネウロイが人間らしさを見せたかに思えるときにさえ、彼女の心は動く。運命の苦痛を人一倍感じ取れるから、彼女は戦争を嫌悪する。それでも、いつも悲しみを漂わせる人々のなかへと身を投じる。その同情心は、周囲の人々の苦痛を感じ取らせるだけではない。周囲の人々が彼女のうちに自らの姿を見いだし、互いを映し合う関係のなかで、それぞれが自分自身を知るのだ。

第2期の終わりに、芳佳が坂本と同じように魔法力を使い果たす意味も、そこにあるのかもしれない。守ろうとすれば必然的に坂本と同じ立場に置かれるが、芳佳は、魔法力を使い果たしたからといって魔女としての価値までなくなったとは思わない。むしろ、いっそう生き生きとした姿を見せる。それを見て坂本も、それまでの執着から解き放たれる。まるでそのとき初めて、生命の本質をはっきりと知り、自分自身と和解したかのように。そして劇場版では、芳佳はやはり守るために再び飛び立つ。これによって、一連の歩みが一つの完璧な循環となる。

古くから語られてきた生命の救いの一つが、黒い潮に落ちたのちの、この再上昇なのだ。イナンナが死の眠りから呼び覚まされることは、春が大地に戻るときの生命の復活を象徴する。のちのギリシアでは、大地の死と再生の循環から、生命の彼岸の意味を啓示するエレウシスの秘儀がしだいに展開していった。プラトンの『饗宴』にも同じように、人は一生のあいだ絶えず新たな人間へと変わり、もとの身体を死滅させてゆくとある。そして、愛に駆り立てられる生命の衝動が、その人をよりよくしてゆく。オデュッセウスもアエネアスも、漂泊の途上で地獄に導きを求めた。ダンテはこの習わしをよみがえらせ、『神曲』で永遠に悲しむ人々のなかへ入り、地獄の最深部へと下り、煉獄山で自らの盲目的な傲慢を洗い清めて、天国へと昇る。

(三)

エーリカ・ハルトマンには、いくつもの矛盾が現れているように見える。作品のなかでは、そうした重なり合う矛盾はまだほんの一端しか姿を見せていない。それでも、その矛盾からほのかに漂う香りが、人を惹きつける。気だるく淡泊な、周縁にいる者の態度と、思いやり深く細やかに観察する保護者の視点が、彼女のなかで、反転した愚者の言葉として現れる。

エーリカ・ハルトマン

戦闘を離れたハルトマンは、退廃的な人間だ。わざとのように気だるく、のんびりと振る舞い、じっくり考えるよりも本能で動くことのほうが多いように見える。我が道を行く彼女の内面は、なかなか読み取れない。集団に積極的に加わることは少なく、そのなかで上に立とうともしない。昇進にも、他人との競争関係にも、むしろうんざりしている。日頃の振る舞いは、抵抗に近い。周縁にいる彼女が集団に溶け込まないのは、そうしたくないからなのだ。

そのため、リネットにとっても彼女は影の薄い存在で、どう評すればよいのか分からない。最も親しいバルクホルンとでさえ、傍目にはやはり、つかず離れずに見える。目的がないように見え、説明のつかないその放縦さは、欲望をあざけっているかのようだ。仲間の評にあるとおり、面と向かって話していても、彼女がどういう人間なのか分からない。

理解できないのに、どこか単純にも見えるその振る舞いが、かえって人の緊張をほぐすのかもしれない。不思議に思う一方で、エースなのだという実感が湧かず、面白く、親しみやすい存在になる。幽霊のようにはかないと評され、自分を表すことが苦手なサーニャも、ハルトマンと接するなかでは、戸惑うことこそ多いものの、感情をいっそうはっきりと、自然に表すことができる。自分の悩みを打ち明けられるし、訓練を手伝おうと自分から申し出ることさえできる。

こうした人との関わり方は、ハルトマンの戦い方に似ている。軌道の読めない、気ままで自然な飛び方なのに、いつも攻撃をかわし、最良の射撃位置にたどり着く。戦場でも、私的なやり取りでも、ハルトマンはよく観察する人間だ。周縁にいることが、明るく開けた観察の視点をもたらしているかのように、周囲の状況とそこにある苦痛の本質を見つめ、的確に評し、過不足のない応答を返すことができる。

エーリカ・ハルトマンのキャラクター設定画

だから私は、彼女が愚者を演じようとしているように感じる。一見、分別に欠け、つかみどころもないが、その裏ではどこか冷静に、細やかに本質を指し示し、軽薄な調子で語ることで解きほぐしてゆく。この死の舞踏めいたやり方は、苦痛に向き合い、救おうとする彼女の試みのように思える。彼女は盲目の者より少し高いところにいるように見えるかもしれない。だが彼女は、観察者として自分の身を守り、少しばかり傲慢に人を誘い寄せながら、安全な距離を保ち続けてもいる。その距離は彼女に安らぎをもたらさず、かえって恐れを生んでいるのかもしれない。周縁にいる居心地のよさにはまり込み、足を止めてしまう。彼女が愚者となる理由は、むしろそこにあるのかもしれない。

(四)

バルクホルンとハルトマンを比べてみるのは、面白いかもしれない。ハルトマンとは反対に、ゲルトルート・バルクホルンは厳格で、張りつめた人物だ。何事にも一切手を抜かないエースで、初めて会う者をいくらか緊張させるが、やがてその優しさにも気づくことになる。表向きは明るい性格でありながら、いつも距離を保つハルトマンに対し、バルクホルンは親密な関係に救いの可能性を託しているようだ。彼女の人物像において、妹への感情は重要な部分を占める。アニメ本編から外伝漫画まで、それはバルクホルンを動かす力となっている。

