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ゴジラの明治維新――純粋な生をめぐるゴミの分別

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』と幕末・明治の物語を出発点に、近代の秩序から繰り返し締め出される黒船とゴジラを通じて、純粋な生の行方を考える。

著者: Jack Cade中国語版校閲: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

Jack Cadeのプロフィール画像。腕を上げた男性の彫像。
Jack Cade

Away! Burn all the records of the realm.

最近見た映画のなかでも、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、かなり楽しめた良作だった。ひとつには、正真正銘の商業娯楽映画で、壮大な場面と見事な特殊効果がじつに爽快だったからだ。もうひとつには、ゴジラという題材そのものに、懐かしさや記憶を呼び起こす魅力がある。もちろん、懐かしさそれ自体も、とても面白い問題だ。懐かしさという言葉では、どちらかといえば時間的な側面が強調される。それに対して、私たちの懐かしさがどんな空間のイメージに結びついているのかを考えるなら、それは郷愁の問題になる。つまり、時間のうえで古いことと、空間のうえで心の拠り所があることとでは、強調されるものが違う。ついでに言うと、日本映画、さらには日本の現代文化では、故郷という概念がきわめて明瞭に描かれ、形づくられている。その日本の郷愁、あるいは美しい日本的な故郷像を代表するのが、最近中国で公開された『千と千尋の神隠し』も含めた、宮崎駿の一連の作品なのだ。

宮崎作品の故郷は、不思議で温かく、奇跡に満ちていると同時に、どこかほろ苦く、ぬくもりを育んでいるような場所だ。それが、宮崎駿らしい映画を成り立たせる重要な要素になっている。主人公は、自分自身の形式で埋め尽くされた想像の空間で、外部の現実から受けた傷や挫折を、自己愛的な姿勢で癒やしてゆく。故郷と名づけられたこの想像の空間は、じつはいつまでも優しく、本当の暴力など何ひとつない(「邪悪な悪役」らしきものは出てくるにせよ、そこに鉤括弧が必要なことは、みんな分かっている)。あえて暴力があると言うなら、それは主人公、あるいは映画を見る観客の、自我による総合の働きにある。そこで超越論的構想力は、純粋な時間性の散逸に暴力を加えようとする。そして、その暴力があるからこそ、現実界そのものは物語のなかで最低限の存在論的一貫性を保ち、私たちは「興ざめ」せずに見ていられる。簡単に言えば、宮崎映画を見るとき、観客である私たちも主人公の視点からこの優しい故郷へ入り込む。そこでは、自分の内なる幻想で覆われた外部にリビドーを注ぎ込むことが許される。その過程で、私たちは癒やしとぬくもりを感じるのだ。現実世界の本当の他者は、その過程で私たちが自我理想と「外部」をともに誤認するため、私たちを恐れさせる他者性をもはや持たないかのように見える。だから宮崎映画を見終わって、映画の外にある自分の現実の暮らしに目を向けると、私たちの生活世界だってヤサシイのだと、一瞬思えてくる(こうした手法は、日本の映像作品でしばしば使われている)。

銭婆の家で、千尋とカオナシがケーキやお茶を囲む。

故郷にいる無邪気な主体は、いわゆる構成的な欠如とはまったく無縁だ。それどころか、悟性の推論を直観にまで及ぼせるような、確定した形式さえ備えている。だから宮崎駿の神話的な仙郷では、時間の経験はつねにすでに、均質で直線的な継起のかたちに整えられている。宮崎作品だけではない。こうした美しい日本的な故郷像に彩られた作品は、決まって「運命」や「絆」、妖怪や神々の神秘的な導きといった、宿命めいた曖昧な物語を好むように見える。先ほどの話と同じで、少なくともこれらの作品が、何の理由もなく迷信を持ち込んでいるわけではない。作り手たちは、物語を書くうえで自分たちのすべきことが、この神話的な仙郷に内在する可能性を展開するだけなのだと、よく分かっている。たとえば宮崎映画の世界では、時間の経験はいつもこうした継起の関係にある。この世界の過去と未来は、現在に従属している。過去は、抑圧された前史として保存される(たとえば千尋の引っ越し以前の幼少期。彼女はそのころ、すでに運命のようにハクと出会っていた)。一方、未来は曖昧なまま予告される(この冒険をくぐり抜けた千尋は、きっと成長したのだ。これからはもっと地に足をつけ、勤勉に、家族を愛して生きてゆくだろう)。

