
これより三倍も頑丈な鎖で私たちを縛るがいい。神々も女神たちも、みな見に来るがいい。それでも私は、黄金のアフロディテと寝たいのだ。――ホメロス『オデュッセイア』第8歌、ヘルメスの言葉。
ブラウニング『ポーフィリアの恋人』――英語原文・日本語訳
The rain set early in to-night,
今夜は早くから雨が降り、
The sullen wind was soon awake,
陰気な風が起こり、
It tore the elm-tops down for spite,
にわかに楡の梢をへし折った。
And did its worst to vex the lake:
胸も張り裂けそうに、私は耳を澄ます。
I listened with heart fit to break.
湖の音が心を乱す。
When glided in Porphyria; straight
ポーフィリアがひそやかにやって来て、
She shut the cold out and the storm,
冷たい風を戸の外に締め出し、
And kneeled and made the cheerless grate
膝をついて冷えた炉に火をおこす。
Blaze up, and all the cottage warm;
小屋が暖まり、
Which done, she rose, and from her form
ようやく立ち上がる。
Withdrew the dripping cloak and shawl,
滴のしたたるマントとショール、
And laid her soiled gloves by, untied
帽子と汚れた手袋を、
Her hat and let the damp hair fall,
無造作に傍らへ置き、濡れた髪をほどく。
And, last, she sat down by my side
やがて私に寄り添って座り、
And called me. When no voice replied,
私を呼ぶ。けれど返事はない。
She put my arm about her waist,
私の手を取り、その腰を抱かせる。
And made her smooth white shoulder bare,
金の髪を一筋も残さず払った
And all her yellow hair displaced,
玉のように白くなめらかな肌を、
And, stooping, made my cheek lie there,
私の頬に寄せ、
And spread, o’er all, her yellow hair,
髪をすべて広げて覆う。
Murmuring how she loved me — she
どれほど私を愛しているかとささやく。
Too weak, for all her heart’s endeavour,
けれど彼女はあまりにも弱い。
To set its struggling passion free
心を尽くしても、誇りと虚栄に絡め取られ、
From pride, and vainer ties dissever,
むなしくもがく情熱を解き放てず、
And give herself to me for ever.
その身を永遠に私に捧げることもできない。
But passion sometimes would prevail,
それでも時には思いを抑えきれず、
Nor could to-night’s gay feast restrain
今夜の華やかな宴も妨げられなかった、
A sudden thought of one so pale
自分を愛してやつれた人がいると、ふと思い出すことを。
For love of her, and all in vain:
けれどその愛はすべてむなしい。
So, she was come through wind and rain.
だから彼女は風雨をくぐって来た。
Be sure I looked up at her eyes
その目の喜びと誇らしさが
Happy and proud; at last I knew
私の疑いを消した。
Porphyria worshipped me; surprise
やっとわかった、ポーフィリアも私を愛している。
Made my heart swell, and still it grew
驚きと喜びが揺れ広がり、胸が躍る。
While I debated what to do.
もう何も言い争うまい。
Op.22.I So rasch wie möglich
第1節 できるかぎり速く。
本稿は原作ゲームの各ルートとアニメを扱い、結末にも触れる。
〈独白〉
雪が、とうとう降り始めた。
いちばん大切なものを失った日に、この真っ白な景色は、やはり僕の前に現れた。
雪は何もかも隠してしまう。つらいことも、悲しいことも、向き合いたくない現実も。
白く美しい景色だけがゆっくりと広がり、僕たちをそこに置き忘れてゆく。
………
けれど、雪はしょせん雪だ。
融けてしまえば、隠された現実も、忘れられた思いも、もう一度日の下にさらされる。
あの黒く、汚れた泥のように。
これが物語の始まりである。冬馬かずさを乗せた飛行機が遠ざかるのを前にした、北原春希の痛ましい独白だ。
『WHITE ALBUM2』の序章(IC)では学園生活の描写に多くを費やしているため、三人の主人公の家庭関係に大きな違いがあることは、つい見過ごされがちだ。これまでの批評も、具体的な要素を丹念に拾い上げる作業をしばしば省き、人物と出来事をただ語り直しただけで、「当然のように」何らかの結論を出してきた。これではあまりに独断的ではないか。
家庭から個人へ、そして恋愛へ――つまり新たな家庭をつくるまでの過程で、人の感情も生活も、世間の影響を受けながら形づくられ、互いにぶつかって衝突や妥協を生む。この過程をどう捉えるかについて、小木曽雪菜、冬馬かずさ、北原春希の三人には違いがある。その違いが三人の関係を幾度か急転させ、その裏には抑圧された欲望が隠れている。三人の意識の基底構造を解きほぐし、精神分析にかけなければならない。その欲望の存在を「禁忌によって張られた幾重もの境界の中から知る」ために1。
北原春希は独白の中で、降り始めた雪について語る。自分のしたことを後ろめたく思いながら、それを直視したくはない。だから、喪失を悼む心の働きである喪とメランコリーが、心に広がるままにしている。
