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漫画『ねじの人々』から考える、物語のなかに理屈をどう織り込むか

『ねじの人々』を中心に、物語のなかで道理や考え方を説くことが、筋の展開、知識の伝達、主題の表現にどう関わるかを整理する。人物の言葉や絵、物語の展開を通じて、漫画が抽象的な概念を取り込む方法を考える。

著者: 别牙狂中国語版校閲: 伦勃朗中国語版編集: 子厚翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

2015年2月、『神のみぞ知るセカイ』の作者・若木民喜は、マンガワンで「哲学を語る」漫画『ねじの人々』の連載を始めた。哲学を漫画で語るのは、決して容易なことではない。私はエイゼンシュテインの壮大な構想――映画版『資本論』を思い出した。世界を変えたこの大著の理論を映像にしようとしたものの、彼は生涯、その構想を実現できなかった。若木民喜とエイゼンシュテインが直面した困難は似ている。二人とも、道理や考え方を説く「説理」の部分を、物語に大量に織り込まなければならないのだ。

『イデオロギー的な古典古代からのニュース』のマルクスと原始人。画面の字幕は「第1章 商品」

ドイツの映画監督アレクサンダー・クルーゲは、2008年、540分にも及ぶドキュメンタリー『イデオロギー的な古典古代からのニュース――マルクス、エイゼンシュテイン、資本論』を完成させ、エイゼンシュテインの遺志を継いだ。しかし、これはもはや物語芸術ではない。

一般に、説理は物語芸術にとって異質な要素と見なされる。道理を説くには、書き言葉調の表現で、論理を厳密に組み立てる必要がある。一方、人物の行動を描くことを中心とする物語は、そうした言葉を嫌う。「物語は非理性的だ」。叙事詩でも、小説、演劇、漫画、映画、テレビドラマでも、筋を滞りなく展開させたいなら、作品に占める説理の割合を厳しく抑えなければならない。

この異質さは、あらゆる芸術形式にまで広げて考えることができる。ロバート・マッキーは『ストーリー』で、次のように述べている。「芸術家と観客のあいだの交流では、感覚と知覚、直観と感情を通じて、思想が直接伝えられる。この交流を理屈で整理し、言いようのない感覚や知覚を説明や抽象的な概念に置き換える仲介者や批評家は必要ない。学者の鋭い洞察が鑑賞眼や判断力を磨くことはあっても、批評を芸術と取り違えてはならない。理知的な分析がどれほど明晰でも、人の魂を養うことはできない。」

『ねじの人々』の主要人物
『ねじの人々』。

一、物語芸術における説理

しかし、物語を作り、語るという営み自体は、「感覚と知覚」だけの仕事ではない。一つひとつの出来事を、まとまりがあり、矛盾のない物語に組み立てるには、間違いなく理性と論理が必要だ。人は偉大な芸術家について、酒神が乗り移り、一気呵成に作品を生み出すというロマンチックな姿を大げさに語りたがる。だが、実際の創作でそれ以上に求められるのは、繰り返し細部を練り上げることだ。物語を作るのは、実のところ、隙間なくぴたりとはまるパズルを組み立てる作業によく似ている。

また、内容から説理を本当に締め出した物語作品を見つけるのも難しい。「意識の流れ」を描く一部の小説や映画なら、できるかもしれない。だが、それらはそれ自体、すでに物語から遠ざかっている。明確な主題と筋を持つ物語は、どれも説理的な要素を完全には取り除いていない。

こうした説理を目的によって分けると、おおよそ次の三つになる。

(1)筋を展開させるため

1. 前史と物語の背景

先にも述べたように、説理に必要な長々とした書き言葉調の説明は、人物の行動を中心に進む物語とは相性が悪く、その流れを中断してしまう。とはいえ、演劇や映画では、登場人物の過去も含め、すべての出来事を舞台やスクリーンで直接見せることはほとんど不可能だ。それでも、人物の過去や物語の背景に関わる出来事には、物語全体を組み立てるうえで欠かせないものがある。そこで、ナレーションや登場人物自身の語りで観客に伝えるしかなくなる。物語を伝えるためにも、説理と同じように言葉に頼り、進行中の人物の行動をいったん止めなければならないのだ。