もうひとつ、少し前に公開された『DESTINY 鎌倉ものがたり』を見てみよう。堺雅人演じる主人公は、幼いころ母親の浮気を見てしまったため、家庭生活にずっとわだかまりを抱いている。ところが妻を救うために黄泉の国へ行くと、思いがけず仲睦まじい両親に出会う。そこで初めて、母親と「密会」していたのは変装した父親であり、早くに亡くなったその父こそ、自分がいちばん憧れていた作家なのだと知る。そして両親の助けを借りて妻を救い出し、鎌倉の実家で幸せに暮らすようになる。映画のなかの、あの華やかで幻想的な鎌倉では、過去と現在と未来を分ける必要などないようだ。「世界」を、存在が覆いを脱して現れ、存在者が歴史的な現存在に自らを示す有限な地平として理解するなら、この仙郷には、本当の意味で「過ぎ去った」と言えるものなど何もないことが分かる。ある歴史的対象を「過去」にするのは、その年代そのものではない。それがもはや、直接「私たちの」世界に属する痕跡ではなくなった、という事実なのだ。映画を見れば、この事実が鎌倉には当てはまらないことは明らかだ。幽霊や妖怪になった死者は、生きている人と一緒に、ごく普通に日々の暮らしを送れる。過去の人々も意味のある社会的実践に参加でき、過去と現在は、互いに結びついた構造をつくれるのである。

妖怪の姿になった編集者が、書斎の一色正和に原稿の締切を告げる。
中国語字幕の意味:「締切がもうすぐですよ」。

だから、映画の物語が展開する以上、そこにはたしかに「過程」がある。だが先に述べたとおり、物語のなかの客観的現実はどれも、存在論的に見れば、完全に構成されたものなのだ(もちろん、映画はもともと人間が撮ったものだが)。宮崎駿流の無垢へのフェティシズムが、彼のアニメーションでは有効な政治的決断となるのも、そのためだ。少なくとも見ているあいだ、私たちは感動する。見終わってから、宮崎駿の人道主義はひどく幼稚だと批判することとは、何の矛盾もない。言い換えれば、これらの作品の世界は、生成変化を伴う歴史叙述を拒む保守主義的な世界にほかならない(だから当然、幻想の世界でもある)。そこでは主体の内的な存在論は、破綻していない。主人公が幻想的な世界の秘密を見つけ、物語が一段高い次元へ進むのは、しばしば主人公が次のように悟る瞬間だ。かつての暮らしを断絶によって捉えるのはやめよう。過去に依拠する幻想――ここではもはや幻想ではなく、いっそう真実なのだが――を頼りに、結末、すなわち成就の側から、この世界の歴史を理解しよう。これこそ、ベンヤミンのいう「今の時(Jetzt-Zeit)」だ。過去を救済する「明るい未来」は、こうした「今の時」から生まれる。

この主題は童話に限らず、日本の大河ドラマ、とりわけ幕末・明治を扱う作品に、もっと頻繁に見いだせる。貧しく弱い封建的な東洋の島国だった日本は、やがて世界でも先進的で豊かな東アジアの列強となる。その過去を救う未来は、激動のなかで英雄が次々に現れるこの「今の時」から生まれるのだ。『西郷どん』や『龍馬伝』が描く龍馬の死がそうだったように(ちなみに、『龍馬伝』の福山雅治と香川照之は、最近『集団左遷!!』という新しいドラマで共演している)。旧時代の民衆は、祝いの騒ぎに見えてじつは示威運動である「ええじゃないか」の、きらびやかな集団的熱狂に包まれ、いつのまにか「新時代」へ入っている。だが、そのとき坂本龍馬の物語は、すでに終わりを迎えている。酒場でひっそりと斬り殺され、その外では民衆が騒いでいる。場面の交錯が、歴史そのものが交錯するような感覚をもたらす。『龍馬伝』を見る観客は、これがもう最終回なのだと思い出し、こうして起こらざるをえなかった一切は、じつは第1回の時点ですでに起こり始めていたのだと気づく。