メランコリーも喪も、その心的機制は、主体が失われた対象に同一化し、それを自我の中へ取り込むことにある。ただ、はっきりさせておかなければならないのは、メランコリーと喪は、失われた対象だけでなく、法にも結びついているということだ。人には倫理や道徳という基準があるからこそ、不実とためらいを繰り返すとき、喪が生じ、メランコリーを味わう。こうした感情がひとまず終わるのは、法が力を振るい、制裁と処罰が下されるときだけである。このことは、後年の春希と雪菜の関係が行き詰まる理由も、ある程度説明する。二人が大学時代の数年間、互いを避け続けるのは、まさに雪菜が自分自身の喪を完了させることを拒み、春希のメランコリーをいつまでも処罰以前の段階にとどめているからだ。これこそ春希の心に落ちる最大の影である。一度も直視されず、回復にはなおさら至っていない症状なのだ2。
『WHITE ALBUM2』では北原春希の家庭事情がほとんど語られず、いくつかの事実がひどく曖昧なまま、さらりと触れられるだけだ。まさにそこが鍵なのだ。春希にとって父親は同一化の対象ではなく、単なる他者として生活から排除されている。さらに掘り下げるなら、その排除には事実と結果しかなく、宙づりのままで、修復も逆転もできない。そこには喪のかすかな要素さえ見当たらない。ここで問題となるのが、去勢に関わるファルス、すなわちシニフィアン(意味するもの)である。春希にとって家庭とは、まさにそのような象徴的ファルスであり、生活のあちこちに見え隠れしている。
ラカンはファルスによって母の欲望を表すとともに、主体が父の法を受け入れ、象徴秩序へ入ることで永遠に失う享楽をも示そうとした。ファルスは純粋なシニフィアンである。そもそもシニフィエ(意味されるもの)を持たないからだ。「主体はこのシニフィアンとの関係を通じて、自分自身に、自分の生命に属する何かを奪われる。その何かが、主体をこのシニフィアンへと結びつけるものの価値を担う」。
ファルスが主体にとって特別な価値を持つのは、主体のナルシシズムによる。北原春希が人との距離を巧みに調整し、絶えず誰かに頼られ、慕われるように振る舞うのも、その感情の反映だ。想像の中で、家庭生活のファルスは分解され、組み直され、現実の社会生活に姿を現すことができる。だがファルスそのものは幽霊であり、無(nothing)とだけ結びつき、指の間をすり抜ける。これで、春希が時折見せる、社会生活から逃れようとする態度も説明できる。ファルスの持ち主は、ナルシシズム的な愛着をすべて犠牲にして初めて――つまり致命傷を負い、それを自覚して初めて、相手を攻撃できる3。こうして、欠けている家庭生活を表すファルスというシニフィアンが、春希の性格に根深い欠陥を生むのだ。彼はいつも「待っている」。いつも他者(other)の時間の中で宙づりになっている。
もちろん、春希には自発的な行動がない、などと強引に推論したいのではない。それは事実に反する。「待つ」とは、春希が「自分から」何かをするたびに、必ず別の理由を借りなければならない、という意味だ。かずさを気にかけるのはクラス委員の務めだから。雪菜をなだめるのは夢をかなえるためだから。そうした口実の下にある本当の思いは、もう先延ばしにできなくなるか、相手に一歩ずつ追い詰められるまで口にできない。春希の姿が悲しみを誘うのは、その悲劇のすべてが、主体として「自分自身の時間」へひたむきに進み続けるところから生まれるからだ。
ラカンにおいて、エディプス・コンプレックスは父に向かう攻撃性を意味する。最初の段階で子どもは、母が自分以外の何か――想像的ファルスを欲望していると気づく。そこで自分をファルスに同一化し、母の存在の延長、あるいは付属物として存在する。第二段階では想像的な父が介入し、子どもが母の欲望の対象になろうとする企てを否定するだけでなく、母からファルスという対象を奪い、父に忠実であることを母に強いる。子どもの主体はここで初めて禁忌に出会う。続く第三段階では現実の父が介入し、実際にファルスを持っていることを示す。子どもは母への企てを断念して父への同一化に向かい、自己実現を通じて象徴秩序の中に自らを位置づける4。
小木曽雪菜は鏡像段階でもがいている。他人が思い描く裕福なお嬢様の像に合わせるため、変装してアルバイトに出る。そこで形づくられた想像的自我は、彼女に人との距離を保たせ、趣味まで隠させる。こうして、他人が彼女について抱く想像が再びつくり上げられる。この過程には、実は期待と錯覚が含まれている。雪菜はある程度、この状態になじんでいるのだ。誤認され続けることを期待している。
〈会話〉
小木曽雪菜:私、本気で悩んだんだからね。
北原春希:小木曽は目立ちたくないって言ってたくせに、「自分が出ないと学園祭が失敗する」なんて、ずいぶん偉そうだな。どこのスーパーアイドルだよ?
喜びと興奮を求める欲望に駆られ、主体は一つの鏡像を自分だと誤認し、そこに閉じこもって満足する。その同一化が崩れると、次の理想化された同一化を期待する。それが北原春希に向けられるのだ。こうして自我は他者になる。想像され、期待され、疎外され、歪められ、誤認される対象となる。
この繰り返しによって、雪菜はエディプス・コンプレックスを二次的同一化によって解消する段階へ、正常に移ることができない。虚構の「私」の曖昧さのためにエディプス・コンプレックスそのものまで変形し、大他者(Other)、自我、対象という新たな三項関係は混乱し続ける。その後に無数の感情のもつれが続く。
雪菜の経験と家庭事情をエディプス・コンプレックスに照らせば、破綻する点(kaputt punkt)はたやすく見つかる。家族との関係はあまりにも円満だ。父に対しては攻撃することも、取り入ることも、反抗することもなく、あまりに従順である。母に対しては……彼女は母の完全な写しのようだ。父が客に帰るよう告げれば、条件反射のように従う。要するに、雪菜は長いあいだ前エディプス段階にとどまっている。自分を固有の存在として象徴秩序に位置づけることができず、ただの空白、ただの無でしかない。この欠落を埋めるには友情と愛を借りなければならない。そこで彼女は、変形したエディプス・コンプレックスの中へ春希とかずさを取り込む。雪菜にとって、かずさは欲望の対象となる母であり、春希は同一化の対象となる父である。この対応関係には友情、恋愛、所有が混ざり合っている。
エディプスの神話に対応する、もう一つの混乱した三項構造が、別の次元にある。ソフォクレスの戯曲『アンティゴネー』で、アンティゴネーは妹イスメーネーに兄ポリュネイケースのことを語る。