古代ギリシア演劇の古典『オイディプス王』では、舞台上の時間は、オイディプスが自らの罪を知り、自らを追放するその一日に限られる。それ以前の、スフィンクスを倒したことや、知らずに父を殺したことは、登場人物の会話を通じて示される。さらに16〜17世紀には、古典主義演劇の理論に「三一致の法則」という決まりが生まれた。舞台で演じる内容を、一日、一つの場所、一つの筋に集中させるというものだ。人物の会話によって前史や背景を巧みに補うことは、次第に演劇の伝統的な技法となっていった。

もっと簡単な方法もある。物語の外にナレーターや語り手を置くのだ。たとえば『白雪姫』の冒頭で開かれる物語の本、『雪の女王』で本から這い出してくる妖精、『ハムナプトラ』三部作の冒頭で、そのつど古い伝説を壮大な調子で語るナレーション。童話や伝説、神秘的な要素を含む物語では、この方法がよく使われる。語り手という存在には、それ自体に古めかしい趣があり、物語の色合いに合っているからだ。

もちろん、これらも本来は物語の一部である。ただ、長々と言葉で説明し、物語のテンポに影響する点が説理と似ているため、ここで取り上げた。

左は『雪の女王』の冒頭に登場する本の妖精、右は『白雪姫』の冒頭の物語の本

2. 技術の原理

ファンタジーやSFの色合いが強い物語には、科学や技術、あるいは神秘的な仕組みの説明が欠かせない。こうした原理は物語そのものの中心ではなく、主人公が冒険の旅で出会う驚異や、問題を解決する手段にすぎない。そのため、必ずしも現実に即している必要はない。物語の世界観のなかで辻褄が合っていればよい。

だから、『オデッセイ』のように厳密に現実に即した映画は別として、筋を支える原理の説明は、たいてい適当に済まされる。それどころか、こんなお決まりの場面までできあがっている。敵との戦いで窮地に陥り、打つ手がなくなる主人公。すると突然、小柄で痩せていて、ひどい近眼で、たいていは少数民族出身という設定のがり勉くんが、何かをひらめく。いかにも高度そうだが、実際はでたらめに作っただけの専門用語を、主人公に向かってまくし立てる。その言葉を、主人公は必ず遮る。「おい、わかる言葉で話せ」。そのあとがり勉くんが口にする、わかる言葉のほうが筋を動かすのだ。

このお約束はあまりにも氾濫しているため、しばしば批判や揶揄の的になる。クラウドファンディングで制作された2015年のコメディ『Kung Fury』にも、とても面白いパロディがある。だが今日に至るまで、この馬鹿げたお約束は過去のものになっていない。なぜか。作り手も観客も、実のところ、頭を使って複雑な原理など理解したくないからだ。主人公が something COOOOL――なんかすっごくカッコいいこと――をやったとわかれば、それでいいのである。

『Kung Fury』による「わかる言葉で話せ」というお約束のパロディ
『Kung Fury』。

字幕(右上→左→右下)

  1. 「ちょっと待て。RX変調器を使えば、メインフレーム・セルを直結して、アップリンクにハッキングし、ダウンロードへつなげられるかもしれない。」
  2. 「どういう意味だ?」
  3. 「タイムマシンみたいなものだ。」

(2)知識を伝えるため

ところが、教育や科学知識の普及を目的とする物語作品では、事情がまったく逆になる。知識を伝えることこそが作品の目的で、物語の筋は、説理を収める器であり、潤滑油にすぎない。聶欣如教授も、論考「教育アニメーション序論」(原題「教育动画导论」)で、知識を教えるアニメーションの観客には、物語への感情的な参加だけでなく、知識を理解する認知活動も求められる、という趣旨のことを述べている。