「ええじゃないか」と踊る人々でにぎわう通りを、和装の男が進む。
画面内の日本語:「ええじゃないか ええじゃないか ええじゃないか」。

ここでは、大事件を待つ必要はない。メシアの到来を待つ必要もない。メシアはすでに来たのであり、大事件はすでに起こったのであって、私たちはその余波のなかで生きているからだ。これは作中の民衆だけの話ではない。この主題は観客にも暗に告げている。これは歴史を描いているのだということを忘れるな。自分もまた、現実のなかでその余波を生き、恩恵を受けているのだ、と。

面白いのは、こうした本格的な歴史ドラマでは、作家も監督も脚本家も、この統一された言説の場から退いて匿名に戻る姿勢を取らなければならないように見えることだ。歴史劇の脚本は、まず「歴史」でなければならず、その次に脚本であるべきで、前者が後者を覆い隠さなくてはならない。司馬遼太郎がいつも批判されるのもこの点で、彼の歴史小説は、作り話だということが本当に見え透いている。それに対して歴史的人物像は、作り手の位置を代わりに占め、「作者名」を引き受けて、作品を組織する。この像が表すのは、時間の次元に属さない無意識、フロイトのいう、時間について何も知らない無意識だ。たとえば龍馬像の再創造が成功したからといって、龍馬像がAからBへ変わったということにはならない。Bが現れた後には、「最初からそうだった」ことになる。転移において知を想定された主体としてのこの像のもとでは、あらゆる徴候の無意識的な意味が、つねにすでに確定しているのである。

こうした背景のもとで、テレビの前に座り、龍馬の死に涙する観客は、私も含めて、精神分析にも似た体験をするように思える。可能性から必然性へ、不可能性から偶然性へという移行を経験するのだ。龍馬の死は、一見すると純粋な可能性に属し、起こらなかったかもしれない不慮の出来事に見える。だが『龍馬伝』の物語構造のなかでは、どうあっても必然的に起きる「唐突な出来事」へと、遡及的に変えられてしまう。昨年の『西郷どん』でも、西郷隆盛の歴史的な過ちは、あらかじめ企てられた自己犠牲として描かれていた。ここで言いたいのは、歴史の実情はそうではなかったかもしれない、ということではない。この現実が作中であれほど確かなものとなるのは、遡及的な幻想と、言説の行為遂行的な次元で生じる誤認に基づいている、ということだ。こうして観客は、歴史的な次元で憐れみと感動を呼ぶ、深い「永遠」の意味を、その瞬間に悟ったように感じる。だがその意味は、じつは発見の過程そのものを通じて組み立てられたものなのだ。

他方、主体間の想像的な軸が障壁となり、それを越えられないという不可能性がある。そのため観客はつねに、想像的な歴史的人物像を経由して自分へと戻り、自己愛的な鑑賞を続ける。歴史上の出来事が私たちから遠く隔たっていることも、歴史的人物の偉大さには、自分を比べようがないことも忘れてしまう。

そして、さらに重要なのは、同じ言説のなかで、大他者が主体を構造化し、媒介することによって、知を想定された主体からの解釈的介入が可能になることだ。同時に、この想像的な軸を突破することで、主体は不可能な現実界の死の欲動に向き合うことにもなる。これは驚きと現実界の侵入を意味する。不可能性から偶然性への移行なのだ。

煙が立ちこめる焼け跡で、男が口を開けて立っている。

つまり、もともと起こりえなかったこと、可能性の領域にさえ属していなかったものが、突然、偶然に起こる。たとえば龍馬の、あまりに唐突であっけない死。あるいは、それ以前の黒船来航だ。もちろん、これが大河ドラマのなかの黒船来航だということは、忘れないでほしい。黒船が襲来したあと、日本の「志士たち」は恐れを抱きながらも、なんと、こっそり泳いで船に乗り込み、いったい何なのか確かめようと考えるのだ。こうした事件は、しばしば領域全体の座標を変える出来事となる。龍馬の死後、明治維新の純粋なロマンは、一瞬で消えてしまったように見える。代わって現れるのは、どこか陰惨な空気、あるいは、もっと具体的な政治の光景だ。黒船の到来に至っては、日本の前近代の物語と近代の物語をきっぱりと切り分ける大事件である。前近代の物語では、坂本龍馬のような人間は、裏切り者や夢想家として扱われるというより、そもそも語られもしないだろう。だが近代の物語では、彼はこのうえなく重要な英雄なのだ。