私は神聖な天の掟を守って罪を犯し、
あの人とともに横たわることができる。
愛する者が、愛する者に寄り添って。
私は地下の死者たちに永遠に喜ばれるだろう、
生きている人々に喜ばれるよりも。
私はそこに永遠に横たわるのだから。5
ヘーゲルはここにある醜聞を鋭く見抜いた6。『アンティゴネー』における倒錯した血縁と恋愛の関係は、雪菜のコンプレックスにそっくりだ。そこでこれを「アンティゴネー・コンプレックス」と名づけてもよいだろう7。このコンプレックスがあるために、雪菜はいつまでも自分が何者なのかをはっきりさせられず、自己実現などまったく望めない。欲望は迷子になり、あからさまな所有欲と、もっともらしい道徳の足かせだけが残る。結局、順調に、正常に主体性を獲得することができず、「正常な人」になれない。
冬馬かずさは北原春希にかなり近い。けれど彼女は、もう一つの、もっと脆い方向へ進む。
主体が、象徴化の過程で疎外されたシニフィアンを奪われると、ある特別な対象がその主体にとっての欲望の対象となる。この構造をラカンは幻想の式()と名づけた。かずさの幻想の式は、母と春希の二人によって組み立てられる。いかなる「父」もいないため、かずさには第一段階しか残らず、春希への片思いの中で自己実現を遂げる。だが二人の間に雪菜が現れると、春希という「特別な対象」は変わってしまう。春希と雪菜が恋人関係を結ぶと、春希はかずさにとって不可能な対象となる。ところがそのとき、かずさの心には、かえっていっそう強い欲望が生まれる。変化の前と後で、対象としての春希をそれぞれ「小さな欲望の対象」「大きな欲望の対象」と呼び、春希が「不可能な対象」となる時点を挟んで比較してみよう。「不可能」から「大きな欲望」へ至るあいだ、かずさは春希を避け、逃れ、ときには憎しみや敵意さえ見せる。その行動は、春希が一時、かずさにとって自らの欲望を拒む象徴となったことを告げている。「ここで起こるのは対象の破壊と喪失である。主体にとって、その対象は外の世界に現れ、主体は自らの存在(being)をもって全力でそれを拒む。自らを犠牲にするまでは、それを再び見いだすことはない。まさにここで、その対象はファルスの等価物となり、ファルスの位置を占める」8。
「不可能な対象」である北原春希こそファルスであり、主体であるかずさによって、生命を表す記号として外へ投げ出され、拒絶される。だが春希が大きな欲望の対象になることは、不可能な対象としての春希と、小さな欲望の対象としての春希の死を意味する。人間の経験において、他者の死は自分自身の死よりはるかに耐えがたい。人は自分の死を経験できない。死を経験するとは、いつも他人の死を経験することなのだ。この身も絶えんばかりの悲しみの中で初めて、かずさは春希の価値を認め、自らの対象aにも同一化する。けれどそのとき、彼/それはすでに消え去っている。そして失われたからこそ、それは永遠に主体とともにある。主体の中に取り込まれたのだ。
Op.22.II Andantino. Getragen
第2節 やや速く、荘重に。
〈独白〉
「あ……」
雪が、とうとう降り始めた。ここへ来たときから、今にも雨が降りそうだった空は、すねたように、冷たい風で雨を凍らせ、
雪にして舞い落としてきた。
耳をつんざく飛行機のエンジン音が、だんだん遠ざかってゆく。
その騒がしさを追い払うように、空から降る白い雪は、ますます激しくなる。
僕はこの真っ白な景色がどこから来るのか探そうと、空を見上げた。
いや、それは口実だ。
本当は、目の前の現実から逃げたかっただけだ。
……もっと言えば、飛び立ったばかりのあの飛行機を、視界に入れたくなかった。
………
雪が、とうとう降り始めた。
僕たち三人が、ずっと一緒にいようと誓った日にも雪が降っていた。
三人のうち二人が離れていった日にも、同じように雪が降っていた。
先ほどの独白に先立つこの独白で、北原春希は雪を詳しく描写する。何気ない一筆にも見える。あるいは中学校で習ったあの読み方なら、全体の調子をつくり、ある種の心情を表すため、とでもなるだろう。こうして、この箇所が作品全体にとって持つ重大な意味は、意識的にせよ無意識にせよ、見過ごされてしまう。
この冒頭は、『WHITE ALBUM2』の構成手法の一つを裏づけている。自然もまた、物語が演じられる場として、作品の中へ入る権利を得るのだ。それは、最終章(CODA)で再会の場所となるストラスブールにも続いている。美は場面の中に寓意として託され(Allegorie)、物語から抜け出し、現実と想像の曖昧な境界に広がってゆく。
そして春希を通じて、言語は意味の経験(expérience du sens)へと開かれる。語る主体である春希にとって、その言語の「意味」は経験であり、実践なのだ。
これは実際には、歴史や現実の領域にある要素を取り込み、作品の声部として加えることにほかならない。作品は言語(langage)と空間(espace)の交点にある。言語は思考の実践的な行為であり、空間は、差異を通じて意味が現れる場である。こうして『WHITE ALBUM2』は、書く主体、読者、外部のテクストという詩的言語の三つの次元を組み合わせ、ポリフォニー(多声性)を備える。テクストのすべては丸戸史明と読者の双方に属しながら、先行する、あるいは同時代の文学的テクストの集合をも指し示す。
丸戸史明の説明によれば、『WHITE ALBUM2』が生まれたのは、ひとえに前作『WHITE ALBUM』への愛ゆえである9。前作の物語に織り込まれたブラウニングの『ポーフィリアの恋人』は、原テクスト(Urtext)として、作者の呼びかけに応えている。
実際、二作のつながりは、題名の借用や、「WHITE ALBUM」「SOUND OF DESTINY」といった曲の再登場、あるいは丸戸のいう「主人公が状況に流されていく感じ」「何もできない上に,流れに抗おうともしない。そのどうしようもないやるせなさ」の描写だけに見られるのではない。こうした点を根拠に、これまでの論考では『WHITE ALBUM』二部作が「トラウマの記憶」として位置づけられ、昭和末期からバブル経済期にかけての享楽に明け暮れる生き方と、平成における、次第に他者化の進む低欲望社会の形成に結びつけられてきた10。