こうした作品では、知識を説明するために、筋の進行が途切れる箇所が多くなる。たとえば、中国で一世を風靡した知識教育アニメ『蓝猫淘气三千问』は、各話約10分のうち、およそ1〜2分を、ひどく堅苦しい調子の科学解説が占めている。未就学児向けの『チャーリーとローラ』にも、知識を紹介する部分は少なくない。ただ、対象年齢がさらに低く、扱うのは日常的な知識ばかりで、紹介の過程も遊びに満ちている。そのため、筋と知識の分断はそれほど目立たない。

『蓝猫淘气三千问』の科学解説コーナー

画面内の表示:左「ロケット弾」。右は上から「1 オズマ計画」「2 実弾演習計画」「3 宇宙飛行訓練計画」。字幕は「オズマ計画、いいね。見てみよう」。

『チャーリーとローラ』で楽器を通じて日常的な知識を紹介する場面

左の字幕:「わたし、あのブーブー鳴るのを吹けるよ。」

『ねじの人々』の説理も、主に知識を伝えるためのものだ。各話の題名を見るだけでも、若木が毎回一つの哲学的な話題を持ち出して説明していることがわかる。とりわけ第22話では、副題に引用文献まで直接掲げている。1

原文に掲載された『ねじの人々』全25話の中国語目次表

『ねじの人々』目次

話 題名 図中の付記
1 なぜ何もないではなくボクがいるのか —
2 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり) —
3 純粋理性のアンチノミー —
4 洞窟のイデア —
5 真理の置き場所 ~客体的真理と主体的真理~ —
6 続・客体的真理と主体的真理 —
7 存在と現存在(前編) —
8 存在と現存在(後編) —
9 自我とエス —
10 理性と野性 —
11 空気の多数決(前編) —
12 空気の多数決(後編) —
13 パノプティコン 上 円形監獄
14 パノプティコン 下 円形監獄
15 奴隷道徳 上 —
16 奴隷道徳 下 —
17 携帯は存在に先立つ —
18 非ねじの人々 —
19 ねじの進路相談 上 —
20 ねじの進路相談 下 —
21 グッド、バッド、コレクトネス 1 —
22 グッド、バッド、コレクトネス 2 ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」を主題に
23 グッド、バッド、コレクトネス 3 共同幻想と自己幻想
24 The Answer is blowing in the wind —
25 Climb Every Mountain —

これらの哲学的見解は、登場人物どうしの議論に組み込まれて説明される。プラトンの『国家』や『論語』のような、対話体の著作に似た方法だ。このように人物が理屈を論じ合う部分は、漫画全443ページの54.6%を占める。また、全25話中11話で、取り上げた見解を唱えた哲学者の名前が挙げられ、肖像も6回描かれている。

『ねじの人々』に登場する哲学者の肖像と概念の図解

図中の文章と図解

  • 上段:「かつて、真理のありかを示す地図を描いた者がいた。プラトンという人間だ。」
  • 中段:「バタイユは言った。エロスとは、人間だけが持つ概念だと。」「エロス!」
  • 下段右:「カール・マルクスの有名な経済理論には、『上部構造と経済的土台』という考え方がある。」
  • 下段左:「ある時代の社会思想や常識、人々の考え方は、その時代の社会体制と経済活動を土台に築かれた、建物のようなものだ。」ポンプの「社会」から上向きの矢印を経て、風船の「思想」が膨らむ。

(3)主題のため

私たちはみな、説教臭い物語が嫌いだ。しかし、説教臭さを避けるからといって、物語のなかで道理をいっさい語れないわけではない。物語はやはり、思想的な意味や価値判断、つまり主題を担っている。

主題の良し悪しは、物語芸術の質を左右する決定的な要因だ。たとえば、1995年の劇場アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』は、押井守らしい難解な台詞に満ちている。それでも、記憶、身体、主体の確かさを問うことによって、きわめて優れたアニメーションとなった。一方、2017年にリメイクされた実写映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、重要な場面をすべて残し、物語の流れもより滑らかになっているのに、全体としてはやはり失望させられる。主な理由は、深い主題を掘り下げることをやめ、とうに定型化した「愛・自由・アイデンティティ」を主題の土台に据えたことにある。

