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雑談 | 怪獣映画を観るとき、私たちはいったい何を観ているのか

『ゴジラ』『パシフィック・リム』などを通じて、特殊効果の迫力の先にある災害や人間性の描き方、そして人間中心主義を考える。

著者: 屋顶现视研翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

『ゴジラ』(1954年)のポスター

怪獣映画は、映画の一ジャンルとして長く人気を保ってきた。その歴史は、古くはメリアン・C・クーパーが1933年に監督した『キング・コング』にまでさかのぼる。1その後、1953年の『原子怪獣現わる』、1954年の『ゴジラ』と続き、『ゴジラ』が巻き起こした怪獣ブームに乗って、玉石混交の怪獣映画が数多く作られた。だが、1998年のアメリカ版『GODZILLA』と2004年の日本の『ゴジラ FINAL WARS』以降、優れた怪獣映画はほとんど出ていない(1998年版については、はっきり言わせてもらうが、こんな恥さらしがニューヨークを這い回るのを観るくらいなら、『情迷弗朗西斯』や『迷家‐マヨイガ‐』を10回観せられるほうがましだ)。『パシフィック・リム』は公開前の予告編で大いに注目を集めたものの、いざ公開されてみれば、「メキシコ人監督がハリウッドの金で日本の怪獣映画を撮った」だけの作品だった(個人的には、この映画で何より、何より素晴らしいのは、今観ても称賛に値する超一流の特殊効果だと思う)。

『パシフィック・リム』のポスター

『パシフィック・リム』と2014年のアメリカ版『GODZILLA ゴジラ』を例にしよう。観客はチケットを買って映画館に入る。作り手はどんな映画を見せれば、その観客を一時間半なり二時間なり、最後まで席から立たせず、おとなしく座らせておけるのか。この二作はどちらも優れた特殊効果を見せてくれた。ビルの壊れ方はますますリアルになり、ゴールデン・ゲート・ブリッジはまたまたまたまたまたぶっ壊される(問:映画の中でゴールデン・ゲート・ブリッジは何のためにある? 答:壊されるため)。観客はそれを観ながら、心の中でこう思う。「この大怪獣、クッソいかつくて、ド派手で、かっけえ!」だから多くの人が怪獣映画にまず抱く印象は、特殊効果を見せる映画、つまりマーベル・スタジオのスーパーヒーロー大作と何も変わらない、というものなのだ。

『シン・ゴジラ』のポスター

しかし、怪獣映画は本当に特殊効果が売りの大作でしかないのだろうか。確かに、優れた特殊効果なしに怪獣の魅力は描けない。高さ100メートルの巨大生物がただ歩いているだけでは、高さ100メートルの巨大生物が口から光線を放ち、自分と同じ高さ、あるいはそれ以上の超高層ビルを真ん中から真っ二つにする場面ほどの衝撃を、観客には与えられない。けれど、1954年の初代『ゴジラ』を観て、その主役がゴジラだとはなかなか言えない。庵野秀明による2016年の『シン・ゴジラ』に至っては、主役はもはや一人の人間ですらなく、日本政府全体だ。主人公は対ゴジラ対策本部を率い、政府を代表してゴジラに立ち向かう役割を担っている。私には、この二作はどちらも非常に優れた怪獣映画に見える。1954年版の『ゴジラ』は言うまでもないが、2016年の『シン・ゴジラ』は、その年の日本国内の邦画興行収入で二位だった。一位は『君の名は。』である。

この二作が示しているのは、優れた怪獣映画は、特殊効果で巨大な怪獣を見せることだけに頼らなくても、観客を引きつけられるということだ。怪獣映画もまた、優れた物語で観客を魅了できる。とはいえ実際には、優れた怪獣映画の脚本を書ける人はそう多くない。1954年の『ゴジラ』の脚本は、村田武雄、本多猪四郎、円谷英二の三人が手がけた。三人のうち、本多と円谷の名は映画好きなら知っているはずだ。そして2016年の『シン・ゴジラ』の脚本は庵野秀明である(脳内の庵野:エヴァ新劇場版の結末? 作ってる、作ってる.jpg)。庵野秀明氏の特撮への思い入れについては、いずれ時間があれば話そう。ただ、日本のアニメが好きな人にとって、今や庵野秀明は、宮崎駿に次ぎ、ほかに並ぶ者がいないほどの存在だと言っていいだろう。

