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『シン・ゴジラ』から考える|日本社会のあの「めんどくささ」はどこから来るのか?

中根千枝のタテ社会論から『シン・ゴジラ』を読み解く。同じ「場」に属する集団、はぐれ者、そして「居場所」を手がかりに、映画に描かれた日本的な組織と家族の温かさを考える。

著者: 远月翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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遠月

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

日本のアニメや映画、ドラマには、中国の視聴者にはなかなか理解できない展開がよく出てくる。

例えば、わけのわからない理由でいじめられること。

アニメに描かれたいじめ。頬をつかまれる人物
中国語字幕の意味:周囲の空気を読めないと、排除の対象になる。

あるいは、スポーツものではおなじみの、才能のある後輩が、年下だというだけで無能な先輩より下に置かれること。

楽器の置かれた部屋で、先輩に詰め寄られる久美子
『響け!ユーフォニアム』。中学時代、コンクールのメンバーに選ばれた久美子を責める先輩。中国語字幕の意味:一年生のくせに、調子に乗るな。

同じ東アジアの文化圏に属していても、こうした展開は中国の視聴者には理解しにくいことが多い。それどころか、そんな筋立てへの批判も少なくない。今回は庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』を通して、日本と中国の社会の違いについて考えてみたい。


2016年に公開された『シン・ゴジラ』は、その年の日本を揺るがしたといっていい。2013年の『永遠の0』以来、実写映画として初めて興行収入80億円を突破し、観客動員数は551万人に達した。一般の観客の間で話題になっただけではない。枝野幸男(執筆当時、立憲民主党代表)や、元防衛庁長官・石破茂をはじめ、多くの政治家が公の場で感想を述べ、映画の内容をめぐって議論まで交わした。

『シン・ゴジラ』の日本版宣伝画像

日本国内の熱狂とは対照的に、国外では『シン・ゴジラ』はそれほど大きな反響を呼ばなかったようだ。

日本以外で「ゴジラ」のファンが最も多いのは、アメリカだろう。スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』でも、「ゴジラ」は20世紀のアメリカのポップカルチャーを代表する存在の一つとして登場する。悪役の最後の切り札となり、華々しい見せ場をもらっていた。だが、『シン・ゴジラ』の北米での興行収入は、最終的に2億1000万円。ヨーロッパでは、わずか91万円にとどまった。欧米での『シン・ゴジラ』への失望は、長年の「思い入れ」をもってしてもぬぐえなかったのだ。

アメリカだけでなく、中国の観客にも『シン・ゴジラ』はあまり受け入れられなかったようだ。執筆時点ではまだ中国で正式に公開されていないものの、中国の映画レビューサイト・豆瓣での評価は6.5点にすぎない。同じく2016年に日本で社会現象となった『君の名は。』の8.5点とは大きな開きがある。星5つの評価は、割合でいえば星2つの評価をはるかに下回っている。しかも、『新世紀エヴァンゲリオン』が中国でも正式に放送され、庵野秀明監督がある世代のアニメファンにとってゴッドファーザーのような存在であることを考えると、その星5つにも、盲目的な崇拝によるかさ上げがかなり含まれているのではないか。

豆瓣の『シン・ゴジラ』紹介と星別評価の分布

中国の映画レビューサイト・豆瓣における『シン・ゴジラ』(2016年)の紹介と評価画面。監督:庵野秀明/樋口真嗣。脚本:庵野秀明。出演:長谷川博己/竹野内豊/石原さとみ/高良健吾/大杉漣/ほか。ジャンル:ドラマ/SF/災害。公式サイト:shin-godzilla.jp。製作国・地域:日本。言語:日本語/英語。公開日:2016年7月29日(日本)。上映時間:120分。別題欄には、香港の「真・哥斯拉」、台湾の「正宗哥吉拉」のほか、「哥斯拉:复活」「新哥斯拉.东京陷落」「新哥吉拉」、Godzilla Resurgence、Shin Godzillaが並ぶ。中国語題の意味は順に「真・ゴジラ」「正統派ゴジラ」「ゴジラ:復活」「新ゴジラ・東京陥落」「新ゴジラ」。IMDb識別子:tt4262980。豆瓣の評価は6.6点、評価者27,889人。星5つから1つまでの割合は順に10.5%、30.3%、42.3%、13.4%、3.5%。比較欄は「SF映画の48%を上回る」「災害映画の45%を上回る」。