実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』の抱擁場面。画像下のキャプションは「〜ママ、抱っこ〜」

主題を表すには、間違いなく説理が必要になる。ただし私たちは通常、優れた物語はそれ自体が思想の論証になっていると考える。主題を論証するのは説明の言葉ではなく、人物の選択と行動なのだ。そこで作り手は、一見すると日常の愚痴だが、実際には主題を説明している台詞を、筋の要所にそっと差し込む。脚本の型が比較的決まっている商業映画では、たいてい開始2〜5分で主題の説明が現れる。たとえば『アンツ』では、冒頭で主人公ともう一匹の働きアリが、自分の個性を出すべきか、集団を支えるべきかを話し合う。『レミーのおいしいレストラン』も、冒頭の劇中テレビ番組を通じて「普通の人でも一流の料理人になれるのか」という問いを持ち出す。だが、それが実は「小さな存在にも大きな夢をかなえられるのか」という問いの比喩であることを、私たちは知っている。『カーズ』は冒頭にアクションがあるため、主題を示す場面が少し遅い。開始10分のところで、元チャンピオンがマックィーンに、一人で戦うのではなく、チームを頼ることを覚えろと諭す。

二、『ねじの人々』が説理を物語に組み込む工夫

このように、物語芸術から説理を完全に取り除くことはできない。とくに『ねじの人々』のように大量の知識を含む作品では、言葉に頼った退屈な説明が、物語の滑らかな流れを簡単に断ち切ってしまう。しかし、若木民喜はこの点で非常にうまくやっている。さまざまな手法を駆使した『ねじの人々』は、説理をどう物語に織り込むかを教えてくれる実用書にもなっている。全25話のこの小品が完結したあと、若木はトイレにも一冊置いていて、自分で読み返しても、つい楽しくなるという。

(1)プールで泳ぐローマ教皇

「プールで泳ぐローマ教皇」は、ブレイク・スナイダーが『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』で紹介した脚本の技法だ。長々と続く台詞に、「教皇が泳いでいる」といった面白い動作を組み合わせ、「状況説明」の退屈さを隠す。状況説明とは、あとで起きることを観客に理解してもらうために、あらかじめ伝えなければならない背景や筋の情報のことだ。つまり、先に述べた前史と物語の背景にあたる。

漫画や映画など、視覚が関わる物語では、この技法がよく使われる。たとえば2013年の『キルラキル』では、担任教師が流子に物語上の情報を伝えるたびに、彼の服が妙な具合に滑り落ちる。この細部は会話の内容とは無関係だが、退屈な説明を確かに面白くしている。

『キルラキル』で服を脱ぎながら情報を伝える担任教師

字幕(登場順):流子「さっきから言ってる『神衣』って何だ? このセーラー服のことか?」→教師「そうだ。君の父、纏一身が作り上げた、極制服を上回る力を持つ制服だ。」

『ねじの人々』も、この技法を繰り返し使っている。とくに印象に残るのは、第9話の9、10ページだ。万子と高橋の会話に合わせて、食事が進み、やがて皿の上に人の顔が描かれていく。

『ねじの人々』で、食事と皿へのお絵描きが会話と並行して進む場面

台詞(左列を上から下へ、次に右列を上から下へ)

コマ 台詞
左1 万子「それ、悩むこと? 催促すればいいじゃない。」
左2 高橋「そ、そんなことできないよー。わざわざ催促するほどのことでもないし!」
左3 万子「思ったより気にしてるんだね。そんなにそわそわしてるのは、時間の無駄じゃない?」
左4 高橋「それに、わざわざ催促したら、あいつのことばっかり考えてるみたいじゃない。なんか悔しい!!」
左5 万子「悔しい? 根地くんは単に忘れてるだけだと思うけど?」/高橋「そうかもしれないけど、なんか負けた気がするんだよ!」
右1 万子「ふうん。つまり、」
右2 万子「高橋は、根地くんが自分を好きかどうか気になるんだね。」
右3 高橋「ええっ!? そ、そんなことないって!」
右4 万子「でも、」
右5 万子「相手から好かれることって、そんなに大事?」