男女のもつれ合う情欲と多角関係を取り払うと、『WHITE ALBUM2』が「ポーフィリア」というシニフィアンを解釈し直していることが見えてくる。このシニフィアンの特性は、その異常さでもある。作品の主題は単なる人物の性格や運命ではなく、主体がポーフィリアになる瞬間なのだ。その瞬間を担う人物が入れ替わっても、この主体間関係の型は作品を貫いている。前作『WHITE ALBUM』の物語に織り込まれたブラウニングの『ポーフィリアの恋人』が、原テクスト(Urtext)として、丸戸史明の呼びかけに応える。
冒頭の雪の描写が現実と作品を結ぶように、先行するテクストである『ポーフィリアの恋人』は、『WHITE ALBUM』と『WHITE ALBUM2』の空間を結ぶ。『WHITE ALBUM2』には、『ポーフィリアの恋人』型の欲望の構造が丸ごと残されている。あるいは、『ポーフィリアの恋人』に『WHITE ALBUM2』の欲望の構造があると言ってもよい。隠れた「私」はポーフィリアを完全に所有しようとするが、金銭や地位といった現実に阻まれて果たせず、最後には彼女を絞め殺す。承認と人倫的生活の矛盾が最大に達したとき、これが唯一の帰結となる。人は死によってしか普遍的な人倫的生活から逃れられず、承認を自分で定義した次元に宙づりにしておくほかない。ポーフィリアには同時に二つの顔がある。愛と美の顔、そして社会秩序の中にある顔だ。
CODAで北原春希が冬馬かずさを選べば、すべての友人を裏切り、社会的な関係をことごとく断たなければならない。一方、小木曽雪菜を選べば、どのような形であれ、愛するかずさを必ず失う。二人のあいだの対立を、二種類の死の対立として捉えてみよう。一方は真実の感情の終わり、生物学的な死であり、他方は現実の生活を象徴の次元で捉え直した死――象徴的共同体から排除され、過去のすべてに別れを告げることだ。この二つの死のあいだに生きる崇高な美(Sublime Beauty)が、ポーフィリア、すなわち北原春希自身である。彼は一つの〈物〉(das Ding)となり、主体の内側にありながら、ひどくよそよそしい、ある種のトラウマ的要素を表す11。

風岡麻理と杉浦小春へ視点を移すと、とたんにすべてが面白くなくなる。肝心なのは、彼女たちの自我が自分に同一化するには、別の人間に映し出され、その人から全体としての像を与えられるしかない、ということだ。仕事と他人からの評価を通じて自己実現を果たす会社員の女性も、友情を重んじるあまり精神的な崩壊の悪循環へ陥る女子高生も、鏡像段階が現実のものになった存在である。主と奴、つまり主人と奴隷の弁証法の延長とさえ言える。
ヘーゲルは『精神現象学』の自己意識の段階で、主と奴の関係の弁証法を提示した。一方には自立した意識があり、その本質は対自存在である。他方には依存する意識があり、その本質は相手のために生き、相手のために存在することにある。前者が主人、後者が奴隷だ。春希と、小春あるいは麻理との関係が、まさにそうなっている。「主人は対自的に存在する意識であるが、もはや単なる対自存在の概念ではない。主人は奴隷なしにはいられず、その本質は一つの自立した存在、一般的な物に従属している」。実際、この二つの関係では、主人と奴隷の位置が絶えず動く。上司である麻理は仕事では春希を支配するが、恋愛では春希に主導権を握られる。小春はずっと春希に導かれるが、最後には春希のほうが責任に縛られる。「奴隷はここで自らの対自存在、あるいは自立性を止揚するが、主人が自ら成し遂げたかったことを成し遂げる。奴隷はここで純粋な否定の力となる。反対に、主人の意識は自立していない。主人が到達した確実性は、対自存在をその真理とはしない。むしろ奴隷の意識こそ自立した意識であり、奴隷は自らを自らの意識へ立ち帰らせ、真の自立性へと転じる」12。
より作品に即した次元では、小春と麻理の性格設定は、実は春希とかずさに近い。ここにはさらに大きな主と奴の弁証法がある。彼女たちは潜在意識の中で、自分たちが近づこうとする「主人」の影を恐れている。主人に仕えるには、奴隷は自分に固有の意志を抑えなければならない。だがそれによって、かえって自然的存在への依存と従属から少しずつ抜け出し、自らの自己意識を自由に確証し、持続的に肯定することができるようになる。主人よりも高貴な自己意識と、知恵と解放を得るのだ。「奴隷は主人に仕える中で、個人的な意志と頑なな我意を使い果たし、欲望の内的な直接性を否定する。そしてこの放棄と主人への畏敬の中に知恵の始まりがある。すなわち、普遍的自己意識への移行である」13。
注目したいのは、小春と麻理とのこの二つの関係において、もっとも熱狂的で倒錯した性関係が生じることだ。「生命と純粋な自己意識は……同じように重要である」14。性関係によって主体と客体は統一され、奴隷は快楽の中で自分を見る。そこから存在の中で自らを知覚する段階へと上り、自立し、それ自体で成り立つ主体性を自覚し、異郷から自らのもとへ帰る。他者、すなわち主人のためにあると同時に、自分のためにもあるのだ。「(主観的な)確実性が(客観的な)真理の形を取り、(客観的な)真理が自己確実性となるときにだけ、理性について、普遍的自己意識について語ることができる」15。
和泉千晶は、『WHITE ALBUM2』全編でもっとも複雑につくられた人物である。虚構の人物である彼女と文学史との関係、作者/役者と普通の人間という二つの顔、数えきれない嘘の中にある真心。そのどれもが彼女を魅力的にしている。
簡単にまとめてみよう。千晶は新境地を求める「作者」として、自分の現実の生活を虚構の物語へ直接つなぎ、周囲に実在する人々を加工して作品に取り込もうとする。春希、雪菜、かずさの三人の物語が、彼女の創作の材料だ。その材料を得るために、自ら春希に近づき、恋愛のふりまでしてみせる。ところが最後には、自分でもわからなくなってくる。作品を完璧にするために手段を選ばないだけなのか、それとも本当に彼を愛してしまったのか。
この人物像は菊池寛の戯曲『藤十郎の恋』に由来し、阿刀田高の短編『怀念阿娓』(中国語題、「阿娓を偲ぶ」の意)を経て、丸戸史明のもとへ届いた16。
原型の物語では、藤十郎は相手を自殺に追いやりながら、悲しみをこらえ、何事もなかったように振る舞わなければならない。一方、『怀念阿娓』の阿娓は早くに病死する。千晶はそうした悲劇的な結末を拒み、自らの答えと解釈を差し出す。
〈劇中の発話〉
初芝雪音:
私は諦めない。全部、手に入れようとする。死ぬ気で頑張る。
必死で自分の恋を追いかけていたら、いつの間にかチャンスをつかんでいた。
でもね……後悔はしていない。つかんだあとで、それが自分の夢だったと気づいたから。
私は本当に、本当に和希君を愛している! この気持ちだけは本物。誓うよ!