ある語り方によれば、鎖国する幕府のもとで、日本の人々は仲睦まじく平穏に暮らしていた。素朴な日々の暮らしは、彼らに危険を忘れさせていた。そこへペリーの黒船がやってくる。この象徴秩序にとっての否定的な参照点として、象徴化を拒む姿で現れた黒船は、一見穏やかで温かい小農社会に、現実界を突き刺すように持ち込む。それを機に、その社会のトラウマ的な核も、すっかり露わになる。『西郷どん』や『龍馬伝』の序盤が描くのも、このことだ。最初は和やかで楽しげに見えた田園の、情愛に満ちた風景の裏で、農民や下級武士の家には何もなく、日々腹をすかせている。それどころか、支配階級から好き放題に蔑まれ、侮辱されているのだ。面白いのは、攘夷によって手柄を立てるつもりだった武士たちが、実際にペリーの黒船を目にすると、ただ圧倒され、黒船を「ばけもの」と恐れる場面だ。とりわけ『龍馬伝』ではそれが鮮やかで、黒船は黒い巨獣のように大波を巻き上げ、轟音を立てながら、海辺の崖に立つ福山雅治に「襲いかかってくる」。福山と連れの桂小五郎は、もう恐怖で呆然としている。だが私たちは、それがただの蒸気船であって、本当に火を噴く巨獣ではないと知っている。むしろ「ばけもの」とは、日本の前近代文明が自ら象徴化と歴史化を進めることで、生み出してしまったものなのだ。この船は、西洋の工業社会では、もちろん怪異とはみなされない。だが日本に来た黒船は、日本の視点から見た「文明」の座標では捉えきれないために、言説が内部に取り込むことを拒む「非自然的な怪物」となる。

波を押し分けて進む黒船の船首。

黒船を見上げ、驚いて口を開ける龍馬と桂小五郎。 帆柱、煙突、外輪を備えた黒船の側面。

岩場で刀を構え、黒船に向かって叫ぶ龍馬。

岩場に立つ二人の前を、巨大な黒船が進む。

黒船を見上げる桂小五郎の顔。
中国語字幕の意味:「これが……黒船」。

龍馬と桂小五郎の目前に迫る黒船の大きな外輪。

刀を構える龍馬を、桂小五郎が呼び止めて押さえる。
中国語字幕:「坂本君」。

白いしぶきに包まれ、ほとんど見えなくなった岩場の二人。

この構造は、初期のゴジラシリーズにもはっきり現れている。いかにも定番の――というか、手垢のついた――読み方だが。ゴジラは黒船と同じように、神秘的で広大な、未知に満ちた海から突然現れ、既存の秩序を本当に引き裂くほどの力を示して、人間社会を大混乱に陥れる。ゴジラがいわゆる怪獣なのは、人間社会から見たときだけだ。自分より強いが、野蛮で劣ったもの、というわけだ。動物の世界一般には、怪獣などというものはない。野蛮な強さは自然なことであって、いわゆる怪物性は生じない。面白いことに、視点を切り替えると、この意味でのゴジラの比喩は、東洋と西洋のどちらからでも、相手を、異質でいびつな姿をした、気性の読めない怪獣と名指すために使える。田中友幸、円谷英二、本多猪四郎のゴジラは、最初、核爆弾がもたらした悪夢として東京を廃墟にしたが、その一方で天皇の皇居は残した。対して、ハリウッドのローランド・エメリッヒ版ゴジラは、アメリカの都市で破壊の限りを尽くす。面白いことに、この版のゴジラには、卵を産むことを除けば、擬人化がまったくなされていない。しかも核実験の元凶は、いつのまにかフランス人にすり替えられている。