太平洋を隔て、まったく異なる文化圏に属する中国とアメリカだが、『シン・ゴジラ』への低評価の理由は図らずも一致している。批判のほとんどは、延々と続く込み入った政治的なやり取りと、「愚か」な筋立てに向けられているのだ。筆者は、この二つの「欠点」こそが、実は『シン・ゴジラ』が日本国内で大きな人気を得た理由だと考える。

なぜ日本以外の観客には、『シン・ゴジラ』がこれほど退屈に映るのか?

それは、この映画が実のところ、怪獣映画・災害映画の皮をかぶった日本社会の群像劇だからだ。初めから日本国内の観客だけに向けて作られた可能性は高い。

先に述べたように、そこで描かれる日本社会のさまざまな特徴や、社会の動く仕組みは、日本をよく知らない外国人には受け入れにくい。だが、『シン・ゴジラ』は商業映画としては珍しいほど、日本社会の急所を鋭く突いている。だからこそ、日本の観客の共感を得られたのだ。

では、日本と中国の社会の違いは、具体的にどこにあるのか。ここからは、日本の社会人類学者・中根千枝のタテ社会論をもとに説明していこう。

一、「場」による集団と「はぐれ者」

タテ社会論で、中根千枝はまず「場」と「資格」という二つの概念を提示した。中根は、個人同士、個人と集団、そして個人からなる集団同士の関係を、社会人類学の基礎と考える。集団を構成する原理には二つある。一つは「場」(Field)で、家や職場など、人々が生活をともにする空間をもとに集団を作る。もう一つが「資格」だ。中根の理論を論じた尚会鵬の説明では、ここでいう「資格」とは、出自、性別、役職、職業など、個人の社会的属性を指す。

中根の研究によれば、日本は「場」をもとに社会集団を作る典型的な国である。その正反対の原理で集団を作るのがインド人で、カースト制度は職業や個人の身分による区分を土台としている。そして中国は、この両極の間に位置する。

『東京物語』。縁側近くに座る周吉と紀子
小津安二郎『東京物語』。周吉と、亡き次男の妻・紀子。中国語字幕の意味:あなたのこれからの暮らし。

同じ「場」を共有する者同士で集団を作るという点では、日本人は中国人よりもさらに極端だ。それは「家族」の捉え方にも表れている。中国と日本はともに中国の儒教文化の影響を受けており、中国人も、日本人は家庭を大切にするという印象を昔から抱いてきた。だが、両国の「家」の捉え方には根本的な違いがある。中国人が「血縁」によって家族を作るのに対し、日本人が家族を作る原理は「場」、つまり「ともに暮らすこと」なのだ。例えば日本の家庭では、別々に暮らす兄弟姉妹よりも、婿のほうが重要になることがある。中国では伝統的に、跡継ぎを養子に迎えるなら同じ一族からというのが普通だが、日本社会では血のつながらない他人が家業を継ぐこともよくある。これは中国人には想像しがたい。

こうした特徴があるからこそ、日本人は家庭と職場を好んで結びつける。例えば『半沢直樹』では、社員の家族同士がたびたび集まっている。また、外部の人に話す際には、自分の会社や部署も、わが家を指すときと同じように「うち」と呼ぶ。要するに、中国人にとって家族は血縁で結ばれた特別な集団だが、日本人にとっては家族だけが特別なのではない。同じ空間で生活する者は、みな「家」とみなせるのである。

自宅の食卓につく半沢直樹と、手前に座る妻の花
『半沢直樹』。自宅で話す直樹と花。中国語字幕の意味:副支店長の奥さんだろう。そこまで気を遣う必要があるのか。

日本人は自分の属する集団を家族とみなすため、日本では、所属する集団は一つであることが強く求められる。「場」による集団は、いわば閉じた空間だ。成員同士の血縁のつながりはきわめて薄い。代わりに支えとなるのは、成員が心身ともに集団に打ち込み、感情の面でも結びつくことだ。そこから運命をともにする一体感が生まれ、集団としての力が強まる。「チーム精神」と、一つの集団に最後まで尽くす姿勢は、日本の集団を象徴している。