千晶ルートの結末では、まさにこの答えによって、春希はそれまでの嘘を許す。そして彼女と、その少しいびつだが真心を失ってはいない愛情を受け入れる。

「初芝雪音」/和泉千晶の演劇は、徹底してかずさや雪菜のパロディーである。現代社会では、通常のパロディーは演劇的な次元を覆い隠し、意味の革命をめぐる弁証法を解体する。それは規範の強化を意味する。だが千晶の模倣は、単純なパロディーではない。喜劇でも悲劇でもなく、真剣にその両方なのだ。この演劇は千晶の生活と同じく、慣習的な倫理や規範にとっての他者である。
ヘーゲルの、いささか男性中心主義的な断言を借りれば、女性は社会にとって永遠のアイロニーであり、千晶もまた『WHITE ALBUM』にとって永遠のアイロニーである。彼女が春希に近づくために頼るもの、それは……ほかの女性とは違う親しみやすさを装うことだ。演じているのはかずさと雪菜の合成体であり、千晶自身の姿は水に映る月、鏡に映る花でしかない。最後に千晶が春希を悲しい記憶の循環から「救い出す」のも、他者の言葉を内面化し、その言葉で元の語り手に逆らうことによってだ。自らを演じて見せる千晶は、春希の人生にいるほかの女性たちと間テクスト的な関係を結ぶ。だが彼女の心は最後の瞬間まで、どの構造にも入ったことがないのに、いつもその中にあるようでもある。
ここで「愛」そのものが舞台裏へ退き、すべてを操る大他者になるのだ。主体、ここでは「和泉千晶」は、象徴秩序――愛についての普遍的な倫理――の中で疎外されてゆく。彼女は語る(speak)のではなく、象徴秩序の一部、つまりかずさや雪菜の模倣を通して語られるだけである。大他者が表すのは、主体が自らの行為の結果を完全には掌握できなくする何かだ。それがあるために、行為の結果はいつも、主体の意図や予測とは異なる。
分離が生じるのは、大他者もそれ自体に不整合や欠如を抱えている――ラカンの言い方では「斜線を引かれている」――と主体が気づいたときである。千晶の抑えようのない愛の感情と、それをめぐる疑いも、まさにこの不整合や欠如に触れている。大他者は、主体に欠けているもの(lack)を持ってはいない。分離の中で主体は、大他者に関して自分が抱える欠如が、すでに大他者そのものをも侵している欠如なのだと経験する17。
Op.22.III Scherzo. Sehr rasch und markiert
第3節 スケルツォ。きわめて速く、くっきりと。

三人の意識の構造を整理すると、主要人物たちの関係がどのように変わってゆくかも、次第にはっきりしてくる。それにつれて、欲望そのものの性質も変わる。欲望は承認を求める欲望となる。他者にとって異質なものとなり、受け入れられながら否定もされる。そして、他者のようになることへの恐れと、他者に捕らわれることへの恐れとの緊張の中に置かれる。愛を抱いているだけでは足りず、さらにそれを誓わなければならない。ヘーゲルが『精神現象学』で論じたように、意識を持つ個人は、他者のもとに承認を見いだせないことに気づく。承認はその個人の外から来るのであり、承認とは他者なのだ。承認はもはや、この異質さを単純に解消したり否定したりするものではない。不穏な駆動力となって主体を他者のもとへ向かわせ、そこで自我を探させる。そこに見つかる自我は自分を引用したものなのか、それとも自分に欠けているものなのか。それを確かめるために。この「承認」への衝動こそが、もっとも深い傷をもたらす。春希とかずさが互いに思いを寄せていると知りながら、雪菜は春希に告白する。かずさは、なぜそんなにキスに慣れているのかと問い、取り乱す。空港では春希が抑えきれず、雪菜の目の前でかずさを抱き寄せ、口づける。いずれも出発点は「承認」を得ようとすることにあり、その後、さまざまな要因に促されて悲劇へ進む。
雪菜の抜け駆けは、実のところ、あのアンティゴネー・コンプレックスと切り離せない。啓蒙とは「人間を、自ら招いた未成熟状態から抜け出させること――他人の指導なしには自分の悟性を用いることができない状態から抜け出させること」である18。雪菜が主体性をうまく形成できていないということは、その認識に啓蒙が欠けているということだ。これは、彼女が春希やかずさに過剰な役割を負わせ、呼び名を与えることだけを指しているのではない。もう一つの意味がある。
雪菜の理性は、「有効な客観的実体や形式を例外なく、混沌とした物質を覆うヴェールにすぎないものとして示し、物質が人の動因に及ぼす影響を隷属として呪う。ついには主体が、自らの概念に従って、唯一無二で何にも縛られない空虚な権威と化すまで」19。これで抜け駆けはよく説明できる。法則と普遍性だけに関心を持ち、対象への個別的な感情にはひどく鈍い理性。それは、雪菜が名目上の「恋人関係」の成立だけを追い求め、春希の心を具体的に考えようとしない抽象性にほかならない。その抽象性ゆえに、雪菜は、春希のかずさへの愛に対しても、自らを欺き、言い聞かせることで無関心(Desinterresiert)を保つ。たとえ尋ねるそぶりを見せても、真相を知りながら見えないふりをし、自分でつくった嘘を信じ込むのだ。
初めから徹底して避ける冷たさよりも、こちらのほうが残酷で、あの「理性」にもかなっているように見える。
かずさの胸の張り裂けるような独白は、承認のもう一つの次元に属する。ここでは言語の未知の力が行為を引き起こし、ある種の遂行性を示し、深刻な結果さえもたらす。あの長い告白を聞いたからこそ、春希はあらゆる倫理を無視して、抑えきれずに彼女を抱き締め、口づけたのではないか。言語は発語内行為として生じ、作用する。かずさが、今や二人は互いのことを何もかも知っていると口にしたとき、一連の行為が引き起こされた。そして口づけのあと、かずさが動揺し、なぜそんなに慣れているのか、雪菜といったい何度キスしたのかと問うのは、紛れもなく非難である。この非難は春希の「罪」を言葉で繰り返し、傷口に塩を塗る……。「言葉は感覚的知覚を担う身体を支配するため、間接的に現実存在するが、悲劇の言葉は完全に現実存在する(todlichfaktisch)。実際に殺人者の身体を掌握するからである」20。
かずさの言葉は、言語と精神の両面で春希を打ちのめした。彼は力なく地面に崩れ、かずさが去るに任せ、雪菜との約束を破る。だが、彼を動かす言葉はそれだけではない。春希が書いた「届かない恋」の歌詞も、最初からかずさへの欲望を認め、結果を顧みない行動へと彼を促していた。