さらに、この漫画には、見せ方を変え、別の表現形式にまで踏み出す「プール」もある。第17話の8〜10ページでは、人物の会話がメッセージ画面に現れる。第18話の13ページでは、編集部での会話が、小説風の文章で描かれる。

『ねじの人々』のメッセージ画面と小説風のページ。左では会話がメッセージのやり取りとして、右では編集部の会話が地の文と台詞を交えた文章として示される

左のメッセージ(上から下へ)

  1. ルネ「つまり、僕たちがいったい何を気にしているのか、という問題だよ。」
  2. ルネ「逆に、携帯の向こうに相手がいても、既読の印がつかないだけで、何かあったんじゃないかと心配する。」
  3. 高橋「それはわかる。」
  4. ルネ「でも、たいていは何も起きていない。ただ携帯を見ていないだけだ。」
  5. 高橋「なんで携帯見てないの!って腹が立つけど、そういうときもあるよね。」
  6. ルネ「つまり、携帯の向こうにいる人の状況とは関係がない。」
  7. ルネ「携帯が作り出した関係は、実体のない仮想の関係にすぎない。」
  8. ルネ「そして、その仮想の関係に、仮想の不安を抱いている。」
  9. ルネ「そもそも携帯がなかったら、こんな心配をするだろうか?」
  10. 根地「……」

右上の文章

「並外れた真理への愛……いや、真理のエロスだ!」

梅崎は奇妙な言葉で僕たちを説得し始めた。

「真理のエロス!?」

若木は疑わしげな顔をした。

「真理のエロスか……」

しかし、若木もついには賛同したようだった。

「わかったよ、梅崎。理想のエロスを追い求めて、もっと高く、もっと高くへと至れば……」

「人間にしか到達できないエロス……つまり、超越的な真理に到達できる……!」

二人の目がともに輝いた。

「そのとおりだ、若木! これこそ哲学だ!」

右下の台詞:「いいじゃないか! その真理のエロスだか何だかを目指していこう!」

(2)説理を担う登場人物

かつてはごくありふれた要素だったナレーションは、物語芸術から次第に姿を消しつつある。ナレーションの語りは客観的だが、温かみに欠ける。説明まで生き生きとさせるのは、個性のはっきりした登場人物の言葉だ。今では、映画の上映前に流れる防火の案内のような、もっぱら知識を伝えるための短編でさえ、できるだけ登場人物に説明させようとする。『ねじの人々』で説理を担う登場人物は、実に奇妙奇天烈だ。

最も普通で、登場回数も多いのは、主人公・根地(ねじ)の同級生二人、ルネと万子だろう。ただ、ルネは、この漫画で最も個性に乏しい人物で、実在する人間らしくさえない。初登場のときは、根地の意識のなかにいる分身のように、授業中の根地と会話を始め、また突然消える。その後も、ほかの人物と日常生活で関わることはほとんどなく、基本的には何かの見解を説明する必要があるときにだけ現れる。

第5話には、修道女と坊主頭の男という、少々奇妙な二人が登場する。一枚のパンツを奪い合う二人の騒動がきっかけとなって、主観的な真理と客観的な真理をめぐる議論が始まる。

第4話と第7話には、掛け時計とヒトデという、人間ではない二人が登場する。掛け時計はプラトンの洞窟の比喩を語り、ヒトデはさらに姿まで擬人化され、根地の友達になる。

『ねじの人々』に登場する掛け時計とヒトデ

台詞:左の掛け時計「そして誰もが、美少年と一緒に暮らしたいんだあああああ!!」(文字盤の下の「IDEA」は「イデア」)。右のヒトデ「あなたが好きです! 付き合ってください!」