日本映画にしては、『シン・ゴジラ』は一見、少々冷たすぎるようにも思える。家族の温かさは描かれず、恋愛のエピソードさえない。だが、日本人にとっての集団と家族の捉え方がわかると、映画全体を通じた感情の流れが、はっきりと見えてくる。

まずは、この映画の主役たち――最後にゴジラを止めた「巨大不明生物特設災害対策本部」の面々を見てみよう。

二階会議室に集まった対策本部のメンバーと、その前に立つ矢口

巨大不明生物特設災害対策本部。中国語字幕の意味:私は巨大不明生物総合対策本部の矢口です。

この部署を構成するのは、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、嫌われ者、厄介者、学界の異端者といった面々だ。つまり、もともといた部署という「場」で一体感を得られず、集団から排除された人々なのである。

先に触れたように、日本では一つの集団に属することが重視される。新しい成員として集団に加わるのはたやすくても、いったん加わると、別の集団へ移るのは難しいという。日本のさまざまな映画やドラマ、文学作品において、「仲間外れにされる」ことはきわめて深刻な出来事だ。同時に複数の集団に属している中国の観客には、こうした社会心理はなかなか理解できない。中根は、集団からはぐれることの悲劇性を指摘している。

主人公の矢口蘭堂は、彼らをこの「はぐれ者」の状態から救い出した。

彼らはそれぞれ別の部署から来ている。政府機関の末端の事務職員もいれば、学者もおり、自衛隊から来た者もいる。職業という「資格」の面では、ほとんど共通点がない。それでも「巨大不明生物特設災害対策本部」という空間で一つの集団を作り、矢口という共通の上司を持つことになった。

その後、対策本部のメンバーは、寝る間も惜しんでゴジラに対抗する手立てを研究する。初めは互いのこともよく知らず、臨時に同僚となっただけの者たちが、一緒に働くうちに、少しずつほかのメンバーの様子を気にかけるようになる。励まし合うようになる。日本語の「居場所」という言葉には、実際にいる場所というだけでなく、社会のなかでの自分の身の置きどころという、もう一段深い意味がある。居場所を失った「変わり者」たちが、再び自分の居場所を得て、家にいるような温かさを感じる。日本人にとっては、これもまた家族が生まれる一つの形であり、そこには家族の温かさがあるのだ。

机を囲んで食事や休憩をとる人々
仕事の合間の休憩。中国語字幕の意味:帰って休もうとせず、言われても帰らない。

一方、筆者は、怪獣「ゴジラ」を作り出した黒幕であるマッドサイエンティストの牧悟郎にも、二重の悲劇を見る。一つ目は、作中で最もわかりやすいものだ。妻が放射能汚染によって亡くなったこと。それが、ゴジラを作って人類を試そうとした直接の理由でもある。二つ目は、先に述べた、社会に見捨てられた「はぐれ者」であることだ。作中では牧について、ほとんど日本を追い出されるようにしてアメリカの研究機関へ移った異端の老教授だと、わざわざ説明される。しかも、生物学者でありながら、エネルギー関連の研究所に属していたという。日本社会で育った日本人である彼にとって、この孤立はさらに深い絶望となって、彼を奈落へと追いやったのかもしれない。

次回は、『シン・ゴジラ』と日本社会における年功序列の問題について話してみたい。

参考文献

  1. 中根千枝著、許真・宋峻嶺訳『日本社会』、天津人民出版社、1982年。
  2. 中根千枝著『适应的条件』、河北人民出版社、1989年。
  3. 尚会鵬「中根千枝的“纵式社会”理论浅析」、『日本问题研究』、1997年第1号、85–91頁。
  4. 梁漱溟著『东西文化及其哲学』、北京:商務印書館、1999年、203頁。

編集部より

高橋一生さんも出てますよ。

本文終わり

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