かずさの非難と告白は、さらなる行為を誘発する。その働きは、言葉を発した瞬間を超えて繰り返される。欲望そのものにしか忠実でない承認は、こうして致命的な事実へと変わる。言葉がその承認を心の中から引き出し、外へさらすことで、二人は道徳を破り、自らの欲望に従って行動せざるをえなくなるのだ。あの胸の張り裂けるような「非難」がなければ、その後のすべては決して起こりえなかった。
『WHITE ALBUM2』序章でもっとも不可解で、同時にもっとも衝撃的な場面といえば、もちろん最後の空港での見送りだ。春希が恋人の雪菜の目の前で、かずさを抱き寄せて口づける。この場面は意表を突きながら、心情としては筋が通っている。そのため中国語圏のACG(アニメ・漫画・ゲーム)界隈では「世界の名画」とまで呼ばれ、作品を代表する、もっとも有名なネタの一つとなった。

普通に考えれば、こういう場面は悔恨や罪悪感につながる。このとき春希は、何を考えていたにせよ、せめて恋人の気持ちを思いやるべきだった。たとえ恋人がすでに何があったか知っていたとしても、衝動を抑えるべきであり、感情の堤防を決壊させ、こんな事態を招いてよいはずはない。
それが普通の考え方である以上、人倫的生活の普遍的な規範が私たちを律していることから生まれるのは疑いない。人倫的生活は人倫的意識(Sittlichkeit)によって成り立つ。この意識は歴史と社会から深い影響を受け、共同で承認される規範となる21。春希にとっては、恋人としての義務を果たし、その関係に忠実であることが普遍的な人倫的生活にかなう。行動し、倫理に抗う春希は、「真実ならざる影にすぎない」。なぜなら「彼は普遍性を持ちうる自己の内にしか存在しない」からだ。つまり、彼と同じように行動する者は誰もが有罪なのである。個人は罪を犯すことで個別の特徴を失い、誰でもありうる者となる。あるいは、見る者すべての共感を誘う。誰もが普遍的倫理と自分の欲望の衝突に直面する。「この人は一方の原理に従ってしか行動できず、そのため必然的にもう一方の掟を破る」。春希の場合、それは当然、雪菜とかずさのどちらかを選ぶことになる。だが、ここまでの話と、あの行動との間にはまだ隔たりがある。この論理の全体は「罪の意識」という概念の上に成り立っている。なぜあの瞬間、彼は「そうせずにはいられなかった」のか。
ヘーゲルにおいて、個人の罪の意識は、言葉に従って行動するその瞬間、別の掟を「破る」経験から生まれる。すなわち、「当人が行動するその場で、当人を捕らえる」のである。春希の行動は単に激情を抑えられなかったというだけではなく、罪を犯すことそのものを経験する意味を含んでいる。彼は、雪菜がさまざまな手段や言葉を使って事実を普遍的倫理にかなうように「修正」し、それを事実として扱うだろうと知っているからだ。春希の「無意識と自己意識が共謀する」ことで、彼には自らの罪を公にし、裁きを待つほかなくなる。彼の人倫的意識が完全であればあるほど、個人が犯した罪の許しがたさを自覚する22。
春希の行動がさらに踏み込んだものになっても、彼は、罪と人倫的意識に促されて悔い改め、立ち直る放蕩息子の典型にはなれない。罪を越え、告白し、孤独と逃避と麻痺を受け入れ、それらすべてを抱えて生活へ入ってゆく。

よく話題になる「コンサートの選択肢」には、それが症候であり、崇高な対象でもあるという矛盾が潜んでいる。これは終章(CC)で、生活の中で相次ぐ打撃を受けた春希が、コンサートへ行くか、初詣へ行くかを選ぼうとする場面のことだ。ところが、コンサートへ行くという選択肢は永久にロックされ、クリックすることすらできない。そしてあとになって、もしコンサートへ行っていれば、かずさが彼の隣にいたのだとわかる23。
この選択肢が残酷なのは、再会の可能性を差し出しながら、それを決して実現へ結びつけないことだ。まさに症候と同じである。症候は一つの特定の要素として、自らの普遍的な基盤を覆す。春希の単調な生活は、コンサートでばらばらに崩れ去るかもしれない。会場へ行きさえすれば、隣の席にかずさがいることに気づくからだ。しかしこれは「選べない」選択肢である。もし選べるなら、もはや症候ではない。症候は、主体が直接向き合うと同時に消えてしまうからだ。『裸の王様』の服も、実は存在しないと指摘されたとき、確かに存在しないものとなる。
症候としてのコンサートは、一つの逆説を形づくる。主体、ここでは春希が向き合う「コンサート」という場面には、彼が変えたい、介入したいと望む過去が含まれている。奇妙なのは、「行かない」という選択肢こそが彼に何かを変えさせ、過去の場面を本来の姿に戻すということだ。彼の介入は、最初からその中に織り込み済みだった。春希自身も、その過程をすべて見ている観客も、このことを忘れている。その忘却のうちに、転移の錯覚がある。ラカンの文脈では、転移は一つの錯覚である。それを避けて、たやすく真理を手にすることはできない。真理は、転移に固有の錯覚を通して構成される。「真理は誤認から生まれる」のだ。春希と観客は、コンサートの場面に自分も含まれていることを忘れることで、症候の中に抑圧された内容が、実は過去ではなく未来から回帰することをも見落としている。
物語の初め、かずさと春希が互いの気持ちを察知できないのも、同じ理屈だ。双方向の失敗、相互の誤認が、コミュニケーションの二重の運動(double movement of communication)の構造をつくる。そこでは各主体が、相手から逆向きのメッセージ(message in the inverse form)を受け取る。

〈アニメ第11話の会話〉
冬馬かずさ:先に私の前から消えたのは、お前のほうだろ! 勝手に私の手の届かないところへ行ったのは、お前のほうだろ! 届かなくしておいて、それでもずっとそばにいろなんて、そんな拷問を考えたのもお前だろ……なのに、どうして今さらお前たちに責められなきゃいけないんだ。毎日、毎日、目の前に現れて、胸を切り裂かれるような思いをさせられて。それも全部、私が悪いのか? ひどすぎるよ。
北原春希:でも、お前は今まで何も伝えてくれなかったじゃないか……俺だけが、一方的に空回りして、それでもずっと諦められなくて。
冬馬かずさ:どうしていつも、私の気持ちがわからないんだよ?
北原春希:言ってくれなきゃ、わかるわけないだろ?!