いちばん面白いのは、やはり作者本人の出没だろう。第6話で若木民喜は、ペンを握る手の姿で漫画に現れ、根地に自分の創作について語る。また、高校時代にバンドを組んだことや、卒業後にひきこもっていた経験も作中で取り上げられる。『ねじの人々』が、きわめて私的な作品でもあることがわかる。

第18話では、若木は編集部の議論まで物語の舞台に載せ、根地たちの生活にも自ら関わってくる。物語の時空に、新たな次元が加わるのだ。

『ねじの人々』における作者本人のさまざまな登場の仕方。ペンを握る手、過去の自分、編集部で話す漫画家

図中の文章・台詞(上から下へ)

  • 上段の説明「パソコンの中に入るまでには、いろいろあったようだが、ここでは省略。」/根地「ヒトデはどこ?」
  • 中段の見出し「ある漫画家の場合」。右から「うう、誰にも知られないのは、なんてつらいんだ……。今、悩んでいることさえ、誰にも知られない。」「誰かに僕の漫画を見てほしい……。雑誌に連載できるなら死んでもいい! そのくらいの気持ちだ。」「何でもします。連載させてください! お願いします!」
  • 下段、右から「この店、飲み屋になったんだ。」「飲み屋って、誰もが貧乏くさく見えるね。」人物紹介は「若木/漫画家/口先だけは大作家より達者な男」。

(3)概念を絵にする

『ねじの人々』には、かなり難解な概念がいくつも登場する。それを説明するには明晰な言葉が必要だが、漫画はやはり視覚の芸術でもある。作中には、面白い図解に加えて、抽象的な概念を具体的なものにたとえた絵が数多くあり、説理を生き生きと面白いものにしている。

たとえば、下のような最も単純で直接的な図解は、作品中に何度も現れる。

『ねじの人々』における、洞窟の比喩、普遍性、夢を見ることの図解

図中の文章・凡例(上から下へ)

  • 洞窟:右の説明「現実に存在する僕たち人間が感じ取れるのは、この世界のほんの一部だけだ。」左の説明「人間は、実は洞窟の中で手足を縛られている。見ているものは、真理の光が映し出した『影』にすぎない。」洞窟内の3人に、それぞれ壁の影が対応する。
  • 普遍性:右から「どんな時代にも変わらない構造。それが普遍性だ。」「普遍性こそ、僕たちが考えるべきものだ。」中央の枠に「普遍性」、枠内の人物に「人類」、手元の球に「答え」。
  • 入れ子の図:右「となると、我思う故に我ありを証明する我が必要になってこないか?」左「我思う故に我あり、と思う故に我あり、と思う故に我あり……という風に。」右下の人物から左上の人物へ、考える自分の内側にさらに考える自分が重なっていく。

だが、それ以上に面白いのは、象徴的な意味を帯びた視覚的な記号だ。最も重要なのは、根地の頭についた、ナット状のねじだろう。これは考えることそのものを象徴している。第1話の終わりに突然、根地の頭に現れるのは、彼が日常生活について真剣に考え始めたしるしだ。それとともに、漫画全体も日常を深く考える方向へと動き出す。第7話で根地が考えるのをやめようとすると、ねじはまた突然外れる。そして第14話では、人への贈り物にさえなる。

同じような記号は、ほかにも多い。たとえば第15、16話に現れる、虚無の炎を燃やす奴隷道徳の神。たとえば第3話では、万子は最初、姿が見えない状態で登場し、根地が結論を出して初めて姿を現す。第17話では、たくさんのビリヤードの球が、多すぎる「真実」を象徴する。第2話では、コマ枠も背景も取り払った真っ白な紙面が、純粋な思考の空間を表す。これらも、とても面白い象徴だ。