個人的には、優れた怪獣映画は、「怪獣」の映画ではなく、「人間」の映画だと思う。怪獣という巨大な生き物は、何を表しているのか。私には、災害を表しているように思える。人類にとっての災害というだけではない。怪獣であること自体が、怪獣自身にとっても災難なのだ。1954年の『ゴジラ』では、眠っていた太古の生物が核爆弾によって目覚める。2016年の『シン・ゴジラ』に登場するのは、未知の海底生物が、人類の核実験で生じた廃棄物を長年食べ続けて進化した怪獣だ。災害そのものに意識がなければ、災害映画が描くのは、人々がいかに力を尽くしてそれを乗り越えるか、という話になる。だが、怪獣映画はもう一つの状況を見せてくれる。もし天災が意識を持ったら? 人類は、意識を持つ天災にどう対処すればいいのか。

今度は怪獣の側へ目を向けてみよう。人類の影響で目覚めたり、変異したりすることは、怪獣自身にとっても災難ではないだろうか。突然この世に生まれ出て、この星で自分の居場所がどこなのかも分からない。それは、その生き物自身にとっても悲しいことだ。本多猪四郎監督も、怪獣は生まれつき背が高すぎ、力が強すぎ、重すぎるのであり、そこに彼らの悲劇があると語っている。

ダース・ベイダーが、自分はルークの父親だと告げる場面
ダース・ベイダーがルークに、自分が父親であると告げる場面。中国語字幕は「私がお前の父親だ」という意味。

観客の側に戻ろう。怪獣映画を観るとき、私たちはいったい何を観ているのか。世界で最も優れたスタッフでも、優れた脚本がなければ優れた映画は撮れない。私はずっとそう信じている。『スター・ウォーズ』を観て記憶に残るのが、ジェダイとシスが何度も繰り広げるライトセーバーの対決ではなく、ダース・ベイダーのあの一言、「I am your father!」であるのと同じだ。優れた特殊効果は莫大な興行収入をもたらすかもしれない。だが、興行収入の高い映画が、必ず後世の人々に記憶されるとは限らない。後世に記憶され、伝説となる優れた映画は、どれもその作品ならではの問いを持っている。1954年の『ゴジラ』が、核兵器、さらには兵器そのものを問い直したように。核兵器をも上回る威力のオキシジェン・デストロイヤーを作り出した芹沢博士は、その兵器を人類が戦争に使うことのないよう、ゴジラと共に死ぬ道を選んだ。観客が目当てにしているのは、優れた特殊効果かもしれない。しかし、特殊効果という味つけを取り去ったあと、観客が観ているもの、監督が伝えたいものは何なのか。映画館で、怪獣という生きた天災を目の当たりにするような体験を通じて、私たちは何を感じるのか。そこにこそ、怪獣映画を観るときに本当に観るべきものがある。

風林火山の追記

この記事は、特撮、ひいてはSFやアニメなどの作品を観るうえで、何が核心となるのかを示している。それは「人間」だ。

怪獣であれロボットであれ、ウルトラマンであれ仮面ライダーであれ、それらを描く作品は、最終的には人間へと立ち返らなければならない。私は怪獣映画をそれほど多く観てはいないが、『キング・コング』でコングが飛行機に撃たれ、エンパイア・ステート・ビルから落ちる、あの悲壮な場面は今も鮮明に覚えている。あれは悲劇だ。コングの巨体は、人間の私欲、貪欲、名声や利益の追求、臆病さとの戦いに倒れた。この映画には、血の通ったキャラクターが数多く描かれている。自立し、強く、勇敢なヒロイン。愛のためにわが身を犠牲にすることもいとわないコング。いずれも忘れがたい存在だ。この特撮映画が名作となったのは、人間性を映し、社会を映し、その時代の問題を鋭く突いているからだと思う。『ゴジラ』とそのシリーズ作品についても、環境汚染、核兵器の使用、政府の対応の効率、人間性、国益といった問題への考察こそが、作品の本当に示そうとしているものなのだ。