ひとつには、もちろん、シニフィアン(記号表現)としてのゴジラの空虚さと恣意性がある。文化的な環境が変わるにつれて、作り手がこの空虚な主人のシニフィアンを使って象徴的な攻撃を仕掛ける相手も変わってゆく。いまでは反核の話題さえ過去のものとなり、ゴジラで環境保護を語り始めている。だがもうひとつ、記号としてのゴジラは、翻訳され、意味を与え直されることを拒み、自らの意味を保とうともする。アメリカ版ゴジラがずっと批判されてきたのも、そのためだ。つまり、ゴジラは恐ろしい怪獣なのであって、単なる動物としての獣なのではない。動物についての記述は、明示的にせよ暗黙にせよ、とうの昔から文明の言説のなかにあり、未知のものとはなりえないからだ。黒船に乗ったアメリカ軍が代表する西洋文化は、まもなく、全面的に学ぶべき、より進んだ文化とみなされる。グローバル化の波のなかで西洋が遭遇する異様な文明は、まもなく美学的に「神聖な蛮族」として発見される。ゴジラをいちばんよく知る芹沢博士も、ゴジラを人間以上の知恵を持つ存在とみなしている(もちろん、これらは大他者の媒介を通じた、他者との想像的な交流だ。だが重要なのは、ここでは「人間ではない」「ばけもの」が、ひとつの他者として指し示されていることだ。普通の意味での動物とは、決して同じではない。それは「人間」と並ぶ重要な行為者であって、動物は決してそうではない。このことで思い出すのが、少し前にネットで話題になった『Dynasties』(中国語題『王朝』)というドキュメンタリーだ。この番組がやっていることは、子どものころ、両手に持った恐竜の玩具をぶつけ合い、声を当てながら頭のなかで物語を作っていたのと同じなのだ。動物の世界の残酷さが、なんとも皮肉なことに、政治として捉えられている。まるで作り手は、政治の言葉を使うほうが、現実の残酷さを正確に描けると思っているかのようだ。だから、ある意味では、この番組は思いがけず健全なのである)……。

したがって黒船とゴジラは、決してラクラウ的な言説闘争の敗者などではない。そもそも黒船もゴジラも、負けるどころか勝ちに勝っている。それらは「無限性の深淵」を内に含む、締め出された主体なのだ。そして、それらと向き合う主体にとっては、現実界が侵入してくるとき、否応なく遭遇する根源的な否定性なのである。

これに対して主体は、けっして止むことのない象徴化を通じ、そのつど異なる具体的な内容によって、それが何であるかを肯定的に規定し続ける。ゴジラは何度も何度もスクリーンに登場するが、ひと言も話さないこの深淵を前に、そこから私たちが垣間見る秘密の中身は、毎回違っている。核の脅威への恐怖、黄禍への恐怖、自然災害への恐怖。あるいは環境破壊への悔恨、万物は調和して共生すべきだという啓示。「ゴジラ」という存在が繰り返し回帰しているのではない。回帰そのものが、生成と消逝を肯定することによって、存在を構成しているのだ。あの古典的なゴジラ像の誕生という出来事が、繰り返し回帰しているのでもない。厳密に言えば、ゴジラがデザインされたのは一度きりだ。そうではなく、回帰そのものこそが、差異と多様性によって肯定される出来事なのである。

ゴジラの着ぐるみを中央に、スーツ姿の二人の男性が並ぶ白黒写真。

街路を踏み進むゴジラの巨大な足から、人々が逃げる。

ライオン、ペンギン、チンパンジー、トラ、リカオンを並べた『DYNASTIES』の宣伝画像。

物語のなかへもう一度戻ってみても、黒船の危機は、結局は折衝によって解消されている。だが、危機の解消とともに消え去った「黒船」は、西洋の植民地主義を指していたシニフィアンにすぎない。現に存在する、腹の底の知れない南蛮の国々が消滅したのではない。目の前からその姿が消えたあと、黒船というシニフィアンは、かえってもっと分散したかたちで、視野の外にある異質な文明の国々すべてに行き渡る。だから明治維新の物語構造では、現実の危機が終わることによって、いっそう切実な危機感と、危険に取り囲まれているという不安が生まれる。国を救い、その存続を図るという中国の物語にも、同じ構造がある。志士たちが「今の時」に切り開いた近代の歴史で、日本はむしろ、かつて他者であった西洋文明を全面的に受け入れるのだ。

これはある意味、『キング・オブ・モンスターズ』の結末と同じである。人類は自分たちの無知とゴジラの気高さを悟り、巨獣の支配に従い始め、ともに調和と共存の美しい世界を築く。もちろん、ゴジラの路線に沿って。そして、そのすべての土台にあるのは、「偽りの王」であるギドラこそが、宇宙から来た真の侵略者であり、私たちが手を取り合って対抗すべき、本当に外部から来た危険なのだ、という指摘だ。楽観的に言えば、これは、人間と非人間のあいだの溝が、必ずしも意思疎通の可能性の欠如を意味しないことを示しているように見える。むしろ、意思疎通は潜在的には可能であり、現実のものになりうるということだ(もちろん、その現実化を拒むこともできる)。この意味では、締め出された主体の核をなす純粋な否定性は、アガンベンのいう純粋な潜勢力に置き換えたほうが、適切なのかもしれない。