冬馬かずさ:私はいつもこうだ。自分のことなんてどうでもいいと思って、いつも適当に済ませて、そのくせ頑固で、気持ちと反対のことばかりして……気づいたときには、何もかも失ってる。
だが、もし最初から互いの気持ちに気づいていたら、二人の物語は、幸せに恋をするのと同時に終わってしまうだろう。『月がきれい』のように、どこにでもいる幸せな恋人同士になる。誤認による苦しい回り道を省こうとすれば、真理そのものが失われる。誤認を「完了」して初めて、相手の真の姿を受け入れ、同時に自分の弱さを克服することが許されるのだ。相手に見つけた欠点の中で、人は自らの主体的な立場の虚偽性を感じ取るが、そのことにはまるで気づかない。相手の欠点は、自分の視点の歪みが客観化されたものにすぎない24。

別の次元では、春希にとってのコンサートは、皆にとっての春希に似ている。どちらも相対的な関係の中で〈物〉としての性格を帯び、しかも享楽がしみ込んでいる。そのため崇高な対象となり、不可能な〈物〉の高みへと押し上げられ、それを具体的に体現するものとなる。観客の批判の大半を春希が引き受けるのも、これで説明できる。「崇高の感情は不快の感情であり、構想力の不適合から生じる。その不適合は、大きさの美的な見積もりが、理性による見積もりに達しえないことから生じる。しかし崇高の感情は、呼び覚まされた快の感情でもある。最大の感性的能力の不適合についての判断から生じるのであり、その判断は理性の理念と一致する」25。春希の存在は快く、しかも不快だ。背中に棘が刺さるように、喉に骨が引っかかるように。
Op.22.IV Rondo. Presto
第4節 ロンド。急速に。
古典音楽や現代音楽でいう「不協和音」は、作品の中で耳障りに響く音程を指す。隣り合う二つの音の隔たりが大きく、聴き手にもそれがはっきりわかるものだ。これは必ずしも悪いことではない。モーツァルト、シェーンベルク、ショスタコーヴィチ、あるいはストラヴィンスキーは、不協和音を大胆に用いて、強く心を動かす雰囲気をつくり出した。
この概念を悲劇に借りて、「不協和の悲劇」と呼ぶことができる。ベンヤミンが一般に使われる悲劇(Tragödie)という概念を悲哀劇(Trauerspiel)に置き換え、近い意味の言葉を使って、悲劇の中に区別を設けたように。アリストテレスの説明では、悲劇は普通の人を模倣する。その人は「道徳的な資質や正義において、この上なく優れているわけではないが、不運に陥るのは悪のためではなく、何らかの過失や弱さのためである」。そこから「憐れみと恐れを引き起こし」、感情の浄化(カタルシス、Katharsis)へ至る。これは疑いない。
一見すると、この一連の論理は完全に成り立っている。春希のメランコリー、かずさの臆病さ、雪菜の身勝手さは、どれも悪と呼ぶほどのものではない。これらの過失が絡み合い、彼らを苦しめ、生活の泥沼へ引きずり込む……不運へと。
ただし、はっきりさせておかなければならない。ACG作品のどんな「普通の主人公」も、実際の普通の人とは、もともと遠く隔たっている。春希の「平凡な」学生生活は、家が裕福で、苦もなく優秀な成績を収め、クラスメートにちやほやされ、学園のアイドルと恋をするというものだ。大多数の人が憧れながら手の届かない、ばら色の青春でさえ、このうち一つか二つがかなう程度だろう。むしろ普通なのは、都合よく使われる側になり、恋では何度も敗れ、平凡な交際相手と、日々の雑事にもまれながら暮らすことだ。春希のような「人生の勝ち組」と美少女たちの苦しい三角関係を「悲劇」に分類し、普通の人の生活の模倣だと当然のように見なすのは、どう考えても現実への悪意を帯びている。
こうして「現実」を拒む不協和の中で、学園恋愛を題材とするACG作品は異質性を失った。作画や人物がどう変わろうと、中心に現れるのは、この同質な虚構社会の判で押したような表象ばかりだ。同質化に抗おうとする作者もいるが、その試みには初めから成功の余地がない。反抗者たちは、反抗しているつもりで、知らず知らず自分を縛る規律の操り人形になっているか、資本主導の作品生産の仕組みの中で、身を守るために妥協を強いられる。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の比企谷八幡も、最後には何人もの候補から一人を選ぶ「幸せな悩み」に陥った。ブレヒト的な異化とアルトー的な祝祭の狂騒によって、この種の作品を問いただした『冴えない彼女の育てかた』第1期も、消費者が立ち止まって考えず、弁証法的に捉えようともせず、そっくりそのまま受け入れた。そのため作品は、皮肉にも絶大な人気を得て、業界に頭を下げた。第2期はすでに、ますます凡庸になっている。

学園恋愛のACG作品では、出来事の進み方がひどく非現実的だ。だが皮肉なことに、表面に描かれるものが非現実的であるほど、社会に潜む仕組みを、より正確に、より直接に映し出している。中学や高校のころに、格好よかったり、美しかったり、かわいかったり、優しかったりする相手と、次から次へ気軽に恋をする。そんなことが起こる確率は、ごく小さいのかもしれない。けれど、思春期の男女なら誰もが一度はそんな夢を見たのではないか。不協和の悲劇にある、現実からずれた幻想は、社会の白昼夢である。その白昼夢の中でこそ、彼らの真の現実が姿を現し、普段は抑圧されている願望が描き出される。
『WHITE ALBUM2』は、作品と観客のあいだにある「そういうものとして受け取る」という暗黙の了解を別にすれば、すでに「普遍性」から離れており、両者のつながりはきわめて弱い。だから作品が共感を生み出すには、「惜しむ気持ち」と「贖罪」に頼るしかない。人はまず、いくつかの物語の節目で、登場人物の中に自分の過去の経験の影を見つける。記憶と物語が組み合わさり、人物を包む光の中へ感情が投影される。いったんこの同一化が成立すると、その後はどんなときでも、人物の行動が正当とは言いがたいときでさえ、少しも揺らがない。人はそう簡単には、自分自身に反対できないのだ。そこには個人同士の同情や憐れみがあるが、同時に、積極的な社会的概念はすべて、当然のように排除される。したがって秩序や正義について明晰に考えることも、すべて排除される。
視線が恋愛と倫理に集中すると、周囲のことは何もかも取るに足りなくなる。CCで小春との恋愛を選べば、彼女とともにあの学校でのいじめを経験することになる。多くの人はそれに憤る。だが麻理や千晶と恋をして、このルートを通らなければ、そのいじめは見過ごされ、ときにはすっかり忘れ去られる。CCからCODAにかけての開桜社での仕事にも、よくある剰余価値の搾取が満ちている。春希は搾取されると同時に、他人を搾取してもいる。仕事の付き合いから帰り、恋人のかずさに抱かれて、もう疲れ切っているとつぶやく。そこにあるのは、生活の浮き沈みの中で人を救う愛ではなく、生産の仕組みの中で人が受ける、疎外の苦しみなのだ。
これもまた不協和である。観客の感情を呼び起こすことが、一種の錯覚をつくり、人を現実の生活から遠ざける。物語そのものも広がりを失い、現実との接点を見失う。こうして、私的な同情と公的な秩序のあいだに隙間を生む。この欠落は結局、記憶と感情を組み合わせた夢によって埋めなければならない。