特殊効果などなくてもいい、という話ではない。特殊効果はあくまで補助的な手段であり、作品のテーマを表現し、その考えを人の心にいっそう深く届けるためにある。こうした見方に立ち、人間性や社会について考えることによって、初めて私たちは、「ウルトラマンは幼稚だ」「仮面ライダーは幼稚だ」といった特撮への不当な見方に反論できる。

李抛抛の追記

本文の筆者は、「優れた怪獣映画は、『怪獣』の映画ではなく、『人間』の映画だ」と述べている。含蓄のある言葉だ。だが、「怪獣映画は人々に何を考えさせるのか」という点について、筆者が議論をさらに掘り下げられていないのは明らかだ。

私の見るところ、怪獣映画は、一方では人々の人間中心主義をいくらか弱める。怪獣は、その巨大な体と破壊力によって、人々の視界に否応なく飛び込んでくる。それによって人々は、身の回りのほかの生命にも目を向けるようになり、あることに気づく。人類には知恵があり、それによって得た力もあるが、地球上で力を持つ生物は人類だけではないし、人類は決して何でもできるわけではない、と。人類は怪獣を前にして、初めて自分たちの小ささを感じる。また、『ゴジラ』などの映画で怪獣が生まれる原因は、たいてい、人類の産業文明による生態系の破壊にある。こうして、人間の活動による環境破壊を省みる、エコロジー思想の視点が加わる。

しかし他方では、怪獣映画は人々の人間中心主義をいっそう強めてもいる。「生きた天災」を前に、一つにまとまり、共に災害に立ち向かう人類共同体のイメージは、ますます強まる。怪獣は、理性がなく、破壊しか知らない客体として描かれるのであって、人間と調和して共に生きられる、地球上の一つの生命としては描かれない。怪獣映画で描かれる、怪獣を人間に従わせる姿の背後には、「自然を人間に従わせる」という暗喩が潜んでいる。この点を問い直す視点は、『キング・コング』にも『ゴジラ』にも、かなり欠けている。

これと対照をなすのが、『ウルトラマンガイア』で藤宮博也を通して導入された、生態系中心主義の視点だ(怪獣は地球の一部であり、人類の活動こそが災害の根源だ、という考えである)。藤宮博也の考えは、地球を侵略する根源的破滅招来体によって改ざんされた情報に基づいている(このことは、彼の考えが客観的でなく、反人類的であることを示唆している)。それでも、生態系中心主義が、それまでのウルトラマン諸作品における怪獣像、すなわち理性を持たない破壊者という像を問い直すものであることは、疑いない。さらにそれは、作品が最後に人間中心主義と生態系中心主義を統一するための道筋をつけてもいる。最後の局面で、地球の怪獣たちは人類と共に、根源的破滅招来体の侵略に立ち向かう。この共闘の光景は、人類以外の生き物も、人類と同じく道徳的判断を下す主体でありうることを示すだけでなく、人類と自然が最後に大いなる和解を果たすことも示している。これこそ、いわゆる「怪獣映画」が実現すべきことだと私は思う。

編者より

ここで『仮面ライダーW』も推しておく。

本文終わり
注01

注釈

  1. もちろん、ハイド博士やフランケンシュタインの映画も怪獣映画に数えたいという人がいても、私個人は反対しない。ただ、ハイド博士やフランケンシュタインも怪獣に数えるのなら、ハルクも怪獣と見なすべきではないだろうか。いずれも、人間の獣性を描くか、あるいは「人間」という概念の中に獣を位置づける映画なのだから。 ↑

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