だが、これはあくまで楽観的に言えば、の話だ。日本は明治維新を通じて、西洋の文明世界と肩を並べ、美しい近代世界へ入ることに成功したかに見える。その結論を最も鮮やかに示す光景は、当然、1851年5月1日にロンドンで開幕した第1回万国博覧会だ(もちろん、厳密に言えば明治政府の成立は1868年であり、この時点で「目を開いて世界を見た」のは、改革を目指す幕府だった)。世界中の文明は、近代の工業と技術が生み出した壮麗な水晶宮という、人工的に作り上げられた驚異の世界に、ありとあらゆる不思議で美しいものを並べ尽くし、人類史上最も美しく、最も憧れを誘う光景を築き上げた。

だが、水晶宮の内部の美しい奇跡が成り立つのは、まさに現実世界全体を去勢しているからだという点には、警戒しなくてはならない。いわゆる近代社会に入った文明人たちが、あまり喜ばしくないと思うものを、水晶宮は隠してしまう。そうして、世界のうちで目を楽しませてくれる品々や背景だけを残すのだ。工業と建築が生んだこの驚異は、一方では内部世界の花咲き乱れる繁栄と、外部世界の荒涼とした悲惨さとを分かち、鮮やかな対照をつくる(外部世界は近代化の産物ではない)。他方では、綿密な設計と配置によって、展示される美しい光景と、意図して隠される汚濁とを隔てる。言い換えれば、水晶宮の繁栄には、滞りなく流れる下水道という土台が必要なのだ。展覧会が開かれているあいだも、ひどく汚れた水やゴミや糞便は、いちばん奥深く隠された下水道やゴミ捨て場から、絶え間なく排泄されている。

国の行く末について語る男の横顔。
画面内の日本語:「おはんらが変わらねば こん国に先はなか。」
座って向き合う相手に、異国の強さを学ぶべきだと語る老人。
画面内の日本語:「今は 異国の強さを学び」。

中国語字幕は、今こそ異国の優れた技術を学ぶ時だ、という意味。

頭に布を巻いた老人が、ナポレオンを革命の大英雄と呼ぶ。
画面内の日本語:「ナポレオン。 革命の大英雄じゃ!」

青白く発光するゴジラと、三つの首を持つキングギドラ。

こうして排泄されるゴミは、厳密に象徴的な次元で言えば、まったく存在しない。現実の秩序には到底収まりきらない、過剰なものなのだ。残余として排泄された彼らは、個別の存在としてはたちまち消え去る。だが普遍性を具体化する主体としては、言説によらない力に訴えることしか知らない。ここで、あまり細かく例を挙げる必要はないと思う。あの美しい万国博覧会の10年後、農民と下級武士が主導した一連の血なまぐさい戦争を思い浮かべればいい(今回は主に日本を話題にしているが、もっと典型的な事件は、広大な第三世界で繰り返し起きている。万国博覧会で清国の絹や磁器の優雅さを褒めた西洋の文明社会は、その30年後、義和団の民衆の野蛮さを激しく非難するだろう。排泄された糞便は、水晶宮から跡形もなく消えたのではない。ただ隠されただけだ。想像の次元で、文明社会はそれを見て見ぬふりをする。そして、まさにその隠された現実界の排泄物が、ある特定の瞬間、私たちの美しい水晶宮へ流れ込み、症候というかたちで姿を現すのである)。

ゴジラが深い海から持ち込んだ現実界が、想像的な世界に割り込み、内と外の境界が崩れ落ちる。そのとき人類の文明が直面するのは、じつは現実世界についての経験の欠如だ。しかも、その経験は足りているなどと、確信することはできない。人々には、衝撃、怒り、不安、驚き、さらには恐怖といった感情で応じるほかなく、たちまち、アガンベンのいう、言葉を持たず極度の不安にある幼児期の状態へと転落する。一方、秩序を根本から変える、消えゆく媒介者としてのゴジラは、そのあといつも黙って海へ帰り、姿を消してしまう(大正ロマンのなかで、現実の最下層の農民は、いっそう貧しかった。そして、いわゆる倒幕運動の最後の戦争は、かつて倒幕の主力を担った下層士族を掃討する、西南戦争だった)。