敗走に続く長い撤退。妹を守れなかったことへの果てしない悔恨は、さらに大きな敗北の縮図だ。苦難を前に抗うことも、守ることもできない。その無力さがもたらす深い悲しみと重荷。バルクホルンは、こうした事態をすべて自分の責任と受け止め、長いあいだ、今にも切れそうな弦のようだった。事実に向き合い、そこから自分を救い出すために、彼女は他人を救う可能性を現実のものにし、苦痛を消そうとしているように見える。

関係の外にいる者も、そのなかに身を置くことで、自分の内に残るものを確かめられる。距離を隔てて傍観するうちに、自分の存在が虚ろでおぼろげになってゆくよりも、関係のなかにいるほうが、確かな手応えを得られるように思える。バルクホルンにとって、それはすでに壊れた関係への回帰でもあり、あのときから取り残された自分も、そこで修復されうる。親密な関係は、自分がここに存在しているという力強い手応えを与えてくれる。関係を保つことで、壊れたものも修復され、自分自身もまた、過去の、あるいは現在と未来の苦難から贖われる。そんな可能性が示されているのかもしれない。

だが、確かな手応えがあるように見える、関係へのこの回帰は、むしろ幻の鎮痛剤、幻影のような慰めに近いようだ。ひとたび目を覚ませば、そこにもライン川のように隔てる境界があると気づく。それがまた、心の奥底で安らげない理由となり、彼女もハルトマンと同じように、居心地のよい泥沼にはまり込んでしまう。

(五)

こうして見てゆくと、二人の違いは、共通するところと同じくらい鮮明だと分かる。同じものが異なる目に映っているかのように。ともに姉であるという姿もまた、二人を重ね合わせる。あるいは、アニメに描かれるそれぞれの親密な関係は、形こそ違え、どこか同じ抗いを示しているのかもしれない。

ハルトマン姉妹の感情の結びつき、実験に対するエーリカの反感、そして十歳のとき、妹が軍人としてスオムスへ向かったことへの反応。それらを踏まえると、彼女の怠惰は、肉体に加えられる権力への消極的な応答のように見える。周縁で半ば夢を見、半ば目覚めている者が、目覚めている者をあざ笑うのだ。それに対してバルクホルンは、埋め合わせようとする思いから、自分の必要とする関係へと進んで身を置き、集団のなかで他者への同情を示し、苦痛を和らげようとする。集団の求めに応じる以上、彼女の行動は必然的にその秩序に沿うものになるが、そのために、かえっていっそう多くの挫折に遭う。

絆を信じ、ともに空を翔ける501部隊

二人が重なり合う最初の層にあるのは、ハルトマンの単純でありながら危険な、関係の外へ離れてゆく姿と、それを同情によって抑え、つなぎとめるバルクホルンの姿だ。両側から引き合う力が、静止した幻像をつくる。その関係に重なって、二人の役割が反転したもう一つの層が映る。そこでも二人は、同じように酔いと夢のなかにいる。今度は、ハルトマンの酔ったように単純な態度が、自己抑制の下でも心の静まらないバルクホルンを慰め、今にも抑えを突き破りそうな危うさを鎮める。そこにあるのは、パエトンを思わせる、関係に期待をかけ、そのなかで燃え上がる危うさだ。アニメのなかでバルクホルンがときおり見せる自己破壊的な衝動、あの今にも切れそうな緊張は、この悠々とした慰めのなかで緩んでゆく。

この慰めがあまりに穏やかなために、二人は恐れを抱えたまま眠り込んでしまうのかもしれない。観察者としての理性を自負するハルトマンは、この点をかえってよく見通せていない。慰める者のほうが、慰めを失うことを恐れる。 ハルトマンは幻の安定に執着し、関係の重なりを受け入れ、広げてゆくことを拒む。だから彼女をめぐる描写では、自分の性格や行動、集団のなかでの位置、人間関係、そのあらゆる変化を、彼女は当然のように拒む。バルクホルンは逆に、明晰な認識を伴うあの危険な衝動のなかで、引かれた境界を踏み越える。この点からも、バルクホルンと芳佳のあいだに、姉妹にも似た関係が見えるように思う。そしてバルクホルンとハルトマンは、幾重にも重なった反転のなかで互いを映し合う鏡像のようだ。正反対の愚者の姿を取りながら、恐れと心の安まらなさによって一つに結びついている。そこに、二人が互いに依存していることが見て取れる。

(六)

『ストライクウィッチーズ』という物語について、私がずっと気にかけてきたのは、登場人物たちが過去の経験にどう反応するのか、そしてまだ少女である軍人として、戦争のなかでどのような依存と救いの関係を結ぶのか、ということだ。それは、遠くを見つめる者たちの船上で、旅人同士が結びうる関係に似ている。考えるにあたっては、作品そのもののほかに、公式が物語の外で補った内容や、示してきた可能性も参考にした。もちろん、この文章の多くは、私個人の主観的な想像だ。それでも、何かの役に立つ考察になればと願っている。

編集者注

私は作者君単推しです。

本文終わり
注01

注釈

  1. 対応する原文は『阿呆船』第108章9–16行。参照:1495年バーゼル版に基づく転記本文(Narragonien digital)。 ↑

ライセンス: CC BY-NC-SA 4.0

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。