根地の頭についたねじと、虚無の炎を燃やす奴隷道徳の神

左の3コマ:ねじが現れる音「ぬぉきん」→根地「ん?」。下の惹句は「根地くんの頭に生えたねじ!! これはいったい……!?」。

右の図:右上「誰もが神になれる世界……」→左下「すべてを焼き尽くす神……」。周囲の声は、最上部「俺たち、すげえ!」、左上「猫かわいい! 猫かわいい!」、中央左「理不尽だ! 理不尽だ!」、中央右「リア充爆発しろ! リア充爆発しろ!」、その下の左「もう十分頑張ってるじゃないか?」、腹部「泣ける~! いい話だ~!」、右下「誰か慰めて~」、さらに下「鈍感なやつ!」、最下部「ぐひひひひ!」。

実際、若木民喜のほかの作品にも、目に見えないものに具体的な姿を与える手法が使われている。『神のみぞ知るセカイ』では、駆け魂が登場人物の心の問題を表しており、それを追い出す行動は、実は心の問題を解決することでもある。この比喩が物語をずいぶん豊かにしている。一方、『キング・オブ・アイドル』では、歌声を目に見える実体に変える道具が設定されている。だが、その表現効果は明らかに前者に劣る。抽象的な心の動きとは違い、歌声は人間の感覚で直接受け取れるものだ。どれほど巧みな表現を使っても、漫画では歌声そのものを聴けないという事実は埋め合わせられない。

(4)知識が物語の展開に関わる

先に主題について論じた際、優れた作品は、具体的な物語を通じて主題を論証するのがうまいと述べた。しかし、物語によって「戦争は悪い」「愛は大切だ」といった抽象的な思想を示すことはできても、「地球には76.6億人が暮らしている」という単純な事実を表すことはできない。そのため、知識の伝達を目的とする物語には、いつも知識とは無関係な主題が生まれる。たとえば前年、2018年のアニメ『はたらく細胞』は、知識としては人体の血液循環を紹介する一方、物語の主題は、細胞たちが職場で懸命に働く、そのひたむきさだ。この分断がある以上、知識と物語のどちらかを立てれば、もう一方がおろそかになるのは避けがたい。赤血球の物語を語るときには、すべてが擬人化されるため、知識を最も正確な形では伝えられない。かといって「血液循環」の回のように、案内板を使って心臓の働きを詳しく解説すれば、今度は赤血球の物語が中断される。

『はたらく細胞』第8話で、案内板を使って示される血液循環の図解
『はたらく細胞』第8話。

字幕:「案内に従い、速やかに循環を終えてください。」

知識を伝えるための物語は、この分断からなかなか逃れられない。だが、『ねじの人々』が紹介する哲学の知識は、そもそも具体的な事実の記述ではなく、物事の見方であり、ちょうど物語の主題そのものと重なる。たとえば第20話では、神を失った孤独な人間は、自分の存在意義を証明するために働く、という考え方がマックス・ウェーバーの見解として紹介される。それは「人はなぜ働くのか」という主題を掘り下げるためだ。そして、根地が主人公を辞めたがるという筋も、同じ主題のためにある。つまり、『ねじの人々』では、知識そのものが物語の展開に関わっている。

ただし、最初の6話では、この関わりはあまりはっきりしていない。主な理由は、この部分にほとんど筋らしい展開がないことだ。最初の4話には、試験中や昼休みといった状況こそある。だが、人物たちが論じているのは「自分は誰なのか」「答えとは何か」「真理の世界は存在するのか」といった問いであり、そのとき彼らがしていることとは何の関係もない。第5話には修道女と坊主頭の男がパンツを奪い合う事件があるものの、それも話題を持ち出すきっかけにすぎない。根地はすぐに「作者」と話し始め、パンツの争奪戦は忘れ去られる。最初の6話はこれだけ多くのことを語りながら、描いているのは学校でのたった2、3時間の出来事にすぎない。その数時間に根地がしたことといえば、問題について議論するほかは、普通の人と同じように試験を受け、昼休みを過ごし、ぶらぶら歩いただけなのである。

『ねじの人々』の最初の6話に描かれる、展開に乏しい学園の日常

図中の文章・台詞(上から下へ)