ゴジラのこうした行く末が、『キング・オブ・モンスターズ』の内容に私がいささか失望したところでもある。この無敵の巨獣に与えられた根本的な運命は、フーコー的な意味で、消し去られる(日本版では芹沢博士の酸素爆弾で爆殺される)、締め出される(アメリカ版)、あるいは矯正される(『キング・オブ・モンスターズ』や多くの特撮版)という、三つの道しかないように見える。ゴジラが人類を支配するということは、裏返せば、人類もまた王冠をかぶせることでゴジラを隷属させているということだ。それはもはや、意味を与えられることから免れ、意味の外にある現実界の猥褻な生の過剰を示す比喩ではない。ハリウッドのお決まりの手法で姿を変え、神話的な仙郷に住む、おとぎ話の小さな妖精になってしまった。『トゥルーマン・ショー』でトゥルーマンが、閉ざされた世界のイデオロギー的な縫合を破り、その外に出て解放感を味わうための、あの外部になったのだ。イデオロギーの内側からは見えない、あの外部。「無知蒙昧」な人々が、へりくだって従わなければならない、あの「自然界の真の現実」。ゴジラに見えている世界を見ることさえできれば、私たちは本当の自然を見ることができる。これこそ、パラノイア的な幻想が、逆にゴジラを捕らえてしまうということだ。ハリウッドお得意の手口でもある。

和室で向き合う男たち。「異国の猿まね」と非難する日本語字幕がある。
画面内の日本語:「異国 異国 異国 異国 異国の猿まねじゃったど」。

中国語字幕は、外国の真似しかできない猿の集まりにすぎない、という意味。

民百姓だけでなく自分たちにも目を向けるよう訴える若い武士。
画面内の日本語:「民百姓だけじゃごわはん! おいたちもじゃ!」

中国語字幕は、民百姓のことばかり考えて、われわれ武士を見捨てるな、という意味。

銃を向けられた門前で、帰る家はなく戦って死ぬ覚悟だと告げる男。
いわゆる倒幕運動の最後の戦争は、かつて倒幕の主力を担った下層士族を掃討する、西南戦争だった。

画面内の日本語:「わしらに戻る家などない。 戦って死ぬ覚悟じゃ!」

「そんな もん来んでええ!」と叫ぶ女性。
画面内の日本語:「そんな もん来んでええ!」

中国語字幕は、そんな新時代なら来なくてもよい、という意味。

いつも忘れずにいたい。ゴジラはただの着ぐるみ、ゴムでできた小道具なのだ(いまでは特殊効果だが)。生命のない物を、生きていると言い立てて大喜びする前に――「見ろ、生きている! この特殊効果の塊には知恵がある。私たちよりもうまく考えている!」――、「外部」から「内部」へ視点を移し、その視差を経験する過程で、残酷な現実を忘れてはならない。物体はやはり物体であって、主体化と主観的な転移に抵抗する異物のままなのだ。それは不可解な人間性を帯びた客体として、人間化され、人の言葉を話し始める。だが、しゃべる物体はやはり怪物だ。本来、口を開いて話してはならない何かであることに変わりはない(そもそもゴジラは、一度も本当にしゃべったことがない。いちばん意地悪く勘ぐれば、人類がゴジラについて理解していることは、芹沢博士のあの偉大な友情も含めて、すべて一方的な思い入れと勝手な憶測なのかもしれない)。

ある意味で、ゴジラの再放送も、Tシャツに刷られたチェ・ゲバラも、資本がいかに純粋な生の欲動に寄生し、そこから搾り取るのかを、じつに分かりやすく私たちに示している。いや、むしろ純粋な生そのものが、資本主義(Capitalism)のひとつの範疇なのだ。着ぐるみのなかにいるのは誰か、考えてみよう。俳優なのだ。

もしベンヤミンが断言したとおり、資本主義が結局ひとつの宗教なのだとすれば、それは「不死」の、幽霊のような生をめぐる猥褻な宗教だ。そしてゴジラは、まさしくあの不死の怪獣王なのである。

箸を手に、食卓についたゴジラ。


編者注:『龍馬伝』、なかなか面白い。

本文終わり

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