CODA全体は、徹底して夢をめぐる弁証法である。夢は激しい闘争を経て、苦しい自己犠牲を代償にして初めて現実になる。雪菜を選べば、春希は青年時代の、犠牲に満ちたロマン主義を完全に捨てる。かずさへの思いそのものも、現実に触れないとき――つまり純粋に抒情的なものでしかないときにだけ、崇高なのかもしれない。つまり、生活の現実をいくつも経験してきた春希も、なお恋愛の空想主義者として、絶対的な愛と相対的な責任という二つのものを対抗させる。だが、比較できない二つの異なる力がつくるのは悲喜劇だ。不協和であるだけでなく、滑稽にさえなる。物語が進むにつれ、相対的なものは表面でも内なる本質でも、絶対的なものに勝つ。感情が持つあらゆる悲劇の可能性に対する、もっとも徹底した批判は、その可能性を現実にしてみることなのだ。春希が本当にすべてを捨て、かずさとヨーロッパへ渡れば、それで本当に幸せなのか。それに比べると、恋愛に妥協するよう勧める友人たちのほうが、むしろ正しく見える。ためらい続ける中で、春希は何かの目的のために自分を犠牲にしながら、「その価値はあるのか」と問う。その自己犠牲を抽象的な理想の祭壇に捧げ、次にはその祭壇を壊してしまう。自分が犠牲を捧げた神の存在を、認めないのだ。
では、絶対的なものが勝てばどうか。その勝利も、哀愁に満ちた抒情詩とともに、悲喜劇を幕切れへ導くことしかできない。「理想の要求」を時折引っ込めたり、変えたり、また持ち出そうとしたりする春希は、哀れで滑稽で、もう世界のどこにも居場所がない。嘘がなければ人は生きられない。雪菜とかずさは彼の目を開き、現実を見せた。彼は苦しい。だが、彼の目を開いて現実に向き合わせた雪菜やかずさも苦しい。誰もが同時に、自分がどうやって、嘘の上に築いた幸福を、その嘘を養分とする不幸に変えるのか、見届けなければならない。しかも、自分たちが抗うものを変えることはできない。それはもう一つの自分なのだから。生活は決して理想と一致しない。人は、馬鹿げた振る舞いや愚行に陥り、ドン・キホーテのような笑いものにならないよう努めなければならない。行き着く先は二つしかない。一方は嘘の中で、理想のない生活に満足し、自分の力を超える希望など決して抱かずに暮らすこと。つまりCODAにおける、春希のあのいくつかの理想化された結末である。もう一方は、少しも揺らがず自分の道を歩くこと。そして最後には、全身傷だらけになる。
彼らは、自分の本能や個性の本質が承認されなければならないと感じている。だが、どこへ行っても人々の承認は得られない。世俗の力は個性を完全に壊せるほど強いのに、個性はそれで自らを消し去ることをよしとしない。だから春希は、生活の中でいつも行動と様子見のあいだをさまよい、絶え間ない衝突のただ中にいる。理想と現実の関係を支配するのは、同じ悲喜劇的な二重性である。理想の力は強大で、理想のない生活からあらゆる価値を奪うほどだ。だが現実は、理想が思いのままに振る舞い、専断的な力ですべてを支配する、その威力をすでに粉々に砕いている。そのため理想のあらゆる勝利は、勝ち取られた瞬間に、否応なく敗北へ変わってしまう。
この無力感は観客のあいだにも伝染する。恋愛の意味は解体され、理想など取るに足りず、生活はすでに恐ろしい大口を開けている。アニメやゲームも何の慰めも与えてくれない。それどころか、『WHITE ALBUM2』の中でさえ、こんな苦しい現実を目の当たりにしなければならない。
生き続けるために、観客たちは「白学」――中国語圏で作品の恋愛関係を論じ、台詞をネタとしてやり取りするファン文化――を持ち出した。『WHITE ALBUM2』の背後にある意味は消されなければならず、それが心にもたらした衝撃と傷は忘れられなければならない。だから、『WHITE ALBUM2』そのものが解体されなければならないのだ。

ブラウニング『ポーフィリアの恋人』――英語原文・日本語訳
That moment she was mine, mine, fair,
そのとき彼女は私のもの、私のものだった。
Perfectly pure and good: I found
美しく、純潔な。
A thing to do, and all her hair
私はあることを思いつき、
In one long yellow string I wound
彼女の髪を、長い金色の縄にした。
Three times her little throat around,
その小さな喉に三度巻きつけ、
And strangled her. No pain felt she;
苦痛など少しも与えず、彼女を窒息死させた。
I am quite sure she felt no pain.
少しの苦痛もなく。
As a shut bud that holds a bee,
蜂や蝶が蜜を吸うように、
I warily oped her lids: again
私はそっと、彼女の目を開いてやる。
Laughed the blue eyes without a stain.
曇りのない青、まなざしが揺れる。
And I untightened next the tress
首の髪をほどき、彼女に口づける。
About her neck; her cheek once more
その頬が
Blushed bright beneath my burning kiss:
また赤く、明るくなる。
I propped her head up as before,
以前のように、私はその頭を支えた。
Only, this time my shoulder bore
ただ今度は、その頭が私の肩に重くかかり、
Her head, which droops upon it still:
また深く垂れ下がる。
The smiling rosy little head,
薔薇のような笑顔、
So glad it has its utmost will,
望みがかなった喜びの顔。
That all it scorned at once is fled,
蔑んだものはみな跡形もなく消え、
And I, its love, am gained instead!
代わりに私を、その愛する者を得たのだ!
Porphyria’s love: she guessed not how
ポーフィリアは、思いもしなかった。
Her darling one wish would be heard.
愛する男が、どれほど彼女に聞いてほしいと願っていたか。
And thus we sit together now,
そして今、私たちは一緒に座っている。
And all night long we have not stirred,
そして夜通し、夜通し、身じろぎもしなかった。
And yet God has not said a word!
そして神は、一言も発しない!
編者より

中国語字幕の意味:かずさが男の子だったらよかったのに。