  1. 教室:「いるならスッと返事せんかい。」
  2. 試験:「じゃなくてさ、」「テストだって。」
  3. パン屋の前:「コギト……つまり『考える人』。でも、僕は前と何が変わったんだろう。」店の看板は「超越パン店」。
  4. 廊下、右から:「むしろ、不完全なほうが真理に近いんじゃないか?」「それは安っぽい懐疑論だ。どうしてそう思うんだ!?」
  5. 下段は右の「女子更衣室」の表示から左へ。「おお……着替え……!!」(「くるっ、くるっ」と振り向く。)

ところが第7話からは、登場人物が話し合う問題と、彼らが実際にしていることが密接に結びつき始める。たとえば第8話では、「人はなぜ考える必要があるのか」という問いが、根地がねじを拾い直すかどうかに関わる。第14話で問い直されるのは、パノプティコン――全体を見渡せる監視施設――に見られる権力の仕組みだ。この議論は、学校での万子の立場に関わっている。物語の展開自体も、次第に豊かになる。第9〜10話の恋愛の問題から、第11〜14話の学校という共同生活の場の問題へ。そして第18話以降は、漫画の登場人物たちも、その漫画の物語そのものについて考え始める。最も見事なのは、やはり第21〜23話だ。根地が器量の悪い女の子を好きになったことで、学校の仲間たちと、彼らを生み出す編集部の面々が一緒に頭を悩ませる。根地の恋愛は、彼個人の出来事であるだけでなく、人類の美意識の歴史的な転換にまで関わっている。

この作品では、知識と物語はもはや平行線ではない。筋の展開によって知識が生活の舞台に入り込み、その知識がまた、物語に批評的な深みを与えるのだ。

『ねじの人々』で、美意識や売上の問題が絡む登場人物の選択
第21〜23話では、登場人物が日々の選択をするとき、物語の外にある要因まで考慮に入れている。

台詞(上段→右下→左中段→左下)

  1. 編集部、右から「おいおい、その結末はちょっと待ってくれ! もう一度話し合おう!」「それじゃ売上が……!」
  2. 万子「黙れ、共同幻想の奴隷!」
  3. 万子「根地くんは、この漫画の名を冠した主人公だ。君自身の答えを出さなきゃ!」
  4. 根地「わかった。」

結び

実のところ、物語の長さを見ても、絵の描き込みを見ても、若木がこの作品に最大限の力を注いだわけではないことは明らかだ。描かれる物語にも、とくに変わったところはない。どれも学園漫画ではおなじみの、ちょっとした出来事ばかりである。それでも『ねじの人々』は、日常の場面から哲学的な問いを掘り下げることで、面白く、しかも深みのある作品になっている。説理と物語の混じり合いが、この小品に、物語芸術だけには収まらない魅力を与えているのだ。

さらに『ねじの人々』には、ほかの面でもジャンルが混じり合う特徴がある。読者の期待との関係でいえば、パンツを見せたり、可愛さを売りにしたりと、陳腐な商業的お約束をいろいろと盛り込む一方、そのお約束自体への批判も示す。表現形式でいえば、哲学的な見解を紹介する小冊子であり、学園生活の物語であり、その物語自体を批評する著作でもあり、若木民喜本人がとりとめなく語り続ける日記でもある。今や、あらゆる堅固な境界が溶けている。私たちの目の前には、テキストのない演劇、視覚表現へと姿を変えた詩、ゲーム化した映画、動き出す漫画がある。自分たちで作り上げたさまざまな表現形式を、もはや以前のようにはっきりと見分けることはできない。だが、この混沌は解放をもたらすものでもあり、新たなメディア、新たな形式、新たな芸術の芽を育んでいる。『ねじの人々』に見られる、こうした異質なものの混じり合いには、まさに未来へとつながる可能性が秘められている。

編集部注:

画面の端から顔をのぞかせる黒猫

本文終わり
注01

注釈

  1. 訳注:第22話の日本語原題は「グッド、バッド、コレクトネス 2」。副題についての記述は、掲載された中国語目次表による。日本語目次は小学館の第3巻公式試し読みを参照。 